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"書き手の幸せ"に目覚めた2年間。浦和レッズ担当時代の記事、まとめてみた。

新聞社に所属していた当時から、僕は紙面向けの原稿とは別に、ネット向けのコラム記事をたくさん書かせていただいてました。

今回は2015~16年、浦和レッズ担当時代のコラムをまとめてみることにします。

自分の方向性を決めた「1本」(2015年1~5月)


2015年1月、僕は2010年以来となるサッカー担当に復帰しました。

この時に担当クラブとして割り当てられたのが浦和レッズです。
当時の監督は「ミシャ」ことミハイロ・ペトロビッチさん。オシムさんともとてもご縁のある方です。

レッズ担当として書いた最初のコラムは、自分のサッカー担当としてのルーツを知ってもらえるように、と書きました。

ネット記事の編集担当さんがつけてくださったタイトルは、ハリルホジッチさん寄りになっていますが、ミシャさんにつながるご縁の方から書いています。


次に書いたコラムも、ジェフ千葉担当時代から取材させてもらっている阿部選手を題材に、自分の経歴を知っていただく意味も込めて。


当初は正直「大変なクラブを担当することになった」と思っていました。前回、サッカーを取材していた時のレッズの取材現場のイメージは…

・取材しにくい選手が多い
・担当記者同士のスクープ合戦が激しい

というものでした。

ただ、実際に現場に足を運んでみると、そんなイメージとはまったく違うことにすぐ気づきました。

取材エリアでは、柏木選手や槙野選手を筆頭に、みんな丁寧に取材対応をしてくれました。
クラブも派手な補強を進める方針を取っていなかったので、落ち着いて現場の出来事を追っていける時期でもありました。

そんな中で、僕は記者人生の大きな岐路とも言える、特別なコラムを書く機会に恵まれました。

宇賀神選手の言葉には、いつも人生そのものが乗っているような重みがあります。この時はまさにそうでした。
それを取り上げたこの記事には、とても反響がありました。

「代表」の2文字が乗っからなくても、いい題材なら読まれる。
真心を込めて書けば、読者の皆さんにはきちんと伝わる。

そう確信させてもらったことで、僕の取材方針は、以前サッカー担当をしていた時とは大きく変わりました。


「いい時期」に取材できる幸運(2015年6~12月)


取材がしやすいかどうかは、担当クラブの状況次第という部分もあります。
その意味でも、僕は恵まれていました。

レッズは第1ステージで優勝。9年ぶりの国内タイトル獲得に、さっそく立ち会わせてもらうことができました。

武藤雄樹選手、高木俊幸選手らが台頭していく様子を追う取材も、記者としてはとてもやりがいがありました。

ピッチを管理する皆さんのお話。チームがいい状態にあったのは、様々な形でサポートをするプロがいてこそ。そんなこともだんだん見えてきました。

好調なチームの中でも、さらに抜きんでた活躍をしていた柏木選手は、ハリルホジッチ監督に見出されて日本代表に。

李忠成選手、梅崎司選手らは、練習のピッチから「勝負を分ける極限の状況」を想定して激しいプレーをしていました。「こういう選手が緊張感を醸し出し続けるからこその強いチーム」といつも感銘を受けておりました。

ゴルフの石川遼プロにとっても「ヒーロー」だった鈴木啓太選手の引退も取材しました。


そしてこのころ、石川遼プロとレッズの選手たちとをつながせていただいて、交流ゴルフラウンドの実現にこぎつけました。
これがきっかけで多くの選手との距離が縮まり、ものすごく取材がしやすくなりました。

おそらく、遼プロからの「プレゼント」だったんじゃないかと思います。


サポーターの皆さんの後押しで(2016年1~4月)


「ゴルフ効果」で取材の幅はかなり広がりました。

担当1年目は「それぞれが1か月に1本」という取材班全体のペースに合わせてコラムを書いていましたが、それでは書き切れないほどネタはたまっていきました。

なので、担当2年目は徐々にコラム公開の頻度を上げさせてもらいました。

練習場の芝を管理するマスダさん、ダテさんだけが知っている、選手のパワー、特徴を見抜く方法とは…。

頑張るときはいつも今。
取材の現場を離れた今でも、大事な時に励ましてもらえる言葉です。

僕もビックリしました。
またとない結婚スクープのチャンスを2日続けて逃すという…!(笑い)

