白刃の女神(第八部 夏休み)後編 第八部完

 僕は自室に戻ると、窓を開けた。締め切った室内は熱がこ
もっていて、とても重苦しかった。
 窓を開放すると、風とともに甘い匂いがビニールのように
顔にへばりついてくるのを感じた。ただ、これは外気のせい
ではなくて、恐らくは、爽香の香水のせいだろう。
 彼女はクッションをよく誤用することがある。あれは座る
ときに下にひくものなのに、彼女はそれをぬいぐるみのよう
に胸に抱えて使う癖がある。自然と首もとを包むような形に
なるから、クッションにはいつも彼女の香水の匂いがしてい
た。
 僕は一度、それを注意したことがある。自然のままの匂い
でいてくれだとか、爽香の匂いの方がいいだとか言って注意
した。ところが、そうしたら、彼女はクッションで僕の顔を
ビンタしてきたのだ。
 女の子はよくわからない。でも、兄弟に女の子がいれば少
しは順応できる範囲が広がるような気がする。実際、彩香に
対して……恐らくは、そうであるように。
 僕はケータイをポケットからひっぱりだして、椅子に座っ
た。彩香はワンコールで出てくれた。
 「……彩香だぞ?」
 「あぁ、知ってるぞ? いま時間ある?」
 「あぁ、大丈夫だ。どうしたのだ?」
 彩香の陽気な声の他に、ポチの声や水の音、夫人の笑い声
が聞こえてきた。きっと、芝生で遊んでいるのだろう。僕も
そこへ飛び込んでいきたくなったが、恐らく、彩香は一時間
もしないうちに部活動へ出かけなければならなかった。
 「真面目な話なんだけどさ」
 「……なんだ?」
 こういう枕詞をすると、彩香は大概不機嫌になる。あまり
面白くない話をその先にみるかららしいのだが。ただ、本当
に真面目な話で、ひとつ気にかかっていることがあった。
 「プールの話……なんだけどさ。彩香、平気なのか?」
 「っ……楓の奴、もうおまえにも話したのか?」
 「あぁ、さっきかかってきた」
 彩香は少し黙った。
 「すまない。……それ、私も愁に聞きたかったのだ。私な
らほんとに、おまえが抱えてくれたことぐらいしか覚えてい
ないから、その、トラウマとかはないんだ。でも……おまえ
こそ、どうなのだ?」
 以前、主人と話した通り、僕は一度、映画を観て吐いたこ
とがある。でも、あの頃はまだ災害から日もあさかったし、
それに、それからまもなくして父親にプールへ連れて行かれ
ても特にも問題はなかった。翌年も爽香と行ったのだが、い
たって平気だった。
 「プールなら、平気だよ? さすがに、川とか海とかだと
気が重いけど……たぶん、自然じゃなくて、人工的なところ
なら平気だよ」
 「そうか、それなら良かった」
 彩香の安堵した声に僕は少し意地悪をしてみたくなった。
 「どっちみち、泳ぐのが目的じゃないしな」
 「あぁ、そうだな。宇宙ステーションのことだろ? あれ
は私もやってみたかったのだ」
 「んーそれもあるけど、もっと刺激的なもんがあるから」
 「……なんだ? あれ以外にそんなものあったか?」
 「あぁ、人魚がでるらしいんだ、あそこ」
 「……人魚?」
 「そう、凄い可愛いらしいよ? ショートヘアーでちょっ
と髪が明るめの子」
 「……おまえ、スピーカーにしてやろうか?」
 ところで、僕の意地悪はあまり成功しないらしかった。
 彩香の含み笑いに僕は慌てて謝った。夫人に聞かれでもし
たら、僕は羞恥心で舌を噛みかねない。

―――――――――――――――――――――――――――

 ――そして、プールの日の当日。
 僕はすっかりと準備を終えて、リビングでくつろいでいた。
 まもなく、呼び鈴がけたたましくなった。そして、鳴り続
けた。きっと、彩香だ。彩香の仕業にちがいない。
 僕は荷物を持って、玄関に出た。玄関のドアの前では爽香
がいて、彼女と目があった。
 「ふふ」
 爽香がドアを開けると、彩香が勢いよく爽香に飛びついた。
 「愁っ!?」
 ――なるほど。
 「やーん、国嶋さん、情熱的~」
 爽香の気の抜ける声に思わずため息がでた。
 「なっ!? なんでおまえが……いたのか?」
 「当たり前でしょ~? ここ私たちのお家なの。忘れない
でね?」
 「なんや、やっぱ、モメてるんか」
 彩香の背後から、続いて柊が入ってきた。
 「よぉ、愁?」
 「おぅ。珍しく遅刻なしか?」
 僕は時計を見て笑った。
 「アホ、ドクサレ女がおるのに遅刻してみぃ? リストか
ら消されてまうわ。それだけはあかん! おれは絶対宇宙ス
テーションやるんや!」
 「なによ~? チケットだけ連れてってあげましょうか?」
 爽香は柊が握りしめたチケットを颯爽と奪い取ると玄関を
出て行った。
 「ほら、行くわよ? ドバカ」
 「お!? おい!? 待て!? 待ってみぃ!?」
 さっそく彩香と僕は玄関でおいてけぼりになった。
 「彩香? おれたちも行こう?」
 僕は鞄を手に取って靴を履くと彩香の手を握った。ところ
が、彩香はそこから動こうとしなかった。
 「……おい、愁? おまえ、私に挨拶したらどうなのだ。
久しぶりにあったのだぞ?」
 彩香の表情は天気に反して曇り空だった。僕は無遠慮に唇
を重ねた。
 「おはよ?」
 彩香は僕のTシャツを引っ張ると、僕がいましたそれと同
じことをした。
 「あぁ……おはよう。それにしても、長い眠りだったな?
おまえ、私のこと覚えていたか?」
 彩香は僕の両腕を握ると、いじらしくそんなことを言った。
 僕は目を閉じて、あぁ、とだけ答えた。
 「……ところで、彩香? 起きて早々なんだけど、一緒に眠
らないか?」
 僕は眩しすぎる世界を後目に2階を指さしておどけてみせた。
彩香はその指を握った。
 「バカか、おまえ。今日は起きてろ。ほら? 行くぞ。外で
カフェインどもがお待ちかねだ」
 僕は残念だと笑うと、家の鍵を手に取った。

