白刃の女神 (第七部 休息) 後編 第七部完

 僕は自室に戻って、ベッドに寝転がった。
 「ごめんな? ホント」
 「……別にいい」
 爽香にからかわれたのが相当不服なのか、誤解を解いても
彩香はまだ少し拗ねていた。そこで、ちょっと話題を変えよ
うと思った。
 「いま、何してたんだ?」
 「うん? いまか? ちょうどシャワーを浴びていたとこ
だ」
 寝転がっていてよかった。そうでなければ、彩香の今の言
葉に僕は眩暈を起こして倒れてしまっただろうから。
 「愁? おい、どうしたのだ?」
 「いや、ごめん。じゃがいもじゃないけど、いま、どんな
格好してるんかなぁ~って思ってさ」
 「……なんだ、それは。ふふ、見たいのか? この前、お
まえに愛されたままの格好だぞ?」
 この言葉に僕の鼓動が一気に早まった。
 ――そうだった。この場所で。
 僕は一度、目を閉じると自然と照れ笑いが生まれた。
 「まさかの展開だな……」
 「なんだ、今日は来ないのか?」
 彩香は案外、大胆なのかもしれない。でも、恐らく、声の
調子からこれは僕をいじめているのだろう。
 「ハハハ、電話で誘われるとはなぁ……でも、本当にいい
のか? 行くぞ? 行って、彩香をバスタオルで包んでベッ
トに連れて行く」
 「それで? それでどうするのだ?」
 僕は彩香の挑発に恥じらいもなく、答え続けた。
 「ベッドで今度はおれが包み込んでやる」
 予想通り、彩香はこの言葉に頬を染めてはくれなかった。
電話口から彩香の笑い声が溢れると、僕はこの変態め、と言
われてしまった。
 「でも、本当にそうなってもいいのだが……少し寂しい気
がするな?」
 「ん? どうして? こうやって話せるのも嬉しいけど」
 「バ、バカ。それは私も同じだ。ただ、どこぞのバカのせ
いで、それだけじゃ満たされなくなったんだ……」
 これは意外な言葉だった。彩香の声のトーンが本当に少し
落ちていた。思えば、最近僕らはあまり会えていなかった。
僕は逃げていたのかもしれない。花火の話題になるのが怖
くて。
 「ごめん、彩香」
 「……何がだ?」
 「あ、いや、あの……さ、来週なんだけど。花火、一緒に
行かないか?」
 「……どうしたんだ、急に」
 彩香の声のトーンは未だに落ちたままだった。
 「あぁ……いや」
 「ムリするな。爽香の奴がどんなつもりで言ってきたのか
は知らないが、おまえ……そばにいてやれ」
 ――7月20日。母親がこの家を出て行った日だ。僕はあ
の日、泣きじゃくる爽香の手を引いて花火に連れて行ったん
だ。大っ嫌いな札束を握り潰して。
 ――爽香。
 「愁?」
 「ん?」
 「おまえ、他の日に連れ出せ。私は……嬉しくない」
 「そっか……」
 僕の声は彩香の声に触れて、なぜだか、一気に震え始めた。
逆流してくる思いに胸焼けを覚えながら、必死にそれを飲み
込んだ。胆汁よりも苦い味が僕の味覚に刺さった。
 「ありがと……ごめんな?」
 「よせ。花火は他の日にもあるだろ? まさか、全部誘わ
ない気じゃないだろうな?」
 ところで、彩香の声につられて、僕の声も早々に明るさを
取り戻していった。
 「そんなわけないじゃんかよ?」
 「そうか……それなら、別にいい。すまないな? 夕飯を
作っていたのだろ? じゃぁ、またな」
 僕は電話を切ろうとした彩香に慌てて飛び起きた。
 「あ! ちょっと待ってくれ」
 「なんだ? どうしたのだ?」
 「明日、弁当作っていってもいいか?」
 「私に……か?」
 「あぁ、この前ので懲りてなきゃ、だけど」
 罪滅ぼしというわけでもないのだが、僕はなんとかこの電
話の中で楽しみを彩香に残したかった。
 「この前?……あぁ、「注文の多い料理店」(32)のこと
か? あれは、逆に食べられてしまったんだ。ご飯なんて食
べられなかったぞ?」
 「ひっどいなぁ。一応、自信作を食べて頂いたのですが?」
 「私もだ」
 僕の冗談に今日の彩香はとことん付き合ってくれた。
 「ハハハ、確かに美味しかったよ?」
 「あぁ、そうだろ、この変態め。正直に言ってやる。おま
えが暴れすぎたせいで、ハヤシライスの記憶なんてないのだ」
 「悪かったよ? じゃぁ、また今度作る。でも、明日は違
うやつな?」
 彩香は期待していると言って、電話を切った。

