近藤大介

色々な人に刺激を受けながら日常を撮り続ける写真家です。 海外の方をターゲットにしたフォ…

近藤大介

色々な人に刺激を受けながら日常を撮り続ける写真家です。 海外の方をターゲットにしたフォトツアーを提供し、日本の素晴らしさを一緒に発見中。  noteは今年80歳になった父の記録【昭和のサラリーマン】を自分の写真と共に残していくのが目的で始めてます。

最近の記事

【昭和のサラリーマン】 〜最終章〜 

平成5年(福岡営業部3年目)  1、1月8日 福岡T乗り合い正式決定。 1月14日調印。 帰りの常務車車中で、常務より 「よかったなあ」の一言。 涙する。 2、トヨタ九州団体自動車1%シェアーイン。 A常務喜んでくださる。 3、4月15日 T九州工場 披露パーティー。 T社長の堂々とした対応感動。 4、TV(ムーブ)出演。 妻、東京で同時出演。 5、I君結婚式。 仲人。前夜妻とドッキング。 翌日京都駅ホームでT会長とバツタリ。 我々は、東と西に別れるとお話しした

    • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾参〜  福岡営業部時代平成3年(1991年)〜 平成5年(1993年) 福岡と小倉に1課ずつの2課体制。 前編

      1、2月6日赴任 2、2月9日 初の小倉行 北九州支店時代より4年ぶりで懐かしい連中がいた。 3、2月23日 T氏・M氏 来福福岡T社 J取締役紹介を受ける。 4、3月2日 R建設 R社長 面談して下さる。 「青春の門」の「堕落編」に主人公が新宿歌舞伎町でチンピラに絡まれた際、W校のボクシング部で「W校のR」として歌舞伎町では顔を売っていた「R」さんに助けられる場面があるが、その本人である。 O先輩の知り合いであるとのことで、 「とにかく会社の受付箱に、名刺を入れに

      • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾弐〜  名古屋営業部時代平成元年(1989年)〜 平成2年(1990年) 役職 T社専任次長

        1、赴任日 4月3日 専用車 憧れのクラウンが用意されていた。 2、本屋で、T社に関する本を3冊購入。 いずれも1/3位に、T社が資金面で苦労していた時に、S銀行に協力依頼に行った際、当時の支店長が、 「鉄屋に金は貸せない」 と冷たい対応をされた。 以来、M銀行が主力なったとの記載あり。 この歴史を切り崩すには、 「人脈の拡大」 しかないと考え、毎日T社に通うことを決心。 同じ人に毎日では相手に迷惑がかかるので、それぞれの同期入社の方々を紹介してもらうことにした。 駐車

        • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾壱〜  北九州支店(小倉)時代昭和62年〜昭和63年)(1987年~1988年)役職 専任次長

          1、赴任日 2月23日 初めての土地ということで、博多に住んでいた、同期の小林兄が空港まで迎えに来てくれた。 博多駅までのバスの中で彼から財務局の検査が来ているとの話があった。 久々の再会でもあり、軽くビールで乾杯して、昼食後新幹線で小倉に向かうと、呑気に考えていたが、支店は猫の手も借りたいような状況だろうと思い、新幹線の車中で駅弁を食べ、できるだけ早く支店へ向かうということにした。 2階の社員と挨拶をしていると、担当の検査官がきて 「責任者はどなたですか?」 と聞か

        【昭和のサラリーマン】 〜最終章〜 

        • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾参〜  福岡営業部時代平成3年(1991年)〜 平成5年(1993年) 福岡と小倉に1課ずつの2課体制。 前編

        • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾弐〜  名古屋営業部時代平成元年(1989年)〜 平成2年(1990年) 役職 T社専任次長

