白刃の女神(第九部 先輩) 前編

 恐らく、誰もがそうであるように困ったもので、一年の間
には何度も悩む日が訪れる。今日は僕にとってまさにその日
だった。
 誕生日プレゼントを今日中に届けなければならない相手が
いるのだが、なかなかどうして、その相手に贈る物さえ、未
だに決まっていなかった。しかも、その贈る相手が人間では
ないのだから、より一層プレゼント選びに悩む。要は今日が
ポチの誕生日なので、僕はポチに恩返し(本人にはその気は
ないかもしれないが、随分と助けてもらっている)も兼ねて
プレゼントを贈りたかった。
 食器を洗いながら、そうこう考えていると、思惑の外から
消しゴムを払いのける音が聞こえた。
「おい、爽香? 今日どっか出かけるのか?」
 僕が話しかけながらリビングに向かうと、爽香はパジャマ
姿(とはいえ、ヘアメイクにぬかりはない)で宿題をしてい
るところだった。
 「ん、午後から有里たちとお買い物~。だから、朝のうち
にこれやっちゃおうと思って」
 見事に当てがはずれてしまった。爽香にも付き合ってもら
おうと思っていたのだが。
 「イイ子っちゃな」
 「なによ? なに、すねてるの~? あー、わかった! 
デートに誘いたかったんだ?」
 意地の悪い冗談に僕は笑って答えると、リビングを後にし
た。
 「じゃぁ、おれちょっと先に出るから」
 「あ、兄さんお昼は~?」
 「それまでには帰るよ。時間あったら、飯頼むな?」
 「あい……」
 欠伸混じりのなんとも心許ない返事を聞いて、僕は手にし
ていた車のキーをもとに戻した。
 それから、ガレージからママチャリを引っ張り出して、近
所のホームセンターへ向かうことにした。そもそも、本当は
彩香を誘う予定だったのだが、彼女は今日、生徒会の会合か
何かがあるらしく、結局、誘うに誘えなかった。
 思えば、ポチが喜びそうなもののひとつでも聞いておけば
よかったのだが、彩香にそれらしい話題さえ出せていなかっ
た。
 ところで、なにかとそうであるのだが、とにかく行動を起
こすと、遅れて助っ人が現れてくれるものである。財布の中
身以上に頭をいっぱいにしてペットコーナーへ行くと、そこ
に楓がいた。
 「お、楓、なにしてんの?」
 同じ市内に住んでいるのだから、それこそ、どこで会うに
しても別段不思議ではないのに、楓の肩が数センチほど跳ね
上がった。
 「うわっ! え!? どな……あ! 愁ちゃんだ」
 「おう、なんか買い物?」
 「あ、うん! 実は今日ね、くーちゃんズわんちゃんの誕
生日なんだ。だから、お祝いしてあげたくて」
 なんとも、大きなロシア帽を揺らしながら、楓は駆け寄っ
てきた。
 「なんだぁ。じゃぁ、おれとおんなじだ」
 「え!? そ、そっかぁ……愁ちゃんもなんだ。あ! で
も、きっと、くーちゃんも喜ぶと思うの」
 「ハハハ、それはどうかな? あんまポチにかまってると、
甘やかすなって怒られるけどな」
 「え!? そうなの? じゃ、じゃぁ、勝手にわんちゃん
にプレゼント買ったりなんかしたら、やっぱり、くーちゃん
困っちゃうかな?」
 魚に引っ張られたウキのように、楓の表情がぐいぐい沈ん
でいった。僕はそう言いながらも、同じように肩を落として
いることを楓に告げた。
 「じゃ、じゃぁ、食べ物系はどうかな? 少量のものなら
すぐになくなるものだし、あって困るものじゃないと思うの」
 なぜだか、話が手土産じみてきた。
 「いやいや、食べ物系はまずいんじゃないか」
 「でもでも、これとか美味しそうだよ?」
 楓はそう言いながら商品を手に取ると、それを僕に見せた。
 「えっと、まぁ、ん、確かにイメージ画像は美味しそうな
んだけど、彩香、結構、ポチの食事に気ぃつかってるから、
こういうの困ると思うんだ」
 「そうかぁ~……そうだよね? 愁ちゃんもわんちゃんが
何を食べてるか知らないよね?」
 「ん……わりぃ」
 僕は謝りながら商品を元に戻した。すると、今度はまた楓
が新しい商品を手渡してきた。
 「それなら、やっぱり、ボールとかがいいかな?これ、良
いと思うの。えぇっと……歯石除去ができる優れ物!」
 「ん~……確かにポチ、動き回るの大好きだし、遊び道具
は喜んでくれると思うんだけど……、彩香、ボール系は結構
持ってたと思うんだよなぁ」
 「ダメ……ですか?」
 僕はあまりにも頭を膨らませすぎていて、目の前の楓をすっ
かりと忘れていた。楓は僕の前で手を振ったり(それらしい
ことは分かるのだが)、終いには、かかとを浮かせて僕の頬
を指でつついたりした。
 「とぉっ」
 ラピュータ人(45)よろしく、僕はそれでようやく、目
の前にいる楓に気がついた。
 「あぁ、悪い悪い!」
 「お、もしや名案でも降りてきた感じですか?」
 この楓の言葉で僕は本当にそれを見つけた。楓の後ろの棚
で、何やら胸騒ぎを起こすものを感じたのだ。
 「あぁ、すっごい名案だ! 聞いてくれるか?」
 「うん!」
 僕は楓を通り越してしゃがむと、アジリティ用品を楓に見
せた。
 「あ! これ見たことある! 確か……わんちゃんのレー
スとかで使うもの?」
 「あぁ、ドッグアジリティな。これなら、彩香、絶対持っ
てないと思うし、ポチも喜んでくれると思うんだ」
 「え、えぇっと……」
 僕は名案だと思ったのだが、楓が急に縮こまりだした。
 「どうした? おれ、何かまずったか?」
 「ううん! とっても良いと思うの。ただ、その……お値
段が」
 楓に促されて値札を見るとすぐさま、あぁ、と、思った。
僕の今月の小遣いをはたいても、それはとても買えそうもな
かった。
 「わりぃ、楓? おれもだ」
 「だよね……せっかく、愁ちゃんが名案くれたのにな。も
う、これ、あれかな? これから、競馬行くしかないと思う
の」
 「ゲーセンじゃねぇんだから、おれらがいま行っても夢し
か膨らまねぇぞ?」
 「うん……」
 しゃがみ込んだ楓が、ますます縮こまって見えた。僕は彼
女の、やはり大きなロシア帽に手をおいて(まるで頭の感触
がなかった)、お願いをした。
 「なぁ、良かったら、半分ずつ出し合わないか? ふたり
からのプレゼントってことで」
 「ほんとぉ!? それ、良いかも。うん! 良いと思うの!」
楓は意外にもこの提案に乗ってくれた。私からプレゼント
したいの、と、少なからず抵抗を受けると思っていたのだが。
 「あと、もうひとつ頼みがあるんだ」
 「うん? 良いよぉ」
 僕は楓に甘えて、いま見ているのとは別の少し高めのラバー
タイプの商品を選ぶことに決めた。ポチのことだから、初め
はきっと、フットボール選手よろしく障害物へタックルをか
ますことだろうから、僕は少しそれが心配だった。

