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会社を嫌いになった時

少し真面目な話だ。
僕にも真面目に語りたい時はある。

今勤めている会社を明日、いや正確には0時をすぎたから今日で退職する。
実は2015年10月から勤めていたから、まるまる8年間在籍していたことになる。

8年間と言う時間は、人にとっては長く感じるだろうし短く感じることもあるだろう。
僕は短く感じた。なんなら、だるまさんがころんだ、10数えている間に振り向いたら全く風景が変わったと言う様な感覚だ。

僕は自分で言うのも変だが、愛社精神はかなり強く、それなりに貢献もしてきたと思う。

強くやりがいを感じられる仕事、やっていて楽しい仕事、そして何よりも自分がやってきた仕事へに対して一緒にやってきた仲間の存在と安心感が心地良かった。

だから、きっとあっという間の8年間に感じたのだろうし、退職日ギリギリの夜遅くまで残業しながら業務改善活動を進めている。

ただ、僕は会社を嫌いになった。

最初は一つの論文がきっかけだった。

その当時僕は大型基幹システムのリプレース案件を社内のSEメンバー4人のチームで対応していた。
そんな中、社員であれば論文課題を提出する事で、海外視察と海外の同業者と合同研修が受けられる権利が与えられるという通知があった。勿論タダではない。厳正なる審査の結果、論文が優秀であると認められた場合に限り、だ。

お題は未来の会社はどうなっているか?根拠と共に記載せよと言う様なものだったと思う。

僕は色々なことに想像を巡らせることが好きだ。
そして、愛社精神もあるから会社の将来とそれに対し自分のできることを表現する、という今回のお題はうってつけであり、僕こそやるべき案件だ、と勝手に息まき、絶対に取り組もうと決意した。

しかし、作成に思いの外時間がかかってしまった。
勿論、任意の課題であるから作成には通常業務とは別のプライベートの時間を削った。
おおよそ二週間みっちり使って完成し提出した。勿論、リプレース案件はこの話とは別に進んで行くものだから、単純に手間が増える。
でも、自分のやりたいことであるし、強い想いを持って取り組めていたと思う。

その甲斐あってか、結果、願いが届き優秀賞を得ることができた。
自己肯定感が低く、あまり自分が評価されることがなかった僕は驚きと共に興奮した。
強い思いを持って取り組んで勝ち得た海外研修だ、喜ばないはずがないだろう。

ところが、その評価が届くと同時に僕は上司に呼び出しを受けた。

「今回の海外研修の件だけど、行かせるつもりないから。お前は今の仕事の状況を分かっているのか。プロジェクトは佳境だ、担当者が抜けるなどあり得ない」

僕はチームで仕事をしていたつもりであった。何なら自分よりも経験のある3人だ。
その3人には、評価されれば海外研修がある事を説明し納得してもらい、なんなら逆に応援もしてくれていた。
頼りにされているのは勿論良いことである、ただ、僕は納得できなかった。
1人の担当者が海外研修に行くだけ、しかも3日間だ。インフルエンザの方がタチが悪いだろう。

だから僕は抗議した。
この件は、上司が介入する話ではなく、人事部と一社員の話であるということ。
既にプロジェクトメンバーの許可は得て業務調整しているということ。
自分は本気である、本気で勉強しに行きたい、ということ。


そしてその結果、周りの人達に同情された。
ただ、それだけだった。
海外研修の話は無くなり、僕の作品は無かったものとして取り扱うこととなった。

会社の評価なのか上司の評価なのかわからなかったが、僕の中で会社への信頼が揺らいだ。
何も今回の決定事項に至る「根拠」がないからだ。
せめて自分が感じた疑問には応答して欲しかった。

ただ、一方で、僕にも落ち度があると感じた部分はあった。
プロジェクトのスケジュールを鑑みるべきであったということだ。
そう言うことにして、無理矢理割り切りるこたで、自我を保ちまた仕事に邁進した。するしかなかった。

