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ものがたり屋 参 某 その 3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

某 その 3

 線と線が繋がり、そこに形が生まれる。
 色と色が重なり、そこに像ができる。
 光と影が描かれて、そこに貌が見えてくる。
 そのすべてが混ざり合い、創られるものはなに?

 艶やかで流れるような髪。整った顔。なだらかな肩。綺麗な膨らみを見せる乳房。さくら貝を思わせる乳輪と蕾のような乳首。引き締まった腹部。そして下の翳り。すらりと伸びた足。
 麻美は一糸纏わぬ姿で小野原の前に立っていた。半歩左足を前に出して、いまにも動き出しそうなポーズを取っていた。
 大きなガラス窓から射しこむ陽射し。どこから聞こえてくるのか小鳥のさえずり。ツーンと鼻をつく絵の具の匂い。
 麻美は全裸でいることになんの疑問を抱くことなく、ただごく自然にそこにいた。しかし、これが現実のことなのだという実感がなかったことも確かだった。
 それをいえば、いまどこにいるのか。そこでなにをしているのか。いや、そもそも自分は誰なのかすら朧気になっていた。
 なぜかこのアトリエにいると、小野原に見つめられると麻美は自分がすこしずつ実体をなくしていくようなそんな気さえしていた。しかし、それは決して居心地の悪いものではなく、むしろ心地よさすら感じていた。
 小野原はしばらくの間、ただそこに立っていた。一糸纏わぬ麻美のその姿にまるで見蕩れるように。
 やがて意を決したようにアトリエの奥の扉を開けた。その小部屋には画材道具がところ狭しと詰まれていた。その片隅に何枚ものカンバスが立てかけられている。その中から一番大きなカンバスに手を伸ばした。
 100号のカンバス。その端には幾層にも重なった絵の具が残っていた。カンバスを手にアトリエへと戻るとイーゼルへと立てかけた。
 そのカンバスにはすでに裸婦の絵が描かれていた。
 きつめのカールがかかった黒髪の女性だった。その顔のあたりを愛おしそうに指でなぞると、小野原はあらためてカンバスに向き合った。
 その手には幅広の平筆が握られていた。パレットから半透明の茶褐色の絵の具を筆に乗せるとカンバス全体に塗りはじめていく。
「さぁ、今度はあなたを、本城麻美をこのカンバスに描いていくわ」
 全裸で立ったままの麻美に向かって小野原は囁くようにいった。

「ねぇ、おかしいとは思わないの?」
 結人がひとりカフェエリアでランチを摂っていると、いきなり紗亜羅に話しかけられた。
 テキストやノートを胸の前に抱えたまま、紗亜羅は結人をじっと見下ろしていた。
「おかしいって?」
 箸を持つ手を止めると、結人は紗亜羅の顔を見上げた。
「だから麻美よ」
 紗亜羅は隣の席に腰を下ろすと、じっと結人の眼を見つめた。右手を伸ばすと、結人の左腕を握り締めた。
「なんだかこのところ麻美の姿を見かけないし、やっと見つけたと思っても、彼女なんだかぼんやりしているし、話しかけてもすぐに返事してくれないし……」
 紗亜羅は結人の腕を握る手に力を込めた。
「そういえば、このところまともに話してないかも」
「なに、それ。お願いだからもっとしっかりしてよ。あなたが麻美のことをちゃんとしなくてだれが彼女を護るの?」
 紗亜羅は真剣な眼差しで結人を見つめた。
「でも……」
「でも、じゃないでしょ。あなたにとって麻美はなんなの? 大切な存在じゃないの? しっかりしてよ」
 紗亜羅は改めて結人のを睨みつけるように見つめた。