―――――――――――――――――――――――――――

 「なんだ、このわんこ明石焼きってのは? 名前からして
気に食わん。ボツだ」
 「ちょっとちょっと! 彩香? ちゃんと提案書読んだの!?」
 休日の朝、私は生徒会室で書類の山に埋もれていた。
 ――文化祭に関わる申請書。
 いったい何枚あるのだ。
 検討会が始まって早々に、私が提案書を放ったものだから、
絵里が慌ててそれを手にした。
 「ちゃんと読んでる。わんこそばのたこ焼きバージョンだ
ろ? 熱い料理の早食いなんて、認可できるか。バカモノ」
 絵里は答えないで提案書に目を通すと、そのまま、×と書
かれた段ボール箱にそれを入れた。
 「何かあったの? 随分と荒れてるみたいだけど」
 席に戻るなり、絵里はため息をつきながらそう言った。
 「当たり前だ。どうして、土曜の朝からこんなことしなく
ちゃならないんだ」
 「副会長の勤めでしょ? 文句言わない」
 「会長はどうした?」
 「執行部と最後の詰め合わせよ」
 「……ふん。お偉いご身分だな」
 「彩香?」
 声を潜めて呼ばれたかと思ったら、絵里の身体がプリント
越しに大きく見えた。
 「さっさと終わらせるぞ?」
 説教が始まる。私はそれをさせまいと、より一層プリント
を注視した。午後までかまけてられるか。
 「……フィアンセとデートの予定でもあるの?」
 反則だ。絵里はことあるごとに、こうやって私を動揺させ
る。
 「べ、別にそういうのじゃ……」
 「公私混同はしないでちょうだいね? あなたは副会長な
のよ?」
 今度は絵里がプリントに視線を落として、私の文句を遮っ
た。
 「そんなに焦らなくても15時頃までには終わるわ、お互
いがんばりましょ?」
 ――冗談じゃない。
 母さんが作ってくれたサンドウィッチを頬張りながら、
私は14時過ぎまでにはなんとか方を付けた。

