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不撓不屈〜完〜蹴球人生

・まえがき

2021年を最後に18年間の蹴球人生が終わった。

「サッカー」
たかがスポーツかもしれないが、辞めてから思う事はこれ程にまで熱くなれるものはないということ。
サッカーを通して、沢山の出会い、沢山の経験をした。辛い時間の方が多かったが、その分良いことが起きた時の喜びは大きかった。
決して誰かの見本になれるような蹴球人生ではない。選手として結果を何も残せなかった。
だが、出会った人に影響を与えられるような選手ではあったかもしれない。
何度壁にぶつかっても不撓不屈の精神を持ち、最後までブレずに目標に向かって突っ走り続けた。
まだまだ人生は長い。
僕にとっての「サッカー」は、人間構成する上の土台として最も必要な物だったのかもしれない。

1.Re:start

5歳の時に兄の影響でサッカーを始めた。ボールを蹴るのが大好きだったし、プロサッカー選手になるのが夢だった。
小学生の時に所属していたチームはレベルが高く、ミスがあれば厳しい言葉をかけ合うことが多かった。それが僕には凄く窮屈な環境で、次第に練習に行くのが憂鬱になる事が増えていき、自律神経失調症になってしまった。
それ以降、練習に行くのが怖くなり、人とコミュニケーションも上手く取れず、練習も学校も休みがちになっていった。

中学生の時はジュニアユースのチームに所属していたものの、サッカーも学校生活も全てが中途半端だった。
常に周りの目を気にし、失敗する事を恐れ、何かに一生懸命取り組む事が出来なかった。
「プロサッカー選手になりたい」という思いはあったものの、なかなか本気になれなかった。
そもそも本気がどういう物なのかが分からなかった。

高校進学については興味が全くなかった。
兄が大阪の強豪校でサッカーをしていたため何となく大阪の高校に行きたいと考えていたが、どこの高校が強い高校なのかなどは何も知らず、勉強もロクにしていなかったため本当に何となく高校選びをしていた。
そんな中見つけたのは大商学園高校。当時大阪ベスト8に残っていたこの高校を見つけ、とりあえずここで良いやという感じで進学を決めた。
この高校で出会った先生との出会いこそが僕の人生を大きく変えるキッカケになった。

この小学生、中学生時代の事は物凄く悔いが残っている。なぜもっと頑張らなかったのか。
後からそう思えるようになっても、時間は戻らない。
やって後悔は大したことないけれど、やらない後悔はずっと残るものなのだと思い知らされた。
それでも、これを後悔と思えるようになれて良かった。
この時の後悔があるから、
後の人生で同じような後悔をしないように生きよう。
と思えるようになった。

西宮SS時代
ジュニアユース最後の公式戦

2013年4月。大阪の大商学園高校に入学。

初日の練習参加で辞めようと思った。めちゃくちゃ走らされた。何よりめちゃくちゃ顧問の先生が怖い。
グラウンドもボコボコの土。
今までの環境とは何もかもが違った。
だが、初めて本気でぶつかってくれる人と出会う事が出来た。一つ一つの言葉が突き刺さった。
時間が経つにつれ、自分は変わらないといけないと思うようになり、大きな一歩を踏み出した。
僕にとっての大きな一歩は自主練だった。
自主練なんか1度もしたことがなかったけれど、1度朝早くに行って練習してみようと思い、7時起きを6時起きに変えた。それが5時になり、いつの間にか4時起きが普通になり、誰よりも早く、遅くグラウンドにいた。
サッカーを始めた頃のようにサッカーに夢中になっていた。
そして、プロサッカー選手になりたいと心の底から思うようになり、その為には変わらないといけない、もっと努力しないといけない。日常生活もきちんとしないといけない。
何をしなければいけないかが明確になった。
ここから僕は変わった。
目標に向かって努力をする大切さを学び、サッカー以外の事を沢山教えてもらった高校時代。
目標に向かって本気になることで普段の生活も変わり、行動し継続することでそれが習慣になる。

人は変わることが出来る。

その日以降ただひたすらに、不器用に夢に向かって突っ走り始めた。
まだこの時は本当に純粋だった。
明るい未来ばかりを想像していたが、この先にあるのは想像したことのなかったほどの苦痛な日々だった。

