ものがたり屋 弐 山ガール 3/4
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
山ガール 3/4
早川はそういいながら、俺の隣の席に座ってきた。
「ここ、いいでしょ?」
「ええ」
「今日のおかずは?」
有無をいわさぬ勢いがあった。
「サバ塩」
なんだか俺は、その勢いに押されてただ答えた。
「また? しょっぱいサバでしょ。塩使いすぎなのよね」
なんと答えていいのか判らなかった俺は、ただ早川の顔をぼんやりと見ていた。
「どうかした?」
早川は箸を止めると、尋ねた。
「いえ……」
「そうか、自己紹介してなかったっけ? わたし優樹菜、これでもまだ二十歳。よろしくねトシヤくん」
早川はそれだけいうと、にっこりと笑って食事を再開した。
「それで、その老人って?」
「だからただの噂よ。みんながいろいろと話をしているうちに尾鰭がついちゃってるのよ」
早川はただそういうと箸を進めた。
「でも、山本さんが見たって」
田辺さんが話に加わった。
「それってずいぶん前の話でしょ。山本さんって、もう耄碌していまは辞めちゃったじゃない」
「ぼくも聞きましたよ。風呂に入っていると、突然静かになってどこからともなく独りの老人が現れて、ただ湯船に入ってくるって。で、はっと我に返ると、だれもいない……」
黒田さんも負けじと口を開いた。
「わたしは見たことないし」
「だって男湯に出るんだから、お前が見たら拙いでしょ」
田辺さんが勝ち誇ったように言い返した。
「お化けに男湯も女湯もないわよ、ねぇ、トシヤくん」
「いや、男女は別でないとなにかと拙いかと」
俺はなんと答えていいのかよく判らず、そんなことを口にした。
「それはともかく、しょっぱすぎるのよ、ここのサバ塩は」
早川はそういうと、ご飯をぺろりと平らげた。
そんなことがあってから、早川はなにかあると俺にいろいろ話しかけるようになってきた。
ようやく仕事にも慣れかけ、配膳や板場の人たちともそれなりに親しくなろうとしていた時期だけに、人懐こくあれこれ話しかけてくる存在がいるというのは、それはそれで嬉しいことではあった。
ただ必要以上に馴れ馴れしいところが、やや多少傍迷惑な感じではあったけど。
「なんだが、村田さんって早川さんとやけに親しいじゃないですか」
ちょうど午後の仕事がはじまる前、昼食を摂っているときに黒田さんが話しかけてきた。
「親しいというか、彼女の方が勝手にあれこれ話しかけてくるんですよ」
「優樹菜は気に入った人がいると、やたらにべたべたするからなぁ」
田辺さんはまるで自分に言い聞かせるようにいって、ひとり納得していた。
日の出の頃に起きて仕事をして、いったん休憩して、また夜がとっぷりと暮れるまで仕事をする。寮と職場をただ行き来するそんな日々が二週間ほど過ぎた。
見える風景は相変わらず雪景色だけ。晴れの日も曇りの日も、そして雪が降りしきる日もあるが、しかし、雪の降り積もる景色だけは天気とは別だ。
軒先からはつららが延び、そして降り積もる雪は日々増えていく。寮の窓の外を見ると、降り積もった雪がだんだんせり上がっていくのが判る。
それでも、毎日は変わらない。
日の出には仕事をはじめて夜が更ける頃に寮の部屋に戻る。
いつの間にか仕事にはすっかり慣れ、職場にも馴染み、板場の人たちとも親しく口を利けるようになっていた。もうずいぶん長い間ここで働いているような気になってしまっていたが、カレンダーを確認してみると、まだ二週間を過ぎたところだった。
その日、いつもよりも遅い時間まで仕事が続いた。客数が多かったこともあるが、宴会気分の客たちがいつまでも食事を続けていたせいでもあった。
ふだんなら十時を過ぎた頃には、夕食も終え、温泉に入って、部屋でのんびりとしているはずなのに、この日はまだ夕食を終えたばかりだった。部屋に戻ってすぐに温泉にいくのが習慣になっていたけど、この日はちょっとゴロッと横になり、気がついたらうたた寝をしてしまっていた。
はっと気がつくと、日付がかわる寸前だった。
どうしたものかと一瞬悩んだけど、やはり風呂に入っておきたかった。疲れを取りたいということもあったし、一日を温泉で締めくくりたいという気分でもあった。
いつもの習慣を変えるとなると、やはり相応の理由も必要だ。いちいちそんな理由を考えるのも面倒だった俺は、タオルなどを用意して寮の部屋を出た。
いくら多くの客が泊まっているとはいえ、さすがに夜中となると宿の中は静まりかえっていた。廊下を歩いていても、深めの絨毯で聞こえないはずの足音が聞こえてくるようだった。
