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ここがタメになった「生きる 小野田寛郎」2/⑦

太平洋戦争が終わってからもフィリピンの離島で30年間サバイバルをしながらゲリラ活動を続けていた日本兵のお話です。
日記のような形で淡々と語っているので、盛り上がりのあるドラマチックな作品という形ではないのですが、誰も真似できない個性的な内容が目をひきます。戦前の日本人の価値観を持っているため、現代の私たちから見ると理解しがたい部分は多いです。
生きるというテーマにしたのは、日本に来て講演するテーマが毎回生きることについてだからです。野生同然の生活をしてきた自分自身の体験から何かを汲み取ってほしいとのことです。

法律はなくて武器はある、という社会だと殺し合いが簡単に起こることがパプワニューギニアはじめ原住民の間でみられます。著者のように戦場の中でゲリラ活動する場合も同様です。作戦会議していても簡単に銃口を向けられてしまうことが何度もありました。礼儀作法と年功序列が徹底していた日本軍で教育されていたのにあっさりとその秩序がなくなったのは驚きました。
著者も上官なのに絶対に無理強いはしない、させようとしても撃たれるだけです。他人を無理に従わせる無意味さを著者は説いていて、後年小野田塾を開いた時も教え子たちに無理強いをさせることは決してなかったです。私も育児をしていましたが身に付きにくい考え方です。

著者含め4人の中で、島田という妻子持ちの人が唯一のムードメーカーで明るい様子がよく本に登場します。それだけにケガをしてから暗くなっていく、最終的に弱気になりスキができて射殺されるのは悲しいものがありました。

~~以降は内容説明~~

著者は隊長殿と呼ばれていましたが3人の間に階級意識がなく同等の立場で意見を述べあい、計画を練り労働も交代して分担していました。
議論が白熱して喧嘩が始まることもあります。お互い銃を持っていて議論中に銃を向けることもよくあります。無理して従わせることはせず「自分の信じる方に行け」とだけ告げて会議を解散することもあります。
命がかかっているので納得できない意見に反対するのは当然です。それを繰り返して、自分の命を張って行動して自分の意見が正しいと証明する必要があります。そうしないと仲間を納得させることはできません。


ルバング島はもともと軍用基地と飛行場があるくらいで、電気のない農業だけの島でした。終戦後6年ほど経ち島に街灯が導入されました。それを初めて見た時著者はあまりにも久しぶりで別世界のように感じ感動していました。


3人のメンバーの中で一人だけ妻と子供がいました。明るい性格の人でしたが家族の写真を見る時は寂しそうでした。ケガをしてからはさすがに明るさがなくなりよく写真を見るようになりました。

仲間が敵に撃たれて怪我をした時は看病に必死になりました。怪我の手当てをして、果物を取ってきて栄養をとらせ寝る暇もなく看病します。
戦場で頼りになる仲間を失うわけにはいかないからです。


現地の警察とはまた別に「討伐隊」という組織がいて、日本兵士を狙って山の中に来ることがよくありました。彼らに見つかると射殺されてしまいます。
終戦して10年目で見つかり仲間が一人射殺されました。30年のゲリラ活動で数少ない油断が悲劇を招きました。
その時は日本兵目的でなく、フィリピン軍のもとで別のゲリラ討伐を行う演習中だったそうです。

この本のところどころに作者の考えがコラムとして書かれています。
不安や孤独などの感情は、親しい人が何人いても消えるものではなく、逆に大きくせてしまうことがあるといいます。孤立無援の状態の時こそ自分の生き方を学べると説いています。
自己を発見した時にどう生きるかというのが自然と行動に出るとしています。


必要な日用品はアメリカ兵が捨てた備品を拾って集めたり修理したり、現地の農民から盗んだりしていました。生きのびて島の中の偵察任務に一番時間を当てることを第一としていたため完全なサバイバルを目指していたわけではありません。

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