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BAND☆やろう是 第六章 調練

 八月三十一日に行われるイベントの内容を智さんから聞かされていた。

『場所、松山サロンキティー。1ステージの持ち時間三〇分。バンドの入りは午後十四時。会場は十七時で開演時間は十八時。』

 との事である。
 リハーサルは音出しついでに二曲だけという事で、智さん曰く非常に厳しいものらしい。とりあえず僕も釣られて渋い顔を作って相面してみたのだが、やはり今の僕には何が厳しいのかがさっぱり分からなかった。
 選曲はクレイズのコピーが二曲で、残り三曲は智さんが作ったオリジナルソングを演る事で決定した。
 クレイズの二曲はやはり皆が好きな『ネイキッド ブルー』と『リスキー』どちらとも激しく熱いナンバーである。
 オリジナルの三曲はというと、智さんは兄様が二人ほどいるらしく、その兄様に影響を受けてなのか、少し昔に流行ったビートロック調の曲が二曲で、もう一曲はミドルテンポのしっとりとしたポップバラードだった。三曲とも何故か名前が決まっていないらしく、曲名欄は空白のままで歌詞だけ印刷した用紙を渡されていた。
『これが俺達のオリジナル曲…。』
 そう心に思うと、渡された時の感動は忘れがたいものだった。家に帰ってからその日はずっと繰り返して聞き続けた。すっと心に入り込む曲でメロディは単調だが耳に残りやすい。単純にいい曲だなと僕は思った。
 とにかくスタジオの日までには全曲歌えなければ話にならない。ここまで来れば後には引けないと一人でぐっと拳を握り、歌詞を取った。
 僕の家は親が仕事を理由になかなか帰ってこない。よって僕一人しかいない時が多い。隣近所も離れている訳で騒音対策も完璧。自分だけしか存在しない我が家は最高の練習場所であった。僕は夜通し夢中に唄い続けた。自分の未来を掴み取る為に…。

 数日が過ぎ、スタジオによる練習日となった。
 その日は日曜日だったのだが、何故か夜明けの光と共に眼を開けた。緊張により眠れなかったと言ってしまった方が適切なのかもしれない。しかし頭の中はやけに冴えていた。
 リビングに行くと早朝なのにも拘らず家族の気配はない。多分昨日は帰ってこなかったのだろう。僕は特に何も思わずにコーヒーを注いだ。こんな朝は我が家にはそう珍しい事ではない。
 そういえばスタジオに入る度、メンバー達に「喉の具合はどうだ?」と聞かれたのをふと思い出し「あーっ。」と声を何気なく出してみたのだが調子が良いのか悪いのかやはり分からない。もしかするとこのしゃがれた声が夏風邪のせいか、はたまた歌いすぎなのかと心配しての事かと今思った。ご心配をお掛けしているならば大変申し訳ないのだが、悪いがこれは地声である。
 本日の練習時間は十四時から十六時。事前に智さんが予約を入れていたらしい。
 ふと時計を見ると針は午前五時を少し廻った所だった。起きている事がもはや意味不明だが、しかしながら眠れそうにもない。とりあえずコーヒーを口にしながらテレビをつけると一日の天気予報がやっていた。どうやら今日は極めて暑くなるらしい。
 時間も腐るほどあるという事で、復習を兼ねて歌おうかとも思ったのだが、皆が言う『喉のコンディション』を整える為に、とりあえず歌う事は止める事にした。しかし何もしないというのも落ち着かない訳で、歌詞を見ながら頭の中で歌っているイメージをする事にした。

 イメトレだけでも良い練習になるらしい。頭の中で歌って踊る自分の立ち様を想像しながら眼を閉じた。
 気がつくと時計の針は十一時に差し掛かるくらいになっていた。その間パジャマのままずっとリビングでイメトレをしていたという事になる。自分の集中力に半信半疑のまま残っていたコーヒーを口にすると、生水のように温い。それでようやく僕は現実へと引き戻された。
 室内はサウナの様に蒸し暑く、パジャマが汗でまみれている事に気がついた。先ほどから雷鳴の如く迸る腹の音も征さなくてならない。冷凍庫の中にある大量のストックから適当に選んで解凍し、心のままに貪った。後はシャワーでも浴び、スタジオに向かう身支度をしていたら頃合の時間になるだろう。
 しかし…暑い。否!熱い一日になりそうだ。

