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2020-JUN-8「夢と目標。そこに詩はあるのか?」

「自分の思い描いていた夢や希望が達成されなかったら、
人は生きていくために、自分を納得させることができるのか?」

ということを、ここのところ最近ずっとかんがえている。

僕にはミュージシャンを目指して東京にいった友人がいる。
彼はいま飲食店で働いている。
数年まえ、久々に再会した彼はいった。
「俺は料理も好きだから、ミュージシャンあきらめてバーでもやるよ」

僕はこの一言を聞いたときに「夢」が「目標」に変わったんだな、と思った。
彼は食えない仕事を目指すことをやめて、食える仕事に向かいはじめた。
強がりな性格の彼は明るい声でそういった。
それでも僕には彼の瞳のなかに、やるせなさが漂っているようにみえた。

かんたんには達成できない夢があって、
それを手放した時に、代わるものを手にしたとする。
それは「夢」という高尚なものから、現実的な「目標」と呼ばれるものになる。
それは現実的であるがゆえに「夢」と比べたら、かんたんに達成できるものだ。
でも…そこにポエムはない。

ポエムを表現したかった者が、果たしてポエムの感じられないであろう仕事に向かって、満足するのだろうか。

そんな彼が人生で大切な人を得たとしよう。
特定のパートナーや自分の子ども。
そんな人たちを生かすために、自分は生きなくてはならない。
それは生きがいになるのだろう。

でも、ずっと独り身で愛すべき存在もいなかったら?

糧にしようとした「夢」と、糧になってしまった「目標」
夢が目標に切り替わると、それはただ単純に生きるための手段として機能することになる。ただお金のために働く日々が待っている。

そこに詩を見出すことは困難なことだ。
それでも、夢を失った彼は目標に詩を与えようとするだろう。
抱いていた夢を失った「詩人」は「生きる人」になるために、
かならず、新たな詩を書きはじめると思っている。

それは外側に文字や歌として表出されなくても、心のなかで自分の生き方に詩を感じるようになることだ。
彼に限らず表現者を志していない人も、きっとそうなのだ。
詩を感じることができない人生だとこの世界は、生きていくにはかなりきついから。

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