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ものがたり屋 弐 トンネル 2/3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

トンネル 2/3
 湿っぽい風が結人の頬を撫でていく。
 トンネルの中は薄暗い。そこから出口はまったく見えなかった。どうやら途中まで上り坂が続いているようだ。
 蛍光灯はついているけどその半分は消えたまま。スイッチが入っていないのか、それとも壊れているのか、結人には判断がつかなかった。昼でもこの暗さだ。夜ならその暗い闇が視界のすべてを奪ってしまうかもしれない。
 結人はゆっくりと、しかしその歩みを止めることなく進んでいく。
 十メートルほど進んだだろうか、湿っぽかった風がふいに冷たくなった。
 その途端、結人は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「これはマジでヤバイかも」
 だれにともなくぼそっとつぶやいた。
 それでも歩みを止めない。
 鳥肌は立ったまま。やがて耳鳴りがしてきた。きな臭い匂いを感じる。耳鳴りが止まない結人はいったん足を止めた。
 立ち止まったまままっすぐ前を見る。
 もちろんなにも見えない。そこにはただトンネルが続いているだけだ。蛍光灯の明かりが薄暗くはあっても、そのトンネルを照らしている。トンネルの出口はまだ見えない。
 風がさらに冷たくなっていた。
 その風に吹かれているうちにトンネルの先になにかが見えるように気がして、結人は目を凝らしてみた。
 奥へと視線をやる。
 蛍光灯がついているのはわかるが、しかし暗くてなにも見えなかった。
 ──いや、そうじゃない。
 そこには闇があった。
 結人はそれに気がつくと、視線を逸らすように思わず目を瞑った。

 麻美はただ黙って席に座っていられなくなり、思わずドアを開けると外へ出た。夏の陽射しが照らしているはずなのに、なぜかそこまで暑さが感じられない。
 ぽっかりと空いたトンネルの穴へ風が抜けているせいだろうか。むしろ風の冷たさを感じた。
 あたりをゆっくりと見回す。
 雑草が生い茂った小高い山にそのトンネルはある。道路は舗装がところどころ剥げかかっていて、やけに埃っぽかった。
 ドアが閉まる音がして振り返ってみると、友加里が不安そうに後ろに立っていた。
「ねぇ、どうするの?」
 表情のない顔で友加里が口を開いた。
「どうって、結人を待つしかないでしょ。中へは入りたくないし」
 麻美はそう答えると、じっとトンネルを見やった。
 結人がトンネルに入ってどれぐらい時間が経ったんだろう。ずいぶん長くも感じるし、ついいま入ったばかりにも思える。
 やがて結人がトンネルから姿を現した。
 いつもの飄々とした表情のまま、ゆっくりとした足取りで車まで戻ってきた。
「ねえ、なにがあったの?」
 麻美が訊いた。
 結人はしばらく黙ったまま両腕を抱えるようにしてじっと立っていた。身体が芯から冷えているようだった。
「寒かった」
 やがて結人がぼそっとつぶやいた。
「もう夏だっていうのにとても寒かった。凍えそうなほどね」
 結人はそういいながら麻美と友加里の顔を交互に見た。
 気がつくと蝉の鳴き声が聞こえてきた。それも喧しいほどの鳴き声。結人がトンネルを出てくるまでは気がつかなかったのに、おかしなものだと麻美は思った。
「止めた方がいい」
 結人がぽつりと言った。
「どういうこと?」
 やや間があって、麻美が訊いた。
「ぼくたちの手に負えるようなものじゃないと思う。マジでヤバイよ。遊び半分でこのトンネルへ入ったらどういうことになるのか、ぼくにはちょっと想像がつかない」
 結人の顔から笑顔が消えていた。
「そんな……」
 友加里が力なく言った。
「結人……」
 麻美も口を開く。
「いいかい、ぼくは学生だ。この手のトラブルの専門家じゃない。いや、専門家っていったって別に資格が必要なわけじゃないけど、知識だって経験だって豊富なわけじゃない。ただ他の人よりもちょっと変な経験をよくするというぐらいのものだ」
 麻美も友加里もただ黙って聞いていた。
「その少ない経験でもこいつはそうとうにヤバイものだということだけはわかる。そして、どうしたらこのトラブルを解決できるのか、ぼくにはまったくわからないということも知っている。だからぼくたちの手には負えないよ」
 そこまでいうと結人はため息をついた。
「それじゃ……、それじゃどうすればいいの? ただこのまま、もしかしたら永遠に帰ってこないかもしれない雅之たちを、じっと待ってろってことなの?」
 麻美がすこし強い口調で訊いた。
「どうして……」
 友加里は心細そうに結人の顔を見た。
「塩盛って、はい終わりってわけにはいかないんだよ」
 結人は困ったように答えた。
「それでもなんとかしてくれるのが結人でしょ」
 迫るように麻美は言った。
「まいったなぁ」
 結人はほんとうに困ったような顔をした。

