白刃の女神(第十二部 お泊まり会) 前編

 こどもはとかく、危険なことをしがちである。彼らは無鉄
砲で、大胆だ。何かをなすためには傷つくこともいとわない。
本当はそこに待ち受ける痛みをただ知らないだけなのだが。
 恐らく、いまの僕らがやってのける最も大胆な行為は相手
の家に泊まることだろう。もちろん、僕は両親が家にいない
から、彼女を家に呼ぶことは容易いことかもしれない。ただ、
それを僕が本当にやってのけるためにはひとつ重大な問題が
あった。それは、僕がふたり暮らしをしているということだ。
誰かを泊めさせる行為はそのたったふたりしかいない家族の
仲を裂くようなものだ。僕だけ恋人を連れ込んで一夜に明か
りを灯すのでは爽香の面目がたたないし、まして、爽香の気
持ちを考えてみたら、そんなことは絶対にできはしない。
 では、僕が彼女の家に泊まれるかと言ったら、それも絶対
に無理があった。そうしたら、爽香は家でひとりになってし
まうし、そのために、わざわざ友達の家に彼女を泊めさせる
わけにもいかない。口が裂けてもそんなお願いはできない相
談だ。そもそも、彼女の主人に顔を合わせる勇気がないのも
確かにあるにはあったが。
 それでも、僕は小学生のときのように、未だに危なっかし
いことをしたがる、大胆な行動をとりたくなることがある。
ただ、そこに走り出すほどまでのこども心はもう持てなくなっ
ていた。そこに待ち受ける痛みを察知できるくらいまでには
大人になったつもりでいるのだが、好奇心の発起人を制する
ほどまでには僕はまだ十分に大人ではなかった。ただ、忘れ
ているふりをしているだけだった。ずっと、この大胆な行為
の存在を。でも、あろうことか、それを彩香が僕に届けにき
てくれた。
 それは、屋上で僕がちょうど雲をアイスに見立てていると
きだった。
 「……愁」
 「ん? なんだ?」
 「今度、おまえの家に泊まりに行ってもいいか?」
 「……へ?」
 「何度も言わせるな。泊まりに行きたいと言っているのだ」
 僕はまるで夢でも見ているのかと耳を疑ったが、身を起こ
してみても、彩香はそこにいて、僕の返事を待っていた。
 「いやいやいや、さすがにそれはまずいんじゃ?」
 日光にこめかみを撃ち抜かれたのか、それとも、今の言葉
に心を打ち抜かれたのか、とにかく、僕の身体はよろめいて
上手く姿勢を保持できなかった。
 「安心しろ。母さん親父も認めている」
 揺らめきながら、でも、はっきりと聞こえた今の言葉に、
あぁ、やはり、これは夢なんだ、と思った。
 すると、途端に意識が遠のいていった。

―――――――――――――――――――――――――――

 「母さん、お願いがあるのだが」
 「うん? どうしたの? 急に改まって。言ってみなさい」
 「あぁ……愁の家に泊まりにいきたいのだ」
 「なっ!? 何を言っているんだ、彩香!?」
 「親父は関係ないだろう? いま母さんと話しているんだ」
 「バカを言いなさい、彩香。まだ嫁入り前の子なんだぞ?」
 「あいつと結婚するのなら、別にかまわないだろ?」
 「またそんなことを……。おまえの気持ちも変わるかもし
れないだろ? それに愁君だって」
 「親父はそんなに私たちを引き離したいのか?」
 「いや、そうじゃないが……」
 「もう、彩香? あんまりお父さんをいじめるものじゃな
いわよ?」
 「いじめられているのはこっちの方だ」
 「どうして、そんなに泊まりにいきたいの?」
 「それは……その、できれば、あいつと一日中一緒にいた
いからだろ」
 「彩香っ!? よくもまぁ、お父さんの前でそんなことを!」
 「思ったことを正直に言えって、親父、いつも言っている
だろ?」
 「確かにそうだが……」
 「……もう、本当に困った子ね。分かったわ。そんなに愁
君と泊まりたいのね?」
 「あぁ」
 「母さん!?」
 「ふふふ、私に任せてください。……彩香? いいわよ、
泊まりに行っても」
 「母さん! さすが、母さんだ。分かってくれるのか?」
 「えぇ。ただね、条件がひとつあるの」
 「な、なんだ? なんでも守るぞ?」
 「言ったわね? 泊まる日にちはお母さんが決めます。そ
の日、向こうのご家庭の都合がよければ行っていいわよ?」
 「あぁ、分かった。でも、十年後とかはごめんだぞ?」

