ものがたり屋 弐 トンネル 1/3
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
トンネル 1/3
「例の場所にこれからいかないか」
雅之から電話があったのは、蒸し暑い夜の十時過ぎのことだった。
「ねぇ、誘ってくれるのは嬉しいけど、わたしのこともちょっとは考えてよ。夜遅くにのこのこと出かけられるわけないじゃない。おとうさんうるさいの知ってるでしょ」
麻美はそう断った。
「女の子がいれば雰囲気も盛り上がるのに、残念だな……」
雅之は、本当に残念そうにいった。
「それで誰がいくの?」
二階にある自分の部屋のカーテン越しに茹だりきってしまったような外の様子を眺めながら麻美は訊いた。とろっとした妙な暑さが街を包んでいるようだった。
「タケシと達也」
「友加里は? 彼女は誘ったの?」
「怖いから、ぜったいに嫌だって。付き合ってもう長いけど、あいつそんな恐がりだったっけ」
携帯の向こうから雅之のちょっと残念そうな声が聞こえた。
すこしノイズがかかっているのか、その声は聞き取りにくかった。
「時と場所によるわよ。だいたいいろんな噂があること知ってるでしょ。なのにいくわけ?」
窓は開け放しているというのに、まったくといっていいほど風が入ってこない。麻美は思わず右手で髪をかき上げた。
「知ってるからいくわけ。まぁ、男の子だしな」
「男の子にしちゃ、老けてるわよ」
「確かに。でも、ともかくこれからいくことにしたんだ」
雅之は、あっさりと答えた。
「マジで止めた方がいいって。あのトンネルだけはぜったいに止めた方がいいよ」
「心配ないって。明日、たっぷりと土産話聞かせてやるよ。それじゃ──」
電話が切れた後、いいようのない不安を麻美は覚えた。けれどそれがどんな結末を招くのか、そこまでは想像できなかった。
カーテンの向こうに見える街灯がそろそろ寿命が近いのか、ジージーと音を立てながら点滅していた。
翌日、麻美は大学で友加里に会った。
夏休みが近いキャンバスでは、試験の準備のためかいつもよりも学生の姿が多い。麻美もそのつもりで出てきたのだが、講義に出席することはできなかった。どうしても話がしたいからと友加里が放さなかったのだ。
固い表情をした友加里を見ていると断り切れず、麻美はキャンパスにある喫茶室で話を聞くことにした。
テーブルに並んだアイスティを前に友加里はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「昨日、雅之から電話があったでしょ」
友加里は明らかになにかに怯えていた。あたりを窺いながら、麻美の返事を待った。
「うん、これから例の場所にいかないか、って」
「あれっきりなの──」
掠れたような声で友加里が言う。
「え? なにが──」
「だから、雅之から連絡がないのよ。タケシも達也もあの場所にいった三人と連絡が取れないの」
「悪い冗談ならやめてよ、友加里」
麻美はアイスティを飲むのをやめると、友加里の顔をじっと見つめた。どうやら冗談などではないようだった。
「昨日の夜、誘いの電話があった後、もう一度電話があったの」
「うん」
麻美はただ頷いた。
「あの後、ふたりで会う約束をしていたから、戻ってきたよって、そういう電話だと思ったの。そしたら……」
友加里はそこまで話すと、なにかいけないことを思い出してしまったように頭を振ると、押し黙ってしまった。
「ねぇ、話してくれないと、わからないわ」
麻美はそういうと友加里の肩に手を置いた。一瞬ビクッと身構えた友加里だったが、麻美の顔を見つめるとおずおずと口を開いた。
「雅之の呻き声が聞こえてきたの。聞いたこともないような怖ろしい声だった──。はじめはなにをいっているのかさっぱり判らなかったけど、そのうちはっきりと聞き取れたの──たすけてくれ──って、呻き声を上げていたのよ」
「それで?」
友加里の肩に置いた麻美の手に思わず力が入る。
「それから何度も雅之の携帯に電話したけど呼び出し音が鳴り続けるの。ず~っと呼び出しているの。変でしょ。留守電になるはずなのに、ずっと呼び出しているの。三十分も一時間も。タケシにも達也にも電話してみたけど同じ。ただ呼び出し音がなるだけなの。今朝、家の方に電話したけど、三人とも出かけたきりだって」
「まさか……」
友加里の視線に促されるように麻美は携帯を取り出すと、雅之の携帯に電話してみた。発信音に続いて、呼び出し音がなる。
「よう、麻美か」
そんな声が聞こえてくることを祈りながら携帯を押し当てていた。力強く押し当てすぎたのか、耳が痛くなったけどかまわずに呼び出し音を聞き続けた。
やがて電話を耳から放すとそのまま切った。確かに、友加里がいうようにいつまでも呼び出し音がなるだけだった。
「どういうこと……?」
麻美の問いに、しかし、友加里はただ恐怖と不安が綯い交ぜになった顔で見返すだけだった。
麻美の通う大学の山側、県道を三十分ほど車で走ったところに、そのトンネルはある。