 キッチンへ戻ると、爽香が僕の代わりに料理をしてくれて
いた。
 「終わった?」
 「あぁ、ケータイありがとな? ここ置いておくぞ」
 「んー……あちち」
 僕は手を洗うと、再びエプロンをして爽香のそばに立った。
 「順調か? 代わろうか?」
 「うん、ありがと。結構、美味しいよ?」
 爽香からお玉をもらうと、僕も小皿でスープの味見をした。
 「お、本当だ。美味いな?」
 「お芋さんが一肌脱いでくれたから?」
 「おまえなぁ……」
 「ふふ、それで、国嶋さん誘えたの?」
 僕は少し間を置いて、自分の気持ちを披瀝することにした。
 「いや、そうじゃなくて、おれ……彩香も」
 「……ふぁ~」
 ところが、こんなときに爽香は欠伸をした。
 「……眠たい」
 でも、これはわざとだ。
 「爽香……」
 「なによ? ……あのねぇ、兄さんはどうだか知らないけ
ど、私はもうお母さんと仲直りしてるの。そりゃ、気落ちし
ないって言ったら嘘になっちゃうかもしれないけど。でも……
もう、嫌よ? 義務とか、そういうのは」
 「おれは!?」
 交錯する爽香の視線が一瞬にして凍えた。僕は爽香の肩に
差し出した手を、まるでドライアイスにでも触れたかのよう
に一瞬にして引き戻した。
 「……女の子を誘うなら、そういう気持ちじゃなきゃ……
ね?」
 こんなにも近くにいるのに、あのとき断絶された部分は確
かにあったんだ。ところが、それでも僕は時々、いや、ほと
んどそれを見失っている。
 爽香は僕からするりと身体を遠ざけると、またいつものよ
うに話しかけてきた。
 「ね? アイス食べていい~?」
 「あ、あぁ……冷凍庫にしまってある」
 ――爽香のことがわからない。何を考えているのか。誰よ
りも近くにいるのに、誰よりも爽香が遠い。
吹き零れた水分がコンロの火で焼かれ、瞬時に蒸発していっ
た。歯がゆい思いを嘲笑うかのように、その音はチリチリと
短く響いた。花火の舞が終わったときの、あの虚しい音と似
ている。
 「ちょっと! なによ、これ!? アイス、半分以上ない
じゃない!」
 「あ、あぁ……すまん」
 僕らはもう、表面上でしか関われないのだろうか。これじゃ、
毎日が演劇だ。こめかみに鈍い痛みが走って、横の棚に倒れ
掛かってしまった。
 「……兄さん、大丈夫?」
 「あ……あぁ、平気。ちょっとよろけちまって。年かな?」
 これも演技なのか。僕のこめかみがさらにうずいた。
 「兄さん!?」
 断続的な眩暈のそばで爽香がいつのまにか僕の身体を支え
てくれていた。
 「どうした?」
 「兄さんの方でしょ……」
 あのときのように、爽香は僕の胸に頬をよせていた。
 「……ごめんなさい。でも、兄さんが悪いんだから。……
言ったでしょ? 国嶋さんと幸せなら、いまはそれでいいの。
たまに振り返られたって、そんなの辛いだけ……」
 僕は爽香の両肩に手をかけようとしたのだが、それはでき
なかった。
 「理性的な愛情なんて、まっぴらごめんなの」
 爽香はそう言って、支えていた僕の身体をそっと押して離
した。
 「爽香……」
 「私なら平気よ? お友達と行くから。遅くならないから、
許してね?」
 恐らく、後半の言葉は爽香自身が傷ついたことだろう。
 「……気をつけてな」
 「ふふ、でも、そこで会ったら国嶋さんいじめてやるの。
気をつけてね?」
 僕はもう何も言えなくなって、ただいつものように苦笑い
を浮かべて、鍋の火を止めた。

 ところで、その肝心の花火大会はあろうことか、雨天中止
になってしまった。朝方から雲が空に根を張り、地球を見ら
れなくなった太陽が、夕方ごろになっていよいよ泣き出した。
雨天中止の連絡がケータイに入ったのは、それからまもなく
だった。
 早めに外出していた爽香はそのまま友人の家に泊まること
になったので、僕は家でひとり、てるてる坊主を見上げてい
た。きっと、ちょっと可愛く作りすぎたんだ、爽香……。テー
マが恥らいだからな。僕は声にしてひとり笑っていると、ポ
ケットのなかでケータイがモゾモゾと動き始めた。
 「はいはい?」
 「愁か!? どうなっているんだ!?」
 「えっと、何が?」
 「天気だ! 晴れにしろ!」
 「いや……そんなこと言われましても」
 彩香はどうやら、外の天候よろしく大荒れのようだった。
 「おまえが泣いているからだろ? 早く泣き止め」
 「あのなぁ、赤ん坊じゃないんだから……。他の日にしよ?
全部雨でなくなりゃしないよ」
 ところが、あんなに他の日でもいいと言ってくれた彩香が、
今日はやけに引いてくれなかった。
 「……せっかく浴衣を着てやったのに」
 思えば、この花火大会は今まで彩香と行ったことがなかっ
た。爽香と……僕のことを気にかけてくれながらも、きっと、
本当は行きたいと思ってくれていたのだろう。とはいえ、僕
の方でもそうだ。だからこそ、僕の方でも実はあきらめが悪
かった。そもそも、こんな日に家でひとりいたら、それこそ
本当に泣き喚いてしまいそうだ。
 「今から家行っていい?」
 「……なんだ? 花火は中止なのだろ?」
 「あぁ、でも、小規模でいいなら見られないこともない」
意地悪されるのは慣れている。
 「別にかまわないが……」
 僕は彩香の返答に胸を撫で下ろすと、自室から紙袋を持ち
出して彩香の家へと向かった。