―――――――――――――――――――――――――――

 学校の門を抜けると、足をどちらに向けようかと悩んだ。
左なら愁の家だし、右なら私の家だ。抱え込んだ書類の山が
憎い。結局、私は一度荷物を置きに帰ることにした。
 こんな日にかぎって、アスファルトがモヤモヤしてやがる。
おかげで、家にたどり着くころにはもう、私の首筋はしっか
りと汗ばんでいた。
 なんてやっかいな日なのだ。ただでさえ時間が惜しいのに、
シャワーを浴びないといけなくなったではないか。
 自宅のインターフォンを押して門が開くのを待っていると、
ポチも忙しなさそうに唸っていた。
 ――そう、慌てるな、バカモノ。今夜は目一杯遊んでやる
からな。日中は許してくれ、あのバカ、昼間にしか会ってく
れないのだ。
 ちょうど、門をくぐろうとした時だった。右手の遠くから、
大きな声が私をつかまえた。
 「あれ? 彩香? 彩香じゃん!?」
 「……あぁ、純か。久しぶりだな?」
 「うそ、ほんとチョー久しぶりじゃん。元気してたぁ?」
 やっかいな相手につかまったな、と、思った。こいつは話
すと長くなるのだ。
 「あぁ、そっちはどうだ? 確か、県立に行ったんだよな?」
 「うん、まぁね。彩香もこっちにこれば良かったのに。堅
苦しいけど」
 「まぁ、色々とあってな」
 私はそう言って門の中へ入ろうとしたのだが、やっぱり、
そうはいかない。純の魔の手が伸びてきた。
 「で、彩香、彼氏はできたの?」
 「なっ、どうでもいいだろ! そんなこと。だいたい、お
まえこそ、どうなんだ?」
 話をはぐらかすつもりが仇となった。なかなか玄関までた
どり着けそうにない。
 ――おい、ポチ。足下で拗ねていないで、純に吠えたらど
うなんだ、不法侵入者だぞ。
 「いないのよ、それがねぇ。そうだ! 今度、良さげなの
紹介してあげるから、そっちも都合つけてよ?」
 よほど彼氏が欲しいのか、今度は文字通り純の手が私の両
肩を激しく揺さぶった。
 「いい、そんなの必要ない」
 「へ?」
 「だいたい、そういうのは好きじゃないんだ」
 「ちょ、ちょっと! なに? 彩香、まさかいるの!?
彼が?」
 「……まぁ、その、一応な」
 「え!? 誰だれ!? 写真とかないの? 教えてよ!」
 まるで尋問だ。両肩をなおも揺さぶられ、私の首は壊れた
人形のようにカクンカクンと前後に揺れた。
 「よせ。おまえも知ってる奴だ」
 「うっそ! じゃぁ、習字習ってた子?」
 「あぁ。でっかいのいたろ? 態度もでかい奴、あのバカ
だ」
 「バカって……えぇ、でも、わかんない、そんなの。名前
言ってよ?」
 「月城だ、月城……愁」
 自慢げに面と向かって言ってやっても良かったのだが、私
はなぜだか恥ずかしくて、彼女の手を振りほどくと、背を向
けて答えた。
 「えっ!? あ……そ、そうなんだ。……あのさ? 愁君
ていまもしかして髪染めてパーマかけてたりする?」
 ところで、こいつはおかまいなしだ。私はもう歩き去ろう
としていたのに相も変わらず話しかけてくる。
 「……あぁ、なんだ、おまえ見たのか?」
 純の言葉にすっかりと足元をすくわれて立ち止まると、純
の方へ振り返った。コイツがいまの愁を知っているはずはな
い。
 「えっ……あ、見てない見てない! なんとなく、そう思っ
ただけ、のような」
 「……おまえ、何か隠してるだろ?」
 「え? 何言ってんの? そんな訳」
 純は相変わらず嘘が下手だった。適当に鎌をかけてやれば、
コイツはあっさりと白状するだろう。
 「眉、おまえごまかそうとすると眉が動く癖があるだろ」
 「えぇっと……そ、そうだっけ?」
 「何を隠している?」
 今度は私が尋問する番だ。私は両腕を組むと、純へにじり
寄った。
 「あぁーもぉ、分かったわよ。たぶん、今日見かけたんだ
けど、他の子と一緒に歩いてたわよ」
 「うん? そうなのか? どうせ、爽香だろ」
 今日は土曜日だ。一緒に買い物にでも出かけているのだろ
う。
 「そうか? あぁ、妹さんだっけ? てか、違うって、た
ぶん。だって、あの子、内股でしょ? その子違ったし、な
んか、フインキもぜんぜん違う」
 純の嘘のない表情に、私はなぜだか時の流れを感じていた。
そうなのだ、短期間に色々なものが変わったのだ。
 「兄弟そろって随分変わったのだ」
 「えー、ん、まぁ、愁君はそう思ったけど、でも、やっぱ
妹さんじゃないよ、あれ、絶対。顔が違うもん」
 「おまえの見間違えだろ?」
 「やな感じー。そんなに言うなら、これみたら?」
 純はそう言うと、胸ポケットからケータイを取り出して、
それを私に見せた。
 「……なんだ、写真か? おまえ、何してるんだ?」
 「何って、同中のみんなに見せてあげようと思っただけよ。
結構、フインキ良さげだったし、思わず撮っちゃった。ほら、
見てみ? かなりイイ感じじゃない?」
 私は両腕を組んだままのぞき込むつもりが、いつしか、純
のケータイを握りしめていた。
 「……いつだ? おまえ、これいつ撮ったんだ?」
 「え、あ、確か今日学校行くときだったから……8時頃?」
 「どこでだ?」
 「郷田橋駅のすぐそば。県立の最寄りだからさ。もぉ、帰っ
てるんじゃない?」
 ――愁が、まさか、愁が。
 でも、その写真に映っていた間抜けは間違いなくあいつだっ
た。こんなの嘘だ。誰なのだ、隣にいる女は。あいつ私に隠
れて他校の奴とでも付き合っていたのか。
 私は書類をポチにまかせて、あいつの家へと急いだ。