―――――――――――――――――――――――――――

 愁が目の前で突っ伏している。その姿を見て、私はつい先
日の歴史的一歩を回想してしまった。それもそうだろう、愁、
驚くのも無理はない。でも、驚きすぎだ。
 「なんだ、おまえは私が泊まりに来て欲しくないのか?」
 驚いてくれる姿を見るのは楽しいが、正直、これが私の独
り相撲でないことを私は早く知りたかった。
 「いや、嬉しいけど、ごめん、めちゃくちゃ混乱してて」
 「ふふ、そうか。でも、嬉しいなら、泊めてくれないか?
一応、条件付きなのだが」
 その条件と言う言葉が気付薬になったのか、愁は正しく座
りなおして、ようやく、私を見た。
 「ん? どんな条件??」
 「土曜日。今度の土曜日で、もし、おまえがいいならって」
 愁は一瞬、首を傾げた。でも、それを言葉にはしなかった。
愁がいま考えた内容と合っているかは分からないが、私もこ
の条件を聞いたとき、なんで土曜日なのだろうと思ったのだ
が、それは、日が近づくにつれて私は思い知ったのだ。次の
日が休みぐらいにしか考えなかった私が正直、恨めしい。
 「あぁ、じゃぁ……」
 愁の方でもそれを意に介さず、別のことを口にしようとし
た。
 「あぁ、分かっている。爽香にも聞いておいてくれ」
 でも、そっち方面のことなら、悪いが、もう、予測するの
は得意分野だ。
 愁は苦笑いを浮かべると、ありがとう、と、言った。
 「いや、いい……」
 そう、言いかけたところで、思わぬところから声が降って
来た。
 「いいよ?」
 爽香だ。
 「……っ、えっ?」
 ほら、みろ、愁の奴が目を丸くしているじゃないか。爽香
の奴、私を腹話術の人形にしやがった。
 「違う、爽香だ。ほら?」
 私はそう言って、入り口扉の上に視線を送った。
 「……何やってんだ、そんなとこで」
 「そんなとこって、兄さんがいつも寝転がってるとこじゃ
ない? 兄さんがいやらしいことしないか観察中なの~」
 爽香はそう言って、親指と人差し指で輪を作ると、そこか
ら私たちを覗いてみせた。
 「観察中って、飯食ってるだけじゃねぇか。柊まで」
 「なんや、自分も蕎麦食べたかったのか?」
 我関せずといった感じでこちらに背を向けていた柊が首だ
け回してこちらを見た。
 「行儀の悪い奴だな。喰うなら、さっさと食ったらどうな
のだ?」
 柊は箸を持った手で空中にチョップをすると、食べかけの
蕎麦をずーずー言わせながら、一気に口の中に吸い込んだ。
 「ふふ、ドバカ~。今日、人気のお蕎麦屋さんがきてたの。
それで、柊に頼んで買ってきてもらったのよ」
 「何だよ、それ。おれも誘えよ」
 「だって、兄さん、この前うどん派だって言ってたもん。
ね?」
 「あぁ、せや。せやかい、こうして、ふたりで侘しく食べ
てるんやんけ」
 「なによ~侘しくないし」
 愁はその言葉を悔やんだのか、近くの石ころを拾うと、そ
れを遠くに放った。
 「おい、爽香。それより、そこ登んな。下着見えるだろ」
 「ヤダ……もう、ヘンタイ」
 私の前で、まったく、こいつは何てことを言い出すんだ。
 「愁?」
 私は抗議の意味も含めて、愁のわき腹を小突いてやった。
話が脱線しすぎだ。
 「ん? あ、あぁ、悪い。なぁ、爽香?」
 「見ないで」
 「あのなぁ」
 「……見るな」
 「あぁ、分かったよ」
 愁は観念したように爽香に背を向けると、空に向かって、
ひとり話し始めた。
 ――良いぞ、愁。中々滑稽な姿だ。勇姿をカメラに収めて
やろう。
 「それで、いいのか? 泊まりに来ても?」
 「ん、いいよ? 別に。ご両親が許してくださるのなら」
 先ほども意外だったが、爽香の返答はあっさりとしたもの
だった。もっと、こう、甲高い声で反対されるものだと思っ
ていたのだが……。
 「そっか。ありがとな?」
 「い~え~」
 「いいってさ?」
 愁はここでようやく人を見て、声をかけた。もちろん、私
にだ。
 「あぁ、爽香?」
 「見ないで」
 ところが、どうやら、今度は私が空を相手に話さなければ
ならないらしい。
 「なっ!? 私はいいだろ!?」
 「なによ、ヘンタイ」
 「っ……愁!?」
 「ハハハ、おれらも飯買いに行こうか?」
 私の手のひらが拳になる前に、愁の手がそれを防いだ。
 「あ……あぁ、そうだな」
 私は愁の手に逆らって、一度、立ち止まった。
 「い、一応、礼だけは言っておくからな? あ、ありがと」
 「ふふ、手土産忘れないでね?」
 ――なんて、現金な奴だ。
 「あぁ、覚えておくよ」
 私もいいかげんお腹が空いてきたので、愁を追い抜いて足
早に扉に向かうと、そうはさせまいと柊が上から這いつくばっ
た形で身を乗り出してきた。
 「なんや、なんや、みんなで泊まるんか? 面白そうやん。
おれも行くわ!」
 ところが、寝そべった柊の背中に爽香は即座に判決を下し
た。
 「却下」
 「いでっ!? なんや、おれだけ除け者かいな」
 姿を消した柊の、無念そうな蕎麦をすする音に私は悪いが
笑ってしまった。

