『石川直樹 この星の光の地図を写す』は喉の奥がきゅーっとなる
東京オペラシティ アートギャラリーで開催されている、
『石川直樹 この星の光の地図を写す』へ行った。
もともと石川さんという方のファンではなかったが、なんかこの展示行かなきゃなあ〜と気になっていたので、休日を利用して足を運んでみた。
展示スペースに足を踏み入れて、2秒。
「ああ、どうしようもない」という感激で表情が緩くなってしまった。
一面の白い壁に張りついている、その写真の神々しさ。
表情が緩むのと同時に、昨日の自分に感謝した。
というのも、昨日の夕方もわたしはこのギャラリーまで足を運んでいた。正確にいうと、ギャラリーの入り口の前までだけれど。昨日は休館日であることをついうっかり見落としていたのだ。自分を恨んだ。
でも、良かった。昨日到着したのは18:20。閉館までの40分じゃ、到底まわれる内容じゃなかった。(結局、展示をみるのに3時間弱かかった)
もともと、わたしは地球の写真が苦手だった。地図や地層、大陸や太陽の写真なんかは特に。普段見ることができない特殊なもの特有の迫力がありすぎて、恐怖だった。
でも、石川さんの写真から感じるのは穏やかさだった。
この気持ちをうまく言語化してくれたのは、いとうせいこうさんである。
石川くんの写真って、寒い場所でも寒い感じを出さないよね。むしろ温かみすら感じる。すごいところに行きました、怖いところに入って撮ってきました、っていうイキった感じがしないんだ。不思議だね。
いとうせいこうさんと石川さんの対談のページは是非読んで欲しい。
展示スペースの2箇所目。
赤い壁一面に、世界各地の太古の壁画が展示されていた。それはそれは、「美しかった」
太古の壁画やインドの人々の暮らす風景をみて、素直に「美しい」と芸術的に感じているわけである。現地の人にとっては、芸術ではなく日常である。
インドの人たちがわたしが普段見ている東京の暮らしの風景の写真をみたとき、「美しい」と感じるのかどうかとても気になる。いつか確かめてみたい。
ここで、パンフレットのお気に入りの解説の文をのせておく。
英語のartは、ラテン語のarsが語源で、ギリシャ語のtechneに相当し、本来の意味は「芸術」というより「技術」に近い。石川さんは「人間の知恵や生きるための技術を、芸術の分野から改めて捉えてみたい」と語っている。
この文を読んだとき、自分の祖父母を思い出した。
わたしの地元は、岩手県の田舎の漁港である。まさに、漁師である祖父母は自然とともに歳をとり、「人間の知恵や生きるための技術」を生活に取り入れて生きてきた人たちだった。
そりゃあ、わたしの地元は美しいはずである。
誇らしい気持ちで展示を巡っていくと、最後の方にMAREBITOというコーナーがあった。
今年ユネスコの無形文化遺産に登録されることが決まった来訪神。全国の儀式を写真におさめたコーナーである。
その写真の中に、わたしの地元、岩手県大船渡市三陸町の「スネカ」の写真があった。
海は限りない恵みをもたらす一方で、時に災いをもたらすこともある。しかし、それでも人々は、海からやってくるあらゆるものに対し、抵抗し、拒絶するのではなく、また打ち克とうとするわけでもなく、静かに受け止めて、柔らかく吸収してきた。こうした自然の付き合い方が、来訪神の儀式に現れているとぼくは考える。
一気に石川さんのファンになってしまった。
石川さんの写す世界が好きな理由や、写真にどこか懐かしさを感じる理由がつながっていくのがわかった。
しかも、東日本大震災を経験しているわたしにとって、この一文から感じることは多すぎた。
いい展示というものは、その空間に長い間いると喉の奥がきゅーっとなる。今回の展示がそれだった。なんなら、見終わった後には背中がぞくぞくさえもした。
最近の節約志向で、ギャラリーや美術館への出費を減らす方向に考えていたけれど、どうやら無理そうである。無理というか、減らすべきではない。これが今回の展示に1200円を投資して感じた、素直な感想である。
アートって「それを見たら自分も何かやりたくなる」ことだと思っているから。 (いとう)
まさに、いまのわたしはそんな気持ちなのである。
追記
本当にむちゃくちゃ押しにくかった。
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