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感動ポルノを越えた先

田んぼの合間に咲くひまわり。
もう夏も終わりが近いですねぇ。
夏にできることは今のうちにやっちゃいましょう!

今回も「障害」をテーマに書いていきたいと思います。

皆さん、「感動ポルノ」をご存知でしょうか。
ジャーナリストでありコメディアンでもあるステラ・ヤングさんの言葉です(inspiration pornの和訳)

「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって

これを読むだけで感動ポルノの概要はだいたい分かるのでぜひ読んでいただければと思います。


一言でいえば「『障害者』に『困難に立ち向かう存在』というレッテルを貼って勝手に感動して自己満足する行為』のことを指します。
よくある話ですよね。
先の記事にもありましたが24時間テレビのドラマによくそういったものがありますが、どこにでもある話です。

なぜそういうことになるのか、と考えたところ…答えは明確だと思いました。
それは「身近に『障害者』がいないから」だと思います。
障害のある人と普段から接していたら別に何も特別なことはない、フツーに「人」だということがわかります。
もちろん障害の種類や度合いによって抱える困難さは千差万別ですが、障害のない人と同じように寝て起きてご飯を食べ、トイレに行き風呂に入るわけです。
ピュアな人、ずるい人、優しい人、おこりんぼうな人、色んな人がいます。
当たり前です、人間ですから。
メディアは視聴率を上げたいので、フツーの人の話をどうしても感動的に仕上げてしまう。
そこに視聴者が乗っかっている…という構図のように思います。


パラリンピックも感動ポルノの要素を内包しているように思います。
「あんな障害があるのにあんなすごいことをしている…」というように。
オリンピック選手もパラリンピック選手もスポーツ選手はみんなすごい。
一般ピーポーには逆立ちしてもできないことを彼らはやすやすとやってのけてしまう。
それは、一つの目標に向けて取り組んできた姿、一瞬の輝きにかける想いに対して感動するわけで、障害ある無しは本来あまり関係ないように思います。

「一定の条件(ルール)に沿って行われるスポーツ」としてフラットに見れば純粋にパラスポーツも見られるように思います。
ブラインドサッカーはその点分かりやすい。
誰しも目隠しをすれば同じ条件ですから。
もちろん手足がある人が義足をつけることは難しいですが、「特定の制約の中で行うスポーツ」として人がひたむきに取り組む姿を素直に楽しめばいいと思います。
そこに余計な付属品はいらない。
あ、これってパラスポーツに限らず言えることですね。
「亡き母に捧げる1勝」とか「震災を乗り越えて迎えた大舞台」とか…。
確かに人はそういうのに弱いんですけどね(^_^;)


話は戻りますが、僕は感動ポルノを乗り越える必要があると思います。
それは明確に「自分」と「障害者」を区別しているからです。
「自分とは違う、『障害というものを背負った人』がそれを乗り越えるなんてどれだけすごいんだろう!(ウルウル)」…といったところでしょうか。
そこに「同じ人」という視点が乏しいことに問題があるように思います。

どうすればそこを乗り越えられるのか。
それは簡単で、色んな障害のある人が普通に身近に、街中にいられるようになれば解決すると思います。
身近にいないからイメージに引っ張られるんです。
接する機会が増えれば別に特別なんかじゃないことが自然と分かる。
とはいえそこに至るには厳しい現実があります。
前回も書いたとおり、ソフト面でもハード面でもなかなかに高い壁が立ちはだかっています。

そこを解決するには、なにも「バリアフリーな街を作る!」とか「インクルーシブ教育の導入を!」というような大きなことをしなくても出来ることが山ほどあります。
簡単なのは障害のある方が困っていたら声をかけること。
車イスの方が段差を登れないでいたら声をかけて後ろから押す。
白状を掲げて立ち止まっている方がいれば「どうしました?」と声をかける。
白杖を頭上に高く掲げていたら困っていますのサイン


そんなに難しいことではなくちょっと関わるだけで障害のある人も街へ出やすくなります。
そうすれば段々と障害が特別ではなくなるはず。
とはいえコロナの影響もあり、そもそも障害のある方を街なかで見かけなくなっていますし、「なにかやってあげたい!」と熱視線を送るのもなにか違いますよね(^_^;)
NHK・Eテレの「バリバラ」のような障害当事者が作る番組を見るのもいいと思います。

とある国では車椅子の方が階段の前にいたらごく自然に若者が近づいて担ぎ上げたあと、スマートに去っていく…という話を聞いたことがあります。
それが普通になったら…ある意味で「障害」なんて存在しなくなるのかもしれません。
「障害」は社会が作り出しているのだとすれば、「障害の無い世の中」も社会は、人は作れるのではないか。
そんなふうに思います。


「障害」は自分が作り出している、と気付いたらできることばかりでワクワクしてきました♪

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