 玄関に入ると、彩香は浴衣で迎えてくれた。
 「ん? なんだ? また手土産か?」
 彩香が僕の紙袋を見て、そう尋ねた。
 「あぁ、いや、そうじゃなくて」
 こんな日に限って、僕はそれを持っていなかった。奥から
夫人がやってきたものだから、僕はもう、気が気じゃなくなっ
た。
 「お邪魔します、遅くにすみません」
 「いえいえ、そんなことないわ。愁君が着てくれなかった
ら、お家の台風がおさまりそうになかったから。ね? 彩香」
 「何が、ね? だ! 愁、ほら早く来い」
 彩香に手を引っ張られながらも、僕はなんとか靴を揃えて、
彼女の部屋へ向かった。

 「なんだ? どうかしたのか?」
 どうやら僕は彩香の部屋に着いてから、しばらく、ボーっ
としていたらしい。雨にうたれて風邪をひいたわけでもない
のに。
 「あ、いや、なんでもない」
 「おまえ、もしかして、具合でも悪いんじゃないのか?」
 彩香はそう言って、心配そうに僕のもとへと歩いてきた。
 「あぁ、そうかも。浴衣の彩香なんて、初めてだからさ?
そんな子に打たれて、熱が上がっちまった」
 「……なんだ、それは」
 彩香はそっぽを向いて僕の腹部を軽く叩いた。
 「いてて……あ、そうだ。電気消してくれないか?」
 僕は紙袋を探ると、彩香にさっそくお願いをした。雨戸が
してあるから、それで十分なはずだ。
 「おまえ……家に来て早々、何考えてるんだ?」
 彩香がいかにも呆れた声を出した。
 「え……あ、いや、別にそういうんじゃないって! しか
も、電気消してって、それ、男が言うのか?」
 僕があれこれ考えていると、彩香が電気を消した。
 「これじゃ何も見えないな? おまえ、捕まえてみるか?」
 僕は彩香の無邪気な声に助けられて、持ち込んだ機器のス
イッチを押した。

 いま天井には中止されたはずの花火が上がっていた。とは
いえ、もちろん、これは本物ではない。メッセージをフィル
ムに書いて機器に入れると、それが花火のように打ち上がっ
て弾けた途端にメッセージが現れる、そんなおもちゃだった。
雨天中止のときのために、僕はこれを用意していたわけだ。
 僕は座り込んで夜空を眺めた。それは試写したときよりも
鮮明に映って見える。僕の思いの入った言葉が機器に込み上
がっては、それが、暗闇に打ち上がっていた。
 「おまえ、これ……」
 彩香の声を聞いて、僕は途端に恥ずかしさで死にそうになっ
た。そうだ、いま彩香も同じものを見ているんだ。
 彩香は照らされた灯りを便りに僕のそばまでやってきて、
僕の隣に座った。それから、僕の袖を引っ張って、あれはお
まえが作ったのかと何度も聞いてきた。僕はたまらず、そっ
ぽを向いた。
 それでも、僕の言葉が打ち上げられるたびに彩香は僕の袖
を引っ張った。
 「どうした? 言ってみろ? あれはおまえの言葉か?」
 僕はもう耐えきれなくなって、そうだ、と呟いた。なおも
に打ち上げられる花火に僕は少し作りすぎたことを今さながら
実感した。
 彼女は時々、いたずらっぽい流し目を僕に向けた。僕はい
じめられているみたいでなんとも悔しかったが、それでも、
隣で灯る彼女の笑顔を見ていると、後悔はしなかった。

 ところで、僕は彩香の部屋を訪れて浮かれすぎていたのか、
肝心なことをすっかりと見落としていた。それは、まだここ
に紅茶が運ばれていないということだ。訪れるたびに、それ
は確かにいつも僕のそばにあった。そして、それは……。
 ――コンコン。
 短いノックの音に僕の両肩は跳ね上がった。やはり、夫人
が入ってきた。初め、暗い室内に驚いてみせたが、やがて、
視線が自然と明るい天井の方へ移っていった。自家製の花火
がまたひとつ、天井で弾けた。これには僕の方が卒倒して、
後ろに倒れこんでしまった。
 「母さん、こいつバカだ」
 彩香の無邪気な声に僕はいっそ土竜にでもなりたいと願っ
た。せめて、映写を止めようと寝転がったまま手で機器を探
したが、一向に見当たらなかった。
 慌てて起き上がってみると、彩香がそれを手にとっていじ
らしく笑っていた。
 「あらあら、よかったわね? 彩香」
 僕は両手で顔を覆うと、一言、夫人に謝った。
 「すみません……」
 その後、飲んだ紅茶はどんなに砂糖を入れても、苦味が消
えなかった。

