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ものがたり屋 参 某 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

某 その 2

 線と線が繋がり、そこに形が生まれる。
 色と色が重なり、そこに像ができる。
 光と影が描かれて、そこに貌が見えてくる。
 そのすべてが混ざり合い、創られるものはなに?

 季節の変わり目はいつも忍び足でやってくる。
 ついこの前までは夏の暑さが残っていて、陽射しの強さも相まって、吹く風までもがどこか熱を孕んでいた。でも、気がつくとキャンパスを歩いていても、そんな暑さを感じなくなっている。吹き渡る風が、むしろ心地いい。
 麻美は午後の講義が終わるとカフェエリアへと向かった。正門から入ると一番手前にある建物にカフェエリアはある。壁一面に広がる大きなガラスから秋の陽射しがいっぱい射しこむ開放感に溢れたところだ。緑の樹木が緩やかな風に揺れているのが見える。正門に向かう人たち、正門から建物へと向かう人たちが行き交う。
 麻美は紅茶のカップを手に空いているテーブルに腰を下ろした。両手をカップに添えると、口をすぼめてそっと息を吹きかけてから、口をつけた。
 ──わたしの観たあなた。麻美さんよ。どう?
 小野原のアトリエで観たスケッチを思い浮かべて、麻美は大きく息をついた。
 麻美はバッグからスマホを取り出すと、写真アプリを起動した。小野原に確認して写真を撮っておいたのだ。あのスケッチを。
 画面いっぱいに麻美の顔が写っている。
 なんだか不思議な感じだった。
 ──これが、わたし……。
 小野原の手によって描かれた麻美の顔。確かにそれは本城麻美の顔だった。しかし、それが本人にとってはまるで見知らぬ人の顔のようでもあり、けれどやはり毎日鏡で見ている自分の顔でもあることに戸惑いを覚えてしまう。
「あっ、麻美。ねぇ、この実や玲奈、見かけなかった?」
 紗亜羅だった。麻美の座っているテーブルにやってくると、そのまま隣に腰を下ろした。草加部紗亜羅や南村この実、端賀谷玲奈の三人と麻美は学部が違った。そのために同じ講義を受けることが滅多になかった。
「今日はふたりとも見かけてないよ」
 麻美はぼんやりと紗亜羅の顔を見つめて答えた。
「ねぇ、なに見てるの?」
 麻美の手にあったスマホを眼敏く見つけると覗きこんだ。
「いやだ、すごいじゃん」
 紗亜羅は麻美の手からスマホを奪うようにして取ると、食い入るように画面を見つめた。
「もしかして?」
 画面の隅々まで眼をやると、拡大したり縮小したりして見入っている。
「うん……」
 麻美はどう答えていいか判らず、ただ曖昧に頷いた。
「なんだか滅茶綺麗。麻美が美人だって知ってたけど、こんなに綺麗だったんだ」
 紗亜羅は唸るようにしていつまでも画面を見続けた。
「小野原さんって、絵が上手だから……」
「そうかもしれないけど、やっぱりモデルでしょ」
 紗亜羅は羨むような眼つきで改めて麻美の顔を見つめ直した。
「あ、結人じゃん」
 紗亜羅はいきなり立ち上がると、カフェエリアにやってきたばかりの久能結人を呼び寄せるように手を振った。
 麻美とは幼なじみの久能結人。柔らかいその髪がやや巻き毛になっている。結人もまたこのふたりとは別の学部だった。量子力学を学んでいる。
「ふたりでどうしたの?」
 結人は麻美と紗亜羅の顔を交互に見ていった。
「いいから、これ」
 紗亜羅は有無をいわさぬ勢いで手にしていた麻美のスマホを結人の眼の前に突きつけた。スマホを手に取ると、結人もまた麻美の隣に腰を下ろした。眼はスマホの画面に半ば釘付けになっていた。
「美人だよね、麻美って」
 紗亜羅が探るような眼で結人の横顔を見つめた。
「う、うん」
 さっぱり要領が飲み込めないのか結人はただ頷いた。
「でも、これ、どうしたの?」
「だから麻美の絵だって。画家の人が描いたんだよ。でもすごいよね、こんな絵が描けるなんて」
 結人は麻美の顔を見直してから首を傾げた。
「この前、紗亜羅とオフショアにいったときに、声をかけられたの。小野原円さんっていう人が、わたしを描いてみたいって。それで」
 なぜかいい訳めいた口調になってしまった麻美はそっと伺うように結人の眼を見つめた。
 結人はただ黙ってその絵を見つめ続けた。
「なんだか眼が真剣だよ。まるで研究室で実験結果を確認してるみたい」
 紗亜羅がからかうようにいった。
 黙って見つめ続けていた結人はやがて握り締めるようにしていたスマホを麻美の手に戻した。
 麻美は不安げな顔で結人を見た。結人はなにもいわず、その視線をただ受けとめた。
「ねぇ、綺麗でしょ、麻美」
 紗亜羅が横から口を挟むと、結人を確かめるように見た。
「ああ。綺麗な絵だね」
 結人はしばらく経ってからぽつりといった。