 私は学校の行事でもないのに、愁と泊まれるこの機会を大
いに喜んだ。嬉しさのあまりポチを撫で回し過ぎて、困らせ
た。母さんはやっぱり私の味方だ。どんな時でも、私を突き
放したりはしない。
 そう思っていたのに、ところで、その日は土曜日だ。母さ
んはあろうことか、私の一番不快な日に泊まりに行けと言っ
たのだ。そうなのだ、母さんはこうなる日を見計らっていた
のだ。
 「うん? 何? どうしたの?」
 トートバックを手に助手席の横で立ち尽くしていると、車
をはさんで反対側から母さんが話しかけてきた。
 「……母さんはとても意地悪だ」
 「ふふふ、ごめんなさいね? でも、分かって、彩香?
これが私たちにできる最大限の譲歩なの。愁君のことは信じ
ているつもりよ? でも、彩香にもしものとこがあってはい
けないの。親としてその機会を自分の手でつくるわけにはい
かないわ。分かってちょうだい、彩香。私はこう見えても、
あなたの母親なのよ?」
 「……そんなの分かってる」
 「そう。さぁ、ほら? 車に乗って? それとも、行くの
やめちゃう?」
 「そんな意地悪いらない」
 私は抗議に疲れて、助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。
母さんも車に乗り込むと、私の髪を数回撫でた。
 「ごめんね、彩香」
 私は答えないで、シートベルトをした。母さんはそれでも
やっぱり大好きだ。分かっているのだ。私のことをちゃんと
想ってくれている。いつも優しく諭してくれる。
 思えば、愁にも似たようなところがある。あいつはまだま
だだけど。きっと、いつか母さんのように大きくなってくれ
るのだろう。
 身長だけ延びて、今はとっても生意気な奴だけど。
 「確かに、こいつにエアバックがあっても、シートベルト
は必要だな?」
 頭では分かっている。今度は母さんがそれに答えないで、
車のエンジンを始動させた。

―――――――――――――――――――――――――――

 学校から帰って家に着いたのは16時頃だった。今日は念
願の土曜日だ。ひとつ心配なのは、昨日が遠足の前日のよう
に眠れなかったこと。でも、これよりももっと今日は深刻だっ
た。
 遠足は帰ったら、いや、帰りのバスで早々に眠れるが、こ
の日、僕は眠らないでおこうと決めていたのだから。一緒に
過ごせる時間をせっかく作ってもらえたのだ。僕はずっと彩
香と話していたかった。とは言っても、きっと、それは僕の
理性によって、きっと、正されてしまうのだろう。
 自嘲気味に鼻で笑うと、僕は空にため息を打ち上げた。す
ると、遠い過去から言葉が降って帰ってきた。

 「なぜ、僕たちは子供なんだろう。大人でなければならな
い時に」(51)

