白刃の女神 (第九部 先輩) 後編 第九部完

 突然、ドアが開いた。開けた本人は突然の眩しさに目を眩
ませているようで、目を細めて周囲を見渡していた。
 「先輩、来てくれたんですね!?」
 私は相手だけ確認すると、なおも上がる噴水に視線を戻し
た。
 「すみません、何度も」
 やってくる男の姿が見えたのか、有香は手のひらを私に合
わせた。
 ――まったくなんて面倒な話なのだ。
 「先輩、おれ、やっぱりあきらめきれません。どうしても
先輩に付き合ってほしいんです」
 こいつにも消火活動が必要だろうか。愁と付き合う前の、
あの煩わしい記憶が忌々しくも蘇ってきた。
 ――好きとか嫌いとか、なんて面倒なのだ。
 そんな思いを最初に抱かせたのは紛れもなくいま横にいる
佐藤だ。
 ところで、佐藤に告白されるのはこれで3度目だ。
 「いいか佐藤、まず、人に頼んで待ち合わせしてもらうよ
うな奴は私は嫌いだ。そうでなくても、おまえとつき合う気
はない。何度も言ってるだろ? それに……」
 私がそう言いかけたところで佐藤が口を挟んだ。
 「付き合っているひとがいることは知っています! でも、
それはおれにとってチャンスなんですよ。だって、前の先輩
ならそもそも付き合うこと事態に興味がなさそうだったから」
 嫌な予感がした。爽香のときと同じだ。
 佐藤はそう言って視線を右往左往させた。何か言いよどん
でいるようだ。でも、だいたいこういう時はダム決壊の前兆
だ。私は耳を手で塞ぎたかったが、それは私の性格がさせな
かった。
 「それに……月城先輩ですよね? いま付き合ってるひと
は。だからこそ、おれはあきらめられないんです。だって、
可笑しいんだ。あの人は佳代子先輩が好きだったはずなんで
すよ。直接、聞いたことはないですけど、でも、おれは見た
んです。何度もあの人が佳代子先輩にちょうどおれがいまこ
うしているように哲児先輩と離れるように説得しているのを。
あれはどう考えたって好きだったに違いないんです!」
 「だから、どうした?」
 私は迫り来る言葉を打ち捨てるように言い放った。愁の奴
が過去に誰を好きだったかなんて今は正直どうでもいい。そ
もそも、あいつは昔から私のことを好きだったはずなのだ。
それを本人から私は聞いているのだから。あれが嘘なら話は
別だが、笑顔で嘘をつけるほどあいつは悪魔ではない。
 「分からないんですか? 佳代子先輩がいなくなって、あ
の人は陰を追ってるだけなんです。あの人は国嶋先輩を見て
いない! 国嶋先輩のなかに佳代子先輩を見ているだけなん
です! 佳代子先輩が戻ってくれば、きっと、国嶋先輩は傷
つくことになる」
 「なるほど、どうもおまえはわたしを助けにきたみたいだ
な? だとしたら、なんでいまになってそれを言いにきたの
だ? もっと前でも良かっただろう」
 「それは……」
 佐藤は困ったように視線を落とした。
 「それは?」
 「佳代子先輩が戻ってきてるからです。この前、駅で見か
けました。……先輩!? あのひとといても先輩が傷つくだ
けです!」
 まったくもっての佐藤だ。こいつは昔から他人は有害、自
分は無害だと思っている。他人は人を容易に傷つけるが、自
分はそれを知っているから、自分だけは誰も傷つけることは
ないとそう思っている。
 「おまえといればそんなことはないって言いたいのか?」
 ――少しは成長しただろうか。
 「当たり前ですよ。だって、おれが見ているのは国嶋先輩、
あなたなんですから」
 ――いや、まったく変わっていなかった。
 「おまえの中の私はまるで人形だな。もう話すことはない」
 佐藤を通り抜けると、私はドアに手をのばした。佐藤はか
まわず言葉で追ってくる。
 「待ってください、先輩! 男なら他にもいます」
 「じゃぁ、おまえ以外にもいるはずだな? でも、私の恋
人は愁だけだ」
 「それは妄……」
 扉の閉まる音に佐藤の言葉はかき消された。

 世界は一気に静まり返った。そのためだろうか。耳鳴りが