 その二日後。
 オフホワイトのシャツの上に濃い目のピンクのカーディガン、デニムのミニスカートという出で立ちで麻美は小野原のアトリエへと向かっていた。
 蒼空が広がり、柔らかな秋の陽射しが零れてきていた。田越橋を過ぎると田越川を左に見ながら歩いていく。川面を渡る風が気持ちいい。
「いらっしゃい」
 小野原はいつものようににこやかな笑顔で迎えてくれた。
 長い廊下を突き当たりまで歩きアトリエへと入る。イーゼルや椅子、テーブルといったもので相変わらず雑然とした室内は、微かに鼻をつく絵の具の匂いに満ちていた。
「今度はスケッチじゃなくて、きちんと絵として描きたいの。いいかしら?」
 この前と同じように田越川が見える窓近くの丸椅子に麻美は腰を下ろした。
「というと?」
「前はスケッチブックに鉛筆だったでしょ。今度はカンバスに油絵の具。いい?」
 小野原はそういいながらイーゼルにスケッチブックと同じようなサイズのカンバスを立てかけた。
「はい」
 麻美が頷くと、小野原は改めて麻美をじっと見つめた。この前も感じたことだったけど、その視線にはなぜか逆らいがたいなにかがあった。対象物をじっと観察する眼だからだろうか。麻美にはそこに感情というものを読み取れずにいた。
「ちょっとだけ左を向いてくれるかしら?」
 小野原の言葉に従って、麻美は座ったまま椅子をすこしだけ左に回した。
「ごめんなさい、逆ね。右にむき直してもらえる?」
 今度は同じように座ったまま右に回した。
「あ、そこでいいわ」
 そういいながら小野原はイーゼルごと位置を変えた。
「あの、これでいいんですか?」
 麻美は確かめるように訊いた。
「そう。光の具合の関係なの。細かくてごめんね」
「いいえ」
「光の具合で顔ってまったく変わっちゃうの。といってもこれはわたしだけの都合なんだけどね。そうだ、カーディガンは脱いでくれるかしら? 首のラインを綺麗に描きたいの」
 麻美は頷くとカーディガンを脱いで、座り直した。
 小野原はイーゼルに向かうようにして座ると、改めて麻美を見つめた。納得がいったのか傍らのテーブルにおいてあった鉛筆立てから鉛筆を取りだした。
「鉛筆ですか?」
「そうよ、まず下描きが必要なの。いきなり絵筆で描くわけじゃないわ。ほら、あなたも水彩で絵を描いたことがあるでしょ。そのとき、まず鉛筆で下描きしたんじゃない」
「確かに、そうだったかな。あまり好きじゃなかったんです、図画工作の時間って」
 麻美は肩をすくめた。
「人それぞれよね。わたしは絵を描くのが好きになったのは中学の終わりだったかな。それまではむしろ嫌いだったわ。ほら、写生ってあるでしょ。どこかへ出かけて風景を描いたり。なんかね、書くものを強制されると、つい反発したくなっちゃって」
 小野原はその手を止めることなく話した。カンバスの上を走る鉛筆の音が聞こえてくる。
「それが?」
「それがね、あらいやだ。なんだってこんな話してるのかしら。これ、内緒にしておいてね」
 小野原はそういって麻美の眼を確かめるように見つめた。
「好きな人がいたの、そのころ。ちょうど恋に焦がれる歳ごろだったのかな。クラスにね、大好きな男の子がいて、人物スケッチの授業で、思い切ってその子を描いたの。そしたら」
「そしたら?」
 麻美は姿勢を崩さないように気をつけながら訊いた。
「思いの外、よく描けちゃったのよ。おまけにそれがきっかけでその子と親しくなれたの。ほんとうはからかわれるんじゃないかって心配したんだけどね。先生も褒めてくれて。だから、それがきっかけかな」
 小野原は微かに微笑むと、また元の視線に戻りカンバスに向かった。