 なんとも懐かしい言葉だ。爽香と始めてふたりで暮らすこ
とになったとき、重圧からか、ここがチェアマン島(52)
に見えたんだ。
 「どうしたの? 記憶でもなくしたの?」
 爽香も部活が1部の時間帯だったらしく、彼女は玄関前で
家の鍵をちょうど開けたところだった。
 「誰がなくすかよ」
 自宅を見上げていたところを見られたのが恥ずかしくて、
きょとんとしている爽香を家の中に押し込んだ。
 ――大丈夫、ちゃんとやれている。
 大切な人も迎えられるようになったんだ。お互いの健闘を
称えようと爽香の頭をぽんぽんと軽く叩いた。ところが、爽
香の目は半目になり、僕を押しのけた。
 「もう、嬉しいからって私にじゃれないで。早くしないと
国嶋さん来ちゃうわよ?」
 意図は中々通じないものだ。爽香の背中を目で見送ってい
ると、また、後から言葉が降ってきた。
 ――そうだ! 掃除をしないと。
 僕は急いで部活着を洗濯機に、かばんをベットに放ると、
颯爽と掃除に取り掛かった。
 土曜の午後の部活は13時から15時までの一部と、15
時半~17時半までの2部に決められている。体育館使用の
部活は男女で別れていて、僕は今日1部だった。
 この2部制には男女ではっきりと希望の違いが出ていて、
1部は男に人気があり、2部は女に人気となっている。空い
た時間の有効活用の得手不得手が影響しているのだろうか。
爽香が言うには、校内の講堂、もしくは、郊外のカフェで過
ごす時間が楽しみらしく、部活動後の汗をかいた後では中々
そうもいかないらしい。爽香いわく、女は気にしなければな
らないことが多いらしかった。
 ところで、彩香は今日の部活が2部であることに猛抗議し
ていた。このルールを決めたのは生徒会なのに、反発してい
る彩香の姿が不謹慎にも可笑しくて、でも、嬉しかった。
 「あ、十重の割引券だ」
 あれこれ思考を巡らしながら雑巾がけをしていると、爽香
ののほほんとした声が聞こえた。
 「おい、爽香? 頼むから少しは手伝ってくれよ?」
 「お父さんからよ?」
 爽香は答えないで、封筒を手元で揺らしてみせた。
 「オトウさんて誰だよ?」
 「もう、ま~た、そうやって。お父さんは一人しかいない
でしょ?」
 「……親父か」
 「ぷっあははは! なにその言い方~。……親父か」
 「マネすんな」
 僕は抗議の意味を込めて雑巾を投げた。
 「ちょっと! 何するのよ! もうサイテー!」
 そう言いながらも、爽香は扉を閉めて雑巾をしっかりと防
いでいた。
 「爽香? おれが悪かった。雑巾返してくれ」
 「もぉ~、家に修行僧なんていないんですけど?」
 爽香は扉を開けると、へたり込んだ僕めがけて不満たっぷ
りに雑巾を投げつけた。
 「……で、十重の割引券入ってたのか? 親父の奴に」
 「ん、見てみて? でも、これいつもながら……」
 爽香はそう言って僕の目の前までやってくると、かがんで
割り引きチケットを見せた。
 「明日までだな、有効期限」
 「そうなの。ま~た、お父さんてば、出しそびれていたみ
たい」
 「まったくもってのいつもの親父だな。おれらは二の次、
三の次だ」
 爽香からチケットをさらうと、ため息混じりに不満を漏ら
した。ところが、こういうときに限って目の前の子はとても
楽しそうにする。
 「な~に? 拗ねたいの? 飛び込んでみる~?」
 でも、この陽気さに何度救われたことか。
 「誰が拗ねるかよ」
 チケットで爽香に面を打つと、それを彼女に手渡して、洗
面所に向かった。
 「おまえ、明日、友達と行って来いよ?」
 「や~よ。こういうのはふたりで行くって決めたでしょ?」
 「あぁ、そういえば、そう……」
 と、言いかけて振り返ったところで、爽香がロボット掃除
機を作動させているのが見えた。
 「おまえなぁ……」
 「ふふ、それに、私のまわり、肉ダメな子ばっかだもん」
 「なんだ? そうなんか?」
 「ん、兄さんと一緒で魚人ばっか」
 「おい……」
 「ふふ、ね? 行こうよ、兄さん?」
 「あぁ、そうだな」
 「ケッテーイ! じゃ、これ4人分あるから、兄さん、あ
とふたりテキトーに呼んでみりん?」
 「あぁ、分かったよ? サンクス」
 「ローソン?」
 「コンビニじゃねぇよ。……何だよ、それ」
 「ヤダ。サンクスて言われたら、ローソンて返すの。兄さ
ん、知らないの?」
 「知らねぇよ。何だよ、その挨拶? コンビニ愛好家でも
始めたのか?」
 「ふふ、そんなの知らないの~」
 ――でも、なるほど、便利でお手軽、それもいいかもしれ
ない。親父、まさか、この日を狙ったのか?
 雑巾を絞ると、僕は夕食の献立を瞬時に決めた。

