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札幌, 深夜の大通公園1981-82, 大人の「はないちもんめ」 〜 花いちもんめ(はっぴいえんど)

標題の「はないちもんめ」は日本に古くから伝わる子供の遊びのひとつのあれ(と言っても若い世代には既に知られていないかもしれない)。花いちもんめ、こっちはその「はないちもんめ」ではなくて、1960年代末から70年代初期にかけて活動し、日本のポピュラー音楽史に大きな足跡を残した(今や海外にも相当数のファンがいる)ロックバンド、はっぴいえんど(細野晴臣, 故・大瀧詠一, 松本隆, 鈴木茂)の歌のタイトル。

札幌にいた理由 〜 タイムマシンにおねがい ♫

一言で言うと北大の学生だったからだけど、なぜ北大だったのかという自分と一部近親者(①血筋の近い親族, ②きわめて親しい関係にあること, その何れかもしくは両方を満たす人)以外の殆どの人に興味を持たれそうもないことを、しかし自分史の一部なのでここにさらっとでも書いておきたい気がしたのだが、やっぱりごちゃごちゃした事情を纏めて書くのが面倒くさくて断念。昔々のジュラ紀の世界が広がり(さあ 不思議な夢と遠い昔が好きなら, さあ そのスヰッチを遠い昔に廻せば, ジュラ期の世界が拡がり, はるかな化石の時代よ) ♫

♫ じゃなかった,

今から約2億年ほど前の西暦2001年夏という昔々、ジュラ紀の時代ぐらいの昔に、本買ってきて 5日間程度 HTML 独学して、その原始的・化石的 HTML 基礎知識だけ、ホームページ作成簡易ソフト無しの徒手空拳で自分のホームページを立ち上げ、それから十年余り、家族日記からカルチャー系批評、政治・社会批評など幅広いフィールドの日記を書いたり、「洋楽」歌詞和訳やったり、音楽レヴューもどきや映画レヴューもどきやったりして、ちょくちょく更新していた(が、だいぶ以前から全く更新していない)。

そのホームページ上に面白半分で(宮武外骨の「面白半分」でも吉行淳之介の「面白半分」でもなく、笑)"MY Q&A", 「自問自答ですねん」というコーナーを作って、その「Q 5. CVを書きなさい」というところに「あっしの実録型パロディCVはコレ」としてリンクを貼って、そのリンク先の「実録型パロディCV」の中の「私の転石実績」という項目に、以下のテキストを掲載していた。

ここまで既に文字数使い過ぎ、もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵(椎名誠)。

以下、上記の筆者ホームページ上「私の転石実績」より転載(a. はここでは関係ない話だがことの「ついで」)。なお、注釈つけるとキリがないので、先に一部のみ念のため実際の固有名詞など書いておくと、「高田馬鹿大学利巧学部」(今だったら「馬鹿」という漢字は使わないでカタカナで「バカ」と書くか漢字が必要な場合は「莫迦」と書くけど)とは「早稲田大学理工学部」のこと、「ロック」とは筆者のそのホームページ上のハンドルネームみたいなもん、「南海道大学」とは「北海道大学」のこと。

上にも書いたが(というか、下の天才、じゃなかった「転載」テキストにも書いてあるが、笑)、筆者は当時、興味もヘッタクリ(減った栗って何だ?栗ならあの栗もあのクリも好きな方だが、笑、別に今トリップしてるわけではない)もない経済学専攻の学部4年次の殆どを大学に通わないままにアルバイトし続け、卒業以降のための就職活動、当時の言葉で言う(今も言う?)「会社廻り」を全くせず、それ以前からのバイトによる貯金を含めてその年(1982年)秋には目指していた海外バックパッカー旅費100万円ほどの貯金額に到達(当時は 1USドル=約250円の時代)、そこでそのまま翌年春に大学を卒業するという選択はせず、意図的に単位を残して大学に籍を置いたままとすることにし、翌年度1983年度の1年間の休学を大学当局に申請、首尾よくその許可を得て1983年4月から1984年2月にかけてバックパッカー海外「放浪」もどき一人旅を敢行、帰国後、翌1984年度に前々年度に残していた単位をゆっくりと修得、1985年3月に大学を卒業した。というわけで、札幌には大学に通わずバイトに明け暮れたほぼ1年間を含め 4年、そして計画的に単位を残した後の休学1年間を挟んで最後の1年、トータルで5年間いたことになる。