大商学園高校時代
高校最後の選手権予選

2.消えないアンビバレントな日々


2016年4月。岡山県のIPU環太平洋大学に入学。

プロサッカー選手になるためにはこの大学4年間をどう過ごすか。
大学に入学した当時から海外でプレーする事を目標にしていた。
希望に満ち溢れていたが、この目標を持ったことにより理想と現実に悩まされ、自問自答を繰り返す日々を送り続けることになる。

入学して最初の1ヶ月は調子がかなり良かった。トップチームではなかったが、自分はもっとやれる、もっと成長出来る。
そう意気込んでいた矢先だった。
右足の股関節にグロインペイン症候群という怪我を抱えた。
調子が良かっただけに休みたくない気持ちが強かった。だから休まずにプレーを続行したが、左足にもグロインペイン症候群を抱えるようになった。
休むべきなのは分かっていたし、周りにも止められていた。
それでもシーズン終了まで続けることを選んだが、この決断が今後のサッカー人生を大きく狂わせていった。

2016年10月。
試合中に相手との接触で股関節がグリって鳴ったのを今でも覚えている。痛みは増し続け、途中交代。
試合後担架で運ばれた。
当時はまだ自分の身に起こっている事を難しく考えておらず、そのうち復帰出来るだろうと思っていた。
診断を受けた結果、両方の恥骨疲労骨折、右側の鼠蹊ヘルニア、後の診察で両足の内転筋の筋断裂もしていた事が分かった。
1ヶ月後に鼠蹊ヘルニアの手術を受けたものの、なかなか股関節の痛みは消えず、4月の復帰を目指していた。
そんな最中に人生で一度も想像した事もない出来事が起こった。

2017年4月。
医師から伝えられたのは、
もうサッカーを辞めた方が良い」という言葉だった。
伝えられた瞬間はまだ理解出来ていなかった。
だが、診察室を出て状況を理解した瞬間涙が止まらなかった。
病院の外でずっと泣き、帰りの電車の中で泣き、アパートでずっと泣いた。風呂場でもう死んでもいいやと思った。
ずっと中途半端に生きてた過去の自分を悔やんだ。
「もう今までのように全力でサッカーが出来ない」
1日中頭の中にそれが残り続け、次の日も変わらなかった。当時の僕にとってどれだけ辛い事だったのかは言葉では表現できない。
だが、僕にはまだ諦める事が出来なかった。
インターネットで病院を探し尽くし、埼玉県へ向かった。
診察を受け、復帰出来る可能性がある事を伝えてもらった。
諦めずにリハビリを続ける事を選び、ここから長く不確かなリハビリ生活が始まった。
状態は良くなったり、悪くなったりを繰り返し、なかなか復帰の目処が立たず、1年以上プレー出来ていない状況が続いたまま大学3年生を迎えようとしていた。

2018年3月。
北海道の病院で両足の股関節の手術を受けた。
手術の前に
「これが最後のチャンスと思った方が良い。」
医師の方にそう伝えられたが、もう腹は括っていた。
必ず復帰する。自分が復帰して選手として活躍すれば、誰かに勇気や希望を与えられる。」
自分ならまだまだそれが出来ると信じていた。

そして手術から4ヶ月後の2018年7月。
およそ19ヶ月ぶりに実戦復帰を果たした。
復帰出来ると確信を持てたのは、リハビリを始めてから16ヶ月を過ぎた時だった。
それまでは常に復帰出来るか分からない中でのリハビリ。
リハビリ中も、アパートに戻っても1人で泣いた。
ご飯も食べる事が出来ず痩せて、吐き気に襲われた時もあった。人と話したくない時もあった。
もう無理だと思う時も何度もあった。
そんな中でも沢山の人達に助けられた。
応援してくれる人達がいたから復帰出来た。
1人では絶対に乗り越えられなかった。
今でも関わってくれた人達には感謝しかない。
復帰後2試合目でゴールを決め、そこから調子を上げ、結果を残し続けることに成功した。

「この調子なら…」
決して油断してはいなかったけれど、期待してしまった。
順調な日々に安堵していた頃に、再び股関節に痛みを感じるようになった。
治療をしながらプレーを続けたが、悪化する一方だった。ギリギリまで見計らいながらプレーを続けたが、限界が近づいていた。
結局僅か4ヶ月で再び元のリハビリ生活に戻ることになった。
その後は再び埼玉県の病院でリハビリを行い、新年と共に復帰を果たした。

