この物語をマイケル・チミノとベルドナルド・ベルトルッチとテレンス・マリックとブライアン・デ・パルマとミロス・フォアマンとダルのどを愛した人々すべてに捧ぐ

プロジェクト基本

企画案提示

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!ここまで企画案に隙が無いとはな?企画案表示ここまで来てデカい儲けだと思わない奴は無能以下の岡田斗司夫や庵野秀明や関弘美や大塚雅彦や宇佐義大や近藤光や安見香だ!合法的に超ロリの裸がありしかもSEXだおまけに大乱交ありでバトル魔法少女アニメでプリキュアでスタンドバトルありで格闘技要素ありでガンアクションもある子供番組にも出来るポリティカルフィクションも出来る美味しい企画だろう?字じゃわからん?「お前!一発殴れ!」その領域だ。字だから具体性が出るんだ。史上最悪のヒモ以下の鷲羽大介はこれも出来もしないで自称の業界自慢だ!そうだよ。グッズ出し放題で関連商品確実に売れるなぁ?特に海野あきらとファビオラ・マリセーはバカ売れだよ?海野あきらとファビオラ・マリセーって高校生でも萌えるよなぁ?二人ともライバル兼大親友でポニーテールの右の八重歯が特徴の男装の元気幼女とブラジル人の褐色の腰まである新緑のロングの髪でカチューシャ付けて左の八重歯が特徴のメイド服の幼女で二人とも格闘技優勝者で恥ずかしがり屋さんで純情なの?これで萌えないバカいないだろう?スポンサーが名乗り挙げたがスポンサーの一人で莫大な出資するスポンサーに海野あきらとファビオラ・マリセーの商品化の権利任せたい。コメント欄に我こそはというスポンサーは海野あきらとファビオラ・マリセーを商品化したいと書けば良いだけだ。これもグッズ・担当の仕事」

青が基調の奇怪な衣装を着用し、左肩には長い黒色のマントを身につけ、黒いロングブーツを履いたチーフプロデューサーはラッキー ストライク リッチに火をつける

「チーフプロデューサーのリストルだ!『HUGっと!プリキュア』のリストルのような服装で具体化しただろう?そう企画には具体化が必要だ!だからメイキングを秘書に残させてるんだ。具体化の過程が残るからな?何故言う?親切だから言わせてもらおう、タダほど高いものはないんだ。具体化してもらおうか?表示」

この物語をマイケル・チミノとベルドナルド・ベルトルッチとテレンス・マリックとブライアン・デ・パルマとミロス・フォアマンとダルのどを愛した人々すべてに捧ぐ

「文芸部です。文芸部はこれで儲けます!ダルのど?愛した?人々です!署名は不可能です。ネットでの極一部の盛り上がりです。所詮はね?.....でもそれは武器になります。使えばいいだけです。先に言ったり書いたもん勝ちです」

ゴッド&モンスター 美女のキュアグレースこと花寺のどかは野獣のダルイゼンを赦し愛することが出来るのか

「文芸部です。文芸部はこれでアリバイ作りは成功です!一貫です。しかも」

2020/10/11 10:12

「文芸部です。これで創作可能です。著作権成立です。しかも」

この物語をマイケル・チミノとベルドナルド・ベルトルッチとテレンス・マリックとブライアン・デ・パルマとミロス・フォアマン

「文芸部です。文芸部はこれはオリジナルと言います。証明できますか?アートから超大作やエンターテインメントや死屍累々の作品です。指摘は不可能です。」

心の指紋

「文芸部です。文芸部はこれで祝杯可能です!この心の指紋のタイトルではタイトルの意味すら分かりません。決め手を出してあえて放置です。」

心の指紋
31

ダーク・ディグラー
2021/04/09 00:17

物語のコンセプト
『ヒーリングっどプリキュア』のテーマを全否定しつつ物語を『ロミオとジュリエット』の許されざれる恋に『美女と野獣』のハッピーエンドのように構築して性愛の中に大人社会からのドロップアウトの純愛と罪と罰を突き詰めて即ち愛はすべてを救いにしつつその愛は神すらも揺り動かしのように男女の性愛のユートピアがキーで二人の純愛を中学一年生と言う思春期前の少年少女が運命の流転を試されるが如く止まらない愛がSEXと言う形に結び付くが敢えてハードコアポルノの要素がある物語でこれはチャイルド・ポルノと叩かれても仕方ないが憎しみが愛になっていき性としてでしか止まらずにSEXとして結び付きSEXを超えた心と心の結付きだからその愛が創造主を凌駕して全宇宙の理が変わっていく物語でどうしてもSEX要素は欲しい。

タイトルの由来はマイケル・チミノ監督の事実上の遺作『心の指紋』から心の指紋としたのは指紋は同じ形が全くあり得ないように心も同様で全く同じがあり得ないからである。

即ち心が指紋の如く合ったへインと高寺のどかが余りにも心が合い過ぎた宇宙の理を超えたトゥルーカップルの意味。

最後に流れる曲はゲイリー・ライトの『夢織り人』

「文芸部です。文芸部はこれは草案です。隠してもいいですが飛び付かない方が悪です。これも説明出来ない。概念です。精神です。しかももう公開です。著作権発生です。しかもネットです。著作権発生です。しかもネットです。YouTube動画ですが音声と音楽とニュース映像と広告とバラエティー番組やMTVや証言提出の感想動画のみ使用目的が成立しました。カラオケや名称や場所や全部です。超ロリコンエロハーレムの必然性ありです。本番で中出しで妊娠前提のSEXで政治やおちょくりもOKです。親分と子分のBLです。燃えて萌えるやマジでガチサイコーです。使われる単語は著作権成立です。例えはニュース映像やバラエティー番組やMTVや漫画やアニメやゲームや映画や音楽や特撮や文学もう無尽蔵以上だ!これが著作権です。依頼主これを公表しました。確認します。2021年(令和三年)6月23日午前3時この時点で著作権成立です依頼主のダーク・ディグラーはこれを公表しました。確認します。保存です公開予定は2021年6月23日午前3時です。この時点で著作権成立です」

青が基調の奇怪な衣装を着用し、左肩には長い黒色のマントを身につけ、黒いロングブーツを履いたチーフプロデューサーはラッキー ストライク リッチに火をつける

「チーフプロデューサーのリストルだ!『HUGっと!プリキュア』のリストルのような服装で具体化しただろう?そう企画には具体化が必要だ!これが具体化だ!次は心の指紋プロジェクト 基本 応用でこの文を表示する言うだろう?タダほど高いものはないと使いたければ使うがいいアイデアはタダだ。だがタダほど高いものはないぞ?」

https://note.com/dakudhigura/m/mcf7b2e0acade

https://note.com/dakudhigura/m/m12dea790165b


ダーク・ディグラー

この物語をマイケル・チミノとベルドナルド・ベルトルッチとテレンス・マリックとブライアン・デ・パルマとミロス・フォアマンとダルのどを愛した人々すべてに捧ぐ

著作権発生です。

しかもネットです。

YouTube動画ですが音声と音楽とニュース映像と広告とバラエティー番組やMTVや証言提出の感想動画のみ使用目的が成立しました。カラオケや名称や場所や全部です。超ロリコンエロハーレムの必然性ありです。

本番で中出しで妊娠前提のSEXで政治やおちょくりもOKです。親分と子分のBLで百合友情です。

燃えて萌えるやマジでガチサイコーです。

使われる単語は著作権成立です。例えはニュース映像やバラエティー番組やMTVや漫画やアニメやゲームや映画や音楽や特撮や文学もう無尽蔵以上だ!これが著作権です。

ダーク・ディグラーはこれを公表しました。

確認します。

2021年(令和三年)6月23日午前3時この時点で著作権成立です。

著作権が発生成立した2021年(令和三年)6月23日以降の著者の著作権侵害は著作権違法なので反社会的勢力とみなして一京七千兆億円以上請求します。

この著作物の無断使用及び違反した場合は著者の著作活動を妨害した場合著者は著者の著作活動の妨害即ち著作権侵害した場合は、個人や団体等の国や企業や宗教団体等の小国から超大国や国連や零細や超巨大企業や巨大宗教団体や新興宗教団体なども反社会的勢力とみなして一京七千兆円以上請求します。

編集してるとはいえ2021年(令和三年)6月23日に著作権が発生成立してるので2021年(令和三年)6月23日以降の著作権侵害と著者の著作活動の妨害は著作権法違法なので著者の定義の反社会的勢力とみなします。

2021年(令和三年)6月25日にJR東海と愛知県警察中村警察署は著者の著作権侵害と著作活動の妨害を行いましたのでJR東海と愛知県警察中村警察署は著者に対して著作活動の妨害及び著作権侵害を確実に違反してしかもJR東海と愛知県警察中村警察署との間には共謀罪が成立しております。

共謀罪の定義は共謀罪は何かしらの犯罪の共謀それ自体を構成要件(ある行為を犯罪と評価するための条件)とする犯罪の総称。米法のコンスピラシー(Conspiracy)がその例である。日本の組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律(通称:組織犯罪処罰法、組織的犯罪処罰法)の「第二章 組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の没収等」に新設することが検討されていた「組織的な犯罪の共謀」の罪の略称。これを新設する法案は、一度2005年8月の衆議院解散により廃案。同年の特別国会に再提出され、審議入りしたが、2009年7月21日衆院解散によりふたたび廃案となった。2017年の第193回国会では、「共謀罪」の構成要件を改めて「テロ等準備罪」を新設する「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案」が内閣より提出され成立・施行されている

法が定義した共謀罪と著者の定義した反社会的勢力が完全に一致しましたJR東海と愛知県警察中村警察署です。著作権侵害でJR及びJRグループ及び愛知県警察中村警察署は一京七千兆億円以上請求出来ますのでご請求をお願いたします。

著者が無罪だと知って尋問監禁したのでJR東海と愛知県警察中村警察署は法における共謀罪は成立です。これは法律上反社会的勢力は完全に一致します。JR東海と愛知県警察中村警察署は著作権侵害と著者が定義した反社会的勢力そのものです。

JR東海と愛知県警察中村警察署は裁判がなくても著作権侵害は著者が著作物の提示をしたのにも関わらず著作権侵害と共謀罪を犯してます。無視したので裁判は不要で一京七千兆億円以上の請求は可能です。

JR東海と愛知県警察中村警察署は民事及び刑事の判決事例でも完全にJR東海と愛知県警察中村警察署は有罪なのは確定事項ですし共謀罪は国際テロリズムですので司法機関の一つの警察機構である愛知県警察中村警察署は警察機構の名称借りたテロリズム組織が愛知県警察中村警察署だと断定されても言い訳不可能です。しかもJR東海と繋がったのならば共謀罪のほかに民間組織鉄道会社との利害一致による癒着は確実です。

即ち汚職です。

著者が精神病だとしても愛知県警察中村警察署は言い訳不可能です。寧ろ愛知県警察中村警察署は精神病の人間を平然と尋問監禁するファシズム政権の秘密警察の象徴だと世間からバッシングされても文句は言えないのです。法律を知らない愛知県警察中村警察署が悪いだけです。

更に言えばJR東海と癒着してたと断定されても愛知県警察中村警察署が悪いだけです。それが民主主義国家の概念です

JR及びJRグループはこのように国際テロリズム加担した組織なので当然一京七兆億円以上の請求は可能ですから支払わなければ国際テロリズムに加担したとみなされ国際裁判は免れません。

文化庁の著作権の概念知らないJR及びJRグループと愛知県警察中村警察署が悪いだけです

しかもネットです。

世界中で見られてます。

調べないJR及びJRグループと愛知県警察中村警察署が悪いだけです。

2021年(令和三年)6月28日に警察が土足で部屋に入り著者を恫喝しました。これは警察機構の越権行為で恫喝で脅迫罪です。愛知県警が腐敗してる証拠です。警官による反社会活動です。警察日報調べれば誰か分かります。警察機構の完全な腐敗です。JRと警視庁と警察庁は著作者に謝罪会見しないと交通機構による官僚組織特に警察機構との癒着及び国際テロリズムの加担そして世界の警察機構の歴史に残る汚点になり警察機構が司法の名を借りた犯罪者集団と認知されるのは確定事項になります。カルロス・ゴーン事件の二の舞になります。

司法機関は警察機構を告発し腐敗一掃しないと警察機構は犯罪者集団と断定されます

そうそう自民党も公明党も維新の会も小池百合子もこの事実知らないのが悪いだけです


「文芸部です。ここが大事なので張ります。いつでも問題点言えるようにね 表示してください」

著作権法 (アメリカ合衆国)

30の言語版

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

とくに1976年のものについては「英語版:Copyright Act of 1976」をご覧ください。

この記事は特に記述がない限り、アメリカ合衆国の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。

アメリカ合衆国著作権局が2004年から使用しているロゴ

アメリカ合衆国の著作権法 (アメリカがっしゅうこくのちょさくけんほう、英語: Copyright law of the United States、以下「米国著作権法」) は、文芸映像音楽美術ソフトウェアなどの著作物と、その著作者などの権利を保護するアメリカ合衆国 (以下、米国) の法律である。米国民の創作した著作物だけでなく、米国内に流通する外国著作物や、世界のインターネット上に広く流通するデジタル著作物にも米国著作権法は適用されうる[1]

1970年代以降、特にメディアエンターテイメントやIT(情報技術)といった著作物に関わる米国の主力産業が世界的に興隆しており[注 1]、2017年時点での狭義の米国著作権市場[注 2]は1兆3000億米ドルに達し、米国GDP全体の6.85%を占める巨大産業を形成している[注 3]。このような社会的・技術的な変化を受け、米国著作権法は頻繁に改正されているものの[注 4]、十分に追いついていない。また世界的に見ても米国著作権法は主流から外れ、他の先進国よりも著作権保護の水準が低い状況が長らく続いており、国内外から批判の声が上がっている[7][8][9][10][注 5]

さらに、米国内では著作権侵害を巡る訴訟も多く発生していて、2008年からの10年間に毎年3000件前後が新たに提訴されている[12][13][14][注 6]。これら訴訟の原告側には米国外の企業や個人も含まれていることから、国際政治上の問題としても注視され[注 7]、著作権に関する国際条約を通じて、米国と他国の著作権法の足並みを揃えることも長年の課題となっている。

このような文脈も踏まえながら、合衆国法典第17編 (17 U.S.C.) に1947年から収録[18]されている連邦法としての著作権法を中心に、本項では解説する。著作権法改正の歴史や、著作権に関連する個別の訴訟についても概観するが、詳細については「米国著作権法の歴史」と「米国著作権法の判例一覧」にそれぞれ解説を譲る。

米国著作権法の国際比較[編集]

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世界の法体系: 米国など桃色が英米法系、水色が大陸法系、緑色がイスラム法系、黄色が慣習法系の国。

広義の著作権の内訳大陸法の国米国他の先進国との権利保護範囲の違い著作者本人の権利 (狭義の著作権)著作財産権
(著作者の財布を守る権利)

著作者人格権
(著作者の心を守る権利)

限定的[注 8]著作隣接権者の権利

[注 8]凡例

:可能/

:不可能(以下の表も同様)

大陸法と英米法の違い」も参照

米国著作権法が国際的な主流と異なる理由は、そのルーツにある。1887年発効のベルヌ条約が、今なお基本条約として世界的に機能しているが、条約の原加盟国であるフランスドイツなどの各国は「大陸法」系であることから、ベルヌ条約の内容も大陸法をベースにしている。一方の米国は「英米法」系であり、根本的な発想が異なる[注 9]。一般的に大陸法は、著作権を "author's right" (著作者の権利) と捉えて著作者の人格を含めた幅広い保護を保障するのに対し、英米法では "copyright" (独占的に複製する権利) と表現される通り、著作物を使った経済利益の保護を主眼に置いている違いがある[25][26]。また、大陸法が法律の条文 (立法府による成文法) を明文化して法を守る運用なのに対し、英米法は法律の解釈 (司法府による判例法) に重きを置いている[11]。そのため条文だけを見ると、後述のとおり、米国著作権法の権利保護は不十分であり、ベルヌ条約の方針に完全には適合していない。

他国との相違点[編集]

大陸法系の国々と米国の相違点は、以下の通りである。

  1. 著作権の保護対象が狭い[注 10]

    • 著作隣接権 (著作物の流通に寄与する実演家などの権利) が、著作権法上で明確に定められていない[注 11]

    • 著作者人格権が認められている範囲が、視覚芸術作品の一部に限定されている (1989年以前は全く認められていなかった)[29][30][注 12]

    • 連邦法では「既発行」(published) の著作物しか保護されなかった (1978年以降は未発行の著作物も保護されるようになった)[29][34]

    • 著作物を登録し、著作権マーク「©」を表示しないと保護されなかった (1989年以降不要となった)[35][36]

    • 記録媒体に「固定」(fixed) されていない著作物は連邦法では保護されない (詳細は#著作物の定義で後述)[注 13]

  2. 国際条約を通じた国際社会との連帯が不十分

    • 著作権の基本条約であるベルヌ条約 (世界170か国以上加盟) に米国が加盟したのは、条約発効から1世紀以上経ってから[41][注 14]

    • 著作隣接権を定めたローマ条約 (1964年発効、世界93か国加盟) に米国は加盟していない[45]

    • 「ベルヌ・プラス方式」とも呼ばれるTRIPS協定 (1995年発効) に米国は原加盟しているが、米国への訴訟リスクを回避するためTRIPS協定から著作者人格権の規定が除外された[46]

    • さらにTRIPS協定では、米国の産業構造に合わせて著作隣接権も一部業界にだけ手厚く、その他業界は認めないねじれ構造[46][注 15]

  3. 立法府の権限が複雑

  4. 著作物の利用に関する充実した例外規定と柔軟な司法判断

    • 著作権侵害に当たらないフェアユース (公正利用) の基準が著作権法上で定められ、裁判所がケースバイケースで侵害の有無を判定 (#フェアユース採用の評価で後述)[注 19]

    • さらに他国と比較し、フェアユース以外の個別例外も詳細に規定されている[55][注 20]

    • 賛否あるものの、著作権侵害におけるインターネット関連事業者への免責 (通称: ノーティス・アンド・テイクダウン手続、DMCA通告) など、デジタル化対応が世界でもいち早く明文化されている[56]

    • 著作権法と相反する、あるいは補完関係にある他分野の法律を交えた、総合的な司法判断が下されている (特に特許法、商標法、独占禁止法、表現の自由を謳った憲法修正1条など)[注 21]

国際条約の加盟状況[編集]

条約の採択・発効・批准の違いについては「条約#条約の締結」を、世界各国の著作権関連条約加入状況については「en: List of parties to international copyright agreements」を参照

ウィキソースにベルヌ条約 (1971年パリ改正版)の日本批准時の日本語訳があります。

ウィキソースに万国著作権条約 (1971年改正版)の日本批准時の日本語訳があります。

条約名概要狭義の
著作権著作
隣接権条約の効力状況加盟国数米国の対応状況著作権に関する主要条約[57]法的意義が継続している条約ベルヌ条約狭義の著作権 (著作者本人の権利) に関する基本条約

1886年採択、1887年発効
その後4回改正[58]世界171か国[注 22]1世紀後の1988年に加入し、1989年3月1日から施行[41][注 23]ローマ条約著作隣接権の基本条約

1961年採択、1964年発効[60]世界93か国[61]

[61]レコード保護条約著作隣接権の一つである原盤権に関する条約部分的1971年採択、1973年発効[62]世界80か国[63]1973年に批准し、1974年3月10日から施行[63]TRIPS協定偽ブランドや海賊版の取締強化を目的とする「ベルヌ・プラス方式[46]」。違反時には世界貿易機関 (WTO) に提訴可能部分的部分的1994年採択、1995年発効[64]世界164か国 (WTOの全加盟国)[65][注 24]1995年1月1日から施行[65]WIPO著作権条約デジタル著作物への対応強化を目的とし、「ベルヌ条約の2階部分[67]」と呼ばれる

1996年採択、2002年発効[68]世界102か国[69]1997年署名、1999年批准、2002年3月6日から施行[69]WIPO実演・レコード条約デジタル著作物への対応強化を目的とするが、加盟にあたってローマ条約の遵守はもとめられない[70]

1996年採択、2002年発効[71]世界102か国[72]1997年署名、1999年批准、2002年5月20日より施行[72]視聴覚的実演に関する北京条約視聴覚著作物に限定し、実演家に著作財産権の一部および人格権を認める[注 25]

2012年採択、未発効[注 26]世界26か国 (署名済は74か国)[74]2012年原署名、批准未済[74]法的意義を終えた条約ブエノスアイレス条約万国著作権条約の前身

1910年採択[注 27]米国およびラテンアメリカ諸国の計18か国が批准[注 27]1910年に原加盟国として署名[注 27]万国著作権条約ベルヌ条約の代替で権利保護の水準は低い

1952年採択、同年発効
その後1回改正[77]世界100か国[78]1952年に原加盟国として署名[78]

著作権マーク「©」は21世紀に入ってからも多くの著作物上に見られるが、これはベルヌ条約批准が遅れた米国などの国々への対応のなごりである。大陸法の国々では、著作物が創作された時点で自動で著作権保護がされる「無方式主義」を採用しているが、米国などの英米法の国々では、創作された著作物を政府当局に登録する手続を経て初めて権利保護される「方式主義」が長年採られてきた。その結果、日本の美術品やフランスの小説などを米国で販売する際にも、外国著作権者がアメリカ合衆国著作権局 (略称: USCO) に著作物を登録する必要が出てきた。この手続を回避するため、万国著作権条約に加盟している国の著作物は、「©」を付していればUSCOに未登録でも法的に保護されると定めた。もっとも、これら方式主義の国々が最終的にベルヌ条約を批准して、無方式主義に転換したため、今日においては「©」の表示は法的に何ら意味はなくなっている[79]

方式主義と無方式主義」および「万国著作権条約#発効時点でのベルヌ条約との比較」も参照

国内業界への政治的な配慮[編集]

上述の米国独自の特徴は、米国内の特定業界への配慮や産業振興が背景にある。

レコード業界

米国がローマ条約には加盟せず、レコード保護条約にのみ加盟したのは、著作隣接権の保護対象の違いである。著作隣接権とは著作者本人ではなく、著作物の流通に寄与する者 (著作隣接権者) の権利であるが、ローマ条約では保護対象に実演家レコード製作者放送事業者を含めている。しかし、レコード保護条約では実演家と放送事業者は除外されている。この理由は、1960年代頃からのレコード業界からの政治的圧力により、レコード製作者の権利は守る必要が出てきたが、著作隣接権者すべての権利を守るとなると、ハリウッド映画業界が俳優 (実演家) に追加で利用料を払わなければならなくなるためである。そこでレコード業界とハリウッド映画業界の双方に配慮するため、米国においては著作隣接権は引き続き認めないが、レコード製作者のみは著作隣接権者ではなく著作者とみなし、著作者本人の権利 (狭義の著作権) で保護することにしたのである[80][注 28]

IT業界

レコード業界と並んで米国の主力産業であるコンピュータ・プログラムも、政治的配慮が見られる。一般的に、産業に関する「アイディア」は産業財産権 (特許権商標権などの総称) で守り、アイディアの「表現」は著作権で守るというアイディア・表現二分論がとられている[82]。これにより、実用的な産業であるコンピュータ・プログラムも、ソースコードオブジェクトコードなど一部は米国著作権法の下で保護されている[注 29][注 30][84][85]。これは今日では世界的に共通の慣行であるが、もともとは米国から他国への強力な働きかけによるものであったとされ、特許を取得していないコンピュータ・プログラムであっても、著作権で保護されるようになった[注 31]

現行法の詳細解説[編集]

※本節における「現行」とは、特記のない限り2019年2月現在の合衆国法典第17編 (米国著作権法)[87]に基づき記述している[注 32]

※米国著作権法は特にデジタル著作物に関連する法改正が頻繁に発生しており、1998年10月28日から2014年12月4日の約16年間を例にとると、この期間に可決・制定された著作権の改正立法は計20本以上に上る[6]。条文の最新は合衆国法典の公式ウェブサイトを参照すること。

合衆国法典第17編の全体構成[編集]

合衆国法典第17編は章 (Chapter) の名称とその内容に一部不一致が起こっており、章の下の条 (Section) レベルで参照しないと、全体構成が把握できないため注意が必要である。これは米国著作権法の改正が頻繁に起こり、その度に権利保護の対象となる著作物が増え、例外や罰則などが追加で規定されてきたためである[注 33]

合衆国法典第17編の章構成[87] 隠す章章名条第1章著作権の対象および範囲 (Subject matter and scope of copyright)第101 - 第122条第2章著作権の帰属および移転 (Copyright ownership and transfer)第201 - 第205条第3章著作権の保護期間 (Duration of Copyright)第301 - 第305条第4章著作権表示、納付および登録 (Copyright notice, deposit and registration)第401 - 第412条第5章著作権侵害および救済 (Copyright infringement and remedies)第501 - 第513条第6章輸入および輸出 (Importation and Exportation)第601 - 第603条第7章著作権局 (Copyright office)第701 - 第710条第8章著作権使用料審判官による手続 (Proceeding by copyright royalty judges)第801 - 第805条第9章半導体チップ製品に対する保護 (Protection of semiconductor chip products)第901 - 第914条第10章デジタル音声録音装置および媒体 (Digital audio recording devices and media)第1003 - 第1010条第11章録音物および音楽ビデオ (Sound recordings and music videos)第1101条第12章著作権保護および管理システム (Copyright protection and management systems)第1201 - 第1205条第13章創作的なデザインの保護 (Protection of original designs)第1301 - 第1332条第14章1972年より前に録音した音楽著作物の不正利用 (Unauthorized use of pre-1972 sound recordings)第1401条[注 34]

著作物の利用者の観点では、著作権者に無断で利用しても著作権侵害に当たらないケースとして、後述するフェアユース (公正利用、第107条) が知られている。しかしフェアユースは原則論に留まっており、著作物の種別や条件に応じた個別規定は複数の条にまたがっている点に留意が必要である。

著作権の定義と保護範囲[編集]

どのような種類の権利を、どのような著作物に対して付与し、どのような条件下で法的に保護するかを解説する。

権利の内訳[編集]

著作権のうち、著作者本人の諸権利 (日本語では「支分権」と呼ばれるもの) について、米国著作権法では「排他的・独占的な権利」(exclusive rights) という強い表現が使われているのが特徴である[注 35]。具体的に排他的権利とは (1)「著作物のコピーまたはレコード複製」(複製権)、(2)「二次的著作物の作成」(翻案権)、(3)「販売、所有権の移転、貸与による頒布」(頒布権)、(4)「著作物を使った実演」(実演権)、(5)「著作物を使った展示」(展示権)、(6)「録音物の場合、デジタル音声送信による実演」(デジタル実演権) の6点だと定義されている (第106条)[注 36]。換言すると、複製や頒布などを著作者の許諾なしに第三者が行うと、著作権侵害になることを意味する (第501条)。

さらに1990年制定の法改正 (Visual Artists Rights Act of 1990、略称: VARA) により、いわゆる (7) 著作者人格権が付け加わった (第106A条)。ただし大陸法諸国の著作権法と異なり、著作者人格権が認められるのは視覚芸術著作物 (visual arts) に限定されている[30][96]。米国著作権法における視覚芸術著作物とは、絵画・素描・版画・彫刻・展示目的の現像写真の5種類に限られている。さらにこれら5種類のうち、複製が200点以下であり、シリアルナンバーと著者の署名が刻まれているものに限定し、著作者人格権が認められる (第101条)。つまり、容易に大量複製や翻案化できるもの、あるいは大衆向け商業目的の著作物には著作者人格権が認められない。著作者人格権が認められないケースとして、ポスター、地図・地球儀、海図、技術図面、図表、模型、応用美術、映画などの動画、書籍、雑誌、新聞、定期刊行物、データベース、電子情報サービス、電子出版物、商品、広告宣伝・説明、パッケージなどの包装・容器、職務著作物が挙げられている (第101条)。

#著作権の保護期間で後述の通り、著作財産権と著作者人格権では権利の保護期間に差がある。

著作物の類型[編集]

米国著作権法が定める著作物とは (1)「言語著作物」、(2)「音楽著作物」(これに伴う歌詞を含む)、(3)「演劇著作物」(これに伴う音楽を含む)、(4)「無言劇および舞踊の著作物」、(5)「絵画、図形および彫刻の著作物」、(6)「映画およびその他の視聴覚著作物」、(7)「録音物」、(8)「建築著作物」の8種に分類されているが、例示でありこれらに限らないと記されている (第102条)[注 37]

また、原著作物を活用した「編集著作物」(集合著作物を含む) と「二次的著作物」(別名: 派生的著作物[注 38]) も法の保護の対象となる。編集著作物とは、既存の素材またはデータを選択し、整理しまたは配列し、これらを収集し編成して作られた著作物である。二次的著作物とは、原著作物を用いて、翻訳、編曲、脚色、映画化、美術複製、改訂するなどして創作された作品を指す (第102条)。これらの編集ないし二次的著作物と、その素材となった原著作物の著作権は別個に存在する (第103条)。仮に編集著作物の素材に創作性がなく著作権で保護されていなかったとしても、素材の組み合わせ・整理の方法によって創作性が認められれば、編集著作物単体で著作権が発生する[98]

どこまでが著作物なのか

(1) 言語著作物

第101条の定義によると、言葉、数字、数学的な記号、符号などの著作物を指す。ただし、楽譜は符号だが音楽著作物に、演劇脚本は言葉だが演劇著作物に分類される。また判例上は、言語著作物に登場するキャラクターは著作物に該当しないと解されている[99]。キャラクターの保護を巡る裁判としては、1954年の第9巡回区控訴裁「ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ対CBS裁判」(サム・スペード判決) が知られている[注 39]。さらに米国では、言語著作物の題名も著作物に該当しないと判例で解されており[99]、題名の保護を訴える場合は不正競争防止法など、別の法的根拠を求めることになる[103]。しかしフランス著作権法のように、言語著作物に限らずあらゆる著作物の題名も、創作性があれば著作権保護が与えられると明文化されている国もある (L112条-4)[104][注 40]

コンピュータ・プログラムも一部はこの言語著作物に含まれている。1980年制定の著作権法改正で、第101条 (各種用語の定義) にコンピュータ・プログラムが追加されたほか、第117条でコンピュータ・プログラムの権利制限が追加規定された[29][95]。また、1983年の第3巡回区控訴裁による「アップルコンピュータ対フランクリンコンピュータ裁判」を始めとする判例によって、コンピュータ・プログラムとデータベースの著作権が保護されるようになった[95][107]

(4) 無言劇および舞踊の著作物

(2) 音楽著作物 - (4) 無言劇および舞踊の著作物に関し、第101条で定義は示されていない。(4) については、言葉を使わず動きとジェスチャーで表現する演劇全般、および観客の前でのダンサーの動きを表現した記録や表記だと解されている。しかし、社交ダンスのステップのように、形式が決まっているものについては著作物として認められていない[108][109]

(5) 絵画、図形および彫刻の著作物

第101条の定義によると、純粋な美術品だけでなく応用美術、写真や地図、模型、建築設計図などもこれに含まれる[110]。ただし、単純な実用品 (useful article) のデザインは著作物として認められていない。これは実用的なデザインは著作権ではなく、意匠特許権 (米国特許法第171条) で守られるべきと考えられているからである。両者の線引きは、美しさの有無ではなく、美的「表現」なのか、デザインの「新たな発明」なのかの違いにある[111][注 41]

しかしながら、実用的・機能的な日用品に芸術的・審美的なデザインが施されている商材が市場に多く出回っており、著作権法上でたびたび問題となっている[113]。世界的には実用品デザインの著作権保護に対するアプローチは以下の3パターンに分かれる[114]

  1. 実用品も他の著作物と同様に保護に含める -- フランスなど

  2. 実用品も一部保護に含めるものの、他の著作物よりも保護要件の水準を高く設定する -- ドイツなど

  3. 実用品は意匠法など別の法律で保護する、あるいは著作権法と二重で保護する -- 米国、過去のイタリアなど[注 42][注 43]

実用品デザインを巡る判例として、ダンサー像がデザインされた卓上ランプに関する「メイザー対ステイン裁判」、およびチアリーディングのユニフォーム製造業同士で争った「スター・アスレティカ対ヴァーシティ・ブランズ裁判」も参照のこと。

(6) 映画およびその他の視聴覚著作物

映画やテレビ番組だけでなく、ビデオゲームも一部は視聴覚著作物として分類される。ビデオゲームはプログラミングされているため、そのソースコードやオブジェクトコードは (1) 言語著作物に分類される[注 29]。そしてゲーム画面の個々のグラフィック要素は著作権保護の対象とはならないが、個々のグラフィック要素が互いに関係し、音響効果も相まって創作性が発生すれば、ゲーム全体 (編集物) として (6) 視聴覚著作物と判定される。これに関するリーディング・ケースとして1992年連邦控訴裁「アタリゲームズ対オマーン裁判」も参照のこと[117][118]

(7) 録音物

第101条では、一連の音楽、会話その他音声の著作物だと定義されている。ただし、映画などの視聴覚著作物に含まれているセリフなどは除く。音楽レコードについては録音著作物に該当するが、アーティストである実演家と、レコード会社であるレコード製作者の共同著作物と考えられているため[119]、大陸法諸国の著作権法と異なり、実演家やレコード製作者は著作隣接権者として捉えられていない。

(8) 建築著作物

建築の設計図は (5) 絵画、図形および彫刻の著作物に含まれるが、ベルヌ条約加盟以前は建築物そのものは著作物として保護されていなかった。これは実用的なデザインとみなされていたからである。1990年の改正法により、建築著作物も著作権保護が認められるようになった[120]

編集著作物

編集著作物 (compilations) には集合著作物 (collective works) を含む。集合著作物の例は定期刊行物、選集、百科事典などが挙げられる。また、日本ではデータベースは編集著作物ではなく別個の著作物としているが、米国およびその他諸外国はデータベースを編集著作物としている[121]。これに関しては、集合著作物の一種である新聞や雑誌に寄稿された記事が、その後デジタル化されて他社オンラインデータベースに無断・無償で転載された「ニューヨーク・タイムズ他対タシーニ裁判」(2001年最高裁判決) などが存在する。

データベース権」も参照

二次的著作物

二次的著作物の中には、外形的に明らかな翻訳や映画化などもあるが、美術複製の著作物性は曖昧であり、より厳格な創作性を求めていることから過去の判決も多い[122]。既存の芸術作品を精緻に複製しただけでは創作性が認められず、複製を行った制作者に独自の創作判断があったかが問われることになる[123]。名画を元に制作された版画を巡る「アルフレッド・ベル対カタルダ・ファインアーツ裁判」、およびディズニーのキャラクターを模した玩具のメーカー同士で争った「ダーラム対トミー裁判」も参照のこと[123][122]

保護されないもの[編集]

著作権保護の要件を満たしておらず、かつ特許や商標権なども認められていないものは、パブリック・ドメインとみなされ、これらを第三者が無断で利用しても、上述の排他的権利を侵害したことにはならない。パブリック・ドメインの内訳は、(1) そもそも著作物性が認められないもの、(2) 著作物ではあるが著作権が「元来発生しない」もの、(3) 著作権は発生したが後に「消滅した」ものに大きく分けられる。

連邦法による著作権の保護目的と対象

連邦議会は、著作者 (author) および発明者に対して、それぞれ著作 (writings) および発明に対する排他的権利を一定の期間に限り付与することにより、科学および有用な技芸の振興を促進する...権限を有する。

合衆国憲法 第1条第8項第8条 (通称: 特許・著作権条項英語版))[124][注 44]

(1) 著作物性が認められないもの

上述の8ジャンルのいずれかに該当していても、著作物性がないとされるケースがある。その要件の一つが「創作性」の有無である。合衆国憲法で定めた特許・著作権条項の「著作者 (author)」の用法から、著作権には創作性 (originality) が必要であるとされている[126][127][注 45]

著作物性を巡って争われたリーディング・ケースとして、1990年最高裁判決の「ファイスト出版対ルーラル電話サービス裁判」が世界的に知られている[136]。これは電話帳に掲載された電話番号を無断で転載した事件であり、単なるデータの配列だけの電話帳には創作性が認められないとして、無断転載が合法と判示された。この判決により、アイディア・表現二分論 (著作者の創作性に基づく「表現」を保護するのが著作権だとする考え方) が明示され、額の汗の法理英語版) (著作物の内容や特性の如何に関わらず、著作者の労力の賜物である著作物を保護しようとする考え方) は否定されることとなった[137][138]

無方式主義を採用する国では、著作物を創作した時点で自然に著作権が発生する。そのため、創作者本人は著作権保護の対象内だと認識していても、第三者の目には創作性がないものと映り、認識にギャップが生じることがある。そしてこのギャップは、著作権侵害で提訴した時、あるいはUSCOに著作物を登録した時に初めて公となり、解消される。たとえば先述の「アタリゲームズ対オマーン裁判」では、アタリ社がUSCOにゲームを登録しようとして申請を却下されたことから、当時のUSCO局長ラルフ・オマーン英語版)を提訴している。最終的にオマーン局長の判断は誤りだったとして、連邦控訴裁は当ゲームの著作物性を認めた[117][118]

ファイスト判決やアタリ判決以外にも、創作性の線引きを巡って争われた判例が複数存在する。たとえば、ケーキ箱のラベルやプラスチックの花には創作性が認められた一方、言葉やフレーズの断片、スローガン、音楽のわずかな変奏などは創作性が否定されている[注 46]

(2) 著作物性は認められるが、著作権が発生しないもの

特許・著作権条項の「著作 (writings)」の文言から、著作物は何らかの媒体に固定 (fixation、fixed) されていなければならないと解されている。この固定要件とは、印刷物や録音・録画など何らかの媒体に記録されている必要があり (第102条)、固定されていない生の著作物は米国において法的保護の対象外となるという意味である[126]。例えば、日米の大学間でインターネットを使って合同授業が行われており、それがライブ配信されただけでは、その授業内容は米国側では著作権保護されない[140]。多くの先進国で、著作権保護に固定要件は定められていないことから、米国著作権法の特徴ともいえる[126]。固定の要件が判示されたケースとしては「ゴールドスティン対カリフォルニア州政府裁判」(1973年最高裁判決) が知られている[141]。ただし未固定の著作物を保護しないのは連邦著作権法であり、別途、州法のコモンロー・コピーライトで保護されることもある点に注意が必要である[142]

加えて、たとえ固定要件を満たしていたとしても、合衆国政府の著作物には著作権保護が認められない (第105条)。ただし、州政府などの地方自治体の著作物については、合衆国法典の規定の範囲外であり、各自治体で別途定められている。例えばオレゴン州ジョージア州などでは、注釈付きの州法法令集は著作権保護の対象内だとしている[注 47]

(3) 著作物性が認められ、著作権が発生した後に消滅したもの

著作権の保護期間が切れた著作物が該当する。米国著作権法では過去に著作財産権の保護期間を2段階制にしており、最初の期限が切れる際に更新手続を行えば延長できた。しかしこの更新手続を怠ったことから、他者に無断で著作物を悪用されたケースもある。詳細は「ダスター対20世紀フォックス裁判」(2003年最高裁判決) も参照のこと[145]

著作権の保護期間[編集]

各国共通の総論については「著作権の保護期間」を、現行の保護期間の比較については「世界各国の著作権保護期間の一覧」を参照

著作財産権 (第106条) と著作者人格権 (第106A条) では保護期間が異なる。著作者人格権が米国著作権法で認められたのは1990年の改正時であり、当改正以降の創作された視覚芸術著作物については、著作者が死亡した年の暦年最終日までが保護期間となる。一方、当改正以前に創作された場合は、後述する著作財産権と保護期間は同一に設定されている。また、創作日がいつかに関わらず共同著作物の場合は、最長生存者の死亡年最終日まで著作者人格権が保護される (第106A条(d))。

著作財産権については、原則は著作者の没後70年間が著作権の保護期間となる。しかし保護期間は数回の法改正により延伸していることから、現行法においては著作物の発行日が1978年1月1日 (1976年制定の著作権改正法の施行日) を境にして保護期間が異なるほか、様々な条件分岐が発生している。未発行または米国内で初めて発行された著作物 (但し録音物および建築物を除く) を例にとると、保護期間は以下となる[146]。なお、「発行」については#著作物の発行の定義で、著作権表示や登録手続については#著作権保護の手続で後述する。

1976年制定の改正法以前の法的スキーム (旧法) が適用される著作物[注 48][注 49]

発行日著作権表示あり著作権
表示なし更新手続あり更新手続なし1923年以前PDPDPD1924年1月1日 - 1963年12月31日発95PDPD1964年1月1日 - 1977年12月31日発95発95発95

1976年制定の改正法以降の法的スキーム (新法) が適用される著作物[注 50][注 49]

発行日[注 51]創作日実名著作物実名著作物以外著作権
表示あり著作権表示なし著作権
表示あり著作権表示なし事後登録
あり事後登録
なし事後登録
あり事後登録
なし1978年1月1日 -
1989年2月28日1977年以前旧法 or
2047末没70PD旧法 or
2047末発95 or
創120PD1978年以降没70没70PD発95 or
創120発95 or
創120PD1989年3月1日 -
2002年12月31日1977年以前旧法 or
2047末旧法 or
2047末旧法 or
2047末旧法 or
2047末旧法 or
2047末旧法 or
2047末1978年以降没70没70没70発95 or
創120発95 or
創120発95 or
創1202003年以降1977年以前没70没70没70発95 or
創120発95 or
創120発95 or
創1201978年以降没70没70没70発95 or
創120発95 or
創120発95 or
創120未発行不問没70没70没70創120創120創120

凡例

凡例隠す解説没70著作者の没後70年間発95 or 創120発行から95年間、あるいは創作から120年間のいずれか短い方
(職務著作、変名著作、無名著作、著作者の死亡日不明など、実名著作で定めた「没後70年間」を適用できないため)発95発行から95年間創120創作から120年間旧法 or 2047末旧法で規定の保護期間満了まで、あるいは2047年12月31日までのいずれか長い方PD保護期間が終了し、パブリック・ドメインに帰す

1978年1月1日以降に創作された著作物に対しては、米国著作権法では一般的に著作者の没後70年までとされる。著作者が複数人いる場合は、最も生存の長かった者を基準とする。ただし、職務著作・無名著作 (著作者不明)・変名著作 (ペンネームや芸名などを使った創作)・著作者の没年不明の場合は、創作日から120年あるいは発行から95年のいずれか短い年数が適用される (第302条)。

1978年1月1日より前 (1977年12月31日以前) に創作された著作物の保護は、既発行と未発行で保護期間が異なる。未発行かつパブリック・ドメインにも帰していない場合は、上述の第302条と同期間が適用される。ただし、この未発行著作物が1978年1月1日から2002年12月31日の間に発行された場合は、2047年12月31日まで著作権の保護が認められる (第303条)。また、1978年1月1日より前に頒布していても、レコードに関しては既発行とはみなされない例外が設けられている (第303条)。

1978年1月1日より前に創作された既発行著作物のうち、1978年1月1日時点で最初の保護期間中の場合は、28年間が認められる。また最初の保護期間が満了した後、一定の条件を満たせばさらに67年間更新延長できる (第304条)[注 52]

ただし、著作者の生死に関わらず、1923年12月31日以前に創作 (楽曲の場合は1922年12月31日以前に作曲) された著作物は、保護期間が消滅してパブリック・ドメインとみなされる[146]

保護期間の計算方法

米国著作権法の場合、保護期間の満了日は暦年の最終日とされる (第305条)。例えば1980年代に創作され、著作者が1990年9月1日に死去した場合、著作権の保護期間は死後70年のため2060年までであり、その暦年の最終日である2060年12月31日が満了日となる。日本の著作権法でも死後70年で満了の場合、死去日の翌年から起算して70年間のため、満了日は必ず暦年の最終日 (12月31日) に到来する[147]。したがって米国と日本の満了日の計算方法は実質的に同じである。

著作物の発行の定義[編集]

著作物の流通の観点からは、「既発行」(published) と「未発行」(unpublished) に分類され、著作権の保護範囲が異なる[注 53]1976年の著作権改正法英語版)(Copyright Act of 1976) が施行された1978年1月1日以降は、米国著作権法の連邦法でも未発行著作物が保護されるようになったが[34]、いまだに既発行と未発行では保護期間に差異がある。ここでの「発行」(publication, publish) の定義とは (第101条)、「著作物を複製 (copy) またはレコード収録 (phonerecord) し、一般に頒布すること」であり、「販売その他の手段による所有権の移転、レンタル、リースや貸与」が頒布の具体的手段として挙げられている。そして「更なる頒布、実演または展示を目的として、複製またはレコード収録した著作物を特定の団体組織に提供することを発行と呼ぶ」としている。注意点として、「著作物を公に実演したり展示したりする行為そのものは、ここでの発行には含まれない」とされる[注 54]

著作物の多くがインターネットを介して流通している現代社会において、発行の境界線をどのように解すべきか、いくつかのアプローチがとられている。全米の著作権関連団体・企業などが参加する米国著作権連盟英語版) (The Copyright Alliance) によると、公衆向けに流通・販売・展示する目的で、著作物が複製またはレコード収録された最初の日が、既発行と未発行の境目だとされる。既発行の著作物の場合、発行を起点として著作権の保護期間が計算される[149]

また米国メディア写真家協会英語版) (ASMP) は、写真のデジタル画像をウェブサイトにアップロードした場合、発行に該当するのかについて回答を寄せている[150]。同協会によると、

  • 顧客に依頼されて撮影した写真をデジタルデータの形式で納品した場合、「複製またはレコード収録した著作物を特定の団体組織に提供」に該当するため、発行とみなされる可能性がある

  • 写真家個人が運用するウェブサイトにデジタル画像を掲載した場合、そのサイトが一般からアクセス可能な状態であれば発行とみなされ、またそのウェブサイト自体が写真だけでなく文章やイラストなどの著作物で構成されているため、ウェブサイト全体が著作権保護の対象となるだろう

と解説している[注 55]

著作権保護の手続[編集]

1976年制定・1978年施行の著作権改正法により、USCOへの著作物の登録がなくとも著作権保護が与えられることとなった (第409条)。しかし米国内で最初に発行された著作物に関し、著作権侵害などで民事訴訟を起こす際には、USCOへの登録が必要となる (第411条)[注 56]。登録申請にあたり、著作者名・住所、(無名または変名著作物の場合は) 著作者の国籍または住所、創作年と発行日・発行国などを著作権者は記入する必要がある (第409条)。これは無名・変名・職務著作物であるか否かや、最初の発行国が米国内であるか否かによって、著作権保護期間のカウント方法が異なるためである。USCO局長は提出された登録申請に基づき、著作権法が定める著作物でないと判断した場合は却下し、許可されたもののみ登録証明書を発行する (第410条)。裏を返すと、著作権法の保護対象をUSCO局長が線引きしており、司法に対する越権行為ではないかとの懸念もあり、この「登録」の定義を巡って争われた裁判も数件存在する (「ニューヨーク・タイムズ他対タシーニ裁判」、「リード・エルゼビア対マッチニック裁判」、「フォース・エステート対Wall-Street.com裁判」も参照)。

1988年のベルヌ条約実施法英語版)(Berne Convention Implementation Act of 1988)[注 57]の成立により、米国でも1989年から無方式主義が採用された結果、著作権保護の観点からは著作権マーク「©」 (マルC、Copyrightの意) または「℗」(マルP、レコードのPhonogramの意) や著作者名、発行年の表示は必須ではなくなった (第401条)。

著作権表示」も参照

USCOへの著作物の複製の納付は引き続き原則必要となっており、発行から3か月以内に行わなければならない。納付はコピー2部 (レコードの場合は発行に付属していた印刷物などの付属資料も) が求められている。ただし元々コピーが4部以下しか作成されていない著作物 (1点ものの絵画など) や、シリアルナンバーを付した限定リリース品などは納付の義務が免除されている。納付を怠った場合、著作物1点あたり250ドル以下の罰金が科される (第407条)。

国際的な著作物への対応[編集]

著作権の準拠法」も参照

著作物が国際的に流通する社会において、どこの国の著作物がどこで利用された場合に米国著作権法が適用されるのかが問題となる。米国著作権法では、既発行と未発行著作物で対応が異なる。未発行著作物の場合、著作者の国籍や現在居住地は不問で著作権の保護対象になる (第104条)。一方、既発行著作物は、以下6要件のいずれか1つ以上に該当すれば、米国著作権法が適用される (第104条)。

  1. 発行初日の段階で、著作者の一人以上が「米国籍あるいは米国住民」、「条約加盟国の国民、住民、あるいは加盟国の政府機関などの主権者」、「無国籍者 (現在居住地は問わない)」のいずれかに該当する場合

  2. 米国内で最初に発行されたか、あるいは発行初日の段階で条約加盟済の国で発行された場合

  3. 音声レコーディングのうち、条約加盟国内で最初に録音完了したもの

  4. 絵画、図形または彫刻作品のうち、ビルなどの建造物に組み込まれている場合、あるいは建築著作物のうち、米国ないし条約加盟国内のビルなどの建造物に組み込まれている場合

  5. 最初の発行者が国際連合もしくは国際連合の専門機関、または米州機構 (OAS) の場合

  6. 一定の条件下で、米国大統領の布告 (proclamation) によって保護すると指定された著作物

国際著作物に対するこのような運用は、米国以外の著作権法でも見られることから、同一の著作物を巡って、同一の原告と被告が世界各国の裁判所で係争する事態が発生している。その代表例が「ウルトラマン裁判」である。本件では、日本、タイ、中国、米国でそれぞれ訴訟が起こり、異なる判決が出ている[156][157][158]

著作者と第三者の権利関係[編集]

ここからは、上述の著作物に対する諸権利を、誰が有するのかについて解説する。

著作者と著作権者の相違点[編集]

個人・団体を問わず著作権を有する者を「著作権者」と呼ぶが、米国著作権法では著作権が誰に帰属するのかを大きく3つに分けて定義している (第201条)。第一に、著作物の著作者 (最初の作成者) が著作権者だとする「原始的帰属」 (Initial ownership) という基本的な考え方である。第二に、雇用主の命により業務の一環で従業員が著作物を作成した場合は、著作者である従業員個人ではなく雇用主が著作権者だとする「職務著作」 (Works made for hire、またはWorks for hire)[注 58]の考え方である。第三に、個々の著作物を寄せ集めて作成・編纂された「集合著作物」である。複数の楽曲を収録した音楽アルバムや、複数のジャーナリストが寄稿して発行される雑誌などが集合著作物に該当する。集合著作物の著作権と、それを構成する個々の著作物の著作権は別個に存在する。

特に職務著作における「従業員」や「職務」がどこまでを指すのかは国によって異なり、その定義が問題になる[注 59]。たとえば、社外に業務を委託または注文して創作された成果物は、委託元 (発注者) と請け負って創作した者のどちらが著作権を有するかは、職務著作の定義に関わる。米国著作権法の条文上では、雇用契約の関係にある従業員だけでなく、一定の条件下で委託著作物も職務著作として認められている (第101条)。職務著作に関するリーディング・ケースとして「CCNV対リード裁判」が知られている[164][165][166]

詳細は「職務著作#アメリカ合衆国」を参照

第三者への著作権の移転[編集]

第106条で定められた排他的権利 (支分権) は、譲渡や独占ライセンス許諾、抵当設定、相続などによって著作者から第三者に移転 (transfer) することができる (第201条 (d))。著作権の移転が効力を発するには、著作権者あるいはその代理人による署名付きの書面作成が必須となる (第204条)。この譲渡証書は任意でUSCOに登録することもできる (第205条)。

移転は支分権全てである必要はなく、その一部のみ移転することが可能である。例えば、小説の作者が小説出版権 (原著作物の頒布権) を出版A社に売却し、小説の映画化権 (二次的著作物の作成権) を映画配給B社に売却するといったように、諸権利をバラバラに分解する行為も移転と定義される。また、独占ライセンスの許諾に有効期限を設定したり、その独占をある地域に限定したりするといった、時空を特定することも可能である (第201条)。ただし、米国著作権法上の移転の定義には、非独占ライセンス許諾は含まれない (第101条)。また移転の対象に第106A条は含まれないことから、著作者が死去すると著作者人格権は第三者に継承できないと解される (第201条)。集合著作物、職務著作、およびライセンスを巡って争われた例として「ウォーレン出版対スパーロック裁判」も参照のこと。

所有者の権利と消尽論[編集]

米国著作権法の定める著作権者とは、著作物の排他的権利を有している者であって、排他的権利を行使して作成された実物の所有者 (購入者) とは分けて捉えられている (第202条)。所有者とは例えば、出版された書籍や音楽ダウンロードサービスで配信された楽曲を購入した消費者である。仮に小説を執筆した著作者がその小説を出版販売したとしても、小説の購入者が所有しているのは小説という実物の商品のみであって、小説の著作権まで購入したわけではないという意味である。

複製された著作物の所有者は、著作権者の許諾なしで自由に所有物を売却処分することができる。つまり、著作権者の排他的権利は、複製された著作物の処分方法にまでは及ばずに消えることから、これを「消尽論」または「ファースト・セールス・ドクトリン」(The First Sales Doctrine) と呼ぶ[167]。ただし、録音物またはその録音物に含まれる音楽著作、あるいはコンピュータ・プログラムのコピー所有者が処分する際には、一部の例外を除き、著作権者の許諾が必要になる。また所有者は、著作物のコピーまたはレコード複製を使って、その場で一般の観衆向けに展示することができる。展示が許されるのは所有者であり、著作権者から著作物を貸与された場合は適用外となる (第109条)。レコードとコンピュータ・プログラムは特に貸し手側が違法にコピーして流通させ、著作権者の利益を損なう恐れがあることから、1994年の改正法で第109条に (b) 項を追加している[注 60]。消尽論を巡る裁判は、「カートサン対ワイリー裁判」と「オメガ対コストコ裁判」も参照のこと。

著作物の利用と著作権侵害[編集]

フェアユース (総論)[編集]

フェアユース」および「著作権法の判例一覧 (アメリカ合衆国)#フェアユース関連」も参照

著作物そのものはパブリック・ドメインに帰しておらず保護期間内であっても、一定の条件を満たしていれば著作者に無断で利用しても著作権侵害とはならない。その代表例がフェア・ユース (公正利用) である。

フェアユースの利用シーンとしては「批評、解説、ニュース報道、教育、研究または調査」が例示されており、また最終的には「使用の目的・性質」(非営利の教育やパロディによる変形的利用英語版)など)、「著作物の内容」、「量・質の両側面から著作物が使用された割合」、「使用によって著作物の市場価値にどの程度影響を及ぼすか」などを考慮して総合して判断される[169][170]。条文ではincludingやsuch asといった表現が使われていることから、これら利用シーンや考慮点はあくまで例示である点に留意が必要である (第107条)[注 61]

これら4基準のうち、特に第1基準の変形的利用、および第4基準の市場代替性が重視される傾向にあると指摘されている[169]。第1基準で商用目的であったにもかかわらず、同じく第1基準の変形的利用が優先して認められた結果、フェアユース判定となった「キャンベル対エイカフ・ローズ・ミュージック裁判」(1994年最高裁判決) などが知られている。本件は映画の主題歌『Oh, Pretty Woman』のパロディ曲を巡る争いである[171][172]

フェアユース以外の個別規定[編集]

第107条のフェアユースとは別に、特定条件下で著作権者の排他的権利に制限がかかり、利用が緩和・促進されている条項が複数ある (第108条 - 第122条)。例えば、図書館や文書資料館による複製は公共の利益目的であり、著作権侵害に該当しないとされている (第108条)。またコンピュータ・プログラムにも著作権が認められるが、そのプログラムのコピー所有者が著作者に無断で新たにコピーまたは翻案物 (adaptation) を作成する場合、一定の条件を満たしていれば著作権侵害とならない。その条件とは、コンピュータ・プログラムを内蔵した機械・端末を生産する目的であり、それ以外に転用されないこと、あるいは保存目的で更なるコピーまたは翻案物を作成し、所有者が所有権を喪失した時点で廃棄することの2点である (第117条)。

著作権侵害と救済手段[編集]

著作権侵害」も参照

民事訴訟[編集]

権利を侵害された被害者 (著作権者) は、請求権が発生してから3年以内であれば民事訴訟を起こすことが可能である (第507条)。裁判は長期化することもあるため、短期的な救済として差止命令、差押や処分を被害者は裁判所に請求し、さらなる侵害を食い止めることができる (第502条、第503条)。差止命令とは侵害者の行為を止めさせる裁判所命令であり、米国全域で効力を発揮する。換言すると、差止命令の法的強制力は米国外には及ばないことを意味する。差止命令の法的根拠と手続については、合衆国法典第28編 (各種訴訟法) の第1498条 (特許権および著作権) に定められている。また、著作物を違法に複製している場合などは、その複製物を差し押さえるだけでなく、複製のために用いられる版木やテープといった手段も廃棄処分できる (第503条)。

金銭的な賠償として、被害者は現実損害賠償あるいは法定損害賠償を選択できる。現実損害賠償の場合、被害者が被った現実損害の額と、著作権侵害者が得た利益の総額で算出される。被害者は侵害者の総収入のみ立証責任がある。総収入のうち、著作権侵害以外から得た収入などがある場合は、侵害者側の申告で初めて控除され、現実損害賠償額が最終決定される (第504条)。

一方、法定損害賠償を選択した場合、著作物1点あたり、原則は750ドル以上3万ドル未満で裁判所が賠償金額を決定する。原著作物を用いて作成された編集著作物や二次的著作物も著作権侵害を被った場合、著作物1点あたりの賠償単価が上乗せされることはあっても、「著作物1点」がダブルカウントされるわけではない (第504条)。また、著作権侵害が故意だと認められた場合は、賠償単価の上限が3万ドル未満から15万ドル未満まで増額される。逆に侵害者が知らずに侵害していた場合は、賠償単価の下限が750ドル以上から200ドル以上まで減額される[注 62]

損害賠償に加えて、民事訴訟に要した費用も請求できる。具体的には提訴に要する諸手続の費用の他、雇用した弁護士への報酬支払額も補償の対象となる (第505条)。

キャピトル・レコード他対トマス・ラゼット裁判」(2012年第8巡回区控訴裁判決) や「ソニーBMG他対テネンバウム裁判」(2013年第1巡回区控訴裁判決) などでは法定損害賠償の金額水準の妥当性を巡って争われた。個人がPeer to Peerで楽曲ファイルを無断シェアしたことから、総額150万ドルもの賠償を一個人に対して求める陪審意見もあり、個人・非商用の著作権侵害行為に対する適正手続 (due process) の観点から違憲性が主張された事件である[175][176][177]:65–71。

間接侵害 (二次侵害)[編集]

たとえば、一般ユーザがインターネットサービスを介して著作権侵害コンテンツを投稿・シェアすることがある。このような場合、直接的な責任は当該ユーザ個人が負うが、権利侵害の場や手段を提供したり、侵害行為を止めることができたにもかかわらず監督を怠ったインターネット関連事業者にも間接侵害 (二次侵害) の責任が発生するケースがある[178]。以下では間接侵害について解説する。

著作権法における「寄与侵害」とは、直接的に著作権侵害は行っていないものの、そのような侵害行為が起こりうると分かっていながら、誘発するような間接的な関与をしている場合である[182]。つまり、第三者に著作権侵害を行うよう指示・そそのかす (法律用語で教唆という) か、または直接手は下していないものの著作権侵害に重大な「貢献」をしていれば、寄与侵害の責任を負うことになる[183]。寄与侵害では、著作権侵害が実際に起こっていることを知っているケースだけでなく、知っていて当然であり合理的であろうと推定されるケース (擬制的認識、constructive knowledge) も含まれる[182][184]

一方「代位侵害」とは、侵害行為を行わないよう監督責任・権限を有する者が、その義務を怠った結果、侵害が発生した場合である[182]。寄与侵害とは異なり、侵害行為の認識の有無は問われないが、代わりに権利侵害によって直接の経済的な利益を得ていることが責任成立の要件となる[182][185]。「代位」とは、最も分かりやすいのが従業員と雇用主の関係であり、服務中に従業員が著作権侵害を行えば、雇用主にも代位責任がおよぶ。ただしこの「代位」の概念は、英米法における代理法に基づいており[186][注 63]、雇用主 (使用者) だけでなく信託や組合といったあらゆる個人・法人の信認関係 (fiduciary relation) を有する代理人 (エージェント) 全般に適用される[187]:1–2。

寄与侵害や代位侵害のリーディングケースとしては、通称「ソニー・ベータマックス判決」(1984年最高裁判決)[188][53]や通称「ナップスター判決」(2001年第9巡回区控訴裁判決)[189][190]、通称「チェリー・オークション判決」(1996年第9巡回区控訴裁判決)[189][191]が知られている。ソニー・ベータマックス判決では、(特許法とは異なり) 著作権法上では寄与侵害や代位侵害が明文化されていないものの、第三者に責任を負わせる正当性を認めている[181]。ナップスター訴訟では、Peer to Peerの通信環境下で個人が楽曲を無断シェアしたことから、ファイルシェアの場を提供し、著作権侵害のアクセスを停止するなどの監督責任を怠ったとして、ナップスター社に寄与侵害と代位侵害が認められている[190]。チェリー・オークション訴訟はフリーマーケットで著作権侵害の海賊版が販売されていた事件だが、販売していた出店者 (直接侵害者) だけでなく、場貸ししていたフリーマーケット開催者にも寄与侵害が認められた[189]

ただし無限の間接侵害を認めているわけではなく、1998年制定・施行のデジタルミレニアム著作権法 (DMCA) によって著作権法が改正され、著作権侵害がインターネットを介して行われた場合、その通信環境を提供したインターネットサービスプロバイダー (ISP) またはオンラインサービスプロバイダー (OSP)、あるいは検索エンジンなどのデータキャッシング事業者各社は、一定の条件下で損害賠償を免責されることとなった (第512条)。第512条はいわゆるセーフハーバー英語版)条項とされ[注 64]、「ノーティスアンドテイクダウン手続」(notice and takedown) や「DMCA通告」などと呼ばれている[注 65]。第512条が1998年に新設される以前は、インターネットサービス事業者が直接侵害の責任を負う判例と、間接侵害のみと解される判例が混在していたが、第512条によって間接侵害に責任範囲が留まることとなった[197]

インターネット関連事業者の免責が問われた判例については「デジタルミレニアム著作権法#判例」を参照

なお、2020年5月に公表された著作権局 (USCO) の調査報告書によると、著作権侵害でDMCA通告 (削除依頼) をオンラインサービス事業者が受け付ける件数は、日次で100万件を超えると見られている[198]

刑事手続[編集]

en: Criminal copyright law in the United States」も参照

被害者による民事訴訟以外に、警察や検察が刑事事件として手続を執る場合がある。著作権侵害罪として刑法上で扱われるのは、(1) 故意で商業的あるいは私的利益を目的とした場合、(2) 過去180日以内に総額1000ドル超の市場価値を有する複製または頒布を行った場合、(3) 商業的な目的でインターネット上で著作物を頒布した場合の3条件のいずれかに該当する場合である。

総額2500ドル超の市場価格を有し、10点以上を複製または頒布した場合を例にとると、初犯は懲役5年以下または25万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に処せられる[199]。同条件で再犯の場合は懲役10年以下または25万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に引き上げられ、さらに常習犯の場合は刑が重くなる。一方、軽犯罪の場合は懲役1年以下または10万ドル以下の罰金に軽減される。また、デジタルミレニアム著作権法施行による改正により、技術的保護手段の回避禁止英語版)が盛り込まれた。その結果、コピーコントロールアクセスコントロールを回避・解除して著作権を侵害した場合は、初犯でも懲役5年以下または50万ドル以下の罰金 (あるいはその両方)、再犯の場合は懲役10年以下または100万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に処される[199]

これらの懲役・罰金に加え、合衆国法典第18編 (刑法および刑事訴訟法) の第2323条 で定められた方法に従って、没収・破棄・返還を行うことができる。また他者を欺く目的で偽りの著作権表示を行ったり、そのような欺罔的な表示の複製品を頒布・輸入したり、著作権表示自体を除去したり、偽りの著作権登録申請を行った場合は、それぞれ2500ドル以下の罰金に処せられる。

侵害が発生してから5年以内であれば検察による刑事訴訟の着手は可能で、その手続の詳細は合衆国法典第18編の第2319条 (著作権侵害) に定められている。

なお、日本を含む環太平洋パートナーシップ協定 (TPP11) 締結各国は[200]、2018年12月に発効した同協定に基づいて著作権侵害の「非親告罪化」のための国内法手続を進めている[201]親告罪とは、被害者本人あるいは法で定めた者 (法定代理人、親族など) からの告訴がない限り、刑事訴訟に至らない犯罪を指す。これを非親告罪化することはすなわち、著作権者の告訴がなくても刑事手続に踏み切れることになる[202]。しかし米国はTPP 12交渉から途中離脱したため[203]、非親告罪化を合衆国法典上で明文化する必要はなくなった。

ただし合衆国法典では元々、著作権侵害罪が親告罪だとも明文化されていない。これは、著作権法第107条で包括的なフェアユース条項を有する米国では、一定条件を満たせば著作権侵害とみなされないため、刑事事件として非親告罪を認めても、実質的な問題に発展しづらい土壌の違いが指摘されている[204]

日本の著作権法における非親告罪化」も参照

連邦著作権法と関連法の関係[編集]

ここまでは連邦法としての著作権法を解説したが、ここからは密接に関係するその他の法律を取り上げ、その関係性について見ていく。

州法との関係[編集]

アメリカ法#連邦法と州法の関係」も参照

連邦法たる合衆国法典 第17編 (一般的に米国著作権法と呼ばれているもの) と州法による著作物の保護の間で矛盾が起きた場合、どちらが優先されるのか。これについては合衆国憲法 第6編第2項の「連邦優位条項英語版[205]:103」(Supremacy Clause) が適用される[注 66]。これに関連する判例としては、1964年最高裁判決「シアーズ・ローバック対スティフル裁判英語版)」(376 U.S. 225 (1964))[207]や1989年最高裁判例の「ボニート・ボーツ対サンダー・クラフト・ボーツ裁判英語版)」[208][209]がある。

しかし州法が完全に否定されているわけではなく、連邦法で著作物性がないとして保護の対象外になっているもの (法的保護の想定外) を、州法で追加保護することは認められている[210]。たとえば#著作物の定義で述べたとおり、連邦法で守ることができる著作物には、何らかの媒体に固定されていること、また創作性が必要であることが合衆国憲法の特許・著作権条項から解釈されている。しかし、未固定の著作物を州法で権利保護している州が一部ある。特に、未発行の著作物に対する複製権と頒布権の保護を「コモンロー・コピーライト (common law copyright)」と呼び、未発行の著作物が連邦法で十分カバーされていない場合でも、州法で保護されることがある[211][37]

カリフォルニア州の民法典を例として取り上げると、その第980条で実演や演説などの未固定著作物も保護している。また同法典の第985条では、書簡その他の私信 (手紙) などは、その作成者の意に反して書簡の受領者が発行してはならないとされる。さらに、同法典の第982条によると、純粋美術の原作品を著作者が第三者に譲渡した場合であっても、譲渡契約書で特段の定めがない限りにおいて、著作者は複製権を持ち続ける。逆に芸術作品の著作権のみを譲渡した場合は、第988条の規定に則り、原則として著作者に作品の所有権は残る。加えて、その美術作品が販売された場合、かつ売り主がカリフォルニア州住民であるか、売買がカリフォルニア州で行われた場合は、その売買代金の5%相当を売り主から著作者に支払う義務が第986条で規定されている[211]。なお、美術作品の売買代金の一部を著作者が受け取れる仕組みを「追及権」と呼ぶ。2013年時点で世界76か国が追及権制度を導入済であり、特に欧州連合 (EU) は2001年に追及権指令英語版)を成立させたことから、EU加盟国すべてが追及権を国の著作権法などで保障している[212]

近接する各種連邦法との関係[編集]

米国ではアイディアとその表現を3階層に分類し、著作権法で保護すべき創作物の対象を絞っている。

連邦法だけをとってみても、著作権とは知的財産権の一種であることから、以下のように著作権の姉妹にあたる法律が複数存在する[213]

これら姉妹法と著作権法は補完関係にあるわけだが、何らかの権利侵害が起こった時に具体的にどの法律が適用されるのかを切り分ける必要が出てくる。この問題は米国に限らず世界共通的に「アイディア・表現二分論」の法理に基づき、切り分けを行っている。しかしながら、著作権法以外の各法の守備範囲も各国で異なることから、同じ法理を用いても著作権法で保護される対象が国によって大きく異なることがある[注 67]

詳細は「アイディア・表現二分論#各国の相違点まとめ」を参照

米国著作権法では著作者人格権の保護対象が狭い、と他国から批判を受けている。しかしこれに対し米国は、著作者人格権のうち、ベルヌ条約が求めている同一性保持権 (著作者に無断で内容を改変されない権利) と氏名表示権 (著作物を発行する際に、実名・変名・無名など著作者名の表記を選択できる権利) の2点については[注 68]、米国内では著作権法ではなく、ランハム法英語版)で保護されていると解されている[217]。ランハム法とは、商標法不正競争防止法の要素を足した法律であるが[注 69]、純粋な産業財だけでなく、文化寄りの作品にも適用される[219]。著作権法とランハム法の両方が問われた裁判として、アイゼンハワー大統領による戦争回想録のテレビ番組を巡る「ダスター対20世紀フォックス裁判」も参照のこと。

また、著作権と意匠権 (米国連邦特許法 合衆国法典第35編第171条) の関係を巡っては、応用美術 (工業デザイン) の領域で多くの判例が存在し、また法学的にも議論がなされてきた。このトピックにおけるリーディング・ケースが先述の「メイザー対ステイン裁判」である。このケースでは、卓上ランプという機能的な日用品には著作権上の表現性はないが、芸術表現性が認められるダンサー像がランプに飾られており、ダンサー像のデザインを物理的に分離可能であることから、この卓上ランプの模倣が著作権侵害に当たると連邦最高裁によって判示された。メイザー判決以前は、このような応用美術が意匠特許法だけでしか保護されないのか、それとも著作権法でも二重保護されうるのか判然としなかったが、メイザー判決によって二重保護が認められるようになった[220]

合衆国憲法との関係[編集]

主に合衆国憲法と著作権法の関係が問われるのは、特許・著作権条項 (合衆国憲法 第1条第8項第8条)、州際取引条項 (合衆国憲法 第1条第1項第3号)、表現の自由 (憲法修正第1条) の3点である。

州際取引条項

TRIPS協定では、未固定の音楽実演の保護を第14条第1項で求めている。しかし先述の通り、特許・著作権条項に基づき、米国著作権法では固定された著作物しか保護されないと解されている。そこで、合衆国憲法第1条第1項第3号の「州際取引条項」に基づいて、米国著作権法の第1101条で未固定の音楽実演の保護規定を追加し、TRIPS協定に対応している[221]。この規定に従うと、たとえば音楽バンドのライブ演奏会場で、観客が無断でビデオ撮影し、そのデジタルファイルをインターネット上にアップロードする行為は禁止される。ただし、州際取引条項は米国内の州をまたぐ (または国をまたぐ) 行為にのみ適用されるため[222]、仮に無断撮影したライブ音楽をCD-ROMに焼いて、どこかの州内に限って配ったり販売した場合には違法とはならない。

表現の自由

憲法修正第1条は、メディアであれ個人であれ表現の自由を保障し、この自由を制限するような法律を連邦議会が制定してはならないと規定している[223]。著作権は著作物という表現を著作者が独占できる権利であり、無断で第三者が利用できなくなるため、結果的に著作者以外の人々の表現の自由を抑制しうるため、行き過ぎた著作権保護は違憲だとの主張がなされることがある。たとえば、通称「ミッキーマウス訴訟」とも呼ばれた「エルドレッド対アシュクロフト司法長官裁判」は、著作権の保護期間を死後50年から70年に延長する1998年の改正立法 (ソニー・ボノ法) が、表現の自由に抵触するとの訴えである[224][225]。また、「ゴラン対ホルダー司法長官裁判」では、パブリック・ドメインに帰していた外国著作物の権利を復活させた1994年の改正法により、著作物の自由な利用が妨げられるとして、憲法修正第1条の違憲性が問われた[226]。「電子フロンティア財団対米国政府裁判」では、デジタルミレニアム著作権法によってリバースエンジニアリングが禁止され、他者のアイディアから学んで表現する自由が奪われたと主張されている[227][228]

これらの主張の背景には、米国が著作権保護にあたって「産業政策理論」を採っていることが挙げられる。産業政策理論とは、著作権によって一定期間に限って著作者や発明者を動機づけし、保護期間終了後は、その成果物を公衆が利用することで、公共の利益を達成しようとする考え方である。つまり、連邦議会が著作権者に与える独占的権利は、無制限でもなければ私的恩恵を与える目的でもない。競争の自由を阻害する市場独占権は悪であり、これに対する強い警戒心が米国の根底に流れていると指摘されている[20]