 時間より三十分余り早くスタジオへとたどり着いた。
 ゆっくりと鼻歌交じりで向かった割には意外と早く着いてしまったようだ。
 余った時間を潰す術も見出せなかった為、とりあえず受付の方に挨拶を済ませ、スタジオがある二階のベンチで来る時を待つ事にした。
 開始時間ぎりぎりにいつもスタジオへとたどり着いていた僕は、まだ誰も到着してはおるまいと足取り軽く階段を駆け上ると、そこにはステレオの前で楽譜を広げ真剣な面持ちでギターを手にしている大ちゃんと智さんの姿があった。
 二人は曲を巻き戻し、聴いてはギターを弾き、眼を合わしてはまた曲を巻き戻し聴くという、見ている側にはどこか不毛なやり取りを行っているように見えてしまうのだが、漂う空気がそうは語ってなかった為に敢えて声も掛けず静かにベンチへ腰を下ろした。
 ちらっとスタジオの中を見てみると、どうやら誰も入っていないらしくもちろん音も聞こえない。
 真面目に練習している二人の雰囲気にどこか背徳感を覚え、何気なく歌詞を手に取り読み返す振りをした。テスト期間中の時にもクラスメートにこんな感情は抱いた事はない。運命を共に生きる間柄だからこそ感じてしまう空気なのか…。
 聞こえてくる裸音(アンプを通していない楽器の音)はどうやらスタジオでの課題曲らしく、僕はそれに合わせてなんとなく口ずさんでいた。ようやくつかめてきたと感じた矢先に一階からなにやら騒がしい音が聞こえ、その先へと何気なく目線を向けた。
 何かは明確には分からないがどこか騒がしい様子である。微かに「ちわーっす」という声が聞こえてきてそれがイータダの到着だと瞬時に思った。
 トースもトースでオーバーな行動を起こす人物なのだが、醸し出す雰囲気がどこか陰湿なのである。それに引き換えイータダはいつも爽やかな雰囲気で騒ぎ立てていた。人でこうも感じ方が違うのかと改めて思い、少しだけ悟りを開けた様な感覚になった。
 そうこうしている内に、どたどたと足全体で階段を踏みしめながら駆け上がってくる音が近づいてきた。そして見えてきたのは何故か焦った表情をしたイータダの顔であった。
「よかった…。間に合った…。」
 項垂れて息を切らしながらそう呟くと、倒れるようにベンチへと誘われていった。苦しそうに持っていた清涼飲料水を一口飲んで、溜息交じりに大きく息を吐き、肩を激しく上下に揺らしていた。
 時計を見ても、開始までまだ二十分余りある。正直ここまで焦る理由が僕には理解できなかった。もしかすると智さんに何かしら弱みを握られているのではないかと直感したのだが、そんな事を聞いてしまうほど野暮な性格ではない。僕は項垂れ頭を抱えるイータダの横へ静かに座り肩に手を乗せた。
「よかったの!間に合ったんじゃわ。」
 彼はピクッと体を反応させて苦しそうな表情で僕の方を見た。そしてすっと親指だけを立てて無理に微笑んで見せた。その姿がまるで昔のドラマに出演していたトレンディ俳優を思わせ噴出しそうになった。しかし何より真剣な様子の彼の為に何とか高ぶる感情を抑えて僕は、力強く頷いて見せると、彼は満足した表情で眼を瞑った。
 そんなイータダを見ていると、やはり噴出しそうになってしまうので誤魔化し紛れで真面目な二人の方を見てみると、そんな僕達のやり取りをよそに、二人は相変わらずギターを寡黙に弾いていた。気づかない方が不自然な程騒がしい音を立てていたはず…。何故この二人は気がつかないのかが逆に不思議に思えてしまう。ただ気づいていないだけなのか。または知りたくないのか…。
 やはり深く考えないようにしようと思った。
 イータダの一連はさておきスタジオ開始まで残り10分足らず。今まさに気になっている事は未だトースの姿が見えていない事であった。
 今までは自分に起こる全ての事に精一杯で、周りの事など気にも留めている余裕はなかったのだが、今改めて思い返してみると毎度遅刻しているような気がしないでもない。しかもメンバー誰一人彼の遅刻を咎めていた場面を見た事がないのだった。
 イータダのこの焦り様よろしく。時間に厳しいリーダーでさえ黙認している訳なのである。思えば思うほど不可思議極まりない。
 未だ頭を抱えているイータダの横で、僕も頭を抱えて項垂れた。するとスタジオスタッフの「入り三分前でーす。」という言葉が聞こえてきて頭を上げた。すると真面目な二人は散らばらせていた機材などを片付け始め、智さんが今日始めて僕達の方向へ顔を向けた。