して、自分の呼吸が荒いことに気がついた。
 ため息混じりに一つ深呼吸をした。
 ――危ない奴だ。
 ドアを一度振り返ると無意識にそんな言葉が出た。あいつ
は相手を飲み込むタイプだろう。他人の人格などまるでおか
まいなしだ。あいつは私が人形だと言ってやった意味を理解
するだろうか。私はいや……と、首を横に振って階段を下り
た。
 なんて放縦で希薄な感情なのだ。私は愁といたいのに、あ
いつはそれでも私に付き合えと言う。爽香の顔が一瞬ちらつ
いたかと思うと、あいつの掲げた愛情に嫌気がさした。
 でも、と、私は思う。
 ――これは八つ当たりだな。
 クの字の階段の半ばまで下りてくると、随分と不服そうな
姿が鏡に映って見えた。まったく、次から次へと。なんなの
だ。どうして、こうも邪魔する奴ばかりが出てくるのだ。付
き合ってからというもの、愁は至るところに偏在し始めた。
本当は一人しかいないのに、あいつを語るちょうどその人数
だけあいつは存在していた。ついこの間の楓の話もそうだ。
本当のあいつを見失うと望んでもいない世界に連れて行かれ
る。
 私は鏡に移る自分に近づいて、よく眺めた。
 ――どうだ、やっぱり、彩香だろう。佳代子なんかどこに
もいないではないか。
 でも、と、私は再び思う。そもそもいまの私は初めからあっ
たわけではないのだ。関わったひとや出来事とか、そのなか
で色々な私を私は抜け出してきたのだ。すると、分からなく
なる。元々内気だった私をいまのように壊したのは紛れもな
く佳代子だ。そう思うと鏡のなかの私のなかで佳代子が浮か
び上がってくるのを感じた。
 明るい光のなかで佳代子が笑う。
 ――愁。

 「お、彩香じゃんよ? どした?」
 ふいに愁が遠くに見えた。あいつが景色に混じって煤ける。
たまらなかった。あいつが連れて行かれる。あいつの笑顔は
いまもあるのに、それが私から消えていく。
 愁の胸板は堅かった。おかげで私の横顔が痺れた。でも、
本当に痺れているのはどこだ。
 ふいに、愁の両手が私の背中に回った。あぁ、このせいだ。
息が苦しい。太陽に照らされたように目を閉じても世界は白
かった。
 「どうした? ここは何の場所だっけか?」
 「うるさい!」
 相も変わらず、愁は呑気だった。そのバカさ加減に腹が立っ
て、睨んでやろうとしたら、違う意味で萎縮させてしまった。
 「彩香? ……どうした?」
 私は泣いてしまっていたのだ。最悪の催眠術をかけらえた。
への字口の愁を見たのはこれが初めてだ。私はそのまま愁に
顔をうずめた。
 いまは愁の顔が見られない。高山気候みたいな愁の表情を
見ていると、逆につらい。どんなに違うと思ったって、そこ
に佳代子の姿が見え隠れするから。
 ――最悪のリフレインだ。あのバカ、絶対に許すものか。

―――――――――――――――――――――――――――

 「呼んだか?」
 柔らかい枕元に声が届いた。それは心地良いが頬が冷たい。
どうやらこの世界でも私は泣いてしまっていたらしい。それ
でも、愁のへの字口の顔は、はっきりと見えた。
 あぁ、これが本当に始めてみる愁のへの字口の顔だ。そう
思うと、なぜだか、無意識に笑ってしまった。その様子を見
て安心したのか、愁も口角を上げると額にのっかった冷やし
タオルを取って冷蔵庫の方に向かった。
 「屋上で何してたんだ? こんなあっつい日に」
 愁はまるで冷蔵庫に話しかけるようにそう尋ねた。
 ――おい、こっちを見ろ、愁。私はここだぞ。
 「別になにも……」
 まさか、屋上で男とふたりで会っていたなんて知れたら、
愁の奴、私のいまのこの心臓より縮んでしまうことはわかり
きっていた。そんなのはイヤだ。
 ――卑怯だな。
 「ん?」
 私は焦った。起きあがったばかりで意識が朦朧としていて、
危うく心の声を愁に聞かれるところだった。
 「いや、なんでもない」
 私の横に腰をかけると愁はわざと私の頬にペットボトルを
あてた。私はそれを受け取るとなぜだか礼が言えなくて憎ま