以下、2003年11月1日に書いて(HTML打って)ホームページにアップした文。

VI. 転石実績 :
以下は氷山の一角であるが、考えるのが面倒なのでエライ瑣末な転石も書いてしまった。順番は適当だが、最初の a は私の性格にはあまりに不向きな経験でございます。ま、勝手に生きるしかないです、エゴイスト左派となってしまったからには。
a. 某省庁所管の某公益法人に入職。その後、一身上の都合で退職、数ヵ月後に一転して出戻り。正真正銘の大馬鹿者である。この間の経緯詳細はさすがにナサケナイので割愛。
転石失敗事例としては割愛するにはあまりにモッタイないほどの馬鹿事例だが、やっぱ控えさせていただきます。
b. 高田馬鹿大学利巧学部を裕福でない家育ちで当然のことながら両親から猛反対に遭いながら逆らい続けて志望、ただ単にバカ者、じゃなかった、若者にありがちな根拠のない憧れからくるものだったが、実際、数学は大好きで、田舎の進学高の理系クラスに籍を置き、数学オタクの雑誌「大学への数学」の超難解問題を解いては悦に入っていた。同誌には一度応募、150点満点ぐらいのヤツだったと思うが、あと2、3点で「全国成績優秀者」として「ロック」の本名が記載されるところだった。なんか賞をもらったような気がするがよく憶えていない。その高校では数学では一度学年2番になった。1番は一度も無し、残念。あーあ、長い自画自賛。昔の自慢話って最低よね。まったくだ。
物理化学ははっきり言って好きじゃなかったが、一応、高田馬鹿大学利巧学部用の模試では大抵「合格確実」とか「合格有望」とかいった判定ばかりだった。昔の自慢話って最低よね。まったくだ。そもそも今となっては何の意味もない話だ。まったくだ。
それが高3の夏休み辺りから、突如私は文系に目覚めたのだった。っていうか、よーわからん。ガキの頃から一応は反体制的というか反権力的言辞もしくは言動をしてきた方の人間だったにも関わらず、なんでそんなこと言い出したのかわからんのだが、警察官になるとか、全く今思い出してもワケが分からんくなることも言った記憶がある。しかも、そのうち、そんなこともどうでもよくなったような気がする。
職員室に行って担任に説明すると、担任は唖然としていたが、しかしその後で意外なことを言った。
当時私の学年は「共通一次」(コレって今通じる言葉?)元年の入試を控え国公立行きたいヤツは7科目の勉強をしており、数Ⅲ・物化・英語しか勉強してなくて(私の英語のボキャはあの頃が全盛であった、そういや英語も一度学年2番になった、つくづく嫌味な昔自慢である、中年親父の今は全然ダメである!)、嫌いな古文なんて実質白紙も同然の内容の回答用紙で職員室に呼び出された経験もあった、当時の私である。さすがに今さら7科目やる気にはならず、古文が試験科目にない私大の文系志望にするしかないと考えていた。どっちにしたって、私大志望なんて、当時の家の家計考えれば大の字がつく親不孝者だったのだと思うが・・・。
ところが担任は言うのだった。「国立受けろよ。」
迷った記憶は全くない。共通一次の願書締切1週間前に突如国立志望に変えた私は、政経、倫社など点を取り易そうな科目を選択することにして、本番3ヶ月前から共通一次の勉強に切り替え、見事に(笑)マークシートを乗り切った。共通一次の終わった日は、そのまま学生服で友人達と映画館に行き、「エマニエル夫人」を見た。ああ、懐かしのエマニエルよ!

夫、オットどっこい夫じゃなかった「おっと」、ここでこの筆者ホームページからの「転載」をいったん中断

エマニエルとはもちろんこの人のこと、おお懐かしの、麗しの、シルビア・クリステル! .. その時点でもリヴァイヴァル上映だったんだが(*4)。

さて、「エマニエル休憩」を終えたら、以下、ホームページからの「転載」を続けて ♫(意味なく音符、ただの音楽好き!)