        • 【昭和のサラリーマン】 〜其の拾壱〜  北九州支店(小倉)時代昭和62年〜昭和63年)(1987年~1988年)役職 専任次長

          【昭和のサラリーマン】 〜其の拾〜 本店自動車営業部時代 (昭和60年~62年)(1985年〜1986年) 役職:第1課長  2年目 次長

          課のメインの得意先は「Z東京」であった。 Z系ディーラーで、当社シェアーが80%を超えている会社は全国で3社しかなかったが、そのうちの1社である。 シェアーは車の販売協力台数のみで決めるということで、有名な会社であった。 4月の初めに赴任したが、シェアーの更改は5月の連休後が恒例になっているとのこと。 課のメンバーに様子を聞いたところ 「大丈夫」 とのこと。 しかし、連休が終わっても何の変化もない。 「確認しよう」 ということで訪問して聞いた。 「担当が変

          【昭和のサラリーマン】 〜其の拾〜 本店自動車営業部時代 (昭和60年~62年)(1985年〜1986年) 役職:第1課長  2年目 次長

          【昭和のサラリーマン】 〜其の九〜 札幌支店時代 (昭和54年~59年)(1979年〜1984年) 役職:営業1課長 後編

          個人的特記事項  家族のスキー旅行での出来事がある。 疲れて帰りの運転をしていたが、少し長い雪のないトンネルを抜けると、すぐカーブにさしかかった。 減速のためブレーキを踏んだ際、きつかったようで、ハンドルが動かなくなり、対向車線の除雪された雪の中に突っ込んでやっと停車した。 大型の対向車が来ており、ぎりぎりで接触を免れた。 後続車にも助けてもらい路上に戻してもらった。 自宅まで、あと1時間くらいの場所であったが、路面が氷の感じでスリップが怖くて、運転できなかった。

          【昭和のサラリーマン】 〜其の九〜 札幌支店時代 (昭和54年~59年)(1979年〜1984年) 役職:営業1課長 後編

          【昭和のサラリーマン】 〜其の八〜 札幌支店時代 (昭和54年~59年)(1979年〜1984年) 役職:営業1課長 前編

          赴任 妻の実家に挨拶に行った。 お母さんに 「もう一生会えなくなるかも」 と寂しがられた言葉に 「申し訳ありません」 と心の中で詫びた。 羽田空港から向かったが、1歳にならない大介が出発と同時に泣き出した。 結局、札幌まで、最後尾で彼を抱いて立って行った。 支店に着いたら応接室で家族と一緒に支店のメンバーに挨拶し、自分はすぐ、引継ぎ挨拶に行った。 家族は独身寮に連れていかれた。 夕食は家族全員が独身寮の世話になったのではなかったか? 社宅は、新築の6世帯のアパートだ

          【昭和のサラリーマン】 〜其の八〜 札幌支店時代 (昭和54年~59年)(1979年〜1984年) 役職:営業1課長 前編

          【昭和のサラリーマン】 〜其の七〜 小山支社時代 (昭和50年~53年)(1975年〜1978年) 後編

          運送会社の得意先が名古屋で、ヤクザの外車と接触したと、難癖をつけられ小山までついてこられる事件があった。 ほんの軽い傷なので、通常は修理代の賠償で済むはずであるが、あれこれ理由をつけ、 「新車に取り替えろ」 との難題である。 「解決するまで、小山に滞在する」 とのこと。 「昼は、女性の方だけなんですね」等の発言で暗に脅しである。 金額は忘れたが、支店とも打ち合わせしながら、多めの金額で話がついた。 示談書に捺印の際、大きなカバンから、何種類もの印鑑があることから、専

          【昭和のサラリーマン】 〜其の七〜 小山支社時代 (昭和50年~53年)(1975年〜1978年) 後編

          【昭和のサラリーマン】 〜其の六〜 小山支社時代 (昭和50年~53年)(1975年〜1978年) 前編

          赴任時は、「営業所」だったが、しばらくして全国的に「支社」に名称変更となった。 「支社長」 いよいよ、管理職である。 最初の支社長会議で、当時の支店長が 「おい今度、小山に免許も持ってない、ど素人が来たのでよろしく」 とメンバーに紹介した。 周りは先輩支社長ばかりである。 まず、免許を取ることから始まった。 始業前に教習所通いである。 仮免取得のため半日休暇を取って向かったが、一時停止時に左右確認が不十分ということで、合格できなかった。 支社の女子社員は地

