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ヘルメット事件

転校

自分は転校歴が3回ある。
1回目は小学3年から、2回目は小学6年から、3回目は中学3年から。
転校して全校集会のようなもので、体育館の前に立たされて紹介されるアレが嫌で仕方なかった。

経済的な負担

両親の関係を書き留めるとそれだけで、かなりの長文になりそうなのでここでは省略。
1回目は両親揃っていての転校だったが、それ以外は母親しかいなかった。
転校の度にお金はかかる。制服やカバンに教科書。県を跨げば全て揃えるに近い。

嫌だったこと

兄弟3人いたので、転校の度に3人分だ。
結構な金額のお金がかかっていたことだろう。
今のように補助や助成があるわけでもなく、母親一人で賄うには結構な負担…。
(親父は養育費もほとんど入れていなかったらしい。)
嫌だったことはいくつかあるけど、その中のひとつ。ヘルメットだ😅
2回目の転校で小学6年から大分県の生まれ故郷戻った。転校でお金がかかり、翌年の中学進学で更に…というところだったのだろう。
母親も必死だったのだと思うが、削れるものは削らなければという気持ちだったのだと思う。
自転車通学だったので、ヘルメットの着用が必須だった。しかし親戚が同じ中学に通っていたので、それを譲ってもらうことになった。
しかし、7、8歳違うのでデザインが違っている‼️

見られないように人目を避ける

当時の家庭環境を分かっていたので、当然嫌だとも買えとも言えず、我慢するしかなかった。
が、年頃の子供。やっぱり周りとの違いは気にする。登校する時は(本当はいけないが)、学校近くまで当然被らず、下校時は挨拶と共に逃げるように帰り、誰にも見られないように帰っていた。
登校時に先生に見つかることもあったが、「なんか違うヘルメットだな」なんて言われて更に凹んだ。
当然先生の中でそんな小さなことが共有されるわけもない(笑)

2年続く

これが2年続くが、もちろん帰りに友達と帰ったり、いつも通りにはいかないこどあった。
が、我が家を知っていた友達は何も言うことはなかったが、自分ではやっぱり気が気じゃない。
いろんな事から逃げているようで嫌だった。
なんとかしたいという気持ちも、母親を憎む気持ちも当時はまったくなかった。
ただ我慢するしかなかったのである。
今思うと、かなり自分を押し殺して生きていたんだと思う。
よく頑張ったなぁ😅😅

先を読み計算する

こういう環境で、あのように生きると先を読み計算するようになる。うまくいっているうちはいいが、大人になるとそうもいかなくなる。
もっと自然体に思うがままに…という言葉も聞くが、自分の気持ちを主体で考える経験がなかったので、なかなか難しいものがある。
仕事においては、リスクを回避したり、理論的に考えたりすることはとても得意になる。学生時代プログラミングで成果を出してたのはそのせいだろう。ただ、やりたいことをやる、良いものを取り入れる、なんていうある意味正解のない事は苦手になる。

お金があれば良かったのか

ここに行き着くが、そうは思ってない。母親も必死だったし、毎日脱出ゲームみたいなことをしていた当時は、いつもと違う道を通ったり、人のいない道を探し出したり、それなりに楽しんでいた。お金で買っていれば済んでいた事だろうが、それより嫌だと言えない関係性になっていた事に疑問を持つ。親に逆らえない、気持ちを伝えられない関係性はお金がないより酷い。
たくさんお金をかけて、習い事をたくさんさせられ、好きなものを買って与えられたら幸せになれたのか?きっとこんなもの好きじゃないとか、こんなことやりたくないとか思うと思う。
その時にその気持ちを言えない関係を作ってしまうのは辛い。

言いたいことは言えばいい

自分はたまに娘にクソとかバカとか言われる(笑)
でも言いたい事を言っているんだなと思って、放っておいている。もちろん度が過ぎればそのうち背負い投げもありえるが🤣
できる限りの範囲で物的な満足も、できる範囲で心の満足も満たしてあげればいい。一番大事なのは、子供の心や気持ちをいつも見ていることかなって思います。

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