 窓から射しこむ陽射しがカンバスに向かう小野原の姿を照らし出している。麻美は一糸纏わぬ姿で半歩左足を前に出したままぼんやりとその姿を見ていた。
 絵筆を走らせている小野原。しかし、アトリエの中では時はその歩みが止まりかけているように麻美には感じられた。まるでとろりとした濃密な流れとなって、ゆったりと時は過ぎていく。
 秋の陽射し。あたりに満ちている油絵の具の匂い。微かに聞こえる川の流れ。そして小鳥たちのさえずり。
 ここがどこなのか意識できずに、ただ麻美はぼんやりと、しかしその濃密な時の流れに身を任せてしまうのだ。
 アトリエに入り、いつもの場所に立つと、気がつくと全裸になっていた。それがごくあたり前のことのように、そこにはなんの感情もなかった。
 ただ本城麻美でいる。
 それだけだった。
 いや、そのはずだったけど、小野原の絵筆が動くたびに、なんだか麻美が纏っていた自分の膜とでもいうべきものが一枚ずつ剥がされていくような気さえする。本城麻美だったはずなのに、その意識すらすこしずつ薄れていくような気がする。それでもここに一糸纏わずに立ち続けるのはなぜなのか。
 小野原がカンバスに色を重ねていくたびに、麻美はなぜかすこしずつ自分でなくなっていくような気がしていた。まるで本城麻美という存在を小野原の絵筆がカンバスに映しとっているような気さえする。
 どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。

 眼に映るのは大きな窓から射しこんでくる秋の陽射しだった。
 麻美は大学のカフェエリアにいた。ひとりぼんやりと辺りを見ていた。カフェエリアにいる人をきちんと見分けることができずにいた。ただ人がそこにいるとしか麻美には感じられなかったのだ。
 なんだか視界に薄い膜がかかったようで、なにを見ていてもそれが現実のことなのかはっきりと意識することができなかった。気がつくと家を出て、電車に乗る。大学に着くとそのまま講義に出て、そして、こうしてカフェエリアでぼんやりとしている。
 小野原のアトリエにいるときの方がもうすこし視界はくっきりしているような気がして、こうして大学にいても心はアトリエでの時間のことを思っていた。
「麻美」
 紗亜羅が麻美の顔を覗きこんだ。そのとなりには結人が心配そうな表情で立っていた。
 麻美はゆっくりと首を傾げると不思議そうに紗亜羅の顔を見返した。まるではじめて会う人を見るように。
 紗亜羅は麻美のとなりに腰を下ろすと、結人も座らせた。
「麻美、ねぇ、大丈夫?」
「うん? 大丈夫だよ……」
 麻美は笑顔で答えようとしたが、どこかぎこちない表情になってしまった。
「どこが大丈夫よ。ずいぶん疲れてるみたいだよ」
 紗亜羅は麻美の肩に手を置いた。
 麻美は不思議そうに紗亜羅を見返した。
「麻美」
 結人はそっと手を伸ばすと、麻美の手をその右手で握った。握り締めたまま麻美の眼をじっと見つめる。
 麻美はその手を振り払うこともなく、ただ同じように力なく結人を見返した。
 結人はじっと麻美を眼を見続けていたが、やがて麻美の手を放すとちいさく溜息をついた。
「ねぇ、なによ」
 紗亜羅は結人に肩をぶつけるようにして尋ねた。
 結人はただ首を横に振ると、そのまま立ち上がった。
「結人、どうかしたの?」
 紗亜羅も釣られるように立った。
 結人は麻美の姿をじっと見つめると、やがて唇を噛んで、その場を去っていった。
「だから、どうしたの?」
 紗亜羅はカフェエリアを去っていく結人を追いかけていった。
 それでも麻美はそこに腰を下ろしたまま、カフェエリアを出ていくふたりの後ろを姿をぼんやりと見ていた。麻美はすその眼を細めた。