れ口しかたたけなかった。
 「それよりなんでいるのだ? おまえ、私を置いて遊びに
行っただろう?」
 こんなときでも愁はいつも笑ってくれる。
 「昼からだよ?」
 それに何度も助けられている。愁はいつも私のことを気に
かけてくれる。私を分かってくれるし、分かろうとしてくれ
る。
 「おまえ、揺りかごにでもなったらどうなんだ?」
 愁はまた口角を上げると立ってしまった。
 「どこに行くのだ?」
 「いや、実は……」
 愁は振り返ると困ったように肩をかいた。きっと、日焼け
後が痒いのだろう。
 「外で彩香の友達たちがなんでか泣いてて……。彩香も気
づいたことだし、それ知らせようと思って」
 あぁ、と、思った。有香たちだろう。まったく、しょうの
ない奴だ。
 「おい、愁?」
 「ん?」
 「あいつら呼んでくれたら、そのまま遊びに行ってくれて
かまわないぞ?」
 ――なんて奴だ。
 しょげずにそう言ってやったのに、愁は私のとこに戻って
きた。そして、私の額に手を添えた。
 ――よさないか、愁。違う意味で発熱するぞ。
 「おい、愁? ひざまずけ」
 さすがに熱があるといって居座られても、それはそれで困
るので愁の気をそらせたかった。
 「おまえ、ノッポだろう? いいがけん首が痛いのだ」
 愁は三度目の口角を上げるとおとなしくしたがった。まず
まずの位置だった。
 私はすかさず愁の胸に狙いを定めて頭突きした。
 本当は何も気に病むことなんんてなかった。愁はいつもい
る。いつだって飛び込めば、愁の堅い胸板で私の頬は赤くな
るんだ。だから、不安なんかない。
 確かにそう思っていたのに。

―――――――――――――――――――――――――――

 単車のけたたましい排気音が近寄ってきた。あろうことか、
それは家の近くで止まった。僕は目を閉じて天井に顔を上げ
た。そして、少し息を吸ってからおおげさにため息をついた。
 ――なんとも聞き覚えのある罵声だ。
 「愁、おまえ悪い奴に追われているのか? そうなのか?」
 彩香の降り出しそうな表情に、僕はそれでものほほんとし
た日差しを感じていた。
 「ここで待っててな? 下りてくるの禁止」
 彩香の頭をぽんぽんとたたいて、僕は玄関に向かった。
 相手は思った通り、チャイムを鳴らさなかった。玄関が乱
暴にガチャガチャと音をたてている。
 僕はまた目を閉じてため息をついた。
 「おい、愁、おら、開けろって。いるんだろーが」
 「開けるから、ドア触んな、うるせぇ」
 戸を開けると、閉め出されたこどものようにふてくされた
女性が立っていた。初等部で一緒だった、ひとつ上の先輩だ。
 「おまえ、何で鍵閉めてんだよ? 外国人でもあるまいし」
 彼女はそう言って少し笑うと人差し指をはじいて僕のでこっ
ぱちに元気よく挨拶をした。
 「おっせーぞ、バカヤロウ」
 「ってーな……なにしにきたんだよ?」
 「随分冷てぇーな? ひょっとしておまえ、私のこと忘れ
てねぇか?」
 「覚えてるよ。加代ねぇだろ?」
 「なんだなんだ、ちゃんと覚えてんじゃねぇか。安心した
ぞ?」
 その先輩は僕の肩を叩くと無遠慮に玄関に入ってきた。
 「勝手にあがるぞ?」
 「ちょっと待てよ。用件は?」
 僕はたまらず声だけで先輩をつかまえようとした。正直な
ところ、腕をつかもうものなら、きっと、僕はただではすま
ない。
 「んなもんねぇよ、なに、大人みてぇなこと言ってんだ」
 そう言うと、先輩は持っていた鞄の角を僕の頭にぶつけた。
 「ってぇ……なに入ってんだよ、それ?」
 「なにって、教科書に決まってるだろ?」
 先輩がちゃんと靴を脱いであがってくれたことがせめても
の救いだった。
 「まだ親父さんたち帰ってきてねぇんだ? あ、私コーヒー
な」
 ――まるで、ここは喫茶店だな。
 憎まれ口が喉元まで出かかったが、先輩はもうリビングに
消えてしまっていた。
 「おれが卒業するまでは帰ってこねぇよ。シロップは?」
 僕も慌ててその後に続いた。