 そろそろ映写も終わるころだろうか。僕も彩香と同じよう
に座って、夜空を眺めていると、彩香が身体を僕に預けてき
た。僕はなぜだか、彼女を支えられなくてそのままふたりし
て倒れこんでしまった。彩香が僕に覆いかぶさるかたちになっ
て、僕らは吹き出した。
 「大胆だな?」
 「なっ、ふざけるな!」
 彩香は不満そうに上半身を起こした。そのとき、彼女の背
後ではまた僕の言葉がひとつ弾けた。それと照らし合わせて
彩香の表情を見ると、僕はなぜだか物凄く落ち着いた気分に
なった。彩香が僕の視線を探って、また天井を見ようとした
ものだから、僕はそんな彼女を引き寄せて、現れた文字を彼
女の耳元で声にした。
 「まるで、私だけの花火大会だな?」
 顔を上げて微笑む彩香の表情が少し、残酷に思えた。でも、
分かっている。こんなのは、ただの責任転嫁だ。
 「……あぁ」
 僕は自分の酷い表情ができるだけ闇に潜んでくれることを
願った。言語化できない言葉、いまみたいに視覚化はおろか、
形象化すらできない思いが僕の心臓をずっと叩いている。
彩香を愛している。でも……。

―――――――――――――――――――――――――――

 今日はやけに早く目が覚めた。夏休みに入ったというのに、
起きる時間がまるで学校のあるときと変わらない。鳥たちの
声に何度もつつかれたせいだろう。これじゃ、二度寝するの
も億劫だ。
 私は乱暴にカーテンを開けると、近くの木々にいる鳥たち
を睨んでやった。すると、それをたしなめるような、穏やか
な母さんの話し声が部屋の外から聞こえてきた。
 ――こんなに早くに誰と話しているのだ。
 リビングに入ると、母さんは受話器を片手に笑っていた。
私が入ってくるのに気がつくと、母さんは受話器を押さえて、
今日は随分と早いのね、なんて言いやがった。
 ――そんなの知らない。
 私は紅茶を注いで、パンをかじると、なんともつまらない
気分になった。夏休みだというのに、愁とは少しも会えやし
ないのだ。あのバカ、放浪癖はあるし、部活の時間も私とは
てんでバラバラだ。学校があれば、それだけで会えたのだが。
あいつ、私のことちゃんと覚えているのか。
 今日はやけにパンが柔らかく感じる。

 何となしに落ち着かなくなって、私は夕方に愁の家を訪ね
ることにした。19時ごろに行けば、たぶん、部活から帰っ
てきているはずなのだ。今日に限って言えば、しぶとく居座
る太陽がなんとも憎らしい。
 「なによ? 泥棒?」
 愁の家に着いてから、まずはガレージを覗き込んでやった。
でも、見えたのは車だけじゃなくて爽香だった。
 「誰がだ。愁はもう帰ってきているのか?」
 私が安心して尋ねると、爽香は私の前までやってきた。
爽香は人差し指を口元に当てて、何かを思い出すかのよう
に上を見上げた。
 「ん~……お帰り?」
 爽香はそう言って、私の家のある方を指差した。
 ――何を考えていたのだ、こいつは。
 「ふざけるな! おまえ、客に失礼だ!」
 「ふふ、どうぞどうぞ御引取りくださいませぇ~」
 「おまえ!?」
 「なによぉ~? お魚なんてないのよ? ドラネコさん?」
 「魚じゃない! 愁だ! あいつは帰ってきているのか?」
 「そんなの知らないわよ?」
 爽香はそう言って、またガレージのなかに消えていった。
なんて、性格の悪い奴なんだ。相も変わらず、爽香は私に
構わず、棚の前できょろきょろとしている。どうやら、何か
を探しているらしい。でも、こっちも探しているのだ。
 「教えてくれたっていいだろ。何か探しているのか? 手
伝ってやるぞ?」
 「いいわよ、別に。そんなに大事なものじゃないもの」
 爽香はそう言いながらも、どこか元気がなかった。
 「……で、何の御用? 兄さんならたぶん、まだ、いない
けど?」
 「それなら、もういい。それよりもおまえ……何を探して
いるのだ?」
 「ふふ」
 私は自分で聞いておきながら、次に出てくる爽香の言葉に
物凄く怯えていた。
 「……なぁ~んて、言ったらまるでホラーね?」
 「急に何の話だ?」
 「あれ、……なんだっけ? 忘れちゃったの~」
 私は結局、爽香にはぐらかされて何を探していたのかわか
らなかった。
 「なにしてるの? お入り?」
 爽香はガレージの扉を開けると、先ほどの言葉に反して、
私を家に招いた。
 「おまえ、私はネコじゃないのだぞ?」
 「そう? 兄さんももうすぐ帰ってくると思うから、中で
待っていたら?」
 「あぁ、ありがと」
 颯爽と家の中に入っていく爽香を見送ってから、私はもう
一度後ろのガレージを見た。古い車が一台、中央に止まって
いる。棚にはわけのわからない工具が置いてあって……およ
そ、爽香の気を引きそうなものはどこにも見当たらなかった。
ただ、壁にかけられた黒板に爽香の文句(早く帰って来い、
バカの助)がひとつ、取り残されていた。

