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コロンビア 先住民族の友人、マウロ

(出会った当時、まだ14歳だったマウロ。2007年撮影)

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南米コロンビアの山中に友人が暮らす。彼の名はマウロ。現在24歳。僕がコロンビアに通いだして間もない2007年初めに、彼と出会った。

マウロを説明する、どんな言葉があるだろう。

コロンビア人、先住民族、ナサ民族、コカ農家、コーヒー農家、内戦被害者、サッカー好き、大学中退、夢・心理学者、負けず嫌い、女の子を誘えないシャイな青年、家族思い・・・

今、頭に浮かぶ僅かな言葉だけで語り尽くせるわけがないが、どれもマウロだ。すべてのことが同時に、境界なく彼の中に存在する。一面だけで彼を見ることもできるが、それは、僕が知っているマウロから何となく遠い。

僕がコロンビアに通いだしたのは2006年暮れの頃。26歳だった僕は、写真を撮ることを生業にしようと考え、長い時間をかけて撮影に打ち込める場所と人を探そうとしていた。

何故コロンビアだったのか。それ以前に一度、中南米を旅行したことがある。そこで覚えた多少のスペイン語が生かせることと、コロンビアで続く半世紀に及ぼうとしていた内戦のことが頭にあった。

コロンビアに到着後、すぐに泊まった首都ボゴタの宿で、たまたま手に取った冊子に出ていたのが、コロンビアで「内戦」に直面しながら自治活動をする「先住民族」である「ナサ民族」の話だった。そこには麻薬の原料としての「コカ」も栽培されているということも後から知った。僕にとって、これらの言葉が意味する光景は、ひどく刺激的だった。自分の好奇心を満たすのに、十分すぎた。いくつかのイメージが湧いた。「戦争の中で生きる悲惨な人々」「先住民族の伝統的な生活」「貧しさの中にある人間の豊かさ」。今思えば、テレビや雑誌など、どこかで見たことを確認しに行く作業とも言えた。

実際、現地での生活で、僕が持ち込んだ先入観は意味を持たなかった。何も知らないことにすら気づかずにいた僕は、マウロと彼の周囲の人々を通して、その土地と、そこで営まれる人間の生活を知った。

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マウロと出会った2007年、僕はボゴタで得た情報を頼りに、コロンビア国内でも先住民族が多く暮らすカウカ県の、アンデス山中に点在する先住民族集落にいた。偶然の出会いから旅の拠点にしていたのが、標高約2800メートルに位置するハンバロ村。ナサ民族が多く暮らす自治区だ。僕はハンバロの、ある家庭に居候していた。気のいい若夫婦が、僕に自宅の空き部屋をあてがってくれていた。初めて見る東洋人の珍しさもあってか、周囲の人々にも相手にしてもらえ、僕はそれを「受け入れられた」と喜び、旅の中での満足感を得ていた。居候を始めてひと月がたった頃、当時14歳のマウロが大きなリュックを背負って、12歳の弟と僕が暮らす家庭にやってきた。2人はその家の夫人の弟だ。

マウロたちは、ハンバロから車で3時間ほどの「ソナ・バッハ(標高の低い地域)」と呼ばれる地域で両親と暮らしていた。ある日、父親がバイクで事故を起こし大怪我を負った。手術をするため、彼らが住む集落から車で丸1日の距離にある都市の病院へ運ばれた。手術を受けた父親は、通院のため病院近くに暮らす知人宅に部屋を借りる。母親も父親の身の回りの世話をするため家を離れた。家に残されたマウロたちは、父親の状態が良くなるまで姉の家に預けられたのだ。

そこからマウロと、約2カ月間、僕は生活を共にした。

マウロたちが暮らす集落へと伸びる山道

14歳のマウロは、少年が持つ未知のことに対する素直な好奇心を隠さなかった。毎晩僕の部屋に来て、映画の中で見たジャッキー・チェン、ブルース・リーでしか知らなかった東洋人の僕に、教科書の世界地図を見せながら色々なことを尋ねた。家族、食べ物、習慣や歴史—。僕は彼の質問に答えながら、同じように、マウロに彼のことや、彼らが暮らす土地のことを聞いた。そのやりとりは、言葉に不自由だった僕にとって最高のスペイン語の授業でもあった。また、僕に懐いてくれていたのが嬉しかった。

