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つながり

こんばんは。
幾つか書き途中だったうちのその一つを終えたので投稿します。

では、本題について始めます。

大学のサッカー部にいた頃、選手の傍ら、学連という役職をやっていました。

学連…?

学連と聞いてもピンと来ない方が多いです。
簡単に言うと試合運営や大会の運営です。
会場手配して観客席の仕切り、試合当日の会場のセッティングなど設営を取り仕切る。大会になれば自チームの選手登録を行ったりする。事務的仕事もあり。主務と似てます。

学連は選手がプレーに専念できる様に働く黒子である。
それと同時に大学サッカーは学生が主体となって動いている

学連と人との繋がりとの関連

自分は学連をやっているなかで東京都大学サッカーリーグの学生幹事をやっていました。そのなかで都選抜の担当をしていました。(後々技術委員会の委員長になりました)
仕事内容は学連とほぼ一緒で加えるとすると都選抜の編成やスカウティング。スカウティングは自分が担当してたときが1番見たみたいです。都選抜での立場上は主務。

この仕事を選んだ理由は学生幹事として1番自分に向いてる仕事が都選抜の仕事ある技術委員会、都選抜の選手と見たり他の地域のチームの選手も見れたりして何か収穫があると思ったから。

なによりも現場でサッカーに触れるのが好きだから

そんな動機でやってました。

話を戻しますが、都選抜の最初の仕事で自分の考え方や価値観と言ったところで大きな転機となりました。

人との繋がりなど色々考えさせられた、2日間


今でも忘れられません。
最初の仕事。
夏に関東交流戦の名目の下、関東、各都県リーグ選抜で大会形式で行われるエキシビション。
2日間と短い間だったが、非常に濃かった2日間でした。
色んな人いるから関わって何か吸収したかった。
最初顔合わせの時は物々しさとかあって関わりづらかった。スタッフとはいえ選抜チームの選手と距離は近そうで遠い距離感だった。自分から声かけるようなタイプではないし、コミュニケーション取るのは上手くはない。
メンバーのなかに同じ大学の子は入ってた。
彼も自分と同様に自分から話すようなタイプではない。
だが、1人良いムードメーカーがいた。彼は会って早々、泳ぐために海パン持ってきたとか言ってきた。(当時初日が大雨だった)
都選抜の監督とかいる前に平気でふざけられるムードメーカーでいて色んな奴に絡んでた覚えはある。
彼の存在はある意味大きかった。
そして、後々Jリーガーになる日大勢も個人的には助かった。当時関東から落ちてきたこともあって、第一印象はぎすぎすしてそうで怖かった。(特に享也)
部屋のなかで享也を後輩である拓郎、護がいじってたから案外絡みづらさはないと確信して少しずつ話したりした。最終的に同部屋でコンビニ行って享也に奢らせたりしていた笑
彼らのお陰で話しやすさが出来て、話を聞きながらプレーも見れるし色々勉強することが出来た。
肝心な結果ではあるが、後々のJリーガー、代表選手しかいない関東選抜に予選で惜敗して決勝行けなかったが、他の試合は3点以上毎試合記録して勝利。

結果は3位
この大会は今でもあるが、当時が第一回目で最もレベルが高かった

終了後、振り返ったときに思ったこと

たかが、選手とスタッフの間柄。だけど、この2日間の活動、関わった人達は人生の財産。このつながりは大事にしてこうと決めた。プレーを観る機会あれば自分の足で会場に運んで自分の眼で観るのが彼らへの感謝と尊敬であると考えたからだ。自分も選手だからだけど観てもらうほうが嬉しいから。これからこの仕事で人に関わる時は基本的に距離感や壁みたいなのは作らないスタンスになった。

それから、選抜の仕事で関わった人達とは仲良くなり、試合観る機会あれば観に行った。
選抜の仕事で新たに構成されればまたその人たちとつながりを持ち、つながりが増えていった。
社会人となっても社会人サッカーでその考えは変わらず、新しい出会いからつながりが出来ることを楽しみにしていたりする。

↓当時の都選抜のメンバー

↓都選抜が唯一負けた関東選抜A

2020年Jリーグに自分が関わった選手たちが入っていき活躍するのが楽しみです。
つい、ユニフォームとか作られたら買っちゃいそうです。

人との出会いでつながりは作られますが、大切にしたいつながりは太く切れないものにしていきましょう。

拙い文章ですが最後まで読んでいただきありがとうございました。

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