 玄関で呼び鈴が鳴った。彩香がやってきたのは19時少し
前くらいだった。
 扉を開けると、彩香の隣に夫人が立っていたので、僕の身
体は反射的に後ろに仰け反ってしまった。夫人の口に合う紅
茶か何か、家にあっただろうか。
 最初の挨拶を終えて、大急ぎで記憶を探っていると、反し
て、夫人はすぐに帰ろうとした。どうやら、彩香のプレッシャー
を横で感じているらしかった。
 「じゃぁ、娘のことお願いしますね?」
 「あ、は、はい!」
 唐突に現実に引き戻されたときの声はどうも上ずって困る。
彩香はこれを誤解した。
 「ふふ、なにを緊張しているのだ、おまえは」
 「あ、いや……」
 でも、完全な誤解ではないのかもしれない。僕の背中を汗
が滑るのを感じたのだ。僕はそれを認めて、彩香にしない方
が不自然だよ、と、言いかけたところで、夫人と目が合った
ので、僕は言葉に代えて苦笑いを続けるしかなかった。
 「これ、よかったらみんなで食べてね?」
 「あ、ありがとうございます」
 「どうだ、爽香? 気に入ったか?」
 今度は僕の隣で爽香が引きつった笑顔をしていた。
 夫人の前では、さすがに僕らは形無しだった。

 彩香の荷物をリビングに置くと、僕らは早々に夕ご飯へと
急いだ。初め、彩香は僕がそれを作らないことに大いに眉を
ひそめたが、すぐにそれを緩めてくれた。
 「そうだな。夜にこうして皆で食べに行くのも良いな。で
も、今度、おまえ……弁当でも作ってくれ」
 そっぽを向いた彩香が可笑しくて、僕はそれに笑ってこた
えた。
 正直、嬉しい気持ちもあった。十重はここらでは誰もが知っ
ている焼肉料理店の、しかも、ハイクラスな値段設定の店で、
要は高級料理店だった。親父の施しがなければ、到底行ける
ところではない。けれど、彩香はいまこうして僕の手料理を
せがんでくれたんだ。
 ふいに、彩香の誕生日のことを思い出して、ひとり懐かし
い気持ちに浸った。
 「それで、よりにもよって、な~んでこのふたりなの?」
 「なんだ、おまえ、随分な言い方だな。今日は客人だぞ?」
 「せや、せっかくこないなところへ連れてきてもらえて感
謝しとるっちゅうのに」
 「わぁ~ん、兄さん、ドバカがふたりもいる~」
 「お、おまえ、バカって。愁!?」
 僕はすっかり普段とは違う静けさにのまれていたのだが、
3人は全く意に介さずといった感じだった。ただ、このまま
賑やかにしていては肉が出る前に僕らが店外に出されてしま
うだろう。
 「おれのまわりで肉好きって言ったら、この2人だろ?」
僕は声を潜めて爽香に同意を求めた。ところが、爽香は目
を細めた。
 「兄さん、そんなに私のことが嫌いなの?」
 「いや、違うっての。なに言ってんだよ?」
 「もぉ、いいわ。ちょっと、柊、恥ずかしいことしないで
よね?」
 ところで、爽香もこの雰囲気をのみこんだらしく、声のト
ーンを落として話し始めた。
 「なんやで、恥ずかしいことって?」
 「いつもしてるでしょ? い~い? 欲張って焼いて、お
肉を炭にしないこと。もし、炭にしても、網の下に落とした
りしないこと」
 ところで、僕もだが、爽香の心配も杞憂に終わった。机上
が賑やかになると、今度は、僕らの方は自然と静かになった
のだ。蟹を食べるときのように無口になり、その美味しさを
各々堪能していると、気がついたら、既に車の中にいたのだ。
 
