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オーストラリアでのワーキングホリデーで気づいた、シンプルに生きるコトの大切さ

大学4年に上がる際、周りが就職活動に励んでいる傍、一人歩みを止めて休学してオーストラリアにワーキングホリデーに行ってきました。オーストラリアから帰ってきてから約1年が経とうとしている今、僕がオーストラリアで感じたことを書き留めておこうと思う。

留学ではなくワーホリを選んだ意味

「留学」が一般的になった今、短期であれ長期であれ、留学に行ったことのある人というのは多いと思う。僕が留学ではなくワーキングホリデーを選んだ最大の理由は、「海外に行こうかな」と突然思いついたから。留学は準備が必要だけど、ワーホリならビザさえあればいける。現地で就労してお金を稼ぐこともできる。なんとなく目の前に迫り来る「就活」をする気が起きなかったという理由だけで歩みを止めた僕にとってはワーホリはぴったりだった。だから、ワーホリに行くことにした。

オーストラリアにしたのは、ビザが一番取りやすかったから。学校に行かなければ、健康診断もいらない。貯金証明もいらない(当時はいらなかった)。趣味であるスケートボードも盛ん。文句なしの条件だったので、インターネットでビザを申請した。1分でおりた。オーストラリア行きが決まった。

今思えば、オーストラリアなら学生ビザでも就労できるし、オーストラリア以外の国へ行くなど、他の選択肢の検討も不十分だったと思う。でも、そのことに対してまったく後悔はない。その理由は、結果としてオーストラリアで大切なことにたくさん気づけたから。そして、日本で自分が抱いてきた違和感が正しかったと実感できたから。このnoteはオーストラリアで僕が感じたことをだらだら書いていく。付き合ってくれる人がいたら嬉しい。

一人だと寂しい。周りにいる人は大切にしよう

僕はアルバイトで貯めた100万円と、若干の荷物と、航空券のチケットと、1週間分の宿の予約だけ持ってオーストラリアへ向かった。

オーストラリア生活の初め、生まれてからずっと実家暮らしだった僕にとっては、自分の料理がまずいから食事が楽しくないとか、炊事洗濯など自分のことを自分でやるっていう当たり前のことで疲れるとか、1週間後の家が見つからないとか、色々大変なことはあった。

しかし、それらがしょーもないと思えるほどに僕が強く実感したのは「寂しい」ということだった。オーストラリアについた当初、僕の一日はスケートボードと家探しだけで終わっていたのだが、泊まっていたのがバックパッカーだったこともあって周りがヨーロピアンばかりで、日本人どころかアジア人の顔も見当たらなかった。今思えばただめちゃくちゃに視野が狭いだけでそこら中に日本人もアジア人もたくさんいたのだが、当時生活することで精一杯だった僕には見えていなかった。その時の僕の感情は「寂しい」ただそれだけだった。

到着して4日目で人生初の強烈なホームシックを覚えた僕は、スケートパークで滑っている時もアジア人の姿を目で探し回るくらいだった。時間が経てば日本人の友達も、それ以外の国の友達も、オーストラリア現地の友達もたくさんできた。だけど、この時「寂しい」と感じたおかげで、自分の周りにいる人の大切さが実感できたと思う。

海外に留学する人で、日本人を避ける人がいる。たしかに、語学を目的とした留学なら日本人は周りにいない方がいいかもしれない。でも、それはなんだか寂しい考えな気がする。日本の人と、違う国で偶然出会う。これって素敵なことだと思うんだけどな。少なくとも僕は、オーストラリア生活に慣れていない頃、家に帰ったら「おかえり」と日本語で言ってくれる人がいてとても嬉しかった。

ノーラベルな生活

これは結果として気づいたことだけど、オーストラリアについたばかりの僕は現地で肩書き(ラベル)と呼べるものを持っていなかった。学校に行ってないから学生ではないし、職も見つかってなかったので職場もない。僕は日本では名の知れた大学に通っていたけれど、オーストラリアでは誰もそんなの知らない。つまり、僕はただの何してるかわからないアジアンだった。

僕のことを知っている人はいないから、僕のキャラクター、性格を知っている人なんてもちろんいない。だから、僕は全てを一から作り直すことができた。

ただのよくわからないアジアンが、話してみるとjapaneseだってことがわかる。毎日スケボーを持ってるから、スケボーが好きなんだなってことがわかる。毎日同じスケートパークで出会うから、こいつはこの辺に住んでるんだなとということがわかる。こいつはこの技が得意なんだな...そういう風に周りが肩書とかラベルではなく、僕のことを「僕自身」として捉えて受け入れてくれている感覚が確かにあった。すごく当たり前なことだと思うかもしれない。

でも、日本に住んでいる日本人で、自分の経歴や自分の周囲に対してのキャラクターに縛られていない人なんていないし、「いい大学」に通っている人や「いい会社」に勤めている人に会うと、その人のことを何も知らなくても「すごい人」なんだなあと思ったりする。これは、先ほどの「僕自身」を見てくれている感覚とは真逆の感覚にあたる。

この「ノーラベルの生活」は、奇しくも僕がテキトーにワーホリを選び、学校にも通わなかったから遭遇した出来事だ。言い換えれば、所属する共同体が何もなかったからこその生活だったと言える。語学学校に通えばレベル別のクラスがあり、語学力でレッテルが貼られるしね。