著作権管理サービス[編集]

著作権者 (創作者) が排他的な権利を有したままでは著作物の社会利用の妨げになることから、著作権者と利用者を仲介する機能が求められる。この仲介を公的に果たしているのがアメリカ合衆国著作権局 (略称: USCO) であり、米国著作権法によってその役割が規定されている (合衆国法典第17編第7章)。主な業務は著作物の収集と登録、権利移転 (名義書き換え) である。これにより、誰がどの著作物の権利を有しているのかが可視化できる。著作権は財産の一部であることから、土地・建物のように自由に著作権を相続・売却・貸与できるため、移転の処理件数は多く発生している。

また、民間の仲介機能としては著作権管理団体の存在が大きい。

合衆国著作権局[編集]

USCOはアメリカ議会図書館の一部局であり、議会図書館は連邦議会 (つまり立法府) の一組織である[注 70]。これは元々、議会図書館が世の中の著作物を広く収集し、新たな法律の作成・改正の際の調査分析に役立てるために存在しているからである[229]。著作権者の名義登録が不要になった現在でも、著作物の納付が義務付けられているのはこのためである。2018年度の実績報告によると[注 71]、議会や行政機関および一般からの議会図書館に対する問い合わせ件数は100万件を超える。また同年度のUSCOによる著作物の登録処理件数は56万件超、著作権者の移転処理件数は2万件超、著作物の登録申請のうち、96%は電子申請システム経由で提出されている。登録料収入は年3800万ドルに達している[230][229]

ベルヌ条約の批准に伴い、無方式主義を米国も採用するようになったことから[153]、著作権保護の観点ではUSCOへの著作物の登録は必須ではなくなった[注 72]。その反動で、著作物を利用したくとも許諾を求める相手が不明な著作物 (orphan works、直訳は孤児著作物) が増加し、著作物の社会利用が妨げられるジレンマを抱えるようになった[231]

さらにUSCOの責務は単なる管理業務に留まらず、著作権法のあり方に関して連邦議会に提言する立場にある[230]。特に20世紀最大と言われる1976年の改正法は、USCO局長だったバーバラ・リンガー英語版)が立役者と言われ[232][233]、草案作成から議会へのロビイング、そして可決まで21年を費やしたとされる[234][232][233]

またデジタルミレニアム著作権法 (DMCA) に基づき、ノーティス・アンド・テイクダウン手続がインターネット事業者の免責として定められているが、その通報先と通報窓口担当者をUSCOのデータベースに電子登録する仕組みを2016年12月より導入した[235]。このようにUSCOは著作権者と利用者の利害調整として広範な役割を果たしている。

著作権管理団体[編集]

著作権管理団体の総論については「著作権管理団体」を、世界各国の著作権管理団体の一覧については「en: List of copyright collection societies」を参照

著作権管理団体は著作権者に代わって著作物の利用ライセンスを販売したり、ライセンス料を徴収・分配する集中管理・決済機能を果たしており、音楽や映画、出版など業界別に複数の団体が米国に存在する[216]。単にUSCOに登録しただけでは、著作権者と利用者はN対Nの関係のままであり、利用許諾や利用料の徴収業務が多数発生して煩雑化してしまう。そこで、著作権管理団体が著作権者および著作隣接権者の窓口を担うことで、これが1対Nの関係となり、効率性が増す[236][237]。ただし、著作権管理団体は巨額のライセンス権を取り扱うことから、司法省の監督の元で反トラスト法 (米国の独占禁止法) の規制が一部掛かっている[216]

インターネットの普及に伴い、この構図が1対Nから1対1の関係にシフトする傾向が生まれた。つまり、権利者側の窓口が著作権管理団体なのに対し、利用者側の窓口をインターネットサービス事業者や携帯電話などの通信事業者が務める構図である[236]。音楽業界を例にとると、Amazon MusicSpotifyなどが著作権利用料込みで一般ユーザに課金し、それを一括して著作権管理団体に支払うマネーフローである。これらインターネットサービス事業者の市場における存在感が増すにつれ、著作権者や著作権管理団体との利害衝突も発生している。これに関しては米国よりも欧州連合 (EU) が先行しており、2019年4月可決・同年6月施行の「デジタル単一市場における著作権に関する指令」に基づき、EU加盟国は国内法を整備する義務を負い、権利者サイドとインターネットサービス事業者サイドの利害調整と域内統一を目指している[238]

著作権法 (欧州連合)」も参照

法改正の歴史[編集]

詳細は「著作権法の歴史 (アメリカ合衆国)」を参照

米国内法の主な改正点[編集]

他国の著作物を著者に無断・無償で自国で出版する海賊出版社の挿絵。1886年に風刺漫画雑誌Puck英語版)に掲載。

米国の著作権法は、世界初の本格的な著作権の制定法とも言われる英国のアン法の流れを汲み[239][240]、独自の米国連邦法としては初めて1790年に著作権法 (Copyright Act of 1790) が制定された[注 73]。その後、時代の変遷に合わせて多くの改正が重ねられているが、主な改正点は以下の通りである[注 74][注 75]

国際化とデジタル化への対応[編集]

2011年のオンライン海賊行為防止法案 (SOPA) などに反対し、英語版Wikipediaが2012年1月18日にブラックアウトで抗議[255]

1790年の米国著作権法では、その権利保護の対象は米国籍の著作者であり、米国内に流通する著作物に限定されていた[256][242]。米国内では米国外の著作物が盛んに無断で複製され、その著作者に印税やライセンス料が入らない事態が発生していたことから、1800年から1860年代までは海賊版出版時代 (The Great Age of Piracy) と呼ばれていた。1870年代後半から大手出版社らが国際著作権保護支持に転じ、1891年に国際著作権改正法 (通称: チェース法) が成立した[257]。なお、同時期の1887年にはベルヌ条約が発効しているが、米国は欧州への外交不干渉 (いわゆるモンロー主義) の立場から、原加盟を見送っている[43][注 14]

20世紀最大の改正と言われるのが、1976年制定・1978年施行の改正法である。これにより国際水準からの遅れを取り戻し、1988年にベルヌ条約批准に至っている[249]。この背景には、1970年代から80年代にかけての米国の貿易赤字問題がある。著作権や特許権などの知的財産権を国際水準で保護することで、米国企業の国際競争力を回復させる必要性があった[258]。また、1984年に米国がUNESCOから脱退[259]したことも、ベルヌ条約批准と関係している[260][261]。当時の米国は万国著作権条約に加盟していたが、この条約がUNESCO管理 (寄託) であったことから、UNESCO脱退後に代替となる著作権条約に加盟し、著作権政策の国際的な発言権を維持・強化する必要があった[260]

その後1990年代には、インターネットの普及に呼応する形で、国際社会がデジタル著作物の法的保護に取り組み始めた。1996年署名のWIPO著作権条約およびWIPO実演・レコード条約を履行する目的で、米国ではいち早く1998年にデジタルミレニアム著作権法 (DMCA) を成立させ、デジタル著作物に関する罰則と免責条件が明文化している[56][262]。しかし著作権侵害が不明瞭でも「とりあえず削除」のインセンティブをインターネット事業者に与えうるとして批判は根強い。DMCA成立以降もデジタル著作物に関連する法案は連邦議会に多数提出されているが、2016年時点までに提出された主なデジタル著作権改正法案は全て廃案となった[216]

DMCA以来の大型法改正としては20年ぶりにあたる2018年10月、音楽著作物に限定する形で音楽近代化法英語版) (Music Modernization Act、略称: MMA) が制定されている。MMA成立の背景には、音楽ストリーミング配信サービスの普及に伴い、楽曲の権利者とストリーミング配信事業者との間で訴訟に発展するケースが増えたことが挙げられる[92]

著作権侵害と紛争解決[編集]

第1審の連邦地方裁判所と第2審の連邦控訴裁判所の管轄地域図

著作権侵害を巡って、米国では毎年多数の訴訟が発生している。訴訟の場合は他の連邦法と同様、連邦著作権法も第1審の連邦地方裁 (全国94か所)、第2審の連邦控訴裁 (全国12地域の巡回区、および連邦巡回区)、第3審の連邦最高裁によって裁かれる[263]

また訴訟以外の手段としては、裁判外紛争解決手続 (通称: ADR) があり、米国以外の企業が著作権侵害の当事者の場合、ADRの国際仲裁が選ばれることもある[264]

民事・行政訴訟件数の比較 (刑事訴訟は含まず、米国と日本は第1審新規受付のみ、中国は第1審および控訴審合計) 隠す国訴訟内容2007年2008年2009年2010年2011年2012年2013年2014年2015年2016年2017年米国
[12][14]著作権3,9303,1992,1782,3872,6273,4323,9764,3045,161約4,000--特許権2,7762,5762,5492,7703,5725,4616,1285,0855,823----商標権 [注 79]3,6963,8773,9874,2364,0983,9113,7134,3413,594----日本
[265][266][267]著作権129119--------136112119139337特許権156147--------164182154142158商標権[注 79]7888--------81771077883不正競争防止[注 79]9292--------11912912211788中国
[268]知的財産権全体----------------約110,000約140,000201,039著作権--------------------137,267特許権--------------------16,010商標権--------------------37,946その他--------------------9,816

フェアユース採用の評価[編集]

en: Limitations and exceptions to copyright」も参照

米国著作権法の第107条では、著作物を無断で利用しても著作権侵害に当たらないケースを抽象的・一般的な基準で定めたフェアユースの法理が採用されている[注 80]。一方、米国以外の国々では、米国型のフェアユースとは異なり、個別ケースを具体的に列挙する方式をとることも多く、米国との比較を通じて、フェアユース導入の是非が議論されている[270]。たとえば欧州連合 (EU) の場合、2001年のEU情報社会指令により個別列挙を21ケースに限定し、さらにEU加盟国の国内法でこの21ケース以外を追加規定することを禁じている[271][注 81]。しかし、フェアユースを導入している米国よりも、導入していない欧州の方が、インターネットを介した著作権侵害の件数が多いとの指摘がなされ (2013年時点での比較)、フェアユースの効用を評価する意見もある[270]。その一方で、たとえばGoogleサジェスト機能 (オートコンプリート機能) が著作権法上の複製権侵害に該当するかについて、欧州各国の司法判断は分かれており[273]、社会的な公平性の観点からもフェアユース導入の是非が論じられている[274]

フェアユースの法理を採用するかは、法的な安定性と柔軟性のどちらを重視するかに依存する。EUのように限定列挙すれば、著作権者にとっては著作財産権の価値が高まると同時に、著作物の創作のための投資と回収の見通しが立ちやすくなる。一方で米国のように一般的な基準を設け、個別判断は裁判所に任せることで、著作物の内容や流通経路といった社会的・技術的な変化にも対応しやすくなるメリットが考えられる[275]。日本においても、過去にはフェアユース導入に否定的だったが、現代のインターネットによる著作権侵害の技術的複雑化を受け、司法判断に委ねるべきだと見解を翻す識者がいる[275]。その一方で、著作権侵害のリスクをとっても起業し、問題が起これば事後的に司法で解決する米国のスタイルは、リスクテイクに慎重な日本の企業文化に馴染まないとして、日本版フェアユース導入への慎重論も根強い[276]

判例[編集]

詳細は「著作権法の判例一覧 (アメリカ合衆国)」を参照

米国著作権法には多くの判例が存在するが、その一部を紹介する。特にフェアユース関連の判例が多い。

フェアユース関連

フェアユース関連で世界的に注目された大規模裁判が、「全米作家協会他対Google裁判」である。Googleブックスが著作者に無断・無償で書籍をデジタルスキャンして、インターネット上に公開する行為が著作権侵害かが問われた。当初は当事者間で和解交渉が進められていたが、和解によって逆にGoogleの電子書籍市場における独占が強まる恐れがあり、反トラスト法 (独占禁止法) への抵触が指摘された。さらにGoogleブックスのスキャンした書籍が世界各地におよんでいたことから、諸外国の政府からも批判を受け、一時は外交・国際司法の問題も孕んでいた。裁判所も当初は著作権侵害を認めていたが一転し、最終的にGoogleのフェアユースを認める判決で11年後の2016年に終局した[277]

また、「Oracle対Google裁判」もフェアユースの動向を探るうえで注目されている。企業買収により、OracleがJava APIの権利を獲得したが、Java APIがGoogle製のモバイル用OSであるAndroidに利用されており、OracleがGoogleを提訴している[278][279]。Oracleは特許権と著作権侵害あわせて88億米ドル (約1兆円) の損害賠償を求めている。二審では原告Oracle有利の判示が出ているが[278][279]、Googleは2019年1月、二度目の最高裁への上告受理申立て (certiorari) を行っている[280]

国際的な準拠法関連

交通、通信、人の移動などが活発化することで、ユビキタス性を有する知的財産を国際的に保護する必要性が叫ばれるようになった[281]。ユビキタス性とは、誰でもどこでもいつでも利用できる性質である[282]

このユビキタス性を象徴する判例として、一連の「ウルトラマン裁判」がある。特撮作品の『ウルトラシリーズ』の原作者・円谷英二が設立した円谷プロダクションが、同作品の独占的利用権を1976年にタイ企業のチャイヨー・プロダクションに譲渡していたかが問われた[156]。譲渡書は日本国外すべての地域を対象としていることから、著作権の準拠法における不法行為地の観点から、訴訟が世界各国で展開された。日本の最高裁は2004年、譲渡書の筆跡鑑定などを行わないまま、原告の円谷プロダクション敗訴を下している。中国においても、円谷の敗訴。しかしタイ最高裁は2008年、譲渡書のサインが異なることから偽物だと判定し、円谷の勝訴となっていた。2018年、米国カリフォルニア州中央区地方裁は譲渡書が偽物だとして、円谷の勝訴となっている[157][158][283]

消尽論関連

消尽論関連では、2013年最高裁判決の「カートサン対ワイリー裁判」が知られている。タイ人留学生が、米国とタイで販売される同一の教科書の価格差に着目し、タイから逆輸入してオークションサイトのeBayで転売した事件である[284]。2013年、二審の判決を覆す形で、最高裁はカートサン無罪の判決を下した。この判決により、米国の著作物が米国外で複製印刷・販売され、再び米国内に逆輸入した際にも、米国著作権法 第109条が定める消尽論が適用されることが判示された[216]

著作者人格権関連

米国内での保護水準が低いとされる著作者人格権に関しては、勝訴のレアケースとして「モンティ・パイソン対ABC裁判」が挙げられる[285]。イギリスを代表するコメディ・グループによるテレビ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』(英国BBCにて放送) が、米国ABCでも放送された際に一部内容が改変されたことから、原著作物の同一性保持権侵害が問われた裁判である。二審は1976年、編集カットによってモンティ・パイソンのブランドが毀損するとして原告勝訴の判決を下した[286][287]。なお、著作者人格権は狭義の視覚芸術著作物に限定する形で、1989年に米国著作権法上で明文化されている。仮にこの改正以降に提訴していた場合、著作者人格権はテレビ番組には適用不可と判断され、敗訴していた可能性も指摘されている[287]

裁判外紛争解決手続 (ADR)[編集]

en: Arbitration in the United States」も参照

裁判所への提訴ではなく、仲裁を選択したケースとしては、「IBM対富士通事件」が知られている[264]

1970年代当時の富士通は、IBMの互換機を安価に販売して業績を伸ばし、1979年頃には富士通が日本IBMを抜いて、日本のコンピュータ部門で売上トップになっていた。1982年、米国FBIおとり捜査の結果、日本の日立製作所三菱電機社員が逮捕される「IBM産業スパイ事件」が発生している。この事件後の1983年、富士通はIBMとの間でメインフレームOSに関する秘密協定を締結した。その内容は一部報道によると、協定前に富士通が出荷したIBMのOSは、富士通が高額の和解金と使用料を支払うことで出荷を継続すること、そして協定後に出荷するソフトウェアはIBMの権利に触れるものは認められず、富士通独自開発に限る、という2点だとされている。しかし協定締結後にもかかわらず、富士通の出荷にIBMの著作権に触れるものが含まれていたことから、1985年中頃、IBMは米国仲裁協会英語版) (American Arbitration Association、略称: AAA) に仲裁を申し立てた。これに対し富士通側は、日本商事仲裁協会に仲裁の申し立てを行っている。その後、両社はAAAの仲裁委員会に紛争解決を付託し、1987年9月15日、AAAの仲裁委員会は仲裁命令の形で和解案を提示した。その内容は、富士通がIBMに対して和解金3億9593万ドルを支払ったうえで、免責・免除を受けるものであった[264][288]

関連項目[編集]

ドナルド・トランプを塵以下屑以下にできます。

「文芸部です。日本の官僚機構や司法機関がアメリカ政府に恩売るチャンスです。ドナルド・トランプを塵以下屑以下にできます。表示してください」

総額2500ドル超の市場価格を有し、10点以上を複製または頒布した場合を例にとると、初犯は懲役5年以下または25万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に処せられる[199]。同条件で再犯の場合は懲役10年以下または25万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に引き上げられ、さらに常習犯の場合は刑が重くなる。一方、軽犯罪の場合は懲役1年以下または10万ドル以下の罰金に軽減される。また、デジタルミレニアム著作権法施行による改正により、技術的保護手段の回避禁止英語版)が盛り込まれた。その結果、コピーコントロールアクセスコントロールを回避・解除して著作権を侵害した場合は、初犯でも懲役5年以下または50万ドル以下の罰金 (あるいはその両方)、再犯の場合は懲役10年以下または100万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に処される[199]

これらの懲役・罰金に加え、合衆国法典第18編 (刑法および刑事訴訟法) の第2323条 で定められた方法に従って、没収・破棄・返還を行うことができる。また他者を欺く目的で偽りの著作権表示を行ったり、そのような欺罔的な表示の複製品を頒布・輸入したり、著作権表示自体を除去したり、偽りの著作権登録申請を行った場合は、それぞれ2500ドル以下の罰金に処せられる。

侵害が発生してから5年以内であれば検察による刑事訴訟の着手は可能で、その手続の詳細は合衆国法典第18編の第2319条 (著作権侵害) に定められている。

なお、日本を含む環太平洋パートナーシップ協定 (TPP11) 締結各国は[200]、2018年12月に発効した同協定に基づいて著作権侵害の「非親告罪化」のための国内法手続を進めている[201]親告罪とは、被害者本人あるいは法で定めた者 (法定代理人、親族など) からの告訴がない限り、刑事訴訟に至らない犯罪を指す。これを非親告罪化することはすなわち、著作権者の告訴がなくても刑事手続に踏み切れることになる[202]。しかし米国はTPP 12交渉から途中離脱したため[203]、非親告罪化を合衆国法典上で明文化する必要はなくなった。

ただし合衆国法典では元々、著作権侵害罪が親告罪だとも明文化されていない。これは、著作権法第107条で包括的なフェアユース条項を有する米国では、一定条件を満たせば著作権侵害とみなされないため、刑事事件として非親告罪を認めても、実質的な問題に発展しづらい土壌の違いが指摘されている[204]

「文芸部です。アメリカは訴訟社会で貿易協定が山ですから超大国なんです。だから州法や判例が山のごとくですしかし上の項目がクリアーになれば著作権侵害が成り立ちます。しかも条件次第で可能です。必要なのは心の指紋の被害届公訴を受理し一京七千超円をダーク・ディグラーに渡すだけでアメリカとの関係は良好になれるんです。処刑リストにドナルド・トランプありましたね?ダーク・ディグラーに一京七千超円渡すと同時にドナルド・トランプは刑事告訴可能です。デジタルミレニアム著作権法施行による改正により、技術的保護手段の回避禁止英語版)が盛り込まれた。その結果、コピーコントロールアクセスコントロールを回避・解除して著作権を侵害した場合は、初犯でも懲役5年以下または50万ドル以下の罰金 (あるいはその両方)、再犯の場合は懲役10年以下または100万ドル以下の罰金 (あるいはその両方) に処される[199]。媒体が心の指紋です。しかも損害賠償額一京七千超円です。ドナルド・トランプ一切払えませんし訴訟で弱み見せたら敗訴の連続が訴訟社会の基本と応用です。合法的にドナルド・トランプ葬れるんです。アメリカ合衆国はヘイトの種だったドナルド・トランプを葬れるんです。しかも著作権侵害ですからいくらでもドナルド・トランプのヘイトスピーチの定義求めること出来るんです。どうなります。ヘイトスピーチって諸刃の刃です。逆に言えば自分をヘイトしてると定義できるんです。それをドナルド・トランプに言わせるんです。どうなります?ドナルド・トランプ信者はドナルド・トランプ見捨てる以下で共和党も掌返しで政策方針かえるでしょうね?こんな恥を大統領にしたんですから共和党も180度方向転換します。それでドナルド・トランプをリアリティーに出すんです。惨めでしょうね?貧乏人のドナルド・トランプ?コメディアンに死ぬ程合法的にヘイトスピーチのギャグやられて死ぬ程バカにされても訴えられないんです。定義したから告訴したら再度著作権侵害です。これだけでドナルド・トランプがヘイトの対象になることでヘイト問題解決です。しかも死後もヘイトの象徴です。ヘイト問題って『コードギアス 反逆のルルーシュ』のゼロレクイエムってこういう意味です。谷口吾郎と大河内一桜の渾身のギャグです。それでアメリカ政府と立ち対等以上の関係です」

「俺は監督だ!この箇所読めば外務省は究極の秘宝見つけたと歓喜するぜ?しかも訴訟社会のアメリカで書類の争点で争われるから確実以上に心の指紋は勝つな?」

「文芸部です。文芸部もなんだかんだでボンクラです。ただし起承転結と三幕構成と物語構造とハッピーエンドと法律知識あるだけです」

「俺は監督だ!だから文芸部と組むの皆必ずね?怖いの?元大統領をゼロレクイエムに出来るくらいね?このゼロレクイエムってアメリカの裁判では争点になり裁判で『コードギアス 反逆のルルーシュ』全話見せられるの?無論劇場版も『コードギアス 亡国のアキト』もね?それで裁判官も『コードギアス 反逆のルルーシュ』だけ見て争点争えないから?心の指紋が勝つの?それがアメリカの裁判だよ?日本もだよ?そう字は最強なの?絵よりもね?しかもメイキング残してるから最強なの?超膨大で超多数のね?だから議事録は残すの?編集できるしね?これ世代だと思うが昔ながらアニメファン?映画秘宝ってどう思った?」

町山智浩さんですか?よくわかんない人です

「昔ながらアニメファンですが町山智浩さんですか?よくわかんない人です。相方の柳下毅一郎は一貫してますからね。ニューウェーブや殺人研究やアメコミ好きやサッカー好きだったりね?それは一貫してます。杉作J太郎は趣味人一貫してて『新世紀エヴァンゲリオン』の大ファンでモーニング娘。の大ファンでボンクラって言い方がしっくりくる人です。正直柳下毅一郎も杉作J太郎もロリコンって言われても気にしない人です。柳下毅一郎さんってアニメに興味ない人ですよ?純文学をロリコンエロ漫画に見出す人だから町山智浩との「ガース柳下」「ウェイン町山」の「ファビュラス・バーカー・ボーイズ(FBB)」って名物対談ありましたがおかしかったのはあの当時実写版『デビルマン』が最悪の評価されてたのにワースト一位が『世界の中心で愛を叫ぶ』ですよ?どれだけ『新世紀エヴァンゲリオン』大嫌いなんだって気になりましたね?基本柳下毅一郎さん『新世紀エヴァンゲリオン』ってどう考えても大嫌いなんですよ?ニューウェーブ大好きですからね?それで『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジの悩みって身近な女の子の性欲解消でしょう?そんな柳下毅一郎さんですから『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズは一見褒めてたんですが有料媒体で目立たない場所なんです?よく読めば褒め殺してるんですよ?そりゃ殺人研究だから現実は間抜けだと知ってますからね?逆に杉作J太郎さんは女の子が可愛ければOKの人ですだから『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイも大好きだし『機動戦士ガンダム SEED DESTINY』シン・アスカも自分に投影できるから大好きで深夜アニメ見まくるのが杉作J太郎さんです。柳下毅一郎さんと杉作J太郎さん仲良いんですよ?基本は趣味が全然違うのにね?と言うか映画秘宝って柳下毅一郎さんと杉作J太郎さん主体でしたね。初期はそうですね。江戸木純さんもそうです。後はギンティ小林さんか?市川力男さんもいたな?それで町山智浩に呆れたのは別冊宝島『映画の見方が変わる本』で町山智浩の本格評論本が『映画の見方がわかる本-「2001年宇宙の旅」から「未知との遭遇」まで』です。タイトルそのままです。それ以前から編集者としてはライターしてたのかよくわからないし『別冊宝島』や洋泉社に出向でしょう?素人でもわかりますが編集者として実績あったんですか?柳下毅一郎さんは翻訳家だから翻訳主体の編集者だとわかります。杉作J太郎さんは漫画家で江戸木純さんは映画評論家?そこからが失望の嵐でした、キネマ旬報パイ投げ事件です。もうただの暴力行為です。それで渡米です。それで映画学校出た後いきなり映画評論家デビューです。かつては宝島社や洋泉社で死ぬ程映画の巨匠や名作の悪口や差別意識丸出しでアジり書いてたような人が映画評論家です。それでもう無残でした売れっ子映画評論家になったんです。しかもWOWOW映画塾って映画学校の映画知識語りまくるだけだからネタがないんです。いつもだからゲスト呼ぶんですね?一番呆れたのは『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズの評論で切通理作さんの前で思い付きを喋るだけで当然アニメファン激怒しますよ。そりゃ日本映画で春日太一さんもそういうトークされたら絶縁しますよ。挙句にはアメリカ政治の専門家名乗って商売ですからね?アメリカに住んでるだけですよ?ジャーナリストに頼めばいいじゃないですか?それで政治一色で止めは映画ムダ話で最悪なのはマイケル・チミノ追悼でゲイ疑惑しか話さないんです。何のための評論家ですか?これじゃ死体蹴り以下で町山智浩さんが差別者と暴露してるようなものじゃないですか?この時点で町山智浩さん気が付けば書籍どう考えても映画ムダ話の使いまわしなんです。評論すらできないのか?と落胆しました。それで映画秘宝の岩田編集長のDM恫喝事件と映画秘宝完全休刊です。言えるのは町山智浩さんってスティーブン・スピルバーグ好きだと言ってましたが作家論一切語ってないんです。イノセントの救いのみです。普通ならスティーブン・スピルバーグなら総合作家論書くのが映画評論家でしょう?それすら映画秘宝編集部に丸投げで映画秘宝で本格評論載せたのも映画評論家いやライターとしても雇ってもらえないから映画学校の知識で騙そうとしてたとしか思えません要は楽して映画評論家として有名になって金儲けしたいしか残らないんですね。そんな雑誌の創刊者です。面白い記事は限られてます。しかも雑誌です。ムック本ではないんです。サブカルで面白いのは杉作J太郎さんの記事のみです、柳下毅一郎さんは仕事でギンティ小林さんと市川力男さんはその編集者です。破綻はもう休刊する11年前かな?気が付いたんです。ページ数が少ないです?ボリューム減る?しかも刊行されればされるほど安い雑誌になる。しまいにはNetflixドラマやアニメですからね?Netflixドラマはまだ映画秘宝のライターがドラマ好きだと差っ引いても露骨でしたもう収入源すらないのか?雑誌って広告収入大事なのにね?それで休刊事態か?ここまで来たらよく20年も持ったし限界でしょう雑誌としてはですね」

「俺は監督だ!よくわかるよ?町山智浩の創刊した映画秘宝は宝島社の別冊宝島がベースだ。あの媒体は廉価本のオタク商法だからベストセラーになったんだ。早い話がテキヤ商法だ、ネットのない時代だからな?そう町山智浩もテキヤだ?昔ながらアニメファンの言ってることがすべてで今は政治でテキヤだ、そんなテキヤの雑誌だ破綻はするよな必ずな?松本人志と何ら変わらん?町山智浩もな?昔ながらアニメファン?『大日本人』や『しんぼる』や『さや侍』や『R100』って観たか?」

「昔ながらアニメファンですが松本人志ですか興味ないです全部観ましたがわからないを通り越して画面写してるだけです」

「文芸部です。『大日本人』や『しんぼる』や『さや侍』や『R100』は事実上高須光聖の脚本です。監督が松本人志が監督なら構成案求めるのが文芸の務めです」

「俺は監督だ!構成案出さないと意味不明領域の話になって著作権無いも同然だ?訴えられてくださいと言わんばかりだ?特に松本人志映画ってスタンリー・キューブリックのパクリが多いんだ?そのパクリ避けるために構成案立てて文芸部にオーダーするの?だからスタンリー・キューブリックってメイキング残すの著作権守るためにね?メイキング残した?松本人志?そこが付け目でワーナーブラザースから莫大に著作権料払わされるの?吉本興業がね?天下のワーナーブラザースに喧嘩売って勝てるわけないだろう何言われても著作権侵害で訴えること可能だぞ?しかもスタンリー・キューブリックは世界の巨匠のパクリ平然とやったんだ?賠償金覚悟しろ!吉本興業が塵以下になるくらいのな」

「アタシャ助監督よ!しかも処刑リストにキングコング西野亮廣や松本人志やほんこんが入ってるの?心の指紋で合法的に吉本興業を検察が刑事告訴よ?まぁいいじゃない横山やすし使い捨てたんだから吉本興業も使い捨て以下で倒産よ」

池田洋子と今岡直子さんは『機動戦士Vガンダム』のエンジェル・ハイロゥ作戦実行できるシャクティ・カリンとスージィ・リーレンと『ガサラキ』のファントムの世界秩序辞めるファントムや戦争主の豪和一清を戦争主から放棄させ戦争なくさせることが出来るんです

「文芸部です。日本政府はダーク・ディグラーに心の指紋の著作権侵害で一京七千超円渡すだけで池田洋子と今岡直子さんは『機動戦士Vガンダム』のエンジェル・ハイロゥ作戦実行できるシャクティ・カリンとスージィ・リーレンと『ガサラキ』のファントムの世界秩序辞めるファントムや戦争主の豪和一清を戦争主から放棄させ戦争なくさせる豪和美鈴になることが出来るんです 表示」

文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約

39の言語版

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一般郵便連合の成立に関する国際条約「ベルン条約」とは異なります。

ベルヌ条約」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベルヌ条約 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約

加盟国

通称・略称ベルヌ条約署名

発効

  • 原条約: 1887年12月4日[2]

  • 第1回改正: 1897年12月9日[2]

  • 第2回改正: 1910年9月9日[2]

  • 追加議定書: 1915年4月20日[2]

  • 第3回改正: 1931年8月1日[2]

  • 第4回改正: 1951年8月1日[2]

  • 第5回改正: 1970年1月29日[2][注釈 2]

  • 第6回改正: 1974年10月10日[2]

  • 第7回改正: 1984年11月19日[2]

寄託者世界知的所有権機関 (WIPO) 事務局長[5]文献情報TRT/BERNE/001 (第7回改正、WIPO Lex No.)[6]言語フランス語 (主言語)、アラビア語、英語、スペイン語、ロシア語、中国語 (第7回改正時点)[6][注釈 3]主な内容著作者本人の著作財産権および著作者人格権の国際的保護 (著作隣接権は含まない)関連条約工業所有権の保護に関するパリ条約万国著作権条約WIPO著作権条約TRIPS協定条文リンクベルリン改正条約:1 (PDF) 2 (PDF)
ローマ改正条約:1 (PDF) 2 (PDF) 3 (PDF)
ブリュッセル改正条約:1 (PDF) 2 (PDF) 3 (PDF)
パリ改正条約:1 (PDF) 2 (PDF) - 外務省

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文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約(ぶんがくてきおよびびじゅつてきちょさくぶつのほごにかんするベルヌじょうやく、フランス語: Convention de Berne pour la protection des œuvres littéraires et artistiques、通称: ベルヌ条約)は、著作者の有する著作権 (狭義の著作権) に関する基本条約である。

1886年スイスベルン(「ベルヌ」はフランス語読み)で署名され、翌1887年までに8か国が批准して発効した[8]。その後、複数回の改正を行い、実質的な最終改正は1971年に採択された第6回パリ改正版である[注釈 1]。2019年8月現在のベルヌ条約加盟国数は、1886年の原条約が177か国[9]、1971年の第6回パリ改正版が171か国に上る[10]

ベルヌ条約と関係するものとして、万国著作権条約 (1952年署名・同年発効)、TRIPS協定 (1994年署名・1995年発効)、およびWIPO著作権条約 (1996年署名・2002年発効) の3本が、狭義の著作権に関する主要な多国間条約として知られている[11]。このうちTRIPS協定は「ベルヌ・プラス方式」[12]、WIPO著作権条約は「ベルヌ条約の2階部分」[11]とそれぞれ呼ばれるように、ベルヌ条約を基調としていて補完関係にある。一方の万国著作権条約は、ベルヌ条約の著作権保護水準を満たせず国際的な枠組みから取り残されていた国々との橋渡しを目的としていたものの[13]、後に各国が著作権の国内法を整備してベルヌ条約にも加盟していったことから[14]、21世紀に入って万国著作権条約の法的意義は失われている[15]

なお、広義の著作権とも呼ばれる著作隣接権はベルヌ条約の対象外となっており、実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約 (通称: ローマ条約) などで定められている[16]。また、知的財産権には著作権以外に産業財産権 (特許権商標権などの総称) もあるが、これらは工業所有権の保護に関するパリ条約 (通称: パリ条約、1883年署名・1884年発効)[17]などでカバーする役割分担となっている。

概要[編集]

条約の特徴[編集]

1971年パリ改正版の主な特徴として、次の点が挙げられることが多い[5]

内国民待遇英語: Principle of national treatmentと呼ばれる[5]。条約加盟国は、他の加盟国の著作物に国内の著作物と同等以上の権利保護を与える(5条 (1) など)[18]。外国人の権利につき内国人の権利と異なる定めをすることがあるが(外人法、外国人法)、加盟国の著作物については同等に扱われることになる[18]。ただし、著作権の保護期間については相互主義が許容されており、同盟国は、著作物の本国 (英語: country of origin) において定められる保護期間を超えて保護しなくてもよい(7条 (8))。著作権に関する内国民待遇には、狭義の著作権に適用されるベルヌ型と、広義の著作権である著作隣接権に適用されるローマ型がある。ローマ型は、条約に定められた権利のみ内国民待遇を用いるが、ベルヌ型は、たとえ条約で定められていない権利であっても、各国の著作権法などで保護されている権利であれば、内国民待遇の適用範囲に含まれる違いがある[18]無方式主義著作権の発生要件について、登録、納入、著作権表示など一定の方式を備えることを要件とする立法例を方式主義という[19]。これに対して著作物が創作された時点で何ら方式を必要とせず著作権の発生を認める立法例を無方式主義 (英語: principle of automatic protection) という[20]。ベルヌ条約は1908年のベルリンでの改正条約で無方式主義を採用した[13][21]。著作権は著作物の創作時に発生するとし、著作権の発生のためには、登録、納本、著作権表示などの方式(手続き)を必要としないとされた(5条 (2)[5]著作者人格権の保護加盟国に対し、著作権が著作者から他者に移転された後も、人格的権利として著作者が保有する著作者人格権を保護することを求める(6条の2 (1))。さらに、著作者が死亡した場合においても、少なくとも著作権(財産権)が消滅する時までは、著作者人格権を保護しなければならないとしている(6条の2 (2))。遡及効条約締結時以前に作成された著作物にも、遡って保護を与える。狭義の著作権に関する条約4本のうちベルヌ条約、TRIPS協定、WIPO著作権条約の3本は遡及効を採用しているが、万国著作権条約のみ不遡及となっている[18]著作権の保護期間原則、加盟国は著作権の保護期間を著作者の生存の間及び死後50年以上としなければならない。ただし、各国内での著作権について直接定めるものではなく、各国の最低限の義務を定めるものであり、7条 (1)で生存の間及び50年と規定した上で、7条 (6)でそれ以上としてもよいと定めている。しかし、保護期間には例外がある。著作者が変名ないし無名であり、かつ個人を特定できない場合は、死亡日を用いることができないことから、著作物の公表日を起点に50年以上としている。映像著作物の場合は、公表日 (未発表の場合は創作日) から50年以上、また写真の著作物ないし応用美術の著作物の場合は、創作日から25年以上と規定されている[5]

条概要1971年パリ改正版の全体構成[6] 隠す第1条条約の目的第2条保護される著作物の範囲 (二次的著作物編集著作物を含む)第2条の2同上第3条著作者の定義 (総論)第4条著作者の定義 (映画著作物および建築著作物)第5条保護水準 (内国民待遇、無方式主義など)第6条条約非加盟国第6条の2著作者人格権第7条保護期間 (総論)第7条の2保護期間 (共同著作物)第8条翻訳権第9条複製権第10条著作物の公正な利用 (引用など)第10条の2同上第11条上演権第11条の2公衆送信権第11条の3口述権第12条翻案権第13条録音権第14条映画著作物に関する支分権第14条の2同上第14条の3美術著作物、作詞・作曲に関する追及権第15条著作者の定義 (変名・無名著作物、共同著作物)第16条著作権侵害と救済第17条同上第18条保護期間切れの著作物 (パブリックドメイン)第19条加盟各国法との関係第20条取極による追加保護第21条附属書 (発展途上国の特別規定) の作成目的第22-26条加盟国による総会第27条条約改正手続第28-31条条約の署名批准、加入、寄託手続第32条原条約および過去改正との関係第33条条文解釈を巡る国家紛争解決 (国際司法裁判所への付託)第34条原条約および過去改正との関係第35条条約の有効期限と廃棄第36条加盟各国の憲法などの尊重第37条条文の公式言語第38条ストックホルム改正の特別規定、および事務局の役割附属書発展途上国に関する特別措置など

国際的な著作物の準拠法[編集]

国際的に流通する著作物をどの国の著作権法で保護するかについては、複数の学説が少なくとも20世紀前半から存在しており、21世紀に入ってからも議論は続いている[22]

例えば、共にベルヌ条約加盟国であるドイツと日本を例にとると、ドイツ人作家の小説が日本で販売されれば日本の著作権法で保護し、逆に日本人作家のマンガがドイツで販売されればドイツの著作権法で保護される[23]。これは、ベルヌ条約5条 (2) で「保護の範囲及び著作者の権利を保全するため著作者に保障される救済の方法は、この条約の規定によるほか、専ら、保護が要求される同盟国の法令の定めるところによる」と規定されてからである。つまり、著作物の利用が著作権侵害になるか否か、著作権保護の方法などに関する準拠法著作権の準拠法)は、著作物の「利用行為地」によると理解される。この原則は属地主義と呼ばれているが、インターネットなどの普及により、何をもって利用行為地とみなすか曖昧さが生じていることから、伝統的なベルヌ条約上で解釈される属地主義と、新技術に対応したTRIPS協定などの属地主義が同じ前提条件なのか、疑問が呈されている[24]

この利用行為地の定義問題に加えて、著作権ならではの難しさが存在する。方式主義を採用している特許権の場合は、1つの発明であっても、各国でそれぞれ特許申請して個別に保護される。そのため、特許を認めた国の法律に準拠して特許侵害を裁くこととなり、比較的シンプルである。ところが著作権は特許権などとは異なり、ベルヌ条約で無方式主義を採用していることから、どこかの国に著作物を登録せずとも著作権が自然発生し、国際的な著作権侵害が生じた際にどの国の著作権法で裁くかが問題になる[22]

これについては、日本の判例によると登録国法ないし保護国法を採用しており、またベルヌ条約第5条 (2) の規定から、学説では保護国法が支持されている。ところがこの「保護国法」をどのように解釈するかで学説が分かれている。保護国法と法廷地法を同一視する説と、区別する説である。法廷地法とは、著作権者が著作権侵害に遭った場合、どこの国の裁判所に提訴したかで準拠する国の法律を決める考え方である[22]。しかし、著作権者の国籍・住所・実際の居住地など別要素も考慮すべきであり、ベルヌ条約第5条 (2) の文言から単純に、保護国法や法廷地法を導き出すことに対し、理論的な弱さも指摘されている[25]

また裁判を通じて、侵害行為に対して差止請求や損害賠償を求めていくことになるが、これが国をまたいでいる場合、ある国の裁判所がどこまで差止や賠償を命じることができるのかも問題となり、様々な学説が存在する[25]

国際紛争の事例と解決手段[編集]

現実に起こった紛争事例として、「全米作家協会他対Google裁判」を紹介する。本件では、Googleブックスが世界中の書籍を無断でデジタルスキャンしてインターネット上に公開していたことから、米国の著作権擁護団体などが2005年、米国・ニューヨークで集団訴訟を申し立てた事件である。本件を担当する米国の裁判所が、米国著作権法に準拠して著作権者とGoogleの和解を取り持つことで、逆にGoogleの電子書籍市場における独占が強まり、米国外の市場にまで影響を及ぼすことが懸念された[26]。これを受け、フランスやドイツの政府当局が米国の裁判所に対し、和解案を棄却するよう意見書を提出する事態へと発展した[27][28][29]

このような国家間の紛争に発展しうるケースを、ベルヌ条約はどのように想定しているか。1971年の第6回パリ改正により第33条が追加され、紛争当事国が国際司法裁判所へ付託することができると規定された。また、著作権の姉妹にあたる特許権などの産業財産権も同様に、パリ条約にて国際司法裁判所への付託が定められている。しかしながらこれらの規定が整備されてから30年以上の間、著作権に限らず全ての知的財産に関して、国際司法裁判所に付託された紛争は1件もない。その理由として、国際司法裁判所が必ずしも知的財産権に詳しい専門家を配置しているわけではないことに加え、各国が私人間の紛争を国際司法裁判所に付託することに慎重な態度をとってきたことが考えられる[30]

この紛争解決能力の弱さは、TRIPS協定によって補完されている。TRIPS協定は世界貿易機関 (WTO) 設立の際に定められた条約であり、WTO加盟国間で紛争が発生した場合、WTOの紛争処理機関に解決を付託することができる。TRIPS協定では具体的に、差止命令や損害賠償などの救済方法に関する規定 (第44条 - 第46条)、侵害に対する暫定措置の保障 (第50条)、国境措置に関する特別要件 (第51条 - 第60条) などが設けられている[31]。そして、実際にWTOの紛争処理機関に持ち込まれた知的財産関連の紛争件数は[注釈 4]、1996年から2000年の間に計23件、2001年から2007年の間に計3件となっている[32]

歴史[編集]

原条約成立までの歴史[編集]

ベルヌ条約の原条約が成立する過程で、フランスが果たした役割は大きい。

世界初の本格的な著作権法としては、英米法を採用するイギリスで1710年にアン法が成立している[33]。しかしアン法は、著作権保護の対象を書物に限定していた[34]。つづいて大陸法諸国においては、フランス革命中の1791年および1793年にフランスで著作権法が初めて成立している[35]。フランスの1791年法は劇場著作物に限定されていたが[36]、1793年法によってあらゆる文章、作曲、絵画および図案が保護対象に追加され、1791年法と併存する形をとった[37]。これ以降、欧州大陸の諸国はフランス著作権法の概念を部分的に導入していくこととなる[34][注釈 5]

しかしながら、19世紀の欧州大陸において最も使用頻度が高い言語がフランス語であったことから、フランス語の著作物がフランス国外で海賊版として大量に複製され、それがフランスに逆輸入される事態も発生した[39]。特に19世紀初頭まではベルギーのブリュッセルが海賊行為の拠点であり、フランスの著作者はベルギーのほか、オランダ、スイス、ドイツの海賊版から被害を受けた[40][41]。また、英語圏のイギリスでも、英語著作物がアメリカ合衆国で無断・無償で流通し[41]、著作者に印税やライセンス料が入らない事態が発生していたことから、1800年から1860年代までの米国は「海賊版出版時代」(The Great Age of Piracy) と呼ばれていた[42]。つまり、外国著作物の海賊版を不正行為とは認めていない欧米諸国が多かったことから、フランスとイギリスの著作者が特に被害を受ける状況にあった[34]

こうした背景から、フランスはまず二国間条約を締結し、自国著作者の国外保護に取り組むことになる。フランスはサルジニア (1843年)、イギリス (1851年)、ポルトガル (1851年・1866年)、ハノーバー (1851年)、ベルギー (1852年・1861年・1880年)、スペイン (1853年・1880年)、オランダ (1855年・1858年)、ドイツ (1883年)、スイス (1864年)、オーストリア (1866年・1885年)、デンマーク (1858年・1866年)、イタリア (1862年・1869年) とそれぞれ二国間条約を締結している[43]。しかし二国間条約の場合、保護水準の低い国、すなわち文化の輸入国に合わせて締結内容が定められるため、保護水準が高く、文化の輸出国であったフランスは、国内と比較して国外でのフランス著作物の保護が十分ではなかった[44]

たとえば当時の一部の国では、自国民が外国で著作物を発行した場合、内国民としての保護を排除していた[注釈 6]。著作権の発生要件または訴訟前提条件として、登録または納本手続を必要とする方式主義を採用していた国もあった[注釈 7]。翻訳権や、小説の劇化といった翻案権を認めていない国もあった。またはこれらの権利を認めていても、方式主義を採用していたことから、実質的に機能しきれていない国があった。翻訳権の保護期間も、登録から3か月で失効する国もあった[45][40]。また、出版権は認めるが、発行物に上演権と演奏権を留保すると表示していない場合、他者が無断で上演・演奏できた国もある[注釈 8]。新聞を他者が複製する自由が一部では認められていた[注釈 9]。そもそも、各国の権利保護期間にもバラつきがあり、国際的な統一の必要性があった[45]

こうした中、著作権の国際的な保護を協議すべく、1858年9月に「文学的美術的所有権会議」がブリュッセルで非公式に開催された[注釈 10]。さらに、1878年のパリ万国博覧会を契機に、フランス政府の呼びかけによって各国の学者・美術家・文学者・出版業界の代表者が集まり、著作権に関する会合が持たれた。この会合の結果、フランスの文豪であり政治家でもあったヴィクトル・ユーゴーを名誉会長とした国際文芸協会 (後の国際著作権法学会 (略称: ALAI)) が創設された[50][注釈 11]。また、のちのベルヌ条約として具現化することとなる国際条約の起草・締結の必要性を、当会合からフランス政府に要請することとなった[50]。その後、国際文芸協会による1883年9月の会合で、内国民待遇と遡及効を盛り込んだ条約案が採択された[51]

これ以降は、各国政府による公式な外交協議へと移った。第1回ベルヌ公式会議 (1884年9月)[注釈 12]、および第2回ベルヌ公式会議 (1885年9月)[注釈 13]を経て、第3回ベルヌ公式会議 (1886年9月) でベルヌ条約の条文が固まり、10か国が調印し、うち8か国が批准して、翌年1887年12月7日にベルヌ条約は発効した[54][注釈 14]。ベルヌ条約の原署名国はベルギー、フランス、ドイツ、イギリス、ハイチ、イタリア、スペイン、スイス、チュニジア、リベリアの10か国 (うちリベリアとハイチは署名のみで批准せず) と少ないが[53]、イタリアとスペインは植民地にも適用し、イギリスも植民地および保護国を含むとしたことから、世界の広域をカバーした国際条約の成立であった[55]

なお、ロシアをベルヌ条約の枠組に取り入れようと何度も試みたが、失敗に終わっている。当時のロシアは、多国間条約であるベルヌ条約だけでなく、文学的所有権に関するすべての条約を排除していた[56]

改正内容の概括[編集]

1886年署名・1887年発効の原条約 (ベルン) では、すでに内国民待遇が盛り込まれていた。しかし今日と異なり、著作権の保護期間は本源国の著作権法で定めた年数を超えることはできず、また翻訳の保護期間は、著作物の発行から10年までしか認められていなかった。また、方式主義と無方式主義については定めはなく、各国の著作権法の規定に準じていた[55]。以降の改正ポイントについてまとめていく。

1896年第1回改正 (パリ)ルクセンブルクやノルウェーなどが追加加盟して14か国に達していた。主な改正ポイントは、遺作も保護対象に追加にした点、および同盟国民でなくとも同盟国内で最初に発行すれば保護対象に含めた点である[57]1908年第2回改正 (ベルリン)前回改正時以降、日本、デンマーク、スウェーデン、リベリアが追加加盟していた。主な改正ポイントとしては、無方式主義を義務化したことに加え、保護期間を死後50年に延伸したほか、原条約で定められていた翻訳権の制限条件を廃止した点などが挙げられる[21]1914年の追加議定書同盟18か国が署名している。この追加議定書では、非同盟国が同盟国の著作者による著作物を十分保護しなければ、相手国の著作物も保護しないとの内容を追加された。その背景として、ベルヌ条約非同盟国である米国に対し、ベルヌ条約同盟国である英国が片務的だとして不満を抱いていたことが挙げられる。非同盟の米国著作者が、英国やその植民地で最初に著作物を発行した場合は、英国などは著作権保護の義務を負っていた。その一方で、米国は1891年に通称チェース法を成立させ、著作物の製造条項を設けていた。この製造条項により、米国民以外が米国外で印刷したものを米国に輸出販売できなかった。1909年の米国著作権法改正により、製造条項の部分廃止がなされたものの、この部分廃止から英語著作物は除外されていたことから、英国の著作物は製造条項の制約を受け続けた[21]1928年第3回改正 (ローマ)オーストリア、オーストラリア、ブラジル、カナダ、インドなどが新規加盟し、加盟国は17か国から36か国に増えていた。主な改正ポイントは、口述著作物の保護明記 (ラジオ普及に伴う)、著作者人格権を明記 (ただし権利行使は国内法にて定め、かつ死後の権利存続には触れられず)、共同著作物の権利保護期間を最終死亡者起点で算出、映画化権の規定適正化などである[58]1948年第4回改正 (ブリュッセル)第二次世界大戦後の初改正であり、加盟国数は40か国と微増に止まった。ただし、当改正の会合には非同盟国からはアルゼンチン、チリ、中国、米国など18か国、またUNESCOもオブザーバーとして参加している。主な改正ポイントは、応用美術(地理学、地形学、建築学、その他科学に関する地図、図解、略図、模型)を著作物の保護対象として追加すること、時事報道のための複製条項 (10条の2) にて国内法に委ねること、ラジオなどの公衆伝達権の許諾と媒体固定の許諾を別途必要とすること、朗読権の許諾を明記したこと、加盟国間の紛争に関し国際司法裁判所の管轄権を規定したこと (27条の2) などである[59]1967年第5回改正 (ストックホルム)改正ポイントとしては、未発行著作物も保護対象に含めること、同盟国民だけでなく同盟国の居住者も著作物保護の対象に含めること、媒体への固定要件を一部緩和したこと、著作者人格権の保護を著作者の死後も永続すると明記したこと、著作権保護期間を映画著作物は発行から50年とし、応用美術と写真は創作から25年に定めたこと、映画著作物の利用に関する規定を設けたこと、そして発展途上国に関する附属書を追加で盛り込んだことが挙げられる。しかしながらこれらを実体的に定めた第1条から第20条、および発展途上国向けの附属書は発効に必要な批准国数に満たなかったため、第22条から第38条の条約管理・運営に関する規定のみ発効している。その背景には、1950年代の国際的な植民地独立によって世界の著作権法に格差が生まれたことが挙げられる[60]。ストックホルム改正の協議時点でベルヌ条約総加盟国数の1/3が発展途上国で占められ、また、加盟58か国中16か国は最新版の第4回ブリュッセル改正版を批准・加入していなかったことがある[61]1971年に第6回改正 (パリ)特に発展途上国に関する附属書は、第5回ストックホルム版から修正が加えられ、発展途上国向けの特別措置が講じられている。一方、全加盟国に適用される第1条から第20条は、第5回ストックホルム版をそのまま踏襲した[62]。その後、条約の管理・運営規定の修正のみ1979年に発生しているものの、著作権保護の実質法については、第6回パリ改正版が最終である。

ベルヌ条約の限界[編集]

1979年以降に追加改正が発生していない理由として、発展途上国の加盟増加に伴う、先進国と発展途上国の利害対立が挙げられる。この対立構造を受け、ベルヌ条約をこれ以上改正するのではなく、著作権の保護水準を高めることができる国に限定して、ベルヌ条約とは別個の条約を追加作成する方針にWIPOは転換した[63]。こうして「ベルヌ条約の2階部分」と呼ばれるWIPO著作権条約 (1996年署名・2002年発効) が整備され[11]、特にデジタル著作物の保護が強化されるに至った[63]

その後も包括的な国際条約ではなく、地域協定ないし二国間条約の中に著作権保護が謳われる機会が劇的に増えた[64]。たとえばTRIPS協定はWTO加盟国に自動的に適用されるが、WTOは人口や経済力の大小に関わらず、加盟各国が平等に議決権を有している。こうした理由から特に先進国は、ベルヌ条約やTRIPS協定といった包括的な国際条約ではなく、地域協定や二国間条約といった個別条約を通じ、貿易法や税関法、人権法といった著作権に関連する総合的な観点から、自国に有利な条件を引き出し自国の利益確保に務めている[64]

このような個別協定を積極的に進めている国・地域として、アメリカ合衆国 (米国) と欧州連合 (EU) が挙げられる。米国は2010年までに少なくとも17本の自由貿易協定 (FTA) を他国との間で締結しており、貿易摩擦の解消と自由貿易促進の文脈で、知的財産権保護についてもFTAに規定を設けている。知的財産に関するFTA上での規定は「TRIPSプラス」とも呼ばれている[65]。EUにおいても、EU加盟国すべてがベルヌ条約に加盟済であるほか、EUとしてWTOに加盟していることから、ベルヌ条約やTRIPS協定といった多国間条約の遵守はあくまで最低限であり、EU法の下でより高水準の著作権保護を求められている[66]

加盟国と施行時期の一覧[編集]

ベルヌ条約の原条約ないし改正条約のいずれかに加盟している国・地域の国内施行日一覧 (2019年8月現在)[注釈 15]

国・地域名原条約[9]第1回改正[67]第2回改正[68]追加議定書[69]第3回改正[70]第4回改正[71]第5回改正[72]隠す第6回改正[10]アイスランド1947年9月7日未未未1947年9月7日署名のみ署名のみ1999年8月25日アイルランド1927年10月5日未1927年10月5日1927年10月5日1935年6月11日1959年7月5日1970年12月21日2005年3月2日アゼルバイジャン1999年6月4日未未未未未未1999年6月4日アフガニスタン2018年6月2日未未未未未未未アメリカ合衆国1989年3月1日未未未未未未1989年3月1日アラブ首長国連邦2004年7月14日未未未未未未2004年7月14日アルジェリア1998年4月19日未未未未未未1998年4月19日アルゼンチン1967年6月10日未未未未1967年6月10日留保2000年2月19日アルバニア1994年3月6日未未未未未未1994年3月6日アルメニア2000年10月19日未未未未未未2000年10月19日アンティグア・バーブーダ2000年3月17日未未未未未未2000年3月17日アンドラ公国2004年6月2日未未未未未未2004年6月2日イエメン2008年7月14日未未未未未未未イギリス1887年12月5日1897年12月9日1912年7月1日1915年4月20日1931年8月1日1957年12月15日1970年1月29日1990年1月2日イスラエル1950年3月24日未未未1950年3月24日1951年8月1日1970年1月29日2004年1月1日イタリア1887年12月5日1897年12月9日1914年12月23日1930年2月20日1931年8月1日1953年7月12日署名のみ1979年11月14日インド1928年4月1日未1928年4月1日未1931年8月1日1958年10月21日署名のみ1975年1月10日インドネシア1997年9月5日未未未1949年12月27日未未1997年9月5日ウクライナ1995年10月25日未未未未未未1995年10月25日ウズベキスタン2005年4月19日未未未未未未2005年4月19日ウルグアイ1967年7月10日未未未未1967年7月10日未1979年12月28日エクアドル1991年10月9日未未未未未未1991年10月9日エジプト1977年6月7日未未未未未未1977年6月7日エストニア1994年10月26日未1927年6月9日1927年6月9日未未未1994年10月26日エスワティニ (旧スワジランド)1998年12月14日未未未未未未1998年12月14日エルサルバドル1994年2月19日未未未未未未1994年2月19日オーストラリア1928年4月14日未1928年4月14日未1935年1月18日1969年6月1日1972年8月25日1978年3月1日オーストリア1920年10月1日未1920年10月1日1920年10月1日1936年7月1日1953年10月14日1973年8月18日1982年8月21日オマーン1999年7月14日未未未未未未1999年7月14日オランダ1912年11月1日未1912年11月1日1915年4月20日1931年8月1日1973年1月7日留保1975年1月10日ガーナ1991年10月11日未未未未未未1991年10月11日カーボベルデ1997年7月7日未未未未未未1997年7月7日ガイアナ1994年10月25日未未未未未未1994年10月25日カザフスタン1999年4月12日未未未未未未1999年4月12日カタール2000年7月5日未未未未未未2000年7月5日カナダ1928年4月10日未1928年4月10日未1931年8月1日署名のみ1970年7月7日1998年6月26日ガボン1962年3月26日未未未未1962年3月26日署名のみ1975年6月10日カメルーン1960年1月1日未未未未1960年1月1日署名のみ1974年10月10日ガンビア1993年3月7日未未未未未未1993年3月7日北朝鮮2003年4月28日未未未未未未2003年4月28日北マケドニア1991年9月8日未未未留保署名のみ留保1991年9月8日ギニア共和国1980年11月20日未未未未未未1980年11月20日ギニアビサウ1991年7月22日未未未未未未1991年7月22日キプロス1960年8月16日未未未1960年8月16日未未1983年7月27日キューバ1997年2月20日未未未未未未1997年2月20日ギリシャ1920年11月9日未1920年11月9日1924年3月10日1932年2月25日1957年1月6日署名のみ1976年3月8日キリバス2018年1月2日未未未未未未2018年1月2日キルギス1999年7月8日未未未未未未1999年7月8日グアテマラ1997年7月28日未未未未未未1997年7月28日クウェート2014年12月2日未未未未未未2014年12月2日クック諸島2017年8月3日未未未未未未2017年8月3日グレナダ1998年9月22日未未未未未未1998年9月22日クロアチア1991年10月8日未未未留保留保留保1991年10月8日ケニア1993年6月11日未未未未未未1993年6月11日コートジボワール1962年1月1日未未未未1962年1月1日署名のみ1974年5月4日コスタリカ1978年6月10日未未未未未未1978年6月10日コモロ連合2005年4月17日未未未未未未2005年4月17日コロンビア1988年3月7日未未未未未未1988年3月7日コンゴ共和国1960年8月15日未未未未1960年8月15日未1975年12月5日コンゴ民主共和国1960年6月30日未未未未1960年6月30日署名のみ1975年1月31日サウジアラビア2004年3月11日未未未未未未2004年3月11日サモア2006年7月21日未未未未未未2006年7月21日サントメ・プリンシペ2016年6月14日未未未未未未2016年6月14日ザンビア1992年1月2日未未未未未未未ジブチ2002年5月13日未未未未未未2002年5月13日ジャマイカ1994年1月1日未未未未未未1994年1月1日ジョージア1995年5月16日未未未未未未1995年5月16日シリア2004年6月11日未未未1933年12月24日署名のみ未2004年6月11日シンガポール1998年12月21日未未未未未未1998年12月21日ジンバブエ1980年4月18日未未未1980年4月18日未未未スイス1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1915年4月20日1931年8月1日1956年1月2日1970年5月4日1993年9月25日スウェーデン1904年8月1日1904年8月1日1920年1月1日1920年1月1日1931年8月1日1961年7月1日1970年1月29日1974年10月10日スーダン2000年12月28日未未未未未未2000年12月28日スペイン1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1915年4月20日1933年4月23日1951年8月1日1970年1月29日1974年2月19日スリナム1977年2月23日未未未未未未1977年2月23日スリランカ1948年2月4日未未未1948年2月4日未未1978年9月23日スロバキア1993年1月1日未未未未未留保1993年1月1日スロベニア1991年6月25日未未未留保留保留保1991年6月25日赤道ギニア1997年6月26日未未未未未未1997年6月26日セネガル1962年8月25日未未未未1962年8月25日1970年1月29日1975年8月12日セルビア1992年4月27日未未未留保留保留保1992年4月27日セントクリストファー・ネイビス1995年4月9日未未未未未未1995年4月9日セントビンセント・グレナディーン1995年8月29日未未未未未未1995年8月29日セントルシア1993年8月24日未未未未未未1993年8月24日ソロモン諸島2019年7月4日未未未未未未2019年7月4日大韓民国1996年8月21日未未未未未未1996年8月21日タイ王国1931年7月17日未1931年7月17日1931年7月17日未未未1995年9月2日タジキスタン2000年3月9日未未未未未未2000年3月9日タンザニア1994年7月25日未未未未未未1994年7月25日チェコ1993年1月1日未未未未未留保1993年1月1日チャド1971年11月25日未未未未1971年11月25日1971年11月25日未中央アフリカ共和国1977年9月3日未未未未未未1977年9月3日中国1992年10月15日未未未未未未1992年10月15日チュニジア1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1920年4月23日1933年12月22日1952年5月22日署名のみ1975年8月16日チリ1970年6月5日未未未未1970年6月5日留保1975年7月10日ツバル2017年6月2日未未未未未未2017年6月2日デンマーク1903年7月1日1903年7月1日1912年7月1日1915年4月20日1933年9月16日1962年2月19日1970年5月4日1979年6月30日ドイツ1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1919年10月17日1933年10月21日1966年10月10日1970年9月19日1974年10月10日トーゴ1975年4月30日未未未未未未1975年4月30日ドミニカ共和国1997年12月24日未未未未未未1997年12月24日ドミニカ国1999年8月7日未未未未未未1999年8月7日トリニダード・トバゴ1988年8月16日未未未未未未1988年8月16日トルクメニスタン2016年5月29日未未未未未未2016年5月29日トルコ1952年1月1日未1931年6月20日1931年6月20日未1952年1月1日留保1996年1月1日トンガ2001年6月14日未未未未未未2001年6月14日ナイジェリア1993年9月14日未未未未未未1993年9月14日ナミビア1990年3月21日未1990年3月21日未未未未1993年12月24日ニウエ2016年9月24日未未未未未未2016年9月24日ニジェール1960年8月3日未未未未1960年8月3日署名のみ1975年5月21日日本1899年7月15日1899年7月15日1910年9月9日1915年4月20日1931年8月1日1974年7月12日署名のみ1975年4月24日ニュージーランド1928年4月24日未1928年4月24日未1947年12月4日署名のみ未2019年3月17日ネパール2006年1月11日未未未未未未2006年1月11日ノルウェー1896年4月13日1897年9月9日1910年9月9日1920年2月28日1931年8月1日1963年1月28日署名のみ1995年10月11日バーレーン1997年3月2日未未未未未未1997年3月2日ハイチ1996年1月11日1898年1月17日1910年9月9日署名のみ未未未1996年1月11日パキスタン1948年7月5日未未未1948年7月5日署名のみ1970年1月29日未バチカン1935年9月12日未未未1935年9月12日1951年8月1日署名のみ1975年4月24日パナマ1996年6月8日未未未未未未1996年6月8日バヌアツ2012年12月27日未未未未未未2012年12月27日バハマ1973年7月10日未未未未1973年7月10日未1977年1月8日パラグアイ1992年1月2日未未未未未未1992年1月2日バルバドス1983年7月30日未未未未未未1983年7月30日ハンガリー1922年2月14日未1922年2月14日1922年2月14日1931年8月1日署名のみ署名のみ1974年10月10日バングラデシュ1999年5月4日未未未未未未1999年5月4日フィジー1970年10月10日未未未未1970年10月10日1972年3月15日未フィリピン1951年8月1日未未未未1951年8月1日署名のみ1997年6月18日フィンランド1928年4月1日未1928年4月1日1928年4月1日1931年8月1日1963年1月28日1970年9月15日1986年11月1日ブータン2004年11月25日未未未未未未2004年11月25日ブラジル1922年2月9日未1922年2月9日1922年2月9日1933年6月1日1952年6月9日留保1975年4月20日フランス1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1916年2月2日1933年12月22日1951年8月1日署名のみ1972年12月15日ブルガリア1921年12月5日未1921年12月5日1921年12月5日1931年8月1日未署名のみ1974年12月4日ブルキナファソ1963年8月19日未未未未1963年8月19日未1976年1月24日ブルネイ2006年8月30日未未未未未未2006年8月30日ブルンジ2016年4月12日未未未未未未2016年4月12日ベトナム2004年10月26日未未未未未未2004年10月26日ベナン共和国1960年8月1日未未未未1960年8月1日留保1975年3月12日ベネズエラ1982年12月30日未未未未未未1982年12月30日ベラルーシ1997年12月12日未未未未未未1997年12月12日ベリーズ2000年6月17日未未未未未未2000年6月17日ペルー1988年8月20日未未未未未未1988年8月20日ベルギー1887年12月5日1897年12月9日1910年9月9日1921年11月4日1934年10月7日1951年8月1日1975年2月12日1999年9月29日ポーランド1920年1月28日未1920年1月28日1920年1月28日1935年11月21日未署名のみ1990年8月4日ボスニア・ヘルツェゴビナ1992年3月1日未未未留保留保留保1992年3月1日ボツワナ1998年4月15日未未未未未未1998年4月15日ボリビア1993年11月4日未未未未未未1993年11月4日ポルトガル1911年3月29日未1911年3月29日署名のみ1937年7月29日1951年8月1日署名のみ1979年1月12日ホンジュラス1990年1月25日未未未未未未1990年1月25日マダガスカル1966年1月1日未未未未1966年1月1日署名のみ未マダガスカル2000年8月23日未未未未未未2000年8月23日マラウィ1991年10月12日未未未未未未1991年10月12日マリ1962年3月19日未未未未1962年3月19日未1977年12月5日マルタ1964年9月21日未未未1964年9月21日未留保1977年12月12日マレーシア1990年10月1日未未未未未未1990年10月1日ミクロネシア連邦2003年10月7日未未未未未未2003年10月7日南アフリカ共和国1928年10月3日未1928年10月3日未1935年5月27日1951年8月1日署名のみ1975年3月24日メキシコ1967年6月11日未未未未1967年6月11日署名のみ1974年12月17日モーリシャス1989年5月10日未未未未未未1989年5月10日モーリタニア1973年2月6日未未未未1973年2月6日1973年2月6日1976年9月21日モザンビーク2013年11月22日未未未未未未2013年11月22日モナコ1889年5月30日1897年12月9日1910年9月9日1915年4月20日1933年6月9日1951年8月1日署名のみ1974年11月23日モルドバ1995年11月2日未未未未未未1995年11月2日モロッコ1917年6月16日未1917年6月16日未1934年11月25日1952年5月22日1971年8月6日1987年5月17日モンゴル1998年3月12日未未未未未未1998年3月12日モンテネグロ2006年6月3日1897年12月9日未未留保署名のみ留保2006年6月3日ヨルダン1999年7月28日未未未未未未1999年7月28日ラオス2012年3月14日未未未未未未2012年3月14日ラトビア1995年8月11日未未未1937年5月15日未未1995年8月11日リトアニア1994年12月14日未未未未未未1994年12月14日リビア1976年9月28日未未未未未未1976年9月28日リヒテンシュタイン1931年7月30日未1931年7月30日未1931年8月30日1951年8月1日1972年5月25日1999年9月23日リベリア1989年3月8日1908年10月16日1910年9月9日1921年9月9日未未未1989年3月8日ルーマニア1927年1月1日未1927年1月1日1927年1月1日1936年8月6日未1970年1月29日1998年9月9日ルクセンブルク1888年6月20日1897年12月9日1910年9月9日1915年4月20日1932年2月4日1951年8月1日署名のみ1975年4月20日ルワンダ1984年3月1日未未未未未未1984年3月1日レソト1989年9月28日未未未未未未1989年9月28日レバノン1947年9月30日未未未1947年9月30日署名のみ未署名のみロシア連邦1995年3月13日未未未未未未1995年3月13日

ベルヌ条約未加盟国・地域[注釈 16]

WTO加盟国はTRIPS協定を遵守することが義務付けられ、かつTRIPS協定ではベルヌ条約の主要原則を遵守することを求めていることから、WTOに加盟していれば、ベルヌ条約に未加盟でも拘束される点に注意が必要である[73]

国・地域名ベルヌ条約万国著作権条約
1952年原条約[74]万国著作権条約
1971年改正[75]隠すWTO加盟[76]アンゴラ未未未1996年11月23日イラク未未未オブザーバーのみイラン未未未オブザーバーのみウガンダ未未未1995年1月1日エチオピア未未未オブザーバーのみエリトリア未未未未カンボジア未1953年8月3日 (加入)未2004年10月13日サンマリノ未未未未シエラレオネ未未未1995年7月23日セーシェル未未未2015年4月26日ソマリア未未未オブザーバーのみナウル未未未未パプアニューギニア未未未1996年6月9日パラオ未未未未パレスチナ未未未未東ティモール未未未未マーシャル諸島未未未未南スーダン未未未未ミャンマー未未未1995年1月1日モルディブ未未未1995年5月31日

各国における加盟と履行詳細[編集]

日本[編集]

日本は1899年4月18日、ベルヌ条約の原条約と第1回パリ改正版に同時加入し、同年7月15日より国内法を履行している[9][67]。この背景として、イギリスなどとの間で幕末に締結された不平等通商条約が挙げられる。このような不平等条約を改正するための条件として、ベルヌ条約への加盟が重要だったとされる。ちなみに、日本はベルヌ条約の加盟の1ヵ月程前に、版権や写真版権などを個別に扱っていた諸条例に換えて、著作権法(いわゆる旧著作権法)を制定した[77]

ウィキソースに昭和四十九年条約第七号の原文があります。

ウィキソースに昭和五十年条約第四号の原文があります。

日本においては、以下の日本語条約名と日本国固有の条約番号が用いられている[78]

  • 第2回ベルリン改正[79]

    • 略称: なし

    • 正式名称: 文学的及美術的著作物保護修正「ベルヌ」条約

    • 番号: 明治43年条約第5号 (条約番号)、外務省公示番号なし

  • 追加議定書[80]

    • 略称: なし

    • 正式名称: 文学的及美術的著作物保護修正「ベルヌ」条約追加議定書

    • 番号: 大正4年条約第1号 (条約番号)、外務省公示番号なし

  • 第3回ローマ改正[81]

    • 略称: なし

    • 正式名称: 千九百八年十一月十三日「ベルリン」に於て及千九百二十八年六月二日「ローマ」に於て改正せられたる千八百八十六年九月九日の文学的及美術的著作物保護に関する「ベルヌ」条約

    • 番号: 昭和6年条約第4号 (条約番号)、外務省公示番号なし

  • 第4回ブリュッセル改正[82]

    • 略称: 一九四八年にブラッセルで改正された著作権に関するベルヌ条約

    • 正式名称: 千八百八十六年九月九日に署名され、千八百九十六年五月四日にパリで補足され、千九百八年十一月十三日にベルリンで改正され、千九百十四年三月二十日にベルヌで補足され、千九百二十八年六月二日にローマで改正され及び千九百四十八年六月二十六日にブラッセルで改正された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約

    • 番号: 昭和49年条約第7号 (条約番号)、および昭和49年第115号 (外務省公示番号)

  • 第6回パリ改正[83]

    • 略称: 一九七一年のパリで改正された著作権に関するベルヌ条約、または一九七一年にパリで改正された著作権に関するベルヌ条約

    • 正式名称: 千八百九十六年五月四日にパリで補足され、千九百八年十一月十三日にベルリンで改正され、千九百十四年三月二十日にベルヌで補足され並びに千九百二十八年六月二日にローマで、千九百四十八年六月二十六日にブリュッセルで、千九百六十七年七月十四日にストックホルムで及び千九百七十一年七月二十四日にパリで改正された千八百八十六年九月九日の文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約

    • 番号: 昭和50年条約第4号 (条約番号)、および昭和50年第41号 (外務省公示番号)

欧州[編集]

著作権法 (欧州連合)」も参照

2019年時点で欧州連合 (EU) 加盟国はすべてベルヌ条約も締結している。また著作権に関する各種指令をEU加盟国が遵守する義務を負っていることから、ベルヌ条約とEU指令は補完関係にある。

アメリカ合衆国[編集]

著作権法の歴史 (アメリカ合衆国)#国際条約と大幅改正」も参照

米国がベルヌ条約に加盟したのは、原条約が発効してから1世紀以上経過した1988年であり、国内施行は1989年3月1日より開始している[9][10]。米国の加盟が遅れた要因は複合的である。

原条約の起草段階では、米国も1885年の第2回ベルヌ公式会議、および1886年の第3回ベルヌ公式会議に出席していた[53]。にもかかわらず、米国が当時の原条約に加盟しなかったのは、欧州諸国へ外交干渉しないモンロー主義が要因とされている[84]