―――――――――――――――――――――――――――

 愁が連れて行ってくれた焼肉はとても美味しかった。前み
たいに時折、愁に文句を言いながら、あいつの手料理が運ば
れてくるのを待ちたい思いはあるにはあった。
 でも、夜にこうして皆でご飯を食べに行くのもそれはそれ
でまた、楽しいものだった。
 「愁、温泉に行かへんか?」
 車窓から流れ込んでくる風に身体を洗われて(焼肉の臭い
が染み付いていたのだ)物思いにふけっていると、柊のバカ
がふいにそんなことを言い出した。
 「おまえ、バカか? 着替えないだろ?」
 「そんなんいるかいな」
 「いるわよ、ドバカ。んーでも、いいかもね? 兄さん。
着替え取りに帰る?」
 今日は助手席に乗らなくて良かった。爽香を肘で小突くと、
目で抗議してやった。温泉なんて入れるわけがないのだ。
 「そうだな~。彩香、温泉行く?」
 けれど、愁の目線がバックミラー越しに一度、輝いてやっ
てきた。
 ――そんな行きたそうな目をするな、愁。つらいじゃない
か。
 「冗談だし。何よ? 混浴じゃないのよ~? 却下却下」
 爽香が前席の方に身を乗り出すと、行き先変更を告げてく
れた。
 「兄さんとドバカふたりで行ってこりん?」
 「いや、いいって。彩香はどうすんだよ?」
 「国嶋さんは私と家で入りたいんですって。ねぇ~?」
 ――まったくこいつは……。
 渡り舟を出しときながら、そこに、いつだって私を貶める
罠をしかけてやがる。たまには全面的にフォローしてくれたっ
ていいだろうに。
 「……あ、あぁ」
 「なんや、国嶋、浮気やんけ」
 愁には悪いが、目の前のヘッドレストに思い切りパンチを
してやった。

 家に着くと、一目散に爽香が風呂に駆け出した。
 「彩香、先入らなくていいのか?」
 愁が爽香を咎めようとしたので、私は慌てて愁の腕を引っ
張った。
 「いや、いい。最後に入る。おまえの前に……入りたくな
いのだ」
 もう、ダメだ。きっと、悟られてしまった。いつかは言わ
なければいけないのだが、言う前にこいつに悟られるのは恥
ずかしい。
 恐る恐る顔をあげてみると、愁は何を想像したのか、目を
泳がせて、頬をかいていた。
 「そっか。あ、あれ? 紅茶でも飲むか?」
 ――まったく、何を想像しているのだ、こいつは。いやら
しい奴め。
 私は笑って、あぁ、頼む、と、言ってやった。すると、愁
は白い牙を見せるとキッチンに向かった。
 あいつの笑顔は危険だ。風呂にまだ入っていないのに、顔
が妙に熱い。
 私は居間のソファの位置を勝手に変えて座ると、愁の後姿
を見守ることにした。あいつの後姿が好きだ。まだ片思いだっ
たころ、何度盗み見てやったことか。あいつの背中を見ると、
なぜだか、落ち着くのだ。
 でも、不思議だ。いまは真正面から見てやれるのに、それ
でも、私はまだあいつの後姿を愛している。……なんて、柄
にもないか。
 どうも、変だ。さっきから顔が熱い。私はいま愁に顔を見
られたくなくて、膝を抱えて目を閉じることにした。すると、
暗闇のなかで高揚する理由が見つかった。今のあいつは私に
背中を向けていても、私のことを見ていてくれるのだ。それ
が分かるから、顔が熱くなるのだ。時が止まったかのような
静けさのなか、あいつの音だけが私の世界になった。
 突然、私の肩が抱かれた。驚いて顔を上げると、すぐ横に
愁の顔があった。
 「なんだ、急に? 心臓が止まるだろ」
 本当は嬉しいのに、不満たっぷりにもう一度膝に顔をうず
めると、愁の奴、今度は髪を撫でやがった。
 「ごめんごめん、どうした? 体調、悪いのか?」
 膝に顎を乗せると、愁を見ずに答えてやった。
 「そうじゃない。ただ……なんて言ったらいいのだ? 生
活音? おまえが紅茶を作ってくれる音とか聞いているのが、
どうも私は好きらしい」
 目の前に出された紅茶が少し残念だ。ところで、愁の奴、
自分から聞いておきながら、しばらくの間、口を開かなかっ
た。
 今度はひざに左頬を乗せて、あいつを見てやった。すると、
愁の奴、私の額に手をあてやがった。
 「……なんのつもりだ?」
 「いや、熱ないかなと思って」
 ――あったまにきた!
 「あるわけないだろ!」
 私は愁を押しのけると、背中を向けて座りなおした。でも、
また、すぐに愁につかまってしまった。
 「怒っているのだぞ?」
 愁は知らないとおどけて言うと、さらに、強く後ろから抱
きしめてきた。
 「……まったく強引な奴め」