2019年。大学サッカーも残り1年。
「ここから巻き返す。結果を残して、海外に行く。」
強い覚悟を持って新年を迎えた。
だが、気持ちとは裏腹に股関節の状態は不安定だった。復帰して休んでを繰り返し、挙げ句の果てには肉離れを繰り返してしまった。
それでも「海外でプレーする」という目標はブレなかった。

「今のままじゃ無理だ。復帰して離脱してをこれ以上は繰り返せない。」そんな気持ちをずっと抱え、
「海外でプレーするためにはもう大学サッカーを諦めるしかない」「大学サッカーをこんな形で終わりにしたくない」
この2つの相反する気持ちが頭の中をぐちゃぐちゃにしていた。
何のためにここまでやってきたのか。それを冷静に考えた時に、1つの選択肢しかなかった。

1年9ヶ月ぶりの復帰


3.苦難を乗り越えた先へ

2019年7月。
股関節の怪我の完治を目指すために大学サッカーを諦め、リハビリに専念する事を選んだ。
「全ては海外でプレーするために」

この年に新しく赴任した先生と共に0からのリハビリをスタートさせた。
この先生との出会いが僕の股関節を劇的に良くしていく。
これまで続けてきたリハビリを継続しながら、毎日地道なトレーニングと試行錯誤を繰り返し、諦めずにやるべき事をやり続け、
ついに10月に股関節の怪我が完治した。
大袈裟のように思われるかもしれないが、
本当に奇跡的な瞬間だった。
驚くことにこの日以降、股関節に痛みを感じる事は1度もなかった。

ここから3ヶ月後の渡航に向けて追い上げた。
実戦を重ねるだけではなく、フィジカル向上のために大学の陸上部の練習にも残りの期間参加させてもらった。
英語の勉強を先生の所に行って協力してもらった。
サッカー部のコーチには、何度休部を繰り返してもいつも気にかけてもらい、リハビリ中も声を掛けてもらっていた。どんなに長く離脱しても戻る場所を用意してくれていた。
沢山の先生方に、そして仲間に。医師、理学療法士の方々。家族に助けてもらった。
だからこの怪我を完治し、ベストな状態で念願の海外挑戦を迎える事が出来た。
大学サッカーは思うようにプレーが出来ずしんどい事ばかりだったけれど、この大学を選んで良かった。

一つ本当に伝えたいのは、怪我を抱えながらプレーする事は本当に何の意味もないし、美談にしてはいけない。
本当にこの怪我で痛感した。
もし本気でプロを目指している、先を見据えているスポーツをしている学生がこの記事を見ていたら、怪我を酷使してプレーを続けるのは避けてほしい。
僕はその時自分が選んだ事だから後悔はしていないけれど、同じ状況に戻ったら同じ選択はしない。

IPU環太平洋大学時代


2020年1月。
ついに始まる海外初挑戦。場所はフィンランド。
プロ契約を掴み取るために、当時フィンランド3部に所属していたPallo-Iirotの練習に参加した。

最初は時差や英語でのコミュニケーションなど、慣れないことだらけで難しい事も多かった。
けれどそれがとても刺激的で、自分がずっと求めてきた、イメージしてきた、目指してきた環境で本当に幸せな時間だった。
何よりこの素晴らしい環境で大好きなサッカーが出来ている事が幸せだった。
素晴らしい監督やチームメイトとも出会い、フィンランドという国も大好きになった。
監督はプレミアリーグの元選手だったり、国の代表選手がいたり、色んな国籍の選手がいた。
プロサッカー選手という職業はこんな感じなのかと、
絶対にプロになりたいと改めて強く思った。
実際に契約についての話もあり、自分はプロになれるという自信も得る事ができた。
しかし、コロナウイルスがヨーロッパでも広まり始め、チームもリーグも活動停止になり、ビザの関係で残念ながら3月半ばに中途半端な形で帰国した。
1ヶ月後にチームに戻る話になっていたが、結局戻る事は出来ず、
もう一度必ずフィンランドでプレーするという目標を掲げ日本でのトレーニングに励んだ。

練習後の風景inフィンランド
練習風景inフィンランド

4.Final decision

フィンランドから帰国してから4ヶ月後にマルタへ向かったが、コロナウイルスの影響で練習参加出来ず帰国した。
帰国後はF.C.GYATORUZUという兵庫県社会人リーグに所属しているチームに次の渡航までという形で所属させてもらった。
フィンランドでは順調にプレー出来ていたが、ここから再び怪我との闘いが始まった。