「確か、小野原っていってたよね」
 結人は自宅にある一ノ蔵にいた。所狭しと積み上げられた本の山の中をなにか探しながら、傍らに立つ紗亜羅に尋ねた。
「小野原円だったかな」
 その蔵にはじめて足を踏み入れた紗亜羅は、まるで深い森へ迷い込んでしまったように辺りを窺いながら答えた。
 締め切られた窓の隙間から漏れ零れる僅かな明かりだけでは蔵の中を見通すことはできなかった。結人が点けた裸電球が揺れるたびに、蔵の中で陰が踊る。
「ねぇ、ここにはなにがあるの?」
 紗亜羅はあたりをきょろきょろと見回した。
「古文書とか、古本とか、その類かな」
 結人は積み上げられた本の山を確かめながら答えた。
「もしかして神社ができたころの古いやつとかがあるわけ?」
「まあね、そんなところかな」
「なんだってキミはここで育っていながら、量子力学だっけ、そんなものを勉強してるの?」
 不思議そうに訊きながら、紗亜羅は近くにあった椅子に腰を下ろした。
「いろいろあるんだけどね、この世には不思議なことがあるんだ」
「だって量子力学って科学じゃん。科学ならなんでも解決ってわけじゃないの?」
「むしろ逆だよ。研究すればするほど、不思議なことに遭遇しちゃうんだ。ああ、あった。これのはずだ」
 結人は厚めの冊子を手に、紗亜羅のとなりの椅子に腰を下ろした。
「それって、なに?」
「この神社に関係した人たちの写真なんかをまとめたものだよ。まぁ、いってみれば記念アルバムってところかな」
「それがどうしたの?」
 紗亜羅は不思議そうな顔で結人を見つめた。
「どこかで見たことがあったんだ、その名前。たしかに逗子の人なんだよね、小野原円って」
「麻美がもらった名刺の住所はそうだったよ」
 結人はただ頷くと、ページを繰っていった。
「やっぱりそうだ」
「どうしたの?」
「ほら、ここに名前が書いてある。小野原円。写真もあるな」
 結人が指さした写真を見て、紗亜羅は頷いた。
「そうそう、この人。でも、なんかこの写真古くさくない?」
「古くさいもなにも、明治の終わりごろの写真だよ」
「え、どういうこと?」
「問題はそれだね。この写真は神社の祭祀の際に撮ったものだ。明治四十二年だね。そこに写っている小野原円はなにものなのか?」
 結人はじっと紗亜羅を見つめた。
「そんな眼で見ないでよ。なんだか背筋が寒くなっちゃった」
 紗亜羅は肩をすくめた。
「でも、なぜこの写真に写っているんだろう。明治時代の写真に小野原円が」
「ねぇねぇ、なんだって明治四十二年なの?」
 紗亜羅は首を傾げた。
「きっと神宮式年遷宮に合わせて、なにか祭礼をしたんだと思う」
「なにその式年遷宮って?」
「伊勢神宮はだいたい二十年に一度、社殿を造り替えて神座を遷すんだ。だからそれを祈念してのことだと思う。ちょっと待てよ。だったら」
「だったら?」
「二十年後の写真もあるかもしれない」
 結人は積み上げられた本の山を再び探りはじめた。
「あった、これだ。昭和二十八年か。四十年以上経ってるな」
「どう?」
 紗亜羅が覗きこんだ。
「あっ」
 ふたりは驚きの声とともに互いに顔を見合わせた。
「ここにも写ってる。ほら、小野原円。でも、ねぇ、なんだっていまとちっとも変わらないの? だいたいおかしいわよ。明治時代も昭和になっても、そしていまは平成の次の令和よ。なのにまったくといっていいほど容姿に変化がないなんて……」
「それは解らない。でも麻美の様子ときっとなにか関係があるはずだ」
 結人の言葉に半ば頷きながら、紗亜羅はいつまでも小野原円が写った写真を見つめ続けていた。
「どうかした?」
「だって、ずるい。歳取らないなんて」
 紗亜羅は忌々しそうに呟いた。

