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911 を振り返る 〜 1960年, 1965年, 1973年, 1983年, 2001年, 2019年, 2020年, そして 2021年

911 って聞いて直ぐに 2001年のあれを思い浮かべる人は当然ながら多いだろうけど, 911 は自分の誕生日なんだよっていう人だって, 世界には 2,000万人ぐらいいるという計算になる(どの日も同じくらい人間が生まれるという大胆な仮説の上でのめっちゃくちゃ大雑把な計算)。俺はその「2,000万人」のうちの一人なんだ。

タイトル上の写真の右から二人目, どう見ても「怪しい東洋人のおっさん」にしか見えない(と我ながら思う)人物は, 「我ながら」と書いた通りで, シリア・アラブ共和国にあるローマ帝国の時代の古代都市パルミラの大規模な遺跡の近くの安宿で, 宿のスタッフのおじさん達との, 何となくベドウィンになった風情の記念写真に収まった, その日 1983年9月11日 に 23歳の誕生日を迎えた「我」つまり筆者。

1960年9月11日 〜 生まれた日

俺はゼロ歳。この日は, 自分が生まれた日。誕生日。生まれたところは, 

秋葉路や、花橘も茶の香り。
流れも清き太田川、若鮎躍(おど)る頃となる。
松も緑の色も冴え、遠州森町良い茶の出どこ、
娘やりたやお茶積みに、ここは名代の火伏(しぶせ)の神。
秋葉神社の参道に、産声あげし快男児。
昭和の御代(みよ)まで名を遺(のこ)す、遠州森の石松を
不便ながら、務(つと)めます。

石松の親族関係ではないんだけど(笑), 生まれ育った場所で言うなら「同郷」。

この 4月からずっと note で, 38年前, 1983年4月から翌84年2月にかけての旅の間の各国各都市滞在に絡む連載をしてきて, それぞれの投稿のために当時の旅日記を三十数年ぶりに捲ったりしてるんだけど, 1983年9月5日から10日まで 5泊6日滞在したシリア・アラブ共和国の都市アレッポでは 安宿に泊まったのは 1泊だけで, 残りは 3泊はアレッポ大学の学生のお陰で学生寮の部屋に泊まらせてもらって, 1泊はシリアでシリアった(駄洒落)シリア人の家に民泊だった。細かいこと忘れてたから, 現地でたくさんの人たち(特に若者たち)から随分と親切にされ, いろんな人から温かいもてなしを受けていたことに, あらためて感じ入った。

だから余計, ああ彼ら 2011年から今も続いてて既に 50万人もの犠牲者を出している長い長い「シリア内戦」の時代を生き延びているのかな, と考えて込んでしまった。同じような歳だったわけだから, やっぱ彼らもいま 60歳ぐらいになってるはずなんだけど, シリアでもトルコでもレバノンでもヨーロッパでも何処でもいいから, 元気に生きていてほしいな, と当然のように思う。

よく言われることだけど, 人間は自分が生まれる場所(や時間)とか境遇とか, そんなもの選べないから, 1960年9月11日と日本という条件のもと生まれた自分は, 世界の中ではかなりラッキーな方かもしれない。おまけにこれがまた同様に大きい事実だけど, ちゃんとした, 自分にとって "いい親" のもとで生まれ育ったわけで。というわけで, やっぱ, 親父殿とお袋様には感謝しなくちゃならない。

1965年9月11日 〜 シリア・アラブ共和国の現大統領バッシャール・アル=アサドの誕生日

俺が日本国の静岡県で 5歳の誕生日を迎えた日。

写真の右の男, シリア・アラブ共和国の現大統領,  2000年7月から, 前任で自分の親父であるハーフィズ・アル=アサド(1971年2月から2000年6月に心臓発作で他界するまで何と29年間の長期独裁!)の後を継いで以来, これも親父譲りと言えるほどに長い長い期間, もう20年以上, 同国の最高権力者の座に就いているバッシャール・アル=アサド, この男の誕生日が, 1965年9月11日