大浴場へと通じる廊下に出ると風の音がした。
外はかなり寒いんだろう。昨日見た天気予報だと、最低温度はマイナス十五度を下回っていたはずだ。
脱衣所でいつものように服を脱ぐと、俺はそのまま浴場へと入っていった。
ガランとした浴場に人はいなかった。
だれもいなければのんびりと入れるというもの。俺は一番奥までいき、そこで全身を流すと湯船に身体を沈めていく。
少し熱めのお湯に全身を浸す。この瞬間が堪らない。
「ふ~っ」
思わず声が出てしまう。
こうして湯に身体を預けていると、さっきまで頭を支配していた眠気までがゆっくりと溶けだしていくようだった。
両手で湯を掬って、顔を洗う。
──りん──
そのときどこからか鐘の音が聞こえたような気がした。
俺は慌てて周りを確認した。
もちろんここには誰もいない。
だいたいなんだってこんな場所で鐘の音がするもんか。
──シャン、シャン──
今度は金属が触れあうような音だった。まるで錫杖を振り下ろしたときに聞こえる音のようだ……。
いや、気のせいだ。
俺はもう一度両手で湯を掬うと顔を洗った。
──ジャブジャブ、ジャブジャブ──
わざと大きな音がするように湯を掬って顔を洗った。
──シャン、シャン──
それでもやはり音が聞こえてくる……。
と思ったら、浴場の出入り口に人影が見えた。
湯気でほとんどなにも見えないはずなのに、ぼんやりと人影が見える。
この日のように寒い日には特に湯煙が濃くて、浴場の端から中程までしか見えないはずなのに、一番奥にいる俺の目に人影が見えた。
と、その人影はやがて老人の姿になり、そしてゆっくりと湯船に歩を進めていくのが見えた。
白髪の老人がまっすぐ前を見たまま、湯船に身体を沈めていく。
腹から胸、さらに肩まで入ると、そこに腰を据えたようにじっとしたまま湯に浸かっている。
まるで夢を見ているようだった。
とても現実のこととは思えない。それでも俺は身じろぎひとつすることもできず、湯に浸かったままぼんやりと湯煙を通して、そのいないはずの老人を見ていた。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
天井から落ちてきた雫が俺の肩にあたり、はっと気がついたときには、すでに老人の姿はなかった。ただ湯煙があるだけだった。
だれがこんな話を信じるだろう。
それでも俺は口を噤んでおくべきだった。なのに翌日、黒田さんにこっそり相談してしまったのだ。
──実は、温泉で老人を見たと……。
噂は瞬く間に旅館で働く人すべての耳に入ることになってしまった。
顔を合わせると嫌でもその話になってしまう。
もちろん最初はそれなりに対応していたのだが、やがてあまりにも同じことを聞かれるので、だんだん対応が雑になり、最後にはもう話をするのも嫌になるほどだった。
それからしばらく、夜になると温泉に入るスタッフが増えたようだ。
俺は、そんな騒ぎというか騒動というか、そこから身を遠ざけたい気持ちもあって、夜、温泉に入るのは止めることにした。
そんな騒動があってから三日後、俺は休みをもらった。
午前中の仕事を終えると午後と翌日一日仕事が休みになった。場合によっては連休になることもあるらしい。
寮で寝泊まりして、同じ場所で仕事をする。そんなことが続くと、精神的にリフレッシュすることができない。山を下りることができれば、街中で買い物するなりなんなりできるんだろうが、残念なことに俺の場合はその移動手段がない。
仕方ないので、俺はただ部屋でのんびりと目覚まし時計とは無縁の一日を過ごすことにした。
日が暮れて、宿泊客の夕食の時間になると、ひとり温泉へ向かう。
あの老人騒ぎはもうほとぼりが冷めていた。だいたい夕刻をちょっと過ぎた時間に正体不明の老人が出現するはずもない。
俺はひとりのんびりと湯に浸かると、身体を癒した。
部屋に戻ると、自動販売機で買ってきた缶ビールに口をつけた。久しぶりに飲むアルコールは、温泉で火照った身体に心地よかった。
やがてスタッフの夕食の時間になると、配膳室へいき夕食を摂る。
黒田さんや田辺さんたちと他愛のない話をして、そのまま部屋に戻り、時計の針を気にすることなく、眠くなったら布団を敷いて、そのまま潜り込んだ。
次の日も一日休みだ。久しぶりに朝寝を楽しみ、それから温泉へ向かった。
お客さんたちはちょうど朝ご飯の時間。他に風呂を使う人もいないし、朝風呂には最適だ。
いつものようにのんびりと湯に浸かる。
この時間帯だと湯船の向こう側のガラス越しに景色を楽しむことができるようになっている。とはいっても、もちろん白一色。雪景色だ。