僕は留学をしたことがないから、留学とワーホリを比べてどうこう言うつもりはない。けれど、この全部のラベルを取り去った生活って、ワーホリみたいな気軽なビザでの海外生活以外でそうそう味わうことは難しい。そういった意味で、とりあえず「留学」をする前に、ワーキングホリデーを選択肢に入れてみてもいいんじゃないかなあと思う。

人と人との関係の根本にあるもの

「ノーラベルの生活」はそのまま「所属する共同体がない生活」だったことはすでに書いた。所属する共同体がないということは、自ら働きかけなければ友達は永遠に0のままってこと。正確に言うと一緒の家に住んでるとかそういった共同体はあったけど、学校や職場っていう放っておけば他人との関係値を高めてくれる共同体は存在しなかった。

そんな状況の中で、スケートボードや路上での出会いとか、そうして出会った人たちの紹介で友達をつくっていった。そうしたリセットされた原始的人間関係の中で僕が感じたことは「人と人との関係の根本にあるのは、相手をspecial oneだと認めること」、言い換えると「相手のために何かをすること」だってこと。これまた当たり前のことだって思うと思う。でも、ずっと日本にいてこのことに気づくのは僕には難しかった。

相手のために何かをするってことはイコール相手に「君は私にとって特別だよ」って示す行為だ。そして、相手を「特別」だと示す行為は意外とシンプルな行動だったりする。相手の顔と名前を一致させること、相手と一緒に時間を過ごすこと、困っている時に助けてあげること...これら全部が「相手のために何かをする行為」、つまり「相手を自分にとってspecialだとアピールする行為」で、人と人との関係ってこれの積み重ねでしかない。

僕はオーストラリアで仕事で利き手の指の腱を切って入院したことがある。手術が終わっても、身元引き受け人がいないという理由で家に帰してもらえなかったが、エリンという友達に電話したら迎えに来てくれて、僕は家に帰ることができた。それだけでなく、彼女は僕の身の回りに必要なものの買い出し、医療専門用語だらけの書類の説明など、僕のためを思ってたくさんのことをしてくれた。だから僕も、彼女が何か困ったことがあったら絶対に助けようと思った。日本に帰るまでにそんなことは起こらなかったけれど笑

人と人との関係は「その人のためにしたこと」の上に成り立ってる。そんな簡単なことにオーストラリアまで行ってやっと気づきました。

やらなきゃいけないことなんて何もない。シンプルな生活

オーストラリアでの僕の生活はシンプルだった。やらなきゃいけないことなんて何もない。今日しなきゃいけないことがあったとしたら、明日する。好きなスケボーをして、考えることは今日の夕飯何をつくるかと、家のビールがなくなっていないかだけ。

そんな僕の行動の動機もシンプルだった。「したいから、する。」もちろん、オーストラリアで仕事はしていたし、仕事が好きでもなかった。でも、貯金が十分にあったからやめたかったらやめちまえばいい状況ではあった。イヤイヤ言いながら、結局は「働きたいから」働いてたことになる。

僕の周りにもそんな人が多かった。日本人でワーホリなんてくるのは割とお気楽な人が多い。僕よりだいぶ年上のスペイン人はオーストラリアで大学生をやっていた。料理人をやっていたけど勉強したいからやめたらしい。スケートパークにいたスケーターはフルタイムの仕事ではなく、カフェのアルバイトで生計を立てていた。スケボーをする時間が十分に取れていい仕事らしい。

彼らに共通していたのは「やりたいから、やる」というシンプルな動機を持って生きているということ。それは、スキルや資格さえあれば何歳からでもチャンスがある社会のシステムに起因している気がする。選択肢が多く、自分で選び取る力を持っているから、「やりたいから、やる」生き方ができる。それは裏を返せば実力主義な社会を意味するが、「大学を出たらすぐに就職しないと入れる会社が限られます」なんてよくわからない仕組みは彼らの社会にはない。日本には人の自由な選択を妨げる外的要因が多すぎるし、また自由に選べる選択肢があってもそれらを自分で選べる能力を持っている人は少ないんじゃないかと感じる。

なんにもしなくていい状況になった時に、何をするのか。それがその人が本当にやりたいことな気がする。やらなくたっていいことこそに価値がある。だから、僕はキャリア大好きマンが大嫌いだ。仕事という「生きる糧」として必要なこと、多くの人がするメインストリームなことでうまくいくことを正義だと盲信し、周りにそれを押し付けるからだ。いろんな生き方があったっていい。むしろあったほうがいい。

最後に

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オーストラリアから帰ってきて、友人と「自分たちのカルチャーに共感する人たちで集まれたらいいね」という話から、ダンチブロードキャスティングというWEBサイトを立ち上げました。僕らがおもしろいと思うもの、考えていることを言語化し、発信する基地みたいなもの。

似たようなものを「おもしろい」と思う人たちが集まれば、もっとおもしろいものができるんじゃない?そう思って日々発信してます。

そんなダンチブロードキャスティングのコンセプトは『ABOUT Danch Broadcasting』というページでちょろっと解説してあります。読んでくれたら嬉しい。ちなみに、上のイラストはオーストラリアでエリンとよく遊んだ家の中をモチーフに描いてもらいました。描いてくれたイラストレーターはエノシマナオミさんです。ガーリーでとっても可愛い絵を描くイラストレーターさんなので、よかったら彼女のインスタグラムも覗いてみてください。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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