志望大学はとにかく遠いところにしようと決めた。家庭は円満だったが(今も関係は円満よ)、 バカ者の若者らしく「青年は荒野をめざす」なんて思い込みで北海道は南海道大学文Ⅱ系にした。そこの二次試験は数学、英語、現国だったので、思うツボでもあった。
c. 南海道大学文Ⅱ系からは、3年次になると半分強が経済学部、残りの半分が文学部教育学科、残りが文学部行動科学科に行くという定員構成であった。
私は当時「文化人類学」に関心を持ち、いくつか著書も書いていた、じゃなかった読んでいて、そいつをやれる文学部行動科学科に進む気持ちを固めていたはずだったのだが、(例によって?)希望を出す直前になって志望変更、経済学部にしてしまった。経済学部の定員は文Ⅱからは半分強だが、希望者が多く、一応の成績を収めていないといけなかったが、大抵のバカ学生同様に試験前に真面目くん真面目さんたちのノートをコピーして適当にやり過ごしていた私は全然問題なかった。
しかし経済学部に進んでみると、心底つまらなかった。当り前である。私はもともと、経済学なんてなーんにも興味なかったのに来てしまったのだ。直前に希望を変えてしまった理由は今も不明である。ちなみに文学部行動科学科は例年同様その年も人気がなく、希望すればただオッケーの世界であった。
私は自分のバカさ加減に辟易し、文学部行動科学科の文化人類学の教授に相談に行き、「そりゃキミ、1年待って編入試験を受けたまえ。やる気のある学生は大歓迎だよ、うんうん・・・」との快い反応を得た。で、1年ガマンして転石、じゃなかった、転入、っつーか編入試験を受けるつもりでいた。思わぬ壁があることも意識しないままに。
実は、編入試験は、その年の学生数に定員割れが生じた時だけに行なわれるのだった(今は知らねーよ)。果たして翌年、どういう 風の吹き廻しか、文学部行動科学科は例年より人気大幅アップ、他学部で3年次を終えたものの編入試験は行なわれなかったのである。
その後、私は経済学部4年次をほとんど大学に通わないまま(ゼミ以外一つも講義に出た記憶がない)、アルバイトし続け、しかし例によって試験は何とか通し、そのうえで意図的に単位を残して卒業しないようにして大学に翌年からの1年休学を申請、リュックサック一つで旅に出た。この旅は他のところでちと触れてるので詳細割愛。