 現地までは車だった。僕の車は臨時4人乗りだったので、
レンタカーを借りようと思ったのだが、楓の母親がちょうど
留守ということもあって、僕たちは彼女から車を借りること
にした。
 「あ? 愁くん、おはよ?」
 僕たちが車に近づくと車内にいた楓が運転席から降りてき
た。手には地図を持っている。どうやら、ナビつきではない
らしい。ところで、これが僕の胸を高鳴らせた。
 「おぅ、おはよ。ごめんな? 早くに」
 「ううん、いいの。えっとね、これで案内してくれると嬉
しいんだけども」
 僕は楓から地図帳を受け取った。地図のなかにはなにやら
プリントアウトされた道案内がはさまっていた。どうやら、
地図本体は念のために母親から持たされたようだ。
 「ん、わかった。それより、大丈夫か? まだ免許取った
ばっかだろ?」
 「ん、大丈夫! でも、いざとなったら代わってくれると
嬉しい……と思うの」
 楓は少し恥ずかしそうにして笑った。
 「あぁ、いいけど、これ保険大丈夫か?」
 「うん、言われたとおり確認済みだよ?」
 「そっか」
 僕は地図を閉じると、助手席に手をかけた。ところが、誰
かにシャツをひっぱられて、それは阻まれてしまった。
 爽香と柊は暑さを嫌って、すでに車内にいた。ただ、ひと
りこの暑さのなか、彩香だけがポツンと後ろに立っていた。
僕はその姿に暑さも忘れて抱きしめたくなった。ところが、
彩香は随分と不満そうだった。
 「楓……」
 「あ、おはよ? くーちゃん」
 「あぁ。おまえ……あんまり、愁としゃべるな」
 学校が休みになって話す機会がめっきり減ってしまったせ
いなのか、この日の彩香は嫉妬深かった。
 「え? あ、ご、ごめんね?」
 「分かってくれたら……いいのだ」
 いつもの自分と違うことに気がついてそれを恥じたのか、
少し彩香はしぼんだ。それを見て、僕はまた無性に彼女を抱
きしめたくなった。
 「……くーちゃんが嫉妬してくれてる。くーちゃんが」
 楓は幸せな方向にこれを勘違いしてくれたので、僕は助かっ
た。
 彩香は僕から地図を取ると、助手席に乗り込んだ。僕もい
いかげん照り返しに炙られるのが嫌になったので、車内に逃
げ込んだ。

