一人の詩人を想う
谷川俊太郎さんがなくなった。
年齢を思えば、往生、と言っていいのかも知れない。
でも、寂しい。いつまでも、フラットな目線と言葉で私たちに詩を届け続けてくれた人だったから、これからもいつまでも彼の詩が読めると思っていた。
若い時には若い時の、歳をとってからは歳をとってからの、飾らない、谷川さんの言葉。
私は彼の詩が大好きだった。
弟が一年生に入学した時。クリスマスや誕生日など折りに触れて本を送ってくれる祖父が選んだのは、谷川俊太郎さんの「いちねんせい」だった。
絵は和田誠氏。
何度読み返しただろう。私も弟も、今でもその中の詩を何篇も暗誦することができる。きどってなくて、やさしくて、こえにだしたらたのしいことば。ちょんびにゅるにゅる、ござまりでべれけぶん。
悪口も宇宙も、虫も人も、生も性も死も、谷川さんの詩の中では全てが平等に、そのままの目線でつづられていた、と思う。
全てが平等ということは、何かに対して特別扱いしないということで、谷川さんの詩は易しいけれど優しいわけじゃない。ベタベタしていない。執着を感じさせない。冷たいようにも思えるくらい。それは、いつか詩を読んでいた時に急に感じたこと。妻の死の最中にその表情を描いたモネみたいな‥、いや、分からない、この文はもしかしたら後で編集するか消すかも知れない。でも、谷川俊太郎さんは、詩を書くことが生きることだったんだと思う。
「生きる」という詩がある。「生きているということ
いま生きているということ それはのどがかわくということ‥」から始まる1971年の作品が有名だけれど、1956年にも「生きる」という詩がある。旅立つ間際、谷川さんが何を見、何を聴き、何を感じ、どんなことばを頭に浮かべていたのか、どんな「生きる」をその生の最期に思ったのか、私はそれが知りたかった。
この夏に買った本。
お母さんのことを書いていた文章が印象的だった。
自分はマザコンだったとも書いている。
愛、生、性、別れ、大人も子どもも。やっぱりこの人の前ではすべてがシンプルに並べられている気がする。何度も何度も立ち止まって、それを確認したくなる。
ヘッダーは、今朝かかっていた虹。
くっきりと半円を目にすることができた。
私たちは今日の朝を受け止めて、次の誰かへとリレーをつなぐことができるだろうか。