 結人から麻美に連絡があったのは次の日の夕方だった。
「麻美、いくなら今日の夜になるけど、どうする?」
 電話越しに聞く結人の声は少し固かった。
「トンネルにいってくれるの?」
 麻美が訊く。
「だっていくしかないんだろ、ぼくが。だったら、ともかくできるだけの準備をして、いくしかないじゃないか」
「ありがとう結人」
 麻美が本心で言った。
「ただ、ぼくひとりじゃ無理だ。だから、どうする麻美?」
 結人はなにかを確かめるような口調で尋ねてきた。
「もちろん、いくわよ」
 麻美はすぐに答える。
「でも、どうなるのかまったく保証はできない。昔やったみたいに簡単に祓うってわけには絶対にいかないからね。下手するとぼくたちも囚われてしまうかもしれない」
 結人は諭すようにゆっくりと話した。
「命の保証はできないぞってことね」
「冗談じゃなくて、ほんとうにだよ。ぼくだって、事情をきちんと相談できないぐらいなんだから。話をしたら、絶対に家から出してもらえないだろうな」
「わかった」
 麻美は覚悟を決めたように頷いた。
「それじゃ、これから迎えにいくよ」

 結人が車で迎えに来たとき、すでに友加里が麻美の家にいた。
 ふたりの姿を見た結人はちょっと意外そうだったが、友加里の固い顔を見るとなにも言えなくなったようだった。
「そうだよね、やっぱり心配だから友加里もいるよな」
 結人が麻美の顔を見ながら続けた。
「覚悟はできているね」
「大丈夫よ」
 麻美が答えると、友加里もしっかりと頷いた。
 結人はポケットから小さな紙包みを出すと、それをひとつずつ麻美と友加里に手渡した。
「なに?」
 手のひらに乗せられた包みを見ながら麻美が訊いた。
「お守りみたいなものだと思ってくれればいい。ポケットにでも入れて必ず身につけておくこと。なにかあった場合は手でしっかりと握りしめるんだ」
「なにかって……?」
 麻美が聞き返した。友加里が不安そうな顔で結人を見ている。
「電話で話したと思うけど、なにが起こるのかぼくにもまったくわからない。だから、ちゃんと身につけておいてほしい。いいかい」
 結人はふたりに向かって、噛んで含めるように話した。
「わかったわ」
 麻美も、そして友加里も頷いた。