―――――――――――――――――――――――――――

 それから、2時間近くかけて僕らは現地に着いた。プール
は巨大なドーム状のスタジアムで、もっと小さければ、きっ
と、野球観戦にでも来てしまったのかと思ったことだろう。
ここに入ったら最後、僕はもう二度と市民プールに行けない
ような気がして、それだけが少し悲しかった。
 僕らはロッカールームの前で男女に別れて、入り口の前で
再び合流することを決めた。
 僕と柊は人混みのなかでも目立つようにと買ってきた原色
の水着に着替えて、入り口へ向かった。そこには僕らと同じ
ような待ち人が大勢立っていて、思わず引き返そうになった。
というのも、その待ち人が男ばかりで少々不気味だったのだ。
 「うわ、ようさんおるわ。ま、でも、おれらのデーハーな
水着にあいつらすぐに気が付くやろ?」
 僕らはお互いの水着のセンスのなさを早速、笑った。
 「いいんだよ、カッコ悪くたって、迷子になられるよりも
よっぽどましだろ?」
 「そうやな、さすがにこないな状況やったら、見つけられ
へんさかいな」
 「にしても、結構でかいんだな?」
 「あぁ、ほんまや。お、あれ、見てみぃ! 宇宙ステーショ
ンやないか? ほら、行こうや!」
 「バカ、まだ、待ってろよ。みんな来てねぇだろ?」
 「あぁーそうやったな。まったく、何してんのやで、あい
つら」
 柊はそう言って、地団太を踏み出した。
 「アハハ! クレヨン発見~」
 「遅いねん、自分ら」
 「しょうがないでしょ? 女の子は時間がかかるものなの。
赤鉛筆は黙ってて」
 「なっ!? 誰のためや思てるんや!」
 「ふふ、そんなの知らないの~」
 「こ、こいつ~!」
 「へへ、仲良いねぇ」
 「わーん、兄さんこの赤鬼がいじめる~」
 「ハハ、赤鬼って……」
 僕の笑いは乾いていた。柊には悪いが、この柊の犠牲に僕
は救われた。爽香に青鬼と言われたら、僕はきっと立ち直れ
ないだろう。
 「てか、さ? 彩香は?」
 「え? なに言ってるの? いるよ?」
 僕は突拍子もなく怪談話でも始まったのかと思った。彩香
の姿はやはり、どこにも見えない。
 「いるって……どこに?」
 「ほら、ここに?」
 爽香は楓の後ろから持ち主のしれない腕をひっぱりだした。
 「わっ、よ、よせ! ひっぱるな!」
 僕はその声にヒュードロドロというよりかは「アマリリス」
(43)を想起した。
 どうやら楓の後ろになんとも可愛いらしい子が隠れている
らしい。彼女はぴったりと楓にくっついているらしく、僕に
は指摘されるまでまったくそれがわからなかった。
 「何してるんや、国嶋」
 「う、うるさい! なんで、おまえがいるんだ!? は、
早くプールに入ったらいいだろう」
 「ふふ、国嶋さんかわいい~」
 「彩香、おれにも見せてくれないんだ?」
 「……愁。いじめないでくれ。こんなの恥ずかしいだろ?」
 まるで、楓は腹話術の人形だった。無邪気に口だけ動かし
ておどけている。彩香が知ったら、これは一大事だ。
 「ビキニ着といてよく言う~」
 「おまえが選んだんだろ!?」
 「しょうがないでしょ、兄さんはいやらしいの。あきらめ
てね?」
 あぁ、と思った。爽香はあのテレビを見て、彩香にビキニ
を買わせていたのだ。
 「おい……爽香」
 「ふふ、お礼なんていらないの」
 僕はまだ弁解したかった。
 「あ、あの、……柊くんがもう行っちゃってるけど、いい
のかな?」
 いまのは楓の声だった。彩香の呪縛からとかれたらしい。
 「おぉーい、いつまでそこにおるんやぁ!? 早う入ろう
や!」
 「ふふ、こども~」
 柊はもう数十メートル先にいた。色がきついのでそれでも
十分によくわかった。きっと、僕もあんな感じなのだろう。
それなら、いっそ、僕は赤白のしま模様にすればよかったん
だ。そうしたら、きっと、どれほどややこしい本のなかに放
り投げられたとしても、誰々発見!とこのうちの誰かが(恐
らく、爽香だが)言って、僕をみつけてくれるだろう。
こんな自虐的なことを考えていると、急に僕も彩香のよう
に着ている水着が恥ずかしくなって、プールに飛び込みたく
なった。
 「ん、まぁ、でも、そうだな。とにかくプール入ろう? 
おれ先に入ってるから、水中ならまだいいだろ?」
 この言葉は彩香に向けられたのだが、実際は自分に向けら
れているものだということを僕は十分に理解しいていた。
 その後、僕の水着に対する恥ずかしさは水の中へ消えていっ
たのだが、彩香のそれはいっこうに消えなかった。結局、彩
香の恥ずかしさを和らげるために僕らは午前中いっぱいかかっ
た。

 「ええか? 午後は乗り物全部制覇やからな!」
 着たからにはそこに埋もれた楽しさをすべて掘り返さない
と気がすまないたちの人がいるが、柊はまさにそれだった。
 柊は息巻いて宇宙ステーションのゴム製整理券を握りしめ
ながら、楓と飲み物を僕らのいる休憩所に持ってきてくれた。
 「……す、すまない」
 「ええから、ええから、まだまだこれからやんけ!」
 彩香はすっかりしょげていた。午前中に僕をかまわせてい
たせいで、僕らがまだ川の流れや海の波を体験するのにとど
まっていたので、彩香はそれを申し訳なく思っていたのだ。
とはいえ、じらされてずっと浮かない顔でいたのは、整理
券を握りしめている柊だけだったのだが。
 「やっぱ、そんなに人気か?」
 「人気や人気! 凄い人やったぞ。17時やで? な?
それまでに全部まわろうや」
 さすがにこの提案は無茶だと思ったのだが、しょげている
彩香の手前、僕はおぅ、とだけ言った。その後、まさか、本
当に回る羽目になるとは思いもしなかったが。
 僕は柊に頼んでおいたコーラをもらって、彩香にあげよう
とした。ところが、それはかえって、彩香に迷惑をかけてし
まった。
 僕らには間違った礼儀作法を好んで拾得する、困った癖が
あった。昔だったら、ランドセルの留め金を家に着く前に外
してあげるとか、そういったことだった。
 それで、僕が今回忘れていた礼儀作法はというと、炭酸飲
料は必ずふってから渡すというものだった。当然、僕が蓋を
開けてあげたときには、彩香はすっかりその礼節を身体に浴
びることになった。
 「っ!? わ、悪い! 彩香、ごめん!」
 決して、故意の仕業ではなかったのだが、僕はもの凄く慌
てていた。僕はバカなもので、そこに違った意味を見いだし
ていた。だからこそ、僕はこれほどまでに慌ててしまったの
だ。彩香にかけてしまった。これは僕ら(もちろん、彩香と
僕だが)にとって、大問題だった。
 「彩香、大丈夫か!?」
 「あ、あぁ、大丈夫だ。プールに入ればなんとか……」
 「そりゃダメだっての。入り口のシャワーんとこ戻ろ?」
コーラですっかりと汚れてしまった彩香を見て、僕はなぜ
だか本当に居たたまれない気持ちになった。
 「あ、あぁ」
 「くーちゃん?」
 「大丈夫だ」
 「国嶋、すまん!」
 「ふふ、気にするな。むしろ、これで、おあいこだ。でも、
愁にこんなことしないでくれ?」
 「あ、あぁ、悪かった」
 柊はとてもバツが悪そうだった。
 「わりぃ」
 僕は僕らの礼儀を忘れてしまって、柊の不本意にも周りに
被害をだしてしまったことを謝った。
 「じゃぁ、おれちょっと行ってくるわ」
 「あぁ、すまん」
 僕は彩香の手をひいて、入り口へと向かった。ところで、
僕のよこしまな肩が彩香を入り口の軌道から徐々にフェード
アウトさせていった。僕の哀れな妄想はその実体をどんどん
変えていく。
 僕は結局、真面目ことを言っておきながら、考えているこ
とは不真面目だった。彩香に飛び火した火の粉をシャワーに
流されては困るのだ。
 これだけ広いと人混みのなかにも空きができるので、僕は
それを歩きながら探した。遊具の間にできた小さなプールに
その空きをみつけた。僕は設計者に感謝しながら、彩香をそ
こに誘って、彼女についた不幸を愛撫した。僕は彼女にまと
わりつく不幸を自分の口で清めたかったのだ。