 「それで、急にどうしたのよ?」
 爽香は牛乳をコップに入れて私によこすと、そんなことを
言った。
 「いや、別に。ただ、最近あまり会っていないのだ。そう
いうのって、さすがに……不安になるだろ? 覚えているの
か? あいつ」
 「ふふ、可愛い子~。でも、それだったら、兄さんに直接
メールでもすればいいじゃない? 会いたいって……ふふ」
 「何がおかしいんだ!? だいたい、愁も私も……メール
が好きじゃない」
 「まったく、アナログなんだから。デンシャバトでも飛ば
す気?」
 「おまえ、バカにしているのか?」
 「はいはい。これ飲んで落ち着いてね?」
 爽香はそう言って、牛乳を私の方にさらに近づけた。
 「ん~……あっ、そうだ。それなら、いっそのこと、試し
てみる? 兄さんのこと」
 「愁を……か?」
 「えぇ、そう。クローゼットにでも入ってみたら? 私が
お部屋でいろいろ聞いてあげるし」
 「そ、そっか……て、バカ。よせ! そんな真似できるか」
 でも、爽香は有無を言わさず、私の手を引くと、愁の部屋
まで私を連れて行った。
 「はい、一応、酸素ボンベ」
 爽香は私をクローゼットに押し込むと、そんなものを手渡
してきた。
 「おまえ、なんでこんなの持っているんだ? 登山用だろ?」
 「だぁ~って、部活きついんだもん」
 「おまえ、いったいいくつだ?」
 「ふふ、そんなの知らないの~。い~い? ちょっとだけ
クローゼット開けておくけど、苦しくなったらドア蹴るのよ?
そういうのお得意でしょ?」
 「おまえ……私をなんだと思っているんだ?」
 「暴れん坊少女? ……と思う、爽香であった」
 「爽香!?」
 「きゃぁ~」
 何が少し空けておくだ!爽香の奴、完全にドアを閉めてい
きやがった。それでも、耳障りな甲高い声が遠くから良く聞
こえた。
 「あ、そうそう。これ終わったら、とっととお屋敷に戻っ
てね?」
 私は今度こそドアを蹴ってやろうかと思ったが、爽香のさっ
きの言葉が気にかかってそれはやめた。そもそも、ここは愁
の部屋だ。

 ドアを少し開けて、室内を見回していると、やがて、愁が
入ってきた。どうやら、都合よく帰ってきてくれたらしい。
 「あ、兄さん? ちょうど良かった。聞いて聞いて~」
 続いて、爽香も入ってきた。いよいよ始まるのだな。
 「あぁ、どうした?」
 「うん、ちょっとお願いがあるの」
 でも、それにしても、あいつ……愁に何を聞くつもりなの
だ。
 「あのね、あのねぇ~、この前、自転車パンクしちゃった
でしょぉ~? だからね、新しいのが欲しいの」
 ――何の真似だ、爽香。
 「まぁ、中までダメだったからなぁ~あれ。何買うんだ?」
 「ビアンキ(33)~」
 「ダメ」
 「なんでよ!? ねぇ、兄さんオ~ネェ? オ~ネェ?」
 ――あいつ!?頭にきた!愁に近づきすぎだ!しかも、愁
の胸もとを人差し指で丸字になぞってやがる。見ているこっ
ちの背中が痒くなる。
 「ダメだっての。だいたいかごねぇじゃん、あれ」
 「ケチ! もう、いい!」
 本当にいくつなんだ、あいつは。爽香はそう言って、部屋
から出て行ってしまった。……おい、待て、爽香。話が違う
じゃないか。私はどうしたらいいのだ?

