山ガール

ものがたり屋 弐 山ガール 1/4

うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

山ガール 1/4
「ごめん、トシヤとはもう逢えない。これで最後……」
 会社からの帰りの電車の中で、俺はただ呆然としていた。何度、携帯の画面を見てもメッセージはそれだけだった。
 会社帰りの人たちで混雑した車内にいたはずだが、揉みくちゃにされることも気にならず、俺は吊革に掴まりながら携帯の画面に釘付けになったままだった。
 ──どうして?
 稜子と付き合い出してもう一年になる。お互いに真剣に付き合っていた……はずだった。それとも、それは単なる俺の希望的観測でしかなかったんだろうか?
 その日、俺はどこをどうやって帰ったのかまったく覚えいてない。ただ頭の中ではそんな疑問が駆け巡り、アパートに辿り着くと電気も点けず、部屋の中でじっと携帯の画面を見つめたままその夜を過ごした。
 稜子にはじめて逢ったのは去年の秋。軽い気持ちで遊びにいった母校の大学祭でだった。
 就職して一年目だった俺は、会社の仕事に飲み込まれないように必死で働き、ひたすら藻掻くようにして生きていた。もちろん付き合うような女性などいない。そんな余裕などなかったのだ。
「なんだか馬車馬みたいだぞ。トシヤ、余裕なさ過ぎ」
 そういって学祭に誘ってくれたのが、大学時代の友人、智也だ。大学を卒業してからも、なにかあると会ってお互いの近況を話しあう仲だった。
 卒業後はじめて足を踏み入れる母校。通い慣れたはずの通学路を、なんだか面はゆい気持ちで俺は歩いた。しかし、大学の門の中に足を踏み入れ、校舎へと繋がる通りに建ち並ぶ模擬店のテントを冷やかし気分で眺めているうちに、この大学で過ごした四年間の思い出が蘇り、俺の心はほぐれていった。
 あちこちの模擬店から元気のいい学生たちの声が聞こえてくる。
 この雑然としたざわめきがなによりもキャンパスを実社会とはまるで別の空間にしていた。
 ──そういえば去年まで学祭のときにはテントの中にいる側だったなぁ。
「トシヤ、あいつらまだちゃんと活動してるぜ」
 俺たちが所属していたサークルのテントを見つけた智也がいった。
 ──Oceans。
 その名前からも判るように、海で遊んだりするためのサークルだった。サーフィンをしたり、ウインドサーフィンを楽しんだり、どちらかというと、いや、はっきりいってナンパ目的のサークルといってもいいかもしれない。
 サーフボードなんかはちょっとアルバイトをすれば手に入れることはできたが、ウインドサーフィンの道具となると、軽自動車を購入するぐらいの金が必要になる。だから、サークルで所有しているボードやセールを使い回しするしかなかった。
 そんな環境でウインドやってますというところまで上達するのはまず無理だった。せいぜい海へいって、ちょっとボードに立って、風が吹けばヨタヨタと進むといった程度。それでも俺たちにしてみれば充分楽しむことはできた。
「先輩、元気そうじゃないですか」
 真っ黒に日焼けした後輩のひとり、高志が人懐こそうな笑顔を浮かべながら出迎えてくれた。
 俺と智也は模擬店のテントに入り込むと、中にあった折りたたみの椅子に腰掛けて、後輩たちとサークルにいた頃の話や社会人になってからの話などに花を咲かせた。
 気を利かせて缶ビールを調達してくれる後輩もいる。
 相変わらず週末にはともかく海へいってます、という高志の報告を聞きながら、ふと向かい側のテントを見てみると「ハイキングサークル」という看板が目に入った。
「高志、なんだ、あれ?」
「ああ、お向かいさんですか。あれ、山ガールのサークルです」
 高志が苦笑いを浮かべながら教えてくれた。
「山ガール?」
「ほら、いま流行はじめているらしいんです。で、女の子ばっかりなんすよ。だから、あちこちからウヨウヨと男どもが湧いて出るんですけど、けんもほろろ。ともかく山が一番らしいんです」
「ってことは、お前も軽くあしらわれたわけ?」
 智也が茶々を入れた。
「智也先輩、鋭すぎますって」
「だって、お前の顔に書いてあるもの」
「え~」
「それにしても、海のサークルの向かい側が山のサークルとはね。なんとも妙な組み合わせだな」
 そう感想を口にして、俺は向かいのテントの中を見た。
 そこにいた稜子と眼が合った。瞬間、俺の全身を電流のようなショックが流れた。まるで雷に打たれたようだった。
 彼女の眼を見た刹那に、俺は恋に落ちていた。
 とても不思議な感覚だった。彼女の眼を見ていると、なぜかふたりが寄り添うようにして山を歩いている姿が頭に浮かんだのだ。
 ──そうか、俺は彼女と結ばれるのか。
 それは決して夢や錯覚ではなく、事実、俺はそう解ってしまったのだ。
 稜子は俺の顔をじっと見つめると、やさしく微笑んだ。
 その笑顔に誘われるように俺はふらふらと向かいのテントへと歩き出していた。
「トシヤ、どうしたんだよ」
 智也の声がしたが、耳に入らなかった。それまで雑然としていたはずのキャンパスから音という音がすべて消え、俺には彼女の姿しか眼に入らなかった。
 俺はそのまま稜子の前へいくと、ただ彼女の顔を見つめた。
 出逢いは確かにちょっと変だったかもしれない。しかし、これがきっかけで俺は稜子と付き合うことになったのだ。