 僕らが戻ると柊がまた謝った。
 「もう良いと言っているだろう? くどいぞ?」
 彩香の言葉はきつかったが、その調子はいつものいたずら
じみた様子だった。
 「くーちゃん、コーラの匂いついちゃったかな?」
 楓が彩香の匂いをかごうとしたので、僕は無性に焦った。
 「バ、バカ! よせ、ちょっとべたつくが……大丈夫だ」
べたつく理由はコーラじゃないがな、と言いたげな彩香の
笑みが僕にからみついてきた。僕はそれを見ていられなかっ
たので、反対方向に顔を向けた。すると、爽香の視線が突き
刺さった。僕に向けられていたのは、間違いなく疑惑の目だっ
た。彼女が目を半ば細めていたからそれがよくわかる。これ
を避けると、僕は何をされるかわからなかったので、目を背
けられなかった。視線だけではない、瞬きも爽香のそれにタ
イミングを合わさなければならないので、僕はしばしば呼吸
のタイミングさえ忘れてむせかけた。
 このいつ終わるともしれない駆け引きの幕を閉じたのは、
なんとも演技がかった声だった。
 「……あぁっ」
 その声が聞こえた先に、僕はコーラを見ていた。
 「愁!? すまない、大丈夫か!? 大変だ、これはすぐ
にシャワーでおとさないと! な、愁!? ちょっとこい!」
僕の手は足早に彩香にひかれて入り口まで向かった。でも、
分かっていたことだが、僕の身体は彩香の肩に押されて徐々
にその軌道からフェードアウトしていった。
 要はこんなときでも彩香は負けず嫌いだった。
 とはいっても、プールの水やら汗やらにまみれた不幸を彩
香の口にさせるわけにもいかないので、僕は暴れ回る彩香を
連れてシャワーに向かった。
 すると、彩香はどこで買ってきたのか、またコーラを手に
してシャワーを浴びた僕の身体めがけてあの演技がかった声
を出すのだった。
 「……あぁっ」
 僕はもうあきらめて、小さなプールで静かに彩香の仕返し
を受けた。

 軽やかな彩香の足取りに対して、僕の足取りは随分と重かっ
た。僕は疑いようもなく休憩室に帰るのを嫌がっていた。生
徒指導室以上にそこを嫌がっていたのだ。そうであれば、そ
こはどこにたとえられるだろう。校長室だろうか。
 僕はそこに待ちかまえる校長先生の顔色が妙に気になって
いた。校長室に着くと、そこでは食事が振る舞われていた。
僕らの分もあったので、早々に手をつけようとした。
 ところが、僕の隣に座っていた笑顔の校長先生がコーラを
手に握りしめていたので、それを見た僕は思わず卒倒しそう
になった。

 様々なアトラクションは午前中に僕らが抱えた不穏を吹き
飛ばしてくれた。なんといっても、最後に体験した宇宙ステー
ションはその極めつけだろう。僕らはそれぞれ打ち上げられ
て、プールに落とされたのだが、その水面に落とされるころ
には一気に午前中の不穏が、その衝撃とともに空へと飛び散っ
ていった。不穏をこれといって抱えていなかったのか、楓が
帰ってくるとひとりきょとんとしていた。
 これは、本当に面白かった。ただ、大慌てでまわってすっ
かり脱力しきっていた身体に鞭を打って、そして、さらにそ
れを空高く飛ばしたので、僕らの体力はすでにマイナスだっ
た。
 へとへとになりながらも、ジェットバスまでなんとかたど
りついて、僕らはそこにしばらく落ち着いた。

