ベイジング・エイプ①
男女平等が叫ばれるようになって久しい世の中ではあるが、必要なのは平等ではなくて、公平さなのではないかと思う今日この頃である。
まるでセンター試験の最後の設問みたいな文章で切り出してしまいましたが、というのも私、どうやらnoteを更新するのが2ヶ月ぶりのようで、もうどんなノリで書いてたのか正直わからなくなっている。冷静に考えて、出だしのパラグラフを「今日この頃である」なんていう締め方をするのは、純文学読みまくり男か、EXITのかねちじゃないと説明がつかない。ちなみに私はかねちではない。
いや、でも確かに平等を些か推し進めすぎる姿勢には些か違和感がある。左寄りの思想がいきすぎた人たちが唱える男女平等というのは、例えるなら、女バスの練習試合を男バスと組ませるみたいなものであり、変声期の男子に合唱でソプラノパートをあてがうようなもので、やはりそこにいささかの無理やりさを感じてならない。その強引な機会均等化に苦労こそあれ、意味はほとんどなく、とにかく男女を等しく扱うことそれ自体が目的になっているのではないかと思うのである。
設問②下線部の例と同意の文を抜き出せ。と言いたくなるような文章になってしまいました。カタすぎてワケわからなそうでギリギリ意味わかる絶妙なラインの文章、もうこれはこれで一つの芸術ということにしといてもらっていいですか(?)何回「些か(いささか)」っていうねんというツッコミを待ちません。著者の自分を賢く見せようと必死な姿が窺えますね、もう日曜日の夜って冷静じゃいられないのでとにかくこのまま続けます。
このあたりのジェンダー論については、非常にデリケートなテーマであると思うので、ヘラヘラした関西人の代表格である私がこれ以上の言及をすることは控え、その先の議論は頭のいい人たちに任せるとして、とにかく言いたかったのは、男女は同じ人間であれど全く違う生き物というくらいの意識で取り扱わないといけないということだ。
私が男であることから、「女はよくわからん生き物だ」と言っているように聞こえる人があるかもしれないので、念のため強調しておくが、優劣はそこになくて、ただ単に違う生き物であると言いたいのである。
いきなりそんなことを言うのはなぜかというと、最近折に触れて、「これはきっと男性特有の文化で、女性同士の間では成立しているのを聞かないな」という事象によく気がつくからである。
そのうちの筆頭となる一つが「連れ風呂」である。(適当な固有名詞が思いつかなかったので、"連れション"から着想を得て、連れ風呂と呼んでいるが、)すなわち、男同士、時に複数人で銭湯に行くアクティビティのことを指す。どうだろうか、これは女性はあまりやらないのではないかと思う。
それはまるで、スマートフォンの災害アラートがなんの予兆もなく一斉に鳴りだすのに似ていて、二十歳を迎えたあたりから、男は突然、誰に教えられるでもなく、友達とつるんで銭湯に行くようになる。特に温泉地でもないのに、なんの前触れもなく、である。それこそ、「今日飲みに行かん?」くらいのテンションで「今日風呂いかん?」という会話がなされるのである。しかしそれは居酒屋にいくのとは僅かにニュアンスが異なるのだ。
もしかすると、これは近畿圏内のごく一部のエリアに限った話なのかもしれないが、少なくとも私の周りにはそういう文化が同時多発的に成立していることが認められる。
「いやいや、女も行くで。ほら、岩盤浴とか」
という反論をいう人があるかもしれないが、それとは全く別物であると思うのだ。女性がいく岩盤浴とは、デトックスだの、リラクゼーションだの、痩せたいだの、とにかく無性にビショビショになりたいだの、すごく明確で高尚な目的意識がそこにはある気がする。一方で、男が「ちょ、風呂いこや」という時、それは「風呂行きたい」という思考以外何もない。風呂に入ってこうだから、とか、サウナに入ってどうだとか、裸の付き合いで〜とか、相談したいことが〜とか、そういった目的意識みたいなものはてんで無くて、ただ単に「え、今むっちゃ風呂いきたい」というその感情のみに突き動かされているのである。どちらかというと「うわ、めっちゃ今日餃子の口や」みたいな感じである。とにかく、本能に誘われるがままに、素っ裸になり、お湯に浸かる。さながら、温泉に浸かる猿、英語で言うとBathing Apeである。英語にした意味はまるでない。bath(風呂)の動詞形がbathe(風呂に入る)であるのは意外に知られてない気がする。風呂に入ることを一語の動詞にしてしまってるくせにシャワーで済ますアメリカ人ほんま「は?」という気持ちである。
そんなことを言うと
え、じゃあ、例えば男二人で風呂行って何すんの?