 あれから一年以上が経つというのに、ほんの僅かなメールのメッセージで俺たちは別れることになってしまうんだろうか?
 理由もなにもわからなかった俺は、まず稜子に会って話をしようとした。
 けれどできなかった。
 彼女と会うことができなかったのだ。独りで住んでいたはずのアパートは引き払い、大学もあと少しで卒業というのに辞めていた。さらに実家へも連絡を取ってみたが、聞いていた住所には誰も住んでいなかった。
 サークルの仲間を辿ろうとしたが、彼女と親しく付き合っている娘はひとりもいなかった。
 ──彼女、いつも独りだったわよ。
 サークルのメンバーみんなが口を揃えてそういった。
 そういえば彼女と付き合っているとき、俺の友だちと一緒にいろいろな場所へいったりしたことはあったけど、彼女の友だちといっしょになにかをするということはなかった……。
 別れのメッセージだけを残して、彼女の足跡はぷっつりと途絶えたまま。
 俺は絶望の底へと突き落とされてしまったようだった。
 なにも手につかず、なにもやる気が起きなかった。それまで必死になって働いていた会社へも行く気は失せてしまっていた。
 彼女と一緒に出かけるために、それこそ自ら望んで馬車馬のように働いていたのに、心の中のなにかが大きな音を立てて切れてしまったようだった。
 もぬけの殻……。
 友だちの智也はもちろん、それまで俺のことをただの若造扱いしていた職場の先輩や上司までが親身になって心配してくれた。
 なんとか元気づけようといろいろと気を遣い、救いの手を差し伸べようとしてくれたが、しかし当の本人、俺自身がただのがらくたのようなものになっていた。
 朝起きることさえ疎ましくなっていた俺は、やがて会社へ行くこともせず、ただアパートにいて、ぼんやりと日が暮れるのを待つことしかできなくなっていた。
 そんな生活を一ヶ月も続けると、さすがにそれまでは心配してくれていた会社の上司も、決断せざるを得なくなったのか、出社しなければそのまま解雇するると通告してきた。
 電話にも出ず、郵送されてきた手紙も読んでいなかったために、届いた電報ではじめてそれを知った。
 ただ知ったからといってなにをどうすることはなかった。
 ただそこに書かれた「解雇」という文字を頭の中で何度か反芻して、ようやく自分の立場を知ったが、だからといって出社するという考えはこれっぽっちも浮かんでこなかった。
 頭の中で渦巻いているのは、ただただ稜子のことだけだった。
 彼女のはにかんだ笑顔、その笑い声、彼女の息遣い、ほんのちょっとした仕草……。そしてどうして俺と別れる決断をしたのか……。
 俺が彼女になにかをしたからなんだろうか? 彼女を傷つけるなにかを、俺は知らず知らずのうちにしてしまっていたのか?
 彼女を抱いたときの万感の思いとともに、さまざまな考えが俺の心を切り刻み、そして苛む。それを繰り返すことだけでただ時間が過ぎていった。
 生きる屍のようになってしまった俺は、職を失い、やがては住んでいたアパートも出なければならなくなってしまった。
 あたり前だ、家賃を滞納すれば退去せざるを得ない。だからといっていく宛などなかった。
 稜子のいない世界で生きることなど、俺には想像することもできなかった。
 けれど、実際問題として生活していかなければいけない。
 アパートを追い出される前に、仕方なく住み込みの仕事を探すことにした。それならともかく生きていく場所は確保できると思ったからだ。
 インターネットで探すと、いくつもの募集があった。