 それから、爽香が長い長い入浴時間(後で気がついたこと
だが)を終えるまで、私たちは何を話すでもなく、そのまま
でいた。
 時間を気にしなくていい。これこそが幸せなことなのだと、
そう思った。
 爽香が体格に似合わず、ドタバタと2階に上がっていく音
が聞こえると、愁は風呂場に向かった。
 私はひとり、暇になった。すっかり冷め切った紅茶を口に
すると、まるで、夢が覚めたかのような、現実に引き戻され
た感覚になって、それは、とても苦かった。
 眉をひそめながら、すべて飲み終えるころ、タイミングを
見計らったかのように、愁が風呂から出てきた。2階の自室
にいるよう愁に言いつけてから風呂場に向かったのだが、私
が出るころには愁の声が居間から聞こえてきた。
 どうやら電話をしているらしい。私が居間に入ってくるの
に気がつくと、愁は保留にした。
 「なんだ? 電源は切っておかなかったのか?」
 愁は白い牙とともに受話器を私に向けた。
 「先生、お電話です」
 「ん? 私にか? 誰からだ?」
 「お母さんだよ」
 私はその言葉を聞いて、踵を返した。
 「なんだ……いい。よろしく言っといてくれ」
 背中越しに手を振って、その場を立ち去ろうとしたのだが、
愁はそれを許してくれなかった。
 「よろしくって……お母さんだよ? いいから、でなって」
 「まったく、しょうのない奴だな、おまえは」
 私は愁の手から受話器を乱暴に取ると、ため息交じりに答
えた。
 「……彩香だ。母さん、何のつもりだ?」
 「まぁ、お母さんにも冷たくなっちゃったのね? 彩香は。
もう、そちらの子になっちゃったのかしら?」
 「そうじゃない。ただ、旅行中なのだぞ? 日常に肩を叩
かれたら、誰だってげんなりするものだろ? いくら日常が
素晴らしくても、だ」
 「ふふふ、そうね。でも、愁君が気を利かせて寝る前に電
話してくれたのよ?」
 「愁が? 呆れた奴だな」
 近くにいたら、わき腹を小突いてやろうと思ったのに、あ
いつは遠くで微笑んでやがった。
 「ちゃんと寝るのよ?」
 「あぁ、分かっている」
 「もし、明日お昼寝してたら、母さん、起こしちゃうから」
 「……そんなの知らない。もう、切るぞ?」
 「えぇ。愁君と爽香ちゃんにもおやすみって言っておいて
ね?」
 「あぁ、おやすみ」
 ――ガチャ。
 受話器を置いた途端、なぜだか、私の鼓動が一気に高鳴っ
た。先ほどまでげんなりしていたはずのに。……あぁ、そう
だ。もう、これから寝るのだ。でも、なんていうことだろう。
私にはまだ一番気の重いことが残っていたのだ。そうか、さっ
きまではげんなりするふりをして忘れていたつもりだけだっ
たのだ。
 この受話器が私にそれを知らせてくれた。愁……。愁に言
わなければならない。でも、いつ言えば良いのだ。あいつの
ベッドのなかじゃ、余計に失望させてしまうだろう。いや、
愁に限ってとはと思うのだが、やはり、あいつも男だ。私が
女であることを知ったら、きっと、落胆するはずだ。ベッド
から私を投げ出しはしないだろうが、背を向けてしまうんじゃ
ないか。すぐにいびきをかきだすんじゃないだろうか。愁に
は悪いけれど、そんな不安が次から次へと私に押し迫ったき
た。
 「ん? どうした?」
 「いや……もう、寝るのだよな?」
 「あぁ、ほんとはいつまでもしゃべっていたいけどな?
お母さんに任された以上は」
 「ん……」
 私は爽香が歯を磨いているいまこそ、言うべきだと考えた。
でも、愁は何を思ったか、気負っている私を一気に脱力させ
た。
 「なぁ、頼みがあるんだけど」
 「ん? どうしたのだ?」
 「その……爽香と一緒に寝てやってくれないか?」
 予想外だった。私は愁とふたりきりで寝るものだろうとてっ
きり思っていた。それなのに、愁はいまはっきりと私と寝な
いと言ったのだ。私がこんなにもこの身を呪っているとは知
らずに。
 「……どうしてだ?」
 でも、言われて初めて、あぁ、やっぱり、これが愁なんだ
だって思った。愁はいつだって、優しい。爽香のことが気が
かりなのだろう。でも、その私に向かない優しさにちょっと
ムッとしてしまった。
 「いや、その……」
 「ふふ、良い。私にはもう分かっている。おまえは私より
爽香が大切なのだな?」
 「え!? あ、いや、そういうわけじゃ」
 まったく、こいつの慌てぶりをみるのはいつ見ても楽しい。
私は心にもないのに、いや、少しはあるのだが、それを盛大
にして、憎まれ口をたたいてやった。愁の目線を泳がせる姿
がとても可笑しかった。
 「もう、良い。おまえが望むのなら、今回だけはそうして
やる。ただ、今度ここにくるときには……その、隣で……ちゃ
んと寝てくれ」
 「あぁ、なんとかしてみる」
 「本当か? ふふ、良いのだ。おまえは頑張らなくて。言
いにくいだろう? 私がそうなるように持っていってやる。
期待していろ」
 柊がたまにそうするように私は愁の肩を軽く小突くと、部
屋を後にした。