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因みに左側に写ってるのは バッシャールの嫁さん, アスマー・アル=アサド。イギリス生まれイギリス育ちで, 両親はスンニ派ムスリムのシリア人。二人はバッシャールがイギリス留学中に知り合った。シリア人同士, シリアった(はい, 駄洒落です)。アスマーは「中東のダイアナ」とか「砂漠のバラ」(因みにシリアは砂漠だらけの国ではない, 砂漠もあるけど)とか言われるけれど, とりあえず容姿だけで言えば, アスマーさんはあのダイアナさんより美人かも(個人的な感想, 当然)。

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さて, 話はどんどん逸れるけど, 

中東(西アジア)の権力者の嫁さんと言えば, バッシャール・アル=アサド同様に大嫌いだけど, イランのモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(パーレビ, 1953年にアメリカ合州国とイギリスが不当に政権転覆させた, 同国の歴とした自由選挙で選ばれていた, 世俗政治を行なう民族主義者だった首相モハンマド・モサッデクと, 1979年の結果としてイスラム革命になったイラン革命で「イスラム共和国」の最高権力者の座に就いたイスラム主義者アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニーとの間に挟まれた, アメリカ合州国の傀儡でイスラエルとも懇意の関係だったイランのラスト・エンペラー, 括弧長かったなぁ!)の嫁さん 3人も(イスラム圏で「有り得る」4人までの妻ということでなく2回離婚, 3回結婚したため), みな美人だった。特に最初の妻(エジプトの王の娘)はいわゆる「絶世の美女」という形容が相応しかったかも。

と勿体ぶっておいて, パーレビの 3人(同時でなく「交代制」, 参勤交代ならぬ「3人交代」, なんだそりゃ)の美人妻の写真は, 以下 note の第6章 イラン革命, 「たら, れば」(長い見出しなので以下略).. にあります(と勿体ぶったままなのであった)。 

話 が完全に逸れっぱなしとなったところで, 無理して ハナシ 戻さないで, 歳くって 歯ナシ になったら入れ歯にするしかない, というわけで, どういうわけだ, まぁとにかく本章はこれでおしまいにして, 次章へ。

1973年9月11日 〜 アメリカ合州国が チリ共和国の民主主義を破壊し, チリ共和国大統領サルバドール・アジェンデが自死に追い込まれた日

俺が日本国の静岡県で 13歳の誕生日を迎えた日。中学1年の2学期だね。

自称「民主主義国」アメリカ合州国の政治権力が, 昔っから自分とこの「裏庭」だと思ってる中南米諸国のうちの一ヶ国, しかしもちろんアメリカにとっての歴とした外国, 南アメリカ大陸の国であるチリ共和国の, しかも民主的な選挙で選ばれていた大統領, 要するにチリ共和国の国民が自らの国の元首として自由選挙で選んだ大統領, サルバドール・アジェンデに対する, チリの軍隊によるクーデター(将軍アウグスト・ピノチェトによるクーデター)を アメリカ合州国大統領直属・直轄の監督下にあるアメリカ中央情報局 (Central Intelligence Agency) つまり CIA を使って背後から演出・支援し, ピノチェトの軍事クーデターを成功させ, チリ共和国の民主主義を殺し, そのクーデターの中で, チリ共和国の大統領サルバドール・アジェンデが自死に追い込まれたのが, 1973年 9月11日

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アジェンデは, 自身に対するクーデターを図った軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う最中, チリ共和国国民に向けて 6度にわたるラジオ演説を行なった後, 自死(自殺)した。

ところで, アメリカ合州国以外の国が外国の政府を転覆させるような国家犯罪を犯したら, その犯罪国家がイスラエル以外の国であれば(!)アメリカ合州国は黙っておらず, 国連安保理に諮って, 対イスラエルではほぼ常に発動する常任理事国5ヶ国だけに与えられた拒否権も使わないで(そもそも自らが安保理に訴えるんだが)声高に非難, いや待て, アメリカ合州国なら, 実際に過去にもあったように, 国連安保理決議などなくても, その「犯罪国家」を爆撃して, 果ては罪なき一般国民まで犠牲にする可能性大である。