―――――――――――――――――――――――――――

 カメラの電池が切れちゃった。もうすぐ帰るからいいって
みんなに言われちゃったけど、でも、私はどうしても最後に
みんなと写真が撮りたくて、来る途中にあったコンビニへ向
かうことにしたの。
 ――へへ。
 お母さんの車を見ると笑顔がとまらなかった。早めに免許
を取って本当に良かったと思うの。だって、みんなとこうし
て一緒に遊びに来られたんだから。お母さん、本当にありが
とう。
 熊さん人形のついたキーを誇らしげにくるくる回しながら、
私は運転席に乗りました。
 ――えっと、運転をする前にボンネットを開けなくちゃい
けないんだっけか? でもでも、確かあれは教習所内だけだっ
てお友達が言ってたような気がするよ? お母さんにも朝確
認しようとしたら、笑われちゃったし……やっぱり、開けな
くてもいいのかも?
 私はまだまだ若葉マークなので分からないことだらけでし
た。愁くんが心配そうについてくるって言ってくれたけど、
それだと、くーちゃんの笑顔が曇っちゃいそうだったので、
私はそれをやめにしました。
 クーちゃん、始め楽しくなさそうだったから私は気が気じゃ
なかったの。でも、やっぱり、愁くんは凄いな……。結局、
くーちゃんを笑顔に変えちゃうんだもの。私にはできなかっ
たよ……なんだかムズムズしちゃうけど、でも、くーちゃん
が笑顔になれたから、私もとっても嬉しいの。
 私はダッシュボードから教習所の本をひっぱりだしながら、
そんなことを考えていました。
 ――えっと、発進するには……そうそう、ブレーキを踏ん
でキーを回すの。……かかったかかった!
 車に乗ると近くのコンビニでも車で行っちゃうって聞いて
いたけど、本当にそうなのかもしれません。いまは外に行く
なら、できるだけ車に乗りたいと思うもの。
 なんだか、私はもうすっかり大人になってしまったような
気分です。ふふ、この前、くーちゃんたちと遊んでいた頃は
まだまだこどもだったのに、いまはもう車なんか乗っちゃっ
たりして。
 私はいけないと思いながらも電池の他に大人用クレープを
独りで買ってしまいました。大人の余韻ってこんな感じなの
かな? なんて、ウキウキしながらコンビニの駐車場でひと
り食べていました。でも、これがいけなかったみたい。
遅くなるとみんなが心配すると思ったので、食べ終わって
すぐに車のキーを回しました。……でも、そうしたら、エン
ジンが全然かからなくて。
 私はもうびっくりしちゃって、出るときと同じように教本
をなんども読み返してみたの。でも、何度、その通りにやっ
てみてもエンジンはやっぱりかかりませんでした。
 ――嘘。こんなときどうしたらいいの?
 お母さんは演劇を観に行っているので、たぶん、つながら
ないだろうし、お父さんもお仕事で……。愁くんたちも電話
はロッカーだよね……。
 ――どうしよう……お母さんの大事な車、私、壊しちゃっ
た。
 本当に申し訳なくなって、私は車内でひとり、泣き出して
しまいました。
 ――どうしよう……せっかく、くーちゃんも柊くんもみん
な楽しそうになったのに、それなのに、最後になって、私が
みんなダメにしちゃう。どうやって、みんなをお家まで帰し
てあげたらいいの?
 いくら考えてみても、ちっとも私にできそうな解決案が浮
かびませんでした。とにかく、戻らなきゃ。みんなのところ
に。みんなをきっと失望させちゃうけど、でも、こうしてい
ても何も始まらないもの。
 ――本当にイヤ……みんなと楽しい思いがしたくてこんな
ところまできたのに……このままじゃ、みんなを悲しませて
しまう。
 私は車を置いて、ひとり泣きながらプールへ向かいました。
愁くんたちはまだジェットバスで待っていてくれたけれど、
でも、私はみんなになかなか声をかけられませんでした。
そうしたら、くーちゃんが私に気づいくれて、凄く驚いて
飛び起きてくれました。
 「っ!? どうした、楓!? おまえ、まさか何かされた
のか!?」
 「ち、違うの……くーちゃん、私がしちゃったの、その……
車……」
 くーちゃんの声につられて、みんなもジェットバスから一
斉に飛び起きてくれました。
 「車って!? 事故ったのか!? 怪我は!?」
 「ううん、そうじゃないの…」
 愁くんはどこから買ってきたのか、へんてこなサングラス
をずらしながらかけよってきてくれました。でも、私はそれ
がまるでマンガのように思えて、とても申し訳ないのだけれ
ども、少し笑ってしまったの。
 「事故ちゃうなら、どないしてん?」
 誰だろう、この人。でも、話し声や話し方で、それは柊く
んだと思うの。でも、どうして、お面なんて被っているのか
な。
 「え、えっと……車を壊しちゃったの。コンビニまではちゃ
んと行けたんだよ? でも、戻ろうとしたら急にエンジンが
かからなくなっちゃって……」
 あぁ、といって、愁くんはサングラスをなおしてジェット
バスへと戻ってしまいました。
 ――やっぱり、怒っちゃったのかな。
 「バッテリーかな?」
 「あぁ、バッテリーやろ。それか、Dレンジに入っとると
か」
 あ、あれ。一大事なのに、柊くんもお面をつけたまま、ま
た寝そべってしまいました。みんな、私にあきれちゃったの
かな。
 「白ちゃん? 兄さんがなんとかするから、心配しないで
いいよ?」
 そうちゃんもひまわりのサングラスをかけています。いま
は仮装パーティの時間だったのかな……でも、どうして? 
車が壊れて帰れないかもしれないのに、みんなはジェットバ
スを楽しんでいます。
 ただ、くーちゃんがひとり私をなだめてくれました。あぁ、
やっぱり、私はくーちゃんが大好きです。くーちゃん、くー
ちゃん。
 「楓?」
 「は、はい!?」
 私は急に名前を呼ばれて驚きました。きっと、これから怒
られてしまうんだと思うの。でも、そばにくーちゃんがいて
くれるから、なんとか頑張って叱られることができそうです。
 「おまえ、JAF(44)入ってたっけ?」
 「え、えっと……」
 私は初め、愁くんの言っていることがまるでよく分かりま
せんでした。そういえば、さっきも愁くんは私が車を壊した
と言ったとき、柊くんと野球のお話をしていました。
 ――ジャフって選手なのかな? あれ? でも、入ってるっ
て言ってたからどこかの球団のファンクラブなのかな?
 お父さんは野球が大好きだけれど、私はバスケとくーちゃ
ん以外、よく分かりません。
 「え、えっと、その……ごめんね? よく分からなくて」
 「そっか、まぁ、いいや。おれ入ってるし。あれ、確かマ
イカー以外でもいけたよな? 柊」
 「あぁ、友達の車もいけるはずやで?」
 「そっか、じゃぁ、おれちょっと行ってくるわ」
 「おぅ、頼むわ」
 「ちょっと、なにえらそうにしてんのよ!? 兄さん使わ
ないで。柊が行ってきて」
 「あかんわ、おれ会員証、家やし」
 「なに、それ!? なんのために入ってるのよ!?」
 「ジム、カーナ?」
 「ぜんっぜん面白くないし」
 そうちゃんはそう言ってお面をひっぱったので、やっぱり、
それが柊君だって分かりました。でも、そうちゃんはすぐに
手を離してしまって、柊君……とても痛そうでした。
 「しゅ、愁? よく分からないのだが、大丈夫なのか?」
 「あぁ。きっと、大丈夫。楓、行くぞ?」
 「あ、うん!」
 「待って、兄さん。もう時間だし、私も行く。国嶋さんも
行くでしょ?」
 「あ、あぁ。心配……だしな」
 「じゃ、ドバカ置いてとっとと行きましょ?」
 「ハハ、そうだな」
 「ちょ、待て!? 置いていかんといてや!?」
 柊くんが笑ったお面で怒ったので、私たちはそれが可笑し
くて笑ってしまいました。
 私が車を壊してしまったのに、みんなはこんなにも温かく
してくれました。私はもう泣いてなんかいられない、そう思
うの。

