見出し画像

|大宮宝子《おおみやたからこ》と周りの人々


大宮宝子おおみやたからこは駆け出しの作家である。
とはいえ、年齢は42歳。若い作家ではない。
この小説は、彼女の周りの人々の身に起こったことを書き留める。
誰もが我が身のことのようでいて、他人事のようでもある。


ある老人の物語 1

京都市内で雑貨店を営むこの男性には、ずいぶん歳の離れた彼女がいた。
男性は86歳。家には介護をしている妻がいる。
いわゆる不倫だ。
これは是非を問うものではない。
人は潔白でありたいと願いながらも、惹かれる相手との出会いのタイミングによっては、時に苦しみを秘めて生きていかねばならないこともある。


男性の名前は丸山裕史まるやまひろし
歳の離れた彼女の名は、幸子ゆきこといった。69歳だ。歳は離れているといっても、熟年の2人である。

幸子ゆきことは週に一度、数時間会えるかどうかだった。
裕史ひろしは、この老いらくの恋によって、生まれて初めて、愛おしい女性と出会えたと思った。彼女と会える時には、電車やバスに乗って、2人で少しでも遠くへ行きたかった。小旅行を楽しむ間、幸子が自分に向ける表情一つ一つに、裕史は目を細め見守っていた。幸子の仕草全てが微笑ましかった。
幸子とまた会いたい。この恋心が、毎朝のウォーキングで脚力を鍛えさせ、スマホの操作方法を覚えさせ、裕史を若々しくさせていた。

週に一度の楽しみも、毎週とはいかなくなってきた理由が、妻の介護だった。
数年前から、妻は食事に同じメニューばかり作るようになった。決して料理が不得意な妻ではない。話していても、忘れてしまっていることが多くなっているようにも感じた。火の始末にも不安があった。
雑貨店を手伝いに来る息子にも状況を話し、様子を見てもらうようにした。
地域包括支援センターにも相談に行き、デイサービスが受けられるようにもなった。


ある朝、裕史が店の前を掃き掃除していると、近所の常連で、孫のような存在のあいに会った。

「丸山のおじいちゃん、おはようさん。おばあちゃんどう?」
これから出勤であろう愛は、肩に鞄をかけ襟元を整えながら聞いてきた。

「ああ、おおきになあ。うちのは、調子のええ時は同じ料理ばかり作っとるわ。愛ちゃんとこのおじいちゃんはどうえ?」

「うちは相変わらずや。おばあちゃんと噛み合わん話やけど、おばあちゃんもおじいちゃんに合わせて会話を楽しんでる感じやわ。それに救われてるねん」

「そうかあ。あんたとこも大変やなあ」

「うん。そうやなあ。。
 それはそうと、丸山のおばあちゃんが同じ料理ばかり作るのってさあ、
 おじいちゃんが好きなお料理違う?」

ーーー言われてみればそうかもしれない。わしが美味いと言うて、よう作ってくれた「お揚げさんの炊いたん」や。

思い当たる節がある顔をしていたのだろう。愛は裕史を見てにっこり笑って手を振った。

裕史は、愛の遠ざかる後ろ姿をしばらく見送り、澄んだ朝の空気に頭が冴えてきた。
裕史は考えていた。
妻のことは大事に思う。長年連れ添い、息子までいる。戦後、子供だった当時の苦労も分かち合える存在だ。
裕史は変わりゆく妻を、名前で呼ぶことはもう何十年もなかった。ずっと、「おい」で通じてきた。それに慣れてしまっていた。
今は食事の用意を裕史がすることも多いが、年金で生活に不自由はないお陰で、出前を取ったり、商店街やスーパーで惣菜を買い揃えられた。
毎日3食、欠かすことなく食べることはできるが、妻はどう感じているだろう。
今日は、妻の「お揚げさんの炊いたん」を思い出しながら、久しぶりに作ってみようか。
裕史は、店に入り、買い出しメモを書いた。


ふと、スマホを見る。
大きな文字で、「6:47」と表示されていた。


幸子はどうしているだろう。
今月に入って幸子とは会えていない。昨日のLINEが既読になっていない。
さっきまで妻のことを考えていた裕史だったが、急に幸子のことが心配でならなくなった。電話もしてみるが出ない。
裕史は、妻がまだ寝ていることを確認し、店のシャッターは開けずに、息子への置き手紙に「友人と連絡が取れないので宅を訪ねる」と記し、そのまま幸子のアパートへ自ら運転する車で向かった。

玄関でインターフォンを鳴らす。
7時30分、平日なら幸子は起きていてもおかしくない。
何度も鳴らすが出てこない。
玄関ドアのポストに、新聞が二日分溜まっていた。
旅行に行くとも聞いていない。
嫌な予感がする。
隣の部屋の人が出てきた。
幸子と連絡が取れないでいることを伝えると、大家に連絡を取ってくれた。
大家が駆け付け、ドア越しに声をかけ、インターフォンを何度か鳴らした後、思い切って鍵を開けてもらった。
裕史は玄関で靴を脱ごうとするも、急ぎすぎて足がもつれて上手く脱げない。
「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かし、部屋に上がって幸子を探す。
「どうか留守であってほしい」「わしの早とちりであってほしい」。
そう思いながら目に飛び込んできたのは、
6畳の和室に横たわる幸子だった。
裕史の目は大きく見開いた。心臓は高鳴り、息も荒くなった。
駆け寄り幸子の顔を見る。
冷たくなっている。
そして微笑んでいるようにも見えた。

「わしに見つけてもらいたかったのか…?」
「待っててくれたのか…?」

裕史の目に涙がこぼれ落ちた。
どうしてこんなことになってしまったのか…。


〈写真・文 ©︎2021 大山鳥子〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?