 翌日。同じような時間に麻美はアトリエにいた。
 丸椅子やカンバスが乗ったイーゼルは昨日のままだった。窓側の椅子に向かう前に、そのカンバスを麻美は覗いてみた。
 鉛筆で描かれた麻美の顔。しかし、その上から半透明の茶褐色の絵の具が一面に塗られていた。
「あの、これは?」
 小野原はパレットに油絵の具を次々に置いていきながら麻美の顔を見た。
「ああ、それはインプリマトゥーラ。簡単にいっちゃうと下塗りよ」
「下塗り」
 麻美は丸椅子に座りながら尋ねた。
「油絵は色を重ねて塗っていくの。濃い色から明るい色へと塗り重ねていく。水彩とは逆ね。油絵の面白いところはいったん乾くと、重ね塗りしても下の色が混ざらないところなの」
 麻美は興味深げに小野原の顔を見た。
「そうねぇ、モナ・リザって知ってるわよね」
「ダ・ヴィンチですよね」
「そう。ダ・ヴィンチってすごい人で完璧主義者といっていいかな。だから納期を守らないことがしょっちゅうあったらしいわ。その絵もそうね。モデルはリザ・デル・ジョコンドっていわれている」
 麻美は昨日と同じような姿勢で小野原の顔を見た。
「どうやらこの絵も注文されたにもかかわらず納期が守れず、ダ・ヴィンチはず~っとその絵に手を加え続けたみたいなの。絵の具を薄く伸ばして重ねて、あの透き通ったような陰影を作っていった。スフマートっていうのよ。二十回以上も重ねて塗られたところもあるそうよ」
「そんなに……」
「そんなことしてたら、そりゃ納期なんて守れないわよね」
 小野原は苦笑した。
 麻美は素直に頷けずにいた。
「あ、わたしは大丈夫よ。そこまで時間をかけるつもりはないから安心して。そうだ、ちょっと待って」
 小野原は麻美のところまで歩み寄ると、オフホワイトのシャツの襟を正してから、ボタンをひとつはずして首元を直した。
「これでいいわ」
 小野原は微笑むとイーゼルにところに戻って絵筆を取った。
 パレットの上で絵の具を混ぜてカンバスに塗っていく。気がつくと絵の具を溶く油の匂いがあたりに充満しはじめた。このアトリエにはじめて足を入れたとき、微かに鼻をついた匂い。でも、なぜかいまはそこまで気にはならず、むしろ落ち着く気すらする。
 大きなガラス窓から射しこんでくる陽射し。背後の窓の向こうに流れる田越川から聞こえる水音。静まりかえったアトリエの中で麻美はただ座ったまま。そして向かい合うようにしてイーゼルに向かっている小野原も無言で筆を使っている。
 ふと麻美は、いまどこにいてなにをしているのか判らなくなる瞬間があった。意識がす~っと跳んでいくような感じ。だからといって、小野原の姿はきちんと見えている。
 いやそれどころか零れてくる陽射しは眼に眩しく感じるし、微かな川の音や、小鳥のさえずりさえも聞こえる。
 なのに、いま自分がどこかにいるのかぼんやりとしてくるのだった。

「ねぇ、笑っちゃうでしょう」
 紗亜羅が愉快そうに笑った。
 ランチタイムのカフェエリアはいつものように学生たちで賑わっていた。そのテーブルを囲んでいたのは紗亜羅に、この実と玲奈そして麻美だった。
「ねぇ、麻美。なんだかぼんやりしてない?」
 おかっぱ頭の前髪を額のところで綺麗に刈り揃えている玲奈が麻美の顔を覗きこむようにしていった。
 麻美は手にしたフォークをほとんど動かすことなく、どこか遠くを見ていた。
「ほんとう。このところなんだか元気がなさそうよ」
 長い髪をそのまま後ろでまとめたこの実も心配そうな表情で麻美を見つめた。
「え? なに?」
「だから、このところぼんやりしてるみたいで心配してるの」
 隣に座っていた紗亜羅が肘で突くようにして麻美にいった。
「そうかなぁ」
 麻美はぼんやりとした視線を三人に順番に向けていった。
「ほら、眼になんだか力がない。ほんとうに大丈夫?」
 紗亜羅が改めて麻美の顔を覗きこむようにして見つめた。
 麻美はただ力なく微笑むと、やっと手にしたフォークを動かしはじめた。