 「いらねぇよ。甘いものは嫌いだ。つか、天国だな? こ
んな戸建てに親なしで暮らせてるんだからなぁ」
 先輩はキッチンテーブルに落ち着くと、置きっぱなしにし
てあった雑誌を乱暴にめくった。ふいにその手を止めたかと
思うと、今度は僕の方を見た。
 「おまえ、殴らせろ?」
 「ふざけんなよ、そうも分刻みに殴られてたまるか。……
ほら、コーヒー」
 「お、サンキュー」
 僕も自分の分をグラスに注ぐと先輩の前に座った。早いと
こグラスをあけて、空のグラスを回すとかして、先輩にも早
く飲み干させようという魂胆だった。普段なら良いのだが、
いまは2階に彩香がいる。正直、彩香と先輩を僕はあまり会
わせたくはなかった。
 「てっちゃん元気?」
 先輩がなかなか雑誌から手を離さないので、僕は唐突に聞
いた。てっちゃんは先輩と同級生で、少なくとも僕が知って
る時点まででは彼氏だった。確か、いまは短期留学している
はずだった。
 「さぁな? 知らねぇよ、あんなヤツ」
 「ふ~ん……そっちもまだ帰ってきてないんだ? でも、
意外だよ。てっちゃん、絶対に外国じゃ暮らせないと思って
たし」
 「へぇ~おまえ、随分と生意気言うじゃん」
 ここでようやく雑誌から僕を見てくれた。その視線に、あぁ、
いまもてっちゃんは彼氏なんだ、と、そう思った。
 「そうじゃねぇよ、釣り銭ごまかされたり、店員にテキトー
な対応されて、てっちゃんが黙ってるとは考えにくいからさ」
 「それがなんとかやってんだよ、あのバカ」
 先輩は雑誌を閉じるとそれを横にどけた。
 「今じゃ私に絵はがき書いてよこすんだぜ? あいつが絵
はがきだ、笑えるだろ?」
 先輩はそう言って後ろに延びをすると、少し笑った。でも、
少しその表情が遠くを見ているようで寂しそうだった。
 「あーあ、私もついて行けばよかったかなぁ~。ちぇー」
 駄々をこねる先輩の姿に僕はなぜだか安堵していた。この
幼い姿に僕の知っている頃の先輩を見つけたからかもしれな
い。
 「でも、佳代ねぇ、その制服似合ってるよ?」
 「ん? そうかよ。でも、おまえとは付き合ってやんねー
ぞ?」
 無邪気にできるえくぼは卑怯だ。そう、こんな思いも懐か
しい。
 「頼んでから言ってくれ」
 「相変わらず可愛くねぇの」
 そのとき、横で何か音がした。参拝もそこに視線を向けて
いる。どうやら、扉が少し開いたようだ。……かと、思った
ら今度は激しく閉まった。
 彩香だろう。下りてきたんだ。
 「おい、愁? ……いまの彩香じゃねぇか?」
 僕にはその瞬間、姿までは見えなかった。
 「なに言ってんだよ? 爽香だろ、爽香。ほら、おれ妹い
たじゃん」
 「へー、おまえ、何隠してんだよ?」
 「……別に」
 「おい、彩香、いるんだろ? 入ってこい」
 すると、それを合図とばかりにそぉっと扉が開いた。僕は
本当に爽香が出てくることを願った。ところで、爽香は今朝
から買い物にでかけていた。
 「やっぱり、彩香じゃねぇかよ?」
 先輩が頬杖をつきながら、僕の方に目を向けて睨んだ。僕
はそっぽを向いた。
 「……なにしにきたのだ?」
 「おまえらはまったく……バスケ教えてやったの誰だよ?」
 先輩は不満たっぷりに嘆くと、左手で彩香を席に呼んだ。
 彩香は一度立ち止まると少し間をおいて、先輩の隣に座った。
 「……おい、ちょっと待て。愁、こいつほんとに彩香か?」
 「なに言ってんだよ? 佳代ねぇの見抜いた通り、隣にい
るのは100%彩香だよ。な?」
 「あぁ、混じりっけなしだ」
 ところが、先輩の目は点になったままだった。
 「なんか違わねぇか? おまえ、そんななよかったか?」
 「な、なよくないだろ? なにを言ってる」
 僕は先輩の言葉になぜかいたたまれなくなって冷蔵庫から
紅茶を取り出すと、それをグラスに注いだ。嫌な予感がした
のだ。
 「ははーん、……おまえら、さては付き合ってるだろ?」
 心臓がグラスに飛び落ちそうだった。彩香はいまどんな反
応をしているだろう。背後でそれは見えない。でも、声も聞
