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短編小説:ああ恥ずかしき十一の蜘蛛(全文)

 蜘蛛の足
 初めて光る
 下腹部に
 ああ恥ずかしき
 十一の虫
 
 小学校五年生の子どもが作った短歌を声に出して読んだ時、山岡健太は鳥肌が立った。

 夏の季語である「蜘蛛」を使った発句にまず心動かされた。第二次性徴期を迎え戸惑う心情を大胆に表現できていると思った。一番気に入ったのは結句にある「虫」だった。陰毛が生えた恥ずかしさから、蜘蛛より小さい生き物になりたいと願う気持ちが伝わってくる。男の子から男へ。女の子から女へと、歩み出した先には蜘蛛の糸が何十にも張りめぐらされていると感じた。

 山岡は東北地方の新聞社に勤める。入社七年目。年が明けると三十歳になる。文化部に在籍し、文芸を担当する。毎月一回新聞に掲載する「読者文芸」欄を任され、県を代表する歌人・俳人と協力して、十首・十句を選び紙面で紹介する。うち特選の各三つには評を付ける。東京の大学で現代日本文学を専攻したとはいえ、文芸担当になるまで短歌や俳句を作ることも鑑賞することもなかった。

 読者の投稿作品に対して山岡がまずしなければならないことは、「パクリ」でないかどうかを見極めることだ。創意が感じられず、短歌の技法である「本歌取り」などとは言えない作品はふるい落とす。パクリや盗作が紙面掲載後に発覚すれば、伝統ある「読者文芸」欄の信頼は傷つき、投稿者は激減するだろう。場合によっては選者の責任問題に発展し、欄の存続が危うくなるかもしれない。それだけ山岡の責任は重い。

 評者に選考をお願いする候補作については、慎重を期す必要がある。短歌は上の句、下の句を、俳句は上五、下五を別個にインターネットの短歌・俳句語句検索サイトと関連資料などで山岡自身が調べ、オリジナリティーを確認する。少しでも疑問があれば、地元の大学の教員に尋ねる。候補作は山岡と上司のデスク、部長の三人が決め、選考委員会に諮る。

 苦労のかいがあってか、「読者文芸」欄は好評だ。

 七月末に紙面掲載する作品は投稿の受け付けから、パクリの内容点検、下調べ、文化部内の候補作決定まで作業は順調に進んだ。最後の選考員会で、「蜘蛛の足」の短歌は真っ先に選者から取り上げられた。歌人の馬場久子先生は「ようやく姿を現した性のおどおどろしさ、みずみずしさがバランスよく同居する」と指摘した。同じ歌人で文学者でもある菱田一郎先生は結句にある「虫」について、「『虫』は蟻のことだろうね。蜘蛛は蟻を食べる。性という蜘蛛に蟻の自分が食べられてしまう恐怖を表していると言っていい」と述べた。

 菱田先生によれば、蜘蛛と対で使われることの多い「巣」を結句に持ってこなかったのが秀逸らしい。性という「巣」に絡め取られる少年少女をイメージさせるのでは想定内の予定調和である。それよりも、性(生命)の神秘を前に人間といえども「小さな生き物」の「虫」にすぎないと言い切った方が、イメージは宇宙大に広がるという。

 作者は「短歌歴七カ月」の小学五年生、鈴木すばる君と山岡から説明を聞き、選者の二人は目を丸くした。「わたしも、うかうかしてはいられない」と馬場先生は真顔で言った。「両親から指導でも受けているのだろうか」と菱田先生は山岡に尋ねた。
選考委員会の前に投稿フォームに記されていた連絡先を通じて本人とやりとりした内容を山岡は伝えた。

 「市内の芝園小学校に通っているそうです。幼稚園の年中組の時に始めたプログラミングが一番の楽しみで、将来は人工知能(AI)の研究者になりたいと話していました。両親は物理化学研究所の付属機関で働いています。両親に短歌・俳句の投稿歴は残念ながらありませんでした」。山岡はそう述べたあと、「馬場先生、菱田先生、すみません。個人情報ですので他言無用でお願いします」と付け加えた。