ある日、マウロが僕に食ってかかってきた。発端は、僕が使っていたノートパソコンに興味を持った彼に、「壊されたら嫌だ」という思いから、触られるのを嫌ったことだった。その時、僕が理解していなかった大切なことがある。マウロが属するナサ民族の社会では、物やお金を独り占めすることは美徳に反する。全体として裕福とはいえない社会で、物やお金を持つ人は、持たない人たちと共有することが美徳となる。お金を持つ人は、さして必要がなくても、自宅の家事の手伝い、壁のペンキ塗りなど用事を作って知人の手を借り、大きな額ではないがお金を渡す。例えばパソコンにしても、頭のどこかで「嫌だな」と思っていても、借りにきた人に壊されないよう注意をしながら、頭ごなしに触らせないということはしない。子どもであっても、きちんと理由を説明するという対等な気遣いが必要なのだ。

僕はマウロのプライドを傷つけ続けていた。もしかすると、マウロだけではなく、その周りの人に対しても同じだったかもしれない。彼らにとって「持つ側」の人間である僕に、マウロが「そうかよ、パトロン」と捨て台詞を吐いた。僕はその言葉に苛立ち、彼と言い合いになった。

その他にも、僕はマウロの心を土足で踏みつけていた。僕は当時、先住民族の暮らしがどういうものか知りたくてそこにいた。普段の会話の中で「インディヘナ(先住民族)にとってこの習慣はどういう事?」という様に、「インディヘナ」という言葉を無造作に使っていた。ある日、アンデスの民族音楽を聞いていた僕に「オレはインディヘナなんか嫌いだ!」とマウロがぶつかってきた。彼はレゲトンというプエルトリコ生まれのダンスミュージックが好きで、よくそのビデオを見ていた。画面には、ビルが立ち並ぶ都会の風景と高級車、派手な格好で歌い踊る男女が映る。農村での自給自足的な彼らの生活とは対をなすものだ。

僕は、自分が持ち込んだイメージを彼に押し付けていた。「先住民族」という言葉が一体誰を指すのかすら、考えたことがなかった。マウロは先住民族である以前に、ナサという固有の民族として生まれている。しかし、そのことも当時の彼にとっては、受け入れたくないことだった。メディアでは、固有の言葉、珍しい衣装、独自の習慣や食べ物など、西洋的な社会にいる他者から見て、見た目に奇抜なものが、それを知らない社会に対して分かりやすい例として「先住民族」として紹介される場面がある。他者は時にそれを、伝統「的」ともてはやし、時に自分たちに比べ「劣ったもの」と嘲笑する。

ナサ民族の中には、民族の言葉が残る地域が少なくない。だが、マウロは民族の言葉を持たず、彼の家族にも話者はいない。民族衣装を着ることもない。また、彼は民族音楽も土地の民話にも興味がない。シャーマニズムに基づく土地の儀式にも、「あんなのウソだね」と言う。それでも、外の人間は自分たちの事を「先住民族」と呼び、厚い壁と距離を生む。「じゃあ、オレとお前の違いは何?」もしそう聞かれたら、今でも僕は、彼が納得する答えを口にできる自信はない。

当時の僕はマウロの心を掴めずにいた。ただただ、初めて訪ねた珍しい土地の人々に、一方的な一体感を覚え満足していた。その僕を否定するマウロの存在に、僕の心はざわついた。

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高地にあるハンバロは、日没後には厚手の上着が必要なほど冷える。一方で、日中は日差しが暖かく、時折吹く冷たい風が心地よい常春の場所だ。

柔らかな太陽に照らされた気持ちの良いある日の午後、集落を囲む山々に銃声が響きわたる。一発目の破裂音が木霊となり、随分と長い時間、響き渡っていたのを今でも覚えている。僕は部屋にいた。生まれて初めて聞く銃の音だった。単発だった音が、連続した激しいものに変わっていく。夕飯の準備をする台所から、蒸気が漏れる圧力釜の音がする。服を手洗う音と、水道から流れる出る水の音が屋上の洗濯場から聞こえる。日常の音が、銃声とあまりに不釣り合いで、夢の中のように現実感がない。家の子どもたちはテレビの前に体を寄せ合っている。怯えた顔をするマウロもそこにいた。初めて見る表情だった。集落に駐屯する対ゲリラ警察部隊が路地を走り回るのが窓越しに目に入る。ハンバロの警察施設に対して、谷を挟んだ向かいの山からゲリラが攻撃を仕掛けていた。