 服に着替えて外に出ると、愁くんは電話をしていました。
恐らく、お相手はジャフ団……でも、どうして、ジャフ団が
私たちのことを助けてくれるのかな、私にはその理由がよく
分かりませんでした。
 野球のファンクラブはそんなに結束力が強いのかな、でも、
そうだとしたら、それは、凄く素敵なことだと思うの。私の
いるバスケ部もそうなるといいな……。
 私はまだまだ新米だけど、みんなの力になりたい、そう思
うの。特にくーちゃんのためなら、私も。
 歩き始めてからしばらくして、そうちゃんがジャフ団の真
相を教えてくれました。どうやら、車のことならいつどんな
ときでもかけつけてくれるスーパーマンのような集団らしい
のです。とっても素敵なお仕事だと思うの。
 愁くんは自分の車を持つようになったら、そのファンクラ
ブに是非、入会するように薦めてくれました。まだ、彼らに
は会ったこともないけれど、でも、そうしようと思います。
コンビニに着くとまもなくJAFがやってきてくれました。
どうやら、愁くんと柊くんが言っていたようにバッテリーに
問題があったようで、早めに交換した方が良いとのことでし
た。このまま帰れることを知って、私はホッとして、思わず
また泣きだしてしまいました。
 愁くんは私を車に座らせると、みんなの分の飲み物を買っ
てきてくれました。予約したレストランの時間までまだ時間
があったので、もう少しその場にいることになりました。
 エコに悪いので、エンジンを切ろうとしたら、くーちゃん
以外の全員に叱られてしまいました。どうやら、30分はか
けていないとまたかからなくなってしまうそうです。
 愁くんは後で言い過ぎたといって謝ってくれました。お詫
びになぜか大人用のクレープを買ってくれました。私はとて
も恥ずかしくなって下を向いちゃったけど、愁くんは私以外
の女の子にもクレープを買ってくれていたようです。
 やっぱり、クレープはみんなで食べる方が美味しい、そう
思うの。愁くんと柊くんも一緒に食べてくれると良かったの
だけど、もう男はそういうの食べられないんだって言って、
悲しそうにふたりは水を飲んでいました。
 それを聞いて、そうちゃんとくーちゃんはふたりの前でと
ても美味しそうに食べていました。こういうときはふたりと
もとても仲が良くなります。私はちょっと羨ましいけども、
でも、とても真似はできそうになかったの。

