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事実:「真実はいつも一つではないけど事実は一つという考え方に、私はヒヤリとした」


これは、主観・客観という問題についての私の考えだ。

「ミステリと言う勿れ」という漫画に、真実は一つじゃないんですよという話が出てくる。
真実は人の数だけあって、事実だけが唯一であるというのだ。

もしも自分でその例を考えるならどんな感じだろうと思って、実際に自分で「多様な真実と唯一の事実」について説明しようとしてみた。

例えば、私が「ある仕事が分からずAさんに質問したら怒られた」、という真実を持っていたとしよう。しかし、Aさんは「仕事を覚えていなかった私に注意をして教えた」と認識していたとする。Aさんにとっては怒ったつもりなんてかけらもないのだ。

では、このケースにおける事実はどう書けばいいのか。
難しい。

私が事実を記述するなら、「ある仕事のやり方をAさんが私に指導した」と書く。
確かに、嘘や偽り、感情は入っていない。事実ではあるだろう。

しかしこれでは不足していると思う。
なぜなら、私がAさんに怒られたと認識する経緯が全く分からないからだ。
ここで重要になってくるのはAさんが私をどのように指導をしたかである。強い口調で非難しながらなのか、逆に無表情で淡々と教えたのか、「伝え方」によって事実の記述は大きく雰囲気を変える。

しかし、この伝え方を事実として伝えるには主観が入りすぎる。
実際に発したセリフを正確に覚えている人なんてほとんどいないだろうが、仮に正確な文言が分かったとしよう。それがこれだとする。


私「すみません、質問良いですか」
Aさん「今別の作業してて、少し待ってください。」
私「はい。」
Aさん「…。(作業を終えて)はい、なんでしょう。」
私「この仕事が分からないんです。」
Aさん「前に教えませんでしたか?一度教えたことはメモを取ってください。まあいいや、この作業はこうやるんです。」
私「ありがとうございます」
Aさん「これでいいですか、ほかには?」
私「いいえ、大丈夫です」

どうだろう。この文章がもしも声優のオーディション原稿なら実力が試されそうな会話だと思う。

第三者がこの会話を聞いていたとしても、
「冷たい言い方だった」「簡潔な伝え方だった」「むしろやさしい方だと思う」様々だろう。どんな感想を抱こうが間違いでも不正解でもないのだ。

そのくらい、会話文が一言一句分かったとしても、Aさんは私を怒ったのか指導したのか分からない。音声データが残る訳じゃないし、そもそも人によって話に自分の感情をどう乗せるかなんて千差万別なのだ。

そうなると、事実とは何だろう?
この件に関しては、「Aさんが私に仕事の方法を伝えた。私はそれに対して怒られたと感じた一方で、Aさんは怒ったつもりはなく指導したと認識している。」という書き方になると思う。「本人たちはこう感じている」という書き方をしなければならないだろう。
ちょっと反則っぽい。しかし、感じ方が千差万別で得ある以上はこのように実際に起こった事と、それに対する個人の感じ方の差異を記録するしかない。もしかしたら、この文章すら事実としては不足があるのかもしれない。ただし、個人がどう感じたかなんていくらでも後から変えられる。

だって、感情に証拠はないから。いくらでも都合よく整えられてしまう。何なら、わざとじゃなくても記憶の改変が脳内で行われてしまったら、さほど悲しくなくても「あの時悲しかった」と本人が言うならそれは事実として書かざるを得ない。

事実って、本当に一つなんだろうか。

今回の妄想で、

「私は事実すら一つではないんじゃないかとヒヤリとした。」
これは、まごうことなき事実である。

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