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シカゴ大学ビジネススクール教授から学ぶ『わかり合えない』の科学

あの人のことが理解できない、なんでわかってくれないの‼︎

「あの人のことが理解できない」、「なんでわかってくれないの‼︎」、そんなことをそんなことを日常の中で思うは人は多いと思う。家族や友人、恋人などの配慮のない行動だったり、言動だったりに時に理解不能になってしまうあの瞬間である。

かく言う僕も例外ではなく、気にかけた人の配慮のない行動に腹を立てたり、好意でもない行動や言動を好意と勘違いして後々気まずくなったりなど今まで数え切れないほどの、「あの人のことが理解できない」、「なんでわかってくれないの‼︎」と言う思いを経験してきたし、自分の行動や言動が理解不能や配慮がないと指摘されたことも同じくらい多くあると思う。もしかしたら指摘されないだけで、現在も周りの多くの人を理解不能にさせているかもしれない。

ふと思う、こういった思いの発端となる「わかり合えない」と言うのはなぜ起きるのだろうか。そしてそれを解消する方法はあるのだろうか。その謎に答えてくれるのが、ニコラス・エイブリー『人の心は読めるか』である今回は、この本をもとに、私たちが日々抱く、「わかり合えない」と言う思いの原因、そしてそれへの対処法を考察していきたいと思う。

なぜこんなにもわかり合えないのか

なぜ僕らはこんなにもわかり合えないのだろう。そして、人に分かってもらえないのだろう。それは、僕らが陥りがちな3つの認識のエラーに起因しているとこの本では言う。それは、自己中心性、ステレオタイプ、対応バイアスである。

わかり合えない原因1:自己中心性

過去の研究によると、人は物事を自己中心的に見て、考える傾向があるカップルに関係性におけるそれぞれの貢献度を見積もってもらった時、相手の見積もる貢献度よりも自分の見積もる自分の貢献度が大幅に上回る(貢献バイアス)自分の姿や失敗が他人の目に多く入っていることを思いがちであるが、実際はその半分程度しか見られていない。物事や現象の解釈はその人が持っている知識や育ってきた環境、専門分野などに大きく依存するなど、私たちは他人の視点に立って考えるには、難しい障壁が多くある。

実際、自分が貢献したと思っていても、他人はそれを低く見積もっており、かつ自分の行動や言葉が他人に影響を与えていると思ってもさほど与えていなく、自分が他人にやっていることや言った言葉についての解釈も、その他人がこれまでどう言った環境で過ごしてきたかや、何を勉強しているかによって異なるのである。

つまり、自分も自己中心的で他人も同様に自己中心的であるので、自分がやっていることや言ったことに載せた思いや考えが他人に伝わることは少なく、そして他人のそれについても自分が他人の狙いや思い、考えとは違った解釈をしている可能性が大きいのである。

わかり合えない原因2:ステレオタイプ

人間はステレオタイプに基づく判断をしがちである。この本で紹介されている典型的なものとして男女の違いがある。歳をとると頑固になる、女性は協調を好み、男性は競争を好むなど、脳にはその人の情報の少ない段階において、その人の情報を過去の経験や、社会的規範などから導き出し、ステレオタイプによって埋め合わせる機能がある。

しかし、ながらそう言ったステレオタイプは間違っているものも多々ある。例えば、歳をとることをプラスに考えている人は同年代の人と比べて認知の衰えが低いし、男女の選好の差だってほとんどが同じとされている中で、少しの違いがでた研究がフォーカスされているにすぎないのである。その人をステレオタプに基づいて判断をすると、違っていることが多くあるのである。

私たちの脳は、情報をステレオタイプによって埋め合わせようとするため「〇〇の人はこうだから、こうすれば喜ぶだろう」、「〇〇の人はこうだから、こうすれば喜ぶだろう」と判断したその判断がステレオタイプに基づく判断だったりして、実際の相手の心や考え方はもっと複雑で、多様であることがよくあるのである。また逆の立場をとってみても、人から「〇〇ってこうだよね。」とか、「〇〇の人ってこう」と自分をジャンルの中の一部として認識された時、「違うのになあ」と腹立たしく思うことはないだろうか?

つまり、私たちは知らず知らずのうちに相手をステレオタイプによって判断し、そして自分もステレオタイプによって認識されていていることがよくあるのだ。


わかり合えない原因3:対応バイアス

対応バイアスとは、人の行動は全て、考えや思い、性格に対応していると認識してしまうことである。もちろん、考えや思いが行動に現れることがあるのだが、全てがそうではない。対応バイアスの問題は、人の行動が全てその人の考え、思い、性格が対応していると考えしまうことにある。

例えば、多くの人通りがある市街地で心臓発作で倒れた場合、他の人が一人だけいる公園で倒れた場合よりも発見されるのが遅いだろう。これは、多くの人が冷酷なのではなく、多くの人が見過ごしていると言う状況において、同じ見過ごすと言う行動をとってしまうと言う人間の性質によるのである。また、学力水準が低いことや所得水準が低い、失業などはその人が怠惰であるからだとみられがちだが、実際はそもそも家庭の教育水準が低かったり、機会平等に事足りるような分配を受けられていなかったりと言う社会構造や環境的な要因が背景にあることが多い。人の行動は考えや思い、性格に対応していることがあるが、対応していないことも往々にしてあるのである。なぜならば、私たちの行動は暮らしている社会の環境、周りの影響と言った文脈依存のような側面もあるからだ。