一方で, この自称「民主主義国」アメリカ合州国, 自らは, 外国の政府転覆を図るなんて国家犯罪を, 幾度となく試みてきた。

で, 少なくとも, 1973年のチリ(サルバドール・アジェンデ大統領), 1954年のグアテマラ(ハコボ・アルベンス・グスマン大統領), 1953年のイラン(モハンマド・モサッデク首相)の政権を転覆させた例は全て, それぞれの国の国民が民主選挙, 自由選挙で選んだ政府の転覆だったわけだ, そうだったよね, バーニー・サンダース翁!

上掲インスタのヴィデオは, 昨年, 2020年, バーニー・サンダースがまだアメリカ合州国大統領選における民主党からの候補を争っていた時の論戦の時のもの。因みにバーニー・サンダースの右で「おいおいバーニー, 何を言い出すんだ」ってな調子で 茫然自失(してたに違いない)の顔を見せているのが, 現在のアメリカ合州国大統領ジョー・バイデン

タイトル写真があまりに「怪しい東洋人」顔なので, こっちはどうだ?

本章は番外編の章。趣旨は章見出しの通り。

以下の写真の左端(さたん), サタンではありません, 左の端の男が拙者だけど, でもやっぱ「謎の東洋人」って感じだったか(笑), 1983年8月17日, トルコ共和国イスタンブールにて, たまたま出会ったスペインからの旅行者や地元イスタンのトルコ人少年たちと一緒に撮った写真。 

彼らから見たら「極東」の島国から来た旅人(左端に写ってる筆者!), 随分とちっこく見えるけれど(実際, 小さいが, 笑), いちおうは足の位置も見てもらいたい(笑)。後列右端の「極西」方面(ヨーロッパ大陸の最も西はスペインじゃなくてポルトガルだから「方面」ということで!)の国スペイン, いや彼によればスペインじゃなくて カタロニア から来た旅人の足の位置は, 写真の中ではだいぶ「上」の方なので(3度目の笑!)。スペインのカタルーニャ自治州(スペインの州はみな「自治州」)はとりわけ近年になって独立運動が盛んになってきたけれど, 国籍上はスペインでも, カタルーニャ語もあり独自の歴史と文化があって(因みにシュルレアリスムの画家サルバドール・ダリ, サグラダ・ファミリアで有名な建築家アントニ・ガウディなどはカタルーニャ人), もともと独立心が旺盛。脱線すると, スペインでは他に例えばバスク自治州でも, バスク人にはバスク語もあるし独自の歴史や文化があって独立運動がある(更に脱線, 「ツィゴイネルワイゼン」のパブロ・デ・サラサーテや, アルゼンチン出身ながらキューバ革命で大きな役割を果たしたエルネスト・チェ・ゲバラもバスク人とされる, ゲバラの両親はバスク系アルゼンチン人とアイルランド系アルゼンチン人)。

1983年8月17日 の旅日記から。

スペイン人たちとともに, 近くのカーペット屋へ呼ばれる。リンゴ・ジュースをごちそうされた。いろんなカーペットを見せてもらったり, 子供が小さな太鼓で トルコの音楽(リズム?)をきかせてくれたりした。スペイン人のうちのただひとりの男に「どこからか」ときくと(そのときはスペイン人とはわかってなかった), 彼は カタロニア と答え, スペインではない と言って, バッグに描かれた カタロニア の地図を見せた。

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スペインの女性4人は みんな魅力的だった。
くそ! 何で オレはスペインに行かなかったんだ!

