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古文漢文の勉強は無駄なのか――税金/経済/政治とのトレードオフ。

最近、少し話題になっていたことについて。



■ “古文漢文の授業は無駄なのか?”

「古文漢文なんて無駄。一生使わない」
「数学の定理なんて、今までの人生で役に立ったことがない」


こういうのって、昔からあって。

そして、こういうことが言われると、

「いや、そんなことねぇから」と、反発する意見が出てくる。

反対意見の主なものとしては、以下。

「様々な学問がある中で、選択肢の一つとして提供されるべき」
「こういう知識が、我々の社会を支えていることを知るべき」
「役立ってないように見えて、思考プロセスの一つとして身についている」
「無駄かどうか、活かすも殺すも、本人次第」

――といったのが、主な反対意見。

確かにそうだよね、と思う。間違いない。

■ 個人的な私の意見


ここからは個人的な私の意見を述べますが。

まず大前提として、古文漢文は素晴らしい学問だと思う。

古文漢文の魅力にハマる人は、一定数いるだろう。

また、古い知識や歴史を知らなければ
「今がなぜこうなっているか」を理解できない。

だから、なくすべきではないし、あったほうがいい。

しかし、今回、私が思うのは、

中高時代の限られた勉強時間で、古文漢文を必須にすべきか?”

ということ。

私自身、中高時代、古文漢文を勉強した。

古文の単語を暗記したり、漢文の文法を学んだり。

そのために、どれだけの時間を費やしたか。

古文漢文の勉強に、けっこう時間をかけた記憶がある。

その時間の代わりに、経済や税金、政治などをもっと深堀して、
中高時代に勉強したかったとは思う。大人になった今。


恥ずかしながら、
私がちゃんと税金や経済について勉強し始めたのは、30歳を過ぎてから。
(本当にこれはすいません。私がアホなだけなのですが)

これでは明らかに遅い。

なぜなら選挙権は18歳からだし、
仕事をしているなら、すでに納税や経済にも十分に関わっているからだ。

だから、もっと早めに学んでおきたかったと思う。

古文も漢文も素晴らしい学問だと思う。

が、税金や経済の勉強を、中高生の頃にもっとできていたら、
今、どうなっていただろうか。

■ 中高時代、限られた時間、トレードオフ


私の中高時代は、政治経済が選択式科目で、必須ではなかった。

古文漢文のほうが重視されていた。

もちろん、すべてをまんべんなく学びたい。
若い頃の選択肢を狭めないためにも、古文漢文に触れておいて損はない。

けど、中高時代の勉強時間は有限である。

何かを優先するために、別の何かを捨てること。

つまり、ある程度はトレードオフなんじゃないか。

秀才なら、何でもかんでも勉強できるのだろうけど、
私みたいな凡人は、ある程度、必要な勉強を絞ってほしいと思う。

そこに、はたして古文漢文は入るのか?

古文漢文は、“絶対に必要なもの”として、
他よりも優先すべき、必須の勉強なのか。

「そんなん言ったら、すべての学問がそうでしょ!」

と言うかもしれないが、

たとえば、政治/経済/税金の勉強と比較したとき、
どちらが優先されるべきか――“限られた”中高時代の勉強時間において。

***

そりゃあ、「古文漢文、大切!」「数学の定理、意味ある!」、

そうやって言うのは、簡単だ。

そんなもん、当たり前だ。
これらの学問は素晴らしいし、意味があって存在し続けている。

しかし、これらの意見の中には、自分が勉強してきたものは間違っていないと、自己肯定したいがために、理由理屈を述べているものもある。


肯定しすぎるのはよくない。
疑ってかかることも必要だろうと思う。

いろんな意見を聞いたら、
「あ、今回noteに書いたことはやっぱ間違ってたな」と、あとから思うかもしれないけど、現在の気持ちを書いてみました。

ではまた。

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