―――――――――――――――――――――――――――

 「湯葉のおっさしみ~、湯葉のおっさしみぃ~……ふふ。
これ、美味しいの」
 昼食は私が支度をすることになったから、ちょっと、贅沢
なものを買ってきちゃった。でも、肝心の兄さんがまだ帰っ
てこない。でも、あれ? 呼び鈴が。名残惜しみながら、冷
蔵庫に湯葉をもどすとインターフォンを眺めに行った。その
間にも、何度もリフレインがかかっていた。
 「はいはい、聞こえてますよ~」
 ――まったく、誰かしら。でも、ちょっと怖い。
 恐る恐るインターフォーンの画面を覗いてみると、そこに
映っていたのはなんとも忙しない子猫だった。
 「ちょっと何回押してるのよ? 早押しクイズとかやって
ないんですけど?」
 「爽香か? 開けてくれ! 頼む!」
 ――何かあったのかしら。ちょっとフツーじゃない。
 私は慌てて玄関を開けた。国嶋さんはなだれ込むように勢
いよく入ってきた。私は辺りに誰もいないことを確認して、
大急ぎで扉を閉めて、鍵をかけた。
 国嶋さんは無遠慮にリビングに飛び込むと、兄さんの名前
を呼びだした。
 「ちょっと、国嶋さん? 落ち着いて」
 「愁!? どこにいるのだ?」
 子猫は私の声にもかまわず、服をそばたてて勢いよく2階
へと駆け上がっていった。まったくはしたない子。青色のショー
ツが見え見えだわ。
 結局、私にちゃんと顔を向けてくれたのは兄さんのお部屋
をひっちゃかめっちゃかにした後だった。

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 「もぉ……気がすんだ?」
 爽香の乾いた声が背後からした。そうだ、爽香だ。こいつ
なら、愁がどこで何をしているか知らないはずがない。
 「爽香? 愁はどこにいる? 今日はどこに行っているの
だ?」
 爽香はそっぽを向いて、気の抜けた声を出した。
 「そんなの知らないの~。なによ、慌ててくるからてっき
り誰かに追われて……」
 腕を組んでなんて態度の悪い奴なんだ。
 「お願いだ! 教えてくれ! あいつどこにもいないんだ。
ケータイもつながらないし、家にきても部屋にも押入にも引
き出しにも、どこにもいないんだ」
 「……どこのロボットよ。もういいから、とにかく落ち着
いてよ? ほら、リビングにおいで? ミルクあげるから」
爽香は私に背を向ける間際になんとも意地の悪い笑顔を残
していった。
 「おまえ……」
 「冗談よ、紅茶でいいんでしょ?」
 爽香は答えも聞かずにそのまま部屋を出ていってしまった。
 「あ……あぁ」
 おかげで私の答えが虚しく部屋にこだました。
 ――愁、おまえ、いまどこで何をしているのだ。