当日の旅日記にはこんなことまで書いてあるけれど(笑), 実際, 本当はスペインやポルトガルも旅する予定で楽しみにしていたのに, ソ連を出た後フィンランドに行って以降ヨーロッパを旅してたらあっという間に 2ヶ月経ってしまうことになり, それで日本で買って持っていったユーレイルパス(域内の電車二等乗り放題)の有効期間2ヶ月を意識してしまったことと, その先の中東・アジア諸国の旅に時間をかけたいという理由で, 泣く泣くスペイン・ポルトガル行きを断念してしまったのだった。スペインについては日本を発つ前に天本英世(1926年1月2日生まれ, 2003年3月23日他界)の「スペイン巡礼」(1980年)や「スペイン回想」(1982年)を読んでいたし, ポルトガルについても「異邦人」(1979年)の久保田早紀で ファド を知って, どちらの国も是非行ってみたいと思っていた。結局行かなかったのは重ね重ね, 残念。まぁトルコ, シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプトといった旅路は必須だと思っていたから, スペインとポルトガルにも行ってたら時間的にも旅費の上でも厳しかったかな。あっちに行ったらその次は 地中海 を渡ってモロッコに行き, 北アフリカを巡るルートでエジプトまで行って.. なんてのも有り得たかね。そこまで想像するのはともかく, スペインに行かなかったのは重ね重ね, もひとつ重ね, 残念であった。まぁ昨年「還暦」を迎えたばかり, まだ人生の時間はわりとあるんだろうけど, でも多分このまま行かないであちらは想像の世界のまま, 当たり前だけどいつかこの世を去ると思う。ここで何気に音楽をば ♫

地中海の太陽の踊り, 地中海の舞踏, Mediterranean SundanceAl Di Meola (born July 22, 1954) and Paco de Lucía (December 21, 1947 – February 25, 2014), from Al Di Meola's second album "Elegant Gypsy" released in April 1977 ♫

スペインのアンダルシア自治州出身のギタリスト, パコ・デ・ルシア と アル・ディ・メオラ(彼はイタリア系アメリカ人)の Mediterranean Sundance, これは LIVE ♫

これって, 以下リンク先 note に載せているのだった。

さてさて, 話を, 噺を, あらためて, 今日の note の 911 シリーズに戻す。

1983年9月11日 〜 シリア・アラブ共和国の (ローマ帝国時代の古代都市の遺跡, その後 21世紀に入って IS 通称「イスラム国」の莫迦どもが破壊する前の見事な遺跡があった) パルミラ で, 23歳の誕生日を迎えた日

俺が シリア・アラブ共和国のパルミラで, 23歳の誕生日を迎えた日。

1983年4月から翌84年2月にかけて, バックパック担いで海外「放浪」もどきの旅をしていた。

9月5-10日の5泊6日は シリア・アラブ共和国 の アレッポ にいて,

9月10日に アレッポ を発ち, パルミラに向かった。そして, 1983年9月11日, 自分の 23歳の誕生日は, 古代ローマ帝国時代のパルミラの巨大な都市遺跡を見ていたのだった。

パルミラの遺跡の写真は, 以下リンク先 note の最後の最後の章 古代遺跡が大好きな皆さん、お待たせしました、シリアのパルミラ 〜 IS 通称「イスラム国」の莫迦どもが破壊する前の見事な遺跡の姿、蔵出し写真集 にあります(そこまでは思い切り物体ぶってある)。

さてさて。

2001年9月11日 〜 アメリカ人が, 母国アメリカ合州国が 外国であるチリ共和国の民主主義を殺した 1973年の 911 については忘れても(そもそも知らずとも), こちらの 911 だけは決して忘れない, アメリカ合州国の悲劇の日, 罪なき人々が「イスラーム原理主義」の "脳足りん"共に殺された日

俺が日本国の東京都と帰宅後の茨城県で, 41歳の誕生日を迎えていた日。残業して遅くなって帰宅して, テレビをつけたら, 時差があるからちょうどあれの真っ最中ほぼ生中継のニュース映像。何が起きているか知らずに見たから, 最初は映画だと思った。それから, 誕生日の .. とんでもない日だったね, あれは。もちろん犠牲者と犠牲者の家族にとっては, 形容し難いほどのとんでもない日だったのだが。