 結人と紗亜羅はその足で小野原のアトリエへと向かった。絵画教室で検索をするとその住所はすぐに判った。バス通りを歩き田越橋を過ぎると、田越川を左に見ながら急ぐ。
「ねぇ、結人。ちょっとだけでいいからスピード落として。ヒールで着いていくのはちょっと大変」
 ただ黙って前を向いて歩いていた結人はその歩を少しだけ緩めた。
「気持ちは解るけどさ」
 紗亜羅は結人の背中を見つめながら呟いた。
「ここだ」
 入り口のちいさな看板を確かめると結人は建物全体をじっと睨みつけた。
「まず、わたしが話をするからね」
 紗亜羅は結人にいって聞かせると呼び鈴を鳴らした。
 すぐに返事はなかった。ふたりは顔をじっと見合わせたまま待った。沈黙の時間が流れる。まるで砂時計の砂が零れ落ちていくように。
 やがてじれたのか結人がドアノブに手を伸ばそうとしたとき、そっとドアが開いた。
「どなた?」
 小野原がドアの隙間から顔を出した。
「麻美はいます?」
 紗亜羅はドアから中を覗きこもうとした。
「なんのご用?」
 小野原は立ち塞がるようにして紗亜羅の顔をじっと見た。
「あら、あなた。この前お店にいた方かしら?」
「オフショアのことでしたらそうです。麻美と一緒にいました。麻美、いるんでしょ?」
 紗亜羅は中へ入ろうとしたが、小野原はやんわりと押しとどめた。
「なんの話かしら?」
「だから麻美です」
 紗亜羅はそういい立てたが、小野原は表情を変えることなく立ち塞がっていた。
 我慢しきれなくなったのかふたりのやり取りを黙って見ていた結人がいきなりドアを押し開いた。
 さすがにそれに抗しきれなかったのかドアが大きく開くと、紗亜羅は有無もいわさずそのまま中へと入った。玄関でヒールを脱ぎ捨てるようにして上がると廊下へと進んだ。
「あ、ちょっと待って」
 小野原が紗亜羅の背後から迫ろうとしたが、その両肩を結人ががっちりと押さえた。
「なに、するの?」
 小野原は振り向いてその手を払おうとしたが、結人は頑として押さえたままだった。
「紗亜羅、たぶん一番奥だと思う」
 結人の声を聞き、紗亜羅はそのままずんずん歩いていくと、小野原のアトリエのドアを開けた。
 窓に囲まれたそのヘアの中程にはイーゼルに立てかけられたカンバスがあった。部屋の奥の窓のところに麻美が一糸纏わぬ姿で左足を半歩前に出した状態でポーズを取っていた。
「麻美!」
 紗亜羅の声が届いたはずの麻美だったが、しかしただそのポーズのまま視線を動かしただけだった。身体はまるで固まったように動かすことはなかった。
 紗亜羅は部屋の隅に落ちていたシーツを手にすると、麻美のところへ駆け寄りその身体を覆った。そのまま麻美をしっかりと抱きしめる。
「麻美。ねぇ、麻美、こっちを見て!」
「なにしてるの!」
 結人の手を振りほどいたのか小野原がアトリエへと駆け込んできた。
「なにをしてるのかを説明してもらいたいのはこっちだ」
 アトリエの入り口で結人がきつい口調でいった。
 小野原は振り向くとイーゼルのところまで後ずさった。まるでその身でカンバスを護ろうとするようだった。
「なんのことをいってるの?」
「これのことだよ」
 結人はゆっくり歩み寄ると小野原の眼前に写真を突きつけた。
「その写真がなにかしら」
 小野原は顔を逸らすようにして、結人の眼を見つめた。
「いつの写真か覚えているはずだ」
「さぁ、知らないわ」
 小野原は結人を睨みつけた。
「ここにもある」
 結人はもう一枚写真を突きつけた。
「どちらも写っているのはあなた、小野原円だ。一枚は明治四十二年の写真。そしてもう一枚は昭和二十八年。なぜその二枚に同じ人物が同じ様相で写っている? しかも、その相貌はいまとさして変わらない。どういうことか説明してもらおう」
 結人は小野原の両肩を掴んでその身体を揺さぶった。
「なにを馬鹿なことを……」
 小野原は顔を背けると苦々しい口調で呟いた。しかし、カンバスの前で両手を広げるようにしていた。
「この絵だな」
 結人は小野原を力ずくでどかせるとカンバスの前に立った。
 そこには一糸舞わぬ姿で立つ麻美が描かれていた。流れるような髪。なだらかな肩。綺麗な膨らみを見せる乳房。引き締まった腹部。そして下の翳り。すらりと伸びた足はまるでいまにもその一歩を踏み出そうとしている。
 まるで生きている麻美がそっくりそのままそこに写し取られているようだった。触れればなにか囁きかけてくる。そんな錯覚を起こしそうだった。
「駄目!」
 小野原が結人とカンバスの間に割り込むようにして身体を入れてきた。
「これはなんだ?」
 その小野原の両肩を改めて掴むとその身体を揺さぶった。
 小野原は不敵な笑みを浮かべるだけでなにも答えなかった。まるでからかうようにただじっと結人の眼を見つめた。
 結人は小野原を払い除けるようにして改めてカンバスを見た。その端には何層にも重なって塗られた絵の具が残っているのが眼に飛び込んできた。
「そうか、そういうことか」
 結人は呟くと辺りを見回した。すぐ横のちいさなテーブルには絵の具が何色も盛られたパレットがあった。それに絵筆に油壺。そして……。
 結人はとっさにその右手をカンバスに振り下ろした。
 ざくっ!
 カンバスに切れ目が入った。その手にはパレットナイフが握られていた。
「いや! なにするの!」
 小野原は鬼のような形相で結人に掴みかかってきた。しかし、結人はまったく動じることなく、その右手をさらにカンバスに突き立てた。突き立てたまま、斜めへと振り下ろす。
 バリバリ!
 大きな音を立ててカンバスが破れていく。
「ぎゃー」
 その瞬間、小野原は顔面を両手で覆うと崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んでしまった。まるで断末魔のような叫び声とともに。