          【昭和のサラリーマン】 〜其の六〜 小山支社時代 (昭和50年~53年)(1975年〜1978年) 前編

          【昭和のサラリーマン】 〜其の五〜 大森営業所時代(昭和46年~49年)(1971年~1974年)

          1年目 S所長以下、男性3名、女性2名の体制で歴史の古い事務所であった。 主たる契約者は、I社・M社・N部品社の工場物件と、金属加工の中小企業が多かった。代理店さんは、場所柄、海苔屋さんが本業という先が多かった。 事務所は大森駅南口近くの三角州にある3階建建物で、以前は3階が社宅だったとのこと。 M社の役員と、代理店さんからのお誘いで、週1回程度の麻雀が印象に残っている。 来所してくださる代理店さんとは、可能な限り喫茶店で語り合うことにした。 12月に長女が誕生。

          【昭和のサラリーマン】 〜其の五〜 大森営業所時代(昭和46年~49年)(1971年~1974年)

          【昭和のサラリーマン】 〜其の四〜 結婚と上司

          課の先輩で野球部の方で試合があるとのこと。 独身寮で日曜日は洗濯以外やることがない。 芦花公園の会社のグランドまで自転車で応援に行った。 午前で終わってしまい、どう時間を過ごすか考えた。 小学校で同級生だったIさんの家を思い出しながら訪ねた。 留守だったが数日後に手紙が来た。 それからデイトが始まり結婚を決めた。 結納の品とご両親への挨拶は終業後急いで帰り、寮の風呂に入りタクシーで向かった。 結納品を「唐草模様の風呂敷」に包み担いで行ったのでお母さんに驚かれた。 2

          【昭和のサラリーマン】 〜其の四〜 結婚と上司

          【昭和のサラリーマン】 〜其の参〜 思いやり

          1年目で記憶に残っている出来事は6月16日の新潟地震だった。 先輩はそれぞれお客様対応で慌ただしく外に出かけて行かれたが自分は頼まれたことをやっているだけで何も役に立たなかった。 仕事外では、東京オリンピックの開会式に、父が連れて行ってくれた。 「コンパニオン」制度があり課の中で自分の年齢に一番近い先輩が「すべての指導係」という立場で面倒を見てくれた。 道産子のIさんだった。 朝から緊張していたが、 「ハイ近ちゃん。親が死んでも昼休み」 と言って昼食に誘ってもらい

          【昭和のサラリーマン】 〜其の参〜 思いやり

          【昭和のサラリーマン】 〜其の弍〜 S先輩

          とにかくけた外れに豪快な方であった。 F館、第二W高等学院、軍隊、大学商学部復学、S社との経歴であるが、軍隊時代は剣道大会、相撲大会で優勝した。 八路軍の奇襲を受け12名中戦死5名。負傷4名という中、切り抜け無傷だった。 終戦後、剣道は国連軍の命で禁止されていたので重量級不足のボクシング部に入部し活動した。 入社後、大酒を飲み遮断機を潜り、踏切番を殴り倒し無線乗車を試み機関車にはねられ大怪我をした。しかし剣道は続けられ7段教士だった。 自伝によると世話になった方々と

          【昭和のサラリーマン】 〜其の弍〜 S先輩

          【昭和のサラリーマン】 〜其の壱〜 入社

          昭和39年(1964年)東京営業第一部工場第3課。 筆記試験さえ受かれば、面接にはなぜか自信があった。 大学3年でサブ、4年で正マネージャーを務めたからだと思う。 部員数約150名だったが、試合・合宿等諸事こなし。また、先輩への諸案内をする中で、対人関係の勉強ができた。 面接の数日前に合宿の打ち合わせで、仙台行きとなり面接日の前日、夜行列車で帰京ということになった。 面接対応の問答集は持参した。しかし、生まれて初めて寝台車に乗ったので、狭さと、珍しさでほとんど読めなかった。

          【昭和のサラリーマン】 〜其の壱〜 入社