見出し画像

歯医者さんに初めて名前を呼ばれた日

私は歯磨きが嫌いな子どもだった。

おそらく、幼い頃に親に体や顔を押さえつけられ
口の中にガシガシと無遠慮に動かされる歯ブラシが嫌いだったのだと思う。

体や髪を洗うことは好きなくせに
歯を磨くことはやけに拒否的だった。

 
自分で歯を磨けるようになってからも
好んで歯磨きをしていたわけではなく、義務感は強かったし、おざなりだった。
更に、私は甘い物が大好きだった。

歯磨きが苦手で甘い物が大好きな私が
虫歯から逃れられるはずはない。

 
小学校の歯科検診で、私はアッサリと虫歯を言い渡された。
当然の結果である。

 
私は大人の指示に従い、歯医者に行くことになった。

初めて行った日が何歳だったかは覚えていないが
記憶にあるのは小学校低学年の頃からだ。

 
母親に連れられていったA歯科は家から近く、徒歩でも行ける距離にあった。
初めて行った日は、母親の車に乗って行った。

もともと母親も歯が弱い方で
母はそこのA歯科に通っていた。
その関係で私もそこに行くことになった。

 
A歯科は親子でやっていた。
二人とも優しい笑顔が素敵だった。
年配の方は中肉中背の褐色の方で、若い方は肌が白く、背が高くてスラッとしていた。

そんな二人が私を快く出迎えてくれたのを、ボンヤリと覚えている。

A歯科は父親が医院長、息子さんが歯科医として働いていた。
医療事務の方は家族ではなく、事務員として雇った方だったらしかった。

 
A歯医にはたくさんの絵本やオモチャがあり
私は夢中になって遊んだ。
テンションは一気に上がった。
待ち時間はちっとも退屈ではなく、むしろ名前を呼ばれるのはもっと遅くてもいいとさえ思った。

 
治療は辛くなかった。
歯医者さんの指示通りに椅子に寝転がり、口をゆすいだり、口を開ければいい。
身を委ねればいい。
そして治療後は30分飲食を控えればいいだけだ。

 
学校で歯科検診があった小中学生時代
私は毎年のように虫歯で引っ掛かり
毎年のようにA歯科に行った。

A歯科の医院長(父親)は私が小学生時代に急死し
息子さんが医院長として跡を継いだ。

 
だから、私はあまり医院長(父親)の記憶がない。
小さい時に数えるほどしか会っていないし
私の歯の治療は基本、息子さんがしてくれたからだ。

 
 
私の家の近所には、「病院ストリート」と家族で命名した通りがある。

その通りには、ありとあらゆる病院(クリニック)があった。
大きな病院があるだけでなく、皮膚科や内科、眼科、整形外科……etc.と、様々な種類の病院がひしめきあっていた。
しかも、皮膚科や内科、整形外科に至っては数百m隣に別の病院もあるので
対応が気に入らなかったら別病院に行けばいいし
自分の好きな病院を好きなように選びやすかった。

 
その通りから一本離れて平行に走る道が、「歯医者ストリート」である。
A歯科から数百m離れた場所に、歯医者は他に三箇所もあった。
よりどりみどりである。

 
その病院ストリートや歯医者ストリート以外にも、病院や歯医者は近くにあるから
私の近所は病院に非常に恵まれている。
予約が取りやすいのが利点であった。

 
 
それでも私は、基本的にはA歯科で長年歯を診てもらった。

A歯科が休診日の時だけ、A歯科から数百m離れたB歯科で治療してもらった。

 
やがて高校生になり、遠くの高校に通っても
大学生になり、他県の大学に通っても
社会人になり、遠くの職場に通っても

私はA歯科にお世話になっていた。

 
高校や大学や職場の近くに歯医者があっても
浮気はしなかったのである。

 
 