ちょっと脱線、横から一言、旅については *5 に。以下、またまたホームページからの「転載」の続き。

最後の年は残した単位を取るだけ。就職は売り手市場で周囲は早くから「会社廻り」をしていくつも内定をもらっていたが(全く「会社廻り」をしなかった私にもゼミ教授を通じて某都市銀行から「来てほしい」との話があり失礼ながら電話で「ご遠慮」させていただいたくらいだった)、私はとにかくそうやって社会に出て行くのが嫌だった。理由は割愛。書くんならきちんと書きたいが文章考えるのがもう面倒。
ちなみに今はちょっと考えが違う。考えもなくただひたすら全方位「会社廻り」するのなら愚の骨頂だが、バカモノ若者なりにではあっても、もっと勉強して一度具体的に深く真剣に生き方を考えておきたかった。いずれ 息子にはちゃんと伝える。
とにかく、あれからもう約20年経っている。あの時の私は、「会社廻り」というものが嫌だったんだから要するにそれだけである。詳細理由は割愛(はは、上にも書いたな)。
私は周囲の「会社廻り」の熱気をヨソに(よっぽど嫌だったんだねぇ)、某分野のNGOや政府系団体に定期採用の問合せをし、もっとも行きたかった二つのNGO(でも当時はNGOなんて言葉なかったような気がするなぁ・・・ま、今で言えばNGOだ、問合せ先NGOは当時は知る人ぞ知る、今はNGO界の老舗的有名団体です)からは「定期採用する財政的余裕がありません。是非会員になってください」との返事をいただき、そのまま会員にもならないままにしてしまった。で、それ以外の、定期採用をしてた政府系団体を二つ受験し、採用された方に入って(一つは落ちた)、その後、上の項に記した通り、考えるところあってそこを一旦辞めておきながら、そのくせにまた出戻った。日本大馬鹿者グランプリ大会出場資格はありそうである。決勝トーナメントぐらいは行けるかい?
余談だが、何を反骨精神気張ったか知らんが(知ってます・・・)リクルートルックで「会社廻り」なんかするもんかと思ってたにも関わらず、実はちょっと行く末が心配になって、一応の志望職場の試験を受ける前に、当時としても遅めの時期だったのに航空会社の半日空の社員募集が終わってないことを知り、念の為滑り止め気分で受験、結局東京本社の役員面接まで、航空賃支給されて出かけた。よーく憶えてる。役員のおっさんに「大学時代キミがしたことで何かPRすることがありますか」と訊かれ、バカモノの若者だった私は1年休学の貧乏旅行一人旅について話し、自分には行動力があると「モノは言いよう」を言った。
件の役員は言うのだった。「すると、キミは組織で働くには合わないかもしれないねぇ。」 嫌味なおっさんだった。
この際ついでに書こう。滑り止めで大日本国営式放送会社の試験も受けた。「滑り止め」(笑)、である。あんなもの、マスコミ受験問題集とかで受験勉強しないでいて合格するはずがない。それから、やっぱ心の中での行く末不安で、もう一社、(中小企業を除く)世間のほぼ全ての民間会社への学生就職活動が終えた頃、某アルコール飲料会社、ライオン・シーグラムに問合せの電話を入れた。「いやもう定期採用枠全て決まってしまってまして、本当に残念です」 え? 何考えてたか? オレは酒好きなの。高校時代の謹慎処分だって酒がらみのヒロイズムが原因なんだから(詳細割愛、笑)。
もう一つナサケナイ話をすると、結局入職することになる(その後転石出戻り・・・しつこいかい?)某公益法人の筆記試験に合格し、その後の面接までの間に、しかしもし面接で落ちたらオレの行く末は、なんて考えが再び頭をモタゲタ私は、都内でたまたまやってた中小企業合同企業説明会に出かけた。当時も今も中小企業はタイヘンである。私は某印刷会社(名前はおぼろげに記憶してるが正確かどうかもうはっきりせん)の社長さんたちに気に入られ、その面接待ちのところに落ちたらウチに来てくれと言われながら、うな重を御馳走になった。あのままその某印刷会社に入ってたら、案外ハッピーだったかもしれんし、その辺はよーわからん。人生は一筋縄ではない。ただし、今の妻と巡り合って、今の息子を息子として家族に持つことにならんと困る。私はこれだけは譲れない。当然である。妻子を心底から愛しているのだ。 言うと軽くなるか。そんなことないぞ。言った方がいいと思うぜ。ま、人それぞれの勝手だな。人の勝手ですね。オレは書くぞ。
・・・話題を元に戻そう。
大学時代は「遅れてきた学生運動」仲間に入ってたり、韓国政治犯救援運動とか日韓市民連帯運動とかに参加して、札幌でデモったり、東京まで「お上りデモ」に来たりもしたが、これはあんまり転石性がないので詳細割愛。
d. もっと他のしょうもない転石も書こうと思ったが、やめる。打ってて疲れた。打っててって覚醒剤じゃないよ。オレはそういうヤクはやりません。当り前ですがな。

*1 「VI. 転石実績」の原文は以下リンク先(2001年夏の立ち上げ当初の原始的・化石的 HTML 仕様から不変。パソコンからならどのブラウザでも閲覧可能と思われるが、スマホからだとOS次第で文字化け)

*2 前項(VI. 転石実績)の上の階層、「実録型パロディCV」(同上、つまりスマホからだとOS次第で文字化け)

*3 件のホームページは以下リンク先で(同上、つまりスマホからだとOS次第で文字化け、しつこいな)、左側の「メニュー」の "MY Q&A" をクリックし、「自問自答ですねん」の「Q 5. CVを書きなさい。⇒ (031101)」の ⇒ をクリック、そのリンク先の「あっしの実録型パロディCVはコレ」をクリックすると、そのリンク先が、前項の「実録型パロディCV」。これってクリックする人、いるかどうかかなり怪しいけれども(笑)。

*4 エマニエルその他(「その他」とは何ぞや!)については、例えば(他でも書いたような気がするけど忘れた)以下リンク先 note 投稿の中の 〜 'blasphemy track' 〜 "O Come, O Come Emmanuel" の文字を眺めているうちに、"Oh, I'm gonna come! I'm coming!", she moved faster and faster .. Oh, sorry for blasphemy, LOL, btw, her name is Emmanuelle!! 〜 という、矢鱈めったら長い見出しの章、その冒頭の段落、

だから、これは、ジョークだってば。こんなことで斬首するのは止めてくれ。あ、同じアブラハムの宗教でもちょっと「違う」かな。でも基本は同じ、今現在の世界を生きている人の人権よりも、何世紀も前に死んでいる預言者や「神」なるものの宗教上の尊厳を優先してしまうことが(少なくとも)「時に」ある、それが宗教、あるいは宗教というものの一側面、一断面。

