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わたしの写真との向き合い方

昔から、物語を形づくることが好きだった。

幼稚園の頃、わたしが砂場で砂を掘っていると、先生がやってきてそっと耳打ちをする。

「この砂をずーっと掘り続けて、硬い地盤も掘ってしまうと、アメリカという別の国につながっているのよ」

その日以来、ひたすら砂場を気の済むまで掘り続けた。卒園するまで必死に掘り続けても、まだ見ぬアメリカにたどりつくことはついに叶わなかった。

小学生の頃、学校まで片道30分くらいかけて歩いて通っていた。同じ学区内にいる子たちで指定された時間に集まって、リーダの役割を担っている上級生の後ろをくっついて、仲良く学校へ向かうのだ。それはさながら親ガモにくっついていく子ガモたちの様と似ている。

その時間、自分の頭の中で密かに勝手気ままに物語を描いていた。時々、思わずといった体で頭の中で空想していた登場人物のセリフをうっかり口にしてしまい、同級生から稀有な目で見られ、からかいの標的になってしまったことも多々ある。

母親がもともと本の虫だったこともあり、物心がついたときには家中本に溢れていた。とはいえ、分厚い本は小学生のわたしからしたら読むのにそれなりに時間がかかった。

その頃好きだったのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』『はてしない物語』、J・R・Rトールキンの『指輪物語』など。少し現実離れした空想の世界が好きだった。読むことがあまり早い方ではなかったので、1冊につき2〜3週間くらいかかっていた。何か嫌なことがあっても、物語の中に逃げ込むことでなんとなくなかったようなことにできたのだ。

そのころの夢は、宇宙飛行士。

ちょうど小学4年生の時に、しし座大流星群が何十年に一度の周期というタイミングでやってくることを聞いた。

心弾む気持ちで、母親と一緒に夜中3時くらいに起きた。そして、家のまえでブルーシートの上に横たわり、長い時間頭上の夜空の彼方を眺める。指折り流れる星を数えていたら、指が全然足りなくなるくらいに星が飛んだ。

その年の誕生日、父親に7万円ほどの双眼鏡を買ってもらった。当時のわたしの家庭の財政状況から考えても、かなり思い切った買い物だったことだろう。その双眼鏡で星を覗いたときの感動は今でも覚えている。

友人たちとキックベースやドッヂボールをするのも好きだったが、それと同じくらい図書館で本を借りて読み漁ることも好きだった。

星に夢中になっていた当時は、星座とギリシャ神話について色々調べていた気がする。わたしが住んでいる世界から遥か遠い場所で、こんな人間ドラマが起きていたのかと面白がって読んだ。(その当時は、ギリシャ神話は宇宙で実際に起きた出来事だと信じ込んでいた)

そうした思い出がわたしのバックボーンにあるので、今でも自分が知らない世界に飛び込むことは躊躇がない。常に、何か空想して物語を創り出すことができないかと考えている。その中で特にわたしの中のターニングポイントとなったのは、学生時代の最後の長期休暇の折に行ったイースター島。

その時ちょうど、カメラで本格的に写真を撮り始めようと思っていた時だった。絞りとかシャッタースピードとかもわからない状態。それでも、イースター島で撮影した写真を、我ながら自画自賛してしまった。長らく追い求めていた浪漫がここにギュッと詰まっている。そして壮大な物語がこの写真一枚に収まっているのだと。

こんなでかい顔の像、誰が作り始めようと思ったのか。昔の人は、自分たちが住む世界の他にも異なる人間がいると信じていた。そして、荒れ狂う天気は彼らのせいだと思っていた。なんとか荒ぶる天気を収めるために、異なる世界にいる人間たちに対して、自分たちの存在の大きさを誇示するためにモアイ像を作ったのではなかろうか。

ちなみにモアイ像自体は、イースター島にある山の岩から切り出し、横たえた状態で丸太で運び、そして各々の場所でてこの原理で立てかけたそうだ。ところが、運ぶ際にたくさんの木を切ってしまったおかげで資源が枯渇し、島の中で争いが起き最終的に人口が減ってしまった、という悲劇がある。

今から考えると赤面するくらい恥ずかしい思い出ではあるのだが、そもそもなぜモアイ像がイースター島に存在しているかというところから色々な妄想を膨らました記憶がある。そして、こんなふうにたくさんのことを想起できる写真の力を、密かに感じるようになったのである。

動画ではなく、その場の一瞬の時間を切り取って写真に収める。そこには本来持つべき時間や物語の次元を超えて意図せぬような物語を生み出す。一方で、人に物語を想起させるような写真の切り取り方はいまだに思い悩むところである。

写真の表現としては、光ももちろん重要だし、周囲の見え方だとか雰囲気、構図様々なことが関係してくる。そして、その写真から何を想像するかはその人次第である。写真を撮るという行為は、ある意味その瞬間を創り出す、という行為に似ているような気がする。

どうしたらその瞬間を作りだすことができるのだろう、と考えてしまう。

そんな時、小学生の頃の体験を思い出した。そういえば下級生は上級生の後をくっついて学校に通っていた。最初ひとりで学校にたどり着くことは難しいから、毎日毎日上級生の後について正規の道を覚える。そして時間が経てば、自分なりの近道を探すようになる。

無から何かを生み出すことはとても難しい。

よっぽど才能のある人でないとできないことだと思う。そして、大抵のことはもうすでに生み出され尽くしてしまっている。だからまずは自分が気になる人の写真を見て、それを真似ることから始めて、そこから自分なりの物語を語ることができるように研鑽を重ねれば良いという結論に至る。

そういえばわたしが最初に真似をした写真は、ウィリアム・エグルストンの写真集に載っていた自転車。この人はカラー写真をアートにした先駆者と言われているのだけど、なんの変哲もない自転車の写真を見て何だか言葉にしようのない衝撃を受けた覚えがある。

今自分が撮影した写真を見てみると、全く雰囲気とか構図が異なることが悲しいところではあるけれど。結局何かを生み出す上での最上の近道は、より良いものを見て、経験して、そしてそこで自分が何かしらの感情を持って取り込むことしかないのだと思う。

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