 そこへと向かう車の中で、しかし三人とも無口だった。
 暗い夜だった。空に浮かぶ月は頼りないぐらい細かった。明日にはすべて欠けてしまい、姿を消してしまいそうだ。
 それぞれの中で不安が大きく膨らんでいるのだろう。麻美はいつもよりも真剣な顔で車を運転する結人をうしろのシートから意外な思いで見つめていた。
 幼稚園の頃からの友だち。いわゆる幼なじみの結人。
 神主の家で育った彼はどこかすこしだけ世間離れしているところがあった。
 人には見えないものが見える、といういい方があるが、結人もそういう種類の人間のようだった。
 幼稚園の頃、近くの林の暗がりでなにか胸騒ぎがしてならないとき、結人がそっと麻美の手を右手で握ったことがあった。
「あさみちゃん、ちょっとぼくの左手を見てごらん」
 そういわれた麻美が結人の左手を見ると、指先が黒く変色していった。
「ゆうとくん、その手は……」
「この暗がりにいたケガレだよ。あさみちゃんに着いちゃったみたい」
「どうするの、ゆうとくん」
 麻美の不安そうな表情をよそに結人は平気な顔をしていた。
「だいじょうぶ」
 そういって眼を閉じて口の中でなにかを唱えると左手を振り払うようにした。その瞬間、結人の左手の指先からなにかが飛んでいったように見えた。
「ほら、元にもどったでしょ」
 結人はそういいながら左手を麻美に見せた──
 なぜこんな昔のことを思い出したんだろう。あのときと同じように、また結人が祓ってくれると信じたいからだろうか。
 これからなにが起こるんだろう。想像ができないだけに麻美の不安は心の中でさらに大きなものになっていく。まるで黒い雲があっという間に空を覆い尽くしてしまうように、麻美の心もまた恐ろしい黒いなにかに埋め尽くされていくようだった。
「麻美……」
 麻美と一緒にうしろのシートに座っていた友加里が、そっと麻美の腕を握って心細そうな顔で口を開いた。
「どうしたの、友加里」
 友加里のその腕に、さらに自分の手を重ねて麻美が答えた。
「どうなるんだろう……」
 麻美の目をじっと見つめて友加里が言った。
「なにが?」
「だから、わたしたちどうなるんだろう」
 友加里は震えるような声だった。
「結人が言ってたでしょ、なにが起こるのかわからないって」
 麻美は友加里の目をしっかりと見た。
「じゃ、雅之はどうなっちゃってるの?」
 友加里がすがるような声で聞く。
「それもはっきりとはわからないみたい」
 麻美の言葉を聞いて友加里はすこしだけ間を開けてから、ためらうように言葉を口にした。
「怖い」
「うん、わたしも怖い。じゃ、いくの止める?」
 麻美は頷きながら訊いた。
「ううん、いくわ。だって雅之が待ってるかもしれないし。でも……、怖い」
 友加里の気持ちが痛いほどわかる。大切な人のことを想う気持ちが強いことは確かだ。でもどうなるのかわからないことに対して抱く恐怖は、その気持ちの強さとは別だ。
 いったいこれからなにが起こるんだろう?
 麻美は車を運転している結人を後ろから見ながら、ふたたび思った。