「おはよう。二人頭を抱えてどうしたんだい?」
「おはようございます。いや、別に何でもないです。はい…。」
「そう?ならいいんだけど。」

 そう言うと笑顔のまま、僕から目線を外し、手を動かしていた。
 忙しいそうな彼らの姿に躊躇してしまうのだが、気になっているだけでも仕方がない。僕は勇気を出して核心に迫った。
「智さん…。トースは毎回遅刻しよるみたいなんじゃけど事ないん?」
 その言葉に反応はなく、表情一つ変えずに黙々と作業をしていた。片づけが終わりスタジオへと入る寸前にこっちへ顔を向けた。
「え?トースかい?大丈夫だよ。それより中に入ろう!君はミキサーの設定をしなくちゃならないじゃないか。さ、早く。」
 そう言ってそそくさとスタジオに入っていった。
 ミキサーの準備…。そうだった!彼の冷静な一言に人の事を気にしている場合ではないと気がついて、急いでスタジオの中に入った。続いて他の二人もスタジオに入ってきたようで各自楽器の準備を始めた。

 各パートの担当が、自分の楽器のコンディションの維持やスタジオ内、その他諸々の楽器に関連する機材の設定をするのは当たり前の話で、ボーカルを担当している僕は、マイクの音をスピーカーから出す為の準備を行わなければならなかった。それに用いられるのがミキサーという機材で出力装置なるものらしい。ミキサーにマイクをコード(専門用語でシールドという)で繋ぎ、そのミキサーからスピーカーへと繋ぎ、音を出すという作業があるのだ。
 文章に書けば簡単な事なのだが、件のミキサーという物には中途半端に右や左へと回る摘みや、何かを差し込まなければならないらしい穴や、上げたり下げたりできる摘みの横には訳の分からない単位が書かれている。各種ボタンが腹立つくらい規律良く並べられている訳で、機械音痴の僕にしたら見るだけで思考停止してしまう程のものであった。
 以前もスタジオスタッフから講義をしこたま受けてはいたのだが、なれない場所での緊張のせいなのか、自分の頭が悪いのか、説明の内容がさっぱり理解できないでいたのだ。
 焦っている僕の姿を見て「慣れるまでは大変だと思うけどすぐにできる様になるから大丈夫だよ。」と嫌な顔もせず温かい言葉をかけてくれるメンバーの心遣いだけが何よりの救いであった。
 しかし今日の僕は違う。なんとしてもこの機材を使いこなさなければ話にならないのだ。今回は細かなところまで質問しながらメモを取り、何とか理解する事に努めようと心に誓っていたのだった。
 スタジオスタッフを呼んで、これが最後だと思われる講義を受けた。
 説明の中で気になった事は事細かく質問し走り書きをする。そして言われるように工程を進ませる。各種名称の意味を聞き、またメモを取りミキサーへと手を伸ばす。そしてまた質問をしてメモを取った。
 なるほど…。ようやくこの機材の扱い方が解かってきた。
 とりあえず説明して頂いた事を改めて、自分の力でやってみたくなったので設定した箇所を全て初期化させて「後は自分でやってみます」と言った。

 するとスタッフは「頑張ってくださいね」と笑顔で言ってそそくさとスタジオを後にした。改めてミキサーへ向かい、ぶつぶつと工程を口ずさみながら作業をした。
「えっと…。まずはマイクからのシールドをミキサーのインプットへ挿す。ほいで出力のアウトプットにステレオのシールドを指してと、ほれからスピーカーのインにシールドを繋ぐ…。ほんでから電源を入れる…と」
 するとぷつっと音がしてスピーカー越しから微かに僕の声が聞こえてきた。しかし今の状態では周りから鳴り響いている音に埋もれていてうまく聞き取れない。そこでミキサーの設定なのである。
「出力の左右を決めるパンはセンターにと、音量を決めるフェイダーは0で置いといてと…。」
 順調に事は進んでいた。しかし問題はここからで、スピーカーから聞こえる声を他の音に押し潰されないほどの抜けのよいものに変えなければならない。俗に言うイコライジングというものだ。
 これには三種(ハイ・ミドル・ロー)とあり、各家庭にあるステレオコンポにも搭載している音質を変える機能と説明したら解かって頂けるだろう。「あー」と声を出しながら周りの音で埋もれている声をイコライジングしていく。

 頃合を見計らって音量を設定するフェイダーをプラスの方へ上げていくと、少しハウリング音がスピーカーから鳴り出したのでフェイダーを微妙に下げながらハウリングが鳴らないぎりぎりの所で止めた。そして一つ声を出すと、周りの音に負けない声がスピーカーから聞こえてきた。
 最後に声に色づけする為にリバーブというエフェクトを設定した。