―――――――――――――――――――――――――――

 時刻はまだ19時だった。外も明るい。今日は爽香も僕も
外でご飯を済ませてあるので、暇になった。
 棚から適当に本を引っ張り出してきて、僕は自室の床に寝
転がった。
 「あ、兄さん? 忘れてた」
 ところが、著者紹介も読み終える前に爽香が部屋に入って
きた。
 「ビアンキならムリ」
 「なによ~? 可愛くないの。そうじゃないわよ? は
い、座って」
 爽香はそう言って、僕のそばに腰かけてテーブルを叩い
た。しおりの出番さえ、ない。僕は見開いた本を顔の上に
乗せて、両腕を天井に伸ばした。
 「おぉ、神よ、爽香の話をどうかお聞きくだ……」
 でも、困ったことに爽香の方がその言葉を最後まで聞い
てくれなかった。僕の横腹を元気よく蹴った。
 「ってぇーなぁ~、なにすんだよ?」
 「ふざけないで。早く済ませたいの」
 僕は本を読むのをあきらめて棚に戻すと、爽香に向き直っ
て座った。
 「で、次はどこのだよ?」
 「そうね、いっそのこと、ドカ(34)でも買ってもらお
うかしら? ……なんて、悪いけど、結構真剣なお話よ?」
 爽香のうんざりした表情を見て、僕は組んだ腕を解いた。
 「悪い悪い、どうした?」
 「国嶋さんのことなんだけど」
 「彩香の……?」
 「えぇ、そう」
 僕の脳裏にはいま、花火のときの話題がかすんで見えた。
 ――あぁ、あのときの続きなんだ。
 僕は背筋を伸ばした。
 「最近、国嶋さんとは会っていないの?」
 「ん? まぁ……そう、だな」
 「なんで? お嫌い?」
 「お嫌いって……」
 いつからだろうか。誰かと話すとき、正直であることが難
しくなった。僕の勝手に生み出した、相手の気持ちが僕の言
葉をぼやかせるんだ。言いたいこと、伝えたいことが原色の
ように鮮明に色を持っていたとしても、喉もとを通るころに
は脳が理性をスポイトで吸い取って、それを言葉にかけて、
その色を薄めるんだ。でも、そのごまかしがいくつもの齟齬
を生んで、相手も自分も傷つくことになる。
 ――理性的な愛情なんて、まっぴらごめんなの。
 「好きだよ」
 僕は爽香の瞳を見て、そう答えた。でも、背筋がざらつく
思いがした。たぶん、爽香にその言葉を投げかけたからだろ
う……。
 「ふ~ん、へぇー、ほぉ~。じゃぁ、どうして会わないの?」
 「どうしてって、部活時間が別だしさ、俺サボってもいい
んだけど、それやると彩香が怒るし。休みのときもすれ違う
ことが多くてな」
 「……そう。兄さんはそれでいいんだ?」
 「あぁ……会いたいとは思うけど、でも、友達も部活も、
彩香の大事なもんだろ?」
 「そんなの知らない」
 「爽香ぁ……真似するな」
 「ふふ、でも、国嶋さんもそうなんだ? 兄さんみたいに?」
 僕は言葉がでなかった。
 「もう少し、わがまま言ってあげたら?……さっきの私み
たいに」
 言葉の代わりに笑い声が多少、出てきた。
 「オ~ネェって、か? 気持ち悪いだろ? 俺がやったら」
 「ふふ、そんなの知らないの~。……ほら、兄さん立って
みて?」
 「なんだよ? 座らせたり、忙しい奴だな?」
 爽香は愚図る僕を立たせると、クローゼットの前に立たせ
た。
 「素直に心境を打ち明けてみたら? 神様が聞き入れてく
ださるかもよ?」
 僕は笑いながらも、ネクタイを正して、彩香に会いたい、
と言った。
 「でも、おまえ、これ、クローゼットのなかって普通、愛
人がでてくるんじゃないのか?」
 「ドバカね、ドラマの見過ぎよ?」
 爽香は瞳を閉じると、両手を上げた。
 「おぉ、神よ、兄さんのお願いをどうぞお聞きください」
 「……おまえ、なにやってんだ?」
 「ふふ、開けゴマ!(35)なの~」
 僕は半信半疑に爽香から視線をクローゼットに戻すと、そ
れはぎぃ~と音をたててゆっくりと独りでに開き始めた。
僕は罰当たりだ。恐らく、どんな奇跡もホラーに見えてし
まうから(これについては爽香のせいにしたい。怖がりのく
せに僕によくホラー映画を観ようとせがんだのだから)。
 ところで、僕の身体はいま半歩後ろへ仰け反っていた。
 「愁……」
 ぎゃぁぁっつ!?とは言わないまでも、僕の心臓は大砲を
撃ったあとのように、物凄い反動を受けていた。
 「さ、彩香!?」
 「愁……その、すまない」
 「え、えっと……爽香?」
 僕は事情が分からず、ともかく、風に揺れる葉っぱのよう
に笑っている爽香を見た。
 「……ふぅ、国嶋さんに付き合ってあげたの」
 「え?」
 「……すまない、愁。最近、おまえ会いに来ないから、そ
れで……」
 彩香は盗み聞きしていたことをよほど悪く思ったのか、ク
ローゼットのなかでしゃがみこんだまま、しょげていた。僕
は彼女の近くに置いてあった酸素ボンベを手に取って、それ
を吸った。
 「なにしてるの? これ、危ない人みたいだよ?」
 彩香はまだ冗談に付き合うほど元気ではなかった。とはい
え、僕のネクタイを引っ張る力は物凄く強かった。
 「おまえ……この匂い、なんだ? 誰のだ?」
 僕は言われてみて、ポチのようにクローゼットの中を嗅い
でみた。あろうことか、服に香水の臭いが微妙についていた。
 僕はため息をついて、後ろを振り返った。
 「爽香……おまえ」
 「ふふ、新しい香水なの~」
 「なっ、爽香!? おまえの仕業か!?」
 僕は爽香に飛びかかろうとした彩香の手を引いた。
 「……ごめん」
 「別におまえが謝ることじゃ……爽香、服にかけるな。消臭
剤じゃないのだぞ?」
 「ふふ、お靴のお返しなの~」
 爽香はそう言って、部屋から出て行ってしまった。僕は爽香
の言葉に恥ずかしくなって、彩香の顔も見られなくなった。彩
香はそれを勘違いしたのか、また僕に謝った。
 「ふん」
 僕はそんな彩香にとてもこどもじみた行為をしてしまった。
 「ふんって……おまえ、怒っているのか?」
 「当たり前だろ? 恥ずかしいとこ見られちゃったし、もう
会っていられない」
 なんとも女々しいことを言っている自分が、とても可笑しく
なった。とはいえ、生活の何気ない一部分を見られるのは本当
に恥ずかしいことだ。まして、本を顔にのせて両手をあげなが
ら僕は、おぉ、神よ……と、言っていたわけだ。間違いなく聞
かれているだろうし、もしかしたら、隙間から見られていたか
もしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなって、
怒ったふりをして自分をごまかすしかなかった。
 ところが、彩香はそんな僕を逃がしてはくれなかった。部屋
を出ても、階段を下りても、リビングで歩き回っても、ずっと、
彩香は僕の後ろをちょこちょことついてきたのだ。
 「愁……」
 「どこまでついてくる気だ?」
 「おまえが許してくれるまでだ」
 「そっか、おれ、トイレ……なんだけど」
 「っ!? す、すまない。部屋で待っていてもいいか?」
 「知りません」
 「……愁」
 僕は彩香の足音が遠ざかるのを待って、そっとため息をつ
いた。彩香の足音はまるでだるまさんがころんだのように、
少し行っては止まっていた。彩香の足音が止むたびに、僕
の心臓も止まった。
 さて、トイレに用事はないのだけれど……。どうしたもの
か。