混乱する僕は、家の中を右往左往する。マウロが「何でもないよ、フィエスタ(お祭り)だって、落ちつけよ!」と僕を叱咤する。しかし、パニックになった僕は、そのままカメラを片手に外に飛び出す。1時間ほどで銃声が鳴りやむ。興奮し放心する武装警官たちの傍らを、何事もなかったかのように農具を担いだ住民がバイクで横切り、子どもたちが路地で遊んでいる。空からは、いつもと変わらぬ柔らかな日差しが注いでいる。

家に戻ると、洗濯を手伝う女性が「怖かった?」と僕に聞いた。もちろん怖かった。パニックになり外を走り回るだけで、写真を撮ることもできなかった。その土地の営みを、写真に記録するためにいたはずなのに。

台所で料理をしている夫人に「こういうことはよくあるの?」と聞いた。彼女は、「2003年に警察がこの村にきたの。それまで村に警察はいなかった。その代わりゲリラが村の中を歩いていた。でもこんなこと(銃撃戦)はなかった。警察が来てからよ、こんな事が起きるようになったのは。」と言う。もっと詳しく聞こうとする僕の話を「もういいでしょ」と、一方的に遮った。

ここは、政府と反政府ゲリラの勢力圏が交わる内戦の最前線だった。僕は強く頭を殴られたようにクラクラしていた。「内戦」という言葉が何を指しているのか初めて知った。ただ、初めて目の当たりにした戦闘のショックだけではない。僅かの滞在で村の一員になった気でいた僕は、戦闘の間も営まれる日常に、どうしようもなく他所者であることを思い知らされた。マウロの日常もここにあった。ここで自分は何がしたいのだろう。この時ほど、自分と現地の人たちとの距離を感じたことはない。

その後、マウロが自分たちのことを少しずつ話してくれた。

彼が両親と暮らしていた場所には警察も軍も常駐していない、ゲリラの影響力が強い地域だ。加熱する危険な場所という意味で、「ソナ・ロハ(赤い地域)」と呼ばれる。

また、そこは、麻薬の原料としてのコカ栽培が盛んだという。彼の家族は産地として有名なコーヒーとともに、コカ栽培で生計を立てている。家族でコカの葉の収穫し、精製所でペースト状にする。集落には取引に係るマフィアに繋がる人が住んでいる。マフィアを手伝い、靴の底にコカインペーストを忍ばせ町へと運んでいた人物のこと、収入のために軍隊に入った人が、そこで麻薬を覚え刑務所に入れられていた事を、話しづらそうに僕に教えた。また、麻薬で狂った軍の兵士が銃を乱射したこと、住民の物を盗んだゲリラ兵士を別のゲリラが処刑したこと、日常の中にある衝撃的な事を普段と変わらぬ口調で話した。

マウロはよく「Japon bueno! Colombia malo!( 日本はいい国だ! コロンビア最悪! )」と冗談めかして言っていた。「なんでそんなこと言うの?」というと「何でもないよ、そう思うだけ!」と返す。

マウロが一度だけ歌ってくれた歌がある。「インディヘナ(先住民族)はいつも泣いている。悲しくて辛くて泣いている」という内容だった。学校で覚えたらしい。その時の寂しそうな彼の顔が印象的だった。

自分が「先住民族」であるがために、都市の華やかな生活とは懸け離れた場所で生きている。そんなことを、彼は身をもって知っていた。

数ヶ月後、日本に帰国した僕は、半年後に再びコロンビアに戻った。すぐに戻ったのは、マウロを始め、出会った人たちとの距離を作りたくなかったから。再びマウロを訪ねると、地方の小さな都市に家族と暮らしだしていた。この頃には父親の状態も良くなり、月1回へと通院の間隔が伸びていた。そのため、病院のある都市から、彼の姉が暮らす別の町のアパートに越していた。マウロたちも姉の家で両親と暮らしだした。ハンバロと違い、とても暑いその町で、6畳ほどの部屋に家族5人が暮らす様子は窮屈そうに僕には思えた。しかし、それよりも、家族が一緒に暮らせる幸せを皆が噛みしめているようだった。「ダイスケ、お前は両親を大切にしてるのか?」日本を出ると、ろくに家族と連絡を取らない僕は、「お前が子どもの時、誰がご飯を作って、服を洗ってくれてたと思ってんだよ」と、彼によく叱られていた。後に、当時妊娠中だった彼の姉に子が生まれ、家の中に明るさが増していく。

僕はどうしてもマウロの故郷に行きたかった。マウロがこれまでどんな思いで生きてきたのか、彼らが見てきた風景を見ることで共有できる思いがあるのではないか、その思いが日に日に強くなっていった。