 これは音に残響を加えて、より深みを出す機能であり、平たく言うと風呂場で叫ぶと声が響く所謂アレである。ボーカルを初め、各パートには欠かせないエフェクト機能の一つだ。
 余談ではあるが残響系エフェクトには他にもディレイというのがあり、これも平たく言うと山彦効果なるもので、リバーブとディレイをうまく組み合わせたエフェクト機能がカラオケでも御馴染みのエコーというエフェクトになるらしい。ここまで詳しい説明をくれたスタッフさん、手間を取らせてごめんなさい。そしてありがとう。
 再びマイクに声を通すと、少しハウリングが鳴り始めたので少しまたフェイダーを下げて音を征した。これで一通りの作業は終了という事になる。  
 初めて一人で出来た訳で、感無量な想いで項垂れ大きく息を吐いた。そして顔を上げ周りを見渡すと、すでに準備を済ませたメンバー達の暖かな笑顔があった。より熱い視線を感じてその方向へ目を向けると、眼を潤ませながら万遍の笑顔で親指を立てるイータダの姿があった。ベンチで見せた彼の姿と被り、さすがにここは我慢できずに噴出してしまったが、僕の姿を気にも留めずに彼は再びドラムを叩き始めた。それに釣られてか皆も各楽器を弾き始める。
 安堵感に包まれながらもどこか違和感がある。思わず時計を見るとスタジオ開始から四十分経過していた。是非があって今に至る訳で、それにしては時間が経っていない現実に驚いたのだが、もっと僕を驚かせたのはスタジオ内に未だトースの姿が無い事だった。
 その現実を恰も普通の如く接しているメンバーに憤りを感じた僕は、感情任せにマイク越しに叫んだ。
「じゃぁけぇんんんんっ!!トースはなんでおらんのよぉぉぉぉ!!!」
 僕の叫び声にメンバーは不意に手を止めてスピーカーからリバーブによる残響音だけがスタジオ内に響いた。メンバー達はその声に何も応えず立ち尽くしている。
 僕が苛立っていたのは時間に現れなかったトースに向けたものではない。ただ意味不明に平然を装っているメンバー達に向けたものであった。人がいるスタジオの無音ほど不自然なものはない。僕が発してしまった言葉で時が止まってしまったのだ。
 僕は叫んでしまった事に対し後悔した。メンバーと目も合わせずしばらく視線を泳がしているとスタジオの外からドカッと大きな音が聞こえてきた。そしてガサガサと微かな音を発てながらこちらへと近づいている。   
「やっと来やがった…」
 智さんが息を吐くように呟くと同時にスタジオの扉が勢いよく開き、何故か誇らしげな顔をしたトースが姿を現した。メンバーの間をすり抜け、手際よくベースをアンプに繋いだ。
 ギター担当の二人はギターとアンプの間に何か複雑に網羅している機材があったのだがトースはベースからアンプに直で繋いでいた(これを直アンというらしい)。そしてイコライジングの摘みを適当かと思えるほどすばやく設定し、ボンボンと一つ二つ音を鳴らして軽く頷いた。その姿を確認して智さんが話し始めた。
「えー。来たる八月三十一日に向けてのスタジオレッスンを始めたいと思います。今回もよろしくお願いします。」
 そう言って頭を下げると他のメンバーも「よろしくお願いします。」と言いながら頭を下げる。こうして毎回練習がスタートされるのだった。智さんは何故か薄く笑っていた。
「トースの遅刻に関してようやく岡田君が気づいたみたいだから説明しておく。トース、以前はとてもでないほど聞いちゃいられない音作りしてたんだよ。そこで僕が何とかしろって怒鳴りつけた事があったんだ。そしたら彼はスタジオと同じアンプを買ったみたいで家で音作りの研究を始めたらしいんだ。」
 トースの方をちらっと見てみるとまたもや何故か誇らしげに微笑んでいた。怒鳴られてアンプ買っちまうなんてどんな小心者なんだよと突っこみを入れたかったのだがここはぐっと堪えた。
「次のスタジオで音を聞いてみると格段に音の質が違う事が発覚したんだ。どうやら聞く話によると寝る間も惜しんで作ったとか…。スタジオを重ねる事によりいい音を作ってきたんだ。」
「で、それと遅刻するのは何の関係があるんすか?」
 話はもっともらしいがやはり腑に落ちず、僕は即座に聞き返した。智さんは少し困った顔をした。