 七月末の朝刊紙面「読者文芸」欄に、「蜘蛛の足」は馬場先生の評と共に掲載された。特選の筆頭に置かれていた。

 「性の目覚めは嵐のようにやって来る。男の子から男へ、女の子から女へと変わる第二次性徴期は驚きと不安の連続である。戸惑いと羞恥心、混乱と抵抗の繰り返しである。自分では制御できない嵐に目を開き、嵐の声に耳を澄ます時、どのような歌が立ち上がってくるだろう。大人たちを見舞ったかつての嵐を誰も振り返らない。その嵐を思い起こさせる『蜘蛛の足』である。蜘蛛と性と宇宙の神秘が、そこでは一本の蜘蛛の糸で繋がっている。豊穣の一首である。——馬場久子——」

 辛口の馬場先生が珍しく絶賛していた。

鈴木すばるは何者か。歌人の卵か。指導者・先生は誰か——新聞社に問い合わせが殺到した。騒ぎは県境を越えてネットでも話題になった。照会のたび、山岡は個人情報を理由に答えられないと言い続けた。ほとぼりが冷めるまでに三週間がかかった。

 八月の「読者文芸」欄の準備に入った。中旬すぎにすばる君から電子メールで投稿があった。

 例年、八月は力作がそろう。九月に開かれる県民文化祭で年間優秀作が発表されることと関係する。九月から翌年八月までに投稿された作品の中から三つを選び、さらに一位から三位までの順位を決める。八月投稿の作品は直近の時世を反映させているから印象度が大きく、上位に食い込む。エントリー締め切り直前の封切り映画が米アカデミー賞で受賞するのと同じ仕組みである。

 すばる君の短歌を声に出して読んだ。何とも不思議な感じがした。

 天の川
 ああジョバンニよ
 流れいく
 まことを知らず
 ノアの箱舟

 宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』をモチーフにしているのは明らかだった。すばる君の通う芝園小学校で教師の体罰により児童が重傷を負う事件があったことと何か関係があるのかもしれないと山岡は推測した。

 八月末の朝刊「読者文芸」欄も、すばる君の短歌が特選の筆頭を飾った。二カ月連続の筆頭は珍しい。選者が特定の投稿者に肩入れをしていると疑われないよう、公平かつ厳しく選考に当たっている。それでも結果は『天の川』、だった。

 評は菱田さんが執った。

 「夜に歌を詠まなくなって随分たつ。日中に詠む歌が希望の歌なら、夜に詠むのは絶望のそれだろう。年を重ねて絶望することがなくなってしまったのだろうか。そんなはずはない。絶望こそが希望を光に導いてくれる。この歌が心を揺さぶるのは、ノアの箱舟に乗ったカンパネルラ(ひょっとするとジョバンニかもしれない)がいつまでも流れ漂うからだ。箱舟は希望へ向かうのか、それとも絶望へ向かうのか。『まことを知らず』なのだから、絶望なのだろう。しかし真実を知らないことで見えてくる希望もある。さあどちらか。読者は揺さぶられ不安にさらされ続ける。—菱田一郎——」

 すばる君は短歌や俳句、文学が特に好きだというわけではない。関心があるのはゲームプログラミングだ。そこそこのストーリーやアクションを取り入れたスマホゲームのソフトなら、苦もなく開発できる。両親が研究を進めている小説を自在に作り出す生成人工知能(AI)にも興味を持っている。両親との会話からディープラーニングを使った短歌・俳句生成AIを作りたいと考え、ソフトを試作している。新聞に投稿したのはこのソフトが自動で詠んだ二首だった。
 
 「読者文芸」欄を任されている山岡が「すばる君の歌はAIのなりすましである」と知らされたのは、秋風が立ったころ。一通の匿名の投書が新聞社に届いたのがきっかけだった。実はこの投書も、AIが作成したものらしかった。山岡は頭を抱えた。そして「読者文芸」欄が廃止になることを覚悟した。「すばる君は十一の虫だったよな。十一は忌数だ…。いまさら言っても遅いか」。掌にかいた汗が冷たいのを山岡は気づかなかった。
                               (了)                                                                                           

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