 トンネルの手前でいったん車を駐めると、結人は振り返ってふたりの顔を見た。
「ひとつだけ約束して欲しい。どんなことがあっても絶対に車の外へは出ないこと。窓を開けるのも駄目だ。なにがあってもこれだけは守ってくれ」
 結人の言葉に、麻美と友加里は互いの顔を見合ってただ黙って頷いた。
「さてと、それじゃツアーのはじまりだ。とりあえず向こう側の出口まで抜けてみるよ。さっきの約束を忘れないで。いいね」
 結人はそういうと、車をゆっくりとスタートさせた。すぐにスピードを制限速度ギリギリまで上げる。
 トンネルがゆっくりと迫ってきた。まるで大きな口を開けているようだ。夜の暗さよりもさらに濃い闇がそこにあった。まるで真っ黒な霧の中へ踏み込んでいくような不思議な感じだった。
 麻美は助手席の後ろからフロントガラス越しに前を見ていた。
 トンネルに入ると、そこにはただ闇だけがあった。
 車のライトが前を照らしているはずなのに、その明かりはとても頼りないほど仄暗い。結人はただ前をしっかりと睨みつけるようにして運転している。
 隣の友加里は黙ったまま右側の窓を見つめていた。ただ闇が流れていく。
 麻美は左側の窓を見てみた。
 トンネルの中には街灯があるはずなのに、真っ暗にしか見えない。
 ──どうして?──
 麻美は振り返ろうとして、しかしそこで動きを止めた。怖くて後ろを見ることができなかった。ただ真っ暗なままのはず。そうは思うのだが、しかしなにかが振り返るのを躊躇させる。
 ──こんなに恐がりだったっけ、わたし? ──
 言葉にならないことを麻美は独りごちた。
 暗い闇の中を車は進んでいく。
 トンネルの天井にあるはずの蛍光灯の光は、走っている車にまでは届かないようで、どこまで走っても仄暗いまま。しかも、その闇にはただの暗がりとは違って、妙な圧迫感があった。まるでねっとりとした暗い海の底を走っているようだ。それがどこまでも続く。
 麻美はそんな闇に息苦しさを覚えた。
 ──いつまでこの暗いトンネルは続くんだろうか? ──
 トンネルに入ってから、そんなに時間は経っていないはずなのに、もうずいぶん長い間、この仄暗い闇の中をただ走っている気がする。
 深くてそして暗い闇がどこまでも続く。
 そのとき結人が意外そうに口を開いた。
「あれ?」
 その言葉に麻美は前を見ると、前方にぼんやりとした出口が見えてきた。
「出口なの?」
 麻美は訊いた。
「え? どうして?」
 友加里も前のシートに手をかけて前方に身を乗り出すように前を見た。
「ほら、出口だよ」
 結人の言葉が終わらないうちに車はトンネルを抜けた。
 車を駐めると結人は道路脇のスペースを使い、Uターンをして再び車をトンネルに向けた。
「なにも起きなかったわよね……」
 麻美が結人に話しかけた。
「大きなトラブルは起きなかったね。時間もきちんと計算したんだけどなぁ」
 結人はまた車を駐めると、ゆっくりと後ろを振り返りふたりの顔を見ながら口を開く。
「時間って?」
 麻美が首を傾げた。
「いや、ただなんの考えもなく今日のこの時間にここに来たわけじゃないんだ。鬼門が開く時刻をちゃんと計算したつもりだったけど、間違えたのかなぁ」
 結人はふたりに話した。
「ねぇ、鬼門ってなに?」
 友加里が聞き返した。
「鬼門というのは不吉な方角のことなんだけど、簡単にいうと鬼みたいな怪しいものたちが出入りする方位なんだ。その鬼門が通りやすくなる時刻というのがあって、それを計算したんだ。こういうところは四六時中なにかが起こるわけじゃない。やはり、なにか邪悪なものがいるとしたら、そのよからぬ存在が鬼門を通り抜けて活動しやすい時というのがあって、大禍時って言ってるんだけど、その時間にこのトンネルを抜けるようにしたつもりだったんだけどね」
 結人はかみ砕くように説明をした。
「それじゃ雅之たちも、そのオオマガ……」
 友加里が尋ねた。
「大禍時だよ。そうその時刻にたぶんここを通っているはずだ」
 結人が頷いた。
「どうするの?」
 麻美は結人に訊いた。
「戻るよ。もう一度このトンネルを抜ける。でないと帰れないし」
「わかった」
 麻美が友加里の顔を見ながら頷いた。
「でも、確かにこの時刻なんだけどなぁ」
 結人はそうつぶやきながら車を走らせた。
 車のフロントライトがトンネルを浮かび上がらせる。相変わらずその入り口は深い闇のようだった。
 スピードを上げた車が静かにトンネルに入っていく。
 心なしか来たときよりもトンネルの中の照明が明るく見える。麻美はすこしだけ緊張がほぐれていくのを感じていた。どうやらそれは結人も同じようだった。前方をしっかりと見て運転はしているが、ピリピリと張り詰めたものは伝わっては来なかった。
 ただ友加里だけは様子がすこし違った。
 雅之がどうなったのか、その答えを探しに来たのだ。そのためにこうやって恐怖感と対峙しながらトンネルへとやって来たのに、なにも手かがりが得られなかった。失望というよりも、むしろなにかを見つけたいという執念にも似た思いが彼女の中で広がっていくのを麻美はその横顔から感じ取っていた。
 車はどんどんと進んでいく。闇をまるでかき分けていくように走っていく。
「あっ! 雅之!」
 そのとき前方を見ていた友加里が突然声を上げた。
「しまった──」
 結人がほぼ同時に舌打ちした。
はじめから  続く

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

噂のあった「トンネル」へいかないかと雅之からの誘いを断った麻美。
何日経っても戻ってこない雅之を案じて、
麻美と友加里、それに結人の三人はその「トンネル」へと向かった。
トンネルに足を踏み入れた三人。果たして麻美たちを待ち受けていたのは……。

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