帰国後は肉離れ、右膝の内側側副靭帯損傷、両足首の靭帯損傷をした。再び復帰して、離脱してを繰り返す日々。
気づけば大学に入学してからのおよそ5年間、1年を通してどころか半年すらまともに続けてプレーが出来ていなかった。
何度怪我をしてもブレずに続けてきたけれど、
足首を痛めてから少しずつ心境と身体の変化を感じるようになっていき、目を背けていた現実に目を向ける事が増えながら生活するようになっていった。
怪我を重ねていくうちに身体の痛みを敏感に感じるようになり、激しい接触を避けるようになり、出来ていた事が出来ない、プレーの良い感覚を掴みきれない、体力や筋力は落ちて戻しての繰り返し。
当たり前と思っていたサッカーをするという事が当たり前ではない日々が積み重なり、少しずつサッカーをする事に楽しさを感じれなくなっていた。
そして、今までの環境で1年どころか半年すらまともに続けてプレー出来ていない自分が、この先目指している場所や目標に辿り着けるとは少しずつ思えなくなっていた。
このようなもどかしい気持ちを抱えこみながら、好きなサッカーをするようになっていた。

本当に苦しかった。


そして2021年8月。右足首の手術を受けた。
手術を終えた当初は年明けの海外挑戦を目指していたが、考えが今までとは違う方向へ少しずつ変わっていった。
手術から1ヶ月後。大きな決断をした。

「サッカー人生を終わりにしよう。」

自分でも驚くほど辞める事に対して迷いがなかった。
それまで辞めたいと思った事は何度もあったが、こんなにも辞める事に対して迷いがなかったのは初めてだった。
ただ、決断してからしばらくは誰にも伝えることが出来なかった。
どんなに身近な人に対しても、「サッカーを辞めることにした。」この一言がなかなか口に出せなかった。
口に出したら泣いてしまうから。
ちゃんと自分で整理出来るまでは誰にも伝えなかった。

一つだけ譲れなかったのは、このまま手術をして終わります。というような形には絶対にしたくなかった。
怪我に終わりにさせられるのではなく、自分の意思でサッカー人生を終わりにしたい。
だから必ずこの怪我から必ず復帰して、グラウンドにもう一度戻り、試合に復帰して終わりにすると決め、
サッカー人生最後のリハビリ生活が始まった。

手術から4ヶ月後の2021年12月。
およそ半年ぶりの復帰戦。そして現役ラストマッチ。
練習試合にも関わらず、応援に行くと言ってくれた人達が沢山いた。
急ピッチでリハビリを進めたため、コンディションは本調子とは程遠い状態だったが最後まで走り切る事が出来た。
試合直前まで本当に自分がサッカーを辞めるという実感がまだなかった。
今までと変わらず試合の準備をして、試合に臨んだ。
だが、最後の笛が少しずつ近づくにつれ、色々なことを思い出しながらプレーし、感情が乱れていたのを覚えている。
そして最後の笛が鳴った瞬間、
本当にこれで終わりなんだと実感した。

「終わった。」

そこに喜怒哀楽の感情はなく、ただ漠然としたままベンチへ戻った。
そして少し時間が経ち、泣いていた。
溜め込んでいた本当の感情をようやく出す事が出来た。

こうして18年間のサッカー人生に終わりを告げた。

現役最後の公式戦


5.感謝


ここまで諦めずに続けてこれたのは、プロになりたい、サッカーが好き、色々あるけれど、
「勇気や希望を与えられる選手になりたい」という思いが強かった。
埼玉県や北海道の病院に行った当時、同じ怪我を抱えている人が多くいる事を知り、何か出来ることがあるのではないかと考えるようになった。
埼玉県の病院でのリハビリを終えてから、帰りの新幹線でそれまで持ったことのない感情を持つようになった。
「勇気や希望を与えられるような選手になりたい」
怪我をした人にとって勇気をもらえる存在は怪我から復帰して頑張ってる人の姿。
なぜそう思うのか?
僕がそうだったから。

けれど、もうサッカー選手としてそれが出来るぐらいの選手になる事は出来ないと感じるようになった。
好きで始めたサッカーを嫌いになりたくなかった。
もう何年も思うようにプレーが出来ていなかった。
やれる事はやってきた。後悔もなかった。
だから終わりにする事に決めた。