自慢のトウモロコシを収穫するマウロの父。「おれの作ったのが一番うまいんだ」と話す

3度目の訪問となった2009年8月、マウロたちは故郷の村に戻っていた。電話をすると、父親は折れた足を固定していたボルトが抜かれ、山を歩けるまでに回復したと言う。

ある日、マウロたちが暮らしている集落から山一つ挟んだ所に暮らす知人を訪ねる機会があった。マウロの親戚も住んでおり、彼らが元気に暮らしている様子を伝え聞くことができた。深い谷に挟まれたその集落は、山の斜面にまだ青い実をつけたコーヒーの木がびっしりと並んでいる。畑で採れた立派な芋や熟れたオレンジを食べつつのんびり過ごしていると、マウロのお父さんが犬を連れてフラリとやってきた。「元気でやってるかー?」僕が来ていることを聞いて、山道を1時間以上歩いて会いに来てくれたのだ。あまりの嬉しさに、握手に力が入る。足はだいぶ良くなっていた。しばらく話をしていると、「今から家に行ってみるか?」と言う。

前回彼らに会ってから1年半以上が経つ。頭の中をみんなの顔がよぎる。

山道を登りきったところから、彼らの暮らす集落が見えた。山々に囲まれたそこだけお皿のような平坦な場所がある。そこに50軒ほど家が立ち並んでいる。マウロの家はその中心から少し離れた山の斜面にある。残り半分の道のりは、やけに足取りが軽くなった。

コーヒー畑の中を通る小道の先に家が見える。家に着くと、マウロの母親と姉、3歳になった彼女の息子が迎えてくれた。マウロは広場でサッカーをしていた。自家製の甘いコーヒーとパンで休んだ後、広場へ行ってみる。夕日が沈む中で、友人たちと汗だくになってサッカーをしていた。大声で声をかけると、「こっちのチームに入ってくれよ!」といきなり僕もボールを追いかけることになった。あっという間に汗だくになり、ヘロヘロになりながら日が沈むまで遊んだ。17歳になったマウロは少し背が伸び、顔つきも大人っぽくなっていた。もうすぐ15歳になる彼の弟は、「ハラヘッタ!ハラヘッタ!」と、声変わりした低い声で、以前教えた日本語を口にした。再び会えたことがとても嬉しかった。

家に戻り一緒に夕飯を食べながら話をする。

夜が更けてくると、あたりが大分涼しくなる。食事を終え、温かいアグアパネラ(お湯に黒砂糖を溶かした飲み物)を飲みながらマウロたちと話しをしていた。その時、「ブーン」という低い音が夜空に不気味に響き渡る。何だろうと思っていると、「フィエスタ(お祭り)が始まったんだよ」と、落ち着いた表情でマウロが言う。すると遠くから、腹にずしりと響く「ズーン」という音がした。低空で飛ぶ軍の飛行機と、そこから落とされた爆弾の音だった。爆弾が落ちた場所はここから大分遠いようだった。ここ数日、山に潜伏するゲリラに対して軍の攻撃が続いているという。毎晩夜が更けてくると空爆が繰り返されている。

不気味な音が響く中、マウロは穏やかな表情のまま会話の続きを楽しんでいる。まるで何事も起きていないようだ。敢えてそうしているのか、本当に気にしていないのか分からない。ただ、彼らの雰囲気が不思議なくらい僕の心を落ち着かせていた。

3日間の滞在で僕はそこを離れた。別れの挨拶をしようとマウロを探すと、彼の姿がない。町へ出かける親戚を、バスが通る場所までバイクで送って行ったという。いつのまにバイクを運転できるようになったんだろう。出会った頃、まだ14歳だった少年の成長を感じて嬉しくなった。

その後、日本の高校に当たる基礎教育過程を終えたマウロは、国内第二の都市メデジンの私立大学に入学する。心理学を勉強するためだった。彼の家族にとって、高額の授業料と生活費をまかなうことはとても楽ではない。マウロの姉が、町のコーヒー生産者組合で事務職に就いていた。安定した収入を得られることから、マウロにも、自分の生活費を削って仕送りを続けていた。しかし、無理をしていたのだろう。入学から1年が経つ頃、仕送りを続けることができなくなった。マウロは休学をし、実家に帰ってきた。当時僕は日本にいて、インターネットを通じてマウロと連絡を取り合っていた。休学の話もそこで聞いた。今後のことを聞くと、「コカを摘んで、また大学に戻れたら戻るよ」とメッセージが届いた。