 小野原のアトリエに通うようになって二週間ほどが経っていた。大学があるから毎日というわけにはいかない。それでも時間があるときは彼女のアトリエの丸椅子に座るようになっていた。
 いつものようにアトリエを訪れると、いつものように小野原はにこやかな絵が出迎えてくれた。そのままふたりでアトリエへ。
 中に入るといままでとは違って部屋がきちんと整理されていた。雑然と置かれていたテーブルや丸椅子、それにイーゼルなどは壁にきちんと寄せられ、部屋の真ん中には絵がひとつだけイーゼルに立てかけられていた。
 麻美の顔を描いた油絵だった。
 鉛筆のスケッチにも驚かされたが、この絵に麻美はまるで心を奪われたようになってしまった。
 少し横を向いた麻美の顔。艶のある長い髪はまるで髪の毛がひと筋ずつ見分けられるようだった。つぶらな瞳の輝き。そこにはやさしい視線があった。そしてその唇。いまにもそこから言葉が零れそうなほどの瑞々しさ。
 生きている麻美そのものがカンバスに映し取られていた。
 麻美は湧きあがる感情を言葉にすることができず、ただ黙ってじっとその絵を見つめていた。まるで自分が知らなかった本城麻美の顔がそこにあった。しかし、それは紛れもなく麻美本人のものだった。
「どうかしら?」
 小野原が麻美の肩に手を置くと、その顔を見つめた。
「ほんとうに、これがわたしなんですか?」
「ええ、あなたよ。これがわたしに見える本城麻美」
「これが、わたし……」
「でも、あなたじゃないわ」
「え?」
 麻美は首を傾げた。
「だって、ここにはあなたの顔しかないでしょ。首元も中途半端。まるで宙に浮いているみたい」
 小野原はじっと麻美の眼を見つめると、その手を取った。両手を引くようにして、麻美をいつも丸椅子があった辺りまで連れていった。
「あなたを描きたいの」
「わたしを?」
 小野原は麻美に顔を寄せると囁くようにいった。
「そうよ、あなたのすべてを」
 麻美はその意味を図りかねて首を傾げた。
「わたしが描いたあなたの顔はどう? あなたの美しさを、わたしの筆がカンバスに映し取った。そうでしょ?」
 麻美はただ頷いた。
「だから、あなたを描きたいの。あなたのすべてをね」
 小野原は向かい合うように立つと、両肩に手を置いてじっと麻美の眼を見つめた。
 部屋の中に満ちている絵の具の匂い。そして麻美を見つめる小野原の視線。
 いつもここにいると麻美はいまどこにいるのかその実感を失ってしまう。そしてなににも抗えないような、そんな気になってしまう。なにかをしようという意識が薄れていく。
 小野原に見つめられた部位に視線を感じるけれど、それにむしろどこか心地よさすら感じていたのだ、これまで。
「本城麻美を、わたしに見せて」
 小野原は確かめるように麻美の眼を見つめると、羽織っていたカーディガンを脱がせた。それからシャツのボタンに手を伸ばす。
 麻美の眼を見つめたまま小野原の手がボタンをひとつずつ外していく。やがてすべてのボタンを外すとシャツを脱がせた。さらにその手はスカートへ。スカートを脱がせると麻美は下着姿にされていた。
 小野原の視線を感じながら、しかし麻美にはごく自然なことのように思えた。とくに抗うこともなく、またなにか恥じらうところもなかった。
 ただそこに立っていた。
 大きな窓から射しこむ陽射しが眼に映る。背後の窓からは川の流れが微かに聞こえてくる。
 小野原の手がさらに伸びてブラジャーを取り去ると、さらに下着を脱がせた。
 いつの間にか、麻美は一糸纏わぬ姿になっていた。
「綺麗よ、あたな」
 小野原は脱がせた衣類を抱えるようにして麻美から離れると、あらためて全裸の麻美の全身を見つめた。
 その視線を感じながら、麻美の耳には小鳥のさえずりが聞こえていた。
はじめから つづく

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