怪談話の絶好の舞台。トンネル。いろいろな逸話や伝説といっていい話がまことしやかに伝えられている。
そのまま無事にトンネルを抜けることができない。なにものかに追いかけられる──。
ただ麻美たちが伝え聞いている話はちょっと違った。
そのトンネルでは雨が降るという。
もちろん、実際に車が濡れるわけではない。しかし、トンネルに入ってしばらく走っていると、いつのまにか雨音に包まれてしまうというのだ。
──トンネルで雨に降られると、事故に遭う。
麻美たちが聞かされた話だ。
サークルの先輩たちはもちろん、クラスやゼミの友だちみんなが口を揃えてそう話をする。実際に事故に遭った学生もいるらしい。しかもかなりの重傷でいまだに入院しているという。麻美はその学生と話をしたことはなかったが、何度かキャンバスで見かけていた。
もちろん怪談話をそのまま真に受けているわけではない。ただの偶然かもしれない。けれど、この世のできごとすべてが、いまの常識とかあるいは科学的な知識できちんと説明できると信じるほど麻美は単純ではなかった。
説明がつかないような不思議なことがあったとしてもおかしくはない。
お化けとか霊魂などといったものとは無縁の麻美だったが、どちらかというとそう考えていた。
しかし、友加里の話をそのまま信じていいものかどうか。正直、迷っていた。
もしかしたら手の込んだいたずらかもしれない。だいたい雅之たちはタチの悪いいたずらが大好きな連中だったのだ。
友加里を怖がらせるためだったら、なんでもやりそう。
そう思った麻美は、なにかあったらまた教えてと友加里を納得させると大学をあとにした。
講義に出られなかったのは痛かったが、しかし試験の準備を怠るわけにはいかない。麻美は真面目な学生とは言い難い。アルバイトだってしているし、ときには友だちたちと羽目を外して遊ぶこともある。
講義にも必ず出るというのではなく、てきとうに休んだりしている。もちろん出席が足りないことで取り返しのつかないことにならないように、出席数はきちんと計算した上でのことだ。
家に帰るとそのまま自分の部屋へいき、机に向かった。
ふだんそこまで勉強することはなかったが、さすがに試験の準備ということもあってノートの整理に没頭していた。夕食を挟んで、いままでノートに取った講義の内容をきちんとまとめていく。
ふっと気がつくと、ずいぶん遅い時間まで机に向かっていた。もう十時を回っている。麻美は机の上に置いたままになっていたグラスに口をつけると、立ち上がりカーテン越しに外を見た。
昨日と同じようにとろっとした妙な暑さがあたりを包んでいた。
街灯が点滅しながらジージーと音を立てている。
なにげに振り返ったそのとき、机の上の携帯がコトッと小さな音を立て、着信音が鳴った。
雅之からだった。
やっぱりあいつったら──そう思いながら麻美は携帯をとると耳に当てた。
「ねぇ、友加里がずいぶん心配して……」
そう口を開いた麻美だったが、携帯からはうわんうわんという雑音だけが響いてきた。
「雅之、いたずらはもう充分だって」
うわんうわんという雑音がただ響いている。しかも、音源が移動しているようで、その雑音が大きくなったり小さくなったりしている。いったいなんの音なのか、麻美は耳をそばだてた。けれど、聞こえるのはうわんうわんという雑音だけ……。
その音が実は人の声だとわかったとき、麻美の全身を寒気が襲った。
まるで怨嗟の声のようだった。
低くしかし長くまるで人を呪うような、それでいて助けを求めるようなうめき声がいくつもいくつも混じり合い麻美の耳に重くそしていつまでも響く。
「──たすけてくれ──」
麻美は思わず携帯を放り投げてしまった
それは、確かに雅之の声だった。
麻美の全身に鳥肌が立ったまま、しかしそれはいつまでも収まらなかった。
翌日、今度は麻美が友加里を捕まえる番だった。
キャンパスを友加里の姿を求めて麻美は歩いた。友加里がいきそうな場所を探したが会うことができなかった。
すぐに見つかるだろうと思っていた麻美が、さすがに探すあてもなくなり芝生の植え込みのすぐ近くのベンチに腰を下ろしたとき、力なくとぼとぼと歩いてくる友加里の姿が目に入った。
「友加里」
そう呼びながら麻美は友加里のところへと足早に近づいた。
「まだ、連絡ないよ……」
友加里がおずおずと口を開いた。
夏の暑い陽射しが当たっているにもかかわらず、友加里の顔には生気が感じられなかった。まるで抜け殻のようだ。
「それが──、昨日の夜、電話あったんだ……」
「え? だれから? ねぇ、だれから?」
友加里は麻美の肘のあたりを掴むと、縋りつくような目で麻美を見た。
「たすけてくれ──って……」
麻美にはそれしか言えなかった。
肘のあたりを掴んでいた友加里の腕が力なく垂れ下がっていく。
「どうしよう……」
どうしよう──麻美もなにがなんだかよくわからなかった。なにが起こっているのか、なにをどうしたら雅之たちになにが起こったのかわかるんだろう?