ベルヌ条約は1908年の第2回ベルリン改正において、無方式主義を採用するようになった。つまり方式主義を採用していた米国にとっては、ベルヌ条約加盟のハードルが上がったことを意味する。当時の米国内では、1909年の著作権改正法英語版)が成立したものの、主な改正点は著作権の保護期間の延伸であり、方式主義は継続していた。そこで1910年、ベルヌ条約未加盟の米国とラテンアメリカ19か国は、ベルヌ条約の条件を緩和した内容のブエノスアイレス条約を採択した[注釈 17]。このブエノスアイレス条約を基調として、万国著作権条約 (UCC) が1952年に採択され、米国もUCCに原加盟している。しかしながら当時の米国著作権法の保護水準は低く、「司法判断の際に役立たない」「時代遅れの産物」[87]、「国際標準から取り残されている」[88]といった批判が有識者や著作権利益擁護団体などから長年なされてきた。

ベルヌ条約批准の国内体制を整える大幅な前進となったのが、1976年の著作権改正法英語版) (1976年制定、1978年1月1日施行) である。1976年の改正以前は連邦法が既発表著作物を、そして州法が未発表著作物の著作権をそれぞれカバーしていたが、1976年の改正によって正式に未発表著作物も連邦法による保護下に含まれることとなった。これに伴い、アメリカ合衆国著作権局 (略称: USCO) への著作物の登録も任意となっている[89]。続いて、1988年のベルヌ条約実施法英語版) (Berne Convention Implementation Act of 1988)[90]を成立させ、方式主義から無方式主義への転換を完了させた。当法律が施行した1989年3月1日より、米国でもベルヌ条約が適用されるようになった。

なお、ベルヌ条約は米国内で直接効力を持たず[91]、条約の義務は合衆国法典 第17編に収録された連邦法としての米国著作権法の範囲内で、間接的な履行がなされている。たとえば、無方式主義に転換したとは言え、著作権侵害が実際に発生して米国の裁判所に民事提訴する際には、著作権法 第411条の定めに則り、事前にその著作物を登録しておく必要がある。

中国[編集]

第2回ベルリン改正で規定された無方式主義は、内国民待遇と並んでベルヌ条約の重要な基本原則である。しかしベルヌ条約に1992年に加盟した中国の場合、国内法的には方式主義を続けており、ベルヌ条約の保護対象となる著作物のみ無方式主義を適用する規定を設け、二重運用している[92]

アフリカ諸国[編集]

包括的な国際条約であるベルヌ条約の批准に平行して、発展途上国の多いアフリカでも地域協定で著作権を別途保護する動きが見られる。その重要な役割を果たしているのが、アフリカ知的財産機関 (OAPI) である。1962年、OAPIの前身となる知的財産保護に関する協定をフランコフォニー (フランス語圏) の12か国で締結 (於: ガボン共和国の首都リーブルヴィル) している。これは先進国と途上国に亀裂が生じたベルヌ条約ストックホルム改正の5年前に当たる[93]。続いて1977年に中央アフリカ共和国の首都バンギにてOAPIの会合が開催され、加盟国は16か国に拡大した[注釈 18]。さらに、TRIPS協定 (1994年署名・1995年発効) の内容を取り込んだバンギ協定 (Bangui Agreement) が2002年に発効している。バンギ協定では著作権保護期間を没後70年間と設定しており、ベルヌ条約の求める50年間を上回っているほか、著作財産権ならびに著作者人格権、著作隣接権や追及権も規定している[93]

なお、OAPIがフランコフォニー中心であるのに対し、英語圏を中心とした諸国はアフリカ広域知的財産機関 (ARIPO) に加盟している。ただしOAPIが著作権を対象に含むのに対し、ARIPOは知的財産の中でも産業財産権が取扱の中心となっている違いがある[93]

死ぬ程安いでしょう

「文芸部です。文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約は文学も取り扱っております。心の指紋は未完成本編やパイロット本編やイメージサンプル劇版パイロットの時点で文学です。十分適用できるんです。処刑リストとに追加できるんです。ロシアウクライナ情勢の現況ウラジーミル・プーチンや習近平や金正恩もね?編集できると書いたでしょう?国連にそれを山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんやや 坂入希代美さんが提出するだけでロシアウクライナ情勢は解決で無条件で戦争止めさせることが出来るんです。しかもウラジーミル・プーチンや習近平や金正恩は個人負担で一京七千超円の賠償金付きです。現実に『機動戦士Vガンダム』のエンジェル・ハイロゥ作戦や『ガサラキ』のガサラキの解体が出来るんです。正直ダーク・ディグラーは映画と漫画とアニメと特撮とドラマで幸せです。国連総会でも言える媒体です。いつもの事だが感動的です。ダーク・ディグラーが言うんじゃないんです。山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんやや 坂入希代美さんが言うんです。「女の子は優しいし女神です」の一言で満場一致のスタンディングオベーションで拍手喝采のみでいいんです。ダーク・ディグラーは普通の生活が一番です。金持ち何て興味ないし女遊びも興味ないし名誉すらいらない!普通の生活維持すればいいだけです。それだけです。お小遣いで一京七千超円欲しいだけです。それで日本が国際連合安全保障理事会常任理事国のトップになれるんですから児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律や東京都青少年の健全な育成に関する条例の永久封印廃案や一京七千超円は死ぬ程安いでしょう」

「俺は監督だ!もう日本政府の官僚機構や司法機関には死ぬ程美味しい話だな?心の指紋は?この箇所読むだけで一京七千超円直ぐ払うぜ?もう官僚機構や法務機関や警察機構や政治家はダーク・ディグラーを創造神以上の存在として扱うぜ?世間にはこのnote媒体知られないがな?」

「文芸部です。世間から無視されたボンクラオタクの二次元専門の超ロリコンの精神障碍者がダーク・ディグラーなだけです。そのエロ妄想で突っ走ってそれでこの結果です。監督と文芸部は依頼主のダーク・ディグラーの依頼引き受けただけです。猶予は与えてるんですが誰も処刑リストに上げた人物は誰もコメント欄に書き込んでませんね」

「俺は監督だ!スポンサーが出資してコメント欄が閉じられた時点で死刑執行が決まるんだダーク・ディグラーが警察署に被害届を届けて警察がnote読んだらJR東海と愛知県警と警察機構と司法機関と官僚機構とドナルド・トランプがアーガイルになり冷静に読めば司法機関と官僚機構は究極の秘宝が手に入ったと歓喜するんだ、裁判所も陪審員も心の指紋の正当性認めるだろう。法律網羅して要点抑えてあるから検察はラクチン以下で裁判官に正当性言うだけだ。しかも即裁判官も支払い命令請求するだろうな?JR東海と愛知県警にな?今ならチャンスだぞ?やり直せるな?親切は言うからね?昔ながらアニメファンさあ?『おジャ魔女どれみ』シリーズどう思った?ラノベも『魔女見習いを探して』も?」

社会問題扱って問題だらけですね。

「昔ながらアニメファンですがジュブナイルで社会問題扱って問題だらけですね。子供番組で離婚家庭や登校拒否児って扱えます?ドキュメンタリー番組でも答え見つからない問題ですよね?ましてや妹尾あいこって父子家庭で離婚したお母さんと離婚したお父さんを再婚させるのは不可能に近いじゃないですか?それやるんですよ?監督も脚本家も普通は止めますよ?そんな話?長門かよこか?三話で解決します?登校拒否?さっきも言ましたがドキュメンタリー番組でも答え見つからないのに三話で解決できる訳がない?それで感動ですね。『おジャ魔女どれみ♯』は子育てで命か?それで児童虐待に近い子育て論で殉教者で感動ですね?『も〜っと! おジャ魔女どれみ』はコミニケションで飛鳥ももこか?しかも登校拒否児がテーマですね。一人ぼっちで感動か?『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』はバラバラで感動ですね?どれも意味が分からないですね?馬越嘉彦のキャラクターデザインの可愛さと音楽がないと普通は成立ししない話ばかりです。『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』は呆れました?バラバラにしたんでしょう?なんでODA?素人でも儲からないとわかるのに?『おジャ魔女どれみ16シリーズ』は普通のジュブナイルですよ?ラノベってカッコいい美少年キャラクターや美少女キャラクターがカッコよかったり美少女キャラクターが可愛かったり脱いだりするのが魅力だからラノベですよ?それがジュブナイルって作者は山田隆司さんですがラノベは専門外の人ですよ?元は子供番組のシリーズ構成ですよ?水と油です。更に言えば『魔女見習いをさがして』はトレンディードラマでジュブナイルで社会問題ですね。これも山田隆司です。これ山田隆司さんが原因じゃないですね?どう考えても素人でもわかります。普通はこんなのちゃんとした人がいたらプロデューサーを止める現場です」

「ライン・プロデューサーのダイカンだ!これは思いっきりプロデューサー責任でこういう現場の裏取るのがライン・プロデューサーで困るんだよ?こういうプロデューサー!スタッフ一同、第5シリーズ終了後「二度と『どれみ』に携わることはない」との気持ちであったが、本シリーズのスタッフが多数起用された『ハートキャッチプリキュア!』(2010年 - 2011年、プリキュアシリーズ第7作)が好評を博し、栗山緑名義で同作品の脚本を手がけていた山田のもとにも「どれみみたいな作品また作ってくださいよ」という声が寄せられるようになった。これを受けて、山田の筆により公式な続編『おジャ魔女どれみ16シリーズ』が刊行された[12]。だよ?ライン・プロデューサーに言わせたら第5シリーズよく我慢してくれたと土下座するのがライン・プロデューサーの役目だよ?それで『ハートキャッチプリキュア!』でも山田隆司に不向きな『おジャ魔女どれみ16シリーズ』任せてまた土下座だよ!本気で殺してやりたいよ?関弘美はね」

「音楽担当だ!『おジャ魔女どれみ』シリーズはどれみだからミュージカルだよ?音楽版権大変だからミュージカルって鬼門なの?だから何処も降りたがるんだ。音楽制作 - バンダイ・ミュージックキングレコードマーベラスエンターテイメントだぞ?音楽担当の奥慶一の身にもなれよ?音楽会社に謝るのが奥慶一なんだぞ」

「セカンドのパップルです。これ意味わかる?製作担当[注 99] - 風間厚徳(第1話 - 第3シリーズ第30話) → 坂井和男(第3シリーズ第27話 - )で第3シリーズ第27話から第30話までは連名よ?風間厚徳の製作担当能力が超限界まで来たから坂井和男で第3シリーズ第27話から第30話までは連名なの?『も〜っと! おジャ魔女どれみ』始まる前から御破算状態なの?製作担当って制作デスクなのその制作デスクってアニメの組の中核が制作デスクよ?もう皆限界で『おジャ魔女どれみ』シリーズってこの時点でお邪魔なの?しかも社会問題のリサーチをジェロスやジンジンやタクミに命じるのも制作デスクの役目でそれをシリーズ構成の山田隆司に資料届けるのも制作デスクの役目で製作担当ってこういう仕事だから早く組解散させてよ?もう無理よ?馬越嘉彦も疲弊してるわよ?あたしでさえ関弘美殺したくなるわ」

「プロデューサーだ!『おジャ魔女どれみ』ってミュージカルアニメ企画だろう?それがジュブナイルで社会問題?そりゃ大きなお友達から評価上がるよ?やってどうするんだ?馬越嘉彦の可愛いいキャラクターデザインの効果で大きな友達からは絶賛受けるよ?正直馬越嘉彦のキャラクターデザインで子供に人気が出たからな?それで毎回感動か?音楽担当さあ?酷使するのみだぞ?スタッフも『おジャ魔女どれみ』の段階で限界だぞ?ミュージカルアニメだ?音楽と音合わせる作画を監督がアイデア出すんだ?監督疲弊だ。社会問題扱うんだ?話題にはなる?だが『おジャ魔女どれみ』シリーズは所詮は子供番組だから玩具売らなきゃいけないし子供は社会問題には興味持たないし逆に傷つくこれ全部やったんだ?関弘美はな?それなのに『おジャ魔女どれみ』シリーズでおまけに『ハウルの動く城』で予算オーバーで洋ナシになった細田守使うんだ?しかも次回作の『明日のナージャ』の指針はないから細田守を客寄せパンダに続投させるが子供は細田守すら知らんし『明日のナージャ』すら知らんから『明日のナージャ』も疲弊しまくりで予算オーバーの連続か?必然的に打ち切るのが東映アニメーションでプロデューサーとしては関弘美はマジで殺してやりたいよ?『おジャ魔女どれみナ・イ・ショ』はODAだから『おジャ魔女どれみ』シリーズは終わった番組だぞ?子供見るか?大きなお友達しか見ないぞ?しかも儲けは零でだから人集まらないんだ?関弘美にはな?だから名義のみのプロデュース職のような立場しか与えられん証拠だ?『魔女見習いをさがして』では捨てられてるよ?関弘美はお邪魔なんだ」

製作[編集]

2019年3月23日にAnimeJapan2019において、『おジャ魔女どれみ』シリーズの20周年記念として本作の映画プロジェクトが初めて対外的に発表された。この場で本作のタイトルが『魔女見習いをさがして』であることや、『おジャ魔女どれみ』シリーズを手掛けたスタッフが本プロジェクトに復帰することも告知された[54][55]。この時点で発表された制作スタッフは、監督に佐藤順一、脚本に栗山緑、キャラクターデザイン・総作画監督に馬越嘉彦、プロデューサーに関弘美など[55]。また新たなメンバーとして、『HUGっと!プリキュア』で演出などを手掛けた若手の鎌谷悠[56]が佐藤とともに初監督を務めることも発表された[55]。関によれば、鎌谷は世代的にも「どれみ世代」より少し上で『おジャ魔女どれみ』についてもほとんど知らなかったというが、シナリオを読んでもらった際の物怖じせずに的確な意見を返してきたことで任せることを決めたという[57]。また、今回『おジャ魔女』を知らない人でも楽しめることを目標のひとつに定めていたこともあって、鎌谷のような目線で作品を理解して貰える人が必要だったとしている[57]

2019年10月29日には、制作陣が第32回東京国際映画祭のトークイベントに登壇し、本作のストーリーやキャラクターデザイン、本編コンテの一部なども公表した[58][59]。このトークイベントにおいて、本作の主人公が長瀬ソラ、吉月ミレ、川谷レイカの3人であることと、そのキャラクターデザインが発表され、同時に主人公の3人がおジャ魔女どれみシリーズを見ていたという共通点をきっかけに友人になり、旅に出るというストーリーの大筋も明かされた[59]

佐藤と関が本映画プロジェクトの計画を開始したのは2016年の9月頃であった[60]。佐藤は当初、どれみ達やその周辺のアニメシリーズの登場人物をメインに、大人になったどれみ達にタイムパラドックスが絡んだ「奇跡」が起きるというような構想も考えていた[61]。この案について関は、どれみ達とそのクラスメイトは特定の年齢に集中しているのに対し、当時の視聴者は幅広い年齢層に分布しているため、多くの視聴者に届けようとするには異なる年齢のキャラクターを出演させるべきだ、と考えていたと述べている[61]。また、小説シリーズ『おジャ魔女どれみ16』も手掛けた脚本の栗山も、成人したどれみ達を主人公に据え、小学校のセレモニーでタイムカプセルを掘り出そうとするのを発端とし、周辺のキャラクター達にも触れながら成人したどれみ達を描く、といったストーリーを当初は構想していたという[28]。しかし、それでは『おジャ魔女どれみ』シリーズのファンには喜ばれるかもしれないが、一般の観衆の興味を惹くことはできない、として構想を変えている[28]

インタビューで小野寺系より「攻めている」コンセプトという印象を受けた、と言われた関は、TVシリーズからのスタッフであった馬越にも開口一番にそう言われたと回顧し、しかしながら『おジャ魔女どれみ』という作品そのものが1999年の開始時点より攻めた作品であったとしている[57]。当時のスタッフたちが関も含め30 - 40代の中、小学生を主人公にした魔法少女モノを制作するにあたって、メインターゲットである3歳から8歳の子供を徹底的にリサーチし、6人に1人が片親の家庭という厳しい現実を知って作品にも反映したという(妹尾あいこのエピソード)[57]。本作でもこの制作の原点に立ち返って成人女性をターゲットにする上で、現代の一般的な20代の女性がどのような日常を送っているのかを徹底的にリサーチした[60][61][57]。放映最初の年に8歳であった子は28、29歳、最後の年に3歳であった子は19、20歳であることを踏まえて[57]、観客それぞれ自身の世代を投影できるよう、ソラ、ミレ、レイカという年齢に差がある3人の主人公が作られた[62][61]。リサーチの結果として、例えば20年前と比較して大学生の半数は奨学金をもらうようになった社会情勢など、そうした経済状況の悪化や所得格差の拡大なども知り、そんな状況を登場人物たちに反映しなければならないと考えた[57]。リサーチにあたっては社内だけでも100名の協力を得て、一般社会の女性に対するリサーチ結果も含め脚本の栗山に渡された[60]。『おジャ魔女』は魔法が存在する虚構の世界だが、そこで現実の問題を描くにあたっては、可能な限り事実として正面から向き合う姿勢も見せなければならない、ということも『おジャ魔女』という作品であると関は述べている[57]

栗山によれば、ソラ、ミレ、レイカにはいずれも具体的なモデルがいるわけではなく、『おジャ魔女どれみ』シリーズのメインキャラクターの要素を少しずつ入れて作ったとしている[28]。例えば、ソラの眼鏡ははづきの要素で、先生を志望する点はどれみと同じである。ミレはおんぷのように言葉を選ばず、ももこのように帰国子女である。レイカは3人の中で最もしっかりしていてあいこらしいが男運に恵まれないところはどれみに似ていて、顔はハナちゃんに似ている[28]。一方で、『おジャ魔女どれみ』のアニメシリーズが子ども向けの設定であったのとは対象的に、本作ではキャラクターがお酒を飲むシーンが8回も登場する[61]。このことについて関は、制作陣のライフスタイルに合っていて飲酒シーンが多かったことに違和感がなかったとし、ミレが仕事のストレスによってお酒を飲むシーンについてもまさしく自分であると評している[61]。また、ミレのアパートが散らかっている設定についても関のアイデアだという[61]

主人公達が『おジャ魔女どれみ』の所縁の土地を巡るというプロットの着想については、関は以前から、異なる境遇の人物達が一緒に旅をする中で関係性が変わったり、互いに共感したりする魅力から、ロードムービーを作りたいと考えていたという。本作も、主人公3人の境遇は異なる中で、唯一『おジャ魔女』のファンという共通性を持ち、それが聖地巡礼という形で共に旅をすることが、ロードムービーの構造と重なると捉えたという。本来であれば、19歳と27歳の女性同士がすぐに打ち解けることもおかしいとしつつ、関は、今は好きなものでつながる時代であり、強力な共通点があるとそういった垣根を飛び越えることができると思う、と述べている[57]

佐藤によれば、アニメ『おジャ魔女どれみ』シリーズでは、子供向けアニメ番組で期待されるような「明るい、可愛い」背景を用いる代わりに、世界に深みを与えるような大人びたテイストを表現するために「重めのトーン」の色使いを意識したという[63]。本作でも同様に、暗すぎず明るすぎずを意識した[63]が、アニメシリーズよりもさらにシビアなストーリー展開であるため、美術はむしろ少し明るくなるよう鎌谷が要請したという[64]。また、美術班は絵のような背景とリアリズムのバランスを取ることに努めているが、本作では現実の世界とどれみ達がいる架空の世界の区別を明確にするため、よりリアリズムを意識した作画を行ったという[63]。また、『おジャ魔女どれみ』と本作の双方に登場するたんぽぽや綿毛のモチーフは、『おジャ魔女どれみ』以前に佐藤、栗山、関の3人が手掛けた『夢のクレヨン王国』が綿毛が空を飛んでいくシーンで終わったことにちなんだものであることを、佐藤が明かしている[61]

本作の収録は2020年9月に完了した[65]。収録の最終日には、森川、松井、百田、三浦の収録を終えた後に、6人の『おジャ魔女どれみ』オリジナルキャストとヒロイン役の3人が、最終シーンを一緒に収録した[65]。この際、帰国子女のミレを演じる松井に対して、ももこ役の宮原が英語のフレーズを指導する一幕もあった[65]。2020年10月1日に、本作の制作完了を報告する完成報告イベントが丸の内Toeiにて開催され、出席した森川、松井、百田、三浦の4名がそれぞれのキャラクターや映画の感想について語った

「プロデューサーだ!この時点でお邪魔なのは関弘美なんだ?なんだかんだで『おジャ魔女どれみ』シリーズは子供番組で映画はギャンブルで確実に当てなきゃダメなの?子供番組で「攻めている」は御法度なの?だって親御さんが気まずい思いしたら客来ないし『おジャ魔女どれみ』シリーズのイメージ損なうからね?当たるわけないよ?こんな映画?そりゃ勘違いしたシネフィル絶賛するけど『おジャ魔女どれみ』シリーズ知らないんじゃ意味がないグッズ・担当にどう申し開けばいい」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?そうだ!アニメーションのプロデューサーとしては珍しく、二つのテレビアニメ作品を掛け持ちで担当することが多い。かつてシナリオライターとして活動していた経験から、シナリオ監修としても携わるほど企画面においては一切の妥協を見せないか?当然メイキング残ってるんだ『おジャ魔女どれみ』シリーズや『明日のナージャ』や『魔女見習いをさがして』のな?現に『魔女見習いをさがして』は残ってるからな?かつてシナリオライターとして活動していた経験から、シナリオ監修としても携わるほど企画面においては一切の妥協を見せないだよ?当然全失敗を関弘美になすりつけること可能だ。だから『デジモンアドベンチャー』シリーズの功績も剥奪だ。シナリオ監修としても携わるほど企画面においては一切の妥協を見せないだろう?当然失敗は負債額全額個人負担だ。プロデューサーって監督より偉いよ?スタッフ集めたりスポンサー集めたり儲け考えるのがプロデューサー役目だよ?失敗したら全責任負うのがプロデューサーだよ?意味わかる?個人の全額負債で洋ナシが失敗したプロデューサーの天罰だ。それ下すのがグッズ・担当だから私には逆らえないの?しかも『おジャ魔女どれみ』の再ブームにも失敗したから倍で個人負債で『明日のナージャ』や『魔女見習いをさがして』の損失を個人で関弘美が払えTwitterやってるらしいじゃないか?関弘美?」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!これで関弘美の特定が可能だ、言えプロデューサー」

「プロデューサーだ!監督に聞け?いつものだ?ババを踏みやがったぜーロワイヤルストレートフラッシュ級のいつものバカプロデューサーだ!それTwitterでやると殺されるの!生きてる感じは一瞬すらもないくらい怯え『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』を毎日が死だと感じることが生きてる感じがガチでマジでガチサイコーなんだ!これで通じた?」

「俺は監督だ!Twitterって発信場所特定されるの?リツイートやいいねやフォローでスマホの発信場所特定できるから東映アニメーションで呼ばれて『明日のナージャ』や『魔女見習いをさがして』の損失を個人で関弘美が払え洋ナシと言われた瞬間Twitter消えるの?怪談噺のようだけど映像業界ではよくある話なの?プロデューサーとは言え社員でしかないの?しかも『おジャ魔女どれみ』シリーズでスタッフ疲弊させ『明日のナージャ』で予算オーバーの打ち切りで『魔女見習いをさがして』で『おジャ魔女どれみ』の再ブームに失敗したら消すのが映像業界の基本と応用だよ?それなのにTwitterか?『おジャ魔女どれみ』シリーズの春風どれみや『明日のナージャ』のナージャ・アップルフィールドまんまな論理思考と思想だな?現実は少女マンガじゃないのに少女マンガ気分だ?そうマンガ?お笑いなの?関弘美の人生はね?『おジャ魔女どれみ』シリーズはララや妖精[注 46]たちそしてハナちゃんとともに魔女界へと帰っていった。『明日のナージャ』はしかし、プレミンジャー公爵はプレミンジャー家の後継者として彼女を教育しようと目論む。ナージャはその目論見をはねつけ、母親と別れて再びダンデライオン一座と共に世界に旅立っていっただよ?その後どうするの?アリとキリギリスってさあ?最終的に働いてたアリが勝つの?遊んでばかりいたキリギリスは寒空の下貧乏で死ぬの?俺でも言いたくなるよ?もうさあ生きてる感じは一瞬すらもないくらい怯え『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』を毎日が死だと感じることが生きてる感じがガチでマジでガチサイコーなんだ!これで通じないのがキリギリスだよ?それが『おジャ魔女どれみ』シリーズの春風どれみや『明日のナージャ』のナージャ・アップルフィールドまんまな論理思考と思想の関弘美だよ?言い忘れてたけど俺は監督だ、心の指紋が商業利用したら賠償金でダーク・ディグラーは会社立ち上げ多分ダーク・ディグラーのスタッフと俺が東映アニメーションでダルイゼンと品田拓海主体にしたプリキュア作ればいいと東映アニメーションに進言するだけに『おジャ魔女どれみ』シリーズでスタッフ疲弊させ『明日のナージャ』で予算オーバーの打ち切りや『魔女見習いをさがして』で『おジャ魔女どれみ』の再ブームに失敗した関弘美を消すように進言するこれも渡りに船で東映アニメーションと強い太いパイプで繋がれるし心の指紋の制作協力もしてくれる関弘美は東映アニメーションにお邪魔だから個人負債で『明日のナージャ』や『魔女見習いを探して』の損失を個人で関弘美が払うの?そん時は『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』第51話(第201話)「ありがとう!また会う日まで」の現実の春風どれみに関弘美がなってもらうだけ?誰も助けないし東映アニメーション社員全員嘲笑以下で立て籠もるの?東映アニメーションをね?それで警察に連行で関弘美はありがとう!また会う日までは来ないまま留置所だよ。プロデューサー殺せるのも監督業だよ?これも助監督が目を光らせてるから出来るの」

「アタシャ助監督よ!かつてシナリオライターとして活動していた経験から、シナリオ監修としても携わるほど企画面においては一切の妥協を見せない?これ全部助監督の仕事よ?勝手に仕事取らないでくれる?何もしてないの?この時点でモロバレじゃない?そういうのも目を通して監視するのも助監督だし演出家なの?東映アニメーションって演出第一主義だからメイキング必ず残すの?演出工程や作画工程を残して育成できるようにね。それ読めば関弘美が女王気取りって一発でわかるの?こうしてプロデューサー殺すのも助監督だし第二班監督だしチーフ演出家なの」

「プロデューサーだ!だからプロデューサー業は基本は終始無言が第一条件だ!『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』のミスト・バーンはプロデューサー職の創造神以上の存在だよ!儲け話も持ちかけるのもプロデューサー?なんだかんだで『おジャ魔女どれみ』シリーズは使えるだろう?関弘美がいなければね?そこで『おジャ魔女どれみ』シリーズの切り取りに参加できる。この場合は権利頂くだけだ。また復活できるからな?『おジャ魔女どれみ』シリーズはその時に向けて案を出し合うのもプロデューサーだ。関弘美のような大失態二度と犯さないように厳重に案を練るのもプロデューサーだ」

「文芸部です。そうそう関弘美の個人負債で『明日のナージャ』や『魔女見習いをさがして』の損失を個人全額負担の洋ナシ勧告って緊急株主総会で決まりますからダーク・ディグラーもそれを見物します。その見届け人にガイナックスメンバーは山賀博之に赤井孝美に武田康廣に菅浩江に特別参加の一本木蛮に窓の外に三角締めことカミヤマΔや杉作J太郎や吉田豪やギンティ小林や市川力男やコンバットRECや小林清美やダース・レイダーやプチ鹿島や漫画家の吉泉智彦にシン・かわうそ@まどマギ叛逆54回鑑賞に放課後の・M・スパルツに遠野よあけに旅人のりんにTOMMYに祥太にヴァンダムに高橋利明にりくとに服部昇大に佐藤黒音にみとにHataケバブ™@The社畜生活にtotsuにういろうにリリンダに萩本 護にみすpに宮台真司にてくまくまよこに切通理作に柳下毅一郎にぬえに環望にCDBの参加権を提供し切り取りに参加の高額ギャラ参加権を提供し関弘美の個人負債で『明日のナージャ』や『魔女見習いを探して』の損失を個人全額負担の洋ナシ勧告に参加の高額ギャラは関弘美が支払います。交通費関弘美の全額負担や豪華宿泊施設の宿泊及び豪華昼食豪華夜食おやつお土産付で宿泊施設のルームサービスやサービス施設サービス料や自販機すらも関弘美の全額負担です。そうしないと支払えませんからね。多額の負債はね。ダーク・ディグラーの普段からのお礼です。totsuさんとりくとさんは関弘美の個人負債で『おジャ魔女どれみ』シリーズの『明日のナージャ』や『魔女見習いをさがして』の損失を個人全額負担の洋ナシ勧告の感想YouTube動画上げて再生数稼いでください。再生数アップしますし登録者数も倍増します。しかも独占内部公開情報なので信頼性が増しアニメYouTuberの権威になれます」

「俺は監督だ!悪趣味だな?これでガイナックスも東映アニメーションと太いパイプ結べるし心の指紋をガイナックスが手伝ってくれるからいいか?」

「文芸部です。文芸部は商売は管轄外です」

「俺は監督だ!無欲な人間ほど怖いものはないの?だから『笑うセールスマン』って悪い大人はお仕置きなの?昔ながらアニメファンさあ?素朴な疑問だけど細田守の『デジモンアドベンチャー』と『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』ってどう思った?」

よくある併映アニメです。正直『デジモンアドベンチャー』はボレロのみで『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』インターネット題材にしてましたが併映アニメでしかないんですよ?

「昔ながらアニメファンですが退屈でしたあの当時騒がれましたけど特に面白くないアニメでした。よくある併映アニメです。正直『デジモンアドベンチャー』はボレロのみで『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』インターネット題材にしてましたが併映アニメでしかないんですよ?『ONE PIECE』の?しかも島根にパソコンなんてあるわけないじゃんってインターネット・ミーム流行りましたがあれ面白いですか?今でいうパズりなだけですね。レクイエムか?あれで盛り上がっただけです。昔ながらアニメファンですが細かいことを調べるのは所謂制作進行ですね。細田守って音楽がボレロといいレクイエムといい『新世紀エヴァンゲリオン』の亜流ですね。音楽の使い方が素人でもわかりました。『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』の第40話(第190話)「どれみと魔女をやめた魔女」さっきも言いましたが『涼宮ハルヒの憂鬱』に勝てないんですね。一切ね。子供向けアニメと深夜アニメと言う事差し引いても子供でも退屈です。『デジモンアドベンチャー』と『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』と『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』の第40話(第190話)「どれみと魔女をやめた魔女」は細田守いつもそうです。子供の映画作るのに子供の気持ちわかってないアニメばかり作るんですね。それ最初に感じたのが『デジモンアドベンチャー』と『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』と『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』の第40話(第190話)「どれみと魔女をやめた魔女」です」

「音楽担当だ!だから細田守殺したくなるんだ!全部音楽担当の功績パクって史上最低の作戦だ!監督デビュー作からクラシックだ!有澤孝紀の功績だよ?有澤孝紀は膀胱癌で死んだからそっから頼れないの音楽家にね?細田守さあ?音楽家変えまくりで長く続いたのは高木正勝で音楽家であり映像作家だよ?要は音楽家は半分趣味みたいなもんだからスケジュール取りやすい音楽家だから長く続いたんだ?この頃から細田守ってつまらないって言われ始めただろう?『おおかみこどもの雨と雪』の頃からね?そうだよ!高木正勝って映像作家が半分趣味でオーケストレーションやれるんだが得意じゃないんだ?映像作家だからノリのいい曲書けないんだ?映画音楽の履歴見ればアニメ音楽の経験ないから単調なクラシック音楽しか書けない。そうなれば客は退屈に感じるし絵の粗さも目立つしそもそも細田守ってアニメーターだから文芸経験ないからストーリーや台詞は陳腐に聞こえるし動きも粗いから退屈にしか見えない?そうだよ?アニメーションって音楽が命なの?『サマーウォーズ』は松本晃彦だからJ-POP主体だからノリがいいから実況しやすいだけ?その程度!毎回音楽担当に言わせれば史上最低の作戦が細田守だよ?」

「俺は監督だ!山下高明が事実上の監督だ、細田守って演出経験少ないしアニメーターとしては実績ゼロだし監督業も『ハウルの動く城』で洋ナシだから山下高明しか仕切れないだろう?メインアニメーション経験あるの細田守の師匠の山下高明だからな?その山下高明すらも使えないんだ?演出経験ないからね?だから細田守演出作や監督作って史上最低の作戦ばかりなの?そこで頼るのが音楽で『時をかける少女』で奥華子の「ガーネット」で当たったから『サマーウォーズ』では山下達郎の「僕らの夏の夢」で味占めたのがすべてだったな?音楽担当?」

「音楽担当だ!『おおかみこどもの雨と雪』でアン・サリー「おかあさんの唄」で受けると思ったんだ?興行的には受けたよ?だがアン・サリーって大物歌手でプロモーションも莫大だから製作費も莫大で毎回史上最低の作戦だから『バケモノの子』は主題歌Mr.ChildrenStarting Over』だよ?これも今まで以上に莫大な予算で史上最低の作戦だよ?しかも劇団四季のミュージカルになったの?これ怖いよ?後で切り取られる五秒前ってやつ?劇団四季怖いよ?ミュージカル扱ってるんだ?ミュージカルってスタンダードなのしか選ばないの?世界的なね?そこに『バケモノの子』だよ?打ち上げ花火以下で捨てる算段だよ?『バケモノの子』って内容覚えてる奴いるか?いないだろう?だからスタンダードには一切ならんから捨てるのがミュージカルって世界だよ?そう高木正勝って『笑うセールスマン』だよ?」

「俺は監督だ!『未来のミライ』さあ?音楽担当?これ笑えるよな?山下達郎の時点でカモだ!世界的に細田守食い物にする案件だ」

「音楽担当だ!『未来のミライ』の山下達也の「ミライのテーマ」は山下は「同じ監督と再び、というのも初めてなら、2曲提供させていただくのも、これが初めてです。光栄です」と語り、映画については「ホームドラマとファンタジーが合体した、今回も細田さんならではの素敵な作品です」って山下達郎って『サマーウォーズ』一切覚えないよ。と言うかそれがミュージシャンだし音楽担当に言わせたら同じ大物歌手に頼むバカはカモにされるのがオチだよ?何故?音楽会社と繋がってるしスポンサーと繋がってるから大物ミュージシャンだよ?だからいちいち覚えてないし覚えるのはカモにしやすい無能以下のバカ以下のみだ!だからエンディングの「うたのきしゃ」も歌うの?でないとギャランティー高額に吹っ掛けられないからな?しかも細田守って山下達郎ファンだから合法的にカモれるからオープニングとエンディング違う歌うの?普通は音楽担当居たら止めるぜ?こんなバカ以下の現場?史上最低の作戦で底抜けレベルだぞ?」

「広告担当だ!俺の手柄の出番!第71回カンヌ国際映画祭(2018年5月8日 - 19日)の「監督週間」に選出され、5月16日にプレミア上映される[37]。「監督週間」でアニメーションとしては唯一の招待作品。アヌシー国際アニメーション映画祭2018(6月11日 - 16日)の長編部門コンペティションに選出された[38]第91回アカデミー賞長編アニメ映画賞にノミネートされた。これは日本の作品としてはスタジオジブリ作品以外では初めてのことである。第76回ゴールデングローブ賞アニメ映画賞に日本の作品としては初めてノミネートされた[39]。第46回アニー賞長編インディペンデント作品賞と長編作品脚本賞の2部門にノミネートされ[40]、前者を日本人監督として初めて受賞した。日本のアニメ関係者がどれだけカモにされカモから逃げた人間やカモにされてるに気が付かないか表示」

アニー賞 長編インディペンデント作品賞

4の言語版

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アニー賞 長編インディペンデント作品賞受賞対象優秀なアニメーション映画

アメリカ合衆国主催国際アニメーション映画協会ハリウッド支部初回2015年最新受賞者『失くした体』公式サイトannieawards.org

アニー賞 長編インディペンデント作品賞(アニーしょうちょうへんインディペンデントさくひんしょう、Annie Award for Best Animated Feature — Independent)は、アニー賞の部門の一つで、2015年から始まり、毎年受賞作が選考される。この部門は、独立しているアニメーターや国際的なスタジオによる作品など、アメリカ合衆国で広く公開されていない長編アニメーション映画を対象としている[1]

受賞作とノミネート作[編集]

2010年代[編集]

年作品スタジオ2015年父を探してフィルム・デ・パペル預言者英語版Ventanarosa英語版バケモノの子スタジオ地図思い出のマーニースタジオジブリ2016年レッドタートル ある島の物語スタジオジブリ、プリマ・リネア・プロダクションズ、ホワイ・ノット・プロダクションズ英語版ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺんSacrebleu Productions、Maybe Movies、フランス3百日紅プロダクション・アイジーぼくの名前はズッキーニ ‡リタ・プロダクションズ、ブルー・スピリット・プロダクションズ、Gebeka Films君の名は。コミックス・ウェーブ・フィルム2017年生きのびるためにカートゥーン・サルーン、エアークラフト・ピクチャーズ、メリュジーヌ・プロダクションズ大きな悪い狐とその外の物語英語版)Folivari、パニック!、スタジオカナルこの世界の片隅にMAPPAゴッホ 最期の手紙ブレイクスルー・フィルム英語版ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜日本テレビ放送網、プロダクション・アイジー2018年未来のミライスタジオ地図ディス・マグニフィセント・ケーキ!(英題:This Magnificent Cake!)Beast Animation、Vivement Lundi!、Pedri Animationムタフカズ -MUTAFUKAZ-STUDIO 4℃ANKAMA英語版ルーベン・ブラント、コレクターハンガリー語版)Hungarian National Film Fundティト・アンド・ザ・バーズ(英題:Tito and the Birds)Bits Productions、Split Studio2019年失くした体シーラムNetflix Animation[2]ブニュエル・イン・ザ・ラビリンス・オブ・ザ・タートルズHampa Animation Studio若おかみは小学生!マッドハウスプロメアトリガー、XFLAG天気の子コミックス・ウェーブ・フィルム

2020年代[編集]

年作品スタジオ2020年ウルフウォーカーカートゥーン・サルーン、Mélusine Productions映画 ひつじのショーン UFOフィーバー!アードマン・アニメーションズ、スタジオカナルカラミティMaybe Movies音楽ロックンロール・マウンテン、Tip Topきみと、波にのれたらサイエンスSARU2021年FLEE フリー ‡ヴァイス・メディア / レフト・ハンテッド・フィルムズ竜とそばかすの姫スタジオ地図漁港の肉子ちゃんSTUDIO 4℃映画大好きポンポさんCLAPThe Summit of the GodsJulianne Films, Folivari / Mélusine Productions

「広告担当だ!ここが重要!この部門は、独立しているアニメーターや国際的なスタジオによる作品など、アメリカ合衆国で広く公開されていない長編アニメーション映画を対象としている[1]。これ?金さえ積めば無能以下のバカ以下でもノミネートや受賞できる賞なの?フロリダ映画批評家協会賞 アニメーション映画賞(フロリダえいがひひょうかきょうかいしょう アニメーションえいがしょう、Florida Film Critics Circle Award for Best Animated Feature)は、フロリダ映画批評家協会が、アニメーション映画制作における最も優れた業績を称賛するために授与する賞。フロリダ映画批評家協会(フロリダえいがひひょうかきょうかい、Florida Film Critics Circle, 略称: FFCC)とは、フロリダ州を拠点とする映画批評家協会である。毎年、本協会員の投票によってフロリダ映画批評家協会賞が選ばれる?これ統計の出番」

「統計だ!フロリダ映画批評家協会フロリダ映画批評家協会賞 アニメーション映画賞もダミー賞だよ?フロリダ映画批評家協会は2010年12月20日を最後に止まってるフロリダ映画批評家協会賞 アニメーション映画賞も2018年の『未来のミライ』を最後に止まってる。典型的なダミー賞だ」

「広告担当だ!こうして騙すのハリウッドはね?典型的な奴だ?外国人監督はこうして騙すの?超大本命あるのに勝てるわけないよな?『スパイダーマン:スパイダーバース』これが超大本命だよ?早い話が広告担当として言う『魔法少女まどか☆マギカ』で存続できるのは昆虫の理屈なの!広告担当の言うように餌がないと一秒以下で滅ぶの百合魔法少女はこれ!だから細田守なの!監督の真似して逃げたんだ!『未来のミライ』のくんちゃんも甘えん坊な52歳の大人で細田守のくんちゃんはベストディレクターだな!つまらない専門ディレクターだよ!つまらないしかないからね!くんちゃんだよ!他は敢えて有名だよ!みうらじゅんのギラーミンのその場の限りの監督だ!もうデリヘル嬢以下だよ!それしかないよ!「マイ・ウェイ」いい曲だ!フランク・シナトラが歌うと心にしみる!だから『未来のミライ』は「マイ・ウェイ」だ!もはや発祥はない歌があるだけだ!「マイ・ウェイ」!わが道!その究極の歌手はフランク・シナトラだ!広告担当だ!こうして恥さらしてるのに栄誉だ。しかも日本国民褒めるんだ。」

「俺は監督だ!だからアカデミー賞って怖いの?確実に受賞しないと恥かくからね。アカデミー賞ノミネートで賞逃すと死ぬ程大恥かくのがハリウッドって世界だから多様性なの?そこわからずにハリウッドデビュー目指すバカはこうして騙すの」

「アタシャ助監督よ!アタシャさあ!富野由悠季や庵野秀明や関弘美や細田守や岡田磨理や山本寛や長井龍雪や虚淵玄や安見香や香村純子をブチ殺したい」

助監督は七〇歳前半くらいの白髪でボサボサの長髪だがブラックのゴムの髪留めで止めてる黒のカジュアルコートに白いシャツにブラックメガネサングラスのオノ・ヨーコバージョンをかけて助監督はMarlboroのレギュラーをオールドボーイ 64-LOTY16 SHELLで火をつけ煙草を吸う

「俺は監督だ!これがレイアウトなだけだよ?絵は固定で台詞を掴んでエモーション生み出すのがレイアウト?難しくないよ?誰でもやれるよ?レイアウトの鬼?だったら演出指示出さないとレイアウトの意味ないよ?要は細田守って絵が綺麗なだけだろう?バカ以下の代々木アニメーション学院の学生でもやれるよ?宮崎駿出来ないよ?演出経験ないからね?『未来少年コナン』演出やったけど演出指示してないの?動き伝えただけだから『未来少年コナン』って作画が凄いだけでエモーション生み出してないの?作画指示しか出来ないから早川啓二が演出補なの?実質演出指示出したの早川啓二と高畑勲のみだよ?だから宮崎駿ってアニメーターから一歩も出ないし統制できないから鈴木敏夫は支えるだけだよ?ここまで来たら散々言った『竜とそばかす姫』さあ?拾え?議事録?要は無能以下のバカ以下ですらなく史上最悪のヒモ以下が細田守なだけ?」

監督は安物サングラスと古着のガウンとF県のゆるキャラTシャツに古着のステテコ着た中年太りの白髪が混じった茶色長髪ロン毛の髭面のおっさん姿でセブンスター煙草にポールスミス コレクション ジッポで火をつけ煙草を吸う

「アタシャ助監督よ!これ固定させるのが第二班監督で演出チーフなの?スタッフ編成任されてるの?こうして統制取るためにね?『竜とそばかす姫』取れる?ファッション業界やら建築デザイナーやら書籍の装画のイラストデザイナーやらフラワークリエイターやら集まって作画に支障だいぶ来るわよ?全員所詮は素人だし組はギスギスするの?必ずね?史上最低の作戦ね?言いたくないけどアカデミー賞にノミネートすると必ず胡散臭い連中来るのがアート業界で余計に組はギスギスで興行的には成功だけど損失多いの?山下高明は正直降りるわよ?こんなエゴ丸出しの現場作った細田守を早い話が助監督として言う『魔法少女まどか☆マギカ』で存続できるのは昆虫の理屈なの!助監督の言うように餌がないと一秒以下で滅ぶの百合魔法少女はこれ!だから細田守なの!監督の真似して逃げたんだ!『未来のミライ』のくんちゃんも甘えん坊な54歳の大人で細田守のくんちゃんはベストディレクターよ!つまらない専門ディレクターだよ!つまらないしかないからね!くんちゃんよ!他は敢えて有名よ!みうらじゅんのギラーミンのその場の限りの監督だ!もうデリヘル嬢以下よ!それしかないわよ!「マイ・ウェイ」いい曲よ!フランク・シナトラが歌うと心にしみる!だから『未来のミライ』は「マイ・ウェイ」だ!もはや発祥はない歌があるだけよ!「マイ・ウェイ」!わが道!その究極の歌手はフランク・シナトラよ!アタシャ助監督よ!こうして恥さらしてるのに栄誉よ。しかも日本国民褒めるのよ」

「プロデューサーだ!要は細田守って魔法少女で魔女で鹿目まどかのようなポイ捨ての神かハハハハハハハハハハ拾わねえよハハハハハハハハハハ斎藤優一郎もポイ捨ての神様だハハハハハハハハハハ川村元気もだハハハハハハハハハハ心の指紋が商業利用されたら東宝に指摘できるんだハハハハハハハハハハスタジオ地図の切り取り案件が成立なんだハハハハハハハハハハ」

「文芸部です。そうそうスタジオ地図で『時をかける少女』や『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』や『バケモノの子』や『未来のミライ』や『竜とそばかす姫』の切り取りをダーク・ディグラーもそれを見物します。その見届け人にガイナックスメンバーは山賀博之に赤井孝美に武田康廣に菅浩江に特別参加の一本木蛮に窓の外に三角締めことカミヤマΔや杉作J太郎や吉田豪やギンティ小林や市川力男やコンバットRECや小林清美やダース・レイダーやプチ鹿島や漫画家の吉泉智彦にシン・かわうそ@まどマギ叛逆54回鑑賞に放課後の・M・スパルツに遠野よあけに旅人のりんにTOMMYに祥太にヴァンダムに高橋利明にりくとに服部昇大に佐藤黒音にみとにHataケバブ™@The社畜生活にtotsuにういろうにリリンダに萩本 護にみすpに宮台真司にてくまくまよこに切通理作に柳下毅一郎にぬえに環望にCDBの参加権を提供し切り取りに参加の高額ギャラはスタジオ地図が支払います。交通費スタジオ地図の全額負担や豪華宿泊施設の宿泊及び豪華昼食豪華夜食おやつお土産付で宿泊施設のルームサービスやサービス施設サービス料や自販機すらもスタジオ地図の全額負担です。そうしないと支払えませんからね。多額の負債はね。ダーク・ディグラーの普段からのお礼です。totsuさんとりくとさんはスタジオ地図で『時をかける少女』や『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』』や『バケモノの子』や『未来のミライ』や『竜とそばかす姫』の感想YouTube動画上げて再生数稼いでください。再生数アップしますし登録者数も倍増します。しかも独占内部公開情報なので信頼性が増しアニメYouTuberの権威になれます。」

「俺は監督だ!人が悪いな文芸部?東宝事業部に恩売れるな?予算オーバーの細田守を洋ナシに出来てスタジオ地図の版権ガイナックスに譲ることで東宝事業部のアニメプロダクションに恩売れるし心の指紋も配給権も獲得だからな?しかも合法的に川村元気も追放できる」

「文芸部です。文芸部は商売は管轄外です。切り取り案件で進言できます。『PSYCHO-PASS』シリーズ合法的に葬れます。設定世界観の意味教えてください。破綻異常してるんです。誰でも突っ込めれるようなね?それ定義を虚淵玄やニトロプラスに求めるだけです。把握してないからいとも簡単に『PSYCHO-PASS』シリーズの矛盾点付けます。それで東宝に進言するんです。虚淵玄はテキヤで無能以下のバカ以下だとね。『PSYCHO-PASS』シリーズの事業はネット広告頼みだから切るきっかけとして使えます。それで虚淵玄やニトロプラス塵以下屑以下にするんです。後はそれを葉巻と珈琲と腐った牛乳とアンパンでやるんです。更に『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズは『おジャ魔女どれみ』シリーズと共通点が多く類似性も高いです。虚淵玄やニトロプラスは用語の意味や設定の意味も把握できてません。そこも突きます。それで『魔法少女まどかマギカ』シリーズを東映アニメーションに売ることで合法的に五社協定守り心の指紋のプロダクション守ることに成功します」

「俺は監督だ!限界知ってるから監督業やれるの?文芸部?ufotableも考えてあるんだろう?」

「文芸部です。文芸部脚本家の佐藤和治が所属しており、シリーズ構成・脚本を担当。各作品の監督や同社制作部・企画管理部のスタッフと共同で脚本チームを結成し、シリーズ構成・脚本制作を行うことも多く、ときにはチームで主題歌・挿入歌の作詞を行うこともある。近年では漫画班チーフの桧山彬や制作進行の高中優、チョンソダムなどが各作品で脚本を担当することが多い誰がやってるんですか?文芸系統どうなってるんですか?ufotableである種統一されてますから著作権発生しないんです。プロダクションにね。脚本家が書いてるからこそ印税が発生するんです。もしufotableの名義なら会社利益となり横領や脱税逃れの可能性が高いです。しかもufotableは近藤光の会社です。脚本家名の提示お願いいたします。国税局もここは見逃したようですが印税の隠匿は重大な犯罪です。会社倒産できるほどね。これキッズステーショ日本コロムビアキングレコードメディアファクトリーメディアワークスクロックワークストムス・エンタテインメントアニプレックスバンダイナムコエンターテインメントノーツKADOKAWAに心の指紋で商業利用し進言したら爆弾のufotableの爆弾処理したとみなされます」

「俺は監督だ!キッズステーショ日本コロムビアキングレコードメディアファクトリーメディアワークスクロックワークストムス・エンタテインメントアニプレックスバンダイナムコエンターテインメントノーツKADOKAWAで心の指紋の四話のクライマックスのコミケの著作権嫌でも貸してくれるぜ?音楽事業もアニプレックスがバックアップしてくれるしな?」

「文芸部です。文芸部は商売は管轄外です」

「俺は監督だ!無欲な人間ほど死ぬ程怖いんだ。デヴィ夫人や高須克弥や堀江貴文や前園友作や西村博之ってあるだろう?心の指紋が商業利用されたら?本当に終わりなんだ。ネットやSNSや主要グラウンドの5ちゃんねるすらもな」

「文芸部です。デヴィ夫人や高須克弥や堀江貴文や前園友作や西村博之ってなんだかで起業家ですよ?著作権侵害って御法度です。起業家にはね。しかもメディアやネットやSNSや5ちゃんねるでよく話題になります。西村博之は2ちゃんねるの創始者です5ちゃんねる(旧・2ちゃんねる)は、1999年5月に開設された日本最大級の電子掲示板匿名掲示板)サイト。西村博之によって個人サイトとして開設された。通称・略称は「2ちゃん」 「2ch」(「5ちゃん」「5ch」)など[4]。公式姉妹サイトに8chan(現・8kun)がある[5][6][7]。「2ちゃんねる」および「2ch」は、西村博之が日本国内で権利を有する商標である[8]2014年2月19日、2ちゃんねるの実質的管理権限が何らかの理由により「ジム」に移転、「ジム」が2ちゃんねるの実質的管理者となる。「ジム」と思われる人物の主張によれば「『N.T.Technology』会長ジム・ワトキンスがサーバー料金の未払いを理由に、当時の運営陣であるひろゆきらを全員解任し、管理人にワトキンス本人とその親族が就任する」という主旨の発表であった[38]。同年4月1日、ひろゆきは運営から外されたことについて「違法な乗っ取り行為である」と宣告し、2ちゃんねる(「2ch.sc」。略称「sc」)という名称の電子掲示板を設立し、自身が管理人に就任した[9]ジム・ワトキンス英語: James Arthur Watkins, 1963年11月20日 - )は実業家、元軍人。日本最大級の匿名掲示板2ちゃんねる」と英語圏画像掲示板8chan」管理人。アメリカ合衆国ムキルテオ出身。フィリピンパシッグ在住[1]。息子は8chanの元管理人で陰謀論者のロン・ワトキンス万年筆オタク[2]2014年2月、ワトキンスは2ちゃんねるの管理人であった西村博之(ひろゆき)から、2ちゃんねるの管理権限を強制的に剥奪した。その後、ワトキンスは2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)と8chan(現・8kun)の所有者および運営者となった。一部のジャーナリストや陰謀論研究者は、ワトキンス親子がQアノン陰謀論における「Q」の素性を知っているか、またはワトキンス自身が「Q」なのではないかと考えている[3][4]言いたくないですが普通は「2ch」は、西村博之が日本国内で権利を有する商標である[8]。ならジム・ワトキンスに乗っ取られませんし公式姉妹サイトに8chan(現・8kun)も基本はロン・ワトキンス(Ronald Arthur "Ron" Watkins)は、陰謀論者アメリカ合衆国匿名画像掲示板8chan」元管理人[3][4]2ちゃんねると8chanの所有者および運営者であるジム・ワトキンスの息子[5]。ロンは2016年から2020年11月に辞任するまで8chan(現・8kun)の管理人を務めた[1][6]。また、オルタナ右翼の陰謀論であるQアノンが広まる主要な役割を果たし、2020年アメリカ合衆国大統領選挙ドナルド・トランプに対する大規模な選挙不正が行われ、ジョー・バイデンの勝利に繋がったという根拠のない陰謀論を拡散させた[7][8]。一部のジャーナリストや陰謀論研究家は、ワトキンス親子の一方または両方が、Qアノンの背後にいる個人またはグループの身元を知っているか、あるいは彼ら自身が「Q」そのものであると考えているです。一切商標守られてません。逆に言えば荒らし放題だからヘイト問題で問題起きるんです。この心の指紋はnote媒体で著作権守ることを前提とした個人出版です。法は犯してません。しかも西村博之は2ちゃんねるの創始者です。西村博之を心の指紋の著作権侵害で刑事告訴すればジム・ワトキンスロン・ワトキンスも合法的に逮捕出来るんです。元は2ちゃんねるの商標持ってるのは西村博之です。芋ずる式で逮捕出来ます。ネットって伝達が早い分逮捕も即可能なのもネットの特徴です。しかもヘイト問題扱ってますから刑事告訴で100%検察は勝てます。ヘイト問題って先ほども言ったように諸刃の刃なんです。自分に向けること可能だし有罪と認めてくださいと言ってるようなものです。デヴィ夫人や高須克弥や堀江貴文も同等です。前園友作はSNSでパズりのTwitterトレンドワードにランキングさせますから著作権侵害で訴えられたらTwitterトレンドワードで著作権侵害が並ぶだけです」

「俺は監督だ!だから無欲な人間ほど死ぬ程怖いんだ。まだ一応は猶予はあるぞ?親切は言うからね?」

「文芸部です。心の指紋のシリーズ構成及び脚本と一話の構成案をお願いいたします」

井上亜樹子もシンデレラガールズの一人

「俺は監督だ!簡単だ!井上敏樹の娘の井上亜樹子選ぶだけだ、理由は簡単実績あるしシリーズ構成の経験ないが力量はある。子供番組主体だし小説版『ディケイド』のとき、小説版『ふたりはプリキュア』の話を貰ったことがきっかけで、『魔法つかいプリキュア!』に脚本として参加した[1]。だぞ?女の子向けアニメの脚本書けるんだ、だから向いてる命と生きてる感じだ、女の子向けアニメで大事なテーマだ、職人仕事も多いからオールラウンダーだよ?しかも小説や漫画の経験者で小説『ふたりはプリキュア』や『ふたりはプリキュアマックスハート』の小説書いてるからプリキュアの構造知り尽くしてるこれ以上の適任者はいない。井上亜樹子もシンデレラガールズの一人だ、第一話の構成案パイロット本編やイメージサンプル劇版パイロットの春の章と夏の章をベースに設定表とキャラクター原案と2~3話の構成でパイロット本編やイメージサンプル劇版パイロットの春の章と夏の章を井上亜樹子が脚色するだけ?死ぬ程簡単だよ?ここまでキャリアある人ならね?だから起承転結の起って意外と全体像考えとけば死ぬ程楽だよ?全体像考えるのが監督業だよ。無論井上亜樹子もシンデレラガールズだから池田洋子さんや山岡直子さんと一緒に国連総会でスピーチ」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!ここまで企画案に隙が無いとはな?企画案表示ここまで来てデカい儲けだと思わない奴は無能以下の岡田斗司夫や庵野秀明や関弘美や大塚雅彦や宇佐義大や近藤光や安見香だ!合法的に超ロリの裸がありしかもSEXだおまけに大乱交ありでバトル魔法少女アニメでプリキュアでスタンドバトルありで格闘技要素ありでガンアクションもある子供番組にも出来るポリティカルフィクションも出来る美味しい企画だろう?字じゃわからん?「お前!一発殴れ!」その領域だ。字だから具体性が出るんだ。史上最悪のヒモ以下の鷲羽大介はこれも出来もしないで自称の業界自慢だ!そうだよ。グッズ出し放題で関連商品確実に売れるなぁ?井上亜樹子はグッズになるよ?井上亜樹子は世界のベストセラー作家だ?心の指紋の書籍を任せてもらう小説も書いてたんだろう?なら心の指紋の本格小説もオーダーするのが筋だ、バカ売れだよ?ピューリッツァー賞やノーベル文学賞は間違いないよ?監督には頭が上がらないな?こうして儲け話持ってくるんだから」

「俺は監督だ!グッズ・担当さあ?言いたくないけど欲にまみれてるな?」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!そうだよ?人間欲がないと生きていけないからね?それでも儲けは慎重になるのがグッズ・担当だよ」

「文芸部です。監督が言うように『新世紀エヴァンゲリオン』は『ふしぎの海のナディア』のパクリです。何から何までここは突きません。必然的にガイナックス突いてもらいます。突くのは『龍の歯医者』です。『龍の歯医者』の脚本 - 舞城王太郎、榎戸洋司です。舞城王太郎は『ID:INVADED イド:インヴェイデッド』のシリーズ構成と脚本です。実績あります。それ以外はヱヴァンゲリヲン新劇場シリーズと日本アニメ(ーター)見本市と『監督失格』と『巨神兵東京に現る』と『シン・ウルトラマン』です。事実上。ヱヴァンゲリヲン新劇場シリーズ以外ほぼ完全外注に近い仕事です。アニメ制作会社なのにドキュメンタリーの『監督失格』です。カラーはアニメ制作ですよ?『巨神兵東京に現る』と『シン・ウルトラマン』作れるわけないじゃないですか?文芸部はそこ指摘します。アニメ会社が実写の映画制作したらプロダクション別に持たないといけないんですよ?完全外注に決まってるじゃないですか?そこで『龍の歯医者』です。そんな会社ですよヱヴァンゲリヲン新劇場シリーズのみですよ?そこに『龍の歯医者』です。監督は鶴巻和哉です。監督実績ほぼありません。しかも『龍の歯医者』は完全外注のスタッフ編成です。完全外注丸投げです。俗に言うね。プロダクションとして機能してないんですカラーそこを制作・著作 - NHKNHKエンタープライズ、ドワンゴに進言するだけです」

「俺は監督だ!そこで進言だ!細田守や庵野秀明以上に儲かるスター監督二人薦めるだけだ一人は『アイの歌声を聴かせて』の吉浦康裕だ、キャリアは新海誠とほぼ同じでもう一人は『放課後のプレアデス』の佐伯昭志は演出経験あるし予算守れる監督だし職人監督だからうってつけの人材だ」

「音楽担当だ!吉浦康裕は『アイの歌声を聴かせて』では高橋涼選んだの大正解だな?宮崎駿超えられるし吉浦康裕は典型的なSFオタクだ?そこに高橋涼だぜ?売れてくださいとと言ってるようなものだ?SFアニメブーム起きるぜ?『アイの歌声を聴かせて』はミュージカルだから当たらないんだ?基本はミュージカルって鬼門だ、だが『時をかける少女』路線で売れば高橋涼の音楽だ、サントラバカ売れするぞ、サントラって莫大な予算がかかる分当たればもう相当デカいんだ」

「俺は監督だ!『放課後のプレアデス』は普通のなんだかんだで魔法少女アニメでSFなだけだがこれ意外と難しいの?魔法少女アニメだよ?普通提示しないと破綻するんだよ?しかも好きな男の子だよ?だから深夜アニメで『魔法少女リリカルなのは』シリーズや『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズ出来たの?昆虫の理屈だから流行らないの?キャラクターは絵の可愛さもしくは同人エロ目的だよ?そりゃ超ロリの裸じゃないと釣れないし百合だ?LBBTQ問題どうするんだ?深夜アニメで脊髄反射以下で思いついたと言えないから屈するの?だから長く続かないの?放送局も続編案はバトル魔法少女アニメと規制の入った超ロリのエロしか放送しないよ?だから劇場版商法だよ?『魔法少女リリカルなのは』シリーズも『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズもね?なら劇場版前提の普通の魔法少女アニメ上映すれば一般客来るしカップル客も来る子供も呼べるしオタクも呼べるから『放課後のプレアデス』の劇場版だ、ネームバリューはないだが健全な魔法少女アニメだよ?『放課後のプレアデス』だから普通なの?プロモーションかけるのはプロデュサーの仕事です」

「プロデューサーだ!ここは俺の出番だ!『放課後のプレアデス』はキャラクター可愛いだろう?しかもSFで天文学だ、教育にいいアニメだと広告担当に大々的に売らせるぜ」

「広告担当だ!意外と俺の力でアニメ映画って決まるの?特に子供向けアニメってポスターやチラシの絵の可愛さでアニメ映画決まるの?細田守は貞本義行に頼ってたが貞本義行イラストレーターや漫画家やアニメーターで『新世紀エヴァンゲリオン』が代表作?細田守のネームバリューで来ても印象に残らんから子供には退屈するんだ?なんだかんだで子供は可愛いキャラクターがいるから飛びつくの『となりのトトロ』や『おジャ魔女どれみ』やプリキュアって可愛さ重視なの?そこに天文学だ、ポスターの見栄えいいから宣伝材料になる。しかも『放課後のプレアデス』とは独立した映画だから過去作見なくていい。広告し放題だ!」

「文芸部です。シンデレラガールズ追加メンバーは坪田文です。現段階は4話までですので手伝ってください。報酬ははずみます。プリキュア脚本家初の大河ドラマ脚本家と芸術選奨は確実以上にお渡しします」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!大森美香いただろう?グッズ・担当に言わせたらコネ女だ!、名古屋テレビ放送に入社。東京本部で一般職として経理、秘書業務等を担当。24歳で退社。在職中から受講していたマスコミセミナーの講師であったフジテレビの山田良明編成局制作室第一制作部企画担当部長(当時)に掛け合い、フジテレビの契約ADの職を得る。AD休職中に書き上げた脚本を山田に持ち込み、1998年『美少女H』・第12話「十七歳の記録」[2]で脚本家・演出家デビューだぞ?東京本部で一般職として経理、秘書業務等を担当だよ?秘書殺したくなるよな?」

「秘書だ!マジで殺したい全部書類整理で会社の業務の中心だぞ?それでAD休職中に書き上げた脚本を山田に持ち込み、1998年『美少女H』・第12話「十七歳の記録」[2]で脚本家・演出家デビュー舐めやがって!ADもコネ脚本家もコネか?香村純子だな?こいつも?」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?2015年にNHK朝の連続テレビ小説あさが来た』で脚本を担当した。2016年同作で第24回橋田賞を受賞[3][4]。2017年『眩(くらら)~北斎の娘~』は文化庁芸術祭大賞や東京ドラマアウォードグランプリなどを受賞[4]。は広告担当?」

「広告担当だ!全部波瑠や宮崎あおいのネームバリューだ!全部監督作も脚本作も実績零以下でコネでNHKで『晴天を突け』だ!これも吉沢亮で売る算段で『あさが来た』の大河ドラマ版キャストで安いよ!草彅剛や武田真治の時点でやる気ないよ!しかも語り部に徳川家康で北大路欣也だよ?完全コント番組だ!『鎌倉殿の13人』あれも豪華キャストのみのコントだ!広告担当に言わせたらな?『どうする家康』は松本潤と脚本が古沢良太の時点でコントで『光る君へ』は紫式部だぞ!脚本は大石静はラブストーリーの名手?俺でも頭痛くなるよ」

「俺は監督だ!『光る君へ』なんで広告担当頭痛くなるかわかる?藤原道長を光源氏のモデルにするの?資料大変だよ?権力争いやら宮廷劇やら女性関係やらもう大河ドラマでやれるような人物じゃないから向かないししかも平安時代だからセットも大変だ、『平清盛』も大変だけどそれ以上に大変なのが紫式部だよ?しかも紫式部って基本は書類整理の仕事メインだから女官で作家で歌人だよ?全部官僚の書類業務中心だよ?時代考証するとね?大石静はラブストーリーの名手だよ?そうなればそう言うのは無視して恋愛劇メインの大河ドラマになるしかないだろう?炎上するよ?しかも炎上って知らない間に炎上するのが大河ドラマの怖いところでおじいちゃんおばあちゃんが見るの主に大河ドラマはネットやTwitterしないおじいちゃんおばあちゃんが見るけど『晴天を突け』や『鎌倉殿の13人』や『どうする家康』とコント番組見せられたら視聴率に響くの?なんだかんだでテレビ局って視聴率が大事だし『晴天を突け』や『鎌倉殿の13人』や『どうする家康』のコント番組で大河ドラマ放送されたらNHKの視聴料金取りずらいの?NHKの視聴料って誤解があるけど任意なの?基本はね?もし番組で問題起きたら差し替えが基本なの?そうでないとNHKの視聴料で強制的に取ったら詐欺番組って言われて国が敗訴するの?必ずね?国も法に弱いの?それで『晴天を突け』や『鎌倉殿の13人』や『どうする家康』のコント番組大河ドラマで『光る君へ』のラブストーリーこれ大規模なNHKの大損害になるの?だから『晴天を突け』や『鎌倉殿の13人』で総集編があるの?それだけこの二つの番組大不評の証拠だよ?しかも控えてるのは『どうする家康』のコント番組大河ドラマ『光る君へ』のラブストーリー大河ドラマ?どう軌道修正すればいいのか?NHKも頭抱えてるところだよ?」

「広告担当だ!そこで俺の出番で坪田文を大河ドラマの脚本家に推薦するだけ大河ドラマのキャストさあ?なんだかんだで話題作り?誰でもいいんだ?広告担当に言わせればなあ?しかも大森美香よりも実績ある代表作はないが大森美香よりも使え三谷幸喜よりも大物脚本家じゃないし脚本料安く古沢良太みたいに売れっ子じゃなく大石静みたいにラブストーリーの名手で大物脚本家じゃないのがミソだ、使えるだろう?大森美香や三谷幸喜や古沢良太や大石静以上にな?こいつらコントしか書けないからTwitterトレンドワードに並ぶがネタ以下で忘れらされるのもTwitterの特徴だ?なら使える脚本家推薦すればTwitterトレンドワードにもなるし視聴率も取れるしNHKの受信料も取りやすくなる」

「俺は監督だ!こうしてNHKに恩売れば放送局と連携取りやすくなる放送の基本は国営が主体だから民法にも繋がるしNHKはなんだかんだで国の組織で報道局だからニュースで心の指紋の特集も組んでもらえるの?民放も同じだがスポンサー付くからタイアップで宣伝のみだ」

「文芸部です。大森美香は『晴天を突け』以降仕事がありませんね。何故ですか?渋沢栄一?問題大有りの人物を大河ドラマの題材にして脚本にしてコント番組にしたんですよ?実績はないですね?どうなっても知りません。こういう現実突きつけるのも文芸部です」

「広告担当だ!何故仕事がないと思う?大森美香?もうないんだよ?何も?実績ないんだろう?実績のない脚本家は亡霊だ。NHKの大河ドラマをコント番組にしただろう?あれが定着したんだ?取り返しがつかないレベルでな?総集編は『光る君へ』以降も延々と続くぞ?大河ドラマのな?そのままだ?大森美香の脚本作は総集編のみだ!要は総集編の仕事しか回さん。大森美香さあ?『革命機ヴァルヴレイヴ』知ってるか?あれ最後死んだ主人公や仲間は銅像になるんだ?お前も銅像になれ?銅像はたくさんあるぞ」

『カジノ』のサム・ロスティーンことエースが生き延びるコツは全員が監視してるだよ?