 車の工場で働く仕事や、建設現場の作業、タクシー運転手に新聞配達の募集。そんな募集の中に、旅館での仕事の募集があった。住所からかなり山奥にある旅館らしいことが判った。
 ──山を眺めながらしばらくは暮らしていくのもいいかもしれない。
 稜子とのことがまだ心のどこかに残っていたからだろうか。俺は、山の中での生活なら悪くはないかもしれないと思い応募してみた。
 返事はすぐに来た。
「面接のためにわざわざ来てもらって不採用にもできないし、電話での応対を聞く限り大丈夫そうだから、すぐにも来てくださらないかしら」
 旅館の女将さんから電話があり、いくつかの質問に答えたあとそういわれた。
 俺は二つ返事で了解すると荷物をまとめた。
 アパートにあった家具はすべて処分して、手元には衣服と身の回りのものだけを段ボールに詰めるとその旅館に宅配便で送った。
 実にさっぱりとしたものだった。
 荷物がすべてなくなったアパートの部屋を観て、俺のいままでの生活はいったいなんだったのか少し哀しくはなった。なにも残っていない。残っているとしたら、心に負った傷と想い出、それに幾ばくかの身の回りのもの。それだけだった。
 生きてきて二十四年になる俺の、それがすべて。
 アパートを引き払うと俺はすぐに住み込み先の旅館へと向かった。
 新宿から電車に乗り長野のとある駅で下りた。
 プラットホームに降り立った俺はそこで大きく深呼吸してみた。空気がいままでとは違う。気温差があることに加えてなによりも質感が違う気がした。
 そう、いままでにいた場所とはまったく違うところへ俺は来ているのだ。
 遠くに見える山並みはすでに白いものを被っている。
 東京ではまだ秋が終わるまで間があると思っていたのに、ここではすでに冬がはじまろうとしていた。
 俺はバッグを手に持つとそのまま改札を出た。そこから先はバスだった。
 旅行者たちの列に混じり、俺はバスに乗った。県境へと向かうバスは市街地を抜けるとすぐに山間を走る山岳道路へ入っていった。まっすぐだった道が山肌に沿って曲がりくねったそれへと変わっていく。
 車窓から見える風景も家々がいつのまにか木々に変わり、川のすぐ脇を走り、いくつものトンネルを抜けていった。片手を越えるところまでトンネルの数を数えてはいたが、やがて二桁が近づくといったいいくつのトンネルを抜けたのか判らなくなってしまった。
 気がつくとあたりはいつの間にか白くなっていた。雪が積もっているのだ。
 地面はもちろん、枯れた木々も葉の代わりに雪を積もらせていた。視界のほとんどを白い色が覆っている。
 いままで見たことのない風景だった。
 俺は息を凝らして白で覆われた景色をただ眺めていた。
 やがて道は大きくカーブを描くようにダム湖の横を通り、バスは終点へと着いた。
 そこも温泉地だったが、俺の目的地はさらに奥。旅館から迎えの車が来るはずだった。
 俺と一緒にバスに乗ってきた旅行客たちはそれぞれ目的の旅館へと歩き出していた。終点に着いたバスは、そこで待っていた乗客を乗せてまた町へと戻っていく。
 まだ夕方までは間があるはずなのに、すでに暗くなりはじめていた。そんな中、俺ひとりだけが、そのバス停にポツンと取り残されたようだった。
 吐く息が白い。
 空気中の水分が凍ってしまうからか、乾燥しきっているのがよく判る。息をするたびにまるで肺の奥でチリチリと小さな音を立てるようだ。