A歯科はやがて、事務員の方が辞めて
Aさんが医院長 兼 受付会計事務を担っていた。
小さいクリニックだし、完全予約制だ。
Aさん一人でも十分に回せた。

 
A歯科は平日20時までやっていた上に、土曜日は18時までやっていた。
社会人として働き出した私は、非常に重宝した。
帰宅は大抵19時以降だし、土曜日も勤務が多かったからだ。

 
私は歯の詰め物がとれた際、仕事の合間によくA歯科に電話をした。

A「はい、A歯科医院です。」

 
私「すみません、予約入れたいんですけど…」

 
A「何日何時がよろしいでしょうか?」

 
私「今日19:30は空いていますか?」

 
A「空いていますよ。お待ちしておりますね。」

 
 
予約電話は三分もかからない。
予約はほとんど当日にできた。
私はこれが当たり前だった為、周りから歯医者予約がなかなか取れない話を聞くたびに驚いた。
仮にA歯科で予約がとれなくても、B歯科で当日予約がとれることが
私にとっては当たり前だったからだ。
いや、正確に言うと、B歯科は予約の必要さえない。
いきなり通院しても、何も問題なく、テキパキと治療してもらえる。

 
 
Aさんは、予約電話の際、私に名前を尋ねることはない。
通常、病院や美容室等に予約する際、名前や会員ナンバーを必ず確認されるが
A歯科では全く尋ねられなかった。

 
確かに私は毎年歯医者にお世話になっている常連だが
毎月ではないし
例え声で分かる間柄にしても
名前を尋ねることが筋だと思う。

 
だけど、A歯科は名前を尋ねなかった。  
そして私もそれを不快には思わなかった。

 
もはや私とAさんは阿吽の呼吸の、家族や親戚に関係は近かった。

Aさんはいつも穏やかな表情だった。
診察室にはラジオが流れ
窓からは青々とした木々が見えて、日当たりがよかった。
事務的な、最低限の会話しかお互いにしない。
でも気まずくはなかった。
空気のような間柄だった。

これはもはや、家族感覚だとよく思った。

 
 
私はずっとA歯科で穏やかな時間を過ごしつつ
A歯科で治療を受けられない時のみB歯科に行き
B歯科で熱帯魚を見て過ごした。
癒やされた。

私は歯医者が好きだった。
A歯科もB歯科の雰囲気も好きだった。
歯医者を変えるつもりはなかった。

 
 
大人になるにつれ、歯の大切さを痛感した私は
段々と歯磨きを見直したり、歯を大切にするように変わっていった。

甘い物を食べたらすぐに磨くだけでなく
糸ようじとかモンダミンとか
付属品にも手を出すようになっていった。

 
 
そんな中、小さな事件が起きた。
今から数年前のことである。

私は歯の詰め物がとれ、いつも通りにA歯科に行き、治療してもらった。
だが、次の日に詰め物はまたとれてしまった。
仕方ないので次の日にまたA歯科に行ったが
またすぐにとれてしまった。

 
A歯科は数年前から、平日は19時までの診察になり
年々平日や土曜日の休診日が増えてしまった。

私は残業を調整して歯医者に行っていたので
連日歯医者に行き、すぐに詰め物がとれてしまい、非常に困った。

土曜日の診察時間も短縮になり
私は土曜日勤務の後にA歯科に間に合わなくなってしまった。

 
今まで、Aさんを全面的に信頼していたのに
私はこの時初めて不信感を抱いた。
B歯科に行ってもいいが
B歯科は平日18:30でしまってしまう為
やはり残業がネックになった。

 
そんな時、母親が提案した。

「C歯科に行ってみたら?」

 
C歯科は、病院ストリートに新たに参入したばかりの歯医者で、お洒落な外観をしていた。
土日も毎週診察可ということがウリだった。

 
おそらくだが、A歯科が時短になったり、休診日が増えたのは
C歯科の存在が大きいと思う。
C歯科は駐車場も広々としていた。

 
「日曜日診察可はありがたいな。Aさんは最近時短だし、平日や土曜日休診日も増えちゃったしね…早速行ってみるか。」

 
私は母親にそう言い、C歯科に行ってみた。
その日は日曜日で、駐車場は満車に近いほど賑わっていた。

 
美人な方が受付をし、やがて名前を呼ばれて通されると、診察室は広々としていて、たくさんの歯科医がいた。
各診察スペースにはテレビがついていたし
私は初診のため、レントゲンを撮らされた。
初診時は、全員レントゲンを撮るという。