彼の土地では現金収入源が限られる。コーヒーにしろ、一家が1年食べていくのに十分な額にはならない。コカは、貴重な収入源だ。町で仕事を得るには、コネと学歴がいる。都市的な生活をするには、スタートラインに立つことが極めて難しい。他に、収入のために軍隊に入る選択肢がある。しかし、ゲリラの活動地域では、ゲリラへの裏切りと取られかねない恐れをマウロが話してくれた。彼の弟が入隊の気持ちを母親に伝えると、泣いて止めたという。

2016年3月、数年ぶりにマウロを訪ねた。彼が暮らす集落へは、日に数本しかバスがない。連絡すると、途中の町までバイクで僕を迎えに来てくれた。目の前に現れた24歳の彼は、抑えきれない笑顔を浮かべていた。そう感じたのは、僕がそうだったからだ。後部座席に乗る。久しぶりに彼の背中を近くで見た。年月の分だけ、逞しさが増していた。どんな経験を積んできたのかと、想像した。川沿いの直線道路を走る。バイクが、生ぬるい空気を気持ち良く切っていく。どんな会話をしたのかよく覚えていない。他愛のないことだったのだと思う。心地いい時間だった。

数日間を彼と過ごした。大学には結局戻れなかったらしい。そのことに、彼自身が折り合いをつけられず、周囲に心を閉ざしていた時期があったと、彼の姉から話を聞いていた。今は、両親の畑を手伝いながら生活を送っている。僕がそこを去る前日、地域の農業研修制度を利用して、他県の農業学校に入学するためマウロが先に旅立っていった。新しい生活への期待が彼を明るくしていた。出発直前なのに学校までの行き方を全く調べていなかったのには思わず笑った。一緒に地図を見て場所の見当をつける。4、5時間で着くと彼は考えていたが、どう見ても、丸1日はかかる場所にありそうだった。全寮制で、週6日、朝から夕方まで授業が詰まっている。持っていく物は服くらい。小さな荷物をまとめる。なんだか楽しそうだった。

結局彼は、途中道に迷い、集合時間に大きく遅れて現地に着いたようだ。彼の母親が笑って教えてくれた。授業がない唯一の休みの月曜に、彼に電話してみた。やたら、僕の生活を心配してくれた。そういえば、彼から見て僕はどう映っているのか聞いたことがなかった。世間知らずの、フラフラした奴くらいなのかもしれない。実際遠からずのところもある。

次に会うときには、コロンビアの内戦は終わっているかもしれない。どんな経験を積んだマウロに会えるのか。どっちが先に家庭を持っているのかも興味がある。コロンビアの先住民族マウロ。長く付き合っていきたい大切な友人だ。

愛車で弟をバス乗り場まで送るマウロ

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昨年、コロンビア政府と同国最大の反政府ゲリラFARCの間で歴史的な和平合意が結ばれ、半世紀を超える内戦の大きな節目の年となった。マウロと僕の交流は、現在の内戦が終わりに向かう10年間と重なった。コロンビアでマウロたちと出会えたことで、僕は和平に関するニュースを、僕が出会った一人一人がどう感じ、その人生の中でどういった意味を持つのかを想像するようになった。これは僕にとって、とても幸運なことだと思っている。なぜなら、「もう戦争が終わる」という話が、ある人にとってどんなに喜ばしいことか想像するだけで、僕も同じように喜ぶことができる。こんなに豊かなことはない。

僕が繰り返しコロンビアを訪ねたのは使命感があったわけではない。20代後半の僕は、日本での生活に身の置き場のない居心地の悪さを感じていた。それは、自分の立場がはっきりしない、どこに向かっているのかわからないことからきていたのだと思う。当時、周囲で同世代の人々は、社会の中で居場所を作り着実に前に進んでいる様にみえた。僕はいつも、お金がほとんどなくなった状態で帰国し、その場をしのぐために日払いや、短期の派遣バイトを繰り返した。親に頼ることもあった。仕事も人間関係も積み重ねがなく、その日その日をやり過ごす。なおさら周囲の目が気になった。 