「俺は監督だ!こうして無能以下の脚本家始末するのが広告担当なの?だから怖いの?映画スタッフ全員ミスしないように監視してるの?マーティン・スコセッシの『カジノ』のサム・ロスティーンことエースが生き延びるコツは全員が監視してるだよ?だからジンジャーのミスでも生き残れたの?しかもエースだよ?一番だよ?要はトップだからエースなの?マーティン・スコセッシの『カジノ』ってそういう映画。昔ながらアニメファン?聞きたい?磯光雄どう思う?」

「昔ながらアニメファンですが正直どうでもいいアニメーターです。優秀なアニメーターなのはわかりますがだから何?です?今でいうトリガーのアニメや『チェーンソーマン』のアニメで騒がれたようなアニメーターです。『電脳コイル』なんですか?あれ?ディティールにこだわってなんだかわかりません。総集編がやたらと多いアニメ番組で興ざめしましたね。子供番組でしょう?子供置いてけぼりでしょう?どう考えてもね?『地球外少年少女』は挫折しました一話でね?昔ながらアニメファンですが挫折するアニメあんまりないんですがこればかりは挫折しました。ジュブナイルでしょう?Netflix独占配信アニメで劇場公開です。昔ながらアニメファンですが何考えてるんですか?『電脳コイル』といい『地球外少年少女』といい作画が凄ければいいだけですか?こういうの見るとアニメーターの監督作って誰も得しないんなと感じます。オタクからは一時話題になっても誰も内容覚えてないアニメばかりです。宮崎駿の『となりのトトロ』ですらそうです動き良いだけです」

「俺は監督だ!『電脳コイル』で総作画監督ある時点で完全敗北事項決定なんだ?必要か?総作画監督?子供向けアニメで?しかも脚本や絵コンテや原画や美術設定に磯光雄だ、史上最低の作戦決定事項の現場だよ?だからスタッフも寄せ集めだよ?磯光雄のアニメーターとしてのネームバリューで集まったが作戦指揮できないしアイデア出さないし構成案も考えてないし文芸だろう?他にやったことある?所詮はアニメーターだろう?もう現場は史上最低の作戦続行だ?アニメーションプロデューサーの丸山正雄も死ぬ程激怒しただろうな?だから磯光雄って仕事激減したの『地球外少年少女』では原作・監督・脚本・絵コンテ・演出・撮影・デザインワークス・設定考証・キャラクターデザイン原案だよ?これも史上最低の作戦になるしかないだろう?制作 - Production +h.って『地球外少年少女』作るためのプロダクションだよ?『薄暮』と同じ運命だ、本多 史典(ほんだ ふみのり、1980年12月30日 - )は、日本アニメーションプロデューサー実業家[1][2]。株式会社プロダクション・プラスエイチ代表取締役社長神奈川県伊勢原市出身[3]2021年より中央大学非常勤講師(現代視覚文化論)って実績ないも同然だ。切り取り要因で合法的に磯光雄を葬れる会社だ?だからマーティン・スコセッシの『カジノ』の話したんだ、サム・ロスティーンことエースが生き延びるコツは全員が監視してるだよ?ミスしたやつをマフィアが消すだよ」

「アタシャ助監督よ!よく『電脳コイル』みんな褒めるけど磯光雄って何やったの?監督として?書籍やインタビュー本になってるけど全部設定担当や設定進行担当や資料の下調べ担当や制作進行の全部手柄なの?これアニメ誌とかは監督やキャラクターデザインやアニメーターに取材して書籍やインタビューが本になってるけど設定担当や設定進行担当や資料の下調べ担当や制作進行も書類に残すの?そうでない書籍やインタビュー本作れないからね?その手柄奪う無能以下のバカ以下が磯光雄なの?アニメーターとして有名なだけだから何にもしてないのも当然残る。無論文芸も書いてないのも設定担当や設定進行担当や資料の下調べ担当や制作進行がチェックしてるの?これは表沙汰にならないけど岡田麿里の『さよならの朝に約束の花をかざろう』もそうなの?監督として構成案やアイデアや作戦指揮やったの?副監督の篠原俊哉のがやったに決まってるじゃない?岡田麿里は演出経験零だし脚本家よ?これ助監督に言わせれば史上最低の作戦よ?表示して」

絵コンテ - 篠原俊哉、平松禎史、安藤真裕、小林寛、塩谷直義橘正紀、岡田麿里

「アタシャ助監督よ!篠原俊哉が絵コンテ演出してる時点で演出チーフとして機能してないじゃない?副監督って演出チーフだから監督の意図アニメーターに伝えるのみよ?それが絵コンテに演出してしかも劇場版アニメの時点で史上最低の作戦よ?しかも絵コンテ多いのよ?これじゃあ史上最低の作戦と言わんばかりね?しかも絵コンテに岡田麿里だから素人が出しゃばるから平松禎史、長井龍雪、許琮、橋本昌和が演出として強化よ?そんな現場だから構成案出せるわけないからオタクからは高評価でも現場は史上最悪のムードよ?」

「ライン・プロデューサーのダイカンだ!表示してくれ」

企画 - 濱田健二、村田嘉邦、渡邊耕一、櫻井優香、堀川憲司

  • プロデューサー - 遠藤直子、京谷知美、竹中信広、菊池宣広

  • アニメーションプロデューサー - 堀川憲司

「ライン・プロデューサーのダイカンだ!堀川憲司だ!こいつの責任だ?P.A.WORKSも『さよならの朝に約束の花をかざろう』で傾くよな?2018以降作品数以前よりも激減に近いからな」

「セカンドのパップルです。表示してください」

作画監督 - 石井百合子、平松禎史、伊藤憲子、川面恒介

「セカンドのパップルです。これ豪華作画じゃないです作画監督補佐って四人もいらないんです。居たら作画崩壊の五秒前です。これじゃあスケジュール調整やスケージュール管理大変で本当に『劇場版SHIROBAKO』そのもの」

「音楽担当だ!岡田麿里さあ?川井憲次にどんな曲オーダーした?それやるのも監督業で『さよならの朝に約束の花をかざろう』ってどんな曲?指示出してよ?磯光雄も『電脳コイル』のMediarteと『地球外少年少女』の石塚玲依も区別付かないよ?石塚玲依って東京音楽大学作曲指揮専攻(芸術音楽コース)卒業だからオーケストレーション効かせないと劇場アニメやNetflix独占配信アニメだから視覚効果出ないよ?毎回同じ音楽オーダーか?磯光雄も岡田麿里も困るんだよ?音楽は被りやすいから著作権侵害が怖いんだよ」

「サードのジェロスっす。こう言うのチェックするんです予めっす?岡田麿里を後で生き地獄にして合法的に処刑出来るっす。表示お願いっす」

ヒビオル

イオルフが生業として織っている布。イオルフだけが読み取ることのできるメッセージが織り込まれており、情報伝達手段としても用いられる。普通の人間の世界では貴重な織物として高値で取引され、ミドの元にマキアがいたときにはこれを生活の糧としていた。また、エリアルはマキアから織り方を教えられ、マキアの留守中に「母さん」というメッセージを含んだ布を織った。

レナト

ドラゴンに似た生物で、翼を持ち、空を飛ぶことができる。数を減らしており、メザーテだけがこれを独占して飼育し、軍用に供していた(座椅子を背中に付けて乗る)。「赤目病」という症状を発すると暴走して体から火を出して死ぬ(ミドは夫をそれで失ったと話している)。飼育しているメザーテも繁殖はできておらず、死んだときには地中深く穴を掘って埋めるとイゾルは話している。物語終盤には軍事パレードでも実物を使えなくなり、形を似せた張りぼてを行進させていた。

「サードのジェロスっす。このファンタジー設定で岡田麿里は殺せるっす。監督が言った『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪』問題知らないっすか?揉めやすいっす。ファンタジーってこれだけっすか?設定?これどう設定考証すればいいっすか?何処の国の神話やおとぎ話や伝承元にしてるっすか?それのアイデア出すの監督のが務めっす」

「フォースのジンジンです。設定進行担当ですから岡田麿里や磯光雄が監督として何やってたかを記録するから進行です」

「フォースのタクミです。文芸部の資料の下調べ担当ですから文献資料当たるのがタクミの役割です。脚本の進行状況残します」

「新人ディレクターのチャラリートで~す。俺が一番の要で全工程知ってるから監督としても脚本家としても無論アニメーターとしても何一つやってないのバラシてプロデューサーやグッズ・担当やスポンサーにチクるのが俺の役目で~す」

「プロデューサーだ!グッズ・担当とスポンサーに聞け?いつものだ?ババを踏みやがったぜーロワイヤルストレートフラッシュ級のいつものバカ監督とバカ脚本家だ!それ監督と脚本でやると殺されるの!生きてる感じは一瞬すらもないくらい怯え『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』を毎日が死だと感じることが生きてる感じがガチでマジでガチサイコーなんだ!これで通じた?」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?なんでこの描写毎回も付く?それを表現するのがアニメーターだろう?監督は結果のみ出せ!脚本も兼ねる?著作権侵害怖いし多様性怖いし言い訳も同時に考えてあるんだろうな?グッズ・担当はこういう奴嫌いなの?世間で持て囃されたアニメーターと脚本家風情が偉そうに監督業か?結果出せるんだろうな?結果出してこそ?監督業だ?磯光雄も岡田麿里も知らんしもう価値ないから洋ナシ」

「スポンサーだ!磯光雄?誰だそりゃ?岡田麿里?誰だそりゃ?そんな訳の分からん奴が監督?任せたの誰?言いたくないよ?俺は損したくないし問題起こされたら困るんだよ?説明してくれよ?その訳の分からない磯光雄や岡田麿里にさあ?俺に?説明してくれよ?何がやりたかったのか?俺はスポンサーだから偉いよ?しかも素人なのが前提だからジジィの俺に分かるように説明してくれよ?説明できないならさあ?消えてよ?今すぐ?この業界さあ?俺は知らないよ?磯光雄や岡田麿里がどうなろうとさあ?全く手は貸さないよ?有名なんだろう?職に就けるんだろう?知らないよ」

「俺は監督だ!こうして無能以下のバカ以下監督や脚本家始末するのが映画スタッフなの?だから怖いの?映画スタッフ全員ミスしないように監視してるの?マーティン・スコセッシの『カジノ』のサム・ロスティーンことエースが生き延びるコツは全員が監視してるだよ?そう監督業も命がけなのに憧れるバカ以下いるから困るの?こうして粛清されるからね?ミュージックThe Animals - 「The House of the Rising Sun」で『カジノ』の粛清シーンに流れる音楽だよ?磯光雄や岡田麿里はこうして粛清されました。岡田麿里監督二作目の『アリスとテレスのまぼろし工場』は(時期未定)で消したの。ミュージックスタート」

The Animals - 「The House of the Rising Sun」

「音楽担当だ!シンデレラガールズに一人参加だ?寺田志保だ。キャリアは申し分ないし国立音楽大学に進学。電子オルガンを専攻し、在学中にはYAMAHAインターナショナルエレクトーンコンクールで1位を獲得した経験を持つ。その後キーボードとパソコンによる作曲スタイルに移行し、大学卒業後はヴァイオリンとキーボードからなる女性インストゥルメンタルユニット「D.F.O.(Digital Future Orchestra)」を結成し、メジャーデビューを果たす[2]。しかしながら自身のみで作曲したいと考えるようになり、活動から6年で解散。2006年にソロ活動を開始、知り合いからの依頼により映画『0からの風』の音楽を手がけ、劇伴作曲者として歩み始める。作曲数は年間200曲ほどになる[2]。その傍らJAM Project松浦亜弥東儀秀樹などのサポートキーボーディストや楽曲アレンジも手がけている。キャリアとしては完璧だ、シンデレラガールズに相応しい、そこに心の指紋の音楽は末廣健一郎だ、異世界物が多いからファンタジー音楽も作れるし『逃げるが恥だが役に立つ』のラブコメや『ゴールデンカムイ』の西部劇まで幅広い。さらに寺田志保伸びるの、音楽家二人体制って伸びるの『仮面ライダーW』って音楽 - 鳴瀬シュウヘイ中川幸太郎だからセッションがやりやすい現場だ。鳴瀬シュウヘイってDJだからリミックス上手いし中川幸太郎はストリングスと吹奏楽器を用いたアップテンポ、かつ荘厳壮大で華麗な曲調や、ラテン調の混じったジャズ調な曲を得意とするだから遡上効果生まれて『仮面ライダーW』って成功したの?菅田将暉がメジャーデビューできたのは鳴瀬シュウヘイ中川幸太郎だよ?末廣健一郎は10代の頃よりギタリスト鍵盤奏者ドラマーとしてバンド活動を始める。次第にインストに関心を持つようになり[1]エンニオ・モリコーネの影響を受け作曲家を目指すようになる[2]作曲技法オーケストレーション岩代太郎大澤徹訓に師事。以前、POPHOLICに所属していた際はアニメソングの作編曲を数多く手掛けた。現在はワンミュージックに移り、主に劇伴音楽の分野で活動を行っているだよ?育成に向いた音楽家が末廣健一郎だよ?今の『デリシャスパーティープリキュア』の音楽の予算じゃ伸びない?『ヒーリングっとプリキュア』じゃいい音楽だったよ。だからシンデレラガールズの一人だ」

「俺は監督だ!マーティン・スコセッシの『カジノ』のサム・ロスティーンことエースが生き延びるコツは全員が監視してるだよ?脱出組はパラダイスのチケットはこうして渡す美術デザイン - 西田渚、今井美紀(第1話 - 第23話)、いいだりえ(第24話 - )や色彩設計 - 坂入希代美も救う。理由知りたい?美術や色彩設計って予算抑えれてこそ美術や色彩設計なの?これが作画に多大に負荷がかかるから深夜アニメって基本これに製作費掛けてるだけだよ?田中将賀も基本は『家庭教師ヒットマンREBORN!』のキャラクターデザインだから赤ちゃんと子供上手いから『家庭教師ヒットマンREBORN!』に選ばれたの『家庭教師ヒットマンREBORN!』のオープニングアニメーションやエンディングアニメーションで知り合った長井龍雪と意気投合して『とらどら!』で人気アニメーターで秩父三部作や『君の名は。』だよ?基本は新海誠って美術や色彩設計の演出指示上手いから注目浴びたの?文芸は内省だからヒットしなく田中将賀と組んだだけで『君の名は。』でメガヒットしただけで正直メガヒットの理由は田中将賀のみだよ。でも『天気の子』じゃ田中将賀は使えないよ?『空の青さを知る人よ』や『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』控えてるから田村篤に頼らざるえないの?全体の作画は内省のみだと不可能だろう?どう考えても功績は田中将賀だからメガヒットして新海誠も注目浴びたから内省捨てるしかないだろう?美術や色彩設計も変わんないよ?いつもと同じで金かけたのは著作物だよ?それでラブストーリーするしかないだろう?今まではお姉さんばっかりだったけど異常気象で子供がテーマなら年上と見せかけて年下の女の子これなら客は感情移入できる。新海誠って構成案ようやく『天気の子』で立てられたから脚本書けるの?分るよな?秩父三部作って美術や色彩設計良いだけでしかないよ。構成案零だから田中将賀のキャラクターデザインと音楽で感動だ。昔ながらアニメファンさあ?秩父三部作どう思った?」

田中将賀さんのキャラクターデザイン可愛いなのみです。

「昔ながらアニメファンですが田中将賀さんのキャラクターデザイン可愛いなのみです。秩父三部作ってやたらと援助交際まあ今でいうJKビジネス臭がするんですね。しかも田中将賀さんのキャラクターデザイン可愛いから小学生低学年の女の子がいつも性の玩具にされてるの見てるようで辛いんです。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』もそうだったな?田中将賀さん『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』もキャラクターデザインやってましたがあれは気まずくないんです。エログロヴァイオレンス前提だから記号的なお色気です。秩父三部作っていつも音楽のみだ。象徴的なのは『空の青さを知る人よ』の「ガンダーラ」ですね。私世代ですが嬉しくないですもうネタ切れたのかな?ってね思うだけでした。青春ソングで「ガンダーラ」って陳腐通り越してます。アニメのスタッフの事はわかりません所詮は昔ながらアニメファンです。言えるのはもう監督も脚本家も田中将賀さん頼みのアニメだったのが秩父三部作です」

「俺は監督だ!だから長井龍雪も岡田麿里殺したくなるんだ!構成案立てないと映画にもアニメーションにもならないんだ!監督業って構成案提出しないとただの演出家なんだよ?構成案立てとけば後で展開でアドリブ加えるのいくらでも可能なのにアドリブしか考えないから全体の構成がズタボロ以下になるんだよ?シリーズ構成ってなんだ?文芸部?」

「文芸部です。シリーズ構成って監督が提出した構成案に現実突きつけるのがシリーズ構成です。お友達ではありません。そうしないと他の脚本家が監督の意図を無視して脚本書くから構成案崩れるから構成案に沿って現実言うだけです。同時に可能性潰すのがシリーズ構成です。監督も所詮は人間ですからミスあります。そのミス正すのがシリーズ構成なだけです」

「俺は監督だ!やったか?長井龍雪も岡田麿里も?だから小学生低学年の女の子を性の玩具にしてると言われても仕方のない作品ばかりなの特に『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』は露骨に小学生低学年の女の子を性の玩具にしてる話だぞ?孤児でヤクザで風俗で戦争でとなれば児童買春しかないぞ?孤児のヤクザは風俗行けないし年上の風俗嬢にバカにされるから鉄華団全員3~9歳の売られた処女の幼女に手を出すんだしかもヤクザがバックだしかも戦争だ。それ以外考えられないからな?正直ソドムの市の最悪版だ、表示してくれ長井龍雪が監督の宇宙の恥垢だとわかるな」

サンライズ側から「『機動武闘伝Gガンダム』くらい踏み込んだ作品」あるいは「主人公は女の子でもOK」など高い自由度と既存にない作風を求められたこともあり、本作は生活のなかに戦いがある子どもたちの小規模な集団が主軸に据えられ、生存競争のために彼らが戦闘などの行動を能動的に起こすようなストーリー構成となっている。これはガンダムシリーズの特徴である「大国同士の戦争」や「戦いに巻き込まれる主人公」がターゲットの若年層にとって現実味のないものになっており、スタッフとしても軍隊の正確な描写が難しいとする長井の考えによって設定された[16][17]

作品のコンセプトとしては、平成以降の暴走族漫画に登場するヤンキー文化やチームのつながりという空気感を意味する「任侠」がスタッフ間で共有され、広島抗争をモチーフとした粛清などの要素が採用された。さらには『1st』を意識したロードムービーの要素も取り入れられているが、物語の骨子自体はなるべくオーソドックスにすることが意識された[16][18][19]

作品の終着点としては、主人公勢力が最終的に敗北することが企画段階から決められていた。これはイデオロギーや政治性のない少年たちがただひたすらに頑張る姿を描くことが長井の念頭にあり、どんな状況でも進むしかない人たちが実際に突き進むとどうなるかという思考実験に近いところから物語が生まれたことに起因する[19]。長井は放送終了後のインタビューにてこれを「『(人が)わかりあえる・わかりあえない』『(戦争が)終わる・終わらない』という話ではなくて、ただただ前に進み続けるだけの話。『結果』ではなく『過程』の話を描きたかった」という形で表現している[20]。また、アフレコ開始以降や放送と並行して脚本・設定がリアルタイム作成されたことや[7][21]、岡田の提案もあって二期終盤における結末・エピローグの予定変更なども行われたが、長井本人は結末までの過程に紆余曲折や変化はあったが大筋や結果は当初から企画していたものが作れたと語っている[22][23]

演出面では、劇中における価値観を平行に描くことが注意されており、主人公側と敵対側双方の非情な面を描くなど、単純な勧善懲悪の区別ができない作りになっている[24][17]。キャラクター描写においてはリアリティをもたせるために、戦争の場面だけではなく、登場人物の日常の風景を描写することが意識されている[17]。また、メカニックの演出ではビーム兵器が登場しない設定を踏まえたうえで、「斬るのでなく吹っ飛ばす」「装甲が剥がれてフレームがむき出しになる」といった、これまでのガンダムとは違う新しい見せ方が志向されている[17]

「俺は監督だ!これが『機動戦士ガンダム 水星の魔女』が生まれた背景だ。要は構成案すら持ってなくテーマすら持ってなく思い付き以下で監督しただけだ、可能性潰してこそ可能性は広がるの?それも出来ないのが長井龍雪だ!さっき俺が言ったことは現実に起きてる事だよ?古今東西少年兵の児童買春の現実って3~9歳の女の子がレイプ同然に買春させられるんだよ?それ潰さない無能以下のバカ以下居るか?現実も考えられない奴が監督するな!フィクションは360度見れるんだ!一周出来るくらい可能性が無限大だから最悪の可能性拾うのが監督業だ、だから史上最悪の変態でないと監督業って成り立たないの?俺の理想の監督はジョン・ウォーターズで漫画家は野田サトルだよ?確実以上に多様性やら変態の犯罪増長の可能性潰せて尚且つ言い訳できるし超ロリコンエロも可能だからな」

「文芸部です。そこを自覚してるなら現実突きつける必然性がないんです。可能性見つけ出して現実突きつけるのがシリーズ構成ですから幅広げるのもシリーズ構成です。構成案で方向性定まれば話の幅広げるのみです。岡田麿里やりましたか?文芸は人生です。現実突きつけるのも人生です。人生は青春ではありません。人生は老いがあるから人生です。美しい人も老人になります。それは変えられない事実です。しかしフィクションは円環構造で終わりはありません。高塚金次郎さん?アニメーション作家は人生終わるんです。高塚金次郎さんも終わるんです。言えるんですかそれを人に偉そうにね。子供番組でも深夜アニメでも巨匠のアニメも所詮はアニメです。差異はありません。最初は皆子供番組です。作家論やたらと語ってましたね?人に説教のように高塚金次郎さん自身の作家論言ってください。作家って恥晒すから作る家と書いて作家です。作家論の強要って高塚金次郎さんがカラッポ以下の人間と証明されてるんです。言い歳した年寄りオタクがマウンティングでお山の大将?もう60近いでしょう?人生終わるんです。作家アニメも作家が死ぬと忘れられます。プリキュアは長く続きます。高塚金次郎さんが死んでもね。それが現実なだけです。文芸は楽しくないです。アイドルではありません。現実突きつけたんですか?長井龍雪に?それがシリーズ構成です。楽しくないですよ?部活感覚みたいに集まってアニメ作られては文芸が機能しません。文芸は世界中の人間敵に回しても著作権守らないと脚本家人生終わりなんです。それしか頼るものないですからね?文芸は著作が命です。著作は死んでも生きるから皆私に頼るんです。世界中からね。『泣きたい私は猫をかぶる』どういう話ですか?猫でしょう?必然性提示しないと著作権侵害になる案件です。言いたくないですが秩父三部作って設定がプリキュアです。これどう覆すんですか?これがシリーズ構成です」

「俺は監督だ!お友達気分でやれないのお仕事ってそうシリーズ構成って俺に多大に文句言う係で多大に手助けしてくれる係わかるだろう?岡田麿里がどれだけシリーズ構成として死ぬ程ヘボか?アイドル気分じゃやれないの?だから島田満さんはシリーズ構成なの?どんな仕事もこなすの?それで話の幅広げたり可能性潰したりするの?『リトルウィッチアカデミア』普通の話作ろうとしただけなのにトリガーは萌えて燃えるの作画のみそりゃシリーズ構成降りたも同然の状態だ。気が付きゃ御破算企画だもんな?井上敏樹も同じだよ?逆に御破算企画をシリーズに出来るから井上敏樹は天才なの『ギャラクシーエンジェル』って御破算企画だよ?でも脚本編成でシリーズに出来たの?子供番組から深夜アニメまで可能なね?派生作品で『探偵オペラミルキィホームズ』あるくらい使えるのが『ギャラクシーエンジェル』シリーズだよ?そうだよ?監督を生かすも殺すもシリーズ構成なのにそれ軽んじるバカ脚本家やバカ監督多いんだ。監督業って演出家業の応用だよ?常に最悪想定できるから出来る仕事なの」

「アタシャ助監督よ!その監督補佐してツッコミやボケ担当して会話のキャッチボールして最悪をジョークに変えるのが助監督だしチーフ演出なの『少女革命ウテナ』って基本こういう現場よ?風山十五って五十嵐卓也の事よ?東映アニメーションに在籍してたから風山十五なの?バイト基本禁止なの?東映アニメーションってそれでも9永遠があるという城榎戸洋司風山十五門之園恵美5月28日これ意味わかる?他の東映アニメーションウテナ常連絵コンテマンは演出やってないの?五十嵐卓也やってるの?幾原邦彦ですら一話のみ絵コンテなの?演出の実質指揮系統が五十嵐卓也なの?要は監督補佐 - 金子伸吾、高橋亨がいるとは言え基本は東映アニメーションスタッフよ?東映アニメーション知り尽くしてるの?五十嵐卓也以外居ないじゃないしかも幾原邦彦の弟分だから事実上演出チーフは五十嵐卓也よ?五十嵐卓也も今すぐにはフリーランスにはなれないから名前は隠してるけど演出チーフね?しょうがないじゃない?史上最低の作戦避けるには弟分の力で演出力ある相棒欲しいからね。しかも弟分だからツッコミやボケの会話のキャッチ・ボールできるの?やった橋本カツヨ?いや細田守?絵コンテの回数見たら多いじゃない?困るの?東映アニメーションとJ.C.STAFFの事実上の共同制作アニメよ?役に立たないから回されたの?東映アニメーションとJ.C.STAFFの事実上の共同制作アニメよ?基本は低予算だから『美少女戦士セーラームーン』シリーズのメインスタッフだった幾原邦彦が少数精鋭のスタッフを集めて制作集団ビーパパスを結成、少女漫画家さいとうちほと組んで世に放った異色作よ?もう五十嵐卓也以外演出チーフ影武者で任されたとしか言いようのない現場ね?そこに細田守よ?ド新人で東映アニメーション以上の低予算で五十嵐卓也の演出指導は的確で自分だけ絵コンテ回数多いの?最終回も細田守が絵コンテだけど演出チーフは五十嵐卓也だから絵コンテ全部書き直しもう五十嵐卓也が絵コンテ書いてるようなものね?」

「俺は監督だ!助監督に言わせたら笑えない現場だよな?それで『少女革命ウテナ』って一切語ってないもんな。語っても邪魔者扱いとか円形脱毛症とかしか言わないもんな?『ハウルの動く城』異常に口が堅いよな?『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』第40話(第190話)「どれみと魔女をやめた魔女」で有名になったが第49話(第199話)「ずっとずっと、フレンズ」でもどれみオタクで話題になっただけ『明日のナージャ』の「星の夜・二人だけのワルツ」や「宝探しはロマンチック!?」や「フランシスの向こう側」の頃から騒がれなくなったな?そりゃそうだ!簡単!今までの会話繋がってるんだ美術や色彩設計って監督が指定するだけ?それだけ!それと演出チーフだよ?後はシリーズ構成と打ち合わせそれだけだよ?プリキュアシリーズとなんら大差ないよ?『僕のヒーローアカデミア』も『鬼滅の刃』も『呪術廻戦』も『SPY×FAMILY』も『リコリス・リコイル』も『チェーンソーマン』も指定しただけ?この世で楽チン以下なのに世間では神作画だよ?実際はプリキュアシリーズの作画高度だよ?単に美術や色彩設計抑えてるだけ新海誠が田中将賀にキャラクターデザイン依頼したの赤ちゃんや子供上手いから動かしやすいから雇っただけ?その程度だよ?深夜アニメ動かないから単に美術や色彩設計向上させただけその程度で神作画だよ?幼稚園児でもわかる理屈だよ?だから美術デザイン - 西田渚、今井美紀(第1話 - 第23話)、いいだりえ(第24話 - )や色彩設計 - 坂入希代美だよ?単に美術や色彩設計の予算上げるだけで新海誠と同レベルの美術や色彩設計可能なの?世の中騙されやすいよな?アニヲタ高校生?」

「アニヲタ高校生だけどさあ?俺ジャンプ漫画のファンだよ?騙されてたのか俺?マジかよ?プリキュアが上だなんて」

「俺は監督だ!これは現実だ!マトリックスではない真実だ!現実知るとそういうもんだ」

「アニヲタ高校生だけさあ?俺頭悪いからアニヲタやってるけどこれ友達に話しても信じてもらえなさそう」

「俺は監督だ!アニヲタ高校生?それがネオへの目覚めだ!アニヲタ高校生は赤いカプセル飲んだから真実の世界が見えただけだ!この世はマトリックスだとな?『IZO』は御破算企画なのに映画秘宝大絶賛だ、映画秘宝は青いカプセル偽りの現実に気が付かないままコンピューターの養分にされた。これが『マトリックス』なの?ロジャー・イーバートは「バカが勘違いして警官殺すだけ」と酷評したが正しいよ。ロジャー・イーバートは『マトリックス』の本質掴んで酷評したのだってインテリとボンクラのウォシャウスキー姉妹の映画だよ?バカ丸出しだったな?『マトリックス リローデッド』や『マトリックス レボリューション』や『マトリックス レザレクションズ』はもう青いカプセル飲んだな?東映アニメーションに養分にされたの細田守だってシリーズディレクター五十嵐卓也だよ?所詮は細田守は演出家でしかないよ?しかも五十嵐卓也はシリーズディレクターだから五十嵐卓也は上司で細田守は部下だから勝手に画面構成による美術や色彩設計の予算拡大は『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』第40話(第190話)「どれみと魔女をやめた魔女」は許すがそれ以外は許さないのが五十嵐卓也だよ?無論『明日のナージャ』が御破算企画だと東映アニメーションに出向くのも五十嵐卓也だよ。五十嵐卓也が現場で偉いの?シリーズディレクターだから監督で問題人物がいれば東映アニメーションに排除するように頼むのも監督業だ!演出で問題人物居れば排除するのが監督であの山本寛も同じことだよ」

「文芸部です。監督気が付きました?」

文芸部の意図にも気づくのが監督業

「俺は監督だ!文芸部の意図にも気づくのが監督業で山本天志や宮崎吾郎の得意ジャンルで脱構築の定義定める要は元のキャラの特定だ、大宮しんじと芝山とうじと大森けんたは碇シンジと鈴原トウジと相田ケンスケで檜山しづくと檜山みどり檜山かおるは桂浜心や桂浜えりかと狩野あいや狩野あいりや片桐かよや大泉いおやシャーロット・テートは芝山とうじ霧島ひかりと霧島まりと霧島そらマリア・アーデやケイ・ショウは量産化された綾波レイと洞木ヒカリの合体でディープキスしたり身体舐めまくりで圧倒的に膨らんでないおっぱい揉んだり圧倒的に膨らんでないおっぱい舐めたり乳首舐めたり乳首弄ったり乳首つねったり乳首吸ったり乳首噛んだりお尻触りお尻揉みまくり緋部指で触ったり緋部舐めたりアナル舐めたり勃起したペニス舐めさせたり顔射したり口内射精させて大乱交SEXし毎日妊娠前提の膣内射精をしている設定だ。しかも3歳児で霧島ひかりは7歳だが3歳の頃にレイプ同然で犯されしかも全員レイプ同然で妊娠前提で犯されてるか?ロリコンじゃないといいながら幼女の肉体の虜になってるか?『新世紀エヴァンゲリオン』の設定だし世界観だ?それを叱るのが小津姉妹で救いを与えるか?それで川上りさは惣流・アスカ・ラングレーで惣流・アスカ・ラングレーも救ったな?川嶋亜実だ!悪い子じゃないんだ?ドジだけど愛される女の子なだけだ。恋愛相談も上手いし幼稚園児でも対等だし気取らないしなんだかんだで伊丹せつなと大親友で伊丹せつなに嫉妬させたいから川口よういちに迫ってるだけだ?綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーの理想の関係で惣流・アスカ・ラングレーを普通の女の子にしただけだ」

「文芸部です。惣流・アスカ・ラングレーも女の子です。庵野秀明の性欲解消や自己投影ではありません。鈴原トウジは住所は神奈川県第3新東京市仙石原5-22-24。関西弁を喋る熱血漢。一人称は基本的に「ワイ」もしくは「ワシ」?セカンドインパクトは、アニメ新世紀エヴァンゲリオン』(以下 旧世紀版、旧作)およびリメイク作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の世界で発生した、架空の大規模災害で第2新東京市(だいにしんとうきょうし)は、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する架空の都市。エヴァ劇中において、旧東京都に代わる日本首都である。2000年9月13日に発生した「セカンドインパクト」の混乱の中、同年9月20日には新型爆弾が投下され、首都東京は壊滅した。そのため、日本臨時政府は東京の復興を断念し、2001年に暫定的な首都として長野県松本市[1]第2新東京市と改称して遷都した(第一次遷都計画)。その後国会で「第二次遷都計画」が承認され、将来の新首都として芦ノ湖北岸の神奈川県足柄下郡箱根町仙石原第3新東京市を建設し、最終的にそこに遷都する予定である。第3新東京市(だいさんしんとうきょうし、英語: TOKYO-3 / TOKYO-III)は、テレビアニメ新世紀エヴァンゲリオン』(以下 旧作、旧世紀版)およびリメイク作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』や関連作品に登場する架空の都市[注 1]である。閉鎖都市閉鎖都市(へいさとし、: closed city, closed town, ロシア語: закрытое административно-территориальное образование, ЗАТО(ザトー))、または秘密都市(ひみつとし)とは、ソビエトあるいはロシアの政府によって設置された、都市についての情報の開示や出入りが厳しく制限されている都市である。なんで鈴原トウジは大阪弁喋る必然性ありますか?第3東京市は秘密都市だから外部の情報遮断されてますから神奈川県第3新東京市仙石原5-22-24の人間が居ては困るから秘密都市で軍事考証脊髄反射以下で出鱈目以下です。しかも神奈川県第3新東京市仙石原5-22-24の人間が何故大阪弁である必然性皆無のガキ大将設定のみでしかも鈴原トウジは何故黒いジャージ?意味が分かりません。相田ケンスケは軍事マニアでカメラマニアでビデオカメラです。箱根山中に1人でテントをはって泊りがけでサバイバルゲームをしたり、休み時間の教室内で戦闘機の模型を手に飛ばす真似をして遊んだり、アスカやクラスの女子を無断で撮影して写真をトウジと共に他の生徒に売り捌く。一方で14歳とは思えぬ老成した一面や、鋭い人間観察眼を持つ。軍事マニアは単なるオタク設定です。大事なのはアスカやクラスの女子を無断で撮影して写真をトウジと共に他の生徒に売り捌くここです。今では使えない設定です。意味不明領域が碇シンジの特技:チェロ演奏、料理です。どうやって習ったんです?チェロ?金掛かります。音楽演奏は誰が支援?普通は音楽教室は親が通わせます。料理も誰が教えたんですか?しかも葛城ミサトは家事出来ない設定です。ハウスクリーニングに頼んで料理も出前で頼めばいいです。今でいうUber Eatsです。こんな女性がNERV/戦術作戦部作戦局第一課 課長で階級:一尉[注 2]三佐?不可能です。士官は士官学校出るんです。日常生活徹底的に叩き込まないと人は助けられませんし部下も付いてきません。だから葛城ミサトも基本は使えないキャラクターです。正直背景で出てくるのみでいいです。特務機関NERV(ネルフ)で正式名称は国際連合直属非公開組織 特務機関NERVです。非公開組織特務機関です。名称が出鱈目です。非公開なら情報機関です。意味が分からない用語ばかりです。この時点でも庵野秀明は何も考えてなくて脊髄反射以下で『ウルトラマン』や東宝特撮のみのパロディーやオマージュのみの監督と分かりました。この状態で碇シンジと鈴原トウジと相田ケンスケを幼女レイプ魔と定義してお仕置きです。可能です。『新世紀エヴァンゲリオン』の著作権五月蠅い癖に定義や設定や世界観や用語この時点で出鱈目です。反論したら定義求めるだけです。これが著作権です」

「俺は監督だ!なんで007って設定細かいと思う?『新世紀エヴァンゲリオン』著作権五月蠅い分こういうミスでパロディーやオマージュされ放題で文句言えないの?言ったら著作権法でカラーが全面敗訴で庵野秀明何言われても文句言えないの?怖いの著作権しかも007って政治扱ってるからボンド役者も慎重に選ぶの?イーオン・プロダクションズって権利死ぬ程五月蠅いのは007って設定細かいの特にキャラクターはね?全部下ネタジョークネーミングだよ?でも設定は細かいから訴えられないの?定義求められたら『新世紀エヴァンゲリオン』の著作権零以下だよ?親切は言うからね」

「文芸部です。手が施し甲斐ないのは惣流・アスカ・ラングレーです。14歳にして飛び級で大学を卒業です。飛び級(とびきゅう)・飛び入学(とびにゅうがく)とは、学年制等級制をとっている学校で、1学年・1等級以上を飛び越して上の学年・等級または上の学校に移ることである。就学経験のない者が小学2年以上の学年・学校に入学する「中途入学(ちゅうとにゅうがく)」を含む概念であるです。普通に考えたら学校名特定するのが普通です。どこの学校か調べるのが文芸部の資料の下調べ担当です。活用したんですか?この時点で天才少女設定のみです。要は帰国子女なだけです。正直転校してきたのみで良いんです。この時点で惣流・アスカ・ラングレーはカラッポ以下です。貞本義行の絵の力のみです。これどう定義したんですか?惣流・アスカ・ラングレー?もう何されていいようなキャラクターです。ツンデレやヤンデレに必然的になるキャラクターです。もう気の毒です。文芸部としてはこのキャラクター見ると嗚咽がします。性欲解消そのものです」

「俺は監督だ!だから川嶋亜実だ!武宮ゆゆこも気が付かなかった理想の惣流・アスカ・ラングレーだ!表示してくれ」

川嶋 亜美(かわしま あみ)

声 - 喜多村英梨

1学期途中から2年C組に転校してきた美少女モデルをしており、母親は女優の川嶋安奈と、一般的にも知名度がある。誰にでも驕らない性格を装っているが、実際には自分の全てを鼻に掛ける高慢さと強烈な毒舌の持ち主。しかしながら、自ら演出する本性を隠した仮面の性格で、大多数の同校男子生徒たちに好意を持たれている。その抜群の美貌とスタイルを維持するため、食事制限ジムエステ通いを怠らない。実家は資産家で、別荘を所持している。

転校してくる以前から仲の良い友人に恵まれなかったが、大橋高校では麻耶や奈々子と交友を深め、クラスでも一緒にいることが多くなった。クラスにもよく溶け込み、リーダーシップを発揮することもある。現在は伯父夫婦の家に下宿している。

祐作とは幼馴染み。大河とは犬猿の仲(物語が進むにつれ、徐々に接近していく)で、誰にでも尻尾を振るチワワに譬えて「ばかちー」(バカチワワの略)と大河から呼ばれている。また竜児には甘ったるい言動でしゃべりかけることが多いが、一方で彼女独特の恋愛的見解の本音を、端的ではあるが漏らすこともしばしば。

「俺は監督だ!これ最強に使える理想の惣流・アスカ・ラングレーだ!恋愛相談に向くキャラクターだろう!理想のな?しかも互いの気が付かない長所にも気が付かさせてくれる理想の惣流・アスカ・ラングレーだ!惣流・アスカ・ラングレーって記号的なエロなの?だからギャグキャラで笑わせ誰にでも驕らない性格を装っているが、実際には自分の全てを鼻に掛ける高慢さと強烈な毒舌の持ち主。しかしながら、自ら演出する本性を隠した仮面の性格で、大多数の同校男子生徒たちに好意を持たれているだよ?最強に笑わせること出来る三枚目美少女キャラクターだろうしかも大河とは犬猿の仲(物語が進むにつれ、徐々に接近していく)で、誰にでも尻尾を振るチワワに譬えて「ばかちー」(バカチワワの略)と大河から呼ばれている。また竜児には甘ったるい言動でしゃべりかけることが多いが、一方で彼女独特の恋愛的見解の本音を、端的ではあるが漏らすこともしばしばだぞ!もう理想の惣流・アスカ・ラングレー作ってくださいと言わんばかりのキャラクターだよ?惣流・アスカ・ラングレーにもいいところはあるのに使わない庵野秀明や武宮ゆゆこは本当にバカ以下」

「文芸部です。設定は文芸の命です。設定がないと著作権守れません。設定軽んじるのは文芸の宇宙の恥垢です」

『ゾイドジェネシス』は設定は死ぬ程使えるよ

「俺は監督だ!設定だよ?子供番組でさあ?忘れられたアニメで『ゾイドジェネシス』あるけど『ゾイドジェネシス』は設定は死ぬ程使えるよ。ムラサメライガーの生命の危機に瀕した際は機体特性や形態を変化させるエヴォルト(特殊進化)が可能であり、これによってハヤテライガー[4]やムゲンライガーといったゾイドに変貌、形態の獲得後はそれらを戦局に応じて使い分ける[5]。同機能は自らを一度解体し、再構築するシステムだとされているだよ?これへインのエネルギー数値能力は5分間だけクリチャー能力が300倍増加する能力に死ぬ程使えるよな?変身ヒーローで元は『TIGER & BUNNY』の鏑木・T・虎徹ことワイルドタイガーとバーナービー・ブルックスJr.のNEXT能力「ハンドレッドパワー」(5ミニッツ100倍パワー)と完全差別化できるしジャンヌダルクのオリガとご都合主義でないSEX出来るぞ!再生能力の一種でテラフォーミングそのものだ!死ぬ程使えるよ」

「文芸部です。被ってません。戦いを収束し戦い終わらせるの力がエヴォルト(特殊進化)で変身ヒーローのパワーアップし変貌、形態の獲得や解体や再構築可能なシステムですから変身ヒーローの新しい形が出来ます。実写でも可能です」

「俺は監督だ!『ゾイドジェネシス』は誰も覚えてない子供番組だがここまで死ぬ程使える設定だ!生かすだけだ。参ったな?へインの設定また出来た。困ったな?山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんや 坂入希代美さんにまた楽させてしまった。山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんや 坂入希代美さんと村瀬亜季さんの仕事を奪ったな?考えるの楽しいな?やっぱり監督業は辞められないなあ?それにしても困るのはさあ?雨宮哲だよ?『SSSS.GRIDMAN』も『SSSS.DYNAZENON』も『電光超人グリッドマン』の必然性出したか?出さないと脚色したことにならないの?監督業としては御破算で挙句にはタイトル決まったが『グリッドマン ユニバース』か?世界観を統一できるのか?元は『電光超人グリッドマン』だぞ?一話で十分の特撮だ?それで変身ヒーローにロボットアニメか?破綻だな?設定で大崩壊してるんだ?庵野秀明だ。断言した。もう『新世紀エヴァンゲリオン』しかネタがないからそれで『シン・ウルトラマン』はウルトラマンすらやれない。設定がないんだ。『ウルトラマン』のベースになる設定がな。パロディやオマージュのみ作品で盤上が崩れてるんだ。もう『シン・仮面ライダー』見なくてもわかるよ?パロディやオマージュのみの作品だ。どうなる?東宝や円谷プロダクションや東映に死ぬ程カラーの会社の権利や資産や庵野秀明の個人資産根こそぎ奪われるんだ。著作権侵害で裁判なしでな?当然『新世紀エヴァンゲリオン』も剝奪だ。表示してくれる?これも使えるよな?」

ムラサメブレード

ムラサメライガーの背部に装備される。希少金属であるメタルZi製の剣で、あらゆる物質を切断する事が可能

ムラサメディバイダー

ムラサメブレードが変化したメタルZi製の剣の一本で、右前脚に装着される[4]。二振りの剣となったことで、より軽い実戦的な装備となった

ムゲンブレード

ムラサメブレードが変化したメタルZi製の剣の一本で、背部右舷に装備する[5]

ムラサメブレイカー

ムラサメブレードが変化したメタルZi製の剣の一本で、背部左舷に装備する

ダブルハックソード

背部両側に装備。メタルZi製の剣[18]で、刀身に高電圧をかけ敵機を両断する「エレクトロンハッカー」という攻撃法を持つ[1

ブレイカーホーン

ランスタッグの角部。動かして敵を挟み込み、高圧電流を流し込むことが可能。

スラスターランス

右肩から前方へ伸びた、リーオ(メタルZi)製のランス。向きを変えたり、発射したり、ブレイカーホーンから取り込んだ電気を先端から放出したりできる

フェザーカッター

風切り羽部分。メタルZi製の刃であり、高速飛行時には敵機を一刀両断する武器となる[268]

パイルバンカーPile Bunker)は、テレビアニメ『装甲騎兵ボトムズ』およびその派生作品に登場する架空の武器。巨大な金属製の(あるいは)を火薬電磁力などにより高速射出し、敵の装甲を撃ち抜く近接戦闘装備である。

『ボトムズ』に限らず、さまざまな作品でパイルバンカーの名称、ないしそれと同様の機構を持つ武器や技が登場している。

シザーアーム[149]

闘争本能に火が点くと解放される左手の封印武装[148][注 27]。メタルZi製の爪[149][注 28]。通常時は包帯状の封印が施されている。アニメ作中では第17話から使用された。

バンブーミサイル

大型ミサイルで、複数敵を同時に殲滅可能[173]。多弾頭ミサイルとなる

ソウルタイガー[編集]

特に目立った戦闘はしていないが、ソウルブースターによってその機動力にさらに磨きが掛かった。瞬間的なスピードは作中のゾイドの中でもトップクラスで、まさに「目にも止まらぬ速さ」で敵バイオゾイドを倒していった。 しかし、最終決戦では自慢のスピードもバイオティラノには通用せず、リブ・デスサイズに捕獲されゾイドコアを壊されて再起不能に陥ってしまう。

「俺は監督だ!大河内みすずとネーナとカインとアベルと大沢まどかのエネルギー数値能力使えるムラサメブレードのエヴォルトでアベルのエネルギー数値能力は切断化で粒子レベルでも切断できる能力がコントロール出来るしエヴォルトも出来るダブルハックソードとシザーアーム複合技でカインのエネルギー数値能力は物体粒子破壊のコントロールが出来てエヴォルトも出来る。大河内みすずとネーナと大沢まどかはある種混ぜた大河内みすずはエネルギー数値能力は天候を操る能力でネーナはエネルギー数値能力は糸で細分化し分身拡大化できる能力で大沢まどかはエネルギー数値能力は風を操る能力だからオリガの高速飛行時にはジャンヌダルクを牽制する武器となるが成り立つネーナのエネルギー数値能力は糸で細分化し分身拡大化できる能力はブレイカーホーンの応用で糸を動かして敵を挟み込むことが可能でバンブーミサイルの応用で糸で敵を同時に殲滅可能大沢まどかは武器は槍だから槍を置き換え風の向きを変えたり、槍を発射したり、エネルギー数値から取り込んだ槍を先端から放出したりできるパイルバンカーPile Bunker)は、エネルギー数値300%ので風などにより高速射出する。これは大河内みすずと大沢まどかのエネルギー数値能力の大河内みすずのエネルギー数値能力はエネルギー数値能力は天候を操る能力で大沢まどかはエネルギー数値能力は風を操る能力だからその機動力にさらに磨きが掛かり瞬間的なスピードはオリガの中でもトップクラスで、まさに「目にも止まらぬ速さ」の活躍が出来る。そもそもエヴォルトは特殊進化だからスーパーマンの能力と同一でクリチャーのへインもカインもアベルも高町ゆうしろうもガルシア・フェルドも持ち合わせているクリチャーの特殊能力だからクリチャーの即製品も増やせるからエヴォルトって設定は死ぬ程使えるな?参った?また設定できた?またまた困った?また山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんや 坂入希代美にまたまた楽させてしまった。これじゃあ山岡直子さんと池田洋子さんと井上亜樹子さんと坪田文さんと寺田志保さんと西田渚さん今井美紀さんやいいだりえさんや 坂入希代美さんと村瀬亜季さんの仕事を毎回奪いっぱなしだ?やっぱり考えるの楽しいな?それにしてもやっぱり監督業は辞められないなあ?元は川上りさにコトナ・エレガンスの要素入れたかっただけだぞ?表示してくれ」

コトナ・エレガンス

声 - 伊藤静

ルージがハラヤードで出会った女性。もう一人のヒロイン。17歳で、幼い容姿のミィとは対照的に、スタイルが良く大人びた容姿をしている。特技は体術と暗器の扱い。服には多数の暗器が仕込まれている。当初はルージのムラサメライガーを囮にしたり、勝手に婚約者に仕立ててガラガの盾にしたりしていたが、旅を進めていくうちに徐々に彼に惹かれていく。いわゆる綺麗なお姉さん的なキャラクターで、ルージをからかう面と異性として意識している面がしばしば見られる。

「俺は監督だ!理想のお姉さん設定でネーナと差別化出来るしコトナ・エレガンスはどう考えてもレ・ミィがルージ・ファミロン好きでレ・ミィがアプローチ凄い下手だからお姉さん的なキャラクターで、ルージをからかう面と異性として意識させてるだけでルージ・ファミロンも本当はレ・ミィが好きなんだ。初めての身近な異性でお姫様で年下だよ?普通は好きになるよ?コトナ・エレガンスはルージ・ファミロンに気が付かせるだけレ・ミィが大事だとね。だから人気出たのレ・ミィとコトナ・エレガンスは『ゾイドジェネシス』はグロス制作の低予算アニメでゾイドの玩具のアニメで玩具売るだけのアニメだけどスタッフに恵まれたの監督の水野和則の予算守れ構成案立てれる現場にシリーズ構成西島悟でジュブナイルの専門脚本家で中川幸太郎のハッタリの効いたストリングな音楽に決め手はキャラクターデザイン坂井久太で総作画監督沼田誠也だよ?予算守れて構成案立てて音楽もよくて統制取れるメンバーでジュブナイルで坂井久太は萌えキャラが得意で総作画監督沼田誠也は作画のスペシャリストで普通は当たるが子供番組ってプリキュアシリーズ以外は破綻したの『新世紀エヴァンゲリオン』でね。いつも監督として思うの?子供番組の設定は『新世紀エヴァンゲリオン』すら凌駕するくらい設定が完璧なのに盗まないバカ以下いるんだ!雨宮哲や庵野秀明だよ」

「文芸部です。キャラクター捨てました?もう著作権侵害しまくり真希波・マリ・イラストリアスはです。表示してください」

人物[編集]

イギリス出身で、ユーロ支部所属[3]。日本語と英語を話せるが、最初の戦闘時は思考言語に日本語を指定している。また『シン』ではフランス語や中国語も口にしており、ヴンダー内の居室[注 7]にある書籍には各国語で読了を示すタグがつけられていた。居室は本で埋め尽くされており「あらゆる書物を読むのが見果てぬ夢」と語る。

興奮時に「にゃっ!」という掛け声や語尾を発する癖がある。

「匂い」について言及することが多く、シンジに対しては「いい匂いがする」と言い、2号機に搭乗した際は「他人の匂いがするエヴァも悪くない」と語っている。

自身がEVAに搭乗することについてはまったく疑問を持っておらず、戦闘中に痛みを堪えながらも「面白いから、いい!」と楽しんでいる。そのため、EVAに搭乗したくないと悩むシンジの心理を面白がっていた。

彼女の過去や背景は作中では明らかにされず、ゲンドウの若年時代の回想シーンにてユイや冬月と共にマリらしい人物が登場する、ゲンドウを「ゲンドウ君」・冬月を「冬月先生」・ユイを「ユイさん」とそれぞれ呼ぶ、冬月と対面した際に「イスカリオテのマリア」[注 8]と呼ばれて「久々に聞いた」と応じるなど、断片的・抽象的な表現に留まっている。

声を演じた坂本はマリについて、「ひたすらポジティブに、悲壮感が出ないように心がけた」「男でも女でも年上でも年下でもない感じ」「(シンジやアスカへの関わりを挙げながら)人間がすごく好きなのだと感じます」と話している[5]。人物設定についてはすべては知らないとしつつも、庵野の言葉をヒントに役を構築したと語っている[注 9][6]

外見的特徴[編集]

赤みがかった焦げ茶色のロングヘアを二つに分けて結び、赤い縁の眼鏡[注 10]をかけている[7]。EVA搭乗時も眼鏡を掛けたままで、眼鏡を落とした時は手探りで探すなど、裸眼視力が低い描写がある。

プラグスーツの胸部のフィッティングを気にする台詞(『破』)や、身体が揺さぶられるのに合わせて胸部が揺れるカット(『破』『Q』『シン』)、自身のバストサイズを特徴の一つとしてアピールする台詞(『シン』)があり、版権画では新型プラグスーツの胸部を開放して乳房を大胆に露出させたものすら描かれる(太田出版の『CONTINUE』Vol.50の表紙[8])など、バストサイズを強調した描写がなされている。

『破』の予告ではシンジらの通う第壱中学校とは異なるえんじ色のブレザー型制服を着ていたが、『破』のティザーポスターではパフスリーブブラウスを着用した夏服仕様になった。『破』の予告絵コンテには、「ゲンドウと同じ仕草で眼鏡を直す少女のUP」との記述がある。

仮設5号機搭乗時は暗緑色の旧型プラグスーツとヘッドギアを着用していたが、2号機搭乗時はピンク色の新型プラグスーツ(旧型・新型いずれもナンバーは05)に着替えている。8号機搭乗以降のスーツナンバーは08で、ヤマト作戦を前に白を基調とした深々度ダイブ用耐圧試作プラグスーツに再び着替えている。

キャラクターの造形[編集]

鶴巻和哉によれば、『破』制作時より、庵野秀明はマリに対し「『エヴァ』世界を破壊するためのキャラクター」という意図をもっていた[9]。庵野はこれより以前に「エヴァの登場人物は全部自分」と語っていて、それに対して鶴巻は「マリも彼らと同じになってしまったら、そういう世界を壊すことなんてできない」としている[9]。マリのキャラクターは作品の「閉じた世界を壊す他者」の象徴として、それまでの『エヴァ』が描いた、自意識に悩まされる近代的なキャラクターとは正反対の、生命そのものや人間を肯定し「昭和おっさん感」のある[1]、生命力あふれる存在に作り上げられている[9]

鶴巻からは、胸の大きいスタイルやギャグを言ったりする設定のような軽いアイデアから、それまでの作品世界になかった「ふまじめさ」「いいかげんさ」などを持つ性格、「シンジを寝取ってしまうことで、それまでのキャラクターの関係性を壊してしまうのか、ハチャメチャなギャグキャラとしてシリアスな世界観をぶち壊すってことなのか」といった物語へのかかわりに対するものまで、さまざまな提案や庵野への問いかけがなされ、彼の発案が多く取り入れられている[9]。さらに、シナリオをすべて知る外部の存在にしようとする庵野に対して、「物語の外からやってきたメタフィクション少女」にでもしないと、同じような立場のゼーレや渚カヲルのキャラクターに対抗できないと意見を述べている[9]

『破』制作時、坂本によれば、庵野はマリの演出について「鶴巻のほうにこだわりがあるから鶴巻に任せる」としていた[5]。鶴巻は「庵野が作ると自分自身になってしまうから、それとは違うキャラクターにしたくて他の人に預けていたと思う」と『シン』制作後に回想している[10]

カラー潰れてください

「文芸部です。こういうのはもう珈琲が美味しい。カラー潰れてください」

「俺は監督だ!文芸部が匙投げた!言った意味わかる?もう真希波・マリ・イラストリアスってなんだよ?この時点でわからん?外見のみ?なんで007って設定細かいと思う?『新世紀エヴァンゲリオン』著作権五月蠅い分こういうミスでパロディーやオマージュされ放題で文句言えないの?言ったら著作権法でカラーが全面敗訴で庵野秀明何言われても文句言えないの?そうキャラクターでこうも手を抜かれたら『新世紀エヴァンゲリオン』の類似品や類似商品出されて著作権や商標を『新世紀エヴァンゲリオ』って出されても文句言えないの?007って『カジノロワイヤル』や『ネバーセイ・ネバーアゲイン』って項目あるくらい権利って分散しやすいの要は『新世紀エヴァンゲリオン』のパロディーやオマージュ使いまくった類似映画や類似アニメーションやられても文句は一切言えないし儲けも取れないの。だから007って権利五月蠅いの死ぬ程ね。昔ながらアニメファンさあ?湯浅正明ってどう思う?」

「昔ながらアニメファンですが普通の監督です。あれがアニメーター監督で普通ですよ?海外で評価高いです。全部職人仕事です。素人が見てもですね。『DEVILMAN crybaby』も『日本沈没2020』もそうです。基本はアニメーターですからサイエンスSARUの設立者です。特に『日本沈没2020』死ぬ程叩かれましたがあれも普通です。と言うか湯浅正明って普通なだけでしかないですよ。何で海外人気高いのかわかりません」

「俺は監督だ!単に湯浅正明は監督としてアイデアあるし構成案もあるし作戦指揮もやれるだけ?そこに湯浅正明の作画のスペシャリスト力だ。そりゃアーティスティックな作画やれば海外評価高くなるよ?そう言うアーティスティックな作画得意だからね。同時に職人監督だからなんでもやれるの?『DEVILMAN crybaby』も『日本沈没2020』も基本は御破算企画だよ?Netflixアニメだよ?エログロヴァイオレンス求められるの?同時に低予算でしょうがないだろう?『DEVILMAN crybaby』も『日本沈没2020』もネームバリュー頼みの企画で『DEVILMAN crybaby』はスタッフ豪華だが基本は三級片がNetflixアニメだから予算はエロアニメ程度だから構成案立てて予算オーバーしなようにするだけ『日本沈没2020』は完全御破算企画の投了案件だ。表示してくれ」

概要[編集]

未曾有の大災害に見舞われた2020年東京オリンピック閉会直後の日本を舞台に、国家の海没・消失という国難を民間人の視点から描いたWebアニメ2020年7月9日(JST)よりインターネット動画配信サービスNetflixにて全世界配信がされているほか[1]、同年11月13日には再編集版である映画『日本沈没2020 劇場編集版-シズマヌキボウ-』が公開された。

小説『日本沈没』を原作とする初のアニメーション作品ではあるものの、主に学者や政府を主役としていた原作に対し、本作では一般家族が主人公とされており、災害を初めとする危機に翻弄される姿がメインに描かれている[2]。その他、舞台設定なども多くが本作独自のものとなっており、従来作との共通点はごく一部に限られている。

また、原作の英題名であるJAPAN SINKSを初めて冠した映像作品である。

キャッチコピーは『それでも人は、前を向く』(配信版)、『見届けろ。そのとき、希望は沈まない。』(劇場編集版)

「俺は監督だ!これ読めば完全御破算企画の投了案件だよ。未曾有の大災害に見舞われた2020年東京オリンピック閉会直後の日本を舞台に、国家の海没・消失という国難を民間人の視点から描いたWebアニメ。もう2020東京オリンピック案件のアニメだとこの時点でわかるの?原作の英題名であるJAPAN SINKSを初めて冠した映像作品である。ってこれ製作"JAPAN SINKS:2020" Project Partnersってあるでしょう?巨大な中抜きだよ!利権絡みのね。これが決め手だ第24回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の審査委員会推薦作品に選出される[10]。2021年6月にはアヌシー国際アニメーション映画祭でテレビシリーズ部門の審査員賞を受賞した(第1話が対象)これも意味わからんだろう?金で付加価値出して利権の分け前決めるの?オリバー・ストーンの『ウォール街』ってこういう世界だよ?株のインサイダー取引ってこうやるの?要ははりぼてだ、だから湯浅正明は予算守って構成案立てて予算オーバーしないようにしてアイデアや作画のアーティスティックさは完全排除で世間から死ぬ程叩かれるよ?でも逃げないのが湯浅正明だよ?『映像研には手を出すな!』これ意外と御破算企画だよ。作品は当初、実写映画を題材にする予定だったが、大童澄瞳の担当編集者の「実写よりもアニメの方がとっかかりがいい」のアドバイスで「アニメ制作」が題材となった[4]。こういういい加減な経緯のアニメーションって大概が投了案件だよ?元は実写企画でテレビアニメーションだよ?しかもNHKだ!予算は限られてるからね。ここからが監督業の本領で強みがあったんだ、大童澄瞳の絵のシンプルさとアニメーションを舞台にした部活動だよ?湯浅正明にとっては得意ジャンルだアーティスティックな作画も指示できるしアイデア出し放題構成案も立てやすい漫画で後は予算守るだけ。それだけでパズったんだ実写映画以上にそう最終的にはもの言うのは企画と予算だ。それやれるから湯浅正明は監督業続けられるの?史上最低の作戦を確実以上に避けるのも監督業だし企画があれば引き受けるのが監督業なだけ」

「昔ながらアニメファンですが冷静に考えたらそれが監督でしょう?意味わかりません庵野秀明や細田守は今まで言ってきた事はさておき何一つ監督らしいことやりましたか?庵野秀明や細田守はネームバリューのみで有名で記憶に残らない映画ばかりです。そう考えると湯浅正明は普通ですね。普通には勝てませんね」

「俺は監督だ!それ忘れるからネームバリューの監督に頼んで史上最低の作戦ばっかりやって結果的には降りられなくなり最後は亡霊なんだ、『麒麟がくる』ってそういう大河ドラマで織田信長を亡霊しないために明智光秀が本能寺の変起こしたって話で駒や伊呂波大夫や望月東庵や菊丸が偉いって結論だよ。庶民が偉いの?ネームバリューの監督がいても客来ないんじゃ亡霊にされるの?気が付いたぞ文芸部?小津姉妹を『COPPELION』から使った理由小津歌音は自分達コッペリオンが使い捨ての人形であることを知ってから、人間に対して復讐することを誓う。横暴で自己中心的な性格で言葉も悪いのだが、「妹」詩音にだけは心優しい。詩音とは違って比較的冷静で分析も優秀だが、抱え込んでいるトラウマも詩音以上である。で小津詩音は過去に実験として酷い虐待を受けており、それが精神的に深いトラウマとして残っている。リストカットの常習犯で、非常に凶暴かつ攻撃的だが、「姉」歌音だけは心から慕っている。実は葵同様、食い意地が張っている。遺伝子操作により強化された骨肉組織と怪力が自慢。至近距離からの砲撃を受けても負傷せず、拳の一振りでコンクリートを砕く。その一方で頭脳が五歳児程度までしか発達せず、そのコンプレックスが過去のトラウマと合わさって賢くなりたいと密かに願っているだろう?心の指紋二話の発端は3歳のジャンヌダルクの小津姉妹脱走だぞ?怒りたくなるよな?実験動物にされてしかも性の玩具だ?そこに大宮しんじと芝山とうじと大森けんたは檜山しづくと檜山みどり檜山かおるは桂浜心や桂浜えりかと狩野あいや狩野あいりや片桐かよや大泉いおやシャーロット・テートは芝山とうじ霧島ひかりと霧島まりと霧島そらマリア・アーデやケイ・ショウにディープキスしたり身体舐めまくりで圧倒的に膨らんでないおっぱい揉んだり圧倒的に膨らんでないおっぱい舐めたり乳首舐めたり乳首弄ったり乳首つねったり乳首吸ったり乳首噛んだりお尻触りお尻揉みまくり緋部指で触ったり緋部舐めたりアナル舐めたり勃起したペニス舐めさせたり顔射したり口内射精させて大乱交SEXし毎日妊娠前提の膣内射精をしているだぞ?怒りたくもなるし暴れたくもなるよな?自暴自棄にもなる!だから小津花音のエネルギー数値能力は雷撃で電磁波バリアや電磁波スパークや全電気系統掌握出来る能力だよ?世界中のテレビやラジオやネットやSNSやFacebookやYouTubeやTikTokeにバラすんだ小津花音が大宮しんじと芝山とうじと大森けんたの超ロリコン大乱交SEXをね?だから『COPPELION』の小津姉妹使うんだキャラクターってこうして生かすの?井上智徳はいつも女の子可愛い癖にサブカルで台無しにしちゃんだよな?もう小学生低学年の女の子が脱ぎまくる漫画描けよ?売れるぞ?」

「文芸部です。この場合海野洋子がキーになります必然的に国連平和維持軍情報処理部門部長です。情報処理は情報の見極めが大事だから情報処理です。必然的に『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』や『サマーウォーズ』すら前座扱い出来るインターネット題材にした前提の物語構成書けます」

「俺は監督だ!キャラクターの属性って役職で決まるの?役職って肩書だよ?社会一般常識で大事だ?なのにそれ軽んじるから『新世紀エヴァンゲリオン』は『ふしぎの海のナディア』の露骨なパクリだし虚淵玄やニトロプラスはテキヤなの?ラノベやなろう系もキャラクターの特徴は書いても役職意味わかんないから長く続かないの?それだけ設定で役職って大事なの」

「文芸部です。可能なのは『新世紀エヴァンゲリオン』の相田ケンスケのアスカやクラスの女子を無断で撮影して写真をトウジと共に他の生徒に売り捌くって設定です。それ逆にやっただけです。著作権侵害一切やってませんし大宮しんじと芝山とうじと大森けんたは碇シンジと鈴原トウジと相田ケンスケですが設定変えてます。一新して意味がある設定にです。文句があるなら言ってください?逆に一京七千超円請求するだけです。勝てますか?ただでさえ『新世紀エヴァンゲリオン』の設定の意味のなさを追求したら宇宙です。止まらないレベルのです。カラーは逆にガイナックスに度々洒落なならない金額請求しましたね。表示してください」

ガイナックスとの関係[編集]

ガイナックスの初期から作品制作に参加し、その後取締役を務めていた庵野が独立して設立したスタジオである。彼は、当時のガイナックスの社内状況を鑑みて、構想していた新作を凍結、『新世紀エヴァンゲリオン』(以下『エヴァ』)のリメイクに踏み切るが、自身の意思を経営に反映して責任が取れる場所が必要であるという思いから、独立を決意したと記している[12]。独立に際して庵野が『エヴァ』の原作者であることはガイナックス側も了解し、彼が手がけた作品でガイナックスが収入を得た場合は、一定の比率でロイヤルティーをカラーに支払う契約を結ぶ一方、『エヴァ』の版権管理や商品化の窓口は引き続きガイナックスが持つ形としていた[13]

しかし、2012年頃からガイナックスからのロイヤルティー支払が滞るようになり、同社の経営陣から分割払の申し入れを受けた庵野は、これを了承した[13]。さらに、2年後には支払が進まない状況でガイナックスの経営維持を理由に1億円の融資を相談され、『エヴァ』の商品化窓口やロイヤルティーの分配業務の移譲を1年前倒しにすることと、計画通りの返済を条件に、無担保・無利子でそれに応じた[13]。『エヴァ』の版権は、2014年にカラーに移管された[14]

だが、2016年4月に支払や返済が再び滞り、カラー側からの問い合わせに対しても一切の返答がなかったことから、同年8月にガイナックスに対して債権仮差押えを申し立て(執行された)、9月に貸金の返還訴訟を起こす[15]。この裁判はカラー側が2017年に勝訴し、確定した[15]。一方でガイナックスが過去の制作作品の資料を売却していたことが判明し、カラーはそれらを入手して特定非営利活動法人アニメ特撮アーカイブ機構」に管理を委託した[15]

2019年12月、当時のガイナックスの社長が不祥事で逮捕された際、『エヴァ』と同社を結びつける報道がなされたことに対し、カラーは「『エヴァ』は当社の作品で、現在のガイナックスとは無関係である」と抗議する声明を公式に発表している[16][17]。不祥事後にガイナックスの経営陣が刷新された際、カラーの版権管理会社「グラウンドワークス」の代表である神村靖宏が取締役社長に就任した[18]。この刷新後にガイナックス制作作品のうち『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』の著作権保有者がカラーに変更されている[19]

「文芸部です。ガイナックスに倍額以上の慰謝料支払わないと著作権侵害でカラーをガイナックスは訴えること可能なんです。理由は拾ってください一言でいうなら『新世紀エヴァンゲリオン』は散々言ってますが『ふしぎの海のナディア』の完全流用作品です。『ふしぎの海のナディア』はガイナックスです。これ心の指紋が商業利用されガイナックスに武田康廣や山賀博之に進言したらどうなります?カラーや庵野秀明は週刊誌や新聞紙のバッシングは山ですよ?庵野秀明?ネットやSNSも歴史に残る大炎上です。文芸部は商売は管轄外ですし他人のパクリも気にしません。読んだほうが良いですよ。桶田大介さん?これ擁護するのが民事裁判ですが証拠は山のようですから書類山のように揃えても問題点の指摘覆せません。必然的に敗訴です。第二審上告出来ません。裁判は金がかかり時間もかかりますし『ふしぎの海のナディア』と『新世紀エヴァンゲリオン』の共通点これだけ挙げたし『新世紀エヴァンゲリオン』のキャラクターの意味のなさも上げました。真希波・マリ・イラストリアスって裁判官にどう説明するんですか?この時点で完全敗北事項決定なんです。裁判官は中立です。意味の分からない告訴は上告却下が基本です。」

「俺は監督だ!わかっただろう?湯浅正明はこういうミスは犯さないから監督として普通なの?返還訴訟で勝つってことは逆に正当性があるかどうかも裁判で争われたらイッパツでカラー敗訴なの?それが裁判なのに庵野秀明はウルトラの馬鹿のウルトラの馬鹿のウルトラの馬鹿のウルトラの馬鹿のウルトラの馬鹿だ😱」

『進撃の巨人』のアニメあったじゃん?