ただ、私たちは人の行動が全てその人の考え、思い、性格が対応していると考えがちで、その人が既読無視をしたら、その人は私を嫌っていると思うし、逆も然りで、夏目漱石の「三四郎」に出てくる三四郎のように一度異性がそれっぽい言葉をかけただけで自分に好意があると勘違いをするしかし、既読無視することは、その人が忙しいからかもしれないし、適切な言葉を選ぶために考える時間を作っている、そしてただ単純に既読をつけて忘れているだけかもしれない。そして、異性がそれっぽい言葉をかけてくるのは、先に紹介した自己中心性の問題かもしれないし、ただ単純に男性であれば忙しいや空腹などの状況、女性であれば排卵日などの生理的な問題でそれは一時的なものかもしれない。

その人が置かれている文脈を踏まえずに、行動によってその人の思いや考え、性格を判断すると言うのは私たちの文脈依存的な行動を捉えられていないので、他人について誤った判断や認識をしがちなのである。また私たち自身の行動を振り返ってみても、そう言うつもりでしたわけではない行動や無意識のうちにやった行動が誤解されると言うことはよくないだろうか?


こんなにもわかり合えない私たちはどうやってわかり合うのか?

こんなにもわかり合えない原因を説明し、わかり合うことに対して些か絶望的であるが、以下では、この本で紹介されていた、わかり合えない中でもわかり合う方法について3つの方法について紹介したい。それは、わかり合えないことを認識する、直接聞く、相手の置かれている文脈を見ることであるである。

わかり合うためのTips1:わかり合えないことを認識する

上でも紹介したように、私たちは思ったよりも他人とわかり合えない。なぜならば認識上のエラーがあり、他人を誤解するし、自分も誤解されるからである。そうであるならば、いっそのことそれを受け入れてしまった方が良い。わかり合えると思って相手を勘違いしたり、勘違いされ、絶望するよりも、いっそのことわかり合えないと割り切ってそれを前提に物事を進めた方がダメージが少ないのである。そして、そこからわかり合いたければ以下の2つのtipsを使ってみると良い。

わかり合うためのTips2:直接聞く、直接言う

上でも紹介したように、私たちは、他人の考えや思いについて、自分一人で判断したり、その人の行動や特徴などから判断しようとすると思わぬ誤解を招く。であれば、いっそのこと直接聞いてしまった方が早い。自分に何をして欲しいか、そのことについてどう思っているか、何が好きで、何が嫌いで、どう言うことに価値を置いているかなど、自己中心的でステレオタイプのかかったレンズで見るよりも、精度が高いはずである。そして、また逆もしかりで自分が何をして欲しいか、何が好きかなど直接言ったほうが相手に察してもらうことを待つよりも、精度が良いはずである。

実際に、そう言った互いの思いや考えを伝えられるアサーティブなチームやカップルほど継続性があり、成果が出やすいことがわかっており、やはり、読心や無言の共感に頼るよりも直接聞いたり、言ったりした方が正しくわかり合うと言う面ではより効果的である。

わかり合うためのTips3:相手の置かれている文脈を見る

上の対応バイアスのところで、人は他人の行動について、その人が置かれている社会や環境などと言った文脈を軽視しがちであることを紹介したが、それを解消するためには相手の置かれている文脈、そして状況も踏まえて相手の行動について、判断することが必要だろう。

理解不能な行動や言動はその人が置かれている状況や環境を踏まえてみると理解できることもあるし、またそれでも耐え兼ねる場合tips2であるように、その思いを伝えたり、直接聞いたりすれば良いのである。

まとめ

今回は、ニコラス・エブリー『人の心は読めるか』から、私たちがこうもわかり合えない理由、そしてその中でもわかり合うためのいくつかの方法を紹介した。

まとめると、私たちは、自己中心的な物事の見方をしがちであり、わからない情報はステレオタイプを使って埋め合わせ、そして全ての行動を考えや思い、性格の現れだと思って認識するために、他人を誤解するし、自分も誤解される。

そして、その状況を解消するためのせめてもの救いは、わかり合えなくて当然だと思うこと、直接聞いたり言ったりする事、相手の置かれている文脈を見る事である。

最後に、この知識を一文でまとめてくれているエッセイの一節を紹介して終わりたい。

「人間は分かり合えなくて当たり前」と思うことが、かえって、不安を減らし、理解にたどり着つく可能性を高める、と僕は思っているのです。(鴻上尚史『孤独と不安のレッスン』)

分かり合えないけど、一緒に笑えて、一緒に泣けて、一緒に思い出を作れることは、分かり合えることよりも尊いのではないかとふと思うのであった。

【参考、参照文献】

ニコラスエブリー『人の心は読めるか?』、波多野理彩子訳、早川書房、2015年。

鴻上 尚史『孤独と不安のレッスン』、だいわ文庫、2011年。

【ダクト飯他記事】


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