「麻美……」
友加里はただ麻美の顔を見つめた。
なにをどう考えても、麻美には起こっていることがいったいなんなのか、それがわからなかった。想像することもできない事態に出逢ってしまうと、人は思考が中断してしまう。考えが前に進まないのだ。
どうしよう、という言葉だけが頭の中で堂々巡りを繰り返す。
頭の中で雅之の掠れたような「たすけてくれ」という声が反響して何度も何度も聞こえてくる。
どうしたらいいの?
思わず頭を抱えてしゃがみ込みたくなる衝動を覚えたそのとき、なにも悩みをひとりで抱え込むことはないんだという考えが浮かんできた。
「そうよ、相談すればいいんだわ」
麻美はつぶやくように言った。
「相談って?」
「ほら、こういうことに詳しい人いるでしょ」
麻美は、友加里の両肩に手をやると、自分を納得させるように話した。
「そんな人いた?」
「うん、ひとりね」
結人は黙って友加里と麻美の話を聞いていた。
研究室の決して綺麗とはいえない机の前に座り、じっと腕組みをしてふたりを見つめている。机の上には三人分の湯飲みがあった。味がするのかどうか怪しい濃さのお茶はもうすっかり冷めていた。
ふたりの話を聞き終えた結人は湯飲みに手を延ばしてゴクリと一口飲むと、静かに腕組みを解き、机の上で両手を組んだ。
「あのトンネルなんだね」
「結人、よく知ってるの?」
麻美が尋ねた。
「いや、噂だけだよ。みんな好きじゃない、この手の話は」
結人はぶっきらぼうに答えた。
「だから止めた方がいいって何度もいったのよ、わたし」
友加里が硬い表情のまま口を開いた。
「ともかくそこへいってみないと、たぶんなにもわからないだろうね」
「いくって、あのトンネルに?」
麻美はちょっと驚いたように訊いた。
「そう」
結人はゆっくり、しかし力を込めて頷いた。
こんなに気の進まないドライブは初めてだった。
大学の裏門から続く県道を結人は車を走らせた。まわりには建物はほとんどなく、すぐに緑が広がるあたりを走ることになる。
麻美は助手席の後ろに座り、窓の外をじっと見ていた。隣に座っている友加里はじっと下を向いたまま身じろぎもしない。全身に不自然な力が入っていた。
無理もない。
なにが起こったのか、まったくわからないのだ。
そして、これからなにが起こるのか想像もできないのだ。黒い影が差すように、心の中に恐怖にも似た不安が渦巻いているのだろう。それは麻美も同じだった。
携帯電話から聞こえてきた雅之の声は、あまりにも禍々しいものだったから。
やがて道はゆるい上り坂になり、大きくカーブしていく。山というよりは小高い丘を抜けていく感じだ。ところどころに古い民家がぽつりぽつりと点在していた。その家を通り過ぎるごとに、すこしずつ高度が上がっていく。
「とりあえず──そう、とりあえずトンネルまでいくだけだからね」
結人が普段と変わらない口調でふたりに声をかけた。
「いきなりこのまま中に入ることはないから、心配しなくても大丈夫だよ」
「うん」
固い声で麻美が返事をした。
やがて鬱蒼とした林を抜けたところに、そのトンネルはあった。さすがに人影はおろか、建物もなにもない。噂ではこのトンネルの上に焼き場と墓場があるということだったが、そこへと抜ける道も見あたらなかった。
結人はトンネルの手前にあるちょっとしたスペースに車を駐めた。
まだ昼を過ぎたばかりだというのにそのトンネルの入り口は薄暗い。うしろの席に座ったままの麻美には、まるで人が来るのを拒んでいるように思えた。
結人はエンジンを切ると、なにも言わずにドアを開けて外へ出た。
じっとトンネルを見つめている。その奥になにがあるのか見極めるつもりだったのかもしれない。それは凝視という言葉の方が似合っていた。
「ちょっと見てくるからふたりともここにいてくれる」
ドア越しに結人がふたりに話しかけた。
麻美も友加里もただ頷く。
結人がゆっくりとそのトンネルへ近づいていくのを麻美はフロントガラス越しに見ていた。結人はトンネルの入り口に立つと左手でそっとそのトンネルに触れた。そのまま眼を閉じる。なにかを感じ取っているんだろうか?
そのまま振り返り麻美たちの方を見ると、結人はなんの躊躇もなく歩を進めトンネルの中へと入っていった。
続く
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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
噂のあった「トンネル」へいかないかと雅之からの誘いを断った麻美。
何日経っても戻ってこない雅之を案じて、
麻美と友加里、それに結人の三人はその「トンネル」へと向かった。
トンネルに足を踏み入れた三人。果たして麻美たちを待ち受けていたのは……。
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