 細かな雪が音もなく降りはじめていた。真っ白くなった地面の冷たさが足下からじんわりと手足へと伝わってくる。それはまるで物理的な重さを伴ったような冷たさだった。ゆっくりゆっくりと冷たさが俺を支配していく。やがて全身がまるで氷でできた像になったような気がしたとき、俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
 迎えの車だった。
「村田さん、ですか?」
 すでに五十は過ぎているだろうと思える中年の男が、俺の名前を呼んでいた。
「ええ」
「わたし、旅館で働かせてもらってる石井といいます」
 独特のイントネーションでそう話しかけられた。
 もうずいぶん長い間、同じ仕事を続けているんだろう。流行とはまったく無縁の生活を続けている、そんな身なりだった。ただとても純朴そうな笑顔をしている。
 石井さんは、さぁ、こっちへ、と俺を手振りで助手席に促すと、そのまま運転席に回った。
 車は石井さんと同じように少し草臥れた、古めのワゴン車だった。シートも少し固くなっている。両端が擦り切れはじめたシートベルトを俺が締めると、石井さんはエンジンを掛けた。
 咳き込むようにしてエンジンが動き出した。
「寒くないですか?」
 ハンドルを握ったまま石井さんが俺に尋ねた。
 ベンチレーターから温風が吹き付けてくる。
「いえ、大丈夫です」
 俺はその温風を顔面に感じながら答えた。
「もうちょっとするとチェーンが必要になるんです。まだ、そこまで道は凍ってないので、今日は大丈夫だと思いますが」
 石井さんはそう自分に言い聞かせるようにつぶやくと、車をスタートさせた。
 車はすぐに国道からはずれ、細い県道へと入っていった。
 両脇には山肌が見える。それもそのほとんどが白くなっていた。
 前も、後ろも白い。
 道も、山も、そして立ち並ぶ木々もすべてが白い。
 灰色の空と白い地面の接点がぼんやりとしかわからない。まるで白から薄い灰色へとグラデーションがかかっているようで、そこにあるモノが、モノとして感じられない。
 すべてがまるで白いオブジェのようだ。
 車は降り積もった雪をしっかりと踏みしめるようにゆっくりと進んでいく。タイヤが雪を噛む音が聞こえてくる。
 俺は窓から外のただ白い景気をしばらく見ていた。
 どこか別の世界へと迷い込んでしまったようだった。電車に乗ったときにはまだリアルな現実感を伴っていたのに、バスを降りてから、いや、違う、バスの車窓から雪景色を観はじめてからというもの、その現実感が少しずつ掌からこぼれ落ちていったような感じだ。
 気がつくと、俺はまったく別の世界にいる。
 そのとき耳慣れた鈴の音が聞こえてきた。
 ──リンリンリン。
 稜子のリュックサックについていた鈴。
 その音だ。
続く

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

しこたま酔っぱらって帰った菊池。
翌日、酷い二日酔いで目醒めた彼だったが、見たこともない靴が玄関にあった。
出かけるついでにその靴を捨てたはずだったが、不思議と目につくようになり、
その夜、彼のアパートの廊下になぜか靴音が響きだした……。

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夕焼けフォトグラファー / 物書き / デジタルコンテンツデザイナーの癌サバイバー、竹井義彦です。 逗子の海の写真や、オリジナルの小説をメインに公開しています。よろしくお願いします。
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