「〇〇さんって、休みの日、何してるの?」
「〇〇さんって、休みの日、何してるの?」
仕事の休憩中などに、しばしば聞かれる。
おそらく、この1年間は、読書と映画鑑賞くらいしかしていない。
休みの日は毎回、毎回である。
毎回、家で本を読むか、映画をみるか。
それしかやりたくないのではない、それしかやることが見当たらない。
「その結果、何か得るものがあったか?」
1年間、これだけ同じことを休みの日に繰り返して。
何もない、特に何か得たものはないように思う。
読書も映画も、私にとっては「暇つぶし」だったのかもしれない。
残らない、ただ「消化」されるだけのものだったのかもしれない。
読んでそれで終わり。観てそれで終わり。
読書中、鑑賞中は楽しいが、その時だけ。
一時の夢中であり、覚めればそれで終わり、何も残らない。
それでいいのだろうか?
読書も映画も、そんなものなのだろうか?
20代のころ、少しでも人と違う何かが欲しくて、そのような欲求で、読書に励んでいた。読めば、何かが得られるんだと。人と違う何かが、例えば、それは感性であったり、知識であったり。
また、読書は自己との対話であり、自身を見つめる行為であり、「私を知る」ことに繋がるものだと思っていた。
たしかにそうかもしれない。そうだったかもしれない。
しかし、30代の後半にさしかかり、私はそういったものをあまり求めなくなった。読書も映画も、学びや成長ではなく、「娯楽」として捉えるようになった。
楽しんで終わり。以上。
そんな娯楽でいいんじゃないか。
この1年、休みの日は、毎回、読書と映画鑑賞くらいしかしていない。
それによって、得たものは特にない。
そんな私の休日を振り返ったとき、「はたしてこれでいいのだろうか」と思う時がある。
だが、私は、今はもう、読書にも映画にも、「何かを求める」ことをしない。何も求めない。
「楽しませてもらった」、それで充分である。
そんなものがあるだけで充分であり、それは優れているものだと思うのだ。
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