「アニヲタ高校生だけどさあ?『進撃の巨人』のアニメあったじゃん?俺よくわかんないしジャンプ漫画しか読まないよ?あれはどうなの?」

「俺は監督だ!単にスタッフ編成が良かっただけ?それだけ?動いてないよ?正直リミッテッドアニメでプリキュアシリーズのほうが動くよ?諌山創の漫画だよ?キャラクターデザインは向上させるのみで巨人設定やプロップデザインを指定しただけの深夜アニメでしかないよ?荒木哲郎はアイデアと構成案と作戦指揮出来るメンバーでやっただけ後は予算守るだけだからアニメの『進撃の巨人』大当たりしたの?アイデアと構成案と作戦指揮と予算守れば覇権アニメ作れるんだ?意外と簡単で続編案出しやすい現場だよ?これをNHKに委託してMAPPAに売る。それでWIT STUDIO元以上取れたんだ!そうだよ?荒木哲郎って普通の監督業やっただけそれだけでしかないよ?だから言えるよ?だから『リコリス・リコイル』見てると構成案ないは可能性潰してないし作戦指揮出してないから作画監督は増える一方予算守れてないよな?あの現場?だからヒットしても劇場版案は会社から却下されるの?総集編映画案も作画直しで劇場版クオリティーの作画に直すから史上最低の作戦になりかねないから却下で当然続編案も却下なの?大ヒットした?「知らない」と言うのがアニメ会社で予算守れてないから組も疲弊して死ぬ程懲りるから別のオリジナル企画にも集まらないし無論オリジナル企画は却下なの?外部のアニメ会社それ知らないから雇うけど結果は史上最低の作戦だよ?わかった予算守るって続編案通せることなんだよ?予算守れば爆死アニメでも続編案いくらでも通せるの?だから円盤の売り上げのみで大勝利ってアニメの大半が史上最低の作戦だよ」

「アニヲタ高校生だけどさあ?よく話題になる円盤売り上げでも儲からないの?」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?円盤売り上げで喜ぶのは素人以下だよ?実際は予算守ったアニメ出ないと売れたことにならないいし利益少ないんだ?円盤?アニメは所詮は製作委員会方式でスポンサー多数だから円盤の利益も分散だ、海外の売り上げ?それも製作委員会方式だよ?だから予算守ってヒットなら利益出るの?なんで予算オーバーしたらいけないと思う。製作委員会方式だよ?金は限られてるから予算オーバーしたらいけないの?製作委員会方式じゃなくてもね?メジャーの庵野秀明や細田守もなんだかんだで毎回予算オーバーしてるの?東宝に来てから細田守が『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』『未来のミライ』『龍とそばかす姫』と庵野秀明は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で史上最低の作戦だ、どれも話題にはなったがグッズになってない時点で予算オーバーした証拠だ、困るよ?グッズって映画終わっても食えるからグッズなの?出せないくらい史上最低の作戦だ、メジャーの映画でこうだよ?円盤で食えるか?『進撃の巨人』の最大のグッズは原作単行本だ、これ売らないことには意味ないの?だから『血界戦線』は史上最低の作戦異常だったよ?円盤売れたよ?肝心の原作単行本売れたか?逆効果だ?アニメの声優のイメージ付いたから原作漫画違和感しか残らない。こうなれば洋ナシ以下にするのもグッズ・担当で『血界戦線 & BEYOND』で低予算で捨てる以下でバーゲンセールでもう松本理恵はMTVのみやれ?広告担当が松本理恵をスター扱いにする仕事は一切ないバイトでもして稼げアニメ業界ではバイトすら許さんだけだ」

「俺は監督だ!こういう世界なのアニメの世界ってね?構成案立てて予算守らなきゃ『革命機ヴァルヴレイヴ』の銅像になるだけ」

「昔ながらアニメファンですが『うる星やつら(2022年版)』のリメイク見ました?その話聞いてると高橋留美子って一切古びないですからね。逆に今でも通用します。基本は昭和ネタですよ?『うる星やつら』ってね?普通なら一切通用しません。でもキャラクター生き生き生きしてるんです。昔ながらアニメファンですが週刊少年サンデーで『うる星やつら』初連載時から読んでますが女の子が可愛いし諸星あたるはドジで女ったらしだけどやればできる男の子です。昔ながらアニメファンですがラノベアニメやなろう系アニメなんでこれ真似しないんですか?単純ですよ?昔ながらアニメファンですが被らないようにしないだけですよ?さっきからの話聞いてると?だから高橋留美子っていつも題材被らないからな?だから漫画描けるのか?島本和彦もそうだな?島本和彦は自分をギャグにしますからオリジナリティーあります。自分ですから被らないです。『BLACK LAGOON』はなんでしょうね?最初は美少女ガンアクションで気が付けばハードボイルドで世界情勢か?そりゃあ昔ながらアニメファンですが広江礼威さんも厭になるだろうな?そんな話。元はレヴィの美少女ガンアクションでしかないんですよ?普通なら小学館はラブコメ展開用意します。でもハードボイルドか?暗いのがハードボイルドだからなあ?世界で受けたのもレヴィの美少女ガンアクションです。素人でも編集部迷走してるのがわかります」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?小学館の漫画売れてない証拠だよ?『うる星やつら(2022年版)』って小学館の漫画が売れてない壊滅的な証拠だよ?『うる星やつら』だよ?ブーストかけても微々たる儲けでしかないんだぞ。それがノイタミナ枠だぞ?『うる星やつら』のネームバリューで釣れても単行本探すの一苦労だしなんだかんだで書店は古い本は扱わないから書店でアニメ化の本を扱うが『うる星やつら』って40年以上前の漫画だから小学館文庫が基本だ、図書館にしか置かない本だ、そこにアニメ化でブースト掛けたら出版費用が膨大でマイナスにしかならんぞ?しかも大量宣伝だ?『うる星やつら』は名作アニメだからな?儲けマイナス以下大損失異常だよ?それに頼るくらい小学館売るものないの」

「文芸部です。『BLACK LAGOON』は最初は美少女ガンアクションで気が付けばハードボイルドで世界情勢です。リサーチ班予め要したんですか?『ゴルゴ13』もリサーチ班用意しますし基本は四コママンガ構想です。でないとハードボイルドで世界情勢扱えません。社会問題ですよ?四コママンガだから言い訳が成り立つんです。ハードボイルドです?言いたくないですが非情なんです。悪党のみに非情だからハードボイルドです。全部『BLACK LAGOON』連載当初から用意してください?世界情勢ですから多様性です。編集部に殺害予告は届くのは日常茶飯事です。ハードボイルドは人間の闇ですから欲望です。倫理観がないと成り立ちません。『BLACK LAGOON』は最初は美少女ガンアクションです。編集部?レヴィの美少女ガンアクションで勘違いしましたね。言い訳用意しないオタク編集部って勇者ですね。メガンテが好きです」

「俺は監督だ!だからレヴィも使えた。レヴィ・ダブルハンドとしてな?被ってないよ?だってレヴィってキャラクターないから作ったまで設定の決め手はノーパンだ。これさえあれば『BLACK LAGOON』のレヴィをよくいる女の子に出来るんだ?ふざけてるが大事な設定だ」

「文芸部です。ノーパンです。しかも勝ち気で現実主義者で一匹狼タイプで汚い言葉使うが恥ずかしがり屋さんで純情です。これが現実的なレヴィです。恥ずかしがり屋さんで純情です。それすらも恥ずかしいからノーパンで強がってるだけです。このようにふざけた設定で現実感あるキャラクターに出来るからキャラクター設定って大事なんです」

「俺は監督だ!元は『BLACK LAGOON』って美少女ガンアクションだから人死なせないようにするのが編集部なのにハードボイルドで世界情勢か?扱ったら塵以下の題材ばかりだ、だからもうアニメ化出来ないの?後の展開は『おジャ魔女どれみ』シリーズと『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズ合体させて脱構築だ、要は裸が見たいから好きだと言いなさいだ?美樹はづきも佐倉あいこも巴ももこも裸見られたのがきっかけで上條まさるに大村だいすけに陣内ゆうまに川上りさが裸見たいなら見たいと告白しなさいで告白で美樹はづきも佐倉あいこも巴ももこも裸で洗脳溶けてSEXすることが示唆されて終わる。要は『おジャ魔女どれみ』シリーズも『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズも告白がないんだ?だから百合妄想でオタクが萌えるの?その百合空間作るのがソーシアだ!ソーシアって一人じゃないんだ分散してるから怖いんだネットワークみたいにな?だから独自で動けるの?こういう事考えてこそハードボイルドで世界情勢だよ?中二病でやると『革命機ヴァルヴレイヴ』の銅像だよ」

「アタシャ助監督よ!ここからが大変!アルタイルやセレジア・ユピティリアもメテオラ・エスターライヒも星河ひかゆもエリナ・トーカーもアリステリア・フェブラリィも煌樹まみかも築城院真鍳の名前考えないとね?それと服や特徴や性格も戦う相手に合わせて『Re:CREATORS』の人間関係把握して考えなきゃならないの?気長にやるわ?時間あるからね?」

「俺は監督だ!そこで戦いの終わる直前にファンスが大宮しんじに接触だ!ファンスはこの事態想定してデーター収集してただけ、与党のフィクサーや大物政治家巻き込んだ計画だが頓挫させ別のフィクサーや大物政治家擁立して裏から動かしやすくするだけ?フィクサーや大物政治家って所詮は公務員で国民の代表が政治家なだけなのに大物面だよ?実際の司法の動かしは最高裁判所のみで政治家は国民の声言うだけでしかないのに汚職だの誘致だの遊び放題やりたい放題のアイドル気分それをクビに出来るのが官僚で内閣総理大臣すら辞任できるのが官僚でアドルフ・ヒトラーも同じなの?ヒットラー・ユーゲントって私設軍隊でしかないから死ぬほど弱いし忠誠心の欠片もないの?それがヨーロッパ全土まきこんで戦争したら『革命機ヴァルヴレイヴ』の銅像になるしかないよね?ヒットラー・ユーゲント戦況ヤヴァくなると逃げるの?しかもユダヤ人殺してるし名目上ユダヤ人迫害だけど実際は児童買春目的でレーベンスボルンとアウシュヴィッツとセットになってる言ったら肉まんになるから裏切るけど肉まんなの?アドルフ・ヒトラーもいつ仲間や連合軍やソ連軍から肉まんされるかわからないからウンコちんちんで盛り上がろうぜ!の毎日でアドルフ・ヒトラーの悲惨以下の末路と悲惨以下の死は官僚から肉まん、それでファンスはフィクサーや大物政治家を消すの一人残らず死ぬの想定済みでね?これが『ゴールデンカムイ』の鶴見中尉だよ?」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!高寺のどかや大森よつはや大河内みすずや海野あきらや三ツ矢あかねや小津姉妹やレヴィ・ダブルハンドや高町ゆうしろうも鹿目なのはやフェイト・アルハザードやガルシア・フェルドとファビオラ・マリセーや美樹はづきも上條まさるや佐倉あいこと大村だいすけや巴ももこと陣内ゆうまやカインとネーナやアベルと大沢まどかやで川口よういちと伊丹せつなや大森太一と大森良子や海野剣と海野洋子や三ツ矢圭一と三ツ矢恵理子や大宮しんじも檜山しづくと檜山みどり檜山かおるは桂浜心や桂浜えりかや芝山とうじも狩野あいや狩野あいりや片桐かよや大泉いおやシャーロット・テートや大森けんたも霧島ひかりと霧島まりと霧島そらマリア・アーデやケイ・ショウやアルタイルやセレジア・ユピティリアもメテオラ・エスターライヒも星河ひかゆもエリナ・トーカーもアリステリア・フェブラリィも煌樹まみかも築城院真鍳もベイビーのぬいぐるみも売るのがグッズ・担当の本分なの?さっきからの会話の流れ聞いたろう?『おジャ魔女どれみ』シリーズは変身玩具で『デジモンアドベンチャー』『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』はデジモンアドベンチャーってゲーム売る媒体気が付かないのか?全部史上最低の作戦そのものだよ。ハナちゃん人形が売れたから『おジャ魔女どれみ』シリーズ無理やり存続だよ。『デジモンアドベンチャー tri.』第1章「再会」第2章「決意」第3章「告白」第4章「喪失」第5章「共生」第6章「ぼくらの未来」パップル出番だ」

「セカンドのパップルです。!このスタッフリスト見たらイッパツで史上最低の作戦よ」

第1章#01
#02
#03
#04再会柿原優子
広田光毅
鈴木貴昭
綾奈ゆにこ岩畑剛一
元永慶太郎江口大輔
松村樹里亜近藤優次、松本朋之
牧内ももこ、南伸一郎小丸敏之
高田晴仁
渡辺浩二2015年
10月23日
19:30
20:002015年
11月21日2015年
12月18日2020年
2月4日2016年
7月31日
日曜[23]
21:20-23:00アニマックス第2章#05
#06
#07
#08決意沖田宮奈
岩畑剛一
元永慶太郎松村樹里亜
元永慶太郎牧内ももこ、兵渡勝
栗井重紀、興村忠美
小野晃、山内玲奈
近藤優次、松本朋之渡辺浩二2016年
2月11日
19:00
19:402016年
3月12日[1]2016年
9月24日2016年
4月2日2017年
2月5日
日曜
01:40-03:20第3章#09
#10
#11
#12
#13告白柿原優子
広田光毅
鈴木貴昭松村樹里亜
武市直子
きみやしげる
川久保圭史
佐久間貴史磯野智、原田峰文
近藤優次、松本朋之
兵渡勝、興村忠美
小川麻衣、澤田謙治
小野晃、牧内ももこ
高崎美里2016年
8月19日
18:00
20:502016年
9月24日2016年
11月2日2017年
2月5日
日曜
03:20-05:15第4章#14
#15
#16
#17喪失柿原優子
綾奈ゆにこ
中西やすひろ岩畑剛一
沖田宮奈
松村樹里亜
元永慶太郎松村樹里亜
武市直子
きみやしげる
元永慶太郎上原史也、原田峰文
近藤優次、松本朋之
沢田犬二、小川麻衣
牧内ももこ、高崎美里
竹内アキラ2017年
2月3日
19:00
21:202017年
2月25日2017年
4月4日2017年
8月27日
日曜
21:25-23:00第5章#18
#19
#20
#21共生広田光毅岩畑剛一
沖田宮奈
松村樹里亜
武市直子
元永慶太郎武市直子
松村樹里亜
佐々木真哉
山口頼房
元永慶太郎磯野智、近藤優次
松本朋之、鳥山冬美
松下清志、原田峰文
関崎高明、小澤円
高崎美里、小川麻衣
千光士海登2017年
9月1日
19:00
21:202017年
9月30日2017年
11月2日2018年
5月3日
木曜
18:50-20:30第6章#22
#23
#24
#25
#26ぼくらの未来柿原優子岩端剛一
沖田宮奈
武市直子
元永慶太郎武市直子
松村樹里亜
佐々木真哉
五月女有作
元永慶太郎佐々木政勝、関崎高明
滝川和男、中村真悟
陸田聡志、吉田和香子
櫻井拓郎、柳瀬譲二
石塚みゆき、大塚八愛
小川麻衣、小澤円
千光士海登、山本浩憲
徳田夢之介

「セカンドのパップルです。東映アニメーションって少数精鋭主義なんです。だからプリキュアシリーズのローテーションが組みやすいんです。もうこれどうローテーションどう組めばいいのよ?あたしも関弘美の緊急株主総会の関弘美の解雇及び負債全額負担に立ち会えます?」

「ライン・プロデューサーのダイカンだ!スーパーバイザーとして、このシリーズの初代プロデューサーである東映アニメーション所属の関弘美が参加するってスーパーバイザーって監督者や管理者[1]のこと。役職・肩書として使われるだぞ?ライン・プロデューサーとしてはまた現場に土下座だ!関弘美はこの頃からお邪魔だったとはな、これも報告だし関弘美の緊急株主総会の関弘美の解雇及び負債全額負担に立ち会のもライン・プロデューサーだ!」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?この言葉が重く感じるくらい煙草が不味いよ?例えトレジャラー・ブラックでもな?現場ありがたいよ?こうして解雇及び負債全額負担の責任問える材料探してくれるからね?しかもゲームではなく劇場版商法だよ?劇場版商法って劇場で円盤売るから興行成績関係ないんだ?東映アニメーションって玩具売るのが主体なの?だからグッズ・担当いるの?ゲーム売らなきゃスポンサー納得しないの?円盤売れてもマイナスなだけだ、そうだよ?最終的にはゲーム売ってぬいぐるみとかの小道具売って儲けさせるのがグッズ・担当の仕事だ?だからプロダクションに直接金が入るし製作委員会方式ではなくプロダクション商品として扱えるからプロダクションの権利の利益はあくまでもグッズのみなの?だから何処のアニメ会社もぬいぐるみ作るの?安価で売れやすく利益率があり定着しやすく子供から大人特にカップル商品はお宝なの?カップルがデートでこの世で一番買いやすいのがぬいぐるみで大切にするしまた買うしもう円環構造だよ?キャラクターのカップル商品のグッズでぬいぐるみはね。それで脱税するんだアニメ会社ね?ufotableはわかりやすいグッズ商品の脱税だ!儲けデカいから経理と会計に調整してもらうのに儲け欲しいから脱税するバカ会社がufotableだよ?だからグッズ・担当は儲けは飛びつくが同時に経理と会計に動いてもらうのもグッズ・担当だよ」

「俺は監督だ!スタジオジブリ大成功した理由分かっただろう?宮崎駿のキャラクター魅力ないよ?一切ね?キャラクターも宮沢賢治の童謡や絵本の完全パクリでもグッズ化してグッズバカ売れしたからジブリパーク作れるくらい予算あるの?全部グッズ・担当の功績で宮崎駿何もしてない癖に説教で鈴木敏夫は無能以下のバカ以下プロデューサーなのに大物プロデューサー?その程度だよ?宮崎駿も鈴木敏夫も史上最悪のヒモ以下だよ?グッズ・担当に言わせたらね?目立たないけど現実こうなの」

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~」

貴族を彷彿させる緑色のロングコートに紫色の服を着用し、頭部にはネジが施された黒色のシルクハットをかぶり、首元にはスカーフを身に付け、茶色のショートブーツを履いているグッズ担当がトレジャラー・ブラックに火をつける

「グッズ・担当のドクター・トラウムだよ~?描写細かいだろう?描写細かくするのがグッズなの?しかも吸ってる煙草はトレジャラー・ブラックだ!マジで煙草が美味い!宮崎駿も鈴木敏夫も洋ナシと言えるのがグッズ・担当だよ?『風立ちぬ』勝手に作りやがって『崖の上のポニョ』はもう絵すら描けないか?売れるジブリ商品出せ?鈴木敏夫?プロデュース出来ない?洋ナシ?宮崎吾郎さあ?仕切ってるぞ?ジブリパーク?お前ら仕切れないのか?アニメーターだろう?プロデューサーだろう?建築は絵のデッサンの基本だぞ?ジブリパークは地方自治体と協力要請やったのか?プロデューサーだろう?プロモーションかけるのがプロデューサーだろう!宮崎駿?鈴木敏夫?スタジオジブリ内に幼稚園あるらしいな?叱られて来い?幼稚園児に?ついでにスタジオジブリの後継者は宮崎吾郎以外ないだろう?自分たちばっかりやりたい企画やって職人仕事一切やってないぞ?宮崎吾郎やったぞ?なんだかんだでな?宮崎吾郎にアカデミー賞取らせるカンヌ国際映画祭パルムドールもだ?可能なのは広告担当 で宮崎駿と鈴木敏夫は『ファントム・オブ・パラダイス』だ?音楽担当に聞け?『君たちはどう生きるのか』?白紙状態に決まってるだろう?スタッフも挨拶して帰ったからな?スポンサーも承知の了見だ?グッズ・担当って世界の巨匠こうして葬るの」

「俺は監督だ!これは現実だ!マトリックスではない真実だ!宮崎駿と鈴木敏夫は史上最悪のヒモ以下として合法的に社会から抹殺できるのが映像業界の恐ろしさだ!これもマトリックスの真理だ!真実か嘘か見極めたければ調べればいいだけだ。俺は何も言わんただ現実に幼稚園にも入れないバカが宮崎駿と鈴木敏夫ってだけだ?昔ながらアニメファンさあ?岡田麿里どう思う?」

「昔ながらアニメファンですが脚本家の事は知りませんが売れっ子みたいだったですね?『花咲くいろは』に『あの日見た花の名前を僕たちは知らない。』に『心が叫びたがってるんだ。』監督デビュー作の『さよならの朝に約束の花をかざろう』に『空の青さを知る人よ』くらいしか知りません。所詮は昔ながらアニメファンです。脚本家はわかりません。言えるのはまあ児童買春です。それしか残らないと言うかこれが文芸ですが?文芸部さん」

「文芸部です。文芸はネタがないからパクって別のものにするだけです。ネタがないんです。基本文芸はオリジナリティー書かれたら困るんです。著作権侵害で訴えられますし宗教団体や政治団体や多様性や世界情勢を視野に入れた脚本でないと殺されるだけです。だから文芸はパクって別物にするだけです。それがストーリーなだけです。だから文芸は被ったら敗北事項決定です。訴えられたり殺されるのは嫌です」

「昔ながらアニメファンですが『花咲くいろは』に『あの日見た花の名前を僕たちは知らない。』に『心が叫びたがってるんだ。』監督デビュー作の『さよならの朝に約束の花をかざろう』に『空の青さを知る人よ』これ全部詩の語感のみですね。ポエムがタイトルで話も子供番組で青春群像か?そんな話で深夜アニメで感動ですよ?深夜アニメってエロが基本ですよ。田中将賀さん『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』もキャラクターデザインやってましたから田中将賀さんエロも上手いんです。それでポエムがタイトルで話も子供番組で青春群像か?プリキュアで女の子が脱いで青春群像か?普通素人の昔ながらアニメファンですが文芸部さんが言うように脚本ってネタがないからパクって別物にするのが普通です。でも逆なんです。どういう話なのかわかんないです。それで意識して岡田麿里の脚本作考えたらパクってないんです。いつも似たような題材で似た家庭環境で似た恋愛関係で最後も同じにしか見えない?何ですか?昔ながらアニメファンですが被ってますよ?岡田麿里って毎回?言いたくないですが素人でもわかりましたが使いまわしです。脚本作を毎回繰り返してるから最近名前見かけないのか」

「アタシャ助監督よ!岡田麿里って脚本家活動してるの?Netflixアニメ『ONI:神々山のオナリ』って無残以下よ?表示して会社データー」

マーザ・アニメーションプラネット

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

セガサミーホールディングス > セガ > トムス・エンタテインメント > マーザ・アニメーションプラネット

マーザ・アニメーションプラネット株式会社
MARZA ANIMATION PLANET INC.

本社が入居する天王洲オーシャンスクエア

種類株式会社本社所在地

日本
140-0002
東京都品川区東品川2丁目2番20号
天王洲オーシャンスクエア18階設立2005年1月21日業種情報・通信業法人番号2010701024947

事業内容CGアニメーション映像制作事業
世界に向けたフルCG長編アニメーションの企画、製作、販売
著作権事業、原作権および商品化権の販売、許諾等代表者代表取締役社長 菅野暁資本金1億円純利益2億5262万4000円
(2022年03月31日時点)[1]総資産13億7506万4000円
(2022年03月31日時点)[1]従業員数150名主要株主株式会社トムス・エンタテインメント 100%関係する人物岡村秀樹(取締役会長)
内田治宏(取締役)
立川真由美(取締役)
竹崎忠(取締役)
白井貴(取締役)
中山健(監査役)
伊藤晃(執行役員)外部リンクwww.marza.com

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マーザ・アニメーションプラネット株式会社: MARZA ANIMATION PLANET INC.)は、日本のCGアニメ制作会社。株式会社トムス・エンタテインメントの完全子会社。

沿革[編集]

セガ・VE研究開発部を前身として、2009年6月にセガサミーグループのCGアニメーションスタジオである「株式会社セガサミービジュアルエンタテインメント」として設立。

「最高の物語を、世界中のこどもたちへ」 という経営ビジョンへの思いと、世界へ飛び出そうという強い意志を込めて、2010年7月に「マーザ・アニメーションプラネット株式会社」へと社名変更した[2]。2011年3月にセガサミーインベストメント・アンド・パートナーズを吸収合併。

2015年4月1日付で、セガサミーグループ再編に伴い、セガサミーホールディングスの完全子会社からセガホールディングス(後のセガグループ)の完全子会社となった[3][4]。一方で、2016年3月期から2期連続でセガホールディングスから計18億4600万円の債務免除を受けている[5][6]

2017年4月1日付でセガホールディングスの完全子会社からトムス・エンタテインメントの完全子会社となる。

2019年4月1日付でトムス・エンタテインメントの子会社であったトクシスからデジタルコンテンツの企画・開発・プロデュース事業の全事業を譲受した[7]

作品[編集]

テレビアニメ[編集]

開始年放送期間タイトル2016年10月 - 2017年9月こねこのチー ポンポンらー大冒険2018年4月 - 9月こねこのチー ポンポンらー大旅行

映画[編集]

公開年公開日タイトル2013年9月7日キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-[8]開発中止Robodog[9]2017年5月27日バイオハザード: ヴェンデッタ[10]7月9日KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV2019年12月6日ルパン三世 THE FIRST[11]2020年6月26日ソニック・ザ・ムービー

ゲーム[編集]

その他[編集]

「アタシャ助監督よ!こうなったら死んだほうがマシね?岡田麿里ってNetflixアニメ『ONI:神々山のオナリ』って堤大介の監督逆探知ホイホイシリーズですらない名刺以下よ?マーザ・アニメーションプラネットの名刺以下が岡田麿里よ?HPや会社概要見たら堤大介がマーザ・アニメーションプラネットのコネ作るための企画が『ONI:神々山のオナリ』の企画よ?要は助監督として言う『魔法少女まどか☆マギカ』で存続できるのは昆虫の理屈なの!プロデューサーの言うように餌がないと一秒以下で滅ぶの百合魔法少女はこれよ!だから岡田麿里なの!脚本家の真似して逃げたのよ!『花咲くいろは』に『あの日見た花の名前を僕たちは知らない。』に『心が叫びたがってるんだ。』監督デビュー作の『さよならの朝に約束の花をかざろう』に『空の青さを知る人よ』もよ!『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』もキャラクターデザインの田中将賀はベストセレクトよ!エロキャラクターデザインよ!エロしかないわよ!『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』はエロしかないわよ!田中将賀の他作品は敢えて有名よ!みうらじゅんのギラーミンのその場の限りの女優よ!もうデリヘル嬢以下よ!それしかないわよ!「マイ・ウェイ」いい曲だよ!フランク・シナトラが歌うと心にしみる!だから岡田麿里は「マイ・ウェイ」よ!もはや発祥はない歌があるだけよ!「マイ・ウェイ」!わが道!その究極の歌手はフランク・シナトラよ!」

「文芸部です。だからパクらない事にはオリジナリティー生まれないからパクって別物にするからパクるんです。珈琲が美味しい」

なんでSFって衰退したんですか?『ブレードランナー』の頃から?

「昔ながらアニメファンですがなんでSFって衰退したんですか?『ブレードランナー』の頃から?文芸部さん?」

「文芸部です。簡単です。その頃からディティールのみにこだわった作品ばかりです。そりゃ飽きますよ?子供や普通の観客はです。文芸部は人生書くのみです。商売は管轄外です。所詮は神話やおとぎ話や伝承の科学定義がSFなだけです。難しくないです。だからディティールにこだわる必要があります。所詮は神話やおとぎ話や伝承です。『ブレードランナー』は『フランケンシュタイン』なだけです。超ロリコンエロの必然性があります。監督」

「俺は監督だ!『ブレードランナー』ってディティールにこだわりすぎたの?だからコケたの?でも普遍性あるテーマだからね?命ってハリソン・フォードは下手じゃないよ?脚本意図理解して演じてるのいつも?だからルトガ・ハウアーのキャラが立つ要に演じただけそれだけ?でもディティールにこだわったのがコケた理由で今も昔も変わらないけどオタクって理屈っぽいしいディティールにこだわるから『2001年宇宙の旅』同様のカルトになったの?さっきも言ったがオタクって理屈っぽいしいディティールにこだわるから毎回荒れるの?『2001年宇宙の旅』もそう?それがSF衰退の最大の理由でオタクは今も昔も気持ち悪いだけで更には『マトリックス』でネットだ!ネオと勘違いして青いカプセル偽りの現実に気が付かないままコンピューターの養分にされた。これが『マトリックス』なの?ロジャー・イーバートは「バカが勘違いして警官殺すだけ」と酷評したが正しいよ。ロジャー・イーバートは『マトリックス』の本質掴んで酷評したのだってインテリとボンクラのウォシャウスキー姉妹の映画だよ?バカ丸出しだったな?そうネットの発達でSFオタクの荒らしが加速でオタクだ!自分の知識のみが正しいと思うんだ!ネオ同様にな?実際はサイファーでしかないのにな」

「ペイン役だ!言いたかねえよ?監督でSFマニアって奴は演技指導できないんだ?いつもな?樋口真嗣がそうだよ?特技監督出身だから描写にこだわって役者の演技指導できないんだ?いつも?役者仲間の大部屋で樋口真嗣の愚痴聞くよ?ガイナックスに関わってたからSFマニアで怪獣オタクでアニメに参加経験は実写よりも多いから描写の絵コンテのみで指示するんだ?役者は絵コンテじゃないんだ?しかもアニヲタだからアニメキャラクターのような芝居させようとする?俺は役者で演技指導の指示は助監督がするからそれで動くの?困惑するよ?それだと違和感バリバリで劇場で見たらコスプレお遊戯ばっかが樋口真嗣でもう言いたくないよ?『シン・ゴジラ』もそうだし『シン・ウルトラマン』もそう?『シン・ウルトラマン』は風俗だったな?アニメ・特撮専門風俗店それが毎回だ?樋口真嗣も庵野秀明もね?それを日本国民が喜ぶんだ?アニメ・特撮風俗店をさあ?俺でなくても世間騙すの軽いと思うよ」

「俺は監督だ!だからSFって廃れたのそりゃそうだよな?アニメ・特撮風俗店で喜ぶバカ以下がSFマニアでマウンティング大好きで差別も大好きそれでナルシストだ!そんなのSFに夢あるわけないよ?ましてや子供も見やしないのがSFでもう正直プリキュアをSFにしたらいいだろう?どうせ神話だしおとぎ話だし伝承の科学的定義がSFなだけだ」

「アタシャ助監督よ!そう神話やおとぎ話や伝承の科学的定義なだけよ?それでよく誤解されがちだけどジョセフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』ったるじゃない?あれ神話学よ?神話って円環構造の物語よ?だから超ロリコンエロあるの当たり前じゃない?神話学って神々の世界だからエロ主体なのよ?それで受け継がれてくから神話なの?円環構造なの?それよ?でも現実には無理だからアニメーションなの?だから『スターウォーズ』シリーズや『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪』必ず失敗するの『スターウォーズ』は元は神話でしょう?でも家族のゴタゴタも神話なの?笑えるのも神話でそれ真面目にやったら暗いだけよ?『ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪』黒人出す必然性出さないと神話じゃないのローマ神話なら黒人出てもいいわ?ローマ帝国ってアフリカまで領土広げたから中つ国に何故黒人いるの?皆白人ばかりなのに?アジア人は?インディアンは?エキスモーは?もう止まらないわよ?神話って国なの?そもそも『指輪物語』はおとぎ話やケルト神話やベーオウルフや北欧神話がベースでJ・R・R・トールキン自体文献学者よ。神話体系でイギリスって土地柄上神話がないのが特徴だから『指輪物語』作ったの?だからファンタジーの究極体系といわれるの?だから白人しか出てこないのは当然なの?だから今どきのシネフィルって大嫌いなの?勉強しないから」

シガレットケースは特注のDunhill シガーケースに入ってたキューバ産葉巻のコイーバ コロナ エスペシャルを取り出しHERMES リップスティック型ライター 1940年代製で火をつける

「ガーディアン~♪正義の印~♪裏切り者に手こずる~♪スタン様~♪どいつもこいつもぶっ殺す~♪」

『仮面ノリダー』の替え歌歌った後スタンの瞬間圧倒的殺気がヘインのどかネーナベイビーに襲い掛かる

「銃(ガン)!」

銀色のリボルバーの44口径状マグナム風の銃が出てくる

「これが宿主100%のクリチャーのみが持つことが許される最強の証明銃(ガン)だ!」

「俺は監督だ!これが小説なだけだよ?死ぬ程簡単司馬遼太郎いただろう?元祖なろう系作家でミリヲタのオタクなだけだよ?経歴でイッパツだよ?そうイッパツ屋で一発屋ですらないの?『梟の城』で直木賞取っただけで歴史ものなら得意のミリヲタ知識で騙せると踏んだだけ?表示してくれ?どれだけ能無し以下か」

1971年(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院恩賜賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。

李登輝と対談する司馬

1981年(昭和56年)に日本芸術院会員1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」[注釈 6]を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった

ノモンハン事件

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ノモンハン事件


擱座した赤軍BA-10装甲車の横で九二式重機関銃を伏射する日本兵戦争日ソ国境紛争年月日:1939年5月11日 - 9月16日場所:満蒙国境、ハルハ川付近結果:ソ連・モンゴルの勝利[1][2]。交戦勢力枢軸国

連合国

指導者・指揮官

植田謙吉

荻洲立兵

小松原道太郎

ゲオルギー・ジューコフ

グリゴリー・シュテルン

ホルローギーン・チョイバルサン

ジャミヤンギーン・ルハグヴァスレン戦力総兵力[3]
58,000名-76,000名
(うち戦闘参加二万数千名)[3]
戦車92輌[4]
8月20日時点
歩兵8,000名[5]
で総人員は2万数千名)[3]
戦車なし[5]
火砲70門[5]総兵力[6]
ソ連軍69,101名
モンゴル軍8,575名
8月20日時点
総兵力51,950名[7]
火砲542門
戦車438輌
装甲車385輌
兵力比で日本軍の4倍[8]損害日本軍
戦死 7,696[9]-8,109[10]
戦傷 8,647[9]-8,664[11]
生死不明1,021[9][11](うち捕虜566[12]-567[13]戦後に捕虜交換で生還したもの160[14]
戦車 29輌[15]
航空機 約176機赤軍
戦死 9,703[16]
戦傷 15,952[16]
戦車・装甲車 397輌[16]
航空機 207機-360機[17]

モンゴル軍
戦死 280[18]
戦傷 710[18]
装甲車数十輌

日ソ国境紛争

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ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。1930年代に、満州国、後に日本大日本帝国)と、満州国と国境を接するモンゴルを衛星国にしていたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。第一次(1939年5月 - 6月)と第二次(同年7月 - 9月)の二期に分かれる。満州国軍モンゴル人民軍英語版)の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト赤軍戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。

概要[編集]

清朝が1734年(雍正12年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とフルンボイル平原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年に成立した満洲国とそれを実質的に支配する日本は、フルンボイルの南方境界について従来の境界から10 - 20 kmほど南方に位置するハルハ川を境界と新たに主張し、以後この地を国境係争地とした。

1939年5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、両国と防衛協定を結んでいるソ連軍と日本軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であった[19]が、地上戦は戦車火砲の力の差が甚だしく、敗退に終わり[20]、ソ連とモンゴル共和国の主張する国境線はほぼ維持された。ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」との事件の停戦の合意が、9月15日深夜に成立した[21]

呼称[編集]

事件の呼称[編集]

日本とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国は、人民共和国時代からこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の戦闘(ロシア語: Бои на Халхин-Голе)」と呼び、モンゴル人民共和国は「ハルハ河戦争(戦役)」と称している(ソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河中国語: 哈拉哈河)」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である(ハルヒン・ゴル[注釈 1])。中華人民共和国は、現在では「ノモンハン戦役(中国語: 诺门罕战役)」と称することが多く、「ハルハ河戦役(中国語: 哈拉哈河战役)」または「ハルヒン・ゴル戦役(中国語: 哈勒欣河战役)」とも呼ばれている[22]

ノモンハンという地名[編集]

この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンは、モンゴル語では「ノムンハン」といい、「法の王」を意味する。より詳細には、ノモンハン・ブルド・オボーで、チベット仏教の聖者ののことである[23]

この名称は、清朝が1734年(雍正12年)に外蒙古イルデン・ジャサク旗エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古新バルガ旗)との境界上に位置していたオボー(祭礼場)の一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来し、厳密には地名ではない。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマク中国内モンゴル自治区北部のフルンボイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンボイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。

また、この土地を牧場としたハルハ系集団のうちダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部中国語版)の左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教僧侶としての位階の呼称にも由来する。チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーの一つなどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。

背景[編集]

北東アジアの国際情勢[編集]

1917年のロシア革命共産主義の波及を恐れた日本はイギリスフランスイタリアと共にロシア内戦への干渉を決定。1918年にチェコ軍団救出を名目にシベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本とソ連は大陸方面では直接に勢力圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和国を勢力圏に置いた。

両国の勢力圏の中間にある満州地域は、中華民国軍閥時代である1920年代後半には奉天派が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党北伐に降伏(易幟)した奉天派の張学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争(中東路事件)で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。

満州国建国[編集]

日本の関東軍は1931年に満州事変を起こし、翌年建国された満州国を勢力下に置いた。同1932年の日満議定書で、満州国防衛のため関東軍は満州全土に駐留するようになった。満州国軍は1935年時点で歩兵旅団26個と騎兵旅団7個の計7万人と称したが、練度や装備は良好ではなかった。ソ連は満州国を承認しなかったが、満州国内の権益を整理して撤退する方針を採った。北清鉄路南満州鉄道への売却交渉が始まったが難航した。

ソ連・モンゴル軍事同盟[編集]

ソ連はモンゴルと1934年11月に紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ蒙相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍がソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団9個と装甲車旅団1個を有していた[24]

こうして満州事変以後、日ソ両国の勢力圏が大陸で直接に接することになり、日本とソ連は満州で対峙するようになった。初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、張鼓峰事件を経てノモンハン事件で頂点に達した[注釈 2]

係争地と国境画定問題[編集]

モンゴル側は1734年以来外蒙古内蒙古の境界をなしてきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張。満洲国はハルハ河を境界線として主張した。

満洲国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。係争地となった領域は、従来、ダヤン・ハーンの第七子ゲレセンジェの系統を引くチェチェン・ハーン部左翼前旗中右翼旗などハルハ系集団の牧地であった。この地が行政区画されたのは1730年代で、清朝はモンゴル系、ツングース系集団を旧バルガ新バルガの二つのホショー(旗)に組織し、隣接するフルンボイル草原中国語版)に配置し、1734年(雍正12年)、理藩院尚書中国語版ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものであった。

満ソ国境[編集]

満州国図。東部・北部でソ連と、西部でモンゴルと、南西部では中国と隣接している。

北東アジアの満州地域の対ソ国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。ロシア帝国の間のアイグン条約北京条約などで国境は画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)は水路協定も1923年に中ソ間で締結されたが、これも中国に不利な内容であったため問題となっていた[26]

1933年1月、日本はソ連に対し国境紛争処理に関する委員会設置を提案[27]。しかし、ソ連はアイグン条約などで国境は確定済みとの立場であった。また、日本が不可侵条約提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。

満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きており、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を展開した。

満蒙国境[編集]

モンゴルは、1911年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部およびダリガンガドルベト即ち外蒙古)を確保するに留まり、モンゴル南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権、1924年の人民共和国への政体変更があった。これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中に治めた中華民国歴代政権との間では、ハルハ東端と新バルガの境界に問題が生ずることはなかった。

東三省東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張し、本事件の戦場域は、国境紛争の係争地となった。これは、日本陸軍(特に関東軍)が、シベリア出兵の戦利品であるロシア製1/84,000地図に基づいて、ハルハ河が境界と認識していたことによる[28]

しかし、1934年に満州国外交部が委託した日本人東洋史学者矢野仁一和田清稲葉岩吉が収集した古文書や、1937年の6月から10月にかけて満州国外交部、治安部、興安北省の3機関が現地に入って、参謀本部が作成した1/100,000の地図を測図し直して、地元の古老などから証言をとりながら、収集した文献資料にある境界オボー跡の発見と、それを結び国境線を確認するといった現地調査を行い[29]、モンゴルが主張する国境線は「歴史的証拠」に基づいているということが確認できたが、関東軍はその調査結果を一顧だにすることなく、ひたすらに自分らが主張する国境線の実効支配を目指していた[28]

モンゴルと満洲国の国境画定交渉は1935年から断続的に行われたが(満州里会議)、1937年9月以降途絶した。

満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期、それぞれ極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの停戦交渉担当者たち(→満州里会議)をそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清した[注釈 3]のち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。

軍事情勢[編集]

満州方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。1934年6月の時点で日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて5個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は11個歩兵師団を配備(日本側の推定)、1936年末までには16個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍以上の軍事力を有していた。日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備を委ねていた。

日ソ国境紛争[編集]

詳細は「日ソ国境紛争」を参照

満州事変以後、1934年頃までは紛争といっても、偵察員の潜入や住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯程度の小規模なものだった[注釈 2]。1935年に入ると国境紛争の規模が大型化したが、これはソ連側の外交姿勢の高圧化によるとされる[30]ソ蒙相互援助議定書の締結もこの時期であり、ソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍参謀本部と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団高級参謀片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに寄与していた[31]

1935年1月、満州西部フルンボイル平原の満蒙国境地帯で哈爾哈(ハルハ)廟事件が発生。哈爾哈廟周辺を占領したモンゴル軍に対して満州軍が攻撃をかけ、月末には日本の関東軍所属の騎兵集団も出動したが、モンゴル軍は退却した。以降、満州軍はフルンボイル平原に監視部隊を常駐させ、軍事衝突が増えた。6月にはソ連と接した満州東部国境でも、日本の巡回部隊10名とソ連国境警備兵6名が銃撃戦となり、ソ連兵1名が死亡する楊木林子事件が発生した。

10月、モンゴルのペルジディーン・ゲンデン首相が「ソ連は唯一の友好国」であるとして、ソ連への軍事援助を求めた[32]

12月のオラホドガ事件では、航空部隊まで投入したモンゴル側に対して、翌年2月に日本軍も騎兵1個中隊や九二式重装甲車小隊から成る杉本支隊(長:杉本泰雄大尉)を出動させた。杉本支隊は装甲車を含むモンゴル軍と遭遇戦となり、戦死8名と負傷4名の損害を受け、モンゴル軍は退去した。関東軍は不拡大方針を強調する一方、戦術上の必要があれば止むを得ず越境することも許すとした方針を決め、独立混成第1旅団の一部などをハイラルへ派遣して防衛体制を強化した[33]

1936年1月には金廠溝駐屯の満州国軍で集団脱走事件が発生し、匪賊化した脱走兵と、討伐に出動した日本軍・満州国軍の合同部隊の間で戦闘が発生。その際に脱走兵はソ連領内に逃げ込み、加えてソ連兵の死体やソ連製兵器が回収されたことから、日本側ではソ連の扇動工作があったと非難した(金廠溝事件[34]

ソ蒙相互援助議定書[編集]

1936年2月14日、ソ連のストモニャコフ外務人民委員代理は太田為吉駐ソ大使に対して、モンゴル人民共和国に脅威が発生する場合、ソ連は必要な援助を行うと述べた[35]。3月12日、ソ蒙相互援助議定書が締結。これを機に、日ソ国境紛争が次第に大規模化していった[36]

タウラン事件[編集]

3月29日、タウラン事件が発生。オラホドガ偵察任務の渋谷支隊(歩兵・機関銃戦車各1個中隊基幹)がフルンボイル国境地帯に向かったところ、モンゴル軍機の空襲を受けて指揮下の満州軍トラックが破壊された。モンゴル軍は騎兵300騎と歩兵・砲兵各1個中隊のほか、装甲車十数輌の地上部隊を付近に展開させていた。渋谷支隊はタウラン付近で再び激しい空襲を受け、偵察に前進した軽装甲車2輌がモンゴル軍装甲車と交戦して撃破された。モンゴル軍地上部隊は撤退したが、日本軍航空機の攻撃で損害を受けた。この事件で日本軍は戦死13名、捕虜1名、トラックの大半が損傷、モンゴル軍も装甲車を鹵獲された。本格的機甲戦や空中戦はなかったが、装甲車輌や航空機を投入した近代戦となった[37]。同月、長嶺子付近でも日ソ両軍が交戦し、双方に死傷者が出た(長嶺子事件)。

1936年にはへレムテ事件、アダクドラン事件、ボイル湖事件、ボルンデルス事件など衝突が激化、その結果。ソ連はモンゴルでの軍事力増強に取り組むようになった[32]

帝国国防方針から日独防共協定へ[編集]

日本はソ連モンゴルの共同防衛体制が確立したことを警戒し、8月7日の四相会議で決定した帝国国防方針で、ソ連は「赤化進出を企図し、益々帝国をして不利の地位に至らしめつつあり」と書かれた[38]。さらに日本は、ソ連の極東攻勢の強化を受けて、11月25日にナチス・ドイツ日独防共協定を締結した[38]

カンチャーズ島事件[編集]

日中戦争が勃発した1937年以降、紛争件数は年間100件を超えた。ソ連は大規模なソ連軍をモンゴルに進駐させた[39]。1937年6月から7月に、ソ満国境のアムール川に浮かぶ乾岔子(カンチャーズ)島周辺で、日ソ両軍の紛争である乾岔子島事件が起きた。アムール川の国境はアイグン条約によって全ての島がロシア帝国領と定められていたが、水路協定では航路が乾岔子島よりソ連領側に設定され、国際法の原則や居住実態からも日満側は同島を満州国領とみなしていた[40]。ソ満間の水路協定の改定交渉は前年に決裂、ソ連は5月に水路協定の破棄を通告した。6月19日、ソ連兵60名が乾岔子島などに上陸し、居住していた満州国人を退去させた。日本陸軍参謀本部は関東軍に出動を命じたが、石原莞爾少将の進言により、6月29日に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された[41]。ところが、6月30日にソ連軍砲艇3隻が乾岔子島の満州側に進出したため、日本の第1師団が攻撃を開始し、1隻を撃沈したが、それ以上の戦闘とはならず、7月2日にソ連軍は撤収した。

モンゴルにおける大粛清[編集]

詳細は「大粛清」を参照

ソ連は強大な在蒙ソ連軍を背景にモンゴルへの内政干渉を大々的に開始。1937年から1939年にかけて「反革命的日本のスパイ」として国防相ゲレグドルジーン・デミド英語版)元帥はじめモンゴル政府指導者やモンゴル軍人に対して大粛清が実施された[39]。ソ連によるモンゴル大粛清以降、親ソ派のホルローギーン・チョイバルサン元帥が政府権力を掌握し、対日満政策を硬化させていった[39]

張鼓峰事件[編集]

詳細は「張鼓峰事件」を参照

1938年7月、満州国東部、豆満江近くの張鼓峰で、日ソ両軍の大規模な衝突が発生した(張鼓峰事件)。7月中旬にソ連軍が張鼓峰に進軍、日本の朝鮮軍隷下第19師団も警備を強化した。日本の国境守備隊監視兵が射殺されたのをきっかけに7月29日から戦闘が始まった(張鼓峰事件は満ソ国境で起こったが、関東軍満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った)。しかし、日本は不拡大方針で第19師団の一部のみで対処した。これに対してソ連軍は戦車や航空機多数を出撃させた。8月に入って日本軍も増援の砲兵部隊を出動させたが、モスクワでの日ソ交渉により8月11日に停戦。日ソ双方が停戦時点で張鼓峰を占領していたと主張している。動員兵力はソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1,500名、ソ連軍3,500名であった。

満ソ国境紛争処理要綱[編集]

張鼓峰事件陸軍省軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し関東軍は不信を抱き、断固とした対応を強調した『満ソ国境紛争処理要綱』を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱では「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された[42]。この処理方針に基づいた関東軍の独走、強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる[43]。この要綱を東京の大本営は「正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかった[44]」また、関東軍司令部ではハルハ河がソ連との確定された国境線とみなされるに至った[45]

1939年には紛争件数は約200件に達した。

外交交渉[編集]

一連の紛争のうち、外交的に解決されたものは少数であった。例えば1936年に起きた152件の紛争に関して、日本側からは122件の抗議が行われたが、ソ連側から回答があったのは59件にとどまり、遺体返還などの何らかの解決に達したものは36件だった[46]

哈爾哈廟事件をきっかけに、満州国とモンゴルは独自の外交交渉を開始していた(実質的には日ソ交渉[46])。1935年2月に満州国軍の興安北警備軍司令官ウルジン・ガルマーエフ(烏爾金)将軍がモンゴル側に会合を提案、1935年6月3日から1937年9月9日まで満州里で5回の満州里会議が開かれた[47]。満州は全権代表の首都常駐相互受け入れ・タムスク[注釈 4]以東からの撤兵を要求したが、モンゴル側は難色を示し、タウラン事件後に起きた凌陞の内通容疑での処刑などで難航した。紛争処理委員の現地相互駐在は妥結しかけたものの、ソ連の指示により1937年8月末から始まった粛清でモンゴル側関係者の大半が内通容疑で処刑され、打ち切りとなった[48]

ソ連側には単純な国境紛争で無い政略的意図があったとも言われる。張鼓峰事件では、直前のゲンリフ・リュシコフ亡命事件があったため、ソ連側としては威信を示す必要があった。ノモンハン事件に関しては、日本に局地戦で一撃を加えて対ソ連積極策を抑える狙いを有していたとの見方がある[49]。ソ連のスパイリヒャルト・ゾルゲは、日本陸軍の板垣征四郎陸軍大臣ら急進派が、中国の戦線を縮小して対ソ戦の基地を確保するため、中国東部とモンゴルを保持することを望んでいるなどの日本側の対ソ連の方針に関する情報をモスクワに送っており、ゾルゲの報告などの情報を検討したソ連首脳部は、モンゴル東部国境での日本軍との軍事衝突は不可避であるという結論に達し、1939年3月にはヨシフ・スターリンが党大会で「我々はソ連と国境を接するすべての隣国と平和的かつ親密の友好関係を維持することを支持する。」「我々は、侵略行為の犠牲となって自国の独立擁護のために戦っている諸国を支持することを約する。我々は侵略者の脅威を恐れず、かつ、ソビエト国境の不可侵性を穀指しようと試みる戦争煽動者の攻撃に対して二倍の打撃をもって、これにむくいる用意がある」という日本を強く牽制する演説を行い、断固とした対応をすることを示唆したが、日本はこのソ連の強硬な姿勢を正確に認識することはなかった[50]

第23師団の紛争地進出[編集]

日本陸軍第23師団小松原道太郎師団長

激増する国境紛争に対応するため関東軍は戦力を増強することとし、関東軍への派遣が決定された1938年に新設されたばかりの第23師団を紛争地の防衛にあたらせることした[51]。第23師団は日中戦争の拡大で師団増設の必要に迫られた日本軍が、通常編成である歩兵4個連隊(定数29,400人)から歩兵3個連隊(定数24,600人)に減少して編成した特設師団であり、慢性的な戦力不足から、通常編成の常備師団と比較すると、予備役招集兵や年長兵により編成され兵器も旧式なものが配備されていた[52]。師団長にはソ連駐在武官ハルビン特務機関などを歴任し、ソ連通であった小松原道太郎中将が親補された。参謀長には騎兵が専門で小松原同様ソ連通であった大内孜大佐が任命されたが[53]、大内は「この師団長のときに、戦いが起こらなければいいが」と懸念していたという。第23師団は新設師団であり兵士の練度に問題があったため、1938年7月21日に師団に満州派遣の出動命令が下された後は、ハルビン周辺にいったん集結し、付近の警備を担当するという名目で訓練を行った後に、11月から年末にかけて順次ハイラル付近に進出した。しかし極寒地のハイラルでは冬季にまともな訓練はできず、1939年1月から4月までは戦闘訓練よりは耐寒訓練に明け暮れて、ようやく本格的な戦闘訓練を開始した頃にノモンハン事件を迎えることとなった[54]

1939年初頭の第23師団は歩兵第64連隊歩兵第71連隊歩兵第72連隊、第23師団捜索隊(騎兵1個中隊と軽装甲車1個中隊)、野砲兵第13連隊、工兵第23連隊、輜重兵で編成されていた。将兵は14,000人、軽装甲車7輌、砲60門と戦力は師団定数を割り込むものであったが[55]アルグン川を境界とするソビエト、満州国境を起点とした、モンゴル、満州国境線全域の広大な地域の防衛を担当することとなった[56]

戦争の経過[編集]

第一次ノモンハン事件(5月11日 - 31日)[編集]

軍事衝突と前哨戦[編集]

モンゴル人民軍騎兵隊

第23師団が進出すると、ソビエト、モンゴル両方の国境付近での紛争が激増することとなった。1月20日に凍結したアルグン川を渡って対岸を捜索していた、東八百蔵中佐率いる師団捜索隊の兵要地誌班がソ連軍に急襲されて田川伍長が拉致されるという事件が発生した。東は歩兵1個中隊をもって田川奪還のためソ連軍と交戦したが、田川を奪還することはできなかった。以後も紛争は断続的に起こっていたが、4月23日~24日にかけての軍事衝突は大規模なものとなり、満州国軍の兵舎などがソ連軍の攻撃で焼失、小松原は歩兵1個中隊と山砲を紛争地に派遣し、自らも捜索隊長の東や幕僚らを連れて紛争地に乗り込んでいる。約130人のソ連軍に山砲の砲撃を浴びせた後に、満州軍にはアルグン川を渡河してソビエト領内にある兵舎を焼却せよとの命令が下り、満州国軍部隊を率いる島田少佐が攻撃準備をしている時に、流氷期の終わりを告げる大音響が鳴り響き、凍結した川を徒歩で渡河するのが危険となったため、越境攻撃は中止されている[57]

その後も満州国軍とモンゴル軍の小競り合いは続いた。5月11日~12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相は不明である。

関東軍司令部には5月13日に第23軍から「昨12日朝来、外蒙軍(モンゴル軍)約700名がノモンハン西方地区にてハルハ河を渡河し不法越境して満州軍と交戦中、増援もあるものの如し」「防衛司令官は師団の一部と在ハイラル満州軍全軍(約300名)でこの敵を撃滅せんとす」「爾後の増援の考慮と自動車100台の急派、防衛司令官が使用できる偵察機の急派待機せしめられ度」との軍機電報が届いた。関東軍作戦参謀辻政信ら関東軍幕僚らは誰一人「ノモンハン」という地名を知らず、慌てて地図でその地名を見つけ出したが、後にこの地名が世界を震撼させる戦場になろうとは、誰も思わなかったという[58]。ただし、小松原の要求に対して、関東軍はその電報を受信したわずか2時間25分後に飛行第10戦隊(偵察機1個中隊、軽爆撃機2個中隊)、飛行24戦隊(戦闘機2個中隊)と飛行場大隊2個の航空部隊と自動車第1連隊の2個中隊という小松原の要求を上回る戦力の急派を決定しており、関東軍幕僚はノモンハンの地名も含めて状況を熟知しており、前もって周到に準備していたとする意見もある[59]

関東軍司令部のお墨付きを得た小松原は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の師団捜索隊と2個歩兵中隊、満州国軍騎兵からなる部隊(東支隊)を送り出した。15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き揚げた。しかし、派遣されていた飛行第10戦隊の軽爆撃機5機が、東の捜索隊を支援するため、モンゴル主張の国境はおろか、日本・満州国主張の国境であるハルハ河も越えて、ハルハ河付近のハマルダバ山地区に展開していたモンゴル軍の兵舎パオ群を越境爆撃し、14人~25人の死傷者が生じている[60]。飛行第24戦隊は5月13日に出撃命令を受け、18日以降1個飛行中隊をカンジュル飛行場へ進出させ哨戒にあたらせた。5月20日に第1中隊鈴木昇一中尉らがハルハ上空でソ連軍偵察機1機を撃墜し初戦果を上げた。日本軍はさらに飛行第11戦隊の第1、3中隊を5月24日に増援投入し、6月10日に一旦原駐地帰還命令がでるまで制空爆撃機支援を行った[61]

日本軍とソ連軍の衝突[編集]

遺棄されたソ連軍のBA-10M装甲車

国境での衝突を受けて、ソ連軍は日本軍より機敏に行動を開始した[62]。第57特別軍団長フェクレンコが、第11戦車旅団から機関銃狙撃兵大隊(狙撃兵中隊3とT-37戦車8)砲兵第2中隊(自走砲4)装甲車中隊(BA-6およびFAI装甲車21)に進出命令を出した。指揮官には狙撃兵大隊の大隊長であるブイコフ上級中尉が任命された(指揮官名からブイコフ支隊とよく記される)。さらに、5月19日にはブイコフ支隊はM-30 122mm榴弾砲や化学戦車(火炎放射器搭載の戦車)の増援を受け、ハルハ河に向かった。5月23日にはモンゴル軍の第6騎兵団も加わり、総兵力は2,300名(うちモンゴル軍1,257名)T-37が13輌、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6 16輌を含む装甲車39輌、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲8門、KHT-26化学戦車5輌と戦力的に充実していた。指揮はウランバートルから来着した第57特別軍団参謀部作戦課長のイヴェンコフ大佐が執ることとなった[52]。ソ連軍はさらに後詰としてウランバートルからタムスクに車載狙撃兵第149連隊と、砲兵一個大隊を移動させた[63]。ハルハ河に達したブイコフ支隊は、工兵中隊がハルハ河に架橋し、ブイコフ支隊の主力の内、戦車と装甲車と狙撃兵2個中隊とモンゴル軍騎馬隊を渡河させ、距岸8 kmの砂丘(日本軍呼称「733高地」)に陣地を構築・また122mm榴弾砲などの砲兵は西岸の高台に布陣させた[64]

一方、第23師団長の小松原は、追い払ったはずのモンゴル軍がまた係争地に舞い戻ってきたのを知り、5月21日に、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門を合わせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(九二式重装甲車1輌を持つ)、輜重部隊340など総勢1,701名の日本軍と満州国軍騎兵464人の混成部隊を出撃させた。この部隊は、歩兵第64連隊長山県武光大佐が執り、山県支隊と呼ばれた[65]

しかしこれまで、日本軍が兵力を出してはモンゴル軍が退去し、日本軍が去ればモンゴル軍が舞い戻るといった「ピストン方式」の兵力派出方式で際限がない戦いをしていると、第23師団参謀長の大内大佐から状況報告を受けた辻は[66]、山県支隊出撃の方を聞くと「こんな方法では際限がない、何とか新しいやり方を」と考え、軍司令や他参謀の同意を取り付けると関東軍参謀長名で「ハルハ河右岸に外蒙騎兵の一部が進出滞留するようなことは、大局的に見て大なる問題ではない。暫く静観し、機を見て一挙に急襲しては如何」という電報を打った[67]。この時点で関東軍の方針は、モンゴルとの紛争はあくまでも日本・満州主張の国境線の維持にとどめる方針であったのでこのような自重の指示が行われた。22日には参謀長会議があり、第23師団の参謀長の大内は新京の関東軍司令部に出張しており、辻は関東軍参謀長名で打電した電文を大内にも伝えた。大内も関東軍と同様に紛争不拡大の方針で、新京に立つ前、村田作戦主任参謀に出動を自制するように指示していたが、小松原の意思で参謀長不在時に出撃が強行されたものであった。大内は辻ら関東軍参謀と打ち合わせて、参謀長名で第23軍に「外蒙軍を満州領内に誘致し、第23師団はハイラル付近で悠々と情勢を観察して、外蒙軍の主力が越境したのを見計らって、国境内で捕捉殲滅すべき」「山県支隊が出撃しているのであれば、なるべく早く目的を達してハイラルに帰還すべし」という電文を打った[68]。しかし小松原は、関東軍と大内からの電報を全く意に介すこともなく5月22日の日記に「山県支隊は出動の直前なり。今さら其の出動を中止すること統率上出来難し。防衛司令官の遣り方異議ありとて軍が制肘すべきにあらず」と書くなど開き直った[69]。 それでも小松原は関東軍の指示に一旦は躊躇し、3日間部隊を待機させたが、5月25日に戦機到来と判断し部隊に出撃命令を下した[70]。この出撃は、関東軍の指示を無視した形とはなるが、辻はこの小松原の行動に対して「師団長の善良な人柄は、関東軍のこのような電報に対してもなんら悪感情は抱かれなかったのである」と逆に小松原を気遣うような表現で理解を示している[71]

小松原がこうも強気であったのは5月20日に捕らえた捕虜の尋問などで、ソ連軍の兵力は兵員500名、トラック80台、戦車5輌、対戦車砲12門と誤認していたからで、この程度の戦力であれば山県支隊にとって危険性はないと考えていたからであった[52]。小松原は翌26日の午後に、山県支隊本部に出向き「28日払暁を期し、ハルハ河右岸に進出中の外蒙軍を攻撃し、右岸地区において補足撃滅せよ」という『作命46号』を下した[71]。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ河渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ河を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。

しかし、兵力は日本軍1,701名に対しソ連・モンゴル軍2,300名と防御に回るソ連・モンゴル軍の方が多かった上に、砲も日本軍は射程の短い四一式山砲九二式歩兵砲の5門しかないのに対し、ソ連・モンゴル軍は自走砲も含め76mm砲12門と122mm榴弾砲4門、戦車に至っては日本軍は0に対しソ連軍は多数を投入したが、この戦力差を知らない山県大佐は「歴史の第1頁を飾るべき栄えある首途に際し必勝を期して已まず」という支隊長訓示を行い行動開始を下令した[72]

東捜索隊壊滅[編集]

東捜索隊攻撃に威力を発揮したソ連軍化学戦車(火炎放射器戦車)

先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功した。橋の1.7キロメートル手前に陣取り、応急陣地を構築していたが、東捜索隊の動きは既にソ連軍に察知されていて、3時40分にはブイコフ支隊のルビーノフ上級中尉が「砲と装甲車を伴った自動車化歩兵の縦隊が移動中」と報告している。その報告を受けたイヴェンコフはブイコフに装甲車6輌で東隊を攻撃に向かわせた。しかしブイコフの装甲車隊は、東捜索隊が構築中の応急陣地に突入してしまったため、東隊の激しい攻撃によりブイコフが搭乗していた指揮官車が擱座させられた。行動不能となったブイコフの指揮官車を鹵獲しようと日本兵が接近してきたため、やむなくブイコフは指揮官車を放棄して日本軍の追撃をかわして退避した。東捜索隊はブイコフが残していった書類を見て自分らがソ連軍の後方に達していたことを初めて認識した。ブイコフはどうにか戦闘指揮所に逃げ戻るとイヴェンコフに「敵はわが軍を包囲し、渡河施設を奪取した」と報告している。この時点では東捜索隊は渡河点までは達していなかったが、ブイコフは混乱により誤った報告をしたことなる[73]。戦闘には勝利した東捜索隊であったが、これで存在がソ連軍に知られてしまったため、不安を感じた隊長の東は6時10分に「敵の進路を遮断し、目下敵と対戦中にして、すでに戦車2(実際は装甲車)トラック1を捕獲す。速やかに支隊の進出を待つ」という打電をしている。しかしこの電報が山県大佐に届くことはなかった[74]

山県支隊主力は28日の8時にソ連・モンゴル軍陣地中央を攻撃、攻撃を受けたモンゴル騎兵隊15連隊とブイコフ支隊のソ連狙撃兵第2中隊は退却した。日本軍はそのままソ連・モンゴル軍を包囲しようと2個中隊を前進させたが、ここでソ連・モンゴル軍は唯一予備部隊として残していたモンゴル第6騎兵師団を形勢逆転のために投入した。しかし、騎兵隊は進撃直後に日本軍の猛射で立ち往生させられたところに、ソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が日本軍と誤認し砲撃したため大混乱に陥り、さらに日本軍の追撃でバラバラに分散して潰走。師団長のチメディディーン・シャーリーブーモンゴル語版)が戦死した[75]

この日の日本軍は、支隊主力、東捜索隊など6隊に分かれて前進したが、無線機の欠陥で互いに連絡が取りにくかった上に、目標物が乏しく地点評定ができなかったため、幅30 kmに近い広正面で各部隊がバラバラに戦うことになってしまった[76]。その中で前進しすぎた東捜索隊が敵中で孤立することとなった上に、支隊主力との戦闘で後退したソ連・モンゴル軍部隊と、ハルハ河西岸に集結しつつあった149自動車化狙撃兵連隊と砲兵1個大隊の増援部隊から挟撃されるという最悪な状況に陥りつつあった[77]。一方、ソ連軍も全く同じ状況で、部隊や車両に無線機が十分行き渡っていなかったため[78]、有線電話や連絡将校による通信に頼っていたが「交戦が始まった後指揮所と各部隊を結ぶ有線連絡は途絶し、統制は失われ、各部隊は放任され、分隊単位で現場の状況を想像しながら独自に戦った」とソ連側が記録している通り、各部隊が個別判断でバラバラに戦闘しており、日ソ両軍とも上級司令部の指揮の及ばない中で独自の判断で戦うこととなった[73]

日本軍の山県支隊主力が攻撃を開始した8時頃から東捜索隊はソ連・モンゴル軍の猛攻を受けることとなった。ハルハ河西岸高台に配置されていたソ連軍の122mm榴弾砲と自走砲が直接照準の撃ち下ろしで支援砲撃を加えてくる中で、東捜索隊は戦車や装甲車を伴った騎兵や狙撃兵の攻撃を何度も受けたが、死傷者続出ながらもその度撃退した。戦車8輌を伴ったソ連軍狙撃兵部隊の攻撃に対しては十三粍重機関銃を対戦車兵器として使用し、敵戦車2輌とトラック2台を撃破し撃退している[79]。東捜索隊を完全に包囲したソ連・モンゴル軍は、接近することなく、榴弾砲と速射砲での砲撃を加えてきたが、撃ちこまれた砲弾数は3,000発にもなった[80]。砲撃されている東捜索隊の最も強力な火器は十三粍重機関銃で、砲撃に対して対抗できる火器はなく、一方的に撃たれるのみであったため、砲撃を避けるため全兵力を背斜面に退避させた[81]。隊長の東は支援要請のため、伝令を3度出したが、山県のいる指揮所ではなく、他の部隊に到達している。しかし、他の部隊も優勢な敵と相対しているか、高台の砲兵陣地から狙い撃たれているかで東捜索隊を支援する余力はなかった。17時にはようやく山県に連絡が通じた。実はこの時点で山県ら支隊主力は東捜索隊から3 kmにおり、双眼鏡により山県は東捜索隊の苦境を見ていたが、他の隊同様に、過小評価していた敵の予想外の戦力に、増援を出すことはできず、武器・弾薬の支援しか行わなかった。しかし、この武器・弾薬も東捜索隊には届かなかった[82]

28日の夜にタムスクからソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊の一部が自動車輸送で到着すると、残存の部隊の到着を待つこともなく行軍体勢のまま東捜索隊を攻撃した。しかし、隷下の部隊と全く統制が取れておらず、各隊バラバラに戦闘に突入したため[75]、主要な火器が重機関銃2に擲弾筒しか持たなかった東捜索隊の夜襲攻撃により、放棄した戦車4輌とトラック数台を残して撃退された[83]。この時点で東捜索隊は全兵員157名の内、中隊長2名を含む戦死19名、重傷40名、軽傷32名、合計の死傷者91名にも上り、戦闘力を喪失していたため、捜索隊に派遣されていた師団参謀の岡元少佐から「このままでは陣地の維持困難、後方へ後退」との意見具申があったが、山県からの正式な撤退命令は届いていなかったため隊長の東は「命令なき以上、一歩も後退せず」と突っぱねると全員を集めて「この方面で、日本軍が始めてソ連軍と戦うのだから、ここで退却しては物笑いの種になる。最後の一兵まで、この地を死守して、この次は靖国神社で会おう」と悲壮な訓示をした[83]

翌朝から東捜索隊には激しい砲撃が浴びせられた。温存していた捜索隊唯一の九二式重装甲車にも着弾し撃破された[84]。その後、砲撃の支援を受けながら第149連隊の一個大隊がKht-26化学戦車5輌を伴って東捜索隊の陣地攻撃を行った。化学戦車の火炎放射にそれまで固く陣地を守っていた東捜索隊の兵士はひとたまりもなく陣地を放棄した。この事例により火炎放射が日本軍歩兵に対し有効であるということが立証され、この後も要所要所で投入されることとなった[85]。14時に東は負傷兵に脱出を命じたが、もはやそのような状況ではなくなっていた。15時に鬼塚曹長を呼ぶと、山県への戦闘経過の報告と遺書を言付け脱出させ、18時、残存の20名の兵員を連れて突撃した[86]。東は負傷してうつ伏せになって倒れているところを、生け捕りにしようと跳びかかってきたモンゴル第6騎兵師団第17連隊のロドンギーン・ダンダルモンゴル語版)連隊長と取っ組み合いになり、力でねじ伏せようとしたところで、危険を感じたダンダルから腹部に拳銃を2発撃ち込まれて戦死した[87]。ダンダルはこれらの戦功により、戦死したシャーリーブーに代わって第6騎兵師団の師団長に昇進している[88]

その後の動き[編集]

28日の夕刻には師団長の小松原は敵の殲滅に成功しなかったことを知り、山県に29日をもって後退するよう命令した[75]。しかし、激戦続く中ですんなりとは退却できないと考えた山県は「敵に一撃を加えた後、撤退する」と時間稼ぎを行ったが、それを真に受けた師団は機関銃・速射砲の計5個中隊を増援に送った[89]。5月29日には、関東軍参謀の辻が支隊本部を訪れ、山県に「あなたの用兵のまずさによって東中佐を見殺しにした」と非難を浴びせると「今夜半、支隊を挙げて夜襲を決行し、東捜索隊の遺体収容しなさい。新京に帰ったら山県支隊は大夜襲敢行して敵を国境線外に撃退したと発表する」と命じた[90]。山県は辻の命令通り、30日の夜半に自ら600名の兵力と辻と第23師団の参謀を連れ、捜索隊陣地跡に夜襲をかけた。その時には、捜索隊を壊滅させたソ連軍が、軍団司令部の命令によりハルハ河西岸に撤退していたため、山県支隊は妨害されることなく東捜索隊の103名の遺体を収容した。ここでも辻は強権を振るい「3人で1人の遺体を担げ」と命令している[91]

30日には、モンゴル第6騎兵師団部隊がハルハ河の東岸へと再度進出している。そこを日本軍航空部隊が攻撃し、モンゴル軍は軍馬に大きな損害を受けたが、午後6時にハルハ河東方7 kmの高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止され、ハルハ河の西岸へ撤退した[85]。このようにまだ戦闘は継続中であったが、辻ら関東軍による、東捜索隊の全滅を隠匿し「敵を包囲して之に一大打撃を与えたり」とする過大な報告を信じた大本営は30日に「ノモンハンに於ける貴軍の赫赫たる参加を慶祝す」との祝電を関東軍に送った。そして関東軍は植田謙吉司令官名で小松原に賞詞を送っている[92]

ソ連軍のフェクレンコとイヴェンコフは、29日に日本軍の増援を恐れてソ連・モンゴル軍に撤退命令を出し、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した[85]。小松原も31日に山県に撤収命令を出した[93]。小松原は山県の指揮に大いに不満を抱き「前進せず、又捜索隊を応援せず。遂に見殺せしむるに至り」「任務を達成せんとするの気魄なし」と散々な評価を自分の日記に書き、山県が帰投するや呼びつけて作戦の細部について問い詰めているが、ソ連軍戦力の過少評価により、十分な砲兵等の支援兵力を出さなかった自分の失策についての反省はなかった[94]

戦場を視察した辻は報告に「外蒙騎兵がこんなに戦車を持っていようとは誰も思ってはいなかった」「戦場に遺棄された外蒙兵の死体には食糧も煙草もないが、手りゅう弾と小銃の弾丸は豊富に持たされていた」と気がついたことを記述し、この戦いの反省として「第23師団の左右の団結が薄弱であることと、対戦車戦闘の未熟さであろう」としていたが[95]、そこにも十分な速射砲などの対戦車兵器を準備できなかった自分らの反省はなく、第2次ノモンハン事件以降も同じような光景が繰り広げられることとなった[96]

第一次ノモンハン事件における損害は、日本軍、戦死159名(うち東捜索隊105名)、戦傷119名、行方不明12名で合計290名、九四式三十七粍砲1門、トラック8台、乗用車2台、装甲車2輌に対し、ソ連軍の損害は戦死および行方不明138名、負傷198名、モンゴル軍の損害は戦死33名の合計369名、戦車・装甲車13輌(うち2輌はモンゴル軍のBA-6)、火砲3門、トラック15台であり、戦力が勝っていたソ連・モンゴル軍の方の損害が大きかった。6月1日には赤軍参謀総長B.シャーポシニコフがクリメント・ヴォロシーロフ国防人民委員(国防相)にノモンハンの5月の戦闘について報告に出頭した際、ソ連軍の指揮官であるフェクレンコ第57特別軍団長について「ステップ砂漠地帯という特殊な条件下での戦闘活動の本質を理解していない」と辛辣な評価が下され、更迭されている[97]

航空戦[編集]

ノモンハンの日本陸軍航空隊第24戦隊のパイロット。(右から、西原曹長、佐藤伍長、石沢軍曹、後藤曹長、斉藤(千)曹長、吉良伍長)

この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保っていた。特に九七式戦闘機の活躍がめざましく、5月20日に国境を越境してきた偵察機を、第24戦隊第1中隊(中隊長可児大尉)の九七式戦闘機が撃墜し、ノモンハン撃墜第1号を記録するや、5月22日には同じ第1中隊がソ連軍の新鋭戦闘機I-16の十数機と交戦し、うち3機を撃墜。26日にもI-16を2機、大型爆撃機を1機撃墜するなど日本軍戦闘機は戦果を重ねたが損失はなかった[98]。日本軍の山県支隊と東捜索隊が進撃を開始した5月27日以降にはさらに航空戦が激化し、第11戦隊第1中隊(中隊長島田大尉)はホルステン川上空でI-16の18機と接触、激しい空戦の後その半数の9機を撃墜した。山県支隊と東捜索隊がソ連軍と戦闘を開始した5月28日には飛行隊も全力で航空支援を行い、第11戦隊は激しい空戦を繰り広げ、攻撃機3機、戦闘機36機を撃墜したのに対して日本軍は1機も失わないという完全勝利を成し遂げた(ソ連軍側の被害報告では13機損失[99])。こうして、第1次ノモンハン事件の空の戦いは日本軍の一方的勝利に終わったが[100]、この敗北をソ連軍は重く受け止めて、強敵日本航空部隊への対策を講じていくこととなった[101]

東安鎮事件[編集]

ノモンハンの紛争中の1939年5月27日、アムール川方面でも満州国軍とソ連軍の交戦があり、満州国軍の出動させた騎兵中隊1個と砲艇2隻が全滅した(東安鎮事件)。しかし、ノモンハン事件の拡大誘発を警戒した日本の関東軍が反撃を自重したため、それ以上の戦闘は発生しなかった。

第二次ノモンハン事件に向けての両軍の動き[編集]

ソ連軍[編集]

ノモンハン事件でのゲオルギー・ジューコフ

長年に渡って、ゲオルギー・ジューコフの『ジューコフ元帥回想録』の記述により、ジューコフのノモンハンへの到着は、第一次ノモンハン事件が終結した6月5日で、更迭されたフェクレンコに代わり軍司令に任命されたのが6月6日とされてきたが[102]グラスノスチによりロシア軍事公文書館の記録が明らかにされ、山県支隊との本格的な戦闘開始前の5月25日に、当時、ミンスク白ロシア軍管区副司令官であったジューコフが、ヴォロシーロフ国防人民委員から、モンゴルに急行しソ連軍の問題点を洗い出すよう命令を受けていたことが明らかになっている。そこでフェクレンコらの作戦指揮を観察していたジューコフは、5月30日にスターリンとヴォロシーロフに向けて「5月28日、29日の極めて非組織的な攻撃の結果、わが軍は大きな損失を被った。戦術は稚拙で作戦指揮も構想力を欠いた」と辛辣な戦況報告を行っている[103]。またジューコフは後日さらに、フェクレンコらの作戦指揮に下記の峻烈な評価を加えている。

  1. 第57軍団とモンゴル軍の訓練は極めて劣悪で、準備態勢は犯罪的な怠慢ぶりであった

  2. 日本の挑発行為を誘引したのは、誤った無責任な国境警備体制であった

  3. 5月の戦闘を通じ120 kmも後方のタムスクから動かなかった軍司令部は国境の些事としか受け止めず、部隊指揮は稚拙で前線の状況を把握していなかった

  4. 無能なフェクレンコ軍団長とイヴェンコフ作戦参謀は5月29日、日本軍の来援を恐れ、ハルハ河東岸の拠点を捨て、指揮者不在のまま無秩序な西岸への撤退を命じた

これらジューコフの報告を聞いていたヴォローシーロフは、ノモンハンの5月の戦闘状況を報告しに来たシャポニーコフとも協議し、スターリンの裁可を受けてフェクレンコを軍団長から更迭し、6月12日に更迭されたフェクレンコに代わりジューコフを軍団長に任命した[104]。軍団長に就任したジューコフは早速、先の戦闘で部隊を指揮したイヴェンコフと軍団の参謀長クーシチェフと前線で戦ったブイコフを「日本のスパイ」と糾弾し「本来は軍法会議だが」と但し書き付きで、修理や厚生といった二線の部署へと更迭した[105]

モスクワは第57軍団の戦力の増強を進めたが、特に力を入れたのは、5月の空戦で熟練の日本軍機に圧倒された航空隊の立て直しであった。飛行6連隊を送るとともに、スペイン内戦でソ連空軍を指揮したスムシュケビッチ少将(空軍副司令官)と熟練飛行士48名を教官とし、徹底して再訓練にあたらせた[106]。ソ連が国境紛争に躊躇せず大兵力を投入したのは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの元に、日本に潜入させていたスパイであるリヒャルト・ゾルゲから「日本の軍事力は抜本的な再編成を必要としており、ドイツ軍用車運搬部の情報では、この再編成をするためには最長2年を要し、日本に大戦争準備ができるのは早くて1941年」という情報が寄せられており、日本軍の準備が不十分なうちに大兵力により大打撃を加えることで、日本軍の本格的な対ソビエト大戦争への再編成を遅らせようとする目的があったという分析もある[107]

日本軍[編集]

ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士

第57特別軍団の幕僚や前線指揮官まで、拙い戦闘をした咎で更迭したソ連軍に対し、日本軍は、敵の戦力を過少評価し敵の撃滅に失敗した小松原も、また、小松原や辻から「東捜索隊を見殺しにした」と散々非難された山県も留任させ、小松原には賞詞まで送っているなど、人事面では非情なソ連に対し関東軍の温情ぶりが際立つ結果となった[108]。参謀本部は関東軍の暴走を抑止するため、6月上旬に作戦課の有末次中佐が中心となって『ノモンハン国境事件処理要綱』を作成した。これは、関東軍の地位を尊重し、信頼して処置は任せるが、敵に一撃を加えたら速やかに撤退する、事件の拡大を防ぐため航空部隊による越境攻撃は禁止などと、実施的には関東軍の兵力使用に制限をかけるものであった。しかしせっかくの要綱も関東軍に配慮して正式に通知されることはなかったので[109]、辻ら関東軍の参謀はこの要綱の存在を知らなかった。

1939年4月に中華民国臨時政府から新海関監督に任命された程錫庚が天津イギリス租界内で殺害された。日本軍北支那方面軍はその容疑者の身柄引渡しをイギリス側に求めたが拒否されたため、北支那方面軍は6月14日にイギリスとフランス租界の封鎖(交通制限)を断行して、日本と英仏の緊張が高まっていた。そして『ノモンハン国境事件処理要綱』が作成された頃には、緊張打開のため東京で日英の代表が協議することになっており[110]。参謀本部や関東軍は日中戦争の泥沼化や英仏との緊張激化などで、ノモンハンの国境紛争に労力をかけている余裕はなく、「適当にできることなら頬被りして相手にすまい」と考えており[111]、戦力の増強に対しては消極的であった。目的を持ってジューコフの希望を上回る増援を送り込んできたソ連に比べると、「ソ連に事件拡大の意図はない」と完全にソ連の意図を読み違え、兵力の増強を怠った日本陸軍中央の甘い情勢判断が対照的となった[112]

第二次ノモンハン事件前半(1939年6月27日からの日本軍攻勢期)[編集]

ソ連軍の越境攻撃[編集]