それから月日は流れ、僕はDX担当となっていた。
コロナ禍という事もあり、予算の執行は許されない厳しい環境の中、何かできることは…と、模索し、あがいた結果、一つの自作アプリが完成した。
このアプリが社内で大きく評価され、コスト削減活動案件の社長賞の社内最終選考にノミネートされた。
この中で優秀賞以上に選ばれれば、褒賞金がもらえるというものである。

この発表会には絶対の自信があった。
細かい話は省くが、何故なら会社へのコスト的貢献度と将来性を考えれば莫大な効果を生むことは明らかだった。
今回のお題に最適である。
そして、他の案件とは比較にならないほどの規模感、金額で言えば二桁違うことも、確信材料のひとつであった。

しかし、結論から言うと、何の賞にも当たらない、落選だ。

社長賞は正直全く覚えていない。
むしろ優秀賞や他のエントリーしていた案件概要すら何も覚えていない。
それ以上に僕の中では、何故落選したのか、確認をしたかった。

「これはエンジニアの賞じゃない、現場の人がどれだけ頑張って活動したかの賞だ」
「お前がそれだけのコスト効果を上げるのは当たり前だろう、それが仕事なんだから」

もらったのはこの言葉だけだった。

僕は会社がコスト削減活動に何を求めているのか分からなくなった。
いや、もはや僕には会社の未来が見えなくなってきてしまっていた。
今思い返せば、会社が信頼できなくなってきている前兆だったかもしれない。
それでもなお、一緒にいる仲間や周りの人たちのためにも、仕事でみんなの笑顔を作ろう、その結果、会社が良くなれば尚いいだろう、そう自分に言い聞かせる毎日が続いた。

そして。2022年。
僕は病気になった。


会社が目指すべき方向は「総合職」と呼ばれる人達が決めている。
一般職の僕はそこに抗うことはできなかった。
そこには見えないけれど、大きな壁があるからだ。

しかし、僕はそれでも諦めなかった。

様々な経験を経て、一般職から総合職に転換する試験を受験した。

この試験は会社人生で一度しか受験できず、試験を受けられる適正時期も決まっている。
そして何より、試験は5次まであり、合格率は0〜2%の狭き門だ。
自社の最難関の試験であると言える。

合格して会社の舵取りをし、目指すべき方向を自分でコントロールできれば、もっともっと良い会社にする自信があった。

そのためには総合職という肩書きは必要不可欠だった。

僕はあらゆる努力をした。
エントリーシートに始まり、仕事での実績作り。
試験問題対策、研究課題への取り組み。
グループディスカッション対策。
面接対策や社内制度・法律等の学習。
ある時は徹夜して作業する事もあった。

試験の結果、100名の中で僕は勝ち残った。
なりたかった総合職になることができたのだ。

これまでにない程の大きな達成感と、やる気に満ち溢れ、自分がどうにかなってしまいそうなほど、はしゃぎ喜んだ。

一度総合職になれば賃金も変わるし、戻りたくても一般職には戻ることはできない。それ程までに厳しい試験と制度だ。

そして、総合職は研修と題し、1年間は現場での仕事を体験する。

研修も他の新卒社員に混じってやるものだから、大卒エリートたちと比較すると記憶細胞に衰えを感じざるを得なかった。
他の人に負けられないと歯を食いしばりながら何とか食らいついていった。

そして勉強期間が終わると現場配属となった。

そこで僕は自分の身体の異変に気がついた。

常に吐き気と共に頭痛がする。
そして手足を動かす力が出ない。
寝たきりの状態。
食事が喉を通らない。

適応障害・抑うつ状態だった。
勿論なりたくてなったわけじゃない。
色々な原因は考えられたが、自分の身体のガタに気がつくのが遅かったこと、そして、先輩社員のパワハラじみた対応、業務不適合だった。

長期療養が必要、2ヶ月の入院を言い渡された。
この時の僕は絶望だった。
研修の時期を棒に振り、挙句、病院にいるだけで、仕事もできない、ただのお荷物になってしまう、そんな恐れがあったからだ。