こえない。すると、ふたりとも固まってしまっているのだろ
うか。
 「あっれー、彩香ぁ? こいつとは一生付き合わねぇんじゃ
なかったっけかぁ?」
 すると、それを証明するかのように先輩の意地の悪い声が
聞こえてきて、グラスから紅茶が飛び出しそうなのに気がつ
いた。
 「そ、そんなの知らない!」
 「ふーん、……あっそ。まぁ、いいけどさ。約束は果たせ
よ? ラーメン1年分」
 「だから、知らないって言ってるだろ? そんな昔の話覚
えてない」
 「……おまえ、やっぱり彩香だな」
 「なっ!? そんなとこで判断しなくたっていいだろ!」
 親しかった頃の先輩の感覚を彩香も思い出したのか、昔の
距離間を取り戻したかのように思えた。
 グラスを彩香に差し出すと、僕はそれを歓迎しながらも、
別の部分でしょげた。
 「彩香?」
 「なんだ?」
 「一生、付き合う気なかったんだ……」
 それから、僕はわざとらしくため息混じりにソファに埋も
れた。
 「バ、バカ、そうじゃない。佳代子が茶化すからだ」
 僕はしょげた演技をしながらも、背後の世話しない声がこ
しょぐったくて自然と笑っていた。
 突然、家の電話が鳴った。
 「19時に駅のロータリー。目印は可愛い子。いいか、ひ
とりで来い」
 ――爽香だ。
 「あぁ、わかったよ。いったい何の映画観たんだ? 子っ
て、それだけじゃ、男か女かわかんねぇよ」
 「なによー? 帰る前にお土産バラしてあげるわ」
 僕はそれは残念だ、と、言って受話器を置いた。
 「ごめん、ちょっと、駅まで爽香迎えに行ってくる」
 ところが、ふたりとも全然聞いてくれなかった。振り返る
と、ふたりして取っ組み合いをしていたのだ。

―――――――――――――――――――――――――――

 まったくなんて奴だ。愁の奴、私を佳代子とふたりにして
出かけやがった。ここは誰の家だ、おまえ、言ってみろ。で
も、これはこれでチャンスだとも思った。佳代子とふたりき
りなのだ。
 ところで、佳代子はずっと私を見ている。
 「なんだ?」
 「おまえ、見ない間に随分と可愛くなったな?」
 私の頭は一瞬にして真っ白になった。返す言葉が何も浮か
んでこない。
 「オマエトハツキヤッテヤラナイ」
 外国人でもないのに言葉が片言じみた。佳代子がそんなこ
と言うなんて柄に合わないのだ。
 「なんだおまえ、聞いてたのか? いつからいたんだ?」
 「そんなの知らない」
 佳代子、いや、愁には悪いが話は最初から聞かせてもらっ
ていた。
 「哲治先輩か、懐かしいな」
 私は質問には答えないで、そう言って、紅茶を口にした。
 「いい性格してるよ、おまえ」
 「まだ付き合ってたんだな? 愁があんなに離れろって言っ
てたのに」
 私は佳代子に輪をかけてやった。佳代子は驚きもしなかっ
た。さっきの盗み聞きした事実がどうも効いているらしい。
こちらがなんでも知っているような態度を出すと佳代子は思
わぬお土産をくれるものだ。私は今回もそれを期待していた。
 「悪いかよ? そうだ。でも、おまえ、なんであいつが私
と哲治を別れさせたかったのか知ってるか?」
 こんなときは肯定も否定もしない方がいい。私は考えてい
るふりをした。本当なら飛び掛かって早く口を開かせてやろ
うというのに。
 「哲治はさ、自分のことしか考えられないんだよ。付き合っ
たって、私のことなんかまるでおかまいなしだ。愁もそれを
知っていたから、私に離れろなんて、あんな生意気なこと言っ
たんだ」
 ――おい、違うだろう。聞きたいのはそこじゃない。
 でも、佳代子はどうやら肝心なそこには触れてくれなかっ
た。
 「でも、まぁ、変な話、そんな哲治だから好きになっちまっ
たんだろうけどな」
 「そんなものなのか?」
 困ったことに頭の中では哲治先輩ではなくて佐藤の顔が浮
かんだ。いや、そもそもこれは方向性が違うだろう。私は一
度目を閉じて、ため息とともに佐藤を消した。
 「そんなに好きならついて行けばよかったじゃないか? 