 1階へ降りていくと、爽香が台所でお湯を沸かせていた。
 「おまえ、ほんとに知らないのか?」
 爽香が私に気がついて、後ろを振り返った。
 「ほんとよ? でも、もうすぐ帰ってくるはず。お昼ご飯
作っといてって言われたし」
 爽香は湯の沸いたやかんをそっとなだめた。まるでその喚
いている姿が自分のように思えて、私は泣きたくなった。
 「……でも、どうしたの? あんなに慌てて。大切なお約
束でもすっぽかしたの? 兄さん」
 「そうじゃないんだ。これ、見てくれ」
 私は恐る恐る純にもらった(電話で純に頼んでおいた)写
真を爽香に見せた。
 「……あ、兄さんだ」
 ――バカ正直め。
 「やっぱり、そうか? それ、純っていたろ? 習字で同
じだった。あいつが今朝、郷田橋駅付近で撮ったらしいんだ」
 「ふ~ん、へぇ~、ほぉー。……で、お隣さんはどちら様
で?」
 爽香の額に青筋がうっすらと浮かんだのが見えた。でも、
なぜだかそれはすぐに和らいだ。
 「それが分からないんだ。あいつ……他校の奴と浮気して
やがったんだ」
 「んー……そうかな?」
 「そうだろ? 違うなら、この写真はどう説明したらいい
のだ」
 「いくらでもできるじゃない? 単純に道案内とか?」
 「おまえ……時と場合を考えろ。冗談で話してるんじゃな
い」
 「分かってるわよ? でも、この後ろ姿どこかで見たこと
あるような……」
 そう言って爽香は甘えん坊のように指を唇に押し当てた。
 「本当か!? 誰だ?」
 「それが分からないのよ、ん~……、ま、兄さんが帰って
きたら、みっちりと問いつめてあげるから、これ飲んですぐ
帰りん?」
 「……やだ」
 「駄々こねないで。ほんとに変人さんに追われてもしらな
いわよ?」
 私はだんまりを決め込んだ。
 「ほんとに、困った子。知らないわよ? そのうち兄さん
が知らない女の子連れて帰ってきても」
 爽香が悪いんじゃない。そうは分かっていても、私の手は
爽香の頬をひっぱたいていた。爽香の赤くなった頬を見て、
私はまた泣きたくなった。

―――――――――――――――――――――――――――

 ――あいたたた……。兄さんにも軽くつままれたことしか
ないのに、まったく、乱暴な子なんだから。
 国嶋さんはリビングで、膝を抱いてうつむいていた。せっ
かく、作って上げた紅茶にも手をつけてくれない。両肩が小
刻みにずっと震えている。こんな国嶋さん見るの、初めてだ。
最後のはいくらなんでも、言い過ぎてしまったかも……失
言だわ。ビンタをされたのはちょっとムッてしたけど、でも、
そんな国嶋さんを前にすると、とてもいたたまれない気持ち
になった。
 ここは素直に謝ろう。そう思ったときに、間の抜けたイン
ターホンの音が響いてきた。続いて戸を叩く音。
 「おい、爽香~? 開けてくれ」
 そして、渦中の人の声。
 すると、それまでずっと力を蓄えていたかのように、子猫
は一目さんに玄関にかけていった。

