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夜店と札束

  お盆の季節、祭り囃子が聞こえてくると、心がそわそわとして、落ち着かない気分になる。夏祭りにつきものの「夜店」の記憶が、脳裏に蘇ってくるからだ。

  夜店。子どものころの私にとって、それは、晴れ舞台だった。神社の参道に立ち並ぶ露店の熱気。たこ焼きやりんご飴、フランクフルトの芳しい匂い。射的やくじ引き、ヨーヨー釣り、ひよこ釣り。すべてが非日常だった。

  小学生だった私は、その日のために貯めた100円玉を握りしめ、店から店へと走り回った。お小遣いを使い果たしても、後悔はなかった。むしろ晴れがましい気持ちだったのだ。

  でも、ある時、夜店の様子は、いつもと違っていた。会場となっていた神社の路上に、なぜか千円札が何枚も散らばっていた。私は無邪気に、そのうちの1枚を拾おうとしたら、父から静かに、しかし有無を言わせぬ口調でとがめられた。「やめときなさい。拾ったら大変なことになる」

  千円札が散らばる場所のまわりは、まるで空白地帯のように、大人も子供も近づかなかった。だれかが、何かを釣り上げる餌のようにまいたのだろうか。子供心にも、それは異様な風景に映った。

  それ以来、夜店が少し怖くなった。 私が幼少時を過ごした地域は、有力な暴力団の本拠地だった。ふだんは閑静な住宅街だけど、ふとしたときに、暴力の影が姿をのぞかせるのだ。

  夜店と暴力団の深い関わりを知ったのは、もっと後のことだ。大人になると、夜店に心がときめくこともなくなった。そこに並ぶ「まがい物」の原価のことも知った。それでも、夜店の明かりが見え、祭り囃子が聞こえてくると、私の心は少年のころに引き戻されるのだ。ポケットにありったけの100円玉を詰めて、目を輝かせていた、あの夏に。

  

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