という質問になるだろう。ありがとう、手を下ろして頂いてかまわない。
答えは、特に何もしない、である。
正確には何もしないをする、であり、プーさん風に言うと「I'm going to do nothing」である。ちなみにこないだ、私が勤めてる会社の社長がプーさんのことを「プーさん」と読んでいて、ふと気づいたのだが、人はどれだけ偉くなってもプーさんのことは"さん付け"であり、プーさんの前には無力なのである。あの暖簾に腕押しなのらりくらりとした姿勢と生き方にはある種の畏敬の念と哲学を感じでならないのだろう。設問③下線部の著者の余談についてはとりあえずスルーしてください、である。
とはいえ、無言でじーっと風呂に浸かっているワケもなく、ひとしきりの雑談はする。というより逆に、雑談は普段より沢山交わす。仕事の話や、プライベートの話や、下衆い話から、下衆くない話まで、当たり障りのある話から、ない話までする。
男性は基本的に雑談があまり上手ではない。男同士で会話を紡ぐ時というのは、だいたい何か目的があって、例えば情報の交換であったり、課題の共有、解決策の議論であったり、あとは関西人に多いのが、エピソードトークをウケるかウケないかテストしたりするなどだ。
女性特有の、ただ話すのが目的、ただ聞くのが目的、というような会話は基本的にはしない。
繰り返すが、ここには男女差に優劣を暗示するような意図は全くなく、ただ生物としての違いを提示したいにすぎない。脳の仕組みの違いから、女性は古来よりコミュニティ形成のために「雑談」のスキルが男性より秀でていることは科学的な裏付けが十分にあるし、男性は群の中で狩猟担当であった経緯から、「共感」より「解決」に重きを置き、建設的な会話を好むという傾向があることも知られている。なので、男性諸君は、女性の話に対しては、とりあえずウンウンと共感するのが最も大事なのであり、善意であれど、解決策の模索やトゥーマッチなアドバイスは逆効果であるので気を付けられたい。と、最近女友達から指摘を受けました、気を付けます。
さて、話を戻すと、男は女性と違い、あまりユーモラスな雑談を得意としないわけだが、これが風呂に入ると全く話が変わるというのもまた事実なのである。
すなわち、強引に話をまとめると、男性にとって銭湯とは、女性にとってのカフェみたいなものと言えるだろう。いや、それよりももっと大事な意味を持つのかもしれない。そこは公共の場でありながら、男同士が一糸纏わぬ状態で相対できる社会から切り離された特殊な環境である。いわば、社会と自分を隔てる鎧の一切を取り払った状態になれ、その上、温浴効果により副交感神経が刺激されることも相まって、心身ともに開放された状態で友人と相対することができる唯一の社交の場所なのだ。
そこに求めるのは、心身ともにかっこつけずに友人と相対するという、自分の心理的に安全な居場所の確認という意味も一つあるかもしれない。サバンナで例えるなら、ライオンが本来のネコ科に立ち返ることを許される唯一の場所みたいなものなのかもしれない。ちょっと今のはさすがに意味がわからないな。まあいいか。
そのような空間の特殊性を察するに、我々が普段目にして当たり前に感じている"男湯"の風景は、女性陣にとってはまた新鮮で興味深いものに映るかもしれない。そこで一つの試みとして、男湯で見られる、ある種奇怪な男子の生態について、いかなる層の読者にも不快感を与えない表現になるよう配慮しつつ、少しだけ紹介してみたいとする。
男性陣にとっては、これはある種、生命線となる情報のリークであり、black lives matterよろしく、ある種の抗議活動に発展する可能性も十分に孕んでいるとは承知している。しかし、あえて冒頭に堅苦しく述べたように、男女はその相互の理解不能性を乗り越える必要があるし、そういう意味では女性の前で見せない男性像というのは、逆に女性に知ってもらうことにより、より理解が促進こそされ、何もネガティブな連鎖は生まないと私は考える。彼女たちが、この世から銭湯の根絶を目指す徒党を組まない限りは。
というわけで、次項に期待されたい。
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