―――――――――――――――――――――――――――

 「愁!?」
 「お、彩香だ。いたんだ?」
 「なんだ、おまえ、私がいない方が良かったか?」
 「へ? そんなわけないじゃんよ? ……ただいま?」
 「なにが、ただいま、なのだ? 後ろにいる奴は誰なのだ!」
 おまえがのっぽでも女の足下が見え見えだ。開き直った愁
の態度がものすごく腹立たしくて、爽香のときとは違って、
今度は力の限りビンタをしてやった。ところが、それは空振
りに終わった。このバカノッポめ。私は怒りの行き場を失っ
た手を握りしめて、代わりにそれで愁の胸を何度も小突いた。
 「彩香!? 痛い、痛いって。どったの!?」
 ――どうしたのじゃないだろ!? 後ろの女は誰だ!
 ……本当なら、そう叫びたかった。でも、このときにはも
う、声帯が弱虫の楽器みたいになって、そこからはバカみた
いな泣き声しかでなかった。
 「くーちゃん……」
 最初、訳が分からなかった。どうして、楓がいるのだ? 
顔を上げてみると、愁の左側から楓が心配そうに顔を覗かせ
ていた。
 「楓、おまえ、どうして?」
 ――いや、違う。楓じゃない。帽子を被っていない。
 私は愁を押し退けて、道路に出た。でも、左を見ても、右
を見てもそれらしい人影はどこにもなかった。
 「彩香! 危ないだろ! なにやってんだ!?」
 振り向いたときに見えた愁の顔に私はまた泣きたくなった。
怒りたいのはこっちじゃないか。でも……しっぽをつかんだ
と思ったのに、これじゃ怒れない。愁、おまえ、本当は誰と
一緒にいたのだ? 見えない影に、私は益々怯えた。こんな
にも女々しかったのか……私は。
 「かえちゃん、コン・チワワっす?」
 「あ、え……えと、コン・チワワっす」
 楓は爽香に答えながらも、私と視線が何度もあった。何と
も罰が悪そうだった。
 「ねね、かえちゃんって今日、帽子してなかった?」
 「え? あ、うん、してたよ?」
 そう言って、楓はポーチから大きな帽子を出すと、それを
被った。
 「よく迷子になるからって、お友達が目印にってくれたの」
 「楓、おまえそれ!?」
 その帽子はどう見ても、あの写真に写る女性のものだった。
今だから分かるが、後ろ姿もそのまま……。それにしても、
どうして、爽香の奴……。
 「ふふ、かえちゃんでした?」
 「おまえ、いつから気づいてたんだ!?」
 あまりにも頭にきて、また、爽香をはたくところだった。
ところが、私のその手は愁につかまれて、それはできなかっ
た。でも……できなくてよかったのだ。
 「さっきから……なんの話だよ?」
 愁の声帯は、まるで、鈴虫のようだった。

