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【昭和のサラリーマン】 〜其の拾壱〜  北九州支店(小倉)時代昭和62年〜昭和63年)(1987年~1988年)役職 専任次長

1、赴任日 2月23日

初めての土地ということで、博多に住んでいた、同期の小林兄が空港まで迎えに来てくれた。

博多駅までのバスの中で彼から財務局の検査が来ているとの話があった。

久々の再会でもあり、軽くビールで乾杯して、昼食後新幹線で小倉に向かうと、呑気に考えていたが、支店は猫の手も借りたいような状況だろうと思い、新幹線の車中で駅弁を食べ、できるだけ早く支店へ向かうということにした。

2階の社員と挨拶をしていると、担当の検査官がきて
「責任者はどなたですか?」
と聞かれた。

周りの誰も反応がない。

「次長の自分か?」
と思い
「私が対応します」
と回答した。

しかし、着任したばかりなので、求められる書類の保管場所、他すべてが周りの社員に確認しなければ回答できない状況だった。

なぜ、支店長なり、業務課長が対応してくれなかったのか考えられない。

夕方、1日の締めということで、検査官が自分の前に座った。
彼も初めての検査だったようである。

二人の間にある黒電話が鳴った。

飯塚の支社長からだった。

代理店の使い込みが発覚したとの報告である。

目の前で、やり取りできないので
「後で電話する」
と言って電話を切った。

「何があったのか」
と検査官、いずれにせよ詳細判明次第財務局に報告しなければいけないので、

「費消事故が発生」したようだと話をし、当日は帰ってもらった。

飯塚の支社長と詳細を打合せし、自分なりの整理をし、退社しようと思ったら、2階に残っているのは、自分ひとりであった。

泊まるホテル名はわかっていたが、行き方がわからなかった。
ホテルで遅い夕食をとって、とにかく寝た。

翌朝、引き継ぎ書を探したら、引き出しにA41枚があるのみであった


2、費消事故

正確には記録していないので確認できないが、記憶では1年で10件あったと思う。

「悪い報告は早く」
と新人時代より指導を受けていたので、本社に報告した。

たまたま同期のO兄が窓口だった。

「今、全国で1番の届出件数だよ」
とアドバイスをもらったが起きたことはどうしようもない。

1件を解決するのに約2カ月かかったので、最初の1年は費消事故の対応に消えた。

解決するまで、定期的に財務局に報告に行かなければいけない。

代理店の登録住所の管轄の財務局に行くのだが、博多以外に、熊本・広島に行かなければいけないのは、驚いた。


3、私的事項

大森の留守宅で一緒だったMさんが福岡支店勤務で博多に住んでおられた

6月末にお声がかかり博多まで行った。

駅で待ち合わせしたがてっきり「どこかお店で」と思っていたら肉屋さんでたっぷり肉を購入され、ご自宅ですき焼きを作って下さり、九州での仕事について、あれこれ教えていただいた。

住まいにテレビはないと話したら、帰り際に

「持っていけ」
とご厚意をいただき、新幹線に乗って、門司の自宅まで担いで帰った。

東京で、うつ状態の時期に毎朝喫茶店で話を聴いて下さり、解決に手助けをしていただいたことに次いで、また、助けていただいた。


わっしょい100万祭り

北九州市の人口が100万人に達した記念の祭りが実施された。

休日に、腹を決めて終日祭りを楽しむことにした。

九州の太鼓を集めた会場があった。

各地から大太鼓が集められ共演したが、それぞれ迫力があり涙が出た。

小倉の祇園太鼓はなじんでいたが、迫力の面では大太鼓の元では影が薄かった。


大分支社訪問の帰りに、別府の近藤家の墓を探して行った。
父も行けてなかったので草木がぼうぼうだった。

汗びっしょりになり、きれいにして帰りの電車に乗った。
窓で顔をみたら血だらけで、あちこちが膨らんでいた。蚊に刺されていたのだ。

帰宅し実家に報告したところ

「数日前からうなされていたが、静かになった」
と母の声。

墓参できないことを気にしていたようで、ホットしたのではないか。
よいことをしてくれたと感謝された。


2年目

1月7日 昭和天皇崩御 元号「平成」となる。

1月14日 代理店のHさんのお嬢さんと剣道の稽古。
なかなか来てくれなくて最後に剣を交える。

稽古不足で体力が落ちていたので、一生懸命相手をしたらくたくたになり終わった。
終了後、お礼ということで、ご自宅で立派なお寿司をご馳走になるが、疲労のため2巻くらいしか食べられなかった。

2月21日 長男 早実に合格決定とのこと。

3月1日 名古屋行き 内示


〜続〜
著:近藤正輝 写真:近藤大介


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