小さい頃から身体が弱い僕が海外でもサッカーをして、ここまでやってこれたのは本当に色んな人達の助けがあったから。
サッカー選手として何か結果を残す事は最後まで出来なかった。ここまで続けてきた意味が何かあったのかなと考えたりもしたけれど、今はここまで続けてきて良かったと心の底から思う事が出来る。
なぜならサッカーを辞めると発信した際、沢山の人達からメッセージが届いた。僕のこれまでの姿が背中を押してもらえていたと言ってくれる人がいた、惜しんでくれる人がいた。最後の試合を観に行くと言ってくれる人がいた。
こんなちっぽけな自分でも誰かに影響を与える事が出来ていたんだなと気付かせてもらえた
嬉しかった。
「人に良い影響を与えられる存在」
そんな人間になりたいとずっと思っていた。
唯一の心残りは家族を含め、自分の挑戦を応援し続けてくれていた人達に最後まで良い報告が出来なかったことだ。

「人は必要な時に必要な人と出会う」
僕は人との出会いをこう捉えている。
僕は常に周りの人達に恵まれ、感謝している人が沢山いる。
様々な場所で新しい出会いがあり、その人達に助けてもらってきた。サッカーを辞めた今の環境でもそれは変わらない。
「あのタイミングでこの人と出会わなかったらどうなっていただろう?」
そう思うことが多々ある。
出会いに恵まれていただけなのかもしれないが、
この先の人生もきっとそんなことを感じさせられるような出会いが待っているような気がする。
だから人との出会い、繋がりをこれからも大切にしていく。

埼玉の病院でのリハビリを終えて書いた新しい目標


・あとがき

2022年5月。
僕は今、新しい人生を生きている。
スポーツジムでパーソナルトレーナーとして活動するために毎日勉強の日々。
ずっと続けている英語の勉強も継続している。
これまで全く勉強をしてこなかったし、勉強は大嫌いだった。
24歳になった今になって学ぶことの大切さに気づき、学ぶことを楽しいと感じるようになった。
まだまだ学ぶことが沢山あるが、コツコツ積み重ねる力はこの18年間の蹴球人生で培ってきた。
サッカーを辞めてもそれは変わらない。

きっと今後も沢山上手くいかない出来事が訪れるだろう。迷うこともあるだろうし、今とは違う道に進みたいと思うこともあるかもしれない。
一つ忘れないようにしたいのは、
「人生は選択の連続」ということ。
どの道を進むべきか。この先もそんな選択に迫られることがあるだろう。
これまでの経験で学んだことは、結局どの道を選んでも失敗や挫折があるということ。
だから失敗を恐れるのではなく、たとえ失敗してもその失敗から何かを学び、次に活かすことが大切だ。
この18年間の蹴球人生は選択の連続だった。
「ああしておけば良かった」「ああしなければ今頃どうなっていただろう」
そうやって悩むことも沢山あったけれど、そこから新しい発見や気づきがあり、次に活かしてきた。
人生はきっとその連続だ。

いつか自分のジムを作り、トレーニングだけではなく、英語も学べるようなサービスを提供したい。
中身はまだまだ空っぽだが、これが今の目標だ。
サッカーを辞めると決めた際、二つやりたいことがあった。
「パーソナルトレーナーになりたい」「英語を使った仕事をしたい」この二つが僕のやりたいことだった。
だったらこの二つを混ぜたら良いと思い、今の目標がある。
今の僕にはまだまだ難しい。実現出来てもその後どうなるか分からないが、
出来る出来ないよりも、目標や夢に向かって頑張ることがとても大事なんだとこれまでの経験で学んだ。
もしかしたら数年後には違う目標や夢があるかもしらない。今とは全然違うことをやりたいと思うかもしれない。
それで良いと思う。
誰かに良い影響を与えられるような、勇気や元気を与えられるような人間でありたい。
それはどの仕事をしようと変わらない。
焦らず、心に余裕を持ってコツコツ今の目標や夢に向かって頑張っていく。
新しい人生はまだ始まったばかり。
やりたいことが出来ることに感謝して、
これまでと変わらず不撓不屈の精神を持ち、
夢に向かって生きていく。

18年間の不撓不屈の蹴球人生。とても濃い人生だった。
最後にこれまでの経験を通して僕がどんな人間になっただろうか考えてみた。

「人の痛みを理解出来る人間」

きっとそんな人間になれた気がする。

おまけ

リハビリメニューのメモ
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大学時代のサッカーノート


今回の記事が最後のサッカーnote。
最後までお読みいただき有難うございました!

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