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 困ったことに眠れない。時間が全然経たない。いや、これ
は本当は望んでいたことなのだが、隣に彩香がいなくてはも
うどうしようもない。ただ、じっとしてはいられなくなった
ので、もう一度、僕は彩香に謝りにいこうと思った。
 爽香の部屋の前にいくと、やはり、まだ電気がついていた。
 「おい、空けるぞ?」
 「あっ!?」
 言いながら空けるのは僕の悪い癖だ。でも、爽香が塞ぎ込
んでいないと分かると、僕はとても図々しくなる。その罰と
してだろうか、顔に鈍い痛みを感じた。
 苦しみから目をあけると、爽香のあの悪戯が見つかった後
に見せるバツの悪そうな顔が見えた。そこで、その先が少し
だけ読めた。
 恐らく、彼女は僕が枕を拾い上げるその僅かな時間に、彩
香の抱えた枕を奪い取るだろう。そして、僕がすっかり枕を
取り終えると、誰がやったのだと聞く教師のようにそこに仁
王立ちをする。
 やはり、爽香の手には彩香の枕がしっかりと握られていた。
 「な、なんてことするの!? 国嶋さん!」
 「なっ!? おまえだろう!」
 教師なら誤魔化せたかもしれない。彩香はとばっちりだ。
ところが、相手は兄貴だ。僕は爽香の顔に枕をパスした。
 「っ!?」
 枕は見事に爽香の顔へ飛びついた。
 「ふふ、愁」
 「早く寝なよ? 彩香」
 「ん、おやすみ」
 僕はあぁ、と言って足早にドアを閉めた。
 その直後、ドア越しに枕のぶつかる音が聞こえた。
 「もぉ! 兄さん! 何しに来たのよ!?」
 本当にそうだ。でも、どうやら、もうドアは開けられない
らしい。急いでベッドに避難すると、僕は勝利の余韻に浸っ
て安らかに眠りに落ちた。
 ところで、一時間もしない間に僕はまた起きてしまった。
そのときの僕の喉はカラカラで、およそ、おはようとも言え
そうになかった。



(51)『十五少年漂流記』内でブリアンが語った台詞。
    ジェール・ヴェルヌ(1951)『十五少年漂流記』
    波多野完治訳、新潮社

(52)『十五少年漂流記』の舞台となった島の名称。
    ジェール・ヴェルヌ(1951)『十五少年漂流記』
    波多野完治訳、新潮社

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