―――――――――――――――――――――――――――

 ライオンがじっと私のことを見ている。そんなに睨むのは
よせ。私は愁の部屋の前で、ひとり座っていた。愁の気持ち
を聞けたのは嬉しいが、それで少しこじれてしまったのだ。
爽香の奴……余計なことをしやがって。何が、開けゴマだ。
アリババ(36)じゃないのだぞ?
 「あれ、なにしてるの国嶋さん?」
 頭のなかで爽香に散々文句を言っていると、当事者がまも
なくやってきた。
 「あいつを怒らせたから……入れないんだ」
 「ふふ、国嶋さん、かわいい~」
 「からかうのはよせ! だいたい、付き合わせたのはどっ
ちだ!?」
 「悪かったわよ? でも、別に兄さん怒っていないのよ?
じゃれてるだけじゃない?」
 「そんなのわかっている、でも……あいつが普通に接して
くれるまではこうしてなきゃいけないから」
 「……ぷっくく!」
 「なんだ!?」
 「ほんと可愛い! 抱きしめてあげようか?」
 「ふん、来るな、あっちいけ」
 「はいはい。代わりに兄さん呼んできてあげるわよ?」
 爽香はそう言って、一階に下りていった。
 しばらくして、愁はやってきはしたが、私の前を素通りし
やがった。そうはいくか。私は愁のズボンの裾をつかんでやっ
た。
 「愁……?」
 「……ん? なんだ?」
 「許してくれ……」
 「ヤダ」
 ――なんて、駄々っ子な奴だ!
 「っ……あまりいじめないでくれ。許してくれるなら、何
だってしてやる。ちゃんと罰は受けるから」
 なんだってこんなこと言わなくちゃならないんだ。でも、
愁の奴、ようやく笑顔になりやがった。
 「ほんと?」
 「あ……あぁ」
 でも、コイツいったい何をさせる気だ。愁は私の前にしゃ
がみこんできて、まず私の身体を起こさせた。
 ――おい、バカ。どこをつかんでるんだ。少し抗議してや
ろうかと思ったら、その前に文字通り口を塞がれた。
 「……なんだ、これが罰か?」
 「違うよ? ただ、おれがしたかっただけ」
 ――生意気な奴め。
 「それで? 何をしたらいい?」
 「ん~、そうだな。ゲームやろう? ゲーム」
 「ゲーム?」
 「そう、懐かしいのがあるんだ。それで勝ったら許すよ?」
気が抜けるようにため息がでた。
 「おまえ、そんなのでいいのか? 盗み聞きしたのだぞ?」
 「別に怒ってないし。ただ、恥ずかしいとこ見られたかなっ
て」
 愁はそう言って、明後日の方を見た。私はここぞとばかり
に反撃にでた。私をいじめてただで済むわけがないだろう。
 私は両手を上げて、目を閉じた。
 「おぉ、神よ」
 ところが、そう言いかけたところで、またしても愁の奴、
口を塞ぎやがった。調子に乗りすぎだ。
 「おい、よせ、愁。おまえ、最後まで聞いたらどうなんだ?」
 「おれなんか、わき腹蹴られたんだぞ?」
 一瞬お互いの顔を見合うと、私たちは久しぶりに一緒になっ
て笑った。
 「先、下いってて? すぐ用意して、持ってくから」
 「手伝わなくていいのか?」
 「あぁ、軽いし、平気。それに……」
 愁はそう言って、部屋の中で一度立ち止まった。振り返っ
た表情がやけに幼い。
 「クローゼットに愛人が隠れてるから、それみつかるとま
ずいし」
 「愁!?」
 「ハハハ、爽香にも言っておいて?」
 「あぁ、わかった」
 ……まったく意地悪な奴だ。