―――――――――――――――――――――――――――

 今日起こったことをすべてリビングで話した。結局、私が
ひとりで騒いでいただけだったのだ。愁の奴、笑うのかと思っ
たら、背を丸めてうなだれていた。でも、それ以上に楓が縮
こまっていたから、ふたりの座高の差は依然として際立って
いた。
 「くーちゃん……ごめんなさい!」
 「別に楓が謝ることじゃないだろ? 愁が電話に出なかっ
たのが、そもそも悪いのだ」
 ――そんなの嘘だ。でも、いまの私にはそうとしか言えな
くて、それが、とても歯がゆかった。
 「愁、後でおまえ、説教だからな」
 そうだ、ちゃんとふたりきりになったら、そこで謝ろう。
大丈夫、あいつの身体に飛び込んでしまえば、顔を見られる
こともない。ちゃんと言える。
 「あぁ、ごめん」
 「そうね、兄さん、今日はこってり絞られてきて」
 「こってりっておまえ……爽香が怒らなくてもいいだろ?」
 「なによ? 私にもしっかりと火の粉が飛んできたんだか
らね?」
 爽香はそう言って、自分の頬を指さして愁に詰め寄った。
 「愁、すまない。その……爽香をはたいてやったのだ」
 「ちょっと! なによ!? はたいてやったって!」
 「なんだ、だいたいおまえが他の女を連れてくるとか言う
からいけないんじゃないか!」
 「兄さんがそんなことできるわけないでしょ! この……」
 今度は私がぶたれる番だと思った。でも、爽香がこっちに
来る前に、愁が爽香の手首をつかんでいた。
 「爽香……ごめんな?」
 一瞬、間をおいてから、爽香はそのまま座り込んだ。
 「爽香、すまなかったな?」
 「別にいいわよ。私も言い過ぎたし。でも、もうよしてね?
兄さん、私のことになると手が止まらないから」
 「あぁ、すまない」
 私はもう一度、愁に謝った。愁は首を横に振って、私と、
それから、爽香に頭を下げた。
 それから、少しの間、気まずい空気が漂った。
 「……あ、ところで、兄さん何してたの?」
 「そうだ、楓もだ。おまえら、何をしていたのだ?」
 私はここぞとばかりに、爽香の話にのった。なんとか、こ
の場の空気を変えたかったのだ。
 「今日、ポチの誕生日だろ? プレゼント買おうと思って
さ」
 「そうなの。私も同じこと考えていてね、そしたら、愁ちゃ
んとホームセンターでバッタリ」
 「……おまえら、なにやってるんだ」
 「それでさ、ふたりで出し合って買おうと思ったんだけど、
それがちょっとサイズ大きくて……」
 「そんなもの必要ないだろ? その分、ポチと遊んでやっ
てくれ。そっちの方があいつも喜ぶ」
 「ふ~ん、そうだったんだ? そいで、おふたりさんは結
局、何を買うつもりだったの?」
 「あぁ、ドッグアジリティの遊具」
 「へぇ~それいいね? はいはい! 私ものってやるの~」
 「爽香、おまえ、いまの話聞いていたか?」
 「いいじゃない? 暴れん坊・ポチ子ならきっと楽しめる
と思うわ。置き場所がなくてかさばるとかいう理由だったら、
仕方ないけど?」
 「ポチの物置ならまだ余裕だ」
 「そ? なら、いいじゃない? ケッテ~ィ! 兄さん、早
くカエル起こしてきて!」
 愁が私の顔を伺ってきたので、私は返事の代わりに、あきら
めて笑ってやった。
 「え、えっとぉ……」
 楓にはそれだけでは伝わらなかったので、好きにしろと言っ
った。
 「やったぁ! そうちゃん? そうちゃん? やったぁ!!」
 「ふふ、ポチ子きっと喜んじゃうね? ほら、兄さん何して
いるの? 早くお行き?」
 「いや……それが、その、ガソリンがないんだ」
 「ぬわっ!?」
 「そうちゃんがズッコケタ!」
 「ちょっと、兄さん! 何よそれ!? 早く携行缶でも買っ
てきて」
 「るせぇ~な、だいたいおまえが今月」
 「あぁ~ダメ、ダメだよ? 喧嘩はよくナイス」
 「あぁ、悪い。あれ? 確か、備蓄用のがあったよな? 爽
香? 赤いポリタンクの」
 「え? あぁ~、んー……そうねぇ、確か、ちょびっとガレー
ジにあったかも。ちょっと、見てくる」
 「おぅ、おれもちょっと準備するから、楓も先にガレージ行っ
ててくれるか?」
 「おぅよ!」
 「彩香もまだ時間ある? 彩香……?」
 本当は嬉しかったのだ。もちろん、礼を言いたかった。家
族以外でポチの誕生日にプレゼント贈ろうとした奴なんて、
こいつらが初めてだった。
 だけど、目の前に残ったバカに、ちょっとは気がついて欲
しかった。いま、本当にかまって欲しいのは……私の方なの
だ。ポチにまで嫉妬するなんてバカらしいとは思う。でも、
いままで気がつかなかったのだ。
 愁が嫉妬したとき、こどもっぽくて可愛く見えたけれど、
本当は私もこんなにも嫉妬深かったのだ。ずっと、気がつか
なかった。でも、私は……愁をずっと独り占めにしたい。
 愁の心配そうな表情を見て、少し吹き出してしまった。な
んて女々しい奴なのだ。
 そんな自分を愁の瞳のなかで叱った。

―――――――――――――――――――――――――――

 庭の芝生は最近親父が刈ったばかりだ。それなのに、蝉め、
忙しないあの鳴き声が庭の芝生をより一層青々しく茂らせて
いる。青はもとより、赤というよりかはその強烈な緑の暑さ
に、私は目を眩ませていた。
 なのに、あの丸っこいの、そんななか元気だ。
 「コーチしてあげなくていいの?」
 ベンチに寝そべって遠目でポチを眺めていると、母さんが
そう言いながら、グラスを机の上に置いた。レモンがグラス
のなかで気持ちよさそうに浮いている。
 ――なんて恨めしい奴なんだ。
 机を挟んで母さんも横に座ったが、私は質問には答えない
でアイスティーに手を伸ばした。
 遠くではポチが遊具を激しく弾き飛ばしている。それを見
た私もストローを吹き飛ばしてしまった。それを返事とばか
りに母さんを見ると、なるほど、しばらくは白旗を振るしか
なさそうね、と、表情を崩した。母さんはそう言うと、すぐ
にまた家の中へと消えていった。電話がかかってきたらしい。
 視線を家の方から庭先に戻すと、ちょうどポチが遊具の一
部を嬉しそうにくわえてやってきた。
 ――何を喜んでいるのだ、このバカモノ。解体競争じゃな
いのだぞ?
 口元を撫でて抱き抱えてやると、その暑さに目眩がした。
 ――火だるまじゃないか、ポチ。
 「彩香? お友達から電話よ?」
 あたふたしているポチを母さんに渡すと電話口に向かった。
 「母さん、そいつ消火活動が必要だ」