―――――――――――――――――――――――――――

 JAFが来てから、愁は楓にめっちゃかみ砕いて説明をし
とった。別にJAFを呼ぶのも、楓に説明するのも俺でもよ
かったけど、これは愁のデートも兼ねとるから、あいつに花
を持たせなあかん思た。せやけど、これがあかんかった。
説明を受けてから、楓がアホになった。
 「愁くん、かっこいいな……愁くん」
 目が完璧にハートマークやった。そらあ、困ったときに優
しゅうされたら、誰かてコロッといきたなるもんや。愁ちゃ
うくても、相手がおれでも。
 いやいや! ちゃうわ。そないなアホな。おれはこれでも
気が付いとるつもりや。楓もほんまは国嶋じゃのうて愁のこ
とが好きなんや。あんまりポーっとしとるから、みんな気づ
いてへんけど、こいつは確かに初等部の頃、愁のことが好き
やったはずや。ただ、本人も気づいてへんみたいやけど。
 国嶋が好きなんかも、あれは愁の奴が国嶋を好きやったか
らや。せやから、あいつも好きになろう思て最初近づいたん
や。まぁ、その後、どないなったのかは確かによう分からへ
んけど。
 「お、おい、よせ! 愁は私のだ! おまえは、私が好き
なんだろ? な? そうなのだろ?」
 ちょっと雲行きがあやしくなってきよった。愁の奴にジュー
スでも買うてこさせようか思たけど、あかん、自分でもちょ
っと台風を期待しとるんや。あれや、大雨の中、怖がりなが
ら窓の外を見上げて雷が見えへんか、どっか期待してるあれ
と同じや。意地が悪い思ても、楓の中から雷が出てくること
を期待してるんや。
 「愁くんもいいかも……愁くん」
 あぁ、見事に落ちたわ。みるみる、国嶋の顔がひきつっと
る。
 「ダメだ! よせ! 目を覚ませ! おまえは私だけ見て
いろ!」
 終いには愁にも落ちた。おれは知らへんぞ。
 「彩香……それって」
 「ふふ、やだ~兄さんの前で堂々と浮気宣言してる~」
 なんや、雷を期待して窓を見上げとったのはおれだけじゃ
なかったんや。愁の妹もあいかわらず意地の悪い奴や。
 「え……あっ!? いや!? ち、違うのだ! 愁!?
そうではなくて、私は……っておい! 愁!? どこへ行
くのだ!?」
 「傷心旅行ぶらりひとりたび……」
 「何を言っているのだ!?」
 こいつらのじゃれあいは、おれからしたらまるでコントや。
せやから、見たなるんか。
 「あ~あ~、兄さん傷つけちゃった。ふふ、待って兄さ~
ん。私も行く~、ぶらりふたり旅~」
 「ちょっと待て! お前もどこに行くのだ!?」
 「ふふ、優しくしてあげるの。つけこんでくる~」
 「な!? よ、よせ!」
 とは言っても、あんまり見すぎたら、こっちまでえげつな
いめにあうし、よっしゃ、この辺で、晴れにしてもらおかの。
 「おい、国嶋、車見とくさかい、早う連れて来てや。この
ままじゃ帰れへん」
 「おまえという奴は!? 勝手に帰れ! 待ってくれ、愁!」
 よう走る奴やなぁ。どうでもええけど、こけんといてや。
ほんまよう問題の起こる奴らやで。
 「なぁ、白鳥?」
 「愁くん……ん、愁くん」
 「お~い、白鳥、帰ってこ~い」
 「……ふふ、愁くん」
 ……あかん、自分の方でも傘持ってへんの気が付けへんかっ
たわ。

―――――――――――――――――――――――――――

 せっかくのレストランだというのに、私はあまりご飯を楽
しめなかった。というのも、愁の心に刺さった棘を私は抜い
てやらなければならなかったし、楓の目も覚まさせてやらな
ければならなかった。
 愁はいじけだすと、信じられないほど弱虫になる。私はそ
れを可愛いと思いながらも、なだめるのにかなり苦労した。
こんな姿、学校の連中は絶対知らないだろう。これは心を許
してくれている証拠だと思って、私は少し嬉しくなった。
 ところで、楓は大変だった。ひとりの世界に入るとそこか
ら連れ出すのはなかなか至難の業だ。柊は愁とご飯の奪い合
いをしていたし、爽香は面白がってこれを意に介さずといっ
た感じだった。
 私は自分の言葉に怯えながらも、根気強く楓に話しかけた。
会計のときになってようやく、私に気持ちを向けさせること
ができた。
 ところで、爽香はそれを見て随分とつまらなさそうだった。
こいつは私を困らせるのがどうしようのないほど好きみたい
だった。
 「ふふ、私には灯台なんていらないの~」
 意味がわからなかった。