 「で、なんで運動会のゲームになってるんだ?」
 怒ってもいないのに、許す口実を作るのは結構手間だった。
とはいっても、今日は本当に久しぶりに彩香とレースゲーム
ビデオゲーム)をやりたかったのだが……。
 「ふふ、いいじゃん? こっちの方が面白そうだし」
 「そうやそうや! やっぱこれやろ!」
 僕は画面から目を離すと、いつの間にかやってきていた柊
と、柊を誘った爽香の顔を交互に見た。
 そのとき、なんともあっさりとした音が僕の耳を小突いた。
 「あぁっ!? ひっでぇ! 彩香、おれにハンマー投げた
ろ!?」
 「あぁ、投げてやった。仕方ないだろ? 勝たないといけ
ないのだ。許せ」
 「アハハハハ! 兄さん水に沈んでるぅ~」
 「ちっくしょぉ~やりやがったな?」
 「形無やなぁ、自分?」
 「るせーよ、見てろ。次の面で……」
 僕がそう言って、次の面になる前にコントローラーの右の
矢印キーを連打していると、彩香が妙に落ち着いた声で僕に
話しかけてきた。
 「……愁」
 「……ん? なんだ?」
 「おまえ、私にハンマー投げる気か?」
 「え……?」
 ――卑怯だ、彩香。そんな目で見ないでくれ。
 「投げるんだ?」
 「おい、爽香」
 「ハァ……かっこわる」
 「ちょい待て! おまえら、おれに勝たせねぇ気か!?」
 「ぷっあはははは!」
 「あかん、おまえ、絶対女に騙されるタイプや」
 「なに言っちゃってんのよ? もぉ、騙されてるし」
 「爽香!?」
 「ふふ。画面見てないと、鬼さんにまたハンマー投げられ
ちゃうよ?」
 「誰が、鬼だ」
 彩香はそうは言っても、次の面が始まると、猛ダッシュで
木刀を拾ってジャンプすると、振り向きざまに僕のキャラク
ターに向かって木刀を投げつけた。
 「いでっ!? ちょっと、待て! 彩香!? 待ってくだ
さい!」
 結局、僕は誰にも、どの種目にも勝てなかった。

 外はもう真っ暗だった。彩香のお母さんに連絡を入れて、
彼女を送り届けると、柊もそこから帰ってしまった。
 それもそうだが、帰り道は僕と爽香のふたりきりになった。
今日は車ではなくて、徒歩だった。
 「爽香、もうおまえ今日みたいなことやめろよ?」
 「あい……反省してまぁーす」
 「おまえなぁ」
 「ふふ、冗談よ? ごめんね? でも、羨ましい……私が
クローゼットに入りたかったし」
 「入ってもいいことないだろ?」
 「さぁ~ね、どうかしら? でも、兄さんの本音が聞けた
かも」
 僕はその言葉に足を止めてしまった。数歩先まで行って、
爽香はそんな僕を振り返った。
 「何度も言わせないでね? そのままでいてよ? 気を使
われると、逆に疲れちゃうもの」
 僕はなんとも言えなかった。
 「花火もそう。もぉ……あんまりしつこいと噛み付くよ?
ガオォ~」
 爽香のその幼い真似事に僕はすっかりと笑ってしまった。
 「あぁ、わかったよ」
 いつも通りだ。
 「うん、でも、だからっていつまでも認めてあげないけど
ね?」
 爽香の棘のある笑顔が、それでも僕を優しく包み込んでく
れていた。



(32)宮沢賢治(1990)『注文の多い料理店』
    新潮社

(33)イタリアの自転車ブランド。
    
(34)イタリアのオートバイメーカー、ドゥカティのこと。

(35)『千夜一夜物語』内の「アリババと40人の盗賊」
    に登場する呪文。

(36)『千夜一夜物語』内に登場する人物。

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