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三日月がこぼれ落ちて

 目の前に、うっすら輪郭の残っている三日月が視界の隅で揺れている。

 朝、カーテンを開けると少しずつ日が登ってきているのがわかった。寒さで体を縮こませながら、ベランダで今もなお図太く生きているトマトの葉を寝ぼけ眼で見つめる。てっきり夏の植物だと思っていたのに、逞しさに思わず葉っぱを撫でてあげたくなる。でも、確実にここ数日の寒さで、弱ってきているのがわかった。冬は、みんな深い眠りに入る時期だ。

 朝からどうにも下腹部が重くて、1日の長さを考えてほんの少し、ゾッとする。毎日ではないけれど、気持ちが塞ぎ込んでしまうことが、たまにある。

*

 つい数日前のことだが、その日は何もかもがタイミング最悪で、乗り換えのホームには溢れんばかりの人の波が押し寄せていた。線路内に人が立ち入ったからだと言う。アナウンスは、とても機械的なものだった。私はその言葉を聞いて、最悪の事態が思わず脳裏をよぎった。平穏な世界でありたいと願っているはずなのに、私の預かり知らないところで誰かの人生が逆方向に向いている、その事実に心が痛む。しばらくして車輪の音と共に、電車がホームに入ってくる。みな、視線は手元のスマートフォンに据え置かれている。

 なんてことはない、そう思っても胸の支えが取れない。今ミャンマーのクーデターは改善の兆しを見せているのだろうか。あれほど連日ニュースで続報が流れていたのに、当時ほどの報道の勢いは衰えている。ウクライナとロシアの間の戦争は、どのような結末をたどるのか。ただ私は値上がり続けるガソリンの値段を見て、その事態の深刻さをしかと、受け止めている。円安の影が忍び寄ってくる。

 近頃、仕事以外の日々をずっとひたすら勉強に時間を充てている。前からちょっと挑戦してみたいと思っていた資格勉強にようやく重い腰を上げたのである。だいたい試験勉強に費やす時間は1年弱くらいだそうで、それなりに難易度が高く、もともと集中力のすこぶる低い私は勉強をしている間も、インターネットの海をぷかぷかと漂い続けている。

 そしてあまりにも勉強に飽き飽きしてしまった私は突如として思い立ち、3月の釜山行きのチケットを予約し、コロナによってずっと延長されていたマイルをアフリカ行きのチケットを取ることによって消化する。

 アフリカ!!!

 これまで行きたいと願っていたのだが、残念ながら行くことのできなかった場所である。今から少し気持ちが弾んでいる。エチオピア、タンザニア、マダガスカル……。特にマダガスカルは、ずっと、ずっと行きたいと思っていた国の一つだった。未来を考えるだけで、ご飯が三杯食べられるよ。

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 一方で、日々の生活に少しその意味を見出せなくもなってきている。ほぼずっと家の中にいて、勉強をしているせいかクラクラと目眩を起こしそうになる。何かに没入することによって、それはつまり他のことを考えなくても良い、という免罪符になる。何か見たくない現実から目を逸らせる。小刻みに膝が震えている。

 基本的に、私は集中力に乏しい。これはおそらく多動症というか、一部にはADHDの気質があり、一つのことに集中できない。面と向かって誰かと話をしている時には流石にしないけれど、オンライン会議で誰かが話しているのを聞きながら、絶対に別のことをしてしまっている。ああだめだ、と思いながらも、いまだにその癖は抜けきれない。きっと、原始世界から連綿と続いている、ディープな遺伝子の構造に組み入れられてしまっているからだ。と、自分を納得させようとしている。

 割と定期的に会う人たちがいて、私はその人たちと会うことをいつもその直前までとても楽しみにしているはずなのに、別れた瞬間に一抹の寂しさとなんとも言いようのない疲労に襲われている。元来、もともと自分の殻に閉じこもるのが好きなタイプなのかもしれない。ことあるごとに、自分がどんな人間だったか思い出そうとしている。

 外では、細雪が降っていて、それはもちろん積もることなく、地上に落ちた瞬間しゃり、と溶けてしまった。音は聞こえないけれど、その儚さに対して胸を突かれたような錯覚に陥ってしまう。今年に入ってから、去年よりももっと文章を書きたい! という気概に溢れていたはずなのに、さまざまな濁流に飲み込まれてしまっていた。

*

 つい先日、ふとカーテンを開けた際にぼうっと広がった三日月はとても美しかった。

 決して完全ではない月であっても、大きな存在感を示していて、なんとなくその月は私が不完全であったとしても、この世界で息をしていて良いのだという道を、示してくれているような気がした。

「私は、とても不完全な人間なんです」

 どうやら、またここから始めなければならないらしい。空気がピリッとひりついている。先日家に帰った時にもらったパンの香ばしさが部屋の中に漂っている(浅草にあるペリカンパン。芳醇で奥行きのある香りに、それだけで幸せな気持ちになる)。寒くなってきたために中へ入れた植物たちは次第に葉を落として行く一方で、土からはポコポコと毎日のようにコバエが生まれて、複雑な気持ちになる。

 でも、生きている。息をしている。

 寝不足でうまく回転しない頭、感覚の鈍った指先、座りすぎて凝り固まった足首。時々靄のかかった感じで思考が止まってしまうけれど、何かほんの少しでもいいから楽しいことを思い浮かべて、今日も生きようと思った平凡なる朝。

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