この日は珍しく晴れていて、ガラスもほとんど曇ることなく、窓の外の雪景色を楽しむができた。
真っ白な山々に、雪を咲かせたような木々。
白い雪だけが創ることのできる雄大で荘厳な景色。
生まれていまままでこんな世界にいたことはなかった。俺は湯に浸かっていることも忘れその景色に圧倒されるようにただただ窓の外を見ていた。
そのうち気がつくと俺はいつの間にか立ち上がり、窓へと湯の中を歩み寄って、外の景色を見つめ続けたいた。
ふっとなにかを感じて窓の外を改めて見直して、そのなにかの正体を知った。
視線だった。
旅館の廊下の端にある窓から、この男湯のガラス窓の一部が見える場所があった。そこに人が立っていた。
早川だった。
手にクリーナーを持っている。きっと廊下の掃除をしていたんだろう。そこで偶然、風呂に入っている俺を見つけて──。
俺は慌ててその場でしゃがみ込むと、湯に浸かった。窓越しではあったけど、裸を見られてしまった。それもこともあろうに早川に。
当の早川は、そんな俺の慌て振りがおかしかったのか、にっこりと笑うとそのまま姿を消した。
「いや、いい景色を見てしまったわ」
その日の夜、配膳室で夕食を摂っていると、早川がやって来て、俺の耳横でつぶやいた。
「目は悪かったんじゃないのか?」
俺は適当なことをいってみた。
「うん、ド近眼だよ」
そういって早川はにっこりと笑った。
「コンタクトしてるから、矯正視力は 一・五。たいていのものはクリアに見えるね」
「なんだよ、それ」
俺は照れ隠しにいった。
「今夜、寝られないかもしれない」
早川は意味ありげにいうと、そのまま別席へと移っていった。
翌日からまたいつもの仕事が続いた。
日の出頃に仕事をはじめ、昼間はいったん休んで、また夜まで働く。休みを終えてすぐ、来客数が多い日が続いた。それこそ息つく暇もないほど忙しない時間が流れていく。昼間ゆっくりと休憩する時間が取れたときには温泉に入り、疲れを癒していたが、そんな時間すら取れないときもどうしてもある。
休み明けから三日ほど経ったある日。
昼寝をする時間もそんなに取れないほど余裕のない一日になってしまった。
仕事を終えて部屋に戻ってみると、すでに十時を遙かに過ぎていた。そのまま布団を敷いて寝てしまってもよかった。また、あの夜と同じような目に遭うのは嫌だったし、なによりそんな心配をしながら温泉に浸かりたいとは思わなかった。
それでも──。
やはりひと息つきたい。降りしきる雪を見ながら逡巡していたら、いつの間にか時間は過ぎていき、やがて日付が変わってしまう時刻になってしまった。
──やはり温泉にいこう。
さっさと入って部屋に戻ればいいのだ。
そう思って、俺は大浴場へといった。俺が発信源になってしまった老人騒ぎはほとぼりが冷めていて、すっかり元の人気のない浴場へと戻っていた。
俺はすこしだけ緊張しながら脱衣所で服を脱ぐと、意を決してさっさと浴場へと入っていった。
いつもと同じように一番奥までいくと、そこで身体を流してから湯船に浸かる。
少し熱めのお湯が気持ちよかった。
やっぱり温泉に入ってよかった。あの時は、どうかしていたんだ。
そんなことを思いながら、湯を両手で掬い顔を流す。
そろそろ身体を洗おうかと思ったとき、浴場の入り口のガラスががたがたと音を立てた。
──おいおい、まさか……。
俺は湯の中で身構えると、湯煙でほとんど見えない浴場の入り口を見た。
あのときは、気がつくと人影が見えたのだ。
と、ゆっくりと湯煙に包まれた人影が現れた。
──どうして……。
人影は湯船に足を延ばすと、つま先から湯に入り、湯の中をゆっくりと歩きはじめた。
あのときはそのまま湯に浸かり、いつのまにか姿を消していたが、しかし今日は違った。静かに俺に向かって近づいてくる。
──どういうことだ……。
はじめから 続く
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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
しこたま酔っぱらって帰った菊池。
翌日、酷い二日酔いで目醒めた彼だったが、見たこともない靴が玄関にあった。
出かけるついでにその靴を捨てたはずだったが、不思議と目につくようになり、
その夜、彼のアパートの廊下になぜか靴音が響きだした……。
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