佳代子も言ってたろ?」
 「おまえ、ホントどこから聞いてたんだ? 冗談だよ。あ
れは哲治のしたいことで、私のしたいことじゃなかったから
な。誘われたけど、蹴った。当然だろ? 私は私のしたいこ
とをする」
 「ふ~ん……そうか、それで見つかったのか?」
 私は答えが聞けないことを悟って半ば投げやりに聞いた。
 「それがぜんっぜん見つかんねぇの。回り道ばっかで反吐
が出る。標識はたくさんあるのに、まるで、迷子だ」
 「そうか、それで過去に帰ってきたのだな?」
 失言というのはいつも口にして初めてそれとわかるものだ。
口が滑るにもほどがあった。また、取っ組み合いが始まる、
そう思った。
 ところが、佳代子が作ったのはえくぼだった。
 「ちぇー。手厳しいな、彩香ちゃんは?」
 机にうつ伏せになると、本当にあのころに戻ったかのよう
だった。
 「可愛いぞ、佳代子?」
 うつ伏せのまま、佳代子は身体をふるわせた。
 私もつられて笑ってしまった。

 爆音ひとつ轟かせると、ガレージから愁がやってきた。ひ
とりだ。
 「爽香はどうした?」
 「あぁ、友達降ろしたときに親につかまって、そのまま泊
まるって。加代ねぇにもよろしくってさ」
 「そりゃ残念だな。あのちっこいのもおまえくらいでっか
くなったんだろ?」
 「まさか。加代ねぇより高くねぇよ」
 愁は車のキーをフックに戻すと、今度はフライパンを手に
した。
 ――もうそんな時間なのか。
 「飯食ってく?」
 「いや、今日はいい。チビがいるときにまた寄らせてもら
うよ。それに……」
 言葉に続いて嫌な視線が私にからみついてきた。
 「今日は彩香にラーメンをおごってもらわないとな」
 「まったく現金な奴だな。塩でも醤油でも頼めばいい。そ
の代わり、佳代子? 二十分で食べきってくれ」
 「まったくいい性格してるよ、おまえは。愁、おまえも気
に入ってるだろ?」
 愁の奴、フライパンを置いて苦笑いしやがった。でも、佳
代子も冗談だったらしい。鞄を取るとバイクの鍵に手を伸ば
した。
 「もう帰んの?」
 「あぁ、宿題があるからな。忘れてた」
 「なんだよ、それ……てか、服、貸そうか? それに単車
は似合ねぇよ」
 ――愁、つっこむところはそこじゃないだろう。
 「遠慮しとくよ」
 そう言うと、また、佳代子の嫌な視線が私にからみついて
きた。
 「ここには覗き魔がいるからな」
 「なんで私なんだ!?」
 佳代子は答えずに部屋を出ていった。でも、愁がガレージ
に行ってなにやらしている間、佳代子は私にそれとは違うこ
とを静かに教えてくれた。
 「あいつがさ、哲治とあんまり離れろ離れろうるさかった
から、一回冗談で聞いてやったことがあるんだ。おまえ、私
のこと好きなのか? って。そうしたら、あの生意気のバカ、
私に中指を立てて、彩香だって言ったんだ。勢いで言っちまっ
たんだろうなぁ。言ったことに気づいたときの、あのあいつ
の赤い顔、おまえにも見せたかったよ」
 ――よかった。あいつはやっぱり悪魔ではなかったのだ。
でも、佳代子はとんだくせ者だなと思った。
 私の本当に聞きたかったこと、知っていたのだから。

―――――――――――――――――――――――――――

 散歩をしていたら、道に迷ってしまった。久しぶりに帰っ
た地元はまるで街並みが変わって見えた。それがなぜだか妙
に寂しくて、ふいに馴染みのある顔ぶれを見たくなった。
でも、思えば、初等部をすぎれば皆散り散りだ。地元に残っ
ている知り合いを探す方が難しい、ここはそんな街だったこ
とを思い出した。
 でも、と、ヘルメットを外して思う。公園でバスケをして
いるガキどもを見て、そこにひとりの少年が思い浮かんだの
だ。
 せっかく涼しくなった顔にヘルメットをまた被せるとアク
セルをふかした。その少年の家を目指して。
 少年は最初、兄貴かと見間違うほどの長身に変わっていて