 
昔ながらのA歯科とは比べものにならないくらい
お洒落で今風だった。
待合室や診察室からも洗練された空気を感じたし
最新設備のようにも感じた。

歯科医は皆、若かった。

 
A歯科ではなく、C歯科に行ったことに罪悪感を多少感じつつも
詰め物を無事つけてもらい、私は心晴れやかにC歯科医を後にした。
日曜日診察はありがたいし、このままC歯科に通おうかな、とさえ思っていた。

だが、僅か半日後にとれた。

私は怒りが沸いた。

 
 
もう一度予約を取り直し、再びC歯科に行った。 

前回と違う先生で
私は受付時と初回時に話したことを再び話す羽目になり
連携が取れていないと感じた。

 
まぁ詰め物が上手くいけばいいんだ、上手くいけば。

 
だが、やはりというかなんというか
二時間後にまたも外れてしまった。

 
 
私は疲れた。
そして気づいた。

A歯科の腕の問題ではなく、部位として難しい技術なのだろう、と。

今風でお洒落で最新技術の塊のC歯科の方が、詰め物が外れる時間が短かった。
経緯を話しても適当だし、数時間後に外れても返金はないし、行くたびに診察理由を紙に書かされて、違う歯医者に説明することに嫌気がさした。

 
やっぱり、A歯科にもう一度診てもらおうか。
だが……。

 
私は迷った。
裏切った感が強かった。

20年以上家族ぐるみでお世話になっていたのに
Aさんに不信感を抱き
私はC歯科に行ってしまった。
それでまたダメでA歯科に行くなんて
虫がよすぎると思った。

 
私は完全に、浮気をした気分だった。

安定感のある、一緒にいて落ち着いた関係の彼のちょっとした行動が不満で
見た目イケメンで金持ちな男性と遊びに行ったような気分だった。

だから、後ろめたかった。

 
患者は自由に病院を選んでいいし
A歯科で二回失敗したから別歯医者に行ったし
それは自分でも悪くないとは思っているが
罪悪感はひどかった。

 
「大丈夫よ。Aさんは責めないわよ。もう一度事情話して行ってみたら?
気まずかったり、また上手くいかなかったら、B歯科か別歯医者に行けばいいじゃない。」

 
私は母親にそう言われて、再びA歯科に予約をした。

通い慣れたA歯科なのに、後ろめたくて申し訳なくて
足取りは非常に重かった。
だが、歯の治療が終わらないと、何も始まらない。

  
 
私は診察室で横になった。

Aさんはいつもと変わらない表情と様子で「今日はどうされました?」と尋ねた。
それが辛くて、申し訳なかった。

 
私は正直に話した。

Aさんの二回目の診察後、歯の詰め物が数日でとれてしまい
別歯医者に行ったこと。
そちらでも二回取り組んでもらったが、そちらは二回とも別歯医者が担当し、どちらも僅か数時間でとれたこと。

一向に例の詰め物が、ピタッと安定しないこと。

 
話しながら暗い気持ちになった。
長年付き合った彼氏に、「浮気をしたけど浮気相手が最低だった。ごめんなさい。」と言っていた気分だった。

Aさんの反応が心底怖かったが
予想外の反応をAさんは示した。

 
「そうだったんですね…ちゃんと治してあげられなくて、ごめんなさい。毎日歯の違和感が気になって辛かったでしょ?私のせいです。

ともかちゃんは小さい頃からずっとうちに通ってくれていたのに、すぐに治してあげられなくてごめんね。」 

 
……………。

 
ともかちゃん…………………?