の下に書いた。

*5 「リュックサック一つで旅」、その旅については

その後、私は経済学部4年次をほとんど大学に通わないまま(ゼミ以外一つも講義に出た記憶がない)、アルバイトし続け、しかし例によって試験は何とか通し、そのうえで意図的に単位を残して卒業しないようにして大学に翌年からの1年休学を申請、リュックサック一つで旅に出た。この旅は他のところでちと触れてるので詳細割愛。

例えばこれ。

札幌, 深夜の大通公園1981-82, 大人の「はないちもんめ」

なんつーか、今日の note 投稿、その投稿タイトルに書いてあることは結局 ちょっとしか書かないような気がする。前章の件、久しぶりに自分のジュラ紀の, 

さあ 不思議な夢と遠い昔が好きなら, さあ そのスヰッチを遠い昔に廻せば, ジュラ期の世界が拡がり, はるかな化石の時代よ ♫

あ、違った ♫ (因みに上掲リンク先クリップの英訳は筆者 吟味してないので..)

話を戻すと、久しぶりに自分のジュラ紀の昔のホームページに書いていた昔話を読んでいたら、昔話語り部自身が満腹になってしまったのだ。

ともあれ、札幌時代、

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確か大学2年次の1980年の秋頃、あるいは翌1981年初め頃だったかもしれないが、とにかく大学の友人と二人で札幌随一の繁華街というか歓楽街というか要するに「すすきの」の、筆者に似合わぬ洒落たワイン・バーみたいなところで飲んでいたら、その時たまたま同じ店に来ていた、自分たちより何歳か年上風の何というか「ゲージツ家」的ムードの集団に声をかけられた。

後で分かったのだが、実際、ほぼ「ゲージツ家」集団だった。劇団主宰者、舞台役者、詩人、画家 .. 等々、有名であるかなんて関係ない(実際 文字通り「広く」ひろ〜く「世間」に知られてるという意味での著名人ではなかった)、自称であれ他称であれ、あるいは生業になっているかどうかは別として、とにかくそういう筆者からしたら楽しげで面白げな何となくクリスタルでなくて何となくアート系をやっている人たちだった。男女半々ぐらいで、人数は10人ほどだったかな。それ以上だったかも。あ、そうだ、アート系の雰囲気を醸し出しつつ「哲学者」(自称だったか他称だったか忘れた、笑)もその中にいたと記憶している。

彼ら、俺たち(突然「俺たち」と書いたけどまぁいいや雰囲気で、笑)二人に声をかけてきたけれど、確か俺たちより1歳上だったと思うけれど他の若い女性二人組にも声をかけていたから、あんがい俺たちはことの「ついで」だったのかもしれない。

その日はたまたま金曜だった気がする。その後、ワイワイ飲みながら話してるうちに意気投合、これから毎週金曜の夜に「すすきの」の何処かの店に集まって飲もうぜ、ということになった。

名付けて、「金要会」。

少し前まで「金曜会」だったと記憶違いが続いていたのだが、わりと最近、前章でも触れた昔々1983年から1984年にかけてのバックパッカー海外「放浪」もどき一人旅の時の旅日記を捲っていて、「金要会」の〇〇さんにお土産、とか書いてある箇所を発見。ああ、そうか、あれってそうだった、「金曜会」じゃなくて、「金要会」だったんだと記憶が蘇った。

毎週金曜に集まる会ではあるが、その為にはそれぞれ金が要るのだ、そんなシンプルな趣旨の命名だったんだと思う(集まりのうちの誰が名付けたのかはもう記憶にないけれど)。

で、毎週金曜、学生から劇団主宰、役者、詩人、画家、生業はタクシー運転士ほか様々、そういった20代から30代半ばぐらいまでの年代の10人強が夜な夜な、いや、と言っても毎週金曜、週一回の夜なのだが集まって飲む、で、飲んだ後、決まってやることがあった。「決まって」というのは本当で、ほとんどルーティン化したイヴェントだったのだ。