 電話を取るといきなり怒られた。
 「もう、ケータイ出ないんだから~。何度も鳴らしてたの
に」
 どうやら、こっちも消火活動が必要らしい。
 「すまない。部屋に置きっぱなしだった。今日、愁の奴、
遊びに行きやがって」
 「もしも~し? それ愁君専用?」
 水をかけるつもりが、間違えた。
 「すまない。どうしたのだ?」
 「あのさぁ……」
 ところが、有香はすぐに返事をしようとはしなかった。何な
のだ、電話してきたのはおまえの方だろう、私がそうつっこ
んでやろうかと思って口を開いた瞬間、有香が突然早口で、し
かも、途切れなく話し始めた。
 「部活の時に話せば良かったんだけどごめんどうしてもい
ま話さなくちゃいけなくて佐藤君がさ佐藤君って知っている
でしょイッコ下でモテモテのさ」
 言葉ともども口の中に一気に押し戻されたみたいで私はむ
せかえった。
 「待て待て。どの佐藤って?」
 「そうそうその佐藤君がさ佐藤君が後輩にこんなお願いな
んかしなかったらきっと彩香にも嫌な思いなんてさせなかっ
たんだけどでも由香里がその話を」
 ひねりを右に思い切り回したかった。とめどなく流れてく
る受話器が蛇口であったなら、だ。
 「由香里って誰だ?」
 「由香里よ由香里私の後輩の由香里よみんなよく知ってい
るって部活は違うけど凄く良い子でさ信じてよ本当だって近
所でも有名でこの前の日曜日なんかボランティアでさ」
 片手で目頭を軽く押さえて天井を仰いだ。受話器が轟音で
唸っているように感じる。このままでは倒れてしまいそうだ。
 「で、なんなのだ?」
 「彩香ごめんごめん怒んないでよそんな怒った声出さない
で余計言いづらくなるじゃないただでさえ電話をかけるのに
何時間も無駄にしたっていうのに怒んないでよ私だってこん
なこと本当は」
 こいつ、まるで、レモラだ(46)。有香には分からないだ
ろうが、私は早々に観念して聖ジェロラモ(47)の真似を
してみせた。
 「もうよい、わかった」(48)

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 どこにいても同じだ。夏のチケットを手にすると、もれな
く蝉の演奏がついてくる。もうちょっと、こう、たまには涼
しげな曲調とかにならないものか。鈴虫とまでは言わないま
でもだ。
 私はそんな無茶な文句を遠い蝉たちに投げかけて、手で顔
を仰いだ。それにしても、佐藤の奴、こんな猛暑日に私を屋
上に呼び出すとは、相変わらずだ。
いいかげん背中が焼けそうになったので、もたれかかった
壁にひと蹴り入れてやるとその反動を使ってフェンスに向かっ
た。
 中庭のすべてが白くぼやけて見える。みんな光のシルエッ
トを被っているかのようだ。
 突然、ある一点から噴水のように水しぶきがあがってくる
気配を感じた。有香たちだ。ウォーターガンで私を狙っている。
 ――お前ら、いったいいくつだ。
 頬杖をついて届くはずのない水しぶきを何度か見送ってか
ら、反対の手でみんなを追い払った。人の気もしらないで随
分といい気なもんだ。



(45)『ガリヴァ旅行記』に登場する人物
    ジョナサン・スウィフト(1951)『ガリヴァ旅行記』
    中野好夫訳、新潮社

(46)『神を見た犬』の作品内、「わずらわしい男」に
    登場する人物。
    ディーノ・ブッツァーティ(2007)『神を見た犬』
    関口英子訳、光文社

(47)『神を見た犬』の作品内、「わずらわしい男」に
    登場する人物。
    ディーノ・ブッツァーティ(2007)『神を見た犬』
    関口英子訳、光文社

(47)『神を見た犬』の作品内、「わずらわしい男」に
    登場する人物、聖ジェロラモがレモラに語った台詞。
    ディーノ・ブッツァーティ(2007)『神を見た犬』
    関口英子訳、光文社

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