 鎌倉へと向かう国道百三十四号線。逗子湾に沿ってゆったりと左にカーブを描き、やがてトンネルへと続く。その手前の海に突き出た場所に建つ一軒家のカフェ『オフショア』。
 ウッドデッキの一番海側の席で麻美は緩やかな海風を浴びていた。さわやかに広がる蒼空はすっかり秋色になっていた。降り注ぐ陽射しも柔らかな秋の温もりに溢れていた。
 テーブルに置かれたカフェラテのカップに手を伸ばした。
 そっと口をつぼめてそっと息を吹きかけてからひと口飲んだ。
「それで、どういうことだったの?」
 向かいに座っている結人に訊いた。
「そうだな、なんて説明すればいいのか正直解らないんだけどね」
 結人は苦笑を浮かべると、やはりテーブルに手を伸ばした。そのカップはブラックの珈琲で満たされていた。
「だって、被害者はわたしなんだら、納得させてくれなきゃ困るわ」
 麻美はじっと結人の眼を見つめた。
「どう考えたって世離れした話になっちゃうんだよ」
「構わないわよ。この世には不思議なことがいっぱいなんでしょ」
 麻美は意味ありげに微笑んだ。
「ようするに」
「ようするに?」
 麻美はカップをテーブルに置くと、身を乗り出すようにして訊き返した。
「あのカンバスなんだよ。あのカンバスに不思議な力が宿っていたらしい」
「ねぇ、どんな力なの?」
「命を写し取るといえばいいのかな。もちろん描き手の画力が必要みたいなんだけどね」
「つまり?」
「生き写しって言葉があるだろう。文字通り、命そのものを写し取ることができてしまうみたいなんだ」
 結人はそういうと手にしていたカップをじっと見つめた。
「じゃ、わたしは命を描き写されるところだったってわけ?」
「そういうことになるかな」
 麻美は凭れるように椅子に座り直すと、腕組みをして空を見上げた。
「もしかして危機一髪だったか」
「そうともいえる」
 結人は頷いた。
「それで、小野原さんは?」
「息絶えたよ。というか、その場で崩れ落ちて、そしてそのまま灰になって消えてしまった……」
「そうか……。あの人、いったい何歳だったんだろう?」
「カンバスってことを考えると、早くても江戸末期だよね、日本に伝わってきたのが」
「江戸末期って、そんなときから、ああやって命を写し取ってたってこと?」
「誰にも判らないけど、可能性としてはね。幾重にも塗り重ねた跡があったから、何人も描いてきたんだろう」
 結人は大きく溜息をついた。
「でも命を写し取るって……」
「不思議なことがあるんだ、この世の中には」
 結人は遙かに広がる海を見やった。
「不思議なことって、知らずにいられたらよかったのかも」
 麻美はそっと溜息をついた。
「帰ろうか」
 結人が立ち上がると、麻美も席を立った。肩を並べるように店の出口へ向かう。そのとき、ふいに麻美が結人にその肩をぶつけた。
「ねぇ、まさか見てないわよね」
「なにを?」
「だから、わたしの絵よ。あの大きなカンバスに描かれたヌードのわたし」
 結人は曖昧な笑顔を浮かべるとただ肩をすくめた。 
はじめから

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「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

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