以下リンク先 note のタイトル写真は, 1983年9月11日にシリア・アラブ共和国の(ローマ帝国時代の古代都市)パルミラの遺跡で撮った写真。因みに, この人類の歴史上極めて重要な遺跡の多くは, その後, 今世紀に入り 2015年になって, IS 通称「イスラム国」の莫迦どもによって破壊された。

もちろんアメリカ合州国で 2001年9月11日 に起きた「アメリカ同時多発テロ」にシリア人は一切関与していないが(上記の IS は特にシリア人の組織などではないが, IS も生まれる前で当然ながら関与していない), 同 note に書いた通りの理由で, 1983年の同じ 911 に撮った写真を使った。  

以下のヴィデオ(の最後の 2001年911「アメリカ同時多発テロ」によってアメリカ合州国が攻撃された日に至るまでの, アメリカ合州国による諸外国に対する国家犯罪の数々が実録映像とともに取り上げられている)は, マイケル・ムーアの 2002年の映画 "Bowling for Columbine" から。

紹介されていることは基本的に史実通りだけど, 1点だけ, その後の調査で覆った点がある。1973年9月11日 にアメリカ合州国 CIA 画策による軍事クーデターの中で死んだチリ共和国の当時の(同国で民主的に, 国民による自由選挙で選ばれていた)大統領サルバドール・アジェンデは, 暗殺されたのではなく, チーデターの中で自死した(前々章にも書いた通り, アジェンデは自身に対するクーデターを図った軍と大統領警備隊の間で銃弾が飛び交う最中, チリ共和国国民に向けて 6度にわたるラジオ演説を行なった後, 自死, つまり自殺した)。

さてさて, 次は, リチャード・ドーキンス。

911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス)

以下の YouTube 上のヴィデオ, ロゴから左に2つ目をクリックすれば, 英語字幕が付く。

28:56- People are always going on about, "How did September the 11th change you?" .. Well, here's how it changed me. Let's all stop being so damned respectful.

この件は 以下リンク先 note 第7章 911 はあなたをどう変えたか? 〜「ばかばかしい敬意を払うのは皆さん もうやめにしましょう」(リチャード・ドーキンス) に書いた。

上掲のリチャード・ドーキンスの講演ヴィデオについては, 以下のウェブサイト上に同じものが上がっており, そこでは 42言語の中から選んで日本語の字幕を付すことができる。

あと 3章 も 参照 されたい(「さんしょう」駄洒落!)。

2019年9月11日 〜 note 投稿を始めた日

2年前の 911 は, note ユーザーの登録をして, 手始めに, 前章にもリンクを載せた, これを投稿した日。拙者, 59歳の誕生日を迎えた日。

2020年9月11日 〜 いわゆるひとつの「還暦」

前々々々章にもリンクを載せた, これを投稿した日。我が「還暦」を迎えた日。

さてさて, 今日は, 2021年9月11日。自分にとって 61回目の 911, いや生まれた日が 911 なんだから, 62回目の 911 というべきか。満でナンタラとか 数えでナンタラとか, みたいな話だな。

2021年9月11日 〜 人は生まれる時間も場所も境遇も選べないわけで, と あらためて思う「いま」

「いま」を生きる, ってか。

2021年9月11日は今日, 今日です, 今日。今日は, 去年の「還暦」後, 新たに 1歳となった日(笑)。

何はともあれ, 拙者の誕生日である 911 は 20年前から世界的に不吉な日扱いになってしまって, でもそれ以前にしても 1973年の 911 と言えば アメリカ合州国が CIA 使って画策して歴とした外国の 民主的な選挙で選ばれた大統領 を軍事クーデターで自死に追い込んだ日だし(チリ共和国, アジェンデ大統領, ピノチェト将軍のクーデター, アメリカは自由選挙で選ばれた外国政府の転覆といえばグアテマラやイランにもやってるし, そんなんばっかだけど), 1965年の 911 は現在のシリア・アラブ共和国の独裁政権の大統領バッシャール・アル・アサドの誕生日で。まぁ彼も生まれた日からああいう権力者だったわけではないのであって, 何処の国の人であれ, 人が生まれた日は本来めでたいのではあるが。

