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教育のコンテンツ化に抗う。GIGAとかDXとか。

石川晋さんの個人通信noteを読んだ。
今月のみ無料。次月以降も購読することにした。

この記事の中にある、この部分に考えさせられた。

学校教育におけるICT推進には当然必然性も必要性も感じているが、あえての疑義を差し挟むなら、身体性を伴うプロセス価値(その重要性も深刻性も)をともすれば軽視しがちだということだ。

https://note.com/simpledreams/n/nc8694a2f6d72

 私もどちらかとえばICT推進の立場だ。普段の授業では、生徒たちは自分の使いたいタイミングでChromebookを開き、実験を撮影してファイル共有したり、調べ物に活用している。生徒に課すレポートなども提出はデータか紙の選択ができるようにしている。テスト前には、基本的な問題や生徒から質問あった問題についての解説動画をアップしている。
 その上で、学校教育のICT推進、GIGAとかDXの流れを見ていて思うのは、石川さんの指摘の通り、学校教育における、人と人が関わり合う場であれば必ず内在している「身体性」を、どうも軽視しているのではないかということだ。
 いやむしろ、軽視していると言うよりも、自ら積極的に身体性を排除することに価値を置いているような気もしている。それは言わば、「教育のコンテンツ化」と呼べるのではないだろうか。誰がやっても、誰でもその洗練されたコンテンツを提供すれば、どんな生徒でも効率的に、一様な経験が保証され、一様な効果が現れるような、そんな教育をICTによって目指しているのではないだろうかと思ってしまう。よく「ICT化によって効率化された時間を、生徒と関わり合う時間に使うことができます」と言う謳い文句を聞くが、「いやいや、むしろ効率化できそうな部分にこそ身体性が内在しているんですけど。」と突っ込みたくなってしまう。そもそも教育は、効率化などできない。

 石川さんはnoteで、身体性の話題をJR北海道の文脈から繋げていた。(私は石川さんのこの文章こそ、コンテンツ化に抗いながら、できるだけ自分の身体の感覚を手繰り寄せながら書いているなあ、と感じる。)
 私は音楽に例えてみたい。
 音楽は現代ではすでにコンテンツ化されている。今やサブスク全盛で、誰もが自分のスマホから聴きたい曲をワンクリックで聴くことができる。ちょっと聴いて気に入らなければ、別の曲、別のアーティストを聴くこともできる。選択権はすべて自分の手元にあり、そこに偶発性はほとんどない。
 今の教育が目指しているのは、まさにそういうサブスクで音楽を聴くような、コンテンツを消費することに価値が置かれているような姿ではないだろうか。
 時代を遡れば、音楽にも身体性が内在していたことがわかる。CDであればショップに買いに行っていた。私は高校2年生のとき、aikoの「花火」をラジオで聴いて衝撃を受け、家から自転車で30分のCD屋にファーストアルバムの予約注文に行った。後日発売日に学校を早退し、CDを受け取りに行ったら、そこにクラスメイトの〇〇君も居て、なんと同じアルバムを持っていた。それからは言うまでもない。
 人間そういう、どうでもいい様なことが経験の総体として記憶に残るようにできている。学校での学びも、そういう身体性を介在した学びに溢れている。何が自分の学びのフックとして働くのかは、誰にもわからない。
 さらに音楽の歴史をもっと遡ると、そもそも音楽はレコードにパッケージ化されるまでは、その時その場で演奏家が演奏したものを聴衆が聞く、という手段でしか経験できないものだった。そう考えると、演奏家だけでなく、聴衆にもその場を身体的に構成する要素が委ねられているわけで、音楽という経験は演奏家と聴衆のあいだに起きる偶発性の賜物だったのだ。その音楽の姿は今でもライブ、コンサートとして残っている。
 授業にもそういうところが確かにある。授業で教える、あるいは学習する内容そのものには、それだけでは何の価値もないと私は思う。それなのに今のICTを推進する根底には、そういう教師と生徒、あるいは生徒同士のあいだにおきる偶発的なものを排除するような流れを感じる。さっきの例えで言えば、授業を音楽のサブスクのように捉えている嫌いがある。サブスクの良きコンテンツの消費者を育てようとして、演奏家にはなんの価値も見出さない。そんな授業が増えている気がする。
 もし授業で話し合う活動をICTを使って行うとする。すると、話し合う活動自体をコンテンツ化することによって、「ジャムボードで意見を出し合おう」という授業が生まれる。そこには話し合う活動に伴っていた身体性ーー誰が記録をするで揉めるとか、沈黙と騒々しさの間とか、話し合いの順序性とか、関係ない話や何気ない仕草とかーーが生まれない、ノイズの少ない話し合いが、コンテンツとして質の高いものとして捉えられる。
 また別の授業で、「〇〇についてネットで調べてわかりやすくまとめる」という授業を行う。ネットでそれらしい情報を集め、編集ソフトで見た目のよいものをある程度誰でも作ることができる。ただ、目的の情報を見た目良くまとめたもの自体に何の価値があるのだろうか。それこそ知識のサブスクのようなものであって、何の繋がりもない。そもそも調べるという行為は一本道ではなくて、寄り道こそに知識の拡がりがあるわけであって。
 
 身体を介した学び、偶発性を担保した豊かな学びに、ICTがどう寄り添えるか?そういう問いが必要なのかもしれない。

 以前、私の授業中に生徒がChromebookを指差して、「こんなおもちゃに使われないようにしなくちゃならない!」と言っていた。冗談かもしれないが、ちょっと確信を突いている。もうすでに、端末から無尽蔵に繰り出されるコンテンツやアプリをいかに上手に消費できるかという競争軸が生まれつつある。
 私も全力でコンテンツ化に抗いたいものだが。 
 

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