 
 
私は驚いた。

予約の時にいつも名前を尋ねられなかった。
診察時も会計時も名前を呼ばれることはなかった。
完全予約制だし、マンツーマン対応だったから
お互いに名前を呼ぶ必要はなかった。

そんな状態が20年以上続いていたのに
Aさんは私を下の名前で初めて呼んだ……。

 
 
私はその時もう30歳以上であったけど
「ともかちゃん」と呼ばれた瞬間
幼き頃、初めてA歯科に行った日に戻った感覚になった。

私は三つ編みをしていて、大人しくて内向的で
明るく社交的な母親の後ろに隠れて
ウジウジしていた。

 
AさんとAさんのお父様が

「ともかちゃん、随分大きくなったね。」とか「かわいいね。」とか言いながら
診察後、帰り際にフルーツキャンディをくれた。

  
 
そんな記憶が映像になり、私の頭の中を駆け巡った。

私は30歳以上だけど、Aさんの前では幼い女の子に成り下がった。

 
思いがけない優しさに涙が込み上げた。
今まで何十年も名前を呼ばなかったくせに
いきなりともかちゃん呼びするなんて反則だ。
このタイミングで呼ぶなんてずるい。
歯医者が患者の名前を下の名前ちゃん付けで呼ぶなんて
業務上よくないはずだ。

 
だけど、私は嬉しかった。
Aさんが呼んだ私の名前はあまりに尊くて優しくて
私は自分の名前や存在が大切なもののように思えた。

 
私が何歳になっても、Aさんの中では私は小さな女の子の姿が消えないのかもしれない。

 
 
次々に近所にクリニックがオープンした中
父親が急死し、若くして跡を継ぎ
Aさんは何を思っただろう。

事務員の方が辞めたから、Aさんは患者さんが来ないと、クリニックにたった一人ぼっちだ。
いや、恐らくだが、あまり経営状態が良くないのだろう。
だから事務員を雇わないし、時短になったし、休診日が年々増えた。
おそらく、近所の大学病院の口腔外科あたりで診察をしているのではないかと
私や家族は思っている。

 
 
時代は変わる。
人も変わる。
変わるものは止められない。

そんな中、20年以上こうして歯医者に通い続ける私は
Aさんにとって特別なのかもしれない。

私にとって、Aさんが特別なように。

 
「今日のお代はいりません。本当に申し訳ありませんでした。」

 
会計時、Aさんは本当に申し訳なさそうな顔をして、私に頭を下げた。
私はまたも涙が込み上げた。

Aさんとは長い付き合いだけど、こんなAさんの姿は初めて見た。

 
 
あれほど手こずった歯の詰め物は、その日ピッタリとはまり、もう外れることはなかった。

 
 
 
 
それから二ヵ月後、C歯科から電話があった。

 
「歯の調子はいかがでしょうか?予約はいつになさいますか?♪」

 
私はC歯科の予約をキャンセルし、A歯科に行っていた。
C歯科は私がそこを見限り、A歯科に行って治療済みなことを知らない。

 
二ヵ月後に…
忘れた頃に呑気に電話があるあたりが、ますます浮気相手っぽかった。
最新設備があろうが、日曜日診察をしていようが
私にとってはA歯科に劣る。

 
私「二回とも数時間で詰め物がとれてしまいましたので、他の歯医者に行きました。予約予定はありません。」

 
C「そうですか。分かりました(ガシャンッ)。」

 
 
私とC歯科のやり取りはそこで終わった。
最後の最後まで、本当に浮気相手にしか過ぎなかったと改めて感じた。

 
 
  
 
あれからまた月日は流れた。

相変わらず私はA歯科に通っている。
ただ、A歯科は現在週3回くらいしか診察をしていないので
時折B歯科にもお世話になっている。

 
後にも先にも名前を呼ばれたのはあの日だけで
私達はまるで何もなかったかのように
変わりのない穏やかな時間を過ごしている。

 
だけど、私はあの日を忘れることはないだろう。

名前を呼ばれた日、私の中でよりA歯科は特別な存在になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?