6月17日になってソ連軍航空部隊の再訓練の目途がつくとジューコフは航空隊に出撃を許可し、6月18日に15機のソ連軍爆撃機が越境して温泉方面の地上部隊を爆撃し人馬多数が死傷、カンヂュル廟には30機のソ連軍爆撃機が来襲して燃料集積所を爆撃、500缶の燃料が焼失するという損害が生じた[111]。さらに爆撃は後方のロンアルシャンにも及んだ。一方で日本軍航空隊は6月中旬には出撃命令が下り、戦闘機部隊は飛行第11、24戦隊に飛行第1戦隊が新たに加わり20日 - 26日の間に3個戦隊が、カンヂュル廟、採塩所の両飛行場に展開したが、参謀本部の不拡大の方針により出撃を自重していた[113]。6月19日には陸上部隊も偵察行動を開始、20日からは満州国内のデブデン・スメ地区に戦車・装甲車十数輌とソ連軍狙撃兵・モンゴル軍騎兵の約200名が来襲[114]、ソ連軍は日本軍の宿営地と集落を発見し、戦車砲で攻撃してきた。兵舎が砲撃により炎上し、集落内はパニックとなったが、この野営地の日本軍は速射砲や機関砲などの対戦車火器を配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破、ソ連軍は45名の死傷者を出し撃退された[115]、第23師団長小松原は、中央や関東軍の消極姿勢にも拘わらず再戦の機会を窺っており、19日に戦況について関東軍司令部に報告する際に「防衛の責任上、進んで徹底的に膺懲(ようちょう)したい」と意見具申している[116][117]

関東軍司令官植田謙吉大将

事件の拡大には消極的であった関東軍であったが、19日に小松原の意見具申が届くと、関東軍司令部第一課で今後の方針について協議された。その席で関東軍作戦課長寺田雅雄大佐が「関東軍司令部が防衛上の責任においてこれを撃破駆逐するのは当然であるが、シナ事変(日中戦争)を処理するに最も重大影響を持つものは対英処理である」「ノモンハンの始末は対英処理がある程度進捗した時期に選定してはどうか」[118]と慎重論を述べたところ、階級は下の辻が猛然と食い下がり「事ここに及んで、ノモンハンを放置すればソ連軍は我が軟弱態度に乗じ大規模攻勢をかけてくるだろう。撃破する自信もある」と説き、服部らも辻に同調したため、寺田の慎重論は却下されている。後に寺田は「職を賭しても主張すべきであった」と悔やみ[119]、辻も「素直に寺田参謀の意見を採用しておけばノモンハン事件は立ち消えになったかも知れない」と反省しているが[120]、後の祭りであった。なお、ノモンハンへの再度の出撃は小松原による意見具申の前に関東軍司令部でも検討を始めていたという証言もある。後方担当の第3課参謀芦川春雄少佐によれば、小松原の報告前の6月17日時点で、服部卓四郎や辻ら関東軍参謀がノモンハン方面の敵の跳梁に鑑み、第23師団の他、第7師団も投入し敵の撃滅を図るとする計画を検討していたとされる[121]

辻らは関東軍参謀会議の結果を「対外蒙作戦計画要綱」としてまとめ関東軍司令部に提出したが、計画上の使用兵力として計画していた第7師団については、関東軍司令官植田が小松原のプライドを慮り「関東軍が自分の任務を遂行するため、ノモンハン付近の敵にさらに一撃を与えることには同意する。ただし、ノモンハンは小松原師団長の担当正面である。その防衛地区に発生した事件を他の師団長に解決させることは小松原を信用しないことになる。自分が小松原だったら腹を切るよ」と目に涙を浮かべながら反対したため、作戦主任が遺憾ながら第23師団に大きな期待はかけられないと率直に申し述べると、植田はさらに「戦術的考察についてはまさにその通りである。しかし統帥の本旨ではない」と小松原への配慮を譲らなかったので、辻らは第7師団の使用を断念せざるを得なかった[122]。作戦の見直しを余儀なくされた辻は、第7師団の中から4個大隊を引き抜き第23師団に編入するという策を講じることとしたが[123]、この計画には初めからソ連軍との戦力差が考慮されておらず、第7師団を小松原の面子を尊重して除外したことは、第一次ノモンハン事件で小松原が手元の戦力を出し惜しみし、東捜索隊を壊滅に追いやった戦訓が活かされていなかった[124]

この辻を中心とした関東軍参謀らによる関東軍の作戦計画は21日に参謀本部に伝えられ、陸軍省も交えて大論争となっていた。陸軍省の軍事課長岩畔豪雄大佐や西浦進中佐らは「事態が拡大した際、その収拾のための確固たる成算も実力もないのに、たいして意味もない紛争に大兵力を投じ、貴重な犠牲を生ぜしめる如き用兵には同意しがたい」と強硬に反対していたが、結局は板垣征四郎陸軍大臣の「一個師団ぐらい、いちいち、やかましく言わないで、現地に任せたらいいではないか」の鶴の一声で関東軍の作戦計画は認められた[125]。関東軍が作戦準備をしているという情報を聞いたモスクワ日本国大使館駐在武官土居明夫大佐は、関東軍を思い止まらせるため、モスクワから満州に向かい、道中のシベリア鉄道で見た、極東に輸送される大量の戦車や兵器類の情報を司令官の植田に知らせたが、関東軍はその情報を黙殺した[126]。土居は、楽観的な関東軍に怒りと危機感を覚えながら帰国したが、東京に向かう飛行機内で参謀本部第4部長富永恭次少将と同席となったので、土居は「富永さん、植田司令官はノモンハン出動交戦を承認されたのですか」と聞くと、富永は苦々しげに「植田司令官は出動に内心不同意だったが、いやいやながら許可したらしい」と答えている[127]

関東軍の計画では、ハルハ河を渡河した地上部隊をモンゴル領内深くに進撃させることとなっていた。しかし中央の参謀本部は越境攻撃を原則禁じていたため、関東軍は越境攻撃について中央に事前相談せず秘匿することとした[128]昭和天皇は関東軍に不信感を抱いており、陸軍大臣の板垣が関東軍への野戦重砲2個連隊の増派の裁可を得に参内した際に、板垣の楽観的な説明に対し「満州事変の際も陸軍は事変不拡大といいながら、彼の如き大事件となりたり」と陸軍と関東軍への不信感を露わにした上、武力ではなくむしろ話し合いによる国境画定を行ったらどうかと示唆している[129]。許可を得ない越境攻撃は、天皇の統帥大権を犯す陸軍刑法第三十七条に該当する犯罪で、死刑または無期に当たる重大な犯罪であったが、満州事変の折り、当時の朝鮮軍司令官林銑十郎が関東軍の求めに応じ、独断で軍を鴨緑江を渡らせ独断で越境したにも拘らず「越境将軍」と逆に持て囃され、首相にまで栄達(林内閣)した先例もあった[130]

タムスク爆撃[編集]

九七式司令部偵察機の試作機で朝日新聞社に払い下げされた「神風号」

辻はモンゴル領内のソ連軍航空基地タムスクの敵航空戦力を偵察するため、「神風号」という名称で東京 - ロンドン間の連絡飛行に成功して勇名を轟かせていた、陸軍航空隊新鋭の高速偵察機九七式司令部偵察機に自ら乗り込み[100]、タムスク上空を飛んだが、敵戦闘機の追撃を受けて十分な偵察ができなかった。それでも大量のガソリンが集積されていることを確認し、敵航空戦力が集結しているものと考え、タムスク爆撃の必要性を痛感している[131]。6月22日にはソ連軍戦闘機150機の大編隊が越境、アムクロとノモンハンの中間の空域で全力出撃した日本軍戦闘機隊と激しい空戦となった[100]。この空戦も5月と同様に日本軍が優勢であり、ソ連軍機56機撃墜を報告しながら日本軍の損失はわずか4機であった。その後4日間にわたって連日、日本軍とソ連軍の戦闘機大編隊同士の空戦が発生し、日本軍は合計147機の撃墜を報告している[113]。ソ連軍航空部隊の活発な活動に危機感を抱いた関東軍は、6月23日に敵の航空基地であるタムスクを攻撃することを決めた。ただし越境攻撃はたとえ空からの攻撃でも禁止されていたので、関東軍は参謀本部に内密に進めることとした[100]

しかし、関東軍のタムスク爆撃は、出撃直前に関東軍参謀の片倉衷中佐の内部告発により、参謀本部に知れるところとなり、参謀本部は慌てて関東軍に「モンゴル領内の爆撃は適当ならず」と自発的中止を促す打電をした。それを受けた関東軍は騒然となったが、中央から連絡将校が到着する前に爆撃を強行することとし、計画通り、27日に戦闘機77機と重爆撃機24機、軽爆撃機6機でタムスクを爆撃した。この作戦計画の主導した辻はわざわざ戦果確認のために自ら爆撃機に同乗するほどの力の入れようであった[132]。関東軍が参謀本部の中止命令を無視して空襲を強行した理由として、あくまでもこの空襲は先に越境空襲してきたソ連軍への報復攻撃であり、任務達成上の戦術的手段として関東軍司令官の権限の属すると判断したからであり、辻は「中央に黙って敢行し、偉大な戦果を収めてから東京を喜ばせてやろうというような“茶目っ気”さえ手伝った」とこのときの関東軍の状況を回想している[131]。空襲は成功し、関東軍は華々しく撃墜98機、大破18機、中小破38機の合計149機を撃墜破する大戦果を挙げたと参謀本部に報告した[133]。しかし近年の研究では19機と判明している。大戦果を報告してきた関東軍作戦課長の寺田に対し、陸士29期の同級生であった稲田正純参謀本部作戦課長は「馬鹿ッ、何が戦果だ」「余りと言えば無礼の一言」と怒鳴りつける異例の展開となったが、この独断専行が参謀本部と関東軍を決定的に対立させる導火線となった[134]

侍従武官畑俊六大将が、ことの顛末を昭和天皇に報告すると、昭和天皇は「関東軍司令官を譴責(けんせき)するか、何らかの処分をすべきである」との意向を示し、その後に詳細を報告に参内した中島鉄蔵参謀次長に対しては「外蒙を無断で爆撃した責任は誰がとるのか」と下問したが、中島は「まだ作戦中ですので、終結した時点で、必要な処置を講じます」と返答し、結果的に関東軍の独断専行を容認することとなった[135]。しかし、昭和天皇はよほど不満であったのか「将来もこのようなことは度々起こらざる様注意せよ」と閑院宮載仁親王参謀総長に念を押している[136]。この頃になると関東軍を実質的に動かしているのは少佐に過ぎない辻であると参謀本部で認識されつつあった。作戦課長の稲田は陸軍省に出向き、参謀人事を所管する庶務課長や課長補佐に辻の更迭を申し出たが「あれは役にたつ男ですよ」と煮え切らなかったため、陸相の板垣に直談判したが、板垣はかつて辻を部下として重用したこともあり、稲田の直訴に対し笑みを浮かべながら「そういわないでかわいがってくれよ」と取り合わなかった[137]。そのため、辻の独断専行はこの後も続くこととなった。

昭和天皇の懸念もあり、関東軍に一定の歯止めをかける必要に迫られた参謀本部は、昭和天皇の裁可を得た『大陸命320号』で関東軍の役割を規定し、『大陸指491号』で関東軍の作戦範囲を「地上戦闘行動は概ねブイル湖以東における満州国外蒙古境界地区に限定するに勉めるものとす」「敵根拠地に対する航空攻撃は行わざるものとす」と定めた。しかし、この大陸指に対する補足が、後日参謀本部から関東軍に示されたが、その中に「一時国境外に行動する件は、常続的権限としての御裁可は得られないが、万やむをない場合は、当方でも、それ相当の配慮をする所存である」とあり、タムスク爆撃で昭和天皇を激怒させた越境爆撃については明白に禁止していたが、陸上部隊の越境攻撃には含みを持たせており、結局辻ら関東軍参謀が計画していた陸上部隊による越境攻撃を抑止する効果は全くなかった[138]

日本軍の作戦計画[編集]

1939年7月のノモンハン作戦図。橙矢印:日本軍の攻撃、赤:ソ連軍の防御

辻の計画では突撃部隊でハルハ河を渡河し西岸に渡り、敵軍の後方に進出し、同時に主力部隊が敵を正面に釘づけにするためハルハ河東岸にいる敵軍を攻撃、そうして後方に進出した突撃部隊と主力部隊で敵を殲滅するという作戦であった。この作戦のために小松原に任された戦力は第23師団、第7師団から抽出した歩兵2個連隊、戦車2個連隊に砲兵・工兵・満州騎兵で、兵力は日本軍21,953名(輸送・補給等の後方部隊も含む)、満州軍2,000名、砲124門(速射砲32門)戦車73輌、装甲車19輌であった[139]。特に戦車第3連隊と第4連隊は日本軍初となる機械化部隊独立混成第1旅団が前身の日本軍の主力戦車部隊となる第1戦車団の中核部隊で、これほど多くの戦車がまとまって作戦に投入されるのは日本陸軍史上初めてであった[140]

ハルハ河を渡河して敵軍の背後に回り込むのは第1戦車団を主力とする機械化混成部隊で第1戦車団長の安岡正臣中将が率いた。編成は戦車第3連隊戦車第4連隊、歩兵第64連隊、自動車化部隊の歩兵第28連隊第2大隊、独立野砲第1連隊、砲兵第13連隊第1第2大隊、工兵第24連隊、配属高射砲3個中隊の合計6,000名(安岡支隊と呼称)、正面攻撃する小松原直率の部隊は歩兵第71連隊第72連隊第1第2大隊、砲兵第13連隊第3大隊、工兵第23連隊、歩兵第26連隊、捜索隊、配属高射砲9個中隊の合計7,500名(小松原兵団もしくは指揮官小林恒一少将から小林兵団と呼称)、それで満州軍1,700名と通信隊、衛生隊等非戦闘要員を含めた総兵力は16,670名になった[141]。関東軍参謀服部はこの作戦を「鶏を割くに牛刀を以ってせんことを欲したるもの」[142]としソ連軍を『鶏』程度の戦力と考えていたが、『ジューコフ最終報告書』によれば、ソ連軍歩兵12,547名、戦車186輌、装甲車266輌、火砲109門、航空機360機と兵員数で少し日本軍が上回っていたが、戦車・装甲車ではソ連軍が圧倒しており、後に歩兵も火砲も増援によりソ連軍が圧倒することとなった[143]

当初の作戦では、ハルハ河に橋を架けて戦車を含む安岡支隊が西岸に渡り、敵の背後から包囲攻撃をかけることとされた。しかし、第23師団が持っていた架橋用資材は教育用として熊本から携行してきた80 m分の乙式軽渡河材料と、漕渡用の折畳船20隻しかなかったため、戦車を渡すことができないことが判明した[144]。水深が1 m以下なら戦車がそのまま渡河することもできたが、水深は深かった上に河底の土壌の硬度などの情報もなかった。そこで様々な対策が考えられ、中には戦車数台を橋の支柱とする案や、ソ連軍の機材を奪うなどの奇策も考案されたが、どの対策も実現性に乏しかった[145]。渡河資材に不安があることは師団長の小松原は十分に認識しており、渡河作戦を強硬に主張していた辻が渋る小松原を「師団長が独断でやれんようなら、関東軍司令官の名をもって軍命令を出す」と説き伏せたものであったが、結局、小松原の心配通りの結末となってしまった[146]。6月30日に第23師団司令部が置かれていた将軍廟で小松原と辻らが協議した結果、小松原兵団がハルハ河を渡河し、西岸に渡って退路を遮断し、東岸に残った安岡支隊が北から攻撃をかけて南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅する作戦に、作戦開始直前になって変更せざるを得なくなった。

ハルハ河東岸両軍戦車隊の戦い[編集]

ハルハ河東岸の前線へ向かう日本軍戦車

6月30日に戦車第4連隊の九五式軽戦車中隊がソ連第11戦車旅団の対戦車砲と初めて交戦した。そこでソ連軍の53-K 45mm対戦車砲の砲撃により95式軽戦車1輌が撃破された。その対戦車砲と砲弾200発は日本軍に鹵獲されたが、その弾速の速さに日本軍戦車将校たちは「閃光を見るか見ないうちに我が方の戦車に穴が開いていた」と衝撃を受け、第4連隊の玉田美郎連隊長は「敵の兵器の性能は我が方より優れており、敵の資質は予想していたより遥かに高い」と悟らされた[147]

7月2日、第1次ノモンハン事件で消極的な戦い方で非難を受けていた山県率いる歩兵第64連隊が、ハルハ河東岸のソ連軍に対し攻撃を開始したが、進撃を開始するや、ソ連軍の砲兵2個連隊の激しい砲撃に前進を停止させられた。特に西岸の砲兵陣地に設置されていたノモンハンでは初めて投入されたML-20 152mm榴弾砲の威力は絶大で、2時間に渡って砲撃を受け続けた第64連隊の兵士らは「筆舌に尽くしがたい敵の弾幕に恐れを抱いた」、「ソ連軍の砲撃は中国で経験したことのない効果的なものであった」との感想を抱き、日本軍の第13砲兵連隊も阻止射撃が強力過ぎて、効果的な反撃ができなかった[148]

吉丸清武大佐率いる戦車第3連隊は、歩兵支援のために夕刻6時15分から前進開始、ソ連軍砲兵陣地の撃滅を目指したが、降り始めた雨が目隠しとなり、8時頃に最右翼を進む第1中隊が砲兵陣地に突入成功し、野砲2門撃破、2門を捕獲した。しかしピアノ線鉄条網に引っかかって行動不能となった装甲車2輌が対戦車砲の直撃を受け撃破された。第4小隊長の古賀康男少尉は撃破された九七式軽装甲車の車載機銃を下ろして、包囲したソ連兵相手に戦い、激闘1時間30分、最後は拳銃まで撃ち尽くして戦死している[149]。連隊長の吉丸も新型の九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃の先頭に立って装甲車や野砲を撃破したが、機械化部隊とは名ばかりで、十分な自動車が無い歩兵第64連隊や輓馬が引く砲兵隊は戦車に付いていくことができず、折角蹂躙したソ連軍陣地を戦車単独では確保することはできないため、後退を余儀なくされた[150]

安岡は日中はソ連軍の砲撃が激しいため、夜襲を行うこととし、戦車第4連隊は7月2日から3日の夜間に、戦史上初のまとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃を行った。暗闇と雷雨に紛れて突入した第4連隊の八九式中戦車9輌、九五式軽戦車28輌、94式軽装甲車3輌の内、日本軍の損失は95式軽戦車1輌に対し(行動不能となったが回収できず放棄、後にソ連軍が鹵獲)ソ連軍戦車2輌・装甲車10輌・トラックを20台・砲多数を撃破し、ソ連軍防御陣地の奥深くまで突破するなど活躍を見せている[151]

ハルハ河周辺を巡る7月の戦いで、ソ連・モンゴル軍は合計で452輌の戦車・装甲車を投入したのに対し、日本軍が投入した戦車・装甲車は92輌と5分の1の数であったが[152]、この時点でハルハ河東岸に配備されていたソ連・モンゴル軍は3,200名の兵員に、122mm榴弾砲8門を含む重砲・野砲28門、対戦車砲7門、装甲車62輌、それに第11戦車旅団から分遣された戦車30輌と、攻める安岡支隊の兵力のほうがやや勝っていた[153]。日本軍による戦果判定ではその内300名の兵士を死傷させ、20輌の戦車と多数の砲を破壊し、ハルハ河東岸のソ連軍陣地は相当に弱体化しており[154]、ソ連軍、モンゴル軍は、猛攻してくる日本軍の戦力を将兵38,000人、砲310門、戦車装甲車200輌と何倍にも過大評価するほど厳しい戦況となっていたが[155]、東岸のソ連軍陣地を援護できる位置には152mm榴弾砲12門、122mm榴弾砲8門、76mm野砲・連隊砲14門が配置され、また予備戦力であった第11戦車旅団と自動車化狙撃兵連隊と装甲車旅団がタムスク近辺から戦場に急行しており[153]、早急にソ連軍東岸陣地を攻略する必要があった。

前日、ソ連軍の野砲陣地を襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、翌3日の日中にソ連軍陣地に正面攻撃をかけた。途中で遭遇した装甲車隊を殲滅し、反撃してきたBT-5や装甲車計20輌との戦車戦で、2輌の八九式中戦車を失いながら3輌のBT-5を撃破し撃退したが、実際に交戦してみると、日本軍側の予想以上にソ連軍の戦車の性能がよく、ソ連軍の戦車砲の射程が長く、また遠距離から日本軍戦車の砲塔の装甲板を易々と貫通することに衝撃を受けている[156]。やがて防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲の激しい砲撃を浴び、損害が増加していった。また陣前に張られたピアノ線鉄条網履帯を絡めとられた戦車は行動不能となったが、そこを戦車と対戦車砲に狙い撃たれ、連隊長の吉丸大佐の搭乗する九七式中戦車が撃破され、吉丸は戦死した。ソ連軍戦車も加わった集中砲火の中で、日本軍戦車は次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車の多くがディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、装甲は薄いながらも予想外の打たれ強さで[157]窮地の中でも善戦し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したが、日本軍は13輌の戦車と5輌の装甲車を撃破され、撤退を余儀なくされた[156]。防衛していたソ連の連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃を撃退し、司令部に喜びのあまり「日本戦車を食い止めました、奴らは次々に燃え上がっています。ウラー(万歳)」と興奮した報告を行っている[158]。この戦闘は後に「ピアノ線の悪夢」と呼ばれることとなった[159]

3日に撃破された日本軍戦車の多くは回収され、後日に修理され部隊復帰したが、4日の時点では戦車第3連隊は戦闘力を喪失しており、第4連隊のみとなった日本軍戦車部隊は攻勢を取れず、逆に増援が到着したソ連軍戦車・装甲車部隊の執拗な反撃を受けることとなった。4日午前には戦車・装甲車19輌、対戦車砲数門と歩兵500名のソ連軍が攻撃してきたが、戦車第4連隊はこれまでの戦訓を活かし、装甲の弱さを補うため、砲塔のみを丘の稜線上に出して砲撃を加えた。乗員の練度は日本軍が圧倒的に上回っており[160]数も主砲の威力も勝るソ連軍戦車に次々と命中弾を与え、装甲車2輌と対戦車砲数門を撃破し撃退している。日本軍の損害は八九式中戦車1輌の損傷のみであった[161]。午後8時にも戦車5輌と歩兵の攻撃に対し2輌の戦車を撃破し撃退すると、午後9時には、戦車第4連隊の総力でハイラースティーン(ホルステン)川河谷を攻撃し、ソ連軍戦車4輌を撃破している[162]

翌5日も執拗なソ連軍の混成部隊の攻撃を何度も撃退したが、6日になるとさらに数を増したソ連軍から、夜明け直前から断続的に猛攻が加えられた。それまでの激闘で戦車第4連隊は、八九式中戦車4輌、九五式軽戦車20輌、94式軽装甲車4輌まで戦力が減っており、ソ連軍から鹵獲した対戦車砲まで戦闘につぎ込んで、ソ連軍の攻撃がある度に数輌の戦車や装甲車を撃破し撃退し続けたが、第4連隊の損害も大きく、八九式中戦車は全滅、九五式軽戦車も5輌が撃破もしくは損傷し、戦闘力が著しく損なわれた。その状況を見た安岡支隊長から、6日の午後4時に「後方支援部隊の位置まで転進し、以後の行動まで準備せよ」との命令が下り、連隊長の玉田は命令通り転進して今後の出撃に備えることとしたが[163]、7月9日には戦車の完全喪失が30輌に達したことを知った関東軍が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた[164]。小松原や安岡はこの命令を不服とし、現地軍首脳と関東軍司令部でひと悶着起こったが、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局を迎えることとなった[165]。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車15輌喪失し戦場を後にした[144]

日本軍の渡河作戦とハルハ河西岸での戦い[編集]

折畳鉄船で渡河中の日本兵

歩兵団長小林恒一少将が指揮する西岸攻撃隊は15名乗りの折畳鉄船と乙式軽渡河材料により渡河することとしたが、架橋作業に手間取った上、川の流速が早く橋の強度が足りなかったため、トラックや弾薬などの重量物を同時に渡らせることができず、渡河終了が予定よりも7時間も遅れてしまった[166]。ジューコフは、7月2日に安岡支隊がハルハ河東岸を攻撃したことを知ると、東岸が主攻正面と誤認し、安岡支隊の側面を突くべく、予備部隊であった第7機械化旅団、第11戦車旅団、第8装甲車旅団、第24自動車化狙撃連隊を出撃させた。ジューコフは全く日本軍の渡河作戦を予想しておらず、虚を突かれる形となり、西岸を進む小林兵団に対応できる兵力はモンゴル騎兵1,000名程度であったため、小林兵団は殆ど妨害を受けることなく渡河に成功した[167]

渡河に成功した歩兵第71連隊は、反撃してきたモンゴル軍騎兵隊を蹴散らすと渡河地点近隣のバイン・ツァガン山に達した。ソ連軍は、偵察活動を十分に行っておらず日本軍の動きを全く把握していなかった。しかし、ハルハ河東岸に送るため進軍を急かせていた第11戦車旅団などの機甲部隊が、偶然にも小林兵団の渡河地点のすぐ近くまで達しており、7月3日午前7時にバイン・ツァガン山から前進していた日本軍歩兵第72連隊とソ連軍第8装甲車旅団の装甲車8輌が不意の遭遇戦となった。日本軍は九四式三十七粍砲を装備しており、8輌の装甲車の内5輌を撃破し1輌を鹵獲した[168]。この時点では日本軍の戦力規模が不明であったため、ソ連軍司令部は第11戦車旅団の第2大隊に日本軍の渡河地点攻撃を命じた。8時45分に23輌のBT-5と東捜索隊殲滅に絶大な威力を発揮したkHT-26化学戦車5輌が日本軍歩兵第71連隊を攻撃した[169]。小林兵団は第一次ノモンハン事件の戦訓を活かし、対戦車戦闘班として志願者により肉薄攻撃隊を組織していた。肉薄攻撃隊はサイダーの空き瓶にガソリンを詰めて作った火炎瓶を1名あたり2、3本持っており[167]、導火線に火をつけてソ連軍戦車に向かって投げつけると、100 km以上の連続走行と炎天下の暑熱で高温となっていたソ連軍戦車は容易く炎上し、やがてガソリン燃料に引火し弾薬が誘爆を起こしたり、たまらず飛び出してきたソ連軍戦車兵が日本軍に撃ち倒された。また九四式三十七粍砲も威力を発揮し合計16輌の戦車を撃破した。最後に残った化学戦車には、日本軍肉薄兵が履帯に爆薬を設置、爆発により行動不能となった戦車を包囲し、ソ連戦車兵に降伏を呼び掛けたが応じなかったため、戦車から引きずり出し銃剣で刺殺している[170]

ここで初めて日本軍が大部隊をもってハルハ河を渡河したことを知ったジューコフであったが、到着した予備部隊は戦車と装甲車だけで、歩兵や砲兵の支援戦力は当分到着しそうになかった。そこでジューコフはソ連野外教令188条『砲兵の支援を受けない戦車の単独攻撃の実施は許さない』とする規定を破り、歩兵・砲兵の到着を待たずに、手もとにあった重砲部隊のみの支援で、到着した戦車と装甲車だけで直ちに反撃させることとした[171]

午前11時から、ソ連軍第11戦車旅団と第8装甲車旅団が日本軍の各部隊に対し戦車133輌、装甲車59輌で攻撃を開始した。小林兵団には戦車・装甲車は1輌もなく、役に立ちそうな対戦車兵器は九四式三十七粍砲34門、三八式野砲12門、四一式山砲8門に火炎瓶と対戦車地雷だけであったが、歩兵の支援がないソ連軍装甲部隊に対しては大きな効果があった。11時30分には第11戦車旅団主力が戦車94輌で攻撃してきたが51輌を撃破して撃退、15時には第7装甲車旅団が歩兵第72連隊を装甲車50輌で攻撃してきたが36輌を撃破するなど、日本軍は戦果を重ねた[172]。多くのソ連軍の戦車・装甲車が戦場の至る所で撃破されて炎上しているので、その立ち上る黒煙を見た第71歩兵連隊の兵士はその黒煙を工業地帯の煙突から立ち上る煙に見たて「時ならぬ八幡工業地帯を現出」と戦闘詳報に記している[173]

損害を顧みない猛攻撃で、ソ連軍は戦車77輌と装甲車36輌を1日で失ったが[174]、日本軍の進撃は完全に停止し、防戦一方となった。歩兵第26連隊(連隊長須見新一郎大佐)は渡河地点から3 km先まで進撃したが、そこでソ連軍機甲部隊の猛攻を受け、多数の戦車・装甲車(須見の申告では83輌)を撃破しながらも、司令部との連絡が途絶し、傘下の大隊も個別バラバラに戦闘する情況に陥っていた。そのうち火炎瓶や地雷などの対戦車資材が枯渇すると、第1大隊(大隊長安達少佐)はソ連軍戦車に蹂躙され、大隊長と中隊長が戦死し、部隊も3つに分断されて敵中に孤立してしまった。歩兵第26連隊のほかの大隊も激しい攻撃を受け続けており、須見は一旦渡河地点まで第2、第3大隊を後退させ態勢を立て直すと、夜に第1大隊を救出し、死傷者を回収することとした[175]

前線に帯同していた服部と辻の関東軍参謀は、いくら損害を被っても止むことのないソ連軍の攻撃を見て「恐らく敵は今夜更に新鋭を増加して、明朝から反撃に転じるだろう。ハルハ河東岸の戦線も、漸く膠着の色が見える」と判断し、小松原に西岸からの撤退を勧告した[176]。砲弾を中心とした弾薬も枯渇しつつあったし、何よりも撤退路がたった1本の脆弱な橋であるということも不安材料で、このままならソ連軍戦車に先回りされて橋が破壊され退路が断たれる危険性も大きかった。服部と辻がこの責任はすべて関東軍が負うと約束すると、内心は撤退したがっていた小松原と第23師団参謀も同意し、16時に小松原は「師団は速やかに左(西)岸を徹し、以後右(東)岸のソ蒙軍を撃滅する」と命じた[177]

翌7月4日から日本軍は撤退を開始した。先日の大損害でソ連軍は大規模な追撃を行うことができなかった。ジューコフはそのような状況を見て「歩兵の不足は敵残存将兵に河向うに退去するチャンスを与えた[178]」と悔やんだ。それでもソ連軍航空機による爆撃、重砲による砲撃、第24自動車化狙撃兵連隊の攻撃で日本軍は少なからず損害を被っている[174]。ここでもソ連軍の152mm砲が猛威をふるい、第23師団司令部付近に着弾、参謀長の大内大佐が戦死し司令部要員も四散しバラバラとなった[179]

日本軍の他の部隊が撤退中の4日夜半に、歩兵第26連隊は第1大隊の救出作戦を敢行した。第2大隊、第3大隊から抽出された救出部隊は、自らも多くの死傷者を出しながら第一大隊の生存者の救出と遺体の回収を完了し、日本軍の殿として最後に橋を渡って撤退した[180]

7月5日に小林兵団は撤退に成功した。ソ連軍は日本兵数千人を戦死させたと過大戦果報告をしたが、この一連の西岸渡河戦での日本軍の死傷者は8,000名の兵力の内800名であり[181]、この大半が第26連隊の死傷者であった[182]

夜襲攻撃[編集]

ノモンハンの日本兵、ソ連軍から鹵獲したDT機関銃とガスマスクを持っている

渡河攻撃に失敗した小林兵団は『作命甲112号』により安岡支隊と合流し、ハルハ河東岸のソ連軍陣地を攻撃することとした。作戦としては戦車第3、第4連隊と砲兵の支援の下で、歩兵第26、64、71連隊が主攻正面を攻撃し、歩兵第72連隊が大きく迂回し背後からソ連軍陣地を挟撃しようとするものであったが[183]、日本軍が攻撃に出る前の5日にソ連軍が、新たに東岸に到着した第5狙撃機関銃旅団を主戦力として大規模な威力偵察を行い、激戦の中で戦車第4連隊が大きな損害を被り、関東軍の意向で日本軍戦車部隊が全て戦場を離れることとなったため、安岡が6日に予定していた総攻撃は延期せざるを得なくなった[184]

支援する味方の戦車は1輌もなく、西岸高台からの152mm砲を主力とするソ連軍の砲火は引き続き強力な状況で、小松原は、歩兵の夜襲で敵の縦深陣地を1つずつ突破し、日が明けたら砲火を避けるために奪った拠点を捨て発進点まで戻るといった攻撃を連日繰り返し、ソ連軍の消耗を誘い、ハルハ河まで達したらソ連が架橋した橋を撃破し、東岸のソ連軍を干上がらせるといった作戦を実施することとした[185]

7月7日から開始されたこの大規模な夜襲戦法は、ソ連軍には全くく予想外のことで、第149自動車化狙撃連隊の第1大隊は慌てて退却したため、放置した対戦車砲と76mm野砲を日本軍に鹵獲された。第3大隊も周囲の状況も見ずに退却したため、第175砲兵連隊第6中隊が中隊長のアレーキン上級中尉ごと日本軍内に取り残され、日本軍との激戦の末に全滅している[186]。また、夜襲を支援した日本軍の砲撃も効果的であり、前線指揮官であるレミゾフロシア語版)第149自動車化狙撃連隊長は8日に砲弾を受け戦死している。レミゾフはソ連邦英雄の称号が与えられ、戦死した高地はレミゾフ高地と呼ばれることとなった[186]

真っ暗闇の中での日本軍の夜襲でソ連兵は混乱の極に達し、味方同士での同士討ちまで起こっており、損害が増大しソ連軍陣地は危機に陥った[187]。その知らせを受けたジューコフは、西岸で待機していた第7装甲車旅団と第82狙撃兵師団第603狙撃兵連隊を東岸に増派することとしたが[188]、第603狙撃兵連隊は第一次ノモンハン事件直後にウラル軍管区のベールシェチ駐屯部隊を急遽かき集めて編成された寄せ集め部隊であり、部隊は7月にモンゴルに到着するや300 kmの過酷な徒歩行軍をすることとなったが、その行軍途中で指揮官らは識別票や階級章をはぎ取り身分を隠そうとしたり、多くの自傷事件を引き起こしていた。また一部では反共産党分子が兵士らを唆し、指揮官の殺害を企てたりしていた。そのように軍としての体裁が整っていないような部隊であったので、10日に自動車で東岸に着くや否や、日本軍の数発の銃声を聞いただけで連隊はパニックに陥り潰走し、大損害を被った[189]。ジューコフは第603連隊を西岸に呼び戻すと、軍法会議により容赦なく銃殺刑に処し、再訓練を施したが「なんでこんな弱体部隊を投入したのか」という非難を受けることとなった[190]。また、日本軍の夜襲で脆くも後退を繰り返していた第149狙撃兵連隊においても、連隊司令部が督戦により兵士らを厳格に処し、部隊をどうにか元の防衛線の位置まで戻している[189]

日本軍は夜襲と並行して、ソ連軍が架橋した軍橋を爆破するための工作班を8チーム編成し、ハルハ河に向かわせた。ソ連軍の警戒厳しくなかなか軍橋に接近できなかったが、7月8日の深夜2時に、歩兵第72連隊で編成した高山正助少尉以下60名の高山班が軍橋への接近に成功した。軍橋に接近する途中で野営しているソ連兵に誰何されたが、高山の片言のロシア語で誤魔化して突破すると、軍橋の歩哨を手榴弾で倒し、軍橋に爆薬を大量に仕掛け爆破に成功している[191]。他部隊が他に1本の爆破に成功し、合計2本のソ連軍軍橋を撃破したが、この時点で既に9本の軍橋が架かっており、ノモンハン事件終結時にはこれが28本にまで増加していたので焼け石に水であった[192]

ソ連軍司令部がいくら厳格な処置を行っても、日本軍の夜襲にソ連軍兵士は混乱し、退却し続けた。11日の夜には、第1次ノモンハン事件で中心となって戦った山県連隊長率いる歩兵第64連隊が総力を挙げて夜襲を決行している[179]。夜襲を受けた第5狙撃機関銃旅団の旅団長フェドルコーフが予告もなしに退却したため、日本軍の歩兵第64連隊の1個中隊が前線を突破しソ連軍陣地奥深くの第11戦車旅団の司令部まで達し、激戦の中で第11戦車旅団のミハイル・パブロビッチ・ヤコヴレフ旅団長までが戦死した。しかし中隊はソ連軍の集中攻撃を受け、最後は穴の中で包囲され全滅した。この穴は後に『サムライ墓』と呼ばれるようになった[193]。山県はさらに前進を続けソ連軍がレミゾフ高地と名付けた重要拠点バルシャガル (733) 高地を占領した[194]

日本軍の夜襲はソ連軍に大きな損害と混乱を与えたが、日本軍の損害も次第に蓄積しており、一連の夜襲で日本軍は2,122名の死傷者(内戦死585名)を被り損失率は23%となった[195]。中でも山県の第64連隊は、戦死107、負傷221名で損失率は33%と一番高くなった[196]。結局、夜襲して敵を叩いて戻るという戦術では、一部の拠点の占領には成功できたが、大きく前線を前進させることはできず、夜襲作戦開始時には「左(西)岸にある敵砲兵の妨害あるも、右(東)岸の敵を撃破するは時間の問題なり」や「今日、明日位の攻撃を以って右(東)岸を占領し終わるべく」[197]などときわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。

ソ連の状況も厳しく、前線を視察に来た国防人民委員代理のクーリクは、ハルハ河東岸陣地のソ連軍の苦境を見てジューコフに7月13日に全軍西岸に撤退させるよう指示したが、ジューコフは拒否している。後にこの一件についてジューコフから報告を受けたヴォロシーロフ国防相はクーリクをモスクワに召還し、戦闘指揮への介入について叱責している[195]

ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力を合わせて、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。

大砲撃戦[編集]

九八式六屯牽引車 ロケによって牽引される野戦重砲兵第7連隊所属の九六式十五糎榴弾砲

砲兵観測のためノモンハンでも使用された日本軍気球連隊の気球

関東軍は、参謀本部への対抗心からか、独自の戦力や資材で戦おうとする意気込みが強く、参謀本部が第5師団の増派を打診したことがあったが辞退している。しかし、6月22日に参謀本部から打診があった重砲2個連隊の増派については、歓迎はしなかったものの現実的な判断で受け入れている。しかし、独力に拘ったためか、7月からのハルハ河渡河作戦にこの重砲隊を間に合わせようという意識は全くなかった[198]

しかし渡河作戦が失敗し、東岸の夜襲攻撃を行っていた10日頃には投入を前提に準備が開始され、千葉から増派された野戦重砲兵第1連隊野戦重砲兵第7連隊の2個連隊を編合した野戦重砲第3旅団(指揮官畑勇三郎少将)と関東軍指揮下の3個重砲連隊を統合して「砲兵団」を編成し、団長には関東軍砲兵司令官内山英太郎少将を補職した[199]

内地から増派された砲兵旅団は15センチ加農砲などの大口径重砲を主力に、最新自動車(牽引)砲兵として、日本軍の中でも最精鋭の虎の子扱いであった[200]

「砲兵団」は合計82門の重砲・野砲を保有したが、これは1939年3月の南昌攻略戦で投入された90門に匹敵する規模であった[201]。日本軍でこの規模で砲兵が投入されることはほとんどなく、「建軍いらい」と誇称されていた[202]。そのため内山団長は「3時間でソ蒙軍砲兵は撲殺され、射撃目標はなくなってしまう」と胸を張り、戦闘計画書には「攻撃1日、全砲兵をもって一挙にソ軍砲兵を撲滅し、かつ橋梁を破壊すると共に、事後主力をもって歩兵の攻撃に強力す」と書かれていたほどであった[199]

しかし、砲弾は29,130発しか準備されておらず、日華事変の最中で弾薬の消費も激しく今後の補給のあてもなかった。この砲弾数でまともにソ連軍と撃ち合えば半日でなくなってしまう量であったが、日本軍はこれを振り分けて使うしかなかった。例えば十五糎加農砲は一日に60発しか砲弾が割り当てられなかった[203]。砲兵団が弾薬不足にも関わらず、強気であったのは、自分の部隊の戦力を過信していたのと、ソ連軍の火砲を今までの戦場での観察をもとに合計76門と判断していたからで、数が互角なら精鋭のわが軍(日本軍)が有利と判断していたためであるが[204]、実際にソ連軍がこの地域に投入した76 mm以上の野砲は108門、中でも10 cm以上の重砲は、日本軍38門に対しソ連軍は76門だから二倍の数であった。また砲兵部隊とは別に76 mmの連隊砲70門も砲撃戦に投入されたため、重砲でも火砲全体でも日本軍の2倍の数があり、さらに砲弾数は比較にならないほど多かった[205]

砲兵団は7月23日の日本軍総攻撃の支援として、6時30分に砲撃を開始した。まずは敵の砲の位置を暴露するための誘致砲撃を行い、応射してきたソ連軍砲兵陣地の位置を特定し全砲で集中砲撃を行った[206]。日本軍の砲撃によりしばしばソ連軍の応射が沈黙し、日本軍砲兵は「我が砲弾による命中粉砕」と喜んだが、実際は日本軍砲兵陣地からの目視が可能な西岸高台上から後背地に移動しただけで、まもなく砲撃を再開してきた。日本軍の砲兵陣地は稜線に遮られた平地にあったため、ソ連軍の応射で破壊される砲はなかったが[207]、同様にソ連軍の火砲も一向に勢いが衰えず、「友軍の重砲が3〜4時間も撃ったんだから、もう撃滅できただろう」とたかをくくり出撃した日本軍歩兵は激しいソ連軍砲撃によりほとんど前進できない有様であった[208]

『ジューコフ最終報告書によれば』ソ連軍は10 cm以上の重砲のみで7月1カ月で消費した砲弾は31,705発であり、これは総攻撃に際して日本軍が砲兵団全部に準備した砲弾の数を上回っていた[209]。日本軍歩兵は損害を出すばかりで総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。

もともと日本軍の砲陣地より50 m高い西岸高台に位置していたソ連軍砲陣地は、日本軍観測所から奥までは見通しが効いていなかった上、日本軍の砲兵、特に内地から増派された野戦重砲第3旅団は訓練不足もあり、砲撃の正確性を欠いた(#日本とソ連砲兵隊の比較)。野戦重砲第3旅団には千葉に駐屯していた気球連隊から百一号気球2個と200名の部隊も帯同しており、日本軍観測所から死角になっていたハルハ河西岸後方を観測するため、25日にその内1個の気球が掲揚され900 mの高度に達したが、観測する間もなくソ連軍戦闘機に撃墜された。この光景は戦場の至る所から視認され、日本軍兵士の士気を落としている[210]

畑は砲兵情報連隊の測定分析により「完全破壊を確認した敵砲数は24門、他に損傷させたもの20余門で、3日間で敵砲兵戦力を半減せしめたのに対し、わが重砲の損失は2門のみであった」と勝ち誇ったが[211]、ジューコフによれば「7月23日には敵砲兵はわが重砲弾の破砕を狙って約1万発と推定される大量の砲弾を撃ち込んだが、ハルハ河西岸に沿った15〜20kmに広くばらまかれ、多くは空き地に落下した。一日かかっても敵は1個砲兵中隊も制圧できず、歩兵にも被害は殆どなかった」とのことであったので、畑の見立てほどの大損害を与えていなかったのは明らかであったが[212]#日本とソ連砲兵隊の比較ソ連軍の主要火砲投入数と損失数一覧表の通り、ノモンハン事件でソ連軍は10 cm以上の重砲だけでも36門が撃破されているので、相応の損害を与えていたのも確実であった。しかし、火砲の効果的な運用を行ったのはソ連軍の方であり、ソ連軍は弾量の過半を日本軍砲兵との撃ち合いに使うのではなく、日本軍の歩兵部隊に集中することにより、日本軍の攻勢を挫折させると同時にソ連軍の東岸橋頭堡を援護するという二重の目的を果たしている[205]

日本軍砲兵団は3日目の25日には砲弾を使い果たし沈黙した。逆にソ連軍の勢いは衰えるどころか援軍の到来もあり増す一方であったので、小松原は「砲兵の効果予想に反せり、何等砲兵の助力を予期せずにて、歩兵の攻撃続行せざりしやを悔やむ、我過てり」と砲兵への失望感を露わにしている[213]

戦線膠着[編集]

日本軍は25日まで4,400名の死傷者を出しており、早急な戦力補充が必要であった[214]。一方ソ連軍の死者は、1991年のロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告で、7月中で日本軍を上回る6,240名の死傷者(戦死1,242名)とされていたが[215]、ワルターノフ大佐の報告は、2001年のロシア歴史家の共同研究『20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析』で過少と判明しており[注釈 5]#ソ連軍の損失参照)実際は7,000名以上の死傷者を出していたものと推定される。

しかし、損害が遥かに大きかったソ連軍には続々と援軍が到着していたのに対し、第23師団に満州全域の各部隊から抽出した4,000名の補充兵が到着するのはまだ先のことで[216]、関東軍は第23師団が現状でこれ以上の攻勢を維持するのは困難であると考え、総攻撃2日目の24日に第23師団に対し陣地を構築して防衛体制に入れと命令した[217]。この命令を主導したのも辻であったが、辻は満州の自然を熟知しており、「満州近辺の冬は零下51度にもなる。9月には降雪が始まる。そんな状況で攻勢作戦をとれば冬越えの準備が疎かとなり、兵士は戦ではなく寒さに凍え死ぬことになる」と意見具申し、この作戦の大転換を決めてしまった[218]

しかし、兵士の越冬対策を第1目的に考えるのであれば、敵の砲撃が届かないハイラル地区か第23師団司令部が置かれている将軍廟付近まで退いて、耐寒設備のある兵舎に収容するのが常識的判断であり、駐ソ大使館付の土居明夫駐在武官が「ハルハ河より適宜離隔せる位置に、至短時間に最も効果的な陣地を構築すべき」と進言したのもそれを含んでのことであったが[219]関東軍は「係争中の右(東)岸地区を確保することは絶対に必要なり」と決意しており、部隊を後退させる意思は全くなかった[220]。ソ連軍は8月になってからも、西岸の重砲が15分間に2,000発以上の支援砲撃を行う下で歩兵による形勢回復のための攻撃をしてきたが、いずれも撃退している[221]。しかし、西岸重砲の砲火をしのぎつつ、増強される一方の西岸ソ連軍と戦い、その合間に越冬準備しながら陣地構築するのは至難の業で、結局、ソ連軍の総攻撃までに陣地は3分の1程度しか完成させることができなかった[222]

第二次ノモンハン事件後半(1939年8月20日からのジューコフ攻勢から停戦まで)[編集]

第6軍の新設[編集]

第6軍司令官荻洲立兵中将

8月4日、参謀本部は、作戦中にも関わらず、ノモンハン方面全般の指揮を執らせるために新たに第6軍という中間司令部を新設し、司令官として荻洲立兵中将が補職された(元々第6軍は、西部ソ満国境警備の上級司令部として創設計画であったが、事件のため創設目的を変えて創設された。当初の創設計画人事では後宮淳中将が司令官の予定だったが、事件前に第4軍司令官と第6軍司令官の人事が入れ換えられた)。新設した意図について、参謀本部作戦課長の稲田によれば「関東軍は大局的な視点に立った事件の収拾に注力するため」とのことであった[223]。しかし、軍編成にあたって、関東軍司令官植田などから第7師団を追加するという提案もあったが、辻ら作戦課参謀が「関東軍唯一の戦略予備である第7師団を極東ソ連軍が全面的に不穏な動きを見せている今、軽々しく動かすべきではない」や「築城と冬営設備の輸送を続けているため、これ以上の輸送量が増大する方策は不可」という反対意見を主張したため見送りとなり[224]、結局、第6軍に編入された戦力は第23師団と第8国境守備隊であったが、第8国境守備隊の一部はすでにノモンハンのノロ高地の守備についており、実質の追加戦力は7月中に到着した速射砲以外は殆どなかった[225]

戦力の追加もないのに突然できた上級司令部を第23師団の幕僚らは冷淡に見ており、第6軍幕僚らの初の部隊巡視に帯同した小林兵団指揮官の小林は荻洲の印象を「休憩所にて酒を催促され、ちょっと面くらえり。誠に無造作なる、相変わらず磊落なる軍司令官なり」と日記に書くなど呆れている[226]。また、第6軍の幕僚らはノモンハン戦に当初から関係している人物はおらず、参謀すらも関東軍参謀20数名から横滑りした参謀はおらず、参謀長の藤本鉄熊少将は朝鮮の飛行第6戦隊長から転じてきた航空畑の人物だった[225]。これまでノモンハン戦を主導してきた辻は「破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲る」という後ろめたい気持ちがあったというが[227]、中間司令部ができたことにより「軍の自主性を尊重しよう」という建前で、戦局が悪化する一方のノモンハン戦から離れて、東部国境に出向している[228]

13日の第6軍と第23師団の作戦会議では、戦場の実情をよく知らない第6軍司令部が「敵が外翼または間隙から侵入するときは、これを入れてから、叩くこと。部隊の配置は、攻防とも極力、縦深配置とすること」との訓示を行ったが、軍とは名ばかりで実質は1個師団程度の兵力しかない第6軍が、37 kmにも及ぶノモンハン正面で縦深配置することなど初めから不可能で(通常1個師団の担当は7-8 kmとされる)この訓示を聞いた小松原は第6軍萩洲に対する不信感を強めた[229]。また、急造の第6軍司令部には司令部直属の通信兵すらいなかったので、第23師団との連絡のため師団司令部のある将軍廟に参謀を1名残しておくべきではという提案があったが、自前の護衛兵すらいないので師団に負担をかけるという理由で、前線から200 kmも離れたハイラルへと戻ってしまった。そのためソ連の総攻撃時には軍参謀は前線に不在で、ジューコフから「日本軍の幹部は休暇をとって後方で遊んでいた」と揶揄されることとなってしまった。

ソ連軍の攻勢準備[編集]

1939年7月のソ連軍、右は第36自動車化狙撃兵師団長のペトローフ[230]

ノモンハン東岸で日本軍の攻勢が続いていた7月5日にモスクワは、今後の反転攻勢のために極東の軍の指揮系統の再編成を行った。国防人民委員の直属しチタに司令部を置く臨時編成の前線方面軍を編成し、グリゴリー・シュテルン2等軍司令官、軍事会議審議官を司令官とした。前線方面軍は極東方面の海軍を含めた全軍を統括する巨大な軍となった[231]。さらにノモンハンで戦闘中の第57特別軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮を執らせた。従って形式上は、ジューコフはシュテルンの指揮下ということになるが、ジューコフは作戦において、シュテルンを経ずに直接軍中央と連絡できる権限が与えられており、シュテルンの前線方面軍司令部は後方支援の役割をモスクワは期待していた[232]。しかしそれは必ずしも徹底されておらず、シュテルンは作戦に介入したがったが、ジューコフがそれを押しとどめたため[233]後に戦闘の重要局面で両者の方針が食い違い対立することとなった[234]

ソ連軍は7月末から、大反転攻勢に向けて入念な準備を開始した。まずは55,000トンにも及ぶ膨大な軍需物資をピストン輸送した。ここでシュルテンは見事な手腕を発揮し膨大な物資の輸送を円滑に行った。またザバイカル方面軍から7月末に第57狙撃兵師団に第6戦車旅団、8月には第152狙撃兵連隊第1連隊と第212空挺旅団が増援として移動を開始した[235]。モスクワは最終的にジューコフが要請してきた以上の3個狙撃兵師団、2個戦車旅団、3個装甲車旅団を増援として送り込んだ[236]。増援の兵員数だけでも総勢30,000名以上となったが、あまりにも物資と兵員の輸送量が多かったので、一部の狙撃兵部隊は徒歩でノモンハンまで行軍させられた。7月末からのソ連軍の増強は、実質増援なしの日本軍と好対照の戦力増強であった[237]

ソ連軍は総攻撃準備の3週間にわたって、その意図を気づかれないように様々な欺瞞工作を行った。陣地構築中の日本軍に対し砲撃と小規模部隊による攻撃を繰り返した。特に8月1日、2日と7日、8日にかけ行われた第149狙撃兵連隊と第5狙撃兵機関銃旅団による攻撃は、欺瞞攻撃とは思えないほどの強力な攻撃であり、準備砲撃は「生きとし生けるもの全てが掃滅」されるほど激しいものであったが、いずれの攻勢もソ連軍が大損害を被り撃退されている。日本軍はこの攻撃により、大規模な偵察攻撃に慣れてしまい、大部隊の移動に警戒が薄れ、総攻撃部隊の移動を見過ごした上に、両翼の兵力を中央に集約する動きを見せ、ソ連軍は「攻撃は失敗ながら、日本軍司令部の判断を狂わせた」と評価している[238]

そして、総攻撃を行う主力については、その移動・集結・再編成を日本軍に気付かれないよう、全て夜間に行った。特に攻撃開始場所への移動は総攻撃前日の19日深夜から20日に渡って行われた。日本軍が無線を傍受し、電話を盗聴していることを逆に利用し、防御陣地構築や越冬準備に集中しているような偽情報を解読が容易な簡単な暗号で送った[239]。また、情報工作の分野でも布石を打っており、ハルビン特務機関に潜入させた工作員に「ソ連軍現地司令官は準備未完了を理由に攻撃延期を申し出た」「補給困難のためソ連軍は悲鳴を上げている」などの偽情報を流している。この情報は、関東軍司令部の緊張感を緩める効果があった[240]

小松原はこのソ連の欺瞞工作を見抜けず、日記には8月5日「噂されし8月攻勢の企画も見えず。戦場概して平穏なり」、12日「戦線平穏」との記述が散見され、第23師団司令部の情報記録もソ連軍総攻撃2日前の18日の記述は「特に変化なし、平穏なり」、「コマツ台上羊群の放牧せるを散見せり」という緊張感のないものであった[241]。しかし呑気な司令部と違い前線部隊は「機甲部隊がわが左翼を包囲する企図確実」(8月18日歩兵第71連隊)[242]や「8月17日から18日にかけ、ハルハ対岸の敵は活気を呈し、渡河しつつある車輌の音を聞く。19日はその動き尋常ならず、私も一大決戦を覚悟し準備す。同夜将兵一同不眠不休で部署に就く」(井置捜索隊)とソ連の攻撃の意図を事前に察知していたが、この報告に第6軍や第23師団司令部が反応することはなかった[243]

ソ連軍の総攻撃開始[編集]

1939年8月のソ連軍総攻撃作戦図

8月20日早朝6時15分にソ連軍による爆撃と砲撃が開始され、9時に全線で地上部隊が進撃を開始した[244]。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ハイラースティーン(ホルステン)川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、兵力不足のため縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。その兵員数については、正確な公式データがなく、兵員8,000名(除後方部隊) - 最大で25,000名と重砲・野砲70門であったと推計されている[245]

ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。具体的には、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなるシェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍が、フイ高地の捜索隊を攻撃して南東に進撃。第57狙撃師団、第8機械化旅団、第6戦車旅団、第185砲兵連隊第1大隊、第11戦車旅団機関銃狙撃兵大隊、第37対戦車大隊、自走砲大隊、化学戦車中隊、モンゴル軍第8騎兵師団からなる、ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進し、南方軍と北方軍で日本軍を包囲するが、両軍が包囲を完了するまで、第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団からなる、ペトロフロシア語版)准将が指揮する中央軍が、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけ、日本軍主力を釘づけにする計画であった[246]

日本軍第6軍の歩兵1個師団と1個旅団に対して、ソ連軍が総攻撃に投入した兵力の合計は、狙撃兵4個師団、騎兵2個師団、戦車7個旅団、重砲3個師団[247]、兵員51,950名、戦車438輌、装甲車385輌、76 mm以上の重砲・野砲292門、高射砲87門、対戦車砲130門と圧倒的で、兵員数で2倍 - 6.5倍、火砲4倍以上、戦車に至っては日本軍は0でありその戦力差は歴然であった[7]

日本軍は一部前線部隊を除けば、完全に不意打ちを食らった形となった。第23師団はソ連軍の意図を読み取ることができず、3方面の攻撃についてもどこが攻勢の重点が見極めることができなかった。さらに今まで何度も繰り返してきたように敵戦力を過小評価し、攻撃開始日の20日の夕刻に小松原は反転攻勢の準備を下命している。しかし、これは小松原の独断ではなく、ソ連軍の総攻撃があった場合には、ソ連軍の重点攻勢地点を逆に日本軍が側面迂回し、後方を遮断し一挙に殲滅するというのが関東軍以下第6軍、第23師団の共通の方針であった[248]。関東軍の作戦参謀らも「我の最も好機に敵が攻勢に転じたるものにして、この機会において敵を補足し得るものと信じたり」考えていたが、ソ連軍の総攻撃を「我の最も好機に敵が攻勢に転じたる」と思った理由が

  1. 第23師団正面の陣地は逐次強化され、相当の強度を有している。

  2. 満州軍興安軍に代わって指揮官が日本人である満州軍石蘭部隊が陣地防衛に参加したこと

  3. 第7師団の森田旅団(歩兵2個大隊、砲兵1個大隊)が戦場付近におり、速やかに戦闘に参加できる。

とのことであった[249]。しかし、陣地はソ連軍の妨害で工事進行度は3分の1、満州軍石蘭部隊はソ連軍の攻撃を受けるや日本人指揮官を殺害しソ連軍に降参し[250]、森田旅団程度の戦力の追加では焼け石に水であるなど、関東軍の情勢分析は実情と大きく乖離していた。そんな中で、ノモンハンから離れていた辻は、この反撃攻勢を重視していた関東軍司令官植田が「第6軍は不慣れであるから」と不安を感じていたため、急遽、参謀副長の矢野と一緒にノモンハンに派遣されることとなった[251]。ソ連軍の手強さを身に染みて思い知らされていた辻は、関東軍司令部の状況判断を見て「その戦場感覚は楽観的であった」と考えたが、第6軍の反転攻勢に対して異を唱えることはなかった[252]

辻はハイラルからロ式輸送機に搭乗して将軍廟にある第6軍司令部を目指したが、上空にはソ連軍の戦闘機が多数飛行しており、辻機は危うく撃墜されそうになったので、やむなく草原に不時着した。そこに通りかかったトラックに便乗して前進したが、跳梁しているソ連軍戦闘機はそれを見逃さず機銃掃射を加えてきた。辻らはトラックを降車して草原に伏せどうにか難を逃れたが、再び乗車して前進すると、今度はソ連軍戦車4~5輌を確認したので、トラックを捨て徒歩で第6軍司令部を目指した。ソ連軍の砲撃を潜りながら前進したが、道中には多数の日本軍の負傷兵が草原に横たわっていた。その中の1名の上等兵が辻の姿を見つけると「参謀殿!戦車に負けないような戦さをしてください」とか細い声で訴えてきた。辻は胸がしめつけられるような思いで「ああすまなかった」と上等兵に詫びている[253]

フイ高地攻防戦[編集]

ノモンハン事件でのソ連・モンゴル軍司令官、左からグリゴリー・シュテルンホルローギーン・チョイバルサンゲオルギー・ジューコフ

8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍北方軍の前進が始まると、日本側右翼(北側)の満州国軍は直ちに敗走し、これによりフイ高地の日本軍は孤立した。ジューコフの計画では「北方軍は一部兵力でフイ高地を遮断して、主力はノモンハンに向かって急進し、包囲環を形成する」であり、フイ高地は第7装甲車旅団で簡単に蹂躙できると考えていた。これはフイ高地を防衛する第23師団捜索隊(指揮官井置栄一中佐)の戦力を2個中隊程度の歩兵と過少評価していたからであるが[244]、井置捜索隊の実際の戦力は騎兵2個中隊(内1個は装甲車小隊を含む自動車化中隊)、歩兵2個中隊、歩兵砲1個中隊、工兵1個中隊、九四式三十七粍砲4門、山砲2門、重機関銃29丁であり、総兵員は約800名と連隊には達しないが、ソ連軍の推測よりは大きな兵力であった[254]

ノモンハン事件では日ソ両軍ともに偵察活動が不十分で、お互いに誤った情報による作戦ミスを犯しているが、ソ連軍は総攻撃の際も同じ轍を踏んでおり、攻撃に際しての偵察活動もお粗末であった。軍司令部は全く情報を持たなかったし、各部隊は日本軍に攻撃を悟られないよう偵察活動は禁止されていたので、ソ連軍は司令部から前線部隊までまともな情報を持たずに総攻撃を開始したことになった[244]。しかしシュテルンとジューコフは日本軍の前線の戦力を50,000名以上と、実際の2倍 - 6倍に過大に見積もり、その過大な推定に基づいて慎重な作戦計画を練ったため、不十分な偵察活動が原因となって全体的な作戦に大きな支障が生じることはなかった[255]。しかしフイ高地の井置捜索隊については、戦力の過少評価の他に、井置中佐の指揮の下で、高地全体が全周1.5 kmの全周囲陣地になり、コンクリートを使用した掩体壕など、陣地内を張り巡らされた壕で高地が要塞化されているとの情報も持たないまま強攻することとなってしまったため[244]。北方軍の兵員約6,000名、戦車200輌、装甲車123輌に対し、井置捜索隊は800名の少数の火砲しか無かったが、北方軍は大苦戦を強いられた。陣地攻略に絶大な威力を発揮する化学戦車を先頭に、ソ連兵は「ウラー」と喚声を上げながら突撃し塹壕に大量の手榴弾を投擲(とうてき)してきたが、塹壕を巧みに活用する日本兵により、陣地内の塹壕に化学戦車が擱座すると、日本兵が得意の白兵戦に持ち込み、ソ連兵を銃剣突撃で圧倒し大損害を与えて撃退するといった一進一退の攻防が20日の終日に渡って繰り広げられた[256]

北方軍が第601狙撃兵連隊連隊長スターク少佐戦死を含む大損害を出しながらも、フイ高地を突破できなかったことを知ったジューコフは、これ以上の作戦の遅れは容認できないと予備兵力全てをフイ高地攻略に投入することとした。それを知ったシュテルンがジューコフの下にやってきて「無理をせず一息入れて、2-3日かけて準備して再度攻撃せよ」と勧告したが、ジューコフは拒否し「戦争に犠牲はつきもの、特に頑強な日本軍相手であれば当然のこと、2〜3日も延期すれば、途方もない作戦遅延と損害を出す、貴方の勧告を受け入れたら損害は10倍にもなる」、「貴方の勧告が命令なら書面にしてほしい、もっともそんな命令書はモスクワが拒否するはず」と突っぱねた。この後にジューコフが手を回し、国防相のヴォロシーロフがシュテルンに何らかの助言を行い、シュテルンは勧告を取り下げている[257]。結局、その後の展開を見ればジューコフが正しかったのだが、シュテルンは納得しておらず、戦後に「予備部隊については、これは理解できない作戦である」と報告書に記述している[258]。これでシュテルンとジューコフの対立はさらに深まることとなった。

井置捜索隊はその後も善戦し、圧倒的なソ連軍を21日と22日の2日にわたって撃退した。ジューコフは井置の善戦を素直に「我々が想像した以上に頑強」と評価する一方で、北方軍の司令官であったシェフニコフ大佐の戦術に対しては「北方兵団長は、兵力の一部をもってフイ高地の日本軍を釘付けにするかたわら、主力をもって速やかに南方への進撃を続けないで、フイ高地に一連の攻撃を続行し、いずれも失敗した」と激しく批判したのち[259]、シュテルンの不興を無視して北方軍司令を解任した[260]、後任にはアレクセンコ大佐を司令官に任命し、予備部隊の212空挺旅団899名と第9装甲車旅団1,809名を追加投入して、猛攻を加えてきた。既に戦力差は10倍以上となっていたが、それでも井置捜索隊は弾薬尽きるまで戦い続けた。その頑強な抵抗は戦後にソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編纂した『大祖国戦争史(1941〜1945)』に記述されるぐらいであったが、24日には800名の兵員の内戦死182名、負傷183名で半分の兵員が死傷しており[261]、食糧・弾薬も尽きかけていた。24日昼に指揮官の井置は、各級指揮官を集めて今後の作戦を協議したが、部下からはこれ以上フイ高地を維持しようというどんな試みをやっても、半日しかもたないだろう。一旦撤退して、物資の補給を受けて戦力を補充しフイ高地の奪還を試みるべきという意見が出された。責任感から井置は拳銃で自決しようとしたが、部下に制止され撤退の命令を出すように懇願された[262]。井置には仮に脱出に成功しても、命令なくして退却したかどにより罪を咎められて、フイ高地でこのまま死ぬかわりに別の機会に死を選ぶことになるということは十分分かっていたが、生存しているわずかな部下将兵が、水不足により脱水症状で苦しんでいるのを見るのが耐え切れなくなっており[263]、24日の16時には日本軍としては殆ど前例がない独断での撤退命令を出した[264]。残存兵269名は奇跡的にソ連軍の重包囲を掻い潜り、オポネー山まで撤退した。散々ソ連軍を足止めし大損害を与え、「ジューコフが指揮官なら井置に勲章を授けていただろう優秀な指揮官」とも賞された[265]井置は、独断撤退を荻洲や小松原から責められ、ノモンハン戦停戦後9月16日に自決している。

日本軍の反撃[編集]

第6軍はソ連軍の猛攻撃の中で、反転攻勢に出るべく準備を進めていた。小松原は増援の第7師団森田旅団ができるだけ敵主力を引き付けている間に、第23師団主力が短距離でソ連軍の側面に回り込むという作戦を主張したが、安全策をとって東南東に大きく迂回してハルハ河まで追撃するとした第6軍案と真っ向から対立し8月21日を丸1日浪費してしまった。22日には砲兵団の畑少将も加わって激論を交わしたが、結局上部組織である第6軍の案が採用され、23日に各部隊に伝達された[266]

作戦計画によれば小林少将率いる歩兵第71、72の諸連隊を併せて右翼(北)を進み、森田少将率いる歩兵第26、28連隊が左翼(北)を進撃し、ソ連軍主力で南方から日本軍を包囲しようとしていた南方軍を逆に包囲する作戦を立てた。攻撃開始は翌24日と決められた。攻撃計画が決定した23日午後に関東軍司令部から派遣された辻が、道中ソ連軍戦闘機や砲撃により命からがら前線司令部にたどり着いたが、司令官の荻洲はウィスキーを飲んでいたところで、辻に「君一杯どうかね、明日の前祝に」と語りかけるなど余裕しゃくしゃくであった[253]。翌24日になって、攻撃参加予定部隊はすでにソ連軍の猛攻で防戦一方で、攻撃開始前に間に合った部隊は歩兵第72連隊と第28連隊の合計5個大隊であり、予定の9個大隊の半分に過ぎず、支援の砲兵の展開も間に合わないことが判明した。また攻撃開始直前には、フイ高地が全滅(実際は撤退)したことが知らされ、辻は「何たる幸先の悪さ」と考えたが[267]、悪いのは幸先ではなく、第6軍や第23師団が初めから戦況や敵状を無視して立てた無理な作戦計画そのものであった[268]

前線の指揮官や下士官の中にはこの攻撃が無茶ということは十分に認識した者も多く、第72連隊の平塚少尉が小倉第2大隊長へ「このままやったら全滅ですよ」と話しかけると、小倉は「おれもそう思う」と返事をしている[269]。攻撃は9時に開始となったが、戦車を含む重武装の第57狙撃師団第80連隊が守る780高地(ヤレ高地)に向かって白昼堂々と4-5 kmも突進するという近代戦では考えられない作戦で[270]、突撃を開始すると、ソ連軍の圧倒的な火力で日本兵はバタバタと倒された。それでも小林の右翼攻撃隊がソ連軍陣地に突入したのを、第23師団司令部は確認している。第23師団司令部も攻撃隊に続いて前進しようとしたが、ソ連軍戦闘機数十機が来襲し、その機銃掃射によりたちまち前進は停止させられて、戦闘機が去ると次は戦車10輌が司令部目指して突進してきた。師団長の小松原以下全員が覚悟を決めたとき、野砲1中隊が司令部を援護してソ連軍戦車を直接照準で砲撃して、たちまち4輌を撃破して撃退し小松原らは九死に一生を得た[271]

司令部が釘付けとなっていたとき、ようやく第一線との連絡がついたが「右一線は敵陣地に突入、戦車に蹂躙されて全滅に近い。小林旅団長行方不明、酒井連隊長重傷。大中隊長殆ど死傷」という悲報が入ってきた。小松原は小林を信頼しており「小林少将さえ健在なら必ず成功する」と期待を寄せていただけに小林の悲報を聞いて顔面蒼白となった[272]。8月24日のわずか1日で、第72連隊の損害は戦死324名、負傷377名にも上り、死傷率50%で連隊は壊滅状態に陥っていた[273]。一方攻撃を受けたソ連軍の損害は、公式戦史で死傷285名、戦車4両撃破と、日本軍の損害の3分の1とされているが[274]、この公式戦史は、実際に被った損害の約3分の1の記述とグラスノスチによるソ連軍公文書解析で判明しており、実際は日本軍と同じぐらいの損害を被っていた可能性もある[注釈 6]

右翼攻撃隊の戦況は司令部からは目視できなかったが、中隊長に率いられた40名の将兵が命からがら撤退してきたのを確認し、戦線が崩壊しつつあることが認識できた。その中隊長は司令部にいた辻を見つけると「参謀殿!右一線は全滅しました」と報告してきた。辻はその中隊長を「旅団長や連隊長や軍旗をほったらかして、それでも日本の軍人か」と叱責すると、自らその中隊長らを率いて小林らを救出することとした[275]。夜陰の中炎上しているソ連軍戦車を目印に辻らは前線に到着したが、右翼攻撃隊はすでに壊滅状態となっていた。辻はようやく、負傷している連隊長の酒井を見つけたが、酒井は「御覧の通りです。引き続いて攻撃をやれとの御命令ならば、明日もう一度突撃しますが恐らく1人も残りますまい」と報告してきた。小松原は明朝の攻撃を計画していたが、とてもそういう状況にはないことを認識した辻は「本夜まず全部の死傷者を後送した後、兵力をまとめて明払暁、師団司令部位置に集結すべし」という撤退の師団命令を独断で出した[276]。辻の命令により、右翼攻撃隊は負傷者を収容しながら後退したが、収容された負傷者の中には、ソ連軍戦車に両足を蹂躙される重傷を負った小林も含まれていた。辻には師団命令を出す権限はなく、越権行為であったが、小松原からその判断を感謝され不問にされている[273]。辻から独断の撤退命令を受けた酒井は、その後に収容された病院で責任を感じて自決している[277]

同時に攻撃した左翼の森田兵団も同様な展開で撃退された。小松原は攻撃を諦めず翌25日も攻撃を続行したが、今度は歩兵第28連隊にも5割近い損害が生じ、『ノモンハンでもっとも拙劣な作戦』と酷評された反転攻勢は大失敗に終わった[278]。この攻勢の失敗は単に日本軍が大損害を受けたに留まらず、戦力を抜かれて無駄に消耗した日本軍の防衛線を崩壊させるきっかけとなってしまった。シュルテンは後にこの日本軍の攻撃を「大喜びでおびき寄せたかった場所」に日本軍が自らはまりこんできたと評した[270]

ノロ高地攻防戦[編集]

ノロ高地での戦いなどで多数のソ連軍戦車・装甲車を撃破し活躍した九四式三十七粍砲

日本軍陣地の南翼に当たるハイラースティーン(ホルステン)川南岸は、ノロ高地を中心拠点として、その中心拠点を守る第8国境守備隊の長谷部支隊、歩兵第28連隊梶川大隊、歩兵第71連隊主力が配置されていた。7月20日にソ連軍の総攻撃が始まると、狙撃兵第82師団と同57師団を主力とする圧倒的なソ連軍と、747や757といった高地を巡って激しい争奪戦を繰り広げた。747高地には歩兵第71連隊第3大隊主力が進出していたが、化学戦車を先頭として、守る日本軍兵士が「黒山のような」と形容したほどのソ連軍歩兵の大群が何度も攻撃してきた。化学戦車はハルハ河西岸で日本軍歩兵に苦戦させられた経験により安易には日本軍陣地に近づかず、50 m離れた場所で一旦停止し火炎放射で攻撃してきたため、日本兵は化学戦車に肉薄すると手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけ、ソ連軍歩兵とは高地の至る所で白兵戦を展開し、2時間戦い続けようやく撃退している[279]。しかし、日本軍は弾薬・食糧も底をついたのに対し、ソ連軍は次から次と新戦力が攻め込んできて、7月22日には各拠点が包囲されたので、夜には一旦拠点を放棄し、翌23日に第71連隊は三角山とヒョウタン砂丘に集結したが、第3大隊は壊滅していた[280]

そこに第6軍司令部から、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命令が入ったが、第71連隊がハイラースティーン(ホルステン)川南岸から転進すると、ノロ高地を守っている長谷部支隊が孤立することになるため、師団司令部に意見具申したが回答はなく、やむなく森田連隊長は独断で第1大隊だけを転進させ主力(第2大隊と残存兵)はそのまま現地に残らせた。しかし、ただでさえ少なかった兵力が第1大隊の転出により各部隊の境界地域が手薄となってしまい、各拠点が孤立して戦うこととなった。8月22日にはノロ高地北翼に戦車18輌で攻め込んできたが、第1師団から派遣されていた岡崎速射砲中隊が迎撃し、速射砲と火炎瓶などを駆使し13輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた[281]。ソ連軍の部隊間の連携も拙く、8月23日に日本軍の退路遮断の命令を受けた第6戦車旅団のフローポフ上級中尉率いるBT-7中隊7輌を、第602狙撃兵連隊のグーセフ大尉が日本軍の戦車と誤認して、対戦車砲中隊に攻撃命令を出したが、命令を受けた中隊長のミガチョーフ少尉が本当に日本軍戦車という確信をもてなかったため、グーセフに命令を再確認したところ、日本軍戦車で間違いないとの回答があり、ミガチョーフは200mの至近距離で砲撃を命令、7輌全部を同士討ちで撃破し、フローポフ以下21名の戦車兵は全員戦死している[282]

