1年が、僕たちに何をくれるのだろうか。

2019年、1月。
僕は何を考え、どう過ごし、次年度をどう考えていたのだろう。

2020年、1月。
僕は何を考え、どう過ごし、次年度をどう考えているのだろう。

年が変わると僕たちは何をもらえるのだろうか。
確実に変わる言い切れるのは暦上の数字が一つ、増加することだ。

たった1つの数字の増加がもたらす影響は人によって大きく異なり、
職場や、家庭などの環境から、趣味や、思考などの個々人の価値観に近い概念まで、その影響は計り知れない。


ー・・・自分は、いったい自分にはどのような変化があったのだろうか。

変化の大きさは、浜辺の石のように個々によって様々だ。
大きさによっては邪魔にもなるし、とてつもなく好都合になるものもある。
だからこそ、その大きさを自分で把握しておくことに意味があるのではないだろうか。


......なんて、途方もないことを考えながら、
自分の2019年について、少し振り返ってみようと思っている。


凍てつくような寒さのあの日、僕は何をして、何を感じていたのか。

ー・・・帰りたくない。

2019年1月4日。
新幹線を待つプラットホームで、凍えるような寒さの中考えていたことだ。

このまま、ぬくぬくと地元に戻れていたら、どんな気が楽だろう。
何かに追われることもなく、
何かを追うこともなく、
得体の知れない何かに常に「頑張れ」と脅迫されながら
嫌々前に進むことはもうしなくてもいい。

そんな想いは、眼前に訪れた新幹線に無残にも引き剥がされ、
僕は”東京”という土地に戻ることになった。

ー・・・何も、失うものなどない。強いて言えば、命くらいしか僕は持っていない。

2019年1月以降、
森という一人の人間を支えた考えだ。
何かを失うと思うから進むのが怖いのだ。辛いのだ。そう考えた時、自分自身が失うものを持っているのかを考えた。

ボロボロになった経歴も、
ズタズタのプライドも、
成長したいという欲望も、
一緒にいたいという仲間も。
捨てきれない想いも最後に引き剥がされ、もう僕という人間は何も持っていなかった。

ならば。
今ないものを、少なくとも創ろうとした自分でいたかった僕は、
引き剥がされた想いを取りに帰るより、自分の決めたこの先を進むことを決めた。


凍てつくような寒い日になるであろう日に、僕は何をして、何を感じるのだろうか。

ー・・・帰らねばならない。

2020年1月4日。
新幹線を待つプラットホームで、凍えるような寒さの中考えているであろうことだ。

このままここに残っても、得られるものは心の安らぎだけだ。
安らぐ、帰る場所は大事ではある。
しかし僕にはやるべきことが山のようにある。

1年だけ、関わった「就職活動」という現場も
1年だけ、続けることができた会社も
1年だけ、住んでみた東京という土地も
何もかも、僕はまだ中途半端なのだ。

ー・・・自分の言葉に責任を持とう。でなければ何もない空虚な存在になってしまうから。

今、僕は明確に「これを持っている人間だ。」とは言い切れない。
しかし、放った言葉をそのままにしておくわけにはいかない。

「何もない」自分が「何かを創ろうとしている」自分になろうと選択し、進んできた道を自分自身で否定し、切り捨てるわけにはいかない。

切り捨てた先にいるのは、
もう自分だけではないのだ。


”1年"という期間が、僕にくれた贈り物

きっとそれは、
“1人ではなくなった”
ということなのだろう。

これは別に、
「仲間ができた」とか「信頼できる人ができた」ではなく

僕自身が、
「責任を取りたい人間ができた」

というのが正確だろう。

それは、僕自身の「去年、何かを創ろうとしている自分でいたいとわがままで東京に戻ってきた、そのケツくらいは自分で拭かせてくれ」という、僕自身のプライドなのかもしれない。

こう思うと、2018年に失い、2019年にできたものでもあり、
“1年"という期間が僕にくれた贈り物は、
「自分が自分でいるためのプライド」
なのかもしれない。





2021年、1月。
僕は何をして、何を考えているのだろう。
僕自身が、僕であるために。
次の"1年"からもらえる贈り物はなんだろう。

いや、
何をして、何を考えていたいだろうか。
贈り物ではなく、
宝物として、僕が自身の力でもぎ取るものは何がいいだろうか。

そんなことを考えながら、2019年が終わるまでの束の間のひと時を過ごしていきたい。

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