つまり、大の大人が、深夜の札幌は大通公園に繰り出し、大声出して「はないちもんめ」をやる。

これは着ぐるみ「はないちもんめ」。歌詞は色々なんで、これとは一部ちょっと違ったりするんだけどね ♫

さてさて、

この1980年秋か冬、あるいは少なくともそのルーティンが始まったのは1981年に入ってからだったか、とにかく、その札幌1980年代初期、深夜の大通公園の大人の「はないちもんめ」についてはまた機会があったら続き(あるかな、笑)を書くとして、

この「金要会」のメンバーの中ではおそらく最も年長者だった一人に、「日本けん玉協会北海道支部長」を名乗る人がいて、その人がやっているゲージツ系同人誌みたいなものがあった。

「けん玉通信」というタイトルが付いているものの、「けん玉」についてはその中身のごくごく一部。誌面を彩るのは詩、短歌、小説、オモチャ考現学、料理人インタヴュー、対談記事、哲学的論考、写真 .. 何でもありだった。

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以下は1982年新年号の「謹賀新年」名刺広告の頁に載せた、筆者の名刺(個人情報なので同頁の他の人の部分はカヴァーして隠した)。勿論こんな名刺を実際に持っていたのではなく、単なる「名刺広告」。

「委員長」とあるが、実際には「委員長兼平委員」だし、そもそも実際にこんな名の委員会を作っていたわけでもない。ただ、

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この後、前章でも触れたが、実際に「ユーラシア大陸」をほぼ「一周」するバックパッカー海外 "放浪" もどきの一人旅「旅行」は「実行」した。

これ、前章でも脚注でリンク貼ったけど、しつこくまた(笑)。

花いちもんめ 〜 はっぴいえんど, 1971年「風街ろまん」より

というわけで、どういうわけだ?

実は前章の懐かしき筆者「札幌」時代の深夜の大通公園・大人の「はないちもんめ」と、この はっぴいえんど「花いちもんめ」にはほぼ繋がりがない。

ないのだが、いいではないか、好きなのだ。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

鈴木さん(鈴木茂)のサインをもらったことがあるのだ

前章にリンクを貼った、はっぴいえんど「花いちもんめ」の作曲は鈴木茂さん(作詞は はっぴいえんど の他の殆どの歌の歌詞同様に松本隆氏)。

元はっぴいえんどの鈴木さんは2度、生で観聴きしたことがある。2016年7月に妻と一緒に観たのは、吉田美奈子(吉田さん!知り合いじゃないけど全部「さん」付けしてしまう)が客演したゴキゲンのライヴ。

以下の写真は、同年5月に拙者一人で小坂忠(忠さん!)のライヴを観た時(このライヴも素晴らしかった)、ギタリストとして客演していた鈴木茂、少しだけ話ができたし親しみを込めて、そういうわけで鈴木さん、そうなのだ、その鈴木さんに、妻と自分宛てにサインをしてもらったもの。終演後けっこう大勢の人が並んでサインもらってたから、持ってる人は少なくないんだろうけど、しかしこれは兎にも角にも、我が家の家宝なのだ。

グッズを買って(拙者が買ったのはバッグ、"BAND WAGON" 分かる人には分かる ♫)、サインをもらった。サインはバッグの裏側、2枚目の写真。自慢、だけど一部の人にしか伝わらない(笑)。でも はっぴいえんど やそのメンバー、彼らの名曲の数々に思い入れがある人には、確実に伝わるのだ!

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この件、実はこれに一度、書いたことなのだ。俺はしつこいのだ。これでいいのだ、俺の息子は賢いが、要するにここでの俺はあの素敵なバカボンの、つまり、バカボンのパパなのだ。だから、これでいいのだ。

あ、賢いと言えば、これ。矢鱈と音楽脳が動いてしまってしょーがないのだ。The Sage, 邦題は「賢人」だったのだ。これでいいのだ、バカボンもバカボンのパパも実は「賢人」だったのだ。

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

今日の最後は、今日3度目と4度目「タイムマシンにおねがい」

健在だった加藤和彦がここにいないのは残念だけど、1997年の高中正義/ミカ/CHAR/吉田建/村上ポンタ秀一/そうる透 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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これは 2007年のサディスティック・ミカ・バンド, Gt.加藤和彦、Gt.高中正義、Ba.小原礼、Dr.高橋幸宏、ミカ役 Vo.木村カエラ、Guest 奥田民生 による, 

1974年の サディスティック・ミカ・バンド の歌「タイムマシンにおねがい」(作詞 松山猛, 作曲 加藤和彦) ♫ 

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。

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