コロンビアに行くと「写真を撮る人」という立場が明確になる。外国人であることも手伝い、なんとなく身の置き場がそこにでき、居心地の良さも感じた。沢山の人と出会った。その中には自分を受け入れてくれる人、待っていてくれる人がいた。そして、「私はあなたを大切に思っている」ということを隠そうとせずに、時に押し付けがましいほどに身体全体で表現してくれる人たちがいた。そこで交わされる濃密な感情のやり取りに、僕は強い喜びを感じた。日本にいてもその機会はあったのだと思う。ただ僕は目の前の人とのやり取りから逃げていたように思う。人から信頼され、信頼することの喜びを僕はコロンビアで感じた。

2011年の東日本大震災は僕にとって大きな出来事だった。マウロたちと並行して取材を続けていた、エクアドルに暮らすコロンビア難民グループがいる。彼らは内戦から国外に逃れたアワ民族だった。彼らの元には2007年から毎年訪ねていた。もとは、山深い地で農業を中心に自給自足的な暮らしを送る人たちだった。年配者も多く、自分の人生そのものである土地と、そこでの生活を失ったことに傷ついていた。

グループのリーダーであるルイスという男性と僕は馬が合い、彼の家族、仲間たちにカメラを向け、話を聞いていた。ルイスは、異国の地に新しい故郷として難民仲間が暮らす集落を作ろうとしていた。その大きな夢に僕は惹かれた。そこにはマウロたちとは違ったコロンビアの姿があった。

2011年は、6月からコロンビアに行く予定を立てていた。期間は数ヶ月。マウロたちのところと、エクアドルの難民を取材しようとしていた。出発へ向けアルバイトを掛け持ちしていた矢先に震災に直面した。震災直後、僕は混乱していた。実家がある茨城北部も大きな被害を被った。東京で暮らしていた僕は、電気が止まった実家と、地震発生から3日間連絡を取ることができなかった。テレビでは東北の被災状況がひっきりなしに流れてくる。幸い家族は無事だったが、僕は不安に駆られていた。実家から目と鼻の先には福島がある。もともと身近な土地だった福島で原発事故が起きた。当時、僕はかなり強く、実家がある土地もそう遠くない時期に人が住めなくなると考えた。昨日まで何事もなく過ごしてきた日常があっという間に崩れ去っていく。なんて脆いのかと思った。僕はコロンビアに行くことをやめた。取り返しがつかなくなる前に、茨城を中心に見知った土地で起きていることを追うことにした。

そう決めて、駆けずり回っている矢先、エクアドルから連絡が入った。難民グループのリーダー・ルイスが死んでしまったというものだった。彼にはまだ聞きたいことがあったし、彼が語る夢の続きを見たかった。彼の地に行けばまた会えるということを、なぜ当たり前だと思っていたのか。僕は過去を振り返り、もっとできたことがあったはずだと後悔した。

福島をはじめ被災地での出来事を、僕はコロンビアで出会った人たちと重ね合わせて見ていた。土地を大切にする人が、自分の意思と関係ない理由で土地を捨てざるを得なくなる。その時のやるせなさ、そして、その土地で生きていくための知恵と力を備えた人々が、暴力的に街に投げ出された時に感じる自分への無力感、不甲斐なさ。こんなはずじゃないという思い。生まれ育った環境に長くいた人ほど、その思いは強い。難民の人たちが欲していたものは、土地だった。それはどの土地でもいいというものではなく、自分が生まれ育った環境とより近い土地。彼らは、その土地での食料の得方、暮らしの立て方を熟知している。その土地で幸せに生きる術を上の世代から受け継いできた人たちなのだ。

またそれからは、コロンビアのことも震災と重ねてみるようになった。地球の反対同士の土地で生きる人々の気持ちを行き来しながら物事を見ていた。日本もコロンビアも、原因は違うが人間として抱く感情の普遍さを知った。

人が生きることはなんなのだろうと思う。僕はコロンビアでたくさんの人と出会い、そこで生きる喜びを学んだ。また、その出会いがあったからこそ、日本でも多くの出会いを得た。感謝の気持ちしかない。マウロと僕の違いはなんだろうか。余計なものをそぎ落とした時に残るものにどれだけの違いがあるのだろう。そう思うのは僕の思い上がりかもしれない。僕はこれから何をしていけばいいのか。今は、この人の流れに身を置き、もう少し流されていようかと思っている。その上で、より多くの人たちの生きる姿に接し、役に立つことができれば、こんな喜びはない。

自宅の軒先で、いとこに髪を切ってもらうマウロ。流行のスタイルを注文する

初出雑誌『アフリカ』vol.26(2016年8月)、『連続無窮』22号(2017年3月) 掲載


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