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追憶の咲子〜峰橋志夏〜

 水平線の向こう側には、見た事もない理不尽な世界があるんだよ。だから僕達はこの世界に生まれ育ったことにもっと感謝しなければならない。 
 父はいつも海の向こうのずっと遠くを見ながら決まってそう呟いた。僕はその度に想像した。海の向こう側に存在する漠然とした理不尽を。
 例えば。犬が嫌いだ、と言っていたはずの祖母が、俺のわがままで飼うことになった芝犬に誰も居ない隙に人知れずバナナを与えていた事を。そんな祖母を嫌っていた僕の母が、祖母の葬式で見せた涙を。
 そして、君を虐めた奴を、死んでしまえと呪いすらした、あの男を刺した時に自然と湧き出た罪悪感を。
 ねえ咲子。君は何故僕を一人残し消えてしまった?いや、僕の元を去ると決めたのは本当に君自身だったのか?わからない。僕にはわからないんだ。君が本当に咲子だったのか。
 君が君でなくなっていった背景には、やはり僕が起こしたあの事件も関係しているのか?僕がしたことは間違いだったのか?僕はただ、君を守りたい一心であの事件を企てたんだよ。そう、全ては君の為だけに、世界は回り続けていたんだ。それは君が消えた今も変わらずに。
 咲子。僕は幼い頃から君への深い愛情だけを道標に生きてきた。君の堪え難い苦しみや憎しみの果てに、僕が時間をかけて作り上げるであろう小さな希望がある事を信じて欲しかった。僕は君を苦しめたりはしないよ、決して。君の笑顔の為ならなんだってするし、いつだって側で君を守る事を誓うよ。けど君は何故僕の元を去る道を選んだ?
 いや、いいんだ。君が決めた事なら僕はそれを尊重する。けれど。それは本当に君が決めた事なのか?そうは思えないんだ。何故なら、僕等はあんなにも愛し合っていたではないか。僕は自分の人生を諦めてまで君を守ったし、君はそんな僕に常に寄り添ってくれたではないか。
 咲子、愛してるよ。今でもずっと、君だけを愛してる。どうか、追憶の世界から戻ってきてくれ。それが僕に残された唯一の生きる希望なんだ。

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