しかし、僕もタダでは起き上がらないと決意していた。
この休みの期間を使って、現場で感じた課題に対し、有効な打ち手を考えていた。
もっと会社を成長させるための新規事業にも発想をめぐらせていた。


今、僕にできる、最大限のパフォーマンスで会社に貢献しようと尽力したのだ。

その強い信念の影響もあり、2ヶ月を待たず退院が決まった。
すぐに復職の段取りを組み、復職訓練を重ね最短で仕事に復帰した。
そして、頭で描いていた構想を形にすべく動き出すとともに、与えられた仕事も着実に確実に対応した。

しかし、復帰から2ヶ月後。
待っていたのは、総合職をクビにするという人事部の決定事項であった。

人事部はこの病気になったことを盾に、規定にも法にもない、試験合格を取り消しという決定を下した。
繰り返すが、一度総合職になれば元に戻ることがない、という制度だったにも関わらず、だ。

僕は頭が真っ白になった。

今までの全てこの会社に費やしてきた時間について「一体何だったのか」と考えてしまった。
その考えは終わることを知らないのか、忘れたのか、常に脳に焼きついて離れなかった。

そして、大の大人が、妻の目の前で大声で泣いた。
悔しくてたまらなかった。
いつもは何でも自己責任にする僕が、その時ばかりは不思議と自分に責任があると思えなかった。

今までにも、この他に沢山の納得いかないことはあった。
そして今後もきっとあるだろうと思っていた。
だからこそ、サラリーマンたるもの我慢が必要だ、理不尽な決定を下す事もきっとあるのだ、と考え無理矢理納得させ今まで必死に耐えてきた。

でも爆発した。してしまった。

何もかもどうでも良くなった。
どれだけのことを、
どれだけ積み重ねようと、
努力し続け自己研鑽しようと、
今の会社が評価してくれることはないのだ、と諦めてしまった。

僕が会社を嫌いになった時だ。

評価とは何か?
時々考えを巡らせる。

おそらく、答えは人の数ほどあるかもしれない。
僕にとって「評価」は愛社精神を保ち、健全に仕事を遂行する上で必須のもの、仕事を遂行する上でのエネルギー、原動力であると考えている。

これが無くなりぽっかりと心に穴が空いた。

きちっとした評価をしてくれなかったことに対しての怒りはない。
評価は人がするので当然ブレることもある。

しかし、

「何故その日、その決断を下したのか」
「その理由や根拠は一体何なのか」
「どうすれば元に戻せるのか」

この回答が会社から一切何もなかった。
ただ、何で、どうして、を知りたかっただけなのに。


最初は不信感という火種だけだったものが、いつのまにか嫌悪感に姿を変えていた。

そんな状態の中、妻が一言僕に言葉をかけた。

「あなたの元気に働ける環境が一番大事だよ、私は転職したっていいと思ってる、ダメなら一緒に働けばいいしさ」

この言葉にどれだけ救われただろうか。
僕は不器用な人間だ。
ぽっかりと空いた穴は何かがないと埋めることができなかった。
その役割を妻が担ってくれていた。

その言葉で僕は一歩踏み出すことを決意した。
会社をやめよう。

そう決意してからは早かった。

1ヶ月後には自分の第一志望の会社から内定をもらっていた。
転職活動中に現在の会社への未練はなかった。
僕が会社を嫌いになった時、僕は既にその会社から籍を外していたのかもしれない。

僕は明日(今日)会社を退職する。
勿論残念な1日であることに違いない。
8年間はあっという間だったが、得るものの大きかったかけがえのない期間だった。
そして何よりも、人には恵まれている僕である。
みんなとの別れは寂しい。

しかしそれ以上に、新たな道、その歩き出しを大切にしていきたい。

そして、今後後悔がない様な生き方を選択する。そのためには、技術と知識と世渡りだけじゃない、自分の信念を貫く強さと会社との距離感も改める必要があると感じている。

そう、今の会社の様に、会社を嫌いにならない様に僕も変わらなければならない。そんな時が来ている。気がする。

これは僕の明日からの生き方を示す決意表明。
今度は会社を嫌いにならないように。

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