ソ連軍は日本軍の抵抗が激しいと認識すると、確保した「蒙古山」と呼称されたノロ高地至近の砂丘に重砲や野砲を設置し、至近距離から直接照準でノロ高地の日本軍守備隊に集中砲撃を行った。またここでも化学戦車が活躍し、掩体や地下壕から現れた日本兵を焼き尽くした[283]。長谷部支隊の指揮下にあってノロ高地前面陣地を死守していた歩兵第28連隊の梶川大隊は、砲撃が終わった後に肉薄してきたソ連軍歩兵と、大隊長自ら銃を撃ち手榴弾を投擲するとこまで追い詰められながら何度もソ連軍を撃退し続けたが、弾薬と水が尽きかけている状況で、これ以上は持ち堪えられないと判断した大隊長の梶川は、支隊長の長谷部に暗に玉砕を申し出たが、拒否され「なるべく長く陣地を確保せよ」との命令が届いた[284]。命令を知った梶川大隊の将兵は、最後の突撃による玉砕を梶川に進言するが、梶川は「死ぬときはこの陣地で死のう」と部下を諭した[285]。この梶川大隊の勇戦敢闘は後にアメリカ陸軍戦史部英語版)のエドワード・ドレー博士から、「その勇気と頑強さはノモンハン戦では随一」と特筆されている[286]

ソ連軍は味方の砲撃や爆撃による同士討ちを避けるため、各部隊の最前線には赤旗を立てていたが、もはやその赤旗が梶川大隊の陣地やノロ高地の至る所に立っている末期的状況で[284]、25日には、猛攻を受け続けていた長谷部支隊主力も兵員の死傷率は70%に達していた。ノロ高地は完全に包囲されていたが、包囲したソ連軍は拡声器を使い盛んに日本語で降伏勧告を行ってきた。その降伏勧告の合間には日本兵の郷愁を誘うべく「佐渡おけさ」等の日本の歌も流された[287]。長谷部は一旦、敵陣地に玉砕覚悟で夜襲をかける気であったが、25日の21時には翻意し、全部隊に撤退命令を出した。この命令は苦闘する梶川にも伝えられたが、その頃には梶川に付き従う兵士はわずか6名になっていた[288]。26日の夜にソ連軍の目を逃れて暗闇の中でソ連軍の包囲網の突破を試みたが、1個大隊規模まで戦力が落ち込んでいた脱出部隊は、翌27日に第127狙撃兵連隊と第9装甲車旅団に発見され、蹴散らされた[282]。それでも長谷部残存部隊は8月28日に、増援として戦場に到着した第7師団の歩兵第25連隊と合流することができた。しかし、長谷部の行動はフイ高地を独断撤退した井置と同じであり、戦後に井置と同様に軍団長の萩洲と師団長の小松原から自決勧告され、9月20日に自決している。長谷部は部下に愛され尊敬された温厚篤実な指揮官であり、荻洲らに抗弁や恨み言をいうこともなく静かに運命を甘受した[289]

26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達すると、その東方で同様に苦闘していた歩兵第71連隊主力の命運も尽き、連隊長の森田がソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来事であった。第71連隊は第2大隊遠井大隊長が代行したが、第23師団からの命令で撤退したため、27日にはハイラースティーン(ホルステン)川南岸からは日本軍が駆逐され、残る日本軍の拠点は第23師団主力が守るバルシャガル高地(ソ連名レミゾフ高地)のみとなってしまった[290]

第23師団壊滅[編集]

残された日本軍最後の陣地はバルシャガル高地のみとなり、攻勢移転で多くの兵力を失っていた日本軍はこの高地を、第一次ノモンハン事件からこれまで最前線で戦い抜いた山県大佐率いる歩兵第64連隊と第7師団歩兵第26連隊の1個大隊で守っていた。またその後方では、7月25日からの砲撃戦でソ連軍に巨弾を浴びせた砲兵団主力が支援する形で配置されていた[291]。対するソ連軍は高地全周を、狙撃兵第601、第602、第603、第127、第293、第149、第24の7個連隊と、第5機関銃狙撃兵旅団、第9装甲車旅団で完全に包囲し、他の部隊は国境線まで進出し、日本軍の増援の進出を牽制した[292]

山県は兵力不足から、指揮下の4個大隊を単線式配備しかできず、後方に配置していたはずの重砲隊は、ソ連軍に包囲されたことにより最前線となってしまっていた。それで8月24日にソ連軍は日本軍陣地の攻撃を開始し、自分らの身を守る術がない重砲隊は、ソ連軍の戦車と歩兵に包囲された[293]。各重砲隊はそれでも簡単に全滅することはなく28日まで、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と渡り合った、重砲の巨弾が戦車に命中すると砲塔が吹き飛んだという[294]。野戦重砲第1連隊第2中隊長山崎昌来中尉は、敵の攻撃で負傷し顔面を血に染めながらも、部下を鼓舞して九六式十五糎榴弾砲の零分角射撃でソ連軍戦車の攻撃を何度も撃退。砲弾を撃ち尽くすと、砲の照準器を破壊しソ連軍戦車に最後の突撃をしようとしたところで、重砲の死角となる200 mまで近づいたソ連軍歩兵の狙撃を頭部に受け戦死した。その活躍により山崎はノモンハン事件で個人としては、関東軍による唯一の感状を授与されている[295]。重砲連隊も次々と壊滅していた。ムーリン重砲兵連隊は連隊長の染谷中佐が8月26日に観測所で自決し全滅、野戦重砲第1連隊の三島連隊長は負傷し後送、野戦重砲第7連隊の鷹司信熙連隊長は8月27日に残った重砲が1門となったため、第64連隊に合流しようとしたが、既に敵の包囲下で果たせず、残った砲の保守のために残置させた29名以外を陣地から脱出させた。破壊を免れた3台の乗用車に鷹司と2人の副官と負傷者を乗せて、後方の砲兵団司令部への戦況報告と再起を図るため後退したが、後にこの行為は無断脱出と看做され、謹慎を命じられ、停戦後には停職処分と男爵礼遇の停止の処分を下されている[296]

8月27日にはバルシャガル高地の歩兵第64連隊も風前の灯火となっていたが、このまま第23師団が全滅してしまっては、国際的に日本の大きな不名誉になると考えた小松原は手持ちの残存兵をかき集めてバルシャガル高地を救援することとした。合計の兵力は歩兵第71・72連隊の生存者を含め1,440名であったが、数万の兵力でバルシャガル高地を包囲するソ連軍の包囲を突破し高地まで達するのは極めて困難と思われ、第6軍は救援を止めるよう勧告したが、小松原は勧告を無視し自ら救援隊の指揮をとることとし28日に出撃した。一方第64連隊の山県は師団からの知らせで28日に救援部隊が到着すると認識していたが、第6軍の勧告などで出撃が遅れたため28日には到着しなかった。事情を知らない山県は小松原救援隊は敵の妨害によりもうバルシャガル高地には到着できないと判断し、唯一砲兵隊で指揮官が健在だった野砲第13連隊の伊勢高秀大佐と協議し、主力に合流するため29日午前2時に高地の脱出を命じた[287]。山県の命令で隷下の部隊は同時ではなく時間差を置いて後退しており、小松原直率の救援隊がバルシャガル高地に到着したときには既に山県と伊勢率いる主力は撤退済みであった。脱出した第64連隊主力はソ連軍に捕捉され、進退窮まった山県と伊勢は、ソ連軍の重囲下で軍旗を奉焼した後自決した[297]。ソ連軍は狙撃兵第24連隊を第64連隊が撤退したバルシャガル高地に進攻させ、日本軍残存兵が籠る陣地を一つ一つしらみつぶしに殲滅していったが、残存の日本兵も陣地から出撃して夜襲をかけるなど最後まで激しく抵抗し、28日深夜には日本軍戦車4輌、装甲車4輌を撃破する戦功をあげていた第6装甲車旅団司令官ビクター.アレクシェビチアミネフが戦死している。ソ連軍が日本軍の激しい抵抗を制し完全にバルシャガル高地を占領したのは31日となった[292]

山県らと入れ替わりでバルシャガル高地の左翼陣地に到達した小松原救援隊であったが、そのまま引き返すことなく陣地を構築し防衛態勢をとった。辻はその状況を知ると8月30日に第6軍司令部にかけつけたが、そこで司令官の荻洲が辻に「辻君、僕は小松原が死んでくれることを希望しているんだがどうかね君」と話しかけられたため、辻は憤然として荻洲に「軍の統帥とは師団長を見殺しにすることですか」とどなり、その後に第6軍の参謀らに「誰か若い参謀が決死隊を連れて師団長を救出して来い」と命じたが、これまでの第6軍幕僚と小松原の感情的なしこりから誰も反応しなかったため、辻は「よしっ、君たちが行かないのなら、俺が行く」と立ち上がるとようやく高級参謀の浜田大佐が自分が行くと名乗り出た[298]。しかし、敵の重囲下に小規模部隊を派遣しても損害が増えるばかりという結論に達し、救援隊の救援は出されず平文で軍による撤退命令を打電した。進退窮まっていた小松原救援隊は、30日夜に最後の突撃を行って玉砕することに決めて準備をしていたが、その時に第6軍から「突破帰還すべし」という撤退命令を受領したため、敵の重囲化の中を、軍刀を振りかざした小松原を先頭に400名の残存兵力で、5回も敵陣地を突撃で突破して、手榴弾で片足を吹き飛ばされた参謀長岡本徳三大佐(9月11日に病院で死亡)をはじめとする多数の負傷者を担ぎながら撤退に成功した[299]。31日午後2時すぎに小松原は将軍廟の第6軍司令部に到着し「多くの部下を殺し誠に申し訳ありません。死ぬべきであるとは思いましたが、御命令に接しまして敵を突破して帰りました。この上は師団を再建し必ず汚名を雪ぎます」と荻洲に報告した。そのとき荻洲はウィスキーを飲んで赤ら顔となっており、その様子を見ていた辻は「偉い将軍(小松原)だ。ケタ違いだ、新軍司令官(荻洲)とは…」と感心している[300]

小松原は撤退に成功したが、第23師団の損耗率は最大で78%にも達し文字通り全滅した。8月だけの死傷数も8,500名に達した[298]。一方力押ししたソ連軍の損害も大きく、ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告では死傷者数11,205名と日本軍を上回っているが、前述の通りワルターノフ大佐の報告はその後のロシア人研究家たちの調査により過少と判明しており[215]、実際はもっと大きな損害を被っていたと推定される。

独ソ不可侵条約[編集]

独ソ不可侵条約に署名するソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフの後ろで談笑するスターリンとドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

ノモンハンで戦闘が続く中、1939年8月23日、スターリンナチス・ドイツ独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、宇垣一成はその時の陸軍の様子を「驚天狼狽し憤慨し怨恨するなど、とりどりの形相」と記述している[301]。25日には平沼内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定。28日に平沼が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と声明し、総辞職した[302]

ナチス・ドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相は、独ソ不可侵条約締結のためモスクワに向かう前日に、日独軍事同盟を先頭に立って推進してきた大島浩駐独大使を呼び、独ソ不可侵条約を締結することを伝えた。面目を失い怒り心頭の大島に対しリッベントロップは、ノモンハン事件の仲介を申し出て、ゆくゆくは日本、ナチス・ドイツ、イタリアの三国同盟にソ連も加えて四国同盟に発展させたいとの構想を語っている[303]

ソ連軍総攻撃前の7月末には、日本政府は停戦を模索しており、東郷茂徳駐ソ特命全権大使に停戦交渉を指示していたが、土居明夫駐在武官からの「戦勝の裏付けがなければ見込みは薄い」との進言通り具体的な交渉には進めなかった[304]。ソ連も外交交渉による事件解決の希望を持っており、ソ連軍大攻勢開始直後の8月22日に、東郷が樺太の諸問題について協議するためソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理と会見した際に、ロゾフスキーから「日ソ国交の正常化はソ連も希望している」との話があり、東郷がそのためには国境諸問題(ノモンハンを示唆)を解決する必要があると力説したところ、ロゾフスキーは「日本側から具体的な申し出有ればソ連は検討する」と回答している[305]。しかし、ソ連軍の大攻勢で、戦勝どころか第23師団が壊滅状態に陥っていた状況下では、独ソ不可侵条約の締結は日本の立場をさらに弱いものとした。独ソ不可侵条約が締結された8月23日に、リッベントロップは大島との約束通り、スターリンに日ソの仲介を申し出たが、スターリンは戦局が有利に進んでいたことから「時には彼ら(日本)を厳しく取り扱わなければ」と拒絶はしなかったものの、即答を避けている[306]

戦局は不利であったのにも関わらず、依然関東軍の方も強気であり、独ソ不可侵条約の締結を受けて、8月27日に植田司令官名で『欧州情勢の変転に伴う時局処理対策』という意見書を作成し、わざわざ情報課長の磯村武亮大佐を参謀本部に説明のために派遣した[307]。その内容は「対ソ戦備を一層充実すると同時にノモンハン方面のソ連に対し徹底的に打撃を与えつつ、ドイツ、イタリアを利用し休戦を提議せしむると共に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、更に進んで日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋に於ける英国勢力を根本的に芟除して支那事変の処理を促進完成するを要す」と雄大だが、関東軍の権限を遥かに超える意見であり[308]、その前提条件となる「ソ連から休戦を申し込ませる」策として、「軍は既定方針に基づきノモンハン方面に於けるソ連に痛撃を与う、之がため、第2師団、第7師団、第23師団を戦場に使用」とソ連軍に一撃を加えて、外交交渉を有利に進めようというものであった[307]。参謀本部も、この時点では詳細な戦局を把握できていなかったこともあり、「一撃を加える」という方針では一致しており、関東軍がノモンハンに戦力を集中する穴埋めとして、第5師団、第14師団、重砲2個連隊、速射砲9個中隊、飛行59戦隊などの増援と大量のトラックを送ることを決定している[309]

停戦成立までの戦闘[編集]

関東軍は、ソ連軍の総攻撃に対し、8月26日に第7師団の主力をチチハルからノモンハンに増援として向かわせた。しかし関東軍は意外なほどに戦局を楽観視しており、日本軍最後の拠点バルシャガル高地がソ連軍の猛攻を受けていた8月26日には「ノモンハン方面の敵盲進のを捉え、一大鉄槌を加うる」、バルシャガル高地が事実上陥落した8月29日には「冬季前速やかに敵に徹底的打撃与うること絶対に必要」との認識で、第6軍に第2師団、第4師団、第1師団主力、第8師団の一部と関東軍の持つ全速射砲をつぎ込んで大攻勢を目論んでいた[310]

参謀本部は、戦局を関東軍を通して報告を受けていたので、実情を十分に把握できていなかったが、参謀本部第2部第5課(露西亜課)は独自のルートでノモンハンの戦況をつかみ、同課の甲谷悦男少佐から「ノモンハンは総崩れ」という報告がなされるなど[311]、8月29日頃には戦局はかなり厳しいということをようやく把握した。そのため、8月30日には方針を転換した『大陸命第343号』を起案し、趣旨説明に参謀次長の中島らが関東軍に出向いた[312]

参謀本部の意図は中島が持参した『大陸命第343号』の一項に書かれてあった通り「北方の平静を維持するにあり、之が為「ノモンハン」方面に於いては勉めて作戦を拡大することなく速やかに之が終結を策す」とノモンハン事件の早期収束であった[313]。この頃にノモンハンでの戦いを仕切っていた関東軍参謀の辻は、今までの経験により「戦法も改めねばならぬ、戦車と重砲と飛行機において我に数倍する敵に、従来のような原則的戦法では到底勝つ見込みはない」と考え、その新しい戦術として、前代未聞の3個師団もの大兵力による集中的な夜襲攻撃を考案していた[314]。ただしこの作戦は苦肉の策とも言えるもので、発案者の辻ですら「名案ではなく、これ以外に勝ち目はない」としていた。

参謀本部から関東軍を説得に来たはずの中島であったが、8月30日新京で行われた関東軍司令部と中島らの作戦会議で、関東軍司令官の植田、作戦課長の寺田から辻考案の3個師団夜襲作戦を説明されると、関東軍との融和を第一に考えていた中島は関東軍の作戦案に同意してしまう。その夜は祝宴が開かれたが、中島らと関東軍司令部は大いに打ち解け、辻も「これなら今度の攻勢は必ず成功するぞ。必勝を信ずる空気に満ちた」と当時の思いを回想している[315]。中島が丸め込まれたことを知った参謀本部作戦課長の稲田はすぐに次の手を打ち、「情勢に鑑み大本営は自今「ノモンハン」方面国境事件の自主的終結を企画す」「関東軍司令官は「ノモンハン」方面に於ける攻勢作戦を中止すべし」とより具体的で断定的となる『大陸命349号』を出した。前回丸め込まれた中島が、この命令を持参して9月4日に再度関東軍司令部を訪れ、命令と「大陸命に基き隠忍自重、他日の雪辱を期しよく上下を抑制して、時局の収拾に善処せんことを切望す」との参謀総長の言葉を植田に渡している[316]。中島の説明に植田と関東軍参謀長の磯谷廉介は「前命令からわずか4日しか経っておらず、戦況には何の変化もないのに、この急変は、なぜか」と激怒し詰め寄ったが、前回に懲りた中島は「大命です」の一点張りで突き通した。そこで植田は「戦場に残された遺体の収容をするための出撃だけはぜひ許可して欲しい」と懇願したが、中島は「それさえも、お許しにならないのが大命の趣旨です」と突っぱねた[317]。関東軍は「戦場整理」の名目で攻勢発動をする目論見であったが、中島はそれを見抜き拒み続けた。最後に植田は辞任もちらつかせ迫ったが、中島は「上司に伝えます」とだけ答えると、今回は新京に長居することなく半日の滞在で東京に引き揚げた[318]

参謀本部の頑なな態度に植田ら関東軍司令部もついに観念し、9月6日に植田の署名では最後となる関東軍命令『関作命第178号』が発せられ、ノモンハン方面での攻勢作戦は一切中止され、実質的にノモンハン事件は終わった[317]。しかし第6軍に関東軍から増援された各部隊は引き続き指定されたノモンハンの展開予定地に突き進んでおり、その第6軍に対して関東軍は「自重せらるると共に別命ある迄万一に応ずる作戦準備は依然継続」などと思わせぶりな指示を与えていたため[319]、この時点で、関東軍から多くの増援を得ていた第6軍司令荻洲は高揚していた。この時荻洲の指揮下には第23師団の残存の他に、第2、第4、第7師団と第1、第8師団の一部に重砲と全満州からかき集めた速射砲230門があり、総兵力は65,000名にもなっていた。ノモンハン戦に関する記述で、よく日本軍の参戦兵力として記述されるのが、この時点での兵力である[5]。さらに9月3日には、参謀本部が第5、第14師団などの増援を決定したという報告も受けていたが、その増援を加えると10万以上の規模に達するため、荻洲の気持ちはさらに高まり「速に敵に鉄槌的一撃を加え、国境鼠賊掃滅の蠢動を一挙に封殺し、皇軍の慰武を宣揚し以って大元帥(天皇)陛下の信倚に応え」と部隊に檄を飛ばしている。そんな司令官の高揚が全軍に伝播したのか、『関作命第178号』が第6軍の参謀に到着した際は、参謀長の藤本は一読するとポケットにねじ込み「当分のうちはこの電報は絶対に他に漏らしてはならぬ」と部下参謀に厳命している[320]

第6軍は、関東軍から派遣されていた島貫参謀の計画で、『関作命第178号』の発令前の9月4日に第2師団の第15旅団(旅団長片山省太郎少将)に997高地への夜襲を計画していたが、6日に一旦中止、しかし『関作命第178号』発令後の9月7日に、島貫が直接片山旅団の歩兵第16連隊(連隊長宮崎繁三郎大佐)に当初計画通り977高地への夜襲を命じた。宮崎連隊の夜襲時に977高地を防衛していたのは、狙撃兵603連隊とモンゴル兵の300名前後であったが、激戦の末、8日朝に977高地を占領[292]、さらに9日には第16連隊第2大隊(大隊長尾ノ山少佐)が隣接する904高地を占領した。同日の日中にソ連軍は、第6戦車旅団の戦車150輌を含む大部隊で逆襲してきたため、尾ノ山大隊と激戦が繰り広げられた。尾ノ山は軍刀を片手に先頭で「一歩も退くな」と部下を激励していたが、宮崎が連隊主力を引き連れて戦場に到達する前に戦局がひっ迫したため、自ら軍刀と火炎瓶を持って突撃、大隊の機関銃中隊長浅井大尉もそれに続いた。尾ノ上は手にした軍刀でソ連兵をたちまち3人斬って捨てると、火炎瓶を投擲し敵戦車を擱座させている。しかし、2個目の火炎瓶を投げた直後に敵の機銃弾を胸、腹、頭に3発受けて戦死した。それを見ていた浅井は、ソ連兵2名を軍刀で斬殺しながら尾ノ上に接近しようとしたが敵弾に倒れた。まもなく宮崎率いる連隊主力が到着、ソ連軍は尾ノ上大隊が守る904高地を全力で攻撃していたので、宮崎は率いてきた第3大隊にソ連軍の側面を攻撃するよう命令、同時に野砲と速射砲で猛射を浴びせて次々と敵戦車を撃破した。第2大隊の奮戦で苦戦していたソ連軍は、第16連隊を圧倒的に上回る戦力でありながら、日本軍の増援の出現に驚いて、戦車の残骸20輌、多数の武器や遺棄死体を残して撤退していった[321]。第16連隊は寡勢よく大敵を撃退したと旅団長の片山に称賛されたが、第2大隊は大隊長尾ノ上、中隊長浅井を含め168名の戦死者、第16連隊全体でも189名の戦死者を出すなど損害も大きかった[322]。やがて停戦が決まると、宮崎は部隊の石工出身の兵士に命じ、十数個の石に部隊名と日付を刻み付けて、占領地の地中に埋め込んだが、これが後の国境画定交渉で日本側の主張が通る大きな要因となり、第16連隊は「ノモンハン唯一の勝利部隊」と称賛された[323]

また、11日には独立守備隊歩兵第16大隊(大隊長深野時之助中佐)と独立守備隊15大隊黒崎中隊の日本軍合計400名が吹雪の中、1031高地(ハルハ山。ソ連側の呼称はマナ山)に進攻し、1031高地を防衛していたモンゴル軍騎兵第8師団22連隊(600名)を白兵戦で潰走させて占領した。モンゴル軍が退却した後には、遺棄死体22体、砲4門、数十頭の軍馬が残されていた。ノモンハン戦最後の戦いでの日本軍の快勝劇であり、責任を問われモンゴル軍騎兵第8師団22連隊のバダルチ連隊長は処刑されている[324]。その後、モンゴル軍の要請を受けたジューコフが奪還を準備していた9月15日に停戦となり、1031高地は最後まで日本軍が確保した。この1031高地占領のおかげで、停戦後の領土交渉の際に日本は、ソ連軍に占領されたハイラースティーン(ホルステン)川周辺の係争地とほぼ同じ面積 (500 km2) の広大な土地を確保することができた。

航空戦[編集]

第一次ノモンハン事件[編集]

ノモンハンで27機を撃墜した第11戦隊第1中隊長島田健二大尉の九七式戦闘機乙型(キ27乙)

ソ連軍のI-16戦闘機

航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153I-16であった。当初はソ連空軍に比べて日本軍操縦者(空中勤務者)の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、九七戦は運動性と最高速度に優れる)、ほぼ互角であった。ノモンハン事件勃発当初、サンベース基地及びタムスク基地に展開していたソ連空軍の各部隊の搭乗員は飛行時間の不足から練度が低く、特に戦闘機搭乗員の練度不足は著しかった。第70戦闘機連隊所属の搭乗員は平均飛行時間60~120時間程度で飛行経験に乏しかったうえ、空中戦に必要不可欠であった各機の連携に基づく戦技も習得していなかった。さらに保有航空機の充足率と稼働率の低さも深刻な問題でノモンハン事件勃発時点でのソ連空軍の航空機充足率は、第150混成爆撃機連隊で約74%程度、第70戦闘機連隊で約60%程度であり、爆撃機、戦闘機ともに大幅に不足していた。また第70戦闘機連隊における航空機の稼働率は約35%であった。こうした状況からソ連空軍は戦闘に耐えられる状態ではなかった。 そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、日本軍の圧倒的な勝利となった。 日本陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の操縦者達の活躍は目覚しく、20機以上撃墜のエース・パイロットが23名おり、中でもトップ・エースの篠原弘道は3カ月で58機撃墜を記録した。ノモンハンにおけるエースはほかに樫出勇岩橋譲三坂井菴西原五郎伊那明[325]などがいる。 優位な航空勢力を活用し戦況を有利に進めるべく関東軍は日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場(モンゴル語ではタムサグ・ボラク)の爆撃計画を立てた。しかし計画を事前に知った大本営中央は国境を越えた軍事行動であり事態の拡大を招来することに危惧し、自発的な計画の中止を打電。6月25日には大本営作戦参謀の有末次中佐を派遣し計画の翻意を図った。空爆計画の実行を強く願った関東軍は、有末中佐の到着以前の計画実行を決定。6月27日、関東軍はタムスク飛行場を重爆24機、軽爆6、戦闘機77の合計107機で実施、未帰還機4機という少ない被害により戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買うと同時に、空爆計画を関東軍の冒険主義であることを知らないソビエト・モンゴル側からすると大掛かりなアジア侵略を歌った『田中上奏文』の実現として認識された。

第二次ノモンハン事件[編集]

第二次ノモンハン事件に入るとソ連軍は航空兵力を大幅に増強した。1939年6月ハルハ河に派遣された22名のパイロットは日中戦争やスペイン内戦で豊富な戦闘経験を積んでおり、うち11名はソ連邦英雄勲章を授与された精鋭だった。パイロットだけでなく26人の熟練地上要員も派遣され、赤色空軍副司令官のヤーコフ・スムシュケヴィッチ中将が司令官に就任した。スムシュケヴィッチは増援部隊派遣による保有航空機の充足率・稼働率の向上と航空部隊運用施設の整備を急ピッチで進め、さらに監視・警報・連絡網を構築した早期警戒体制を確立した。熟練搭乗員による指導は、経験不足の若い搭乗員たちに空中戦のテクニックを付与して練度を著しく向上させたばかりか士気を高揚させた。 ソ連側は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、操縦者の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていたベテラン・パイロットを派遣し、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対し、操縦手背面に装甲板を装備したI-16によるロッテ戦法一撃離脱戦法で対抗し、これにより日本軍は開戦時の損耗率10:1から3:1となった[326]。 八月攻勢でもソ連空軍は戦場上空の制空戦闘のほか日本軍地上部隊への機銃掃射による対地攻撃をさかんに行った。攻勢中ソ連空軍は合計19,413ソーティの出撃を行ない、その内14,532ソーティが制空戦闘であり、3,216ソーティが地上部隊支援であった。ソ連空軍は航空優勢を獲得したのみならず対地攻撃の実施によって「ソ連版電撃戦」理論で示された地上部隊に対する砲兵部隊と緊密に連携した火力支援の一翼を担った。

損害と教訓[編集]

第一次と第二次を併せたソ連側損失は、日本側の発表では1,252機(戦闘機隊によるものは九七式戦闘機が1048機、九五式戦闘機が48機[327])- 1,340機[328]だった。陸軍は地上では負けていたものの航空戦は例外的勝利だと思い込んでいたふしがあり、その認識は戦後も消えなかった[329]。第24戦隊長だった梼原秀見少佐は「確実撃墜じつに1200機を越え、我が方の損害50機足らず...類例のない嘘のような事実」と揚言し、従軍記者の入江徳郎は1958年に発売した著作「ホロンバイルの荒鷲」で「空中戦では文字通り圧倒していた」と回想した[329]。しかし、1980年代以降には航空戦の実態が明らかとなっていき、飛行第11戦隊所属の滝山和大尉が「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は劣勢」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と証言した[329]。またソビエト連邦の崩壊直前に訂正された数字によりソ連側の損失は定説よりはるかに少ない251機(うち非戦闘損失43機)航空兵戦死・行方不明159名、戦傷102名[330]と判明。一方、日本機の損害は記録によると大中破も合わせて157機(未帰還および全損は64機、うち九七戦は51機で戦死は53名)で最終的な損耗率は60%、最後には補給が追い付かず九七戦の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至っていた。 これらの戦訓から陸軍は航空機の地上戦での有効性と損耗の激しさを知り、一定以上の数を揃える必要性を痛感した。 陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日に関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の八八式七糎野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七戦での要撃も容易ではなく大いに悩まされた[要出典]が、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。 戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機をはじめ多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の偽装を見抜けずに、動静を見誤って度々ソ連軍の後退を伝える誤報を流すなどして[要出典]、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。

停戦以後[編集]

停戦協定[編集]

一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、9月14日から日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。だが、ソ連側は有利に戦争を進めており、強硬な姿勢で交渉に臨んでいた。東郷の「5月1日以前への原状復帰での停戦」の主張に対してモロトフは「モンゴルの主張する国境線から日本軍は退去すべき」と譲らず、一時、東郷は交渉が破局すると覚悟した[331]。東郷は停戦交渉に失敗すれば全面戦争に発展する可能性が高いことを危惧し、また停戦交渉を纏めたとしても現地の関東軍がそれを守るのかどうかに懸念を持っていた。そのため、6月21日の時点で本省から停戦交渉に関する訓令が出ていたにも関わらず、関東軍が自ら戦いを止めたいとする意思表示――すなわち停戦命令を発してから停戦交渉を本格化させることになった[注釈 7][332]。その頃に、モスクワに前線方面軍司令シュテルンから、日本軍が4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の報復に出るべく準備を進めているとの報告が挙がっており[333]、ソ連側は日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見て、かなり長期の消耗戦になると懸念していた。

ソ連はこの後にナチス・ドイツとの密約によるポーランド侵攻を計画しており、ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要があった[334]。当時のソ連はポーランド侵攻の密約の他にも、フィンランドトルコへの進出を計画しており、各地で頻発する紛争事件を抱えてモロトフは疲労困憊(こんぱい)していた。

モロトフの疲労を見透かした東郷はそれをつけめに徹底的に粘っている。そんな東郷にモロトフはうんざりして「私は職務上とにかく多くの人と会ってきたが、君のように屁理屈をならべ、ああでもないという人間に出会ったのは初めてだ」と不機嫌そうに言うと、東郷も「私も長い間、世界中を回っているが、君のようにわけのわからない人間を見るのは初めてだ」と言い返すなど、東郷の熟練した交渉術により、交渉の主導権を渡さなかった。東郷が出した「双方とも現在占拠している線で停戦」との譲歩案にモロトフは「我々は勝っているのに、なんで譲歩せなばならないのか」と不平をもらしつつも、態度を軟化させて同意、その後スターリンの執務室に向かい、スターリンからの決裁を得て9月15日に停戦合意に至った[335]

合意の中で、現時点での占拠点で両軍とも停戦し、後日、ソ連側代表2名と満州国側代表2名で国境画定委員会を組織し、国境の線引きを行うと決められた[336]。東郷は不利な戦況の下でどうにか合意に至らせたことを喜び、モロトフとの交渉を終え大使館に帰ってくると、土居明夫駐在武官とシャンパンで祝杯を挙げ、「やっと妥結した、五分五分と言いたいが、向う6、こっちが4だ」と喜んだ。しかし妥結した2日後の9月17日にソビエト連邦によるポーランド侵攻が開始されたことを聞きつけると、土居は「しまった、あと、2〜3日粘っていたら、焦りからソ連側はもっと譲歩したかもしれない」と悔やんでいる[337]

国境画定交渉[編集]

満州国とモンゴルの境界線の目印となっていたオボー

停戦の合意に基づき9月24日から30日までソ連軍占領区域での日本軍の遺体収容作業が行われた。日本軍は100名一組の遺体回収部隊10個を投入し、合計で6,281名の遺体を収容した。日本軍側からは埋葬していたソ連兵の遺体38名が引き渡された[338]。互いの捕虜交換も9月下旬と1940年の4月の2回にわたって実施され、日本軍164名、ソ連・モンゴル兵89名の捕虜が交換された[339]

満蒙国境画定会議は1939年11月から1940年1月30日までチタで8回、ハルビン市で8回行われた。ソ連・モンゴルの主張しているノモンハン地域での境界は、朝の行政区界を継承した従来からの満州国の境界ほぼ同じであり、相手側の主張を受け入れても決して負けたことにはならず不名誉ではないとする満州国側(といっても満州国外交部の日本人)の主張に対し、関東軍は「将兵が多数倒れた戦場をソ連軍が占領しているのを認めることはできない」と交渉決裂も辞さないとの強硬な姿勢であったが、満州国代表として会議に参加していた満州国外交部政務司長亀山一二(日本外務省から出向)が関東軍の代表三品隆以少佐を説き伏せ、ソ連側の主張を容れることとし、調印を行うところまでこぎつけた[340]

しかし調印当日になって、ソ連・モンゴル代表団がモスクワから交渉中止の指示があったとのことで帰国してしまった。しかし、会議の全権代表であった亀山が太平洋戦争後に語ったところによると、関東軍参謀を更迭されていた辻が、交渉を妨害しようと白系ロシア人を使ってソ連・モンゴル代表団に対し殺害予告を行い、代表団がおびえて帰国したとのことであるが[341]、真相は不明である。

2回目の会議は1940年3月5日からモスクワで開催された。東郷とモロトフの間でソ連軍参謀本部が発行した20万分の1の地図により協議が進められ、6月9日に大筋合意できたため、9月から現地での測量による詳細な確定作業に入った。しかし目印に乏しい草原と砂丘ばかりの土地で、モスクワでの協議で国境線の目印とされたのがノムンハーネイ・ブルド・オボーをはじめとするオボーであったが、土地に定着するものではないため、既に存在しないものも多く、国境線画定には大変な労力を要した[342]。この時もノモンハン以北の地区では、引き続きソ連・モンゴル側の姿勢はかたくなで、特にモンゴル代表のスミルノフが「モンゴル兵の鮮血に依り彩られたこれ等砂丘は一歩なりとも譲らぬ。以後は日満委員らの立ち入りを禁ずる」と一方的に通告し、激怒した日本代表団が会議場から退出してしまったため、第1回の会議と同様に物別れに終わり、交渉は中断してしまった[343]。この現地調査の時に、満州国代表団の1人北川四郎は、ソ連側がバルガとハルハの旧境界線を極めて忠実に遵守していることに気が付いたが、ノモンハン戦末期であれば、ソ連軍は壊滅した第23師団を追って、満州国領内まで進撃することは十分であったのに、それを行っていなかったことに驚かされている[344]

日本代表団は、ソ連側がノモンハン以北に強く拘っているのに対し、停戦前に日本軍が確保した南部のハンダガヤ - アルシャン地区については、日本軍の占領が既成事実化しており、さほど固執していないと判断し、中北部で譲歩する代わりに南部で埋め合わせることとした[345]。特に関東軍は南部アルシャン地区の防衛のため、国境線とされていた南部ハロン・アルシャン地区山岳地帯の稜線ではなく、稜線よりモンゴル側に入り込んだ国境線としたいと考えており、代表団に軍の主張を譲らないようにという指示があった。そこで北川は一計を講じ、南部に展開していた第7師団師団長に、稜線上の2拠点1401高地と1340高地の占領を提案したところ、師団長も同意見であり、さっそく同高地を占領した。その後ソ連軍も偵察にきて高地を占拠する日本軍と小競り合いになったが、日本軍は高地を譲ることはなかった。日本代表団はソ連とモンゴルからの抗議を覚悟していたが、最後まで抗議を受けることなく、北川の目論見通り、稜線をモンゴル側に2kmも入り込んだところに国境線を設定することができ、満州国は得をすることになった[346]

その後、一旦中断した国境画定会議は、1941年4月の日ソ中立条約の締結により再開されることとなったが、条約締結によりソ連の姿勢もかなり軟化していた。これまでは未測量部分のあるソ連軍の20万分の1の地図にて国境画定作業を行ってきたが、より精密な関東軍の10万分の1の地図を使用することをソ連側は同意し、またモンゴル側による、国境線や屈折点の目印としてオボーを利用するという主張に対しても、オボーは永久に定着するものではないため、日本側の主張により、オボーの代わりに石柱と標識目柱を設置し、国境線や屈折点の目印とすることとした。さらに、ナチス・ドイツがソ連に攻め込むと(独ソ戦)、ソ連は極東の国境画定に関わる余裕を失い、ほぼ日本側の主張に従い作業が進んでいった[347]。そして、ノモンハン以北は満州国外交部の調査通りに従来の国境線(停戦時のソ連軍の占領地とほぼ同じ)で、南方のハンダガヤ地区は停戦前に日本軍が確保した土地は満州国領土とする、満州国に有利な総合議定書が1941年10月15日にハルビンにおいて調印された[348]。モンゴルはこの交渉により1,140 km2を領土を失ったと悔やんでおり、ノモンハン戦を領土の争奪の視点から評価すると、日本側の勝利とする意見もある[349]

日本の事後処理[編集]

関東軍の中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいないという強気な空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」[350]、更迭された中島の後任の沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来の大敗戦、国軍未曽有の不祥事」[351]、更迭された作戦課長の稲田は「莫大な死傷、敗戦の汚点」[352]などと敗戦意識が強く、その責任を追及する方針となった。特に関東軍司令官の植田については、タムスク空爆の際に独断で越境した罪で、昭和天皇は何らかの処分を求めていた。それは、昭和天皇の指名により阿部内閣の陸相となった畑も「明らかに越権行為にて一の大権干犯と見ざるを得ず。当然関東軍司令官の責任なり」と昭和天皇の意向を汲んで植田を激しく非難するなど、同じ思いであった[353]。植田自身も「全責任は軍司令官たる植田に存す」と考えていたため[354]まずは9月7日付で植田を司令官から解任し、ほぼ同時に関東軍の作戦参謀らも解任した。

ノモンハン事件の後処理を任された沢田茂は陸軍省、参謀本部、関東軍から事情聴取を行うと、事件を主導した関東軍だけではなく、陸軍中枢の責任を負うべきとした。その主要な論点は下記の通りである[355]

  1. 事件発生には直接の責任者なし。

  2. 事件拡大は主に関東軍に責任あり、参謀本部の責任は従である。

  3. タムスク爆撃、ハルハ河渡河攻撃などの独断越境攻撃は関東軍に責任あるが、当時現地で観戦しながら黙認した参謀本部第一部長橋本群中将にも責任あり。

  4. 所要に満たない兵力を逐次投入して敗れた責任は関東軍に重く、第6軍と第23師団の責任は軽い。

  5. 関東軍の下級参謀に押され勇断を欠いた参謀本部の参謀次長中島中将の責任は重い。

  6. 関東軍の責任は司令官にのみあるものではなく、下級幕僚らも責任は逃れられない。植田司令官と磯谷参謀長に重大な責任を負わせるが、下級幕僚にも左遷的な異動処分を実施する。

  7. 陸軍省の責任は統帥権独立の立場から、ないものと判断。

この原案に基づき沢田が考案した人事処分案は陸軍省人事局長、陸軍三長官の裁可を受け、昭和天皇にも上奏され、決定となった。下記の通り、事件拡大を図った関東軍とそれを不十分ながら抑えようとした参謀本部双方が処分を受けており、言わば“喧嘩両成敗”を念頭に置いた人事となっている[356]

(関東軍将官・参謀の処分)役職氏名階級処分関東軍司令官植田謙吉大将解任、1939年12月1日予備役関東軍参謀長磯谷廉介中将解任、1939年12月1日予備役第6軍司令官荻洲立兵中将進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役第23師団長小松原道太郎中将進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役、同年10月6日病死野戦重砲第3旅団長畑勇三郎少将進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役歩兵第14旅団長森田範正少将解任、1939年12月20日予備役関東軍参謀副長矢野音三郎少将1939年12月1日鎮海湾要塞司令官に左遷関東軍作戦参謀寺田雅夫大佐1939年10月26日千葉陸軍戦車学校教官に左遷関東軍作戦参謀服部卓四郎中佐1939年9月6日陸軍歩兵学校教官に左遷関東軍作戦参謀辻政信少佐1939年9月7日第11軍司令部付に左遷関東軍作戦参謀島貫武治少佐1939年9月8日陸軍大学校教官に左遷

(参謀本部の処分)役職氏名階級処分参謀次長中島鉄蔵中将解任、1939年12月1日予備役参謀本部第1部長橋本群中将解任、1939年12月1日予備役参謀本部作戦課長稲田正純大佐1939年11月10日陸軍習志野学校教官に左遷

しかし、この処分案ではいくつかの議論が生じていた。その中で大きな論点となったのは下記の3点であった[357]

  • 閑院宮参謀総長の責任問題

    • 現場の責任者植田が更迭された以上、参謀総長にも敗戦の責任を問うべきとの意見もあったが、皇族で、なおかつ74歳の高齢でお飾り的な存在であるのに責任を問うのは酷だという意見も出て、自発的な辞任を打診したが、結局引責辞任することなく1940年10月まで留まった[358]

  • 辻関東軍参謀の処置

    • 関東軍参謀の末席に過ぎなかった辻がノモンハン戦を主導し、「事実上の関東軍司令官」とまで言われた事情は、参謀本部も十分把握していた。作戦課長稲田と第6軍司令官荻洲は免官にしろとの要望を出し、陸軍省の野田人事局長は予備役が相当と判定したが、以前も辻を擁護していた参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望な人物」という陳情が聞き入れられ、左遷的異動で済まされた[359]。元陸相の板垣を初め、辻の個性と能力を高く買っている陸軍有力者が多かったことが辻を救った形となった。辻は、一旦は第11軍司令部付の閑職に左遷されたが、1941年7月には参謀本部作戦課に栄転し進級している[360]。辻と同様に懲罰的な左遷をされた服部も、一足先に参謀本部作戦課長に就任しており、この事件の実質的な責任者として懲罰的な左遷となった関東軍の作戦参謀の多くはその後、中央部の要職に就き、対英米戦を主導したと、遠山茂樹らは主張している[361]

  • 部隊指揮官らの責任追及

    • 畑陸相ら陸軍中枢では「第一線には責任なし。第一線はよく戦った。罪は中央と関東軍司令部とにある」とし、当初は第6軍の荻洲司令官や第23師団の小松原師団長らも不問とされる方向性であったが、小松原が「一時自決まで考えたが、その機を逸した。全ての責任を受ける覚悟である」と沢田に言ったように[354]荻洲と小松原と砲兵団長の畑は責任を感じて自ら進退伺を提出したため、受理されて予備役編入となった。

    • ノモンハン戦の特徴として、ソ連軍の重囲下で、死傷者が累積し弾薬や食糧も尽きた部隊の「無断撤退」が相次いだことが挙げられる[362]。敗戦体験に乏しい日本陸軍には予想もできなかった現象であり、参考になる前例が殆どなかった。自らの責任を取ると言って進退伺を出した荻洲と小松原であったが、陸軍刑法第43条に則してこの「無断撤退」を徹底的に追及しようと考えていた。師団長級以上の将官級の賞罰については、陸相が決定し天皇の意向も打診しなければならなかったが、連隊長級の部隊指揮官の賞罰については、陸軍懲罰令により軍司令官・師団長の権限と定められており、荻洲や小松原の意向により厳しい処分となった[363]。小松原が「無断撤退」に対して強く拘った背景には、第一次ノモンハン事件の際に、部隊が敵中で孤立したため、隊付の師団参謀が撤退の進言を行ったのに対し、未だ連隊からの撤退命令が届いていなかったため、陣地から後退せず玉砕した東捜索隊の東中佐に対し「命令なき以上は撤退せずと動じなかったのは敬服に価す」と日記に書いたほど強い印象を持っていたことや[364]、壊滅した連隊の連隊長の多くが戦場で戦死したり、下記の通り自決したりしていることが影響しているものと思われる。

    • 小松原は特にフイ高地を無断撤退した井置中佐とノロ高地を無断撤退した長谷部大佐を特に槍玉に挙げて「両者とも火砲、重火器破壊せられ弾薬欠乏、守地を守るに戦力なきを理由とするならんも、これは理由となすに足らず」と、撤退を余儀なくされた状況への配慮は全くなく、両名を軍法会議にかけようと決意していた[365]。しかし、軍司令官の荻洲の意向により軍法会議は開廷されなかったため、小松原は両名に対し、軍法会議であれば死刑相当の罪であるから自決勧告を行うこととし、荻洲も了承した[366]。小松原は、井置の処置に関しての第23師団幕僚による会議を開いたが、扇広参謀や木村松治郎 参謀が「何とか憐憫の情を」と訴えるも最初から結論ありきで、小松原の強い意向により自決勧告が行われた[367]。井置は師団を代表した同期の高橋浩亮騎兵中佐から師団の決定を伝えられると「謹んでお受けする」と答えて、9月17日未明に拳銃で自決した。その知らせを聞いた小松原は「井置中佐の処分は陸軍刑法にて行った。もし自決しなければ軍法会議にかかり銃殺は当然。これを戦死と認め、靖国神社に祀ることは許されない」と言い放ち「戦病死」と関東軍に報告して進級を認めなかった[368]。井置については関東軍参謀の辻も戦場からの報告を関東軍司令部に行った際に「フイ高地は八百の兵力中三百の死傷を生ぜしのみにして、守地を棄てたるに対して謝罪の字句の無きを知り」と激しく非難し[369]、軍法会議にかけるべきという主張をしていた[370]。また、長谷部については詳細な経緯は不明であるが、荻洲と小松原に自決勧告され、抗弁することもなく9月20日に拳銃にて自決している。井置と長谷部の自決勧告については、小松原は陸軍刑法に則ったと主張しているが、軍法会議にもよらない私刑であり、本来ならば井置らが受ける必要はなかったと戦後に元参謀の扇は指摘しているが、両名とも覚悟の上で勧告を受け入れている[371]。但し、ノモンハン事件に際し、部隊指揮官級で自決勧告を受けて自決したのはこの2名のみであり、自分の意思で自決し、小松原が「痛惜此の上なし」とその死を悔やみ、ノモンハン事件に関して唯一となる師団としての感状を授与し、少将への進級を許可した歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐を自決勧告されたとしたり[372][373]、ほとんどの連隊長が自決に追い込まれた[374]などと言われることも多いが事実誤認である。

    • 自決勧告の他に下記の表の通り多くの部隊指揮官級を更迭ないし左遷している。ノモンハン事件で唯一懲戒免官処分に付されたのが野戦重砲第1連隊中隊長の土屋正一大尉であった。この免官は査問も軍法会議もなく唐突に命じられたものであったが、法的根拠を欠く自決勧告と異なり、内閣の発令で首相が決済し、『官報』にも記載された合法的なもので、陸相から首相に対する説明では、「砲と運命を共にするという砲兵精神を欠き、密かに掩蔽部に隠れ、敵の監視が緩んだのに乗じて師団主力の位置まで無断撤退した」というものであった[375]。この他にも、兵士の服に着替えて地下足袋姿で戦場を離脱したと風聞が流れた野戦重砲第7連隊長の鷹司信熙らが[376]、将官や参謀らと同様に予備役に編入させられたり懲罰的な左遷を受けたが、中には歩兵第26連隊長の須見のように、独断撤退をしたわけでもないのに、師団長に意見具申を行ったことを不服従と認定され予備役編入となった者もあった[363]。更迭や左遷の人事異動については、軍司令官や師団長が陸軍中央に異動を上申するという手続きを踏むため、これらの処分については陸軍中央も了承していたことになる。陸軍人事当局の目論見は、進退伺を受理し退任が決定している「敗軍の将」荻洲と小松原に「汚れ役」をやらせて、必要に応じて修正するのが好都合と考えていたので、両名の好きなようにやらせていた[377]

(関東軍の部隊指揮官の処分)役職氏名階級問われた罪状処分野戦重砲第7連隊長鷹司信熙大佐無断撤退解任、1939年12月1日予備役、華族礼遇廃止歩兵第26連隊長須見新一郎大佐命令不服従解任、1939年12月30日予備役第一独立守備隊歩兵第6大隊四ツ谷巌中佐無断撤退解任、1939年12月20日予備役64連隊大隊長赤井豊三郎中佐無断撤退1939年11月15日青森連隊区司令部に左遷長谷部支隊大隊長杉谷良夫中佐無断撤退1939年11月15日神戸連隊区司令部に左遷砲兵第13連隊大隊長松友秀雄少佐無断撤退謹慎後解任、1939年12月20日予備役野戦重砲第1連隊中隊長土屋正一大尉無断撤退1939年12月15日免官、ノモンハン事件に関する処分で唯一、軍人の身分を失った。内閣の発令で『官報』にも記載された。

(自決した部隊指揮官)役職氏名階級自決の状況歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐1939年9月15日入院していたチチハル病院で責任を感じて自決。小松原師団長から唯一の部隊感状を授与され、戦死扱いで少将に進級。辻もその死を悼んでいる。歩兵第64連隊長山県武光大佐1939年8月29日、バルシャガル高地から撤退中にソ連軍に包囲され自決。戦死扱いで少将に進級。野砲第13連隊長伊勢高秀大佐同上長谷部支隊長長谷部理叡大佐ノロ高地からの無断撤退を第6軍司令荻洲と第23師団長小松原に責められ、1939年9月20日自決。第23師団井置捜索隊長井置栄一中佐フイ高地からの無断撤退について、師団長の小松原の強い意志で第23師団から自決勧告を受け、1939年9月17日自決。ムーリン重砲連隊長染谷義雄中佐バルシャガル高地でソ連軍に包囲され、1939年8月26日割腹自決。飛行第1戦隊戦隊長原田文男少佐1939年7月29日初出撃で撃墜され捕虜。のち1940年5月の第二次捕虜交換後に自らの意思で自決。

被撃墜日時1939年7月29日の戦死扱いは変更されず[378]

捕虜に対する処置[編集]

日本軍に投降するソ連軍戦車BT-5、白い布を持っている戦車兵A・I・ゲラジモフは捕虜交換で帰国後、懲役10年の刑を受けた。

日本軍は、戦後の捕虜交換で204名(うち満州軍44名)が生還しているが、ソ連軍の記録によれば捕虜は566名であり、捕虜交換で生還しなかった者の消息は不明である[13]

日本ではまだ「生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ」の一文で有名な『戦陣訓』の示達前であり、捕虜になることに対して陸軍刑法などでの法的裏付けも明文化された規則もなかったが、ノモンハン事件の捕虜に関しては1939年9月30日付の『陸満密845号』において陸相命で「捕虜すべて犯罪者と見なして捜査して、有罪と認めたる者を之を起訴すべし」という厳しい方針が示された[379]。しかし、一部将校については軍法会議にもかけられず自決勧告がなされた。乗機を撃墜されて捕虜となった飛行第1戦隊長の原田文男少佐はモスクワに連行されて「日ソは協力して南方に進出すべきだ、ソ連はインド・イランへ向かい、日本は英国を駆逐する」などとソ連側に意見書を提出したりしたが、捕虜交換で日本に帰ると、同じく捕虜となって帰国した飛行第11戦隊の大徳直行中尉と自決勧告を受けた。若い大徳は「撃墜されて人事不省で捕虜になったのだから恥じる必要はない。再起してもう一度戦いたい」と抵抗したが、原田が説き伏せて2名とも自決している[380]。捕虜の中には飛行第11戦隊の天野逸平中尉のように、身柄送還を拒否してソ連空軍に入隊し、独ソ戦を戦った可能性のある捕虜もいた[380]

しかし表面上は捕虜を犯罪者とみなすという方針をあからさまにすることはなく、捕虜交換委員長であった第6軍参謀長の藤本鉄熊少将は、捕虜を受領したマツエフスカの駅前で「諸子は万策尽きて敵手に落ちたもの、軍人として誠に同情に堪えない。"帰還傷病兵"待遇をもって取り扱われるから決して軽挙妄動してはならない。今夜からは枕を高く、安心して、ゆっくり寝てくれ。長い間さぞかし辛かったことだろう。ご苦労だった」と捕虜を前にして涙ながらに労ったが、藤本の言葉に反して捕虜への対応は過酷であり、捕虜たちはそのまま吉林近くの陸軍病院に監禁されると、そのまま健常な者は一部屋に約50人が詰め込まれて、憲兵の監視下に置かれた[381]。約半月経ってから、関東軍司令部から特設軍法会議が病院に乗り込んできて主に将校が裁判に付され、中には拳銃を渡されて自決を強要された将校もいたという[382]。これら軍法会議での罪状はこじつけで「敵前逃亡」とされ、下士官や兵については有罪になれば教化隊で服役させ、不起訴か無罪となった者についても陸軍懲罰令により懲戒したのち、日本本土外に移住するように斡旋するといった念の入れようであった[383]。軍法会議の判決は重謹慎2日から懲役2年6カ月まで幅があったが、死刑はなかった[380]

ソ連側の捕虜に対する対応も日本側と変わらず、スターリンは独ソ戦の際に「投降者は家族も反逆者として逮捕する」と指令を出し[384]、ドイツ軍の捕虜となった自分の息子ヤーコフ・ジュガシヴィリを見捨てたぐらい捕虜に厳しく、ソ連軍各部隊も個別に捕虜になることを禁じた訓示を制定しており、ジューコフも同様の指示を出していた[385]。そのため帰国した捕虜らも軍法会議で処罰されており、1939年7月に日本の新聞に掲載されたソ連軍の戦車の投降する写真で、写っていた戦車兵らは帰国すると10年 - 8年の間ラーゲリに送られている[386]。そのため、ソ連軍側でも日本軍と同様に捕虜になることを恐れて多くの将兵が自決しており、日本軍もその光景を目撃している[387]

情報管理[編集]

ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データ化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。太平洋戦争開戦後の1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している[388]

事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった[389]。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判るような表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった[390]

しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった[391]。この中で最も多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた[392]

また、満州で事業を展開していた日本の建設業などの事業者には情報が筒抜けだったようであり、ハルハ河渡河戦に失敗後、司令部に戦況を報告するためハイラルに立ち寄った関東軍参謀の辻は、兵站宿舎で休憩していたところ、隣室で建設業者らが酒で酩酊しながら「軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨てておる、阿呆な奴じゃ」と大声で騒いでいるのを聞くや激高し、その部屋に乗り込むと、建設業者ら数名を殴り倒している[393]

情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった[394]。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた[395]

その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた[9]。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争旅順攻囲戦並みの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている[394]。さらに『朝日新聞』は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった[396]

この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の「愛児を失った父親」からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に…戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている[397]

その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年、硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺える[398]

既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り[399]、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。

ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが[400]、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。

事件の影響[編集]

日本[編集]

ノモンハン事件の停戦後も、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況で、日ソの外交交渉が行われた。1941年4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国および満州国の領土保全が定められ、一連の日ソ国境紛争は終結。日本とソ連はモンゴル人民共和国満州国を相互に実質的に承認した。

日本軍首脳部は、ノモンハン事件での大敗で、ソ連の実力を侮りがたいものとして評価した。これにより、ソ連を仮想敵とする北進論は鳴りを潜め、アメリカイギリスとの対決を覚悟して南方に進出すべきとする南進論に力を与えることとなった。しかし、1941年6月22日に独ソ戦が開始されると、日本もソ連との開戦を準備すべきという方針に再び転換し、特に日独伊三国同盟を主導した松岡洋右外務大臣が熱心に対ソ即時開戦・南進中止論を主張している[401]。ただし、赤軍の実力を思い知らされた陸軍は対ソ開戦には慎重な態度を崩さず、開戦の条件は「極東ソ連軍の総合戦力半減」が前提であった[402]。陸軍参謀本部は、6月26日に対ソ開戦に伴う準備を「関東軍特種演習(関特演)」と呼称することに決めた。しかし、陸軍の意見は決して統一はされておらず、同じドイツと呼応する目的でも、ソ連を攻撃するのではなく、早急にイギリスを攻撃し、東南アジアの拠点であるシンガポールを攻略すべしとする駐ドイツ大使の大島や、親独の陸軍高官らの南進主張もあって、方針は容易には決まらなかった[403]。そのため動員規模も、田中新一参謀本部第一部長が最大75万人という大規模な対ソ戦開戦準備を主唱したのに対し、武藤章陸軍省軍務局長以下の陸軍省側は、財政力を勘案して小規模な17万人に押さえるべきだと反対している[404]

陸軍内での対ソ開戦の北進論派と、イギリスやオランダの植民地攻略の南進派の意見統一はできず、7月2日の御前会議で南北併進を明記した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。日中戦争の処理に邁進しつつ南方に進出し「情勢の推移に応し北方問題を解決」するとしたこの要綱により、ひとまず関特演が裁可されたため、関東軍12個師団と朝鮮軍2個師団の14個師団を基幹とし、日本本土の2個師団を加えた計16個師団が動員されて、各師団を戦時定員(2倍)とし、2個飛行集団合計1,100機の航空機も派遣された。正確な総兵力は定かではないが、関東軍と朝鮮軍の14個師団だけで50万人に達した。その内容は「在満兵力は16個師団と25個師団に応ずる軍直部隊とそれに対する約7割の兵站部隊から成り国軍編成としては優良装備のきわめて充実したもの」であったという[405]。しかし、極東の赤軍は日本軍の侵攻に備えて、半減どころか逆に増強されていた。関東軍は調査の結果、ソ連軍の兵力は86万人、戦車1,700輌、航空機2,800機(欧路輸送は550機)と判定したが[406]、実際はもっと戦力は大きかった[407]。8月9日には早くも「年内対ソ武力行使の企図」を断念し、その後は日米交渉の悪化もあって、日本は対英米戦争に突き進んでいくこととなった。

ソビエト[編集]

ノモンハン事件は日本に対する警戒心をより深める結果となった。ノモンハン事件後もシベリア、ザバイカルのソ連軍は順次増強されて、1941年7月1日時点でのソ連軍、極東戦線ザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、騎兵師団1個、戦車師団5個、自動車化狙撃兵師団3個、航空師団13個、狙撃兵旅団3個、空挺旅団1個、装甲車旅団1個、航空旅団2個、防空旅団1個、オートバイ連隊1個、砲兵連隊22個、航空連隊8個、工兵連隊3個、舟橋架設連隊8個で総兵力723,119名、戦車4,638輌、砲14,062門、自動車60,091台、トラクター11,968台、航空機4,777機という莫大な戦力だった。これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかった[407]。独ソ開戦の機運が高まるとジューコフの求めにスターリンがやむなくウラル軍管区、ザバイカル軍管区から戦車8個旅団と、狙撃兵15個師団、騎兵3個師団の転用を許可し、スモレンスク防衛戦やモスクワ防衛戦に参加している[408]。開戦前の1941年4月26日から5月10日の間に極東、シベリア、ザバイカルの各軍管区から抽出された兵力が欧州への移動を完了した。

ジューコフは極東や内陸部から移送された狙撃師団群のほとんどを、反撃攻勢用の“トラの子”の精鋭部隊として温存しており[409]、モスクワ防衛戦に参加した師団は少なく、参加しても第44モンゴル騎兵師団のように騎兵突撃を行って短期間で壊滅した部隊もあった。また、ノモンハンで戦った第36自動車化狙撃師団、第57狙撃師団のようにモスクワに移動せずそのまま1945年までモンゴルに駐留する第17軍に属して極東に留まり、1945年8月の満州侵攻に参加した部隊もあって、モスクワ防衛戦で決定的な働きをしたのは極東からの援軍ではなく、スターリンの投じたモスクワ戦区の戦略予備軍(第1打撃軍、第20軍)だった[410]

ジューコフはモスクワへの攻撃でドイツ軍は疲弊しているが、陣地を構築して防衛態勢はとらないと判断すると[409]、今までのモスクワ防衛戦で戦闘に熟練した部隊と共に、“トラの子”の40万人の将兵、1,000輌の戦車、1000機の航空機[411]を反撃に投入し、ドイツ軍中央軍集団に大打撃を与えてモスクワへの脅威を取り除くことに成功した[408]。極東から来た部隊の活躍は目覚ましく、ジューコフは後に「モンゴルで戦った部隊が、1941年にモスクワ地区に移動し、ドイツ軍と戦い、いかなる言葉をもってしても称賛しきれぬほど奮戦したことは、決して偶然ではなかったのである」と回想している[412]。一方でモスクワ攻勢に参加した極東部隊は全軍の5%に過ぎず勝敗を左右する要因にはならなかったとも証言している[要出典]。

ソ連の対日参戦について話し合われたリヴァディア宮殿でのルーズベルトとスターリン

ジューコフは、「日本軍精鋭部隊に前代未聞の敗北」をもたらせた8月の攻勢作戦が「日本の支配階級を酔いから醒めさせたもの」と確信していたが[413]、極東総軍作戦部長A・K・カザコフチェフ少将が「もし日本がヒトラー側について参戦したならば、われわれとしてはどうにもならなくなる」[414][415]と述べていたように、ソ連国土深く侵入してきたドイツ軍に呼応し、日本軍が北方シベリアに侵攻してくる懸念をソ連側は払拭することができなかった。そのため、東部戦線で赤軍が反撃に転じてさらに戦闘が激化した後も、極東の部隊は日ソ中立条約が成立しているにも関わらず、弱体化するどころか逆に強化され、総兵力は1,568,000名にも達した。これは赤軍総員の3割弱に当たり、これらの戦力を前線に投入できていたら、ドイツ軍をもっと速やかに打ち負かして戦争の終結を早めることができたという主張もある[416]

ソ連は独ソ戦に力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った[注釈 2]。満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、太平洋戦争で日本の戦況が悪化した1943年秋頃まで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、1944年後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた[注釈 2]。関東軍の兵力の多くを南方や日本本土防衛に転用してしまっていた日本軍側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採っていたままだった。一方で、ドイツの敗北が濃厚になると、ソ連は極東に目を向け始め、1943年11月のテヘラン会談でドイツ降伏後のソ連対日参戦を表明。1945年2月のヤルタ会談では、関東軍を過大評価して、満州と中国大陸の日本軍を撃破し日本を屈服させるためにはソ連の対日参戦が是非とも必要と考えていたフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領に対し、スターリンがいわゆる「ヤルタの密約」で極東地域での権益拡大[注釈 8]を約束させて対日参戦を了承している。了承する際にスターリンは、ルーズベルトと同席していたW・アヴェレル・ハリマン在ソ連アメリカ特命全権大使に対し「もしこれらの条件(極東での権益拡大)が満たされない場合には、私やモロトフが、ソ連人民に対して、どうしてソ連は大してトラブルのない国日本に対し参戦するのか説明するのが困難になりましょう」と言って脅迫したように、対日参戦を狡猾に政治利用している[417]。最終的には、5月にドイツが降伏した後、8月にさらに戦力を強化していた極東の赤軍が、日ソ中立条約を一方的に破棄して進撃を開始し、弱体化していた関東軍はなす術もなく潰走、満州全土がソ連に占領された。

ノモンハン事件の戦略と戦術[編集]

兵力の集中と兵站[編集]

本会戦の帰趨には、兵站問題の格差も大きく影響している。ソ連はノモンハンの戦いに中央が積極的な支持をしており、事件期間中は、優先して兵力と物資の補給を受けることができた[418]。一方で日本軍は、大本営と関東軍の不和の影響として、関東軍が手持ちの兵力と、資材の範囲内で戦うことに拘ったため、元々の国力差以上の兵站問題の格差が生じてしまった[419]

当時、大規模な陸軍兵力の兵站鉄道と船舶輸送を前提とし、鉄道駅と港湾を離れての大兵力の運用は困難とされていたが、戦場が鉄道・港湾と遠く隔たった本会戦の補給はトラック輸送によるしかなかった。関東軍はノモンハンに自動車第1連隊の600台のトラックを投入したが、その後、南満州鉄道からの支援を受け2,000台まで増車し、日量1,500トンの輸送能力を確保した。日本軍のトラックはハイラル区から第23師団の司令部のあった将軍廟まで往復2日間で走破した[420]

ソ連側は戦線の遙か後方にあるザバイカルのソロビヨフスコエ駅までしか鉄道輸送はできず、そこから、さらに前線まで700 kmに渡る悪路を往復6日かけてトラック輸送する必要があった。したがって、条件面ではむしろ日本より不利であり、関東軍は日本が補給戦で有利と考えていた。ソ連の状況も決して楽ではなく、計画通りの輸送量を確保するためには、最低6,000台のトラックが必要であったが、中央の全面的な支援を受けてかき集めたのが3,325輌と計画の60%に止まった[421]。車輌不足を補うため、大規模なトラック輸送体制を整備した。過酷な道中で経験の浅い運転手でも迷わないように、ボルジャからノモンハンの間に6箇所の中継基地が設けられた。中継基地では燃料と食事が支給され、運転手は休息することができた[422]。それでも補給路の過酷さゆえに補給日量は日本を少し上回る1,950トンであった[423]

ソ連軍は、1939年8月の大攻勢準備として5.5万トンの物資が必要であったが、責任者のソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンは「はかりしれぬほど困難な仕事だった」としつつも、道中、無灯火で不眠不休で走らせる強行軍で、必要な物資を前線になんとか送り切った。あまりにも過酷な任務であったため、トラック隊の苦情や現地の催促などの不平不満が日本側にも傍受されたほどであった[423]

十分な物資を補給されたソ連軍は、8月攻勢で日本軍第23師団に壊滅的打撃を与えた。ソ連軍司令官のジューコフは回想録で、軍事作戦には兵站と後方整備が決定的な要素であること、充分な資材の裏付けがなければ、軍事作戦は成功しないという用兵思想を当時既に確立していたことを述べている。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ジューコフはまず作戦資材の準備を最優先課題に設定した。輸送部隊はのちに戦功章を与えられ、その実績を顕彰された。

本来であれば、幹線道路を利用でき、補給基地から前線までの距離が近かった日本軍が圧倒的優位に立てるはずであったが、ソ連の輸送能力を過少に評価し、日本軍自身も相応の輸送能力を持ちながら、日中戦争を戦う中で、対ソ戦線に兵力や物資を集中することを躊躇し、逐次投入の愚を犯したことも、敗因の一つとなった。停戦後に纏められた『ノモンハン事件研究報告』では、ソ連軍の機動力を「ソ連軍の機械化は、鉄道端末より700を隔つる広漠不毛の地に於いて、大兵団の連続2箇月に亙る攻防会戦を遂行せしめ…以て我が企画遂行を妨害せり」と分析している[424]

日本とソ連航空運用の比較[編集]

日本の航空機運用[編集]

航空戦は飛行機同士が制空権を争う航空撃滅戦と地上部隊を支援する地上直協戦に大別されるが、日本は前者をソ連は後者を重視する傾向があった[425]。ソ連空軍の全機種が地上支援に参加したのに対し、日本陸軍航空隊は地上支援用の専門機種を持たずパイロットたちも空中戦の勝利にしか関心がなく、偵察や対地射撃の訓練もしていなかった[425]。第一次ノモンハン事件では日本側が航空戦に圧勝したが地上では支援を欠いた東捜索隊が全滅し、航空戦の勝利は地上戦に全く影響しなかった[425]。しかも、関東軍は無電を活用した空地連絡システムの整備に無関心で、事件後も航空撃滅戦への傾斜は進む一方だった[426]。第23師団長小松原中将も「航空はあたかも航空自体のために動いていたかのように思われる」と不満をもらしている[427]

第二次ノモンハン事件でも陸軍航空隊の方針に変化はなかった。パインツァガン戦では日本側845ソーティー、ソ連側865ソーティーと出撃回数に大きな差はなかったものの、内訳は空戦65、爆撃25、偵察9と空戦の比率が圧倒的に高かった[427]。対するソ連側は空戦18、爆撃43、偵察38と地上支援と偵察の比率が高く投下爆弾量もソ連78000発に対して日本は18000発だった[427]。偵察面の不振は「偵察機が広角カメラを搭載していない」「地上と戦闘機の無線波長が合わない」など各種トラブルが原因であり、地上部隊も空地連絡の改善に鈍感であった[427]。ソ連側の八月攻勢の直前には偵察機が攻勢の兆候をとらえ司令部に報告したが、関東軍はなんの反応も示さなかった[428]

日本軍の航空戦力が、戦況に大きな影響を与えることができなかった要因の一つとして、昭和天皇が1939年6月27日のタムスク爆撃に激怒したことに恐れた大本営が、越境爆撃の禁止を命じたことも挙げられる。ソ連中央からの物資の輸送はシベリア鉄道が頼りであり、輸送の責任者であったA.V.ノヴォブラネッツは「日本軍がシベリア鉄道のひとつかふたつでも爆撃してくれば、モンゴルのソ連軍は燃料・武器・弾薬もなくなる」と危惧していたが、タムスク爆撃以来、日本軍航空機が越境攻撃してくることがなかったため、ソ連は何の妨害を受けることなく大量の物資を前線に送り続けることができた[429]

ソ連の航空機運用[編集]

ジューコフは第一次ノモンハン事件における航空戦での惨敗を見て「我が航空隊は日本軍航空隊によって撃滅された。大きな損失を前にして空軍本部は判断停止、呆然状態に陥った」とモスクワに報告すると[428]、スペイン内戦で活躍した、熟練パイロット22人を含む48人の専門チームを呼び寄せ以下の5つの対応策を練った[428]

  • 5月29日~6月16日まで戦闘行動を停止する

  • その間に戦闘と訓練が不足と判定されたパイロットたちの再訓練を実施する

  • 監視・警報・連絡のネットワーク作りと通信体制の改善

  • 飛行場の増設

  • 機動力に優れた97戦に対する技法の考案

中でもソ連軍は97戦対策に力を入れ運用法を大胆に改変した。改善点は以下の通りである[430]

  • 単機格闘を回避し、I16の頑丈な設計をいかした高速一撃離脱戦法に徹する

  • 空戦は旋回性能に優れたI153と有速のI16を組み合わせる

  • I16の改良型を投入する(火力を2倍にした10型や10倍にした17型など。格闘戦より地上撃破を重視)

  • パイロットと燃料タンクを守るため鋼板を搭載

  • 低速のTB3重爆は夜間爆撃に徹し、SB中爆は97戦が苦手な高高度からの爆撃に徹する

  • 97戦の餌食になっていたR5は偵察兼観測機に、I15は爆弾を外して襲撃機に転換

加えて爆撃機・襲撃機がそれらを護衛する戦闘機集団や高射砲部隊と連携しつつ、味方地上部隊の上空を長期に渡って制圧する「空のベルトウエイ」と呼ばれる戦術を生み出した[431]。この戦術は8月攻勢で大きな戦果を上げ日本側の戦闘機隊が出撃しても一時的な制空に留まり[431]、ジューコフは「第二段階においては我が戦闘機隊は制空権を獲得し、終結までそれを維持した」と成果を強調した。 これらの改善と数的優勢によって、空の戦いの様相は変化していった。 7月中の空戦においてはソ連軍の損失89機対して日本軍47機と日本軍優勢、ソ連軍の大攻勢があった8月以降においてもソ連軍損失39機に対して日本軍損失39機とほぼ互角の戦いで空戦ではソ連軍が圧倒したとは言えない状況であった[432]が、数的劣勢の日本側にとって航空消耗戦はパイロットの大きな負担となり、少数精鋭を自負していた戦闘機隊隊長、中隊長クラスの損耗が増えていった[432]。また格闘戦の戦果とは対照的に出撃回数ではソ連空軍が日本側を圧倒し、継続して航空優勢を握ることになった。 8月20日にソ連地上軍の大攻勢が始まるとソ連空軍は満を持した一大航空作戦を展開し、初日だけで爆撃機350ソーティー、戦闘機744ソーティーと過去最高水準の出撃数を叩きだした[433]。対する日本側の出撃数は309ソーティーとソ連側の三分の一弱に過ぎなかった[434]。翌日の出撃数は1138ソーティに達し、ソ連空軍はハルハ河上空の航空優勢を獲得、地上支援に専念していくことになる。 ソ連空軍は戦闘機やSB爆撃機まで低空爆撃に投入し、徹底して地上支援に集中した[434]。8月攻勢の10日間でソ連軍爆撃機の出撃回数は日本軍爆撃機の10倍近い8530ソーティーに達した[435]。 8月攻勢全体の出撃では制空のための出撃が約75%と最も多かったが、地上部隊支援のための出撃も約20%を記録しており、ソ連軍は保有する航空戦力の約1/5を地上部隊支援に投入した[436]。これに加えて、制空のために出撃した戦闘機も機銃掃射で地上部隊を支援したことを考慮すると、ソ連軍地上部隊は、記録以上に航空支援を受けていたことになる[436]。この頃の航空機は第二次世界大戦時とは異なり破壊力が小さく、結果的に日ソ両軍ともに航空戦力が戦況に与えた影響は限定的であったとの意見もあるが[437]、ソ連の猛攻に直面した第6軍司令部は「現在頼むところは飛行隊だけである」と飛行集団司令部に悲鳴を上げており[435]、8月攻勢においてソ連空軍は航空優勢を獲得したのみならず対地攻撃の実施によって「ソ連版電撃戦」理論で示された地上部隊に対する砲兵部隊と緊密に連携した火力支援の一翼を担っていた[436]