今年 4月からずっと, この note 上で, 38年前, 1983年4月から翌84年2月にかけての旅の各国各都市滞在に絡む連載をしてきているので, その間, それぞれの note 投稿のために, 当時の旅日記を三十数年ぶりに捲ったりしてるんだけど, 

昨日投稿したのはこれで, 

取り上げたそれぞれの事象を個別に深く考察するところまでは時間を取れなかったけれど, 旅日記を見てたら, その内容は濃密だった。

上掲リンク先 note に載せた通りで, 1983年9月5日から10日まで 5泊6日滞在したシリア・アラブ共和国 の アレッポ では 安宿に泊まったのは最初の 1泊だけで, 残りは 3泊はアレッポ大学の学生のお陰で学生寮の部屋に泊まらせてもらって, 1泊はシリアでシリアった(駄洒落!)シリア人の家に民泊したのだった。

38年も前のことで細かいことを忘れていたから, 現地でたくさんの人たち(特に若者たち)から随分と親切にされ, いろんな人から温かいもてなしを受けていたことにあらためて感じ入った。写真も少し撮っていたし, だから余計に, ああ彼ら 2011年から今も続いていて既に 50万人もの犠牲者を出しているという長い長い「シリア内戦」の中を生き延びているのかなと, それを考えないわけにはいかなかった。

あの学生たちは自分と同年代だったわけだから, 当然ながら今 60歳ぐらいになってるはずなんだけど(なっていると信じる他ない!), シリアでも, トルコでも, レバノンでも, ヨーロッパの何処かの国でも, あるいは他のどの国であっても, とにかく何処でもいいから, 当然のように生きていてほしいなと思う。そして, できるだけ幸せな人生を, いま送っていてほしいと思う。

よく言われることだけど, 人間は自分が生まれる場所(や時間)とか境遇とか選べないわけだから, 1960年9月11日 と 日本 という条件のもと生まれた自分は, 世界の中ではかなりラッキーな方に違いない。おまけにこれがまた同様に大きい事実なんだろうけど, ありがたいことに自分が息子として素直に感謝できるような親のもとで生まれ育ったわけで。というわけで, 最後はやっぱ, 田舎のある静岡県で元気に暮らしている, 今月下旬の誕生日で 93歳になる親父殿と, 先月初めの誕生日に 90歳になったお袋様に, 心から感謝したい。そして, そんな立派な両親のもとで生まれ育った愚息と出会い, これまで 33年以上パートナーを続けてくれている拙者の賢妻にも, 大きな大きな感謝を!

誕生日リクエスト曲 〜 "Ol' '55" (Tom Waits)

この章立てと以下の2021年9月13日付 note リンクは, 同年9月14日の改編。後は 同年9月11日の投稿時のまま。

さてさて, 最後は, 例によってなんとなく音楽をということで, 今日は Tom Waits' "Ol' '55" ♫

この曲, トム・ウェイツらしい渋い渋い雰囲気の曲調ながら, 彼がまだ 23歳の時にリリースした, 

あ, 23歳, 

あ, 噺を戻して, 彼のデビュー・アルバム ”Closing Time” のオープニング・トラック, そして彼のデビュー・シングルでもある。アルバム・タイトル, デビュー・アルバムにして「閉店時間」か(笑)。

Ol' '55 〜 the opening track and lead single from the debut studio album by Tom Waits (born December 7, 1949), "Closing Time" released in March 1973 on Asylum Records ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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