驚いた。髪型もまるで違う。追い求めた少年の姿はチャラい
青年になっていた。
 「おい、青年? まだか?」
 私は薄暗いガレージでごそごそと動くノッポに声をかけた。
 「なんだよ、青年って……あった! ちょっと待って」
 青年は薄汚い布袋を持ってやってきた。満面の笑みだ。ど
うやら、いたずらではないらしい。
 「これ、渡そうと思ってたんだ。けど、佳代ねぇ卒業式こ
なかったろう?」
 まるでタイムカプセルだな。布袋をあけると、そこにはモ
ンキーレンチのキーホルダーが入っていた。
 改めてそれを手に取ると、眠っていたとは思えないような
光沢をそれは示した。暗闇だというのに。私がいない間に太
陽の光をしっかりと胸に抱いたような。
 「サンキュー。こいつのキーにちょうどいい」
 単車の鍵にさっそく取り付けるとそのまま鍵をシリンダー
に元気よくつっこんだ。でも、まだ回さない。
 「おまえ、真面目に学生やってんだってな? どうしてだ?」
 私が愁に聞いたちょうどそのとき、目の前の道をタバコを
ふかしながら犬を連れて歩くオッサンの姿を見かけた。
 愁はその姿を目線で追いつつ、私に答えた。
 「言うほど、おれは変わってねぇよ、佳代ねぇ。毎日数字と
か教師とかなんとかを気にしてなんかが日々すれてく。それが
嫌だから、反抗したいから色々企んでる。いまはその方向性が
少し変わっただけ」
 愁はガレージのシャッターを下ろした。そして、少し間をお
いてから私を見て言った。
 「佳代ねぇ? おれはやっぱり、鎖につながれた犬みたいに
はならんよ? いまは生きるために鎖がいるし、どんな低俗な
主人だっている。でも、きっとおれはノラになる。変わってな
いよ」
 「どうだかな。いまの話だけじゃ、主人の望む芸をただこな
してるようにしか聞こえねぇよ」
 「気づいたんだ。いまは大人しく聞き分けの良い真面目な犬っ
ころを、生き抜くために演じないとな。佳代ねぇと手段は違う
けど、おれはいまもアンタの反骨精神が好きだよ。誰かが言っ
てたように、生きることは反抗することだって、本気でそう思っ
てる。少なくとも、いまは」
 「それでいつかおまえ、どこぞの会社、役所でもいーよ、手
足になってみろ? 鼓膜が利かないくらい大笑いしてやるぞ?」
 「そのときはそのレンチで矯正してくれよ」
 「おまえが社会になめってなかったらな。……ところでさ?」
と、私はヘルメットを手にして言う。
 「おまえ、やっぱ変わってねぇよ、照れ屋なとこ」
 愁は首を傾げた。
 「おまえの好きなのは反骨精神とかじゃなくて、要は私な
んだろ?」
 「ふざけるな、彩香だよ。とっくに知ってるだろ?」
 愁はそう言って笑って答えた。
 なるほど、いまはこうも自然にはっきりと言えるわけ
だ。
 ――可愛くねぇの。この世に過去なんてない、か。人生は
一通だな。
 「ん? なんて?」
 始動音でどうやら聞こえなかったらしい。でも、それでい
い。今度はこっちが赤面するところだった。
 一通だっていい。たとえ、そこにもういけなくたって、遠
くから眺めることはいつだってできる。
 それに、通った場所はたとえ違う形でもこの世界のなかに
必ず在るんだから。
 そして、本当に奇跡だな、と思う。一通の標識の下で突っ
立っていたら、向こうから会いたかった少年がプレゼントを
持って現れてくれたのだから。
 「でも、愁? 賭けてやるよ。誘惑したら、おまえはイチ
コロだ」
 愁は笑って、中指を立てた。
 「アンタは家族だよ? でも、今度はインターフォンを押
してくれ」
 「そうかよ」
私はヘルメットを被ると、アクセルを回した。
聞きなれた唸り声が少しだけ甲高く聞こえた。
――ちぇー。いつまでも生意気なガキだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?