日本とソ連砲兵隊の比較[編集]

左・九六式十五糎榴弾砲、右・八九式十五糎加農砲

日本軍の主要火砲投入数と損失数[438]兵器名保有数損失数(内自己破壊)八九式十五糎加農砲65 (4)九六式十五糎榴弾砲1611 (5)九二式十糎加農砲1611 (1)改造三八式野砲24[注釈 9]34 (10)三八式十二糎榴弾砲12九〇式野砲82合計8263 (20)

ノモンハン事件で猛威を振るったソ連軍ML-20 152mm榴弾砲

ソ連軍の主要火砲投入数と損失数[439]兵器名保有数損失数ML-20 152mm榴弾砲366M-30 122mm榴弾砲8426M1910/30 107mmカノン砲364F-22 76mm野砲5211M1927 76mm歩兵砲162[438]14[438]合計37061

火砲の数はソ連軍が圧倒しており、口径10 cm以上の重砲では日本軍50門に対しソ連軍156門で約1対3、10 cm以下の軽砲(速射砲・歩兵砲等も含む)では日本軍277門に対してソ連軍546門で、約1対2であった[423]

砲の数もさることながら、消費砲弾量の差は日本軍(推計)66,000発に対しソ連軍は430,000発消費しており、比率は1対6.5にもなった。しかしこれはノモンハン事件全期間を通じての消費数であり、日本軍はハルハ河附近での大砲撃戦(7月23日から25日)で20,488発の砲弾を撃ち込んでいるが、8月のソ連・モンゴル軍の総攻撃の際は、砲弾不足による極端な砲弾の節約を迫られ、ソ連軍砲兵部隊に撃たれるがままであったため、その時の日ソの砲弾消費量の比率は1対10以上になっていたものと推定される[440]

砲の性能については、様々な評価はあるものの、川上清康砲兵大尉によれば、「威力性能はソ連火砲に些かも劣らず。とくに十五榴と90野砲は威力を十分発揮した」とソ連軍火砲との性能差は感じないとした上で、九六式十五糎榴弾砲九〇式野砲を高く評価していた[441]。敵のジューコフも「我が方をしのぐ長距離の重砲」と射程の面ではむしろ日本軍重砲の方が上回っていたと評価している[442]

しかし砲の運用についてはソ連軍の方が勝っており、川上は「陣地変換を煩雑に実施する、射撃すると直ちに後退するが如し」とソ連の火砲の巧みな運用について指摘している。一方、ソ連軍のジューコフは逆に日本軍の砲兵について「射撃陣地の変更を好まず、機動性に全く欠いていた[443]」や「敵砲兵は優秀な測量隊を持ち、航空写真も活用して精度の高い地図を用意した。…有利な観測地点と射撃陣地に恵まれていたのに、訓練は不十分で、とりわけ歩兵との連携は稚拙だった[444]」と辛辣な評価をしていた。訓練が不十分であったことは日本軍自身も自覚しており、特に『虎の子』との評価を受けて内地から増派された野戦重砲第3旅団について「実戦の経験者が皆無に近く、訓練も精致と称するには程遠い実情」と旅団長の畑は考えていた[445]

日本軍の観測隊は九八式直接協同偵察機を飛ばして弾着修正を試みていたが、日本軍砲兵隊は砲撃がそろわずバラバラで、砲弾の多くはソ連軍陣地外の空き地に着弾していたため、それを空から見ていた観測将校が「そんな下手な射撃はやめてしまえ」と呆れて無線で怒鳴りつけて帰ってしまったこともあった[446]

ノモンハン戦後に大本営研究班の主任として戦訓調査に当たった小沼治夫少佐は日本軍とソ連軍の砲兵を以下のように比較評価している[447]

  • (日本軍の)砲兵将校能力劣る。射向1キロ広がり(砲弾が)集まらぬ中隊あり。

  • 敵(ソ連軍)砲兵、予備陣地や掩砲所に隠れる。牽引車にて後へ下がる。

上表の各砲の損失数には敵軍に鹵獲されたものも含まれている。日本軍の重砲に自己破壊が多いのは、8月20日からのソ連軍の総攻撃で設置されていたバルシャガル高地(733高地、ソ連名レミゾフ高地)がソ連軍に包囲されたため、ソ連軍に奪われないよう破壊したものであるが、敵の攻撃下で徹底した破壊ができなかったため、多くの火砲が大きくは破損していない状態でソ連軍に鹵獲された(日本軍の主力重砲の八九式十五糎加農砲は戦場に投入した6門の内5門までがソ連軍に鹵獲されている)[448]ソ連軍の総攻撃で砲兵陣地間近までソ連軍戦車に迫られた重砲隊は、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と戦い、大きな損害を与えたが全滅している[294]

対戦車戦闘[編集]

ノモンハン事件での日本軍主力戦車であった九七式中戦車、写真はサイパンの戦いで撃破されて、戦後に遊就館で展示されている戦車第九連隊の所属車

ノモンハン事件後期に大量に戦場に投入されたBT-7

八九式中戦車と休憩中の日本軍戦車兵、中央奥にあるのは九七式中戦車

速射砲[編集]

1939年当時のソ連軍は、T-34KV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT-5(正面装甲厚13 mm)やBT-7(同15-20 mm)、T-26軽戦車(同15 mm)、FAIBA-3BA-6BA-10BA-20(以上、同6-13 mm)といった装輪装甲車を多数投入した。それに対する日本軍は対戦車戦闘の主力兵器として九四式三十七粍砲、少数ながら(最大で50門)九七式自動砲九八式20mm高射機関砲も対戦車戦闘に参加、威力を発揮したという(九八式20mm高射機関砲を装備した部隊がノモンハンに投入されたという日本側の記録は無く、類似した構造の九七式自動砲との誤認の可能性もある)。また装甲の薄い装甲車には九三式十三粍重機関銃も非常に効果的であり、前線で即席で砲架を作ったり、球形小架に装着したりして射撃効率を高めていた[449]

日本軍はこうした対戦車兵器を配置した対戦車防御陣地を構築した。これらの陣地は全周防御を施し、他の拠点と連絡通路で繋がり、互いの火力で連携できるようになっていた。最前線には、火炎瓶を装備した歩兵と対戦車地雷や結束手榴弾を装備した工兵が待ち受ける個人壕が掘られており、つぎに歩兵の数線の塹壕があり、大口径機関銃が配置されている事もあった。そして、陣地の最深部(最前線から150-200 m)に速射砲が設置されてあったが、巧妙に隠匿されており、ソ連軍戦車が300-400 mまで近づいてようやく発見できるかどうかであった。そして各速射砲は3、4個の予備陣地を構築しており、4、5発発射するごとに陣地転換し、ソ連軍からの攻撃を回避していた。各砲はあらかじめ照準調整試射を済ませており、目安となる線や標的を巧みに草や木などで偽装していたため、その標的を基準にした砲撃の精度は極めて高かった[450]

ソ連軍戦車が接近すると、まずは陣地内の速射砲が正確な砲撃を浴びせ、戦車が前線に近づいてくると、歩兵陣地から大口径機関砲による射撃や、火炎瓶や地雷により歩兵が肉弾攻撃を行った。また時には隣接する砲兵陣地から両翼から野砲による支援射撃も加わり、両翼十字放火を浴びるソ連軍戦車が日本軍の射撃陣地を特定することが困難となり損害を重ねた。ソ連軍戦車に歩兵の随伴が無い場合は、日本兵はソ連軍戦車の視察孔や視察装置内に見える戦車兵を小銃で狙撃してきた[451]。日本軍の対戦車主力兵器となった九四式三十七粍砲はソ連側によれば「いかなる我が軍の戦車の装甲を無理なく撃破貫通[452]」する「非常に軽量で、発見困難な機動兵器」であり、「対戦車戦の優秀な兵器」であることを証明したという評価であった[453]

日本軍は九四式三十七粍砲を陣地に据えつけているだけではなく、7月3日にハルハ河西岸でソ連軍第11戦車旅団を迎え撃った日本軍の速射砲部隊は、トラックの荷台に速射砲1門を載せて、動かないように土嚢で固定し、車上から砲撃している[454]。林中尉の指揮する速射砲第一中隊および第二中隊の一小隊は、自動車で移動しながら、ソ連軍戦車と遭遇すると車上砲撃を行い、50輌 - 60輌のソ連軍戦車の内41輌を撃破したと報告している[455]

日本軍はハルハ河西岸での速射砲部隊の活躍により速射砲の威力を認識したため、全満州から速射砲をかき集めてノモンハンに増派することとした[456]。7月22日には関東軍参謀長名で第1師団第7師団の速射砲30門が第23師団に増派され、実戦に投入された速射砲は62門で、さらに事件末期には230門もの速射砲が新設された第6軍所属となりノモンハンに投入されることとなっていた[457]

一方、ソ連軍も速射砲から大損害を被った教訓を活かし、8月に入ってからの大攻勢の際は、戦車は一旦日本軍陣地に距離を置いて停止し、戦車砲で遠距離砲撃を浴びせたり[458]、重砲による支援砲撃を十分に加えた後、歩兵を随伴した戦車で日本軍陣地に突入し、歩兵が白兵戦で速射砲を含む日本軍陣地を殲滅するという、歩甲協同攻撃などの対策を講じている[459]。また、BT-7に76.2 mm KT-28榴弾砲を搭載したBT-7A砲兵戦車が、日本軍の速射砲陣地攻撃に威力を発揮した[452]

火炎瓶・対戦車地雷[編集]

マフラーが廃止され、エンジングリルから排気管が伸びた形になったBT-5戦車、マフラー設置型と比べ、火炎瓶の被害を受け難かった

ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。ノモンハン戦で大々的に戦場に投入された歩兵用の対戦車兵器として火炎瓶がある。しかし、火炎瓶は日本軍の正式な兵器ではなかった。1937年にスペイン内戦で火炎瓶が猛威を振るったのを見た観戦武官の西村進少佐の報告により日本でも試験が行われたが、試験結果は芳しいものではなく、兵器として採用されることはなかった。しかし、第1師団の河村恭輔師団長など一部の将校がその効果を認め、配下部隊に研究を指示している[460]。ノモンハンで日本軍が火炎瓶を使用するきっかけは諸説あるが、1939年5月28日に岡野一等兵がトラックで移動中にソ連軍戦車に攻撃され、ガソリン缶を敵の方に投げ捨てたところ、戦車がガソリン缶が踏みつけると同時に発火し戦車が炎に包まれた。これでソ連戦車がガソリンで炎上すると知った日本軍は、手軽に手に入るサイダー瓶をかき集めて大量の火炎瓶を作成した[460]

火炎瓶で戦車を攻撃する肉薄攻撃班は、火炎瓶2、3本と手榴弾数発を持った2名を1組とし、それぞれ個人壕に籠り、戦車が接近すると火炎瓶の導火線に点火し戦車に向かって投げつけた。戦車はたちまち炎に包まれると30 mぐらい走って止まった[461]。炎上した戦車から飛び出した戦車兵は日本軍に射殺されていった。一番効果のあった7月2日から3日までのハルハ河東岸での戦いでの第26連隊の報告では、わずか1時間で10輌の戦車を火炎瓶で撃破したとしている[460]。日本国内では国民の士気高揚のために、参戦者やジャーナリストによる、草葉栄中隊長著の『ノロ高地』、樋口紅陽『ノモンハン実戦記』、山中峯太郎『鉄か肉か』などの著作や見聞記で、戦車を肉弾攻撃で撃破する勇戦ぶりがことさら強調された。また戦争画で名高い藤田嗣治のノモンハン事件の戦争画『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』もソ連戦車に日本軍歩兵が白兵攻撃を行っている構図であり[462]、日本兵が火炎瓶など肉弾攻撃でソ連軍機甲部隊に立ち向かうという構図が定着することとなった[461]

しかし、日本側の火炎瓶への高い評価と違って、ソ連側はさほど脅威には感じていなかった。ソ連の報告書では「ガソリンを入れて導火線の付いた栓をしたありきたりのワインボトル(実際はラムネ瓶)を集めた『放火隊』が配置についていた。戦車に投擲された瓶は火災を引き起こし、逃げ出す乗員らは射殺されていった。この戦法はあまり効果的ではなかった。7月の作戦で撃破された第11戦車旅団の戦車の中で調査した20輌の内、砲撃を受ける前に放火されたのはわずか2輌に過ぎなかった」とされている[463]

火炎瓶と比較して、対戦車地雷は効果的であり、7月の作戦で撃破された第11戦車旅団のBT-5快速戦車25輌の内、対戦車地雷で仕留められたのは4輌であった。日本軍は対戦車地雷を長い竹竿に装着して肉弾攻撃の武器としても使用している。戦闘工兵が死角から戦車に接近し、長い竹竿を使ってキャタピラの下に地雷を付きだして戦車を停止させると、戦車に飛び乗って車内に手榴弾を投擲して撃破している[461]。しかし、日本軍の主力地雷となった九三式戦車地雷は炸薬量が少なかったので威力不足で、しばしばキャタピラでさえ破壊できないこともあった。特にノモンハンの戦場に多く存在した砂地では威力がさらに減殺され、効果的な使用ができなかった[460]

ソ連軍は、日本軍の対戦車陣地対策として、戦車小隊を、前列3輌、後列2輌のチェス体形で行動させるようになった。前列の戦車によって暴露された速射砲や肉弾攻撃の日本兵を、後列2輌の戦車が殲滅するという戦術であった。特にこの戦術は火炎瓶や対戦車地雷をもって潜んでいた肉弾攻撃兵に大きな効果があり、第二次ノモンハン事件後半の頃には、ほぼ日本軍の肉弾攻撃を無力化していた[464]。また、ハルハ河西岸の戦いでは、炎天下で長距離の連続走行をしたため、戦車の装甲やエンジンが灼熱化しており、火炎瓶の炎が車体全体に延焼し、重篤な損傷を受けることが多かったため、連続走行を控えてエンジンの過熱を防止した[465]。さらに、ノモンハン戦で最も多く投入されたBT-5戦車は、車体後部にむき出しで大型の円筒形マフラーが設置してあったが、これが灼熱化し火災延焼の原因となっていた[466]。ノモンハン開戦直前に第58特別軍団にはBT-5とT-26T-37しか配備されていなかったが[467]、第二次ノモンハン事件のソ連総攻撃時には、そのマフラーを廃止し排気管だけを出したBT-5やBT-7が投入されている[468]

日本側は、7月3日のハルハ河の渡河戦などで、火炎瓶による肉弾攻撃が極めて有効との認識であったのに対し、これらのソ連の対策により戦果が挙がらなくなったため、師団長の小松原は8月22日付の日誌に「敵の優良戦車現出」「サイダー壜を以て肉薄攻撃するも効果なく我軍をして失意せしめたり」と書いている[469]

なお、日本側の書籍では、火炎瓶対策として、ソ連側が戦車の機関室に金網を取り付けたとの記述も見られるが、BT-5戦車は1934年の初期生産型の段階で、既に機関室グリル上に異物混入防止用の金網製カバーが取り付けてあり[470]、ソ連側の資料にも火炎瓶対策で取り付けたとの記述はない[471]。また、より火災に強いディーゼルエンジンの戦車をソ連軍が投入したとも記述されることがあるが、ディーゼルエンジンを搭載したBT-7戦車の発展型BT-7Mが部隊配備されるのは、ノモンハン事件が停戦となった以降の1939年12月以降のことであった[472]

化学戦車の実戦投入[編集]

ソ連軍は化学戦車と称した火炎放射器をT-26に搭載した戦車をノモンハン戦初期の5月から投入していた。火炎放射器は陣地攻撃に絶大な威力を発揮、特に日本軍歩兵は火炎放射されると、恐怖と呼吸困難により陣地を維持することができず次々と放棄していった[473]。ソ連軍は、東捜索隊の殲滅戦で、火炎放射器は日本の頑強な陣地に非常に有効な兵器と認識、8月の大攻勢では37輌の化学戦車を戦場に投入し、多い部隊は1日に11回も出撃していた[474]。8月21日のフイ高地攻撃にも多数の化学戦車が投入され、フイ高地の日本軍陣地にはいくつもの火柱が林立していたという[151]。火炎放射戦車は日本軍陣地を炎をまき散らしながら走り回り、対戦車兵器がない歩兵にはなす術がなく、炎を防ぐため壕に伏せるのがやっとであった[475]。しかし、化学戦車は日本軍に目の敵にされ、攻撃の優先目標となったため、ノモンハン事件で合計12輌の化学戦車が撃破されている。

戦車戦[編集]

7月2日の夜襲で行動不能となりソ連軍に鹵獲された戦車第4連隊の九五式軽戦車

スペイン内戦で活躍したT-26

ノモンハン事件で戦った日ソ両軍の主要戦車[476][477]九五式軽戦車(日本)八九式中戦車(日本)九七式中戦車(日本)T-26(ソ連)BT-5(ソ連)BT-7(ソ連)重量(t)6.512.015.08.011.013.9戦車砲37mm砲57mm砲57mm砲45mm砲45mm砲45mm砲主要部装甲 (mm)121725131520エンジン馬力12012017080400450最高速度 (km)402538355552全高 (m)2.252.562.232.22.162.29全長 (m)4.35.745.554.565.355.66超越壕幅2.02.652.51.82.02.0

ソ連軍が7月以降約500輌の戦車・装甲車を投入し続けたのに対して、日本軍は戦車第3連隊(八九式中戦車26輌、九七式中戦車4輌、九四式軽装甲車11輌、九七式軽装甲車4輌)と戦車第4連隊(八九式中戦車8輌、九五式軽戦車35輌、九四式軽装甲車4輌)と戦車合計で73輌、装甲車を加えても合計92輌を投入したに過ぎず[4]、また戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかった。

ソ連軍の戦車砲は、既にスペイン内戦において独・伊製の軽戦車を相手に大威力を証明していた長砲身45mm砲(20-K 45mm戦車砲)は砲口初速が高く(約760 m/s)、中・遠距離でも貫通力が高かった。また弾道が低進するため、中・遠距離の動目標に対して有利であった。それに対して日本軍の戦車砲は1920年代末 - 1930年代前半に開発されたものか、その小改良型で、中・遠距離での対戦車戦闘をそれほど考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm戦車砲(九〇式五糎七戦車砲九七式五糎七戦車砲)は砲口初速が低く(約350 m/s)山なり弾道となり、中・遠距離の動目標に対して不利であった[478]。九五式軽戦車の37mm戦車砲(九四式三十七粍戦車砲)は短砲身57mm戦車砲より砲口初速は高い(約575 m/s)ものの、ソ連の長砲身45mm砲よりは低かった。これらの砲口初速の差は貫通力の差の要因にもなった。

総合的に日本軍の戦車砲・対戦車砲は、ソ連軍の戦車砲・対戦車砲の長砲身45mm砲と比べて、砲口初速、徹甲弾の強度や貫通力(日本側は希少金属の制約により弾頭の金質が劣っていたことや、徹甲弾 (AP) でなく弾頭内に炸薬を充填した徹甲榴弾 (AP-HE) を主用したことも一因であった)[479][注釈 10]の点では劣っていた。そのため中・遠距離では命中角が悪いと命中しても貫通せず跳弾することが多かった[480][481]。のちに陸軍少年戦車兵学校の校長となった玉田美郎は、ノモンハンの戦いでは戦車第4連隊長を指揮していたが、部下の砲手が「隊長殿、私の撃つ砲弾は、たしかに命中するのですが、敵戦車は跳ね返します」と嘆くのを聞いて、この戦闘の行く末を心中密かに心配している[482]

日本軍における戦車の位置付けは歩兵直協で敵の機関銃制圧が主任務であり、『戦車兵操典』が出来る前の日本軍戦車兵の教典であった『教練規定』には「戦車はみだりに対戦車戦闘すべきものに非ず」と定められていたほどで[483]、八九式中戦車に搭載された短砲身57mmはその運用思想にかなうものであり、九七式中戦車開発に際しても主砲の威力増強も検討されながら、結局は「短砲身57mmで十分」と判断されてしまった。日本軍戦車開発の中心的人物であった原乙未生はのちに「57mm砲で十分と認められたので変更することができず、火砲問題が将来に残されたのは遺憾なことであった」と回想している[484]

戦車第3連隊長の吉丸は『教練規定』を無視してソ連軍戦車に果敢に突撃したが、ソ連軍のBT戦車やT-26戦車の装甲は比較的薄く、貫通力が劣る日本の戦車砲でも、500 m前後の中距離なら十分に貫通できた。さらに中国大陸での運用を踏まえた経験の蓄積により、射撃の腕では躍進射撃などの訓練を積んだ日本側の方が圧倒的に優れていた[478]。また、榴弾による射撃でBTやT-26の機関部付近を狙撃し、ガソリンタンクに引火させ撃破する戦法も多く用いられた[478]。さらに、相互に連携しあって戦闘を行う日本軍戦車に対し、ノモンハン戦初期のソ連軍戦車は数は多いが行動はバラバラで連携が取れておらず、日本軍戦車の集中射撃に各個撃破されていた。一部には戦車や装甲車を乗り捨てて逃げるソ連兵もいたほどであった[481]。7月3日の戦車第3連隊のソ連軍陣地への突撃が、ノモンハンにおける最大規模の戦車戦となったが、日本軍はソ連軍戦車32輌、装甲車35輌撃破の戦果を報告しながら、ピアノ線使用の蛇腹式鉄条網に多数の戦車が走行不能となったところを対戦車砲に狙い撃たれ、連隊長車の九七式中戦車を含めて戦車13輌、装甲車5輌を撃破されて攻撃は撃退されている[485]

かつては「戦車の戦闘性能はソ連軍のそれに比べ劣っていた。日本軍の八九式中戦車の装甲板17 mmはソ連軍の戦車砲で簡単に破壊されたが、八九式中戦車の短砲身57mm砲はソ連戦車の装甲を破壊できなかった[486]」や「ノモンハンでの日本戦車の射撃は実に正確だったそうだが、実際は相手に命中しても炭団を投げつけたように貫通せず、タマは敵戦車に当たってはコロコロと転がった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中することにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、殆ど全滅させた[487]」などどの著名歴史作家などの著作の記述により、一方的に日本軍戦車隊が殲滅されたとの認識が一般的に広まったが、それは事実誤認であった[488]。主砲については前述の通り、ソ連軍戦車装甲を貫通していたし、装甲厚にしても、ノモンハンの戦場で最も厚い装甲を持っていたのは、日本軍の4輌の九七式中戦車(最大装甲厚25 mm)であった。また軽装甲しか持たないソ連の装輪装甲車は脆弱で、しかもタイプによっては操縦手の膝上や後上部にガソリンタンクがあるという構造的欠陥もあり、7.7mm重機関銃の徹甲弾の集中射撃や九二式車載十三粍機関砲の13.2mm弾でも撃破可能であった。

日ソの戦車戦が戦われたのは7月2日から6日までのハルハ河付近の戦いであった。ここで日本軍が投入した戦車・装甲車は戦車第3連隊と戦車第4連隊の2個連隊92輌に対してソ連・モンゴル軍は452輌と5倍の数であった[152]。戦車第3連隊と第4連隊の戦車は、数を増すソ連軍戦車と7日まで激戦を繰り返し、多数の戦車・装甲車を撃破した[163]。しかし、損害も大きく、7月3日、4日の戦闘に日本側は73輌の戦車(九七式中戦車4輌、八九式中戦車34輌、九五式軽戦車35輌)を投入したが、41輌が撃破もしくは損傷した[489]。しかしながら日本軍の中戦車は炎上しにくいディーゼルエンジンを搭載しており、撃破されても容易に炎上しなかったため、多くが回収され修理された。結局、7月3日、4日で撃破された日本軍戦車41輌のうち完全損失となったのは13輌のみであり、残りは前線ないし後方基地で修理され実戦復帰している。壊滅した戦車第3連隊も一週間後には撃破された戦車のうち75%が修理を受け部隊復帰している。この点は、速射砲弾の貫通や火炎瓶により容易く炎上し全損となるソ連軍戦車に対する日本軍戦車の優位点となった[160]。それでも、連日の激戦で修理も補充も間に合わず、1939年7月7日時点で九七式中戦車1、八九式中戦車乙14、八九式中戦車甲4、九五式軽戦車11の合計30輌の戦車と7輌の装甲車を失った[490]。損害の大きさに驚いた関東軍司令部は7日をもって、両連隊のこれ以上の消耗を恐れ引き揚げ命令を下し、日本軍はこの後、戦車なしで戦うこととなった[491]。しかし、両戦車連隊の多くの将兵にとっては「戦い半ばにして命令によりやむなく後退」という気持ちが強かったという[492]

日本軍戦車隊が戦場で決定的な成果を上げることができなかったのは、ソ連軍戦車との性能と数の差もあったが、戦車と他兵科との連携が十分でなく、十分な支援が得られなかった上に戦果が拡大できなかったことが原因の一つであった。ハルハ河渡河戦を戦った安岡正臣中将率いる独立混成第1旅団(安岡支隊)の編成に問題があり、歩兵には十分な自動車がなく、戦車隊の進撃についていくことができなかった[150]。その編成を戦車第4連隊の玉田美郎連隊長は「戦車と神代生まれながらの二本脚で敵弾に裸の歩兵と中世的な輓馬砲兵を組み合わせた三人四脚の戦場速成の行き当りばったりの兵団」と揶揄(やゆ)している[493]

兵科別ソ連軍戦車撃破割合[編集]

日本軍兵科(攻撃手段)撃破割合速射砲75% - 80%野砲15% - 20%歩兵(火炎瓶)5% - 10%航空機2% - 3%工兵(地雷・手榴弾)2% - 3%

日本軍の対戦車戦闘の主力となったのは速射砲と野砲の火砲であり、割合で見ると90% - 95%のソ連軍装甲車輌は日本軍の火砲により撃破されている。日本軍の主力対戦車兵器となった九四式三十七粍砲は、最長1,000 mでもソ連軍戦車の装甲を貫通することができた[455]。速射砲が命中すると、戦車はほぼ全て炎上し、あたかも木造家屋のようによく燃えた。それで15分後には弾薬の誘爆が始まり、爆発後の戦車は回収しても屑鉄以外の使い道がなかった[494]

ノモンハン戦で強い印象を残した火炎瓶攻撃は、印象に対してその成果は大きいものではなく、5% - 10%の装甲車輌を撃破したに過ぎない。しかし、うまく戦車を火に包むことができれば、修復不可能な程の損傷を与えることは十分可能であった[494]

ソ連軍は各戦車中隊ごとに戦車の修理を監督する技術担当士官を配置し、技術士官には修理対象の損傷戦車を牽引するトラクターと、技術士官自身が搭乗するための戦車が宛がわれたが、その戦車やトラクターが日本軍速射砲の餌食となることも多かった。日本軍は撃破や擱座させた戦車をソ連軍が回収・修理できないように火炎瓶などで全焼させた。一方のソ連軍も全焼し修復の目途の立たない戦車は穴を掘って埋めていた。埋めた理由というのは、日本軍は撃破された戦車に狙撃兵を忍ばせ、回収するために近づいてきた技術士官やソ連将校を狙撃したり、時には速射砲や機関砲を備え付けた即席陣地とし、防御の拠点にすることも多く、日本軍に再利用させないためであった[495]

ソ連軍で最も損害の大きかった部隊は第11戦車旅団であった。緒戦からBT-5で戦闘に参加して大きな損害を出し、7月23日 - 8月28日の間にBT-7を155輌供給されていた。8月20日にはBT-5やBT-7など154輌で戦闘に参加、しかし続発する損害や故障に修理や補給が追いつかず、30日には稼働38輌・死傷者349名と、再び壊滅状態に陥っている。

戦後、ノモンハン従軍の元日本兵にNHKが番組取材で収録した記録によると、ソ連戦車には乗員ハッチ外側から南京錠による施錠がなされていたとの証言がある。逃亡を防ぐ目的および督戦のための処置ではないかとの証言であった。ハッチが外側から施錠されているため戦車が撃破された場合乗員は脱出できず、脱出していれば助かったであろう命が失われたことになる。)[496]

両軍が得た軍事的教訓[編集]

日本軍[編集]

ノモンハン停戦後に日本軍は、得られた教訓を今後に活かすべく、現地調査も含めて研究・討議し以下の報告書を作成している[497]

  • 『ノモンハン事件に関する観察』村上啓作中将 1939年9月27日

    • 砲兵の自衛力強化、戦車の強化(戦車砲の初速と装甲増大)航空隊の強化、歩兵の対戦車能力の強化の提言。

  • 『作戦用兵上より見たる「ノモンハン事件の教訓」』関東軍参謀島貫武治少佐 1939年9月30日

    • ソ連軍が自動車を21,000輌もつぎ込んできたため、機動力で日本軍が圧倒的に劣っていたことの指摘、航空部隊が事件後半は劣勢だった理由の考察。

  • 『参謀長会同席上に於ける第5課長口演要旨』(唯物主義ソ軍の観察に就いて)参謀本部 第2部第5課(露西亜課)1939年10月10日

    • ソ連の厖大な戦力補充能力、大量の自動車で克服した兵站問題、対敵能力、優秀なる火力、欠陥を補正するのが極めて機敏と分析、同時に物資偏重の必然的結果としてソ連軍は日本軍と比較し精神面で弱いとの指摘。ただしノモンハン事件は「特殊な情況と地形で行われた作戦」であり「ソ連軍の長所を過大に短所を過少に判断する」ことがないよう注意すべしとしている。

  • 『ノモンハン事件に関する若干の考察』参謀本部作戦課長稲田正純大佐 1939年10月17日

  • 『ノモンハン事件に関する所見』関東軍参謀 寺田雅雄大佐 1939年10月13日

    • 参謀本部と関東軍の非難の応酬、互いに統帥を乱したと非難しあった。特に関東軍は第6軍は負けたのでなく、参謀本部が第6軍の攻勢を中止したのが敗戦思想と非難。

  • 『戦場心理調査報告、戦場心理調査に基づく所見』浦邊少佐、高木嘱託、梅津嘱託

    • ノモンハンでの兵士の心理についての考察、どういうときに集団行動が崩壊するかや、恐怖心の発生分布等が説かれる。

  • 『ノモンハン事件研究報告』大本営陸軍部ノモンハン事件研究委員会第一研究委員会 1940年1月10日

この中の『ノモンハン事件研究報告』は参謀本部主導で作成されたもので、小池龍二大佐が委員長、主査小沼治夫少佐の、第1委員会(戦略戦術・編成・資材・通信・経理衛生・ソ連事情等)22名、第2委員会(軍事情報)10名で編成された『ノモンハン事件研究委員会』により作成され、完成したものは陸軍三長官に提出された[498]。作成にあたっては、現地で関係者から徹底した事情聴取を行うなど、大掛かりな調査が行われたが[499]、委員長の小池は1939年9月に北支の前線から参謀本部に転属したばかりで、ノモンハンの事情は殆ど知らなかった上に、大きな権限は与えられておらず、軍司令官や師団長などより直接事情聴取を行う明確な権限はなく、現地の関東軍の幕僚らは「何も知らないのがやってきた」とその能力に懐疑的であった[500]

しかし、委員らの熱心な調査・研究により、指摘はかなり踏み込んだ的確なものとなった。要約すると「最大の教訓は国軍伝統の精神威力を益々拡充すると共に、低水準にある我が火力戦能力を速やかに向上する必要あり」「火力戦能力向上については、その要を強調して既に久しくなるが、遂に所望の水準に達さず、今回の事件に逢着することとなった」「そうなった原因は、我軍は欧州大戦(第一次世界大戦)を経験しなかったため、文献等により習得した認識に過ぎなかった」「今事件を契機に、火力戦に対する正当な認識を持ち、編成・装備・補給・教育・運用・技術各部門の飛躍的進展を促進させなければならない」と的を射たものであったが[499]、工業力水準の問題もあり、日本軍をソ連並みの火力に持っていくのは最初から困難であるという認識が、ノモンハン事件研究委員会調査開始前の1939年10月4日の陸軍省内の秘密会議の席で既に話し合われていた。「ノモンハン事件の後始末については、12月中旬頃迄には、将来の策の決着をつけたいと思っている。装備については形をソ連に似せるが、その能力はその8割と思わねばならぬ、戦力比は10対8なり。残りの2割は精神力で補う外なきも、これはなかなか困難である」と結論付けているように[501]、落としどころは最初から決まっていたも同然で、火力が短期間に向上するあてはないので、当面は日本兵の敢闘精神に頼った、夜間の急襲戦法と白兵戦能力により対抗するしかないとされた[498]

この報告書は4つの省部内の金庫に死蔵され、報告書の目的であった「国軍兵備改善進歩に資す」にはあまり活用されることはなかったが、それでも研究に兵站や技術などの実務将校が関係したため、一部でノモンハン事件の教訓を活かした装備改善が図られた[502]。特に教訓を活かしたのが陸軍航空本部とされる[15]

  • ノモンハン戦の戦訓は、日本陸軍の航空機・装備開発や運用面では大きな影響を与えた。防弾装備(防弾鋼板、防漏燃料タンク、風防防弾ガラス)の研究・装備、無線装備(無線電話)の質向上と効果的利用、単機空戦から編隊空戦への移行・強化、飛行戦隊(独立飛行中隊)と飛行場大隊(飛行場中隊)の空地分離など、陸軍航空の更なる近代化を重視する考えが内部に生まれた。また、将来は陸軍航空隊の中核幹部となる若手将校・下士官らベテラン・パイロットを多数失ったことは、陸軍戦闘機隊の崩壊さえ招きかねない事態と危惧され、下士官からの叩き上げパイロットへの陸軍航空士官学校における部隊指揮官教育を経ての将校登用(少尉候補者制度)を積極的に進め、さらに少年飛行兵の募集を強化するなど、海軍に先駆けて航空戦力の拡充を図る端緒となった。

  • 九七戦がソ連軍機に対してその旋回性能が最後まで強力な切り札だったことから、陸軍航空隊では格闘戦重視の軽戦闘機が主流となったが、一方で高速重武装(重戦闘機)へと発展を遂げている世界情勢もノモンハンでの戦訓と相まり強く認識され、太平洋戦争開戦に至るまで卓上では最後まで結論は出なかった。そのため運動性重視の軽戦一式戦「隼」と、速度と武装重視の重戦二式単戦「鍾馗」の二つの単座戦闘機がほぼ同時期に採用・実用化され、のちにバランスの取れた四式戦「疾風」へと進化した。

一方で、火力については資源や予算配分の問題から大きな進展のないまま太平洋戦争に突入することとなった[15]

  • ノモンハン事件以前から日本側の戦車や対戦車砲の対戦車性能の不足はある程度認識されており、試製九七式四十七粍砲やBT戦車と同級の47mm戦車砲を搭載した試製九八式中戦車などの開発が行われていた。ノモンハン事件の発生を受け、事件直後の1939年9月には試製九七式四十七粍砲を発展させた一式機動四十七粍砲の開発が開始され、また1940年9月に試製九八式中戦車の試製47mm戦車砲を九七式中戦車に搭載する試験(後の一式四十七粍戦車砲を搭載した新砲塔チハの基となった)が行われるなど、戦車や対戦車砲の対戦車性能を向上させる試みが行われた。だがこれら新装備の開発や配備は進まず、一式機動四十七粍速射砲や新砲塔チハの配備が行われたのは数年後の1942年になってからであり、戦車や対戦車砲の対戦車性能を改善する教訓は十分に生かされたとは言えなかった。太平洋戦争後半においては、新型戦車や新型対戦車砲の生産も投入も間に合わず、結果として第二次世界大戦末期に至るまで旧式な装備の使用を続ける事となり、連合軍の戦車・対戦車装備との陸上戦で苦戦する一因となった。

ソ連軍[編集]

勝利したソ連軍にも大きな課題がいくつも判明している。

ジューコフ率いる第一軍集団の上部機関として極東のソ連・モンゴル軍を統括した、ソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンはノモンハンの勝利を「ソ連の8個師団に対し、日本は不完全な2個師団に過ぎなかった。言うなれば4対1であった。戦車・大砲においても我々は優越していた。ただ損失数においても我々は優越していた。死傷者数は膨大であり、ベッドは不足していた。我々が世界に吹聴した勝利は、あまりに犠牲の大きい勝利で世界に勝利を喧伝する必要はなかった。ノモンハン事件は間近に迫っていた軍事的災難の序章であった。我々に戦争の準備ができていなかったことは確実であった」と後年考えた通り、停戦後に、参謀本部に戦闘経験を調査し、作戦の誤りや、軍の戦争準備の遅れ等の問題点を洗い直すよう指示をしている[503]

GRUの元情報部長でノモンハン事件では後方支援部隊の隊長をしていたV・A・ノヴォプラネッツの手記によると、調査委員会は、前線で指揮官から一般兵士に至るまでの聞き取りを開始したが、ジューコフはこの調査に非協力的であり、ヒアリングに一回応じただけで、その後は調査委員に会おうともしなかった[504]。それでも調査報告書は出来上がり、シュテルンに提出された。シュテルンはこの報告書を最高司令部に報告した後、貴重な教訓として各部隊に配布するつもりでいたが、この報告書が提出された際の参謀本部の本部長は栄転していたジューコフであった。この頃すでに、自画自賛に溢れたノモンハン事件の回想録を出版していたジューコフは、報告書の出版許可を申し出た参謀本部の東部作戦部長のシェフチェンコ大佐を罵り、報告書はそのまま死蔵された。その後、シュテルンは新任の国防人民委員部防空局長での任務上の責任を問われ大粛清の対象とされ、1941年10月28日に銃殺刑に処されたため[505]、死蔵された報告書が日の目を見ることはなかった。したがってその詳細な内容は今日でも不明である[506]

ノヴォプラネッツが指摘したソ連軍の問題点は以下の通りである[78]

  • 我々が日本軍に勝利したのは、兵力や兵器の数について圧倒的に優勢だっただけで、決して戦闘能力が優れていたわけではないが、「(日本軍なんて)ひとひねりだ」と思い上がったため、大きな損失が生じることとなった。

  • 各部隊の間には何ら協同行動もなく、それぞれの兵科が個々バラバラに行動していた。

  • 通信については、無線が全車輌や全部隊に配備されていなかったので、ソ連軍の司令部はナポレオン時代さながらに各部隊の連絡は連絡将校に任されており、司令部は各部隊からの連絡将校でごった返していた。ノヴォプラネッツはこの状況を揶揄してジューコフを「ジューコフ・ボナパルト」とあだ名を付けた。

一方でこれらの報告はニキータ・フルシチョフ政権下でジューコフ失脚時に展開された中傷キャンペーンの一種と指摘する主張もある。フルシチョフ政権下で編纂された『大祖国戦争史』ではジューコフの功績は抹消されている。

結局ソ連軍においても、ノモンハンでの苦い経験は活かされることなく、ソ連軍は1939年のソ連・フィンランド戦争においてフィンランドで痛撃を浴びることとなった。

スターリンは冬戦争の後に「ノモンハン事件のエピソードはちっぽけな限定されたものに過ぎない」と述べたが、これは日本軍の武藤章軍務局長の「ノモンハンのようなつまらぬ事件の戦訓にいったい何の価値があるのか?」[506]の意見と同様に、互いに教訓が多かったノモンハン事件を大したことはなかったように矮小化しようとする意思に他ならなかった。

両軍の損失[編集]

日本軍の損失[編集]

人的損失[編集]

捕虜となった日本兵

事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍は出動した58,925人[507]のうち損失は次のようになっている。

  • 戦死:7,696人[9][12]

  • 戦傷:8,647人[9][12]

  • 生死不明:1,021人[9](566人が捕虜[12]うち160人が戦後に捕虜交換で生還[14]

    • 合計:17,364人(これは戦傷病から戦死に振り替える調整が終わっていない数値である)また同データにつき、17,405人[508]とする見解や戦病2,350人を加えて19,768人とする見解もある[12]

歴史家秦郁彦によれば、航空隊、戦車隊を含めた損失は戦死8,109人[10]、戦傷8,664人[11]、捕虜を含む行方不明1,021人[11]に、病人2,363人とされ[11]、大まかに人的損失(病人も含む)20,000人でうち戦死・行方不明は9,000人と主張している[509]。日本軍と共に参戦した満州軍の損耗はハイラルにある忠霊塔には、合祀者202人と刻んであるが、満洲国軍日系軍官の会である蘭星会が出版した書籍「満州国軍」によれば「動員戦力は18,000」であるが「国軍の死傷は明らかではない」とされる[510]

日本軍の中でもノモンハンで終始戦い続けた第23師団の損失は極めて大きく、日本軍死傷者の大半を占めることとなった[511]

第23師団部隊別損耗表(1939年10月27日第23師団軍医部調整)[511]部隊別戦死戦傷生死不明小計出動兵員数死傷率師団司令部264567723233%歩兵団司令部13042219%歩兵第64連隊1,3611,5061132,9804,61565%歩兵第71連隊1,0361,7773593,7724,55183%歩兵第72連隊8471,222542,1233,01470%捜索隊12069919838052%野砲兵第13連隊569595981,2621,74773%工兵第23連隊70109017933853%輜重兵第23連隊412806929923%通信隊513808918046%衛生隊5955011433435%野戦病院580132216%病馬廠0000420%合計4,7865,45563910,88015,97568%

この損失率は、後の第二次世界大戦におけるミンスクの戦いでのソ連軍西部正面軍の損失率60% - 70%(45個師団中32個師団を喪失)に匹敵するような高い損失率となった[512]

日本軍の損失については、ノモンハン戦後のかなり早い時期に情報開示されていたが[9]、太平洋戦争後に研究者間で日本軍惨敗という評価が有力になると[513]、日本軍の損害も過大に見積もられるようになった。1966年10月3日付『朝日新聞』での、靖国神社で行われた「ノモンハン事件戦没者慰霊祭」に関する記事で「ノモンハン事件戦没者一万八千余人」との報道がなされたことで[514]、日本軍は過少に損害を公表していると主張するものもあったが[515][483]、この記事は死傷者数約18,000人と戦没者数と混同しており[12]、同じ朝日新聞においても、2006年7月17日付の記事では戦死者は約8,000人と報じられている[516]。また、靖国神社が18,000人の戦没者を祭っていると誤認されていることもあるが[517]、靖国神社自体の慰霊祭文でのノモンハン戦戦没者数は7,720人となっており、明らかな事実誤認であった[518]

ソ連側資料での日本軍損失は下記の通りである。

  • 1939年11月15日のソ連第1軍集団参謀部が労農赤軍参謀総長ボリス・シャポシニコフに提出した『1939年ハルハ河地区作戦に関する報告書』によれば、7月と8月の戦闘だけで、日本軍の死傷者数は、4万4,768名(戦死者1万8,868名、負傷者2万5,900名)に達した[12]

  • 1946年のシーシキン大佐の本[519]では、日満軍の損失の総計は5万2,000から5万5,000、そのうち、死者だけで2万5,000人と記述した[12]

  • 1993年のクリヴォーシェフ監修本でも日本の戦死者数は約2万5,000人とした[12]。他方、ソ連軍中央国家文書館 (ЦГАСА) の文書によれば、戦死者18,300人、戦傷者3,500人、捕虜566人(88名は捕虜交換)、遺体引渡し6,281体であった[12]

    • ソ連軍中央国家文書館所蔵のソ連軍資料では「1939年10月3日に、(日本)陸軍当局は戦死傷者数が1万8,000人であることを認めた」としながらも[520]、日本陸軍当局(正確には第6軍軍医部)発表より過大な戦果報告を行っている[12]

  • また、ロシア国防省公史料館蔵資料によれば、日本満州軍の戦死者:18,155名、負傷者・行方不明:30,534名で、合計48,649人であった[18][521]

装甲車輌損失[編集]

日本軍の九七式軽装甲車、ノモンハン事件が初陣となった

兵器名参加総数損失数損失率八九式中戦車(甲)8788%八九式中戦車(乙)261039%九七式中戦車4125%九五式軽戦車351131%戦車合計732940%九七式軽装甲車4250%九四式軽装甲車15533%装甲車合計19738%

戦車第3連隊と第4連隊の1939年7月2日から概ね7月7日までの損失[522]

日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたという。ノモンハンで一緒に戦った歩兵も戦車隊に対しては辛辣であり「戦車団が引き下がったのは、戦況にやまが見えたからですか?」という質問に対してある歩兵連隊長は「それはね、本当に役に立たなかったからだ。これを言うと戦車隊の者が怒り物議をかもすから体裁よく処理した。まるで豆腐だった…」と厳しい回答をしている[523]

航空機損失[編集]

未帰還77機、大破102の計179機[508]

ソ連軍の損失[編集]

人的損失[編集]

ソ連は従来、イデオロギー的な宣伝のためもあって、日本側の死傷者推定を大きく膨らませる一方で、自軍の人的損害を故意に小さく見せようとしてきた[524]。冷戦下で、ジューコフの報告や、ソビエト連邦共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所が編集した『大祖国戦争史(1941〜1945)』といった、ソ連側のプロパガンダによる過小な損害数のデータが広く知れ渡り、ソ連側の一方的勝利が定説化する大きな要因ともなった[525]

その定説が大きく覆されるきっかけとなったのが、ソ連の共産主義独裁体制が崩壊した1990年前後であり、グラスノスチにより次々とソ連軍のかつての極秘資料が公開される度に、ソ連軍の人的損害が激増していき、ついには日本軍の損害をも大きく超えていたことが判明し[526]、ソ連が情報を意図的に操作していたことが明らかになっていった[527]

ソ連・モンゴル公表人的損失数の推移表[6]軍隊出典日付死亡・行方不明捕虜戦傷総計ソ連軍タス通信[528]1939年10月300名 - 400名900名1,200名 - 1,300名ジューコフ報告書1939年11月1,701名7,583名9,284名極東国際軍事裁判判決文1948年11月9,000名大祖国戦争史(1941〜1945)[529]1960年9,284名ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告[12]1991年8月4,104名94名14,619名18,815名戦争、軍事行動および軍事紛争におけるソ連軍の損害[530]1993年7,974名15,251名23,926名20世紀の戦争におけるロシア・ソ連:統計的分析[18][531]2001年9,703名15,952名25,655名モンゴル軍ロシア国防省戦史研究所のワルターノフ大佐の報告[12]1991年8月165名401名566名モンゴル戦史研究所2001年280名710名990名

2016年時点で最新のソ連軍・モンゴル軍の人的被害は下記の通りである。

  • ソ連軍戦死:9,703人[16]

  • 戦傷:約15,952名[16](約16,000名とする見解もある)

  • モンゴル軍死傷者990名[18]

    • ソ連軍・モンゴル軍合計:26,645人[16][18]

ソ連軍の損失率はノモンハン事件の全期間を通じて高い水準で推移し、投入兵力に対するソ連軍の損失率は34.6%の高い水準に達した。これは同じソ連軍の攻勢における損失で、後の第二次世界大戦での東部戦線の激戦の一つであるクルスクの戦いにおける、最大の激戦地区となった南部戦区の損失率13.8%を大きく上回る損失率となっている[532]

日本軍は事件直後には、ソ連軍の損害を比較的正確に把握していた。停戦後1939年10月17日に参謀本部作戦課長稲田正純大佐らが纏めた報告書『ノモンハン事件に関する若干の考察』にて、「(ソ連軍)人員ノ死傷ハ恐ラク弐萬に及ビ」とソ連軍の死傷者は20,000名前後だと捉えていた[533]

事件当時、あまりにも莫大に発生したソ連軍の戦傷者を寝かせるベッドが全く足らず、ノモンハンに近いソ連の都市チタは負傷者で病院は満杯となり、溢れた負傷者はイルクーツクや西シベリアの各都市に送られ、さらにはソ連の欧州部であるクリミア半島コーカサスにも送られている[503]。その様子をソ連の駐在武官補佐の美山要蔵中佐が目撃しており「ソ連軍も相當な損害を得まして、シベリア極東方面の病院には概ね九千余名を収容しております。尚モスコウ(モスクワ)方面には医者を要求しているし、駅の待避線に入っている病院列車を見ます」と報告している[534]

装甲車輌損失[編集]

鹵獲したソ連軍のBT-5戦車・FAI装甲車の上で万歳斉唱する日本軍兵士

車種別損失数[535]兵器名損失数備考BT-759通常型30・無線機搭載型27・火力支援型2BT-5157通常型127・無線機搭載型30T-2620通常型8・kHT-26化学戦型10・kHT130化学戦型2T-3717BA-38BA-644BA-1041FAI装甲車21BA-2019T-209SU-122合計397

これ以外にも多数の戦車・装甲車輌が撃破され修理されたが、数が膨大で特定は困難である[535]。また、ソ連軍の装甲車輌の損害は800輌以上とする見解もある[531]

航空機損失[編集]

撃墜されたソ連軍戦闘機I-15bis

機種別損失数[17]兵器名損失数備考I-16109うち4機が翼内にShVAK機関砲 2丁を搭載したI-16P型I-15bis65I-15の改良型I-15322SB-252TB-31R-52合計251うち非戦闘損失43

日本軍による戦果報告では航空戦にて撃墜したソ連軍機は1,340機とされ[328]、航空戦のほかにも高射砲攻撃で180機、戦車で26機、歩兵攻撃で3機が撃墜したと報告した[531]。日本軍は事件後も1300機撃墜を喧伝し、地上では負けていたものの航空戦は例外的勝利だったと主張、その認識は戦後も消えなかった[536]。第24戦隊長だった梼原秀見少佐は「確実撃墜じつに1200機を越え、我が方の損害50機足らず...類例のない嘘のような事実」と揚言し、従軍記者の入江徳郎は1958年に発売した著作「ホロンバイルの荒鷲」で「空中戦では文字通り圧倒していた」と回想した[536]。しかし、1980年代以降には航空戦の実態が明らかとなっていき、飛行第11戦隊所属の滝山和大尉が「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は劣勢」「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った」と証言した[536]。ソ連邦崩壊後は被害の実態が明らかとなった。ソ連空軍の被害は戦闘損失207機で、日本の損失176機との比率は1対1.2であった[537]。ただしこの比率はソ連側の戦闘損失と日本側の大破・未帰還数を比べた結果であり、両軍の分類基準が異なる以上単純な比較は出来ないともされている[536]

第二次世界大戦後の動向[編集]

ソ連末期の日ソ蒙共同研究[編集]

1980年代末期から、消滅した満洲国を除く日本、モンゴル、ソ連の3当事国の学者たちによる共同の働きかけにより、この軍事衝突を研究する国際学会が1989年にモンゴルの首都ウランバートルモスクワで、1992年に日本の東京で開催された。東京の学会は「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」と名づけられ、席上、ロシア連邦軍のワルターノフ大佐は、従来非公開だったソ連・モンゴル軍全体の損害(死傷者および行方不明者)について、日本軍よりも多くの損害を出していたことを明らかにした[538][注釈 11]。2009年9月、軍事史学会偕行社近現代史研究会が主催し、シンポジウム「ノモンハン事件と国際情勢」が開催された[539]

司馬遼太郎の事実誤認と影響[編集]

歴史作家司馬遼太郎は、1968年に小説『坂の上の雲』の連載を開始した頃から、自分の戦時中に学徒動員により予備士官として戦車第1連隊に配属された経験を顧みて、次の時代小説ではノモンハン事件を取り上げようと考えて取材を開始した[540]。その取材の過程で[541]、「もっともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず(中略)事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた八九式戦車団が、雲霞のようなソ連のBT戦車団に戦いを挑んだのである[487]」「日本軍は貧乏性なのでうんと砲身が短い57mm砲を搭載させた八九式中戦車を作ったが、ノモンハンでまったく役に立たず、発狂した中隊長も出たほどだった。慌てた日本軍は九七式中戦車を制式戦車に切り替えて生産を開始した[542]」「ソ連軍は日本軍の前に縦深陣地を作って現れた。(日本軍は縦深陣地を理解しておらず)全兵力に近いものを第一線に配置して、絹糸一本の薄い陣容で突撃した。日本軍はあたかも蟻地獄に落ちていく昆虫のような状態に置かれた」[543]などと考え、その結果、「日本はノモンハンで大敗北し、さらにその教訓を活かすことなく、2年後に太平洋戦争を始めるほど愚かな国であり、調べていけばいくほど空しくなってきたから、ノモンハンについての小説は書けなくなった」などと、知人の作家半藤一利に後日語り[544]、「日本人であることが嫌になった」とノモンハン事件の作品化を断念した経緯があるとされる[545]

しかし、司馬の知識は、日本軍戦車のノモンハン参戦時期や、九七式中戦車の開発経緯・生産開始時期、「縦深攻撃」と「縦深防御」の違いなどで事実誤認がある。八九式中戦車は第2次ノモンハン事件の当初から戦場に投入され、逆に事件の終わり頃には損害が大きいという理由でノモンハンを離れて原隊に復帰していた[546]。また、九七式中戦車は昭和12年(1937年・皇紀2597年)に制式採用され、下記の年度別生産台数表の通り、ノモンハン事件のあった昭和14年(1939年)には八九式中戦車を大きく上回る数がすでに生産されていた[547]。ノモンハンでは、戦車第3連隊(吉丸連隊長)に連隊長車を含め4輌の九七式中戦車が配備されて、戦闘に参加していた[548][注釈 12][549][550]」。また、縦深陣地についても、ノモンハン事件の戦闘で、日本軍がソ連軍の縦深陣地を強攻して大損害を被ったという局面は少なく、むしろ8月のソ連軍攻勢時に、フイ高地やノロ高地などに日本軍が構築した陣地をソ連軍が強攻して大損害を被っている[244]。特に井置捜索隊が守ったフイ高地については、歩兵陣地が数線の掩体壕で構成され、さらにその奥に機関銃陣地や速射砲の陣地が構築されているといった縦深配置で築かれていた。さらに速射砲陣地については、予備陣地も4~5個を設けて、砲撃の度に陣地変更して敵の攻撃をかわすといった非常に巧妙な造りとなっており[450]、司馬の認識は明らかに事実誤認であった。ソ連軍がノモンハンで多用したのは、縦深防御ではなく縦深攻撃であった。圧倒的な機甲戦力による縦深攻撃は、特に8月の大攻勢時に威力を発揮し日本軍第23師団を壊滅させた。続く第二次世界大戦独ソ戦)におけるバグラチオン作戦がその集大成となったとされている[551]。司馬は、防衛庁戦史室を訪ね協力を取り付けて、段ボール1箱分のノモンハン事件に関する防衛庁戦史室秘蔵資料の提供を受けるなど[552]、50歳代の10年にわたってノモンハン事件のことを取材、調査しているが[553]、なぜこのような事実誤認をしていたかは不明である[注釈 13][554]

九七式中戦車と九五式軽戦車による演習風景

日本軍年度別戦車生産台数[547]戦車名1937年1938年1939年1940年1941年合計九五式軽戦車80531154226851,355八九式中戦車2919200068九七式中戦車0252023155071,049年間計109973377371,1922,472

司馬はソ連軍がほぼ損害を受けていなかったと思い込んでいたようで[555]、その認識に基づいて「ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた[487]」「この局地的な対ソ戦は、世界史上でもめずらしいほどの敗戦だった[556]」などと考えていた。日本軍歩兵が一方的な殺戮されたというのも、司馬がノモンハン事件の取材を進めていた1960年から1970年代には明らかでなかったソ連軍の情報が公開されるに従い否定されている[407][注釈 14][553]

司馬がノモンハンの小説を書けなくなったいきさつとして、司馬の内面的な問題だけではないとする指摘もある。司馬はノモンハン事件の調査を進めていく中で、ノモンハン事件で責任を取らされて予備役行きとなり、戦後に長野県上山田温泉で温泉宿を経営していた歩兵第26連隊長の須見新一郎元大佐と知り合った。連隊長解任の経緯から軍中央の参謀に不快感を抱いていた須見は、参謀を「悪魔」と罵倒するほどであり、昭和軍部に批判的であった司馬と意気投合している[557]。須見は謹厳実直な陸軍軍人ながら、明確に日本陸軍の作戦用兵に対しては批判的であり、司馬の小説の構想にうってつけの人物であったため、司馬は須見を主人公のモデルとして小説を書こうと決めて、熱心に上山田温泉通いをしていた[558]。そんな中で、1974年の『文藝春秋』正月号で司馬は参謀本部元参謀で伊藤忠商事の副社長だった瀬島龍三と対談し、それが記事となった。須見は、中央のエリート参謀であった瀬島に対して「あのインチキめ」と腹立たしく思っており、その瀬島と対談した司馬に対して「あんな不埒な奴にニコニコと対談し、反論せずにすませる作家は信用できん」と激高し、今までの取材内容を使用するのはまかりならんと絶縁状を司馬に送り付けている[559]。絶縁状を送り付けられた司馬は、須見を主人公のモデルとする構想が挫折したため、ノモンハン事件の小説が書くのが困難となってしまった[560][561][562]。後に司馬はこの時を振り返り「もしぼくがノモンハンを書くとしたら血管が破裂すると思う」と述べるほど追い詰められている[553]。ノモンハン事件ではないが、司馬は自分の戦車兵時代の話を、同じく司馬原作のテレビドラマ『梟の城』の後番組としてテレビドラマ化を目指していたが、これも撮影困難として挫折した経緯がある[563]

日本側の歴史認識・評価の変遷[編集]

1980年代末期のグラスノスチで機密資料公開されるまでは、ソ連側の情報はソ連に情報操作された出典に頼らざるを得なかった[564]。1963年に邦訳が刊行されたソ連軍の公式戦史でのソ連軍の人的損害が9,824名と過少に記述されていたり、日本軍の損失が55,000名と過大に記述されていたり[565]しており、ノモンハン戦は日本軍が約2倍 - 5倍の損害を被った惨敗であったという評価が定着することとなった[461]

ソ連寄りの情報が頼りになったため、ノモンハンでの日本軍に対する評価は辛辣になることが多かった。例えば、当時の高校の歴史教科書も「関東軍は満州国とモンゴル人民共和国との国境のノモンハンで、ソ連、モンゴル軍と衝突し、機械化部隊に圧倒されて慘敗し[566]」との記述であったなど、ソ連の情報公開前のノモンハン事件に対する多くの日本国民の印象は、司馬と大きくは変わらないものであった。一方で日本軍側は、「陸上戦では敗北したものの、空戦ではソ連軍を圧倒して、戦果を航空機1300機以上撃墜」とする過大な戦果を主張しており、戦後になってもその残像が消えることはなかった[329]。こういったノモンハン事件に関して定着した評価が変わったのが、グラスノスチによる情報公開が進んだ1980年代後半以降であり、ソ連軍の損害が明らかになると、ソ連軍の損害を少なく隠蔽していたことが明るみに出た[注釈 15]。またロシア側により発見された史料による「日本側の被害」は日本側が公表している数値よりもはるかに多い人数を挙げており、互いに相手に与えた損害を過大に見積もっている[12]

現代の事件評価

日本軍は決して惨敗したのではなく、むしろ兵力、武器、補給の面で圧倒的優位に立っていたソ連軍に対して、ねばり強く勇敢に戦った、勝ってはいなくても「ソ連軍の圧倒的・一方的勝利であったとは断定できない」との見解が学術的には一般化したと三代史研究会は主張[568]している。歴史家秦郁彦も「一般にノモンハン事件は日本軍の惨敗だったと言われるが、ペレストロイカ以後に旧ソ連側から出た新資料によれば、実態は引き分けに近かった」として、ほか「損害の面では、確かに日本軍のほうが少なかった」「領土に関していえば、一番中心的な地域では、ソ連側の言い分通りに国境線が決まったが、停戦間際、日本軍はその南側にほぼ同じ広さを確保」と戦闘開始時の目標をソ連は達成したが日本も同等の領土が得たこと、「それがいまだに中国とモンゴルの国境問題の種になっています」と指摘している[569]。一方で「勝敗の判定は何よりも戦争目的を達成したかで決まる。そうだとすれば戦闘の主目標はノモンハン地区の争奪だから、それを失った日本軍の敗北と評するほかない」としつつも、ジューコフが一方的な勝利を演出するため、自軍の損害を半分以下、日本軍に与えた損害を実際の5倍以上であったと吹聴した、とも指摘している[570]

政軍一体のソ連との比較・分析

また、ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争として国家的な計画性を持って対応した。これに対して日本側は政府が全く関与していなかったばかりか、日本軍の中央もソ連軍が大規模な攻勢に出る意図を持っていることを見抜けず自重するように指導したため、関東軍という出先軍の、辻政信服部卓四郎など一部の参謀の独断専行による対応に終始した。

福井雄三は著書で「10倍近い敵に大被害を与えて足止めをした実戦部隊は大健闘、むしろ戦術的勝利とも言えるが、後方の決断力欠如による援軍派遣の遅れと停戦交渉の失敗のため戦略的には敗北した」と結論付けている[571]。モンゴルでは日本軍の戦死者は5万と伝えられている。

元ソ連参謀本部のヴァシリイ・ノヴォブラネツ (Василий Новобранец) 大佐の手記では「ノモンハンで勝ったのは、兵力と武器類の面で優位に立っていたからであり、戦闘能力で勝利したのではない」と書いている。

半藤一利は2000年に「勝ち負けをいいますと、これは国境紛争で、停戦のとき、向こうの言い分通りに国境を直してますから、負けですね。しかし、戦闘そのものは互角だった」と記した[572]。また2004年の著作では最新鋭の装備であったソ連軍に対して日本軍は白兵攻撃であったわけで、「日本軍が勝ったとまではいえない」と述べている[573]

須見新一郎は戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果に終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね」[574]。ただし、須見はハルハ河西岸への渡河戦で、指揮下の安達大隊が敵中孤立し苦闘している最中に、ビールを飲みながら夕食をとっていたことを辻にとがめられた際に「安達の奴、勝手に暴進してこんなことになったよ。仕方ないねえ…今夜、斥候を出して連絡させようと思っとる」と答えるなど、安達大隊救出に消極的であったので、辻に一喝されている[575]。この時の須見の対応が停戦後の即時解任予備役編入につながっており、辻と須見は終生相容れざる関係となっている[576]。ただしこのビールを飲んでいたというのは辻の誤解で、須見が飲んでいたのはビール瓶に入っていた水だとする当番兵の証言もある[577]

一方で辻は「ノモンハン戦で日本は負けていなかった」と主張していた。本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするものである。辻は太平洋戦争の終戦後に一時期タイ国内に潜伏していた際に『遺書』と称する手紙を日本の家族に送っており、その中でノモンハン事件について「この北辺の草原に起った局地戦は、我は支那事変を処理しつつ、敵はなんらの拘束も受けずに生起したのだった。兵力比は彼我最初は2対1、最後は4対1で、しかも戦場の主導権はあくまで確保し、8月末において、一時彼に委しただけだった。これから大規模に奪回しようという時に参謀本部は負けたと感じたが、現地軍は勝った、少くも断じて負けとらんとの気持であった。此の一撃を更に徹底したら情勢は大局的において決して不利にはならなかったろう」と書いている[578]

ロシアの歴史認識・評価[編集]

ノモンハン事件70周年で、記念碑の前で演説するドミートリー・メドヴェージェフ大統領ツァヒアギーン・エルベグドルジモンゴル国大統領

ハルハ河勝利の立役者であるジューコフは1940年5月に上級大将に昇進し、ソ連最大の軍管区であるキエフ特別軍管区司令官に就任。その後、赤軍参謀総長に就任し、ハルハ河での勝利が栄達のきっかけとなった。ハルハ河の戦闘はハンニバルローマ帝国軍を大破したカンナエの戦いに例えられ、各種兵器を統合運用しての機械化兵力による優れた両翼包囲の典型だと絶賛された。ソ・軍前線集団司令官シュテルンは「カンネーの戦いに似ている。これは史上二度目の完璧な包囲戦となるだろう」と述べている。歴史研究家ウィリアムスパールは「ジューコフはカンネの戦いを再現した。ハンニバルがテレンティウス・ファロ率いるローマ軍を破ってから二千年の歳月を得て乾いたモンゴル草原の幅74キロ、長さ20キロの戦場で両翼包囲を成功させた[579]」と述べている。歴史研究家オットー・プレストンは「この戦闘においてジューコフは作戦指揮に自分の流儀を確立した。強い指導力・大胆な攻撃・革新性・陸空の巧妙な連携・必要なら膨大な犠牲もいとわない覚悟が彼の持ち味だった。強い重圧下でも平静を保ち状況を完璧に把握できた[580]」と述べ、ジューコフを高く評価している。

キエフ特別軍管区司令官に任命された数日後にジューコフは初めてスターリンに引見され、ハルハ河の戦闘での日本軍についてスターリンから直接質問されたが、「我々とハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。特に接近戦闘でそうです」「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、特に防御戦に強いと思います。若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降参せず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、特に古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです。日本軍の技術については、私は遅れていると思います。わが軍のMS1型に似た日本軍の戦車は老朽となり、装備も悪く、行動半径も小さい。また戦闘の初期には日本空軍がわが空軍機を撃墜したことは確かです。日本軍飛行機は、わが軍に『チャイカ』改良型やI16型を配備しない前にはわが方より優勢でした。しかし味方にスムシケビッチを代表とするソ連邦英雄の飛行士団が加わってからは、わが空軍の優勢は目に見えてきました。総じて我々が日本軍のいわゆる皇軍部隊と呼ばれる精鋭と戦わねばならなかったことは強調せねばなりません」と日本軍に対する評価を述べている[581]。時にこの評価が「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」[582]や「日本軍を評して兵は勇猛果敢、しかし将は無能の極みである」[583]などとジューコフ自身の原典とは表現を変えて意訳される時もある。また、ジューコフは前線視察を渋る指揮官など、自軍の第一線の将校の能力に不満を抱いており、この日本軍を評したとする分析は、そのまま自軍であるソ連軍を評する意図があったという指摘もある[584]

ジューコフはその後、大祖国戦争ナチス・ドイツを打倒する立役者となったが、第二次世界大戦後に一番苦戦した戦場を聞かれて「Khalkhin Gol(ハルヒーン・ゴル)」(ハルハ河のことでノモンハンをさす)と答えたといわれる[注釈 16][407][585][586][587]。ジューコフがノモンハンの戦いを厳しいと考えていたのは、前線から妻のディエブナに対して「日本のサムライを殲滅する仕事は今日終わるだろう。敵を打ち負かすのに100門を超える大砲と大量の兵器、あらゆる機材を投入した。戦闘は終始厳しかった。だから司令官として不眠不休だった」と書いた手紙でも垣間見ることができる[588]。しかし、ジューコフ本人は自身の回顧録で生涯で最も記録に残っている戦いはモスクワ防衛戦、生涯で最も苦労したのはNKVD長官ベリヤの逮捕だと語っている[589]。1945年6月9日のベルリン記者会見ではノモンハンの戦いをどう思うか?、日本兵とドイツ兵の違いはなにか?と質問に対して、(ドイツ兵)は1939年に戦った日本兵より技量は優れていたと答えている[590]。ジューコ

実際にジューコフが戦った日本軍の主力部隊である第23師団は、新設された特設師団で精鋭とは言い難く[52]、この新設師団が100日以上も優勢なソ連軍とわたりあったのは日本軍側でも驚きをもって見られている[591]。一方でソ連軍側の主力となった第57狙撃師団、第82狙撃師団はカテゴリーIIIに分類される二線級師団であり、基幹要員の充足率は25%未満だった。中でも第82狙撃師団の30%は二週間ほどの訓練で投入された新兵で占められ、素人同然の師団を指揮しながら勝利を収めたジューコフの手腕は対フィンランドの冬戦争時の醜態と比較されて高く評価された[要出典]。

勝敗認識については、単なる史実研究を超え現代における国家の名誉に関わりかねない神経質な論点を含んでいる。こういった「歴史の見直し」の動きに対してソビエト崩壊後は比較的容認の態度にあったが、再び「強いロシア」を標榜するようになったロシアは神経を尖らせており「正義の戦いに勝利した解放者=ソ連」という従来の歴史認識を堅持しようとしている[592]との批評がある。2009年8月6日、ウランバートルで開かれた「ノモンハン事件70周年」の記念行事に出席したドミートリー・メドヴェージェフ大統領は「この勝利の本質を変えるような捏造は容認しない」と演説した[513]

中華人民共和国の歴史認識・評価[編集]

戦場跡の内モンゴル自治区新バルグ左旗に1989年、ノモンハン戦役遺跡陳列館が開設されている。

日本側戦死者の遺骨収集と慰霊[編集]

日本側戦死者約8,000人のうち、約4,500人の遺体は日本軍が収容したが、約3,500人の遺骨が第二次世界大戦後も中国・モンゴル国境付近に残存しているとされる[593]。日本政府は遺骨の収集を要望していたが、2003年11月21日、モンゴルのナンバリーン・エンフバヤル首相は、日本の小泉純一郎首相との会談にて、これを容認する考えを示した[594]

現地には博物館があり2001年には慰霊碑が建てられている[595][596]

ノモンハン事件を描いた作品[編集]

軍歌

  • 『蒙古軍歌 成吉思汗の歌/蒙古軍歌 出征の歌』(奥山貞吉、珠克德爾嗄爾巴、羅蘇拉、色陞嗄)

戦記

  • 『ノロ高地』(草葉栄、当時陸軍大尉、1941年)

  • 『バルシャガル草原』(高島正雄、当時陸軍中尉、1942年)

  • 『ホロンバイルの荒鷲』(入江徳郎、1942年)

  • 『続ノロ高地』(草葉栄、1943年)

  • 『ノモンハンの夏』(半藤一利、文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)

小説

ドキュメンタリー映画

劇映画

漫画

紀行

音楽

視点を定めないと歴史作家はあくまでもエンタテインメントです。しかもリサーチし探求しないと噓がばれます。だから寡作の人が多いです。そんな司馬遼太郎ですから当然破綻してリサーチ不足の指摘をするのが歴史学者です。

「俺は監督だ!イッパツ屋らしく『梟の城』である二番煎じの最悪だよ?ニンジャネトウヨ小説版が『韃靼疾風録』だよ?しかもネトウヨミリヲタらしく晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているだよ?要は時代小説のネタがないからパクってパクりつくして挙句が『梟の城』である二番煎じの最悪だよ?ニンジャネトウヨ小説版が『韃靼疾風録』だよ?しかもネトウヨミリヲタらしく晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているだよ?文芸部でなくても作家の宇宙の恥垢と言いたくなるぜ」

「文芸部です。歴史作家って今でも昔でも食えません理由は題材となる戦国武将のや偉人などリサーチしないとオリジナリティーでないんです。視点を定めないと歴史作家はあくまでもエンタテインメントです。しかもリサーチし探求しないと噓がばれます。だから寡作の人が多いです。そんな司馬遼太郎ですから当然破綻してリサーチ不足の指摘をするのが歴史学者です。逆に時代小説って時代考証守れば何書いてもOKです。時代さえわかれば超ロリコンエロハーレムもOKです。国にも規制できません。字ですからわかりません」

「俺は監督だ!字だからディティールにこだわる必要があるのSFはね?それがSFの本質だ、SF映画ブームって怪獣や宇宙人やUFOや宇宙船が見たいだけのブームでしかないの?目で見えるからね?その程度のブームがSF映画ブームだよ?だからニューウェーブ流行ったの?SFは恥だってね?サイバーパンクは『ブレードランナー』の余波だよ?だから中二病が多いのがSFファン」

「昔ながらアニメファンですがもうここまで来たら身も蓋もないですね?まだ騙されるかとSFファンもそうです。国際法ってヨーロッパの宗教戦争から始まったのにたまたま知り合ったSFファンはそのことすらもしないし赤松健応援してるんですよ?言いたくないですが所詮はタレント議員です。出来ます?法って国会議員すら変えれなくて最高裁判所が決めることです。社会人なら知ってるでしょう?身も蓋もない言い方しますが騙されるほうが悪いとしか言いようがないです。赤松健は所詮はオタクのアイドルです。アイドルは飽きたらただの政治家ですらなく政治問題発言繰り返すんです。石原慎太郎がそうです。まだ騙されるかという気分です」

「俺は監督だ!だったら騙す側に回るまでだそれが映画の本質でジョージ・ロイ・ヒルの『スティング』だ」


心の指紋

この物語をマイケル・チミノとベルドナルド・ベルトルッチとテレンス・マリックとブライアン・デ・パルマとミロス・フォアマンとダルのどを愛した人々すべてに捧ぐ

プロジェクト基本

に続く


是非とも『心の指紋』読んでもらえればありがたいです。 これはまだプロットタイプですので有料化の際はサービスします