 帰ってきた楓はキーを握りしめて運転席に乗り込んだ。開
けっ放しのその姿をみんなは外から固唾を呑んで見守ってい
る。
 ――エンジンはかかるのか。
 いま私たちにとっての一大イベントが行われていた。誰に
言われるともなく、各々が秒読みを始めた。
 「3、2、1……」
 「あ、あれ……」
 勢いよく回そうとした楓のキーが回っていなかった。
 「ダメだよな……」
 愁のこの声に誰もがJAFの再来を予感した。
 「楓、ブレーキ踏まなきゃ」
 その言葉を合図にしたかのように、柊は愁のもとへ跳びつ
いた。珍しく、爽香もこれに加勢した。
 「兄さん!!」
 私は何がなんだかよく分からなかったが、どうやら、車は
ブレーキを踏まないとキーを回せないらしい。それを知りな
がら見ていた愁にふたりは怒ったというわけだ。
 ところで、まだ免許を持っていない私はひとりだけ除け者
扱いされたような気がして、それが、悲しかった。
 楓がブレーキを踏んでもう一度キーを回すと、今度こそエ
ンジンが唸った。
 「わ、わ、ちゃんとかかったよ!」
 「よっしゃぁあああ!!」
 エンジンがかかる、こんなこと、いつもは当たり前のこと
のように思っていた。でも、実際はそうじゃないのだ。車の
なかでは結構凄いことが行われていて、私はそれを知らなかっ
たのだ。
 みんなが浮かれてハイタッチをしていたので、今度ははぶ
かれまいとその和に入っていった。ちょうど、爽香の番になっ
て私は力の限り叩いてやろうと思った。八つ当たりだとは思っ
たのだが、爽香に先ほどの悲しみをぶつけてやろうと思った
のだ。
 でも、爽香はいつも私のそうした目論見を見透かす。空中
に揺れる私の手に、爽香はただいじらしく笑うだけだった。
 「ふふ、こども~」
 「爽香ぁ!」
 逃げる爽香を追いかけたのは私の声だけだった。私は愁に
捕まってしまった。
 「おい、爽香、あんま離れるなバカ! ひかれるだろ!」
 「……バカじゃないし」
 むくれる爽香の顔がなんとなく可愛くて、私はまたちょっ
と腹が立った。

 帰りの運転は愁が代わった。私は行きと同じように助手席
に座ることにした。これでようやく愁の隣に座ることができ
たのだ。
 私は楓にそうしたように、愁に案内役をしてやろうと思っ
た。ところが、愁はもう道をだいたい覚えていたので、つま
らなくなって、途中で地図を放り投げた。愁はそれを叱った
が、すぐに優しい目になった。どうやら、親父に似てあまり
叱る状態でいるのが好きではないらしかった。
 「疲れてないか?」
 「おまえだろ? 私は大丈夫だ。ちょっと眠いが……」
 「そっか、寝てもいいよ?」
 愁はそう言いながら、後ろを向けと合図をした。それに促
されて、後部座席を見ると柊はバカみたいに口をあけて、爽
香は楓の肩を枕に、楓は半目を開けながら寝ていた。
 ――なんて、薄情な奴らなのだ。愁が運転しているという
のに。
 「あいつらと一緒にするな。おまえが運転し終わるまでちゃ
んと起きててやる」
 愁は無理するなよと言いながらも、どこか嬉しそうだった。
こいつの顔はコーヒーより刺激的だと思った。まったく、そ
んなの見せられたら、私は本当に眠れないじゃないか。
 とはいっても、私の意識は徐々に朦朧としてきた。でも、
私は愁のために戦った。そんな私に褒美をくれたのか、愁は
信号待ちの度に私の髪をなでたり、手を握ったりしてくれた。
 私は生まれて始めて赤信号を好きになった。

 ようやく馴染みの町に帰ってくると、愁はまず私を送って
くれた。相も変わらず、後部座席は安眠所だった。でも、い
まはそれが嬉しかった。
 愁は車を止めて、門の前まで一緒に来てくれると帰り際に
私を愛してくれたから。
 始めはどうなるものだろうと思った。水着が恥ずかしくて、
帰りたくもなった。ただ、いまはこの水着でいって本当によ
かったと思っている。私はコーラのことを少し思い出してい
たのだ。何をするのだこいつはと私は目を疑ったが、いまは
この愁に愛された身体が私も愛おしくて、こんなの変だと思っ
たが、自分で自分の身を抱きしめた。門から玄関までの道の
りが少しでも長く続いてくれたらと願った。きっと、この道
はバージンロードを歩くように嬉しいものだ。
 遠くから、獣が迎えにやってくる。でも、それは愁じゃな
い。私はその獣も好きだが、いまはそいつにこの身を触れさ
せる気にはなれなかった。愁の愛された身体で今日は眠りに
堕ちたかった。
 私は獣をよけた。獣は悲しそうにくぅんと泣いていた。
 ――すまんな、ポチ。でも、今日ぐらい許せ。

 翌日、干された水着に親父が卒倒した。



(43)NHK番組『みんなのうた』内で1968年に紹介さ
    れた楽曲。
    作詞:岩佐東一郎 編曲者:越部信義 
    歌:引田三枝子、シンギングエンジェルズ

(44)一般社団法人日本自動車連盟のこと。
    ロードサービス事業の他、四輪モータースポーツの
    総括団体でもある。

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