平川さんのコラム。どうやったらすごさを伝えられるのか。選手たちにも相談しながら書いた特別な回です。


このころになると、1本1本にかなりの熱がこもるようになって、文字数も増えてきます。

それにつれ、当時の新聞社の社内で「こんなに長い記事、誰が読むんだよ」と笑われることも増えました。

だからこそ、読んでくださったサポーターの皆さんがSNSなどで好意的な反応を示してくださっているのが、本当に心強かったです。あの後押しがなければ、とても書き続けられなかった。


異動の内示。ラストスパートへ(2016年4~9月)


この年もレッズは、本当に強かったです。

けが人が少ないというのも、強いチームの条件ですよね。
サポート体制も本当に素晴らしかったです。

オシムジャパンで通訳を務められていた千田善さんのご協力で、リーグ戦100試合連続出場の阿部選手にオシムさんからのメッセージを。

那須さんのプロ意識。彼からは「準備の大切さ」を教わりました。
このあたりから会社にお願いをして、記事に動画を挿入する形を取らせてもらうようにもなりました。(動画が非公開になってしまってますが…)

社の方針というよりも、勝手にやっていただけですが…どんな現場でもとりあえず動画を撮影してました。

日刊スポーツを退社した後、普通にスタンド観戦をした際にも、武藤選手とはすぐに目が合って手を振ってもらいました。ファン目線を忘れてないからこそなのかなと…。これもまた、プロ意識・オブ・プロ意識。

プロ意識、といえばこちらも。周囲にも明かさずに、16年間クラブハウスで清掃や洗濯の仕事を続けていた平井ミサヨさんのお話。(これだけなぜか記事に署名がない)

これも思い入れのある1本です。それまで描けていなかった「ゴールキーパーの仕事の流儀」について。土田尚史さんに全面監修レベルで相談に乗っていただき、形にできました。

槙野選手の視野の広さ、見習わないといけないといつも思っていました。

1枠しかなく、途中交代もないゴールキーパーというポジションの難しさ、切なさ。大谷選手にめぐってきた出番は、取材する我々にとっても特別なものでした。

そしてこの頃、僕は会社で内示を受けました。プロ野球担当への異動です。


「またいつか」(2016年10~12月)


思い入れのあるレッズの取材現場にいられるのもあとわずか。
悔いのないようにと、僕はとにかく記事を書きまくりました。

控え選手がどんな雰囲気をつくるかも、チームにはすごく大事です。
平川さんと那須さんはその点、ベテランのかがみでした。

なかなか説明がつかない興梠慎三選手の「強さ」について。古武術の先生にプレーを見ていただきました。

駒井善成選手について。自分でも好きな記事です。
ネット向けの記事のためだけに、担当クラブ以外にも取材におじゃまして…というのは僕としても初めてでした。大宮アルディージャの秋元利幸広報のご理解、ご調整のおかげでした。

新旧の「背番号13」にまつわる物語。これは取材していて、エピソードの強さにしびれました。

シーズン終盤の強さの裏に、メディカルスタッフの手腕あり。

またいつか。


◇   ◇   ◇


あっ、いつもたくさん話をしてくれた森脇良太選手の回がなかったのか…

今さらながらに反省?です笑
当時の話をいつかnoteで書きます。



さておき。
浦和レッズ担当としての2年間は、記者生活の中でも本当に特別な期間でした。

本当にいい取材をさせてもらいました。
たくさんの記事を書かせていただきました。

そして何より「読んでくださる皆さんの後押しを受けられるありがたみ」というものを、ものすごく強く感じました。


レッズの皆さん、そして読者の皆さんにいただいた「成功体験」は、今もあらゆる仕事をする上で僕の支えになっています。

取材に応じてくださる皆さんと、記事を読んでくださる皆さん、そして記者の「幸せな三角関係」がこれからも生まれていくよう、お手伝いをしていけたらいいなとも思っています。


(レッズとのご縁は転職後も続いています。その中で記事を書いたり、動画企画をやらせていただだいたりもしていますので、そちらはあらためてまとめたいと思っています)



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