「いや、岡田君が言いたい事はよく分かる。先に説明しておくと、彼は大人数では音作りに集中できないようなんだ。それに寝ずにスタジオ直前まで音作りしているみたいだから自分で納得できるまで家で音作りしてもいいと俺の一存で決まったんだよ。いつもはここまで遅くはなっていないんだよ?岡田君は気づいていないようだけど…。」
 その言葉が皮肉に聞こえて少し苛立ちを覚えた。確かに僕も機材の扱い方に未だ慣れておらず、今日も周りに対して貴重な時間を費やした。しかし僕は毎回遅刻せずにここへ来ていた。ただの仲良しバンドではなく、真剣に取り組んでいる集団がトースを擁護していると思えて仕方がなかった。
「えっと…。ほんならトースだけは遅刻は容認って事で?」
 僕の言葉に不穏な空気が流れていた。先に僕が叫んだ時の空気と同じだった。やはり触れてはならぬ領域だったのか…。
 僕は少し考えていた。
 イータダのスタジオにたどり着いた時の焦り様。大ちゃんの智さんに対しての慕い様。そしてトースの遅刻。思い返してみてもやはり腑に落ちなかった。運命を感じる間柄なら尚更である。僕はスタジオ内で今日初めて智さんと目線を合わした。
「なかなか君は鋭い所を突っこむね。ならばこう言えばどうだろうか?うだうだとスタジオで音作りして時間を食うより、彼が少し遅れてもメンバーが不快ない音で練習するのはどれだけ練習能力が上がるか…。」
 僕は悔しい想いになり、智さんを睨みつけた。それを見て焦った表情になり言い返してきた。
「違う違う!今の言葉は少し誤解を招いたようだ。岡田に対しての皮肉で言ったんじゃない!君はまだ機材設定に慣れていないのだから遅くてもしょうがないじゃないか。しかも今日君はいち早くスタジオへとたどり着き復習をしていた事。そして慣れない機材に立ち向かって何とか理解しようと努めていた。力強く思えたよ!」
 僕は思わず呆然とメンバーを見渡した。気づかれていないと思っていたのに実は僕の姿を確認してくれていたのだと思ったら少し恥ずかしくもあり、なんとなく嬉しかった。メンバー達が僕の方へ笑顔を向けている最中、智さんが次は瞳を尖らせてトースの方へ顔を向けていた。
「…ところで。君はいつになれば音が定まるんだ?」
 それはとても深く冷たい。まるでナイフのように鋭い言葉だった。トースは目線も合わさず俯いていた。
「君はスタジオに入ってどれくらいになる?いくら僕が許したからといっても毎回遅刻しても良いとは言っていない事にいつ気づくかと思って黙っていたんだ。岡田が気づく事をタイムリミットとしてな…。」
 トースは膝をぐらつかせながら後ずさっていた。
「君はそろそろ慣れてもいい頃だ。プロという志を掲げているのなら音作りという大義名分で時間ぎりぎりまで寝ているという言い訳がいつまでも続くとは思わない方がいい。分かっているんだぜ?」
 その言葉を聞いて僕は色んな意味で驚愕して二人の姿を交互に見た。遂には立っていられなくなったのか、その場にしゃがみ込んで涙を流しているトースの姿とまるで鬼のような顔をして相手を睨みつかせている智さんの姿。
それはまるで蛇に睨まれた蛙の図式をそのまま表現しているかと思えた。殺伐とした雰囲気がしばらくその場に流れていた。
「トースよ…。分かったのか?」
 彼は泣きじゃくりながら小刻みに何度も頷いていた。
「うぅ…。は、はい…。分かりました…。す、すいませんで…した。ううぅ…。」
「よし!分かったというなら信じよう。さぁ、立って気分を入れ替えようか。大ちゃん頼む。」
 大ちゃんは頷くとトースに肩を貸して立ち上がらせた。涙は止まらないようでイータダがティッシュを手渡して一つ鼻を噛んだ。智さん自身もトースの前へと近づき肩に手を乗せて慰めていた。
「いつまでも泣いてちゃ先に進めないぜ?なっ!?」
 またも何度も頷きながら涙を拭っていた。ふと気がついたのだが、智さんは笑顔の裏側にどこか焦りを感じているようだった。それもそのはず。ちらっと時計を見るとスタジオ開始時間からすでに一時間が過ぎようとしていた。すなわち練習時間は残り一時間という事になる。その事にリーダである彼が気づいていない訳がない。必死にトースをなだめているメンバーの姿がさっきの殺伐な雰囲気から温かなものに変わっていてなんとなく可笑しくて僕は声を上げて笑ってしまった。
「あーはっはっはっは!!!」
 笑い声にメンバーは驚いた様子で僕の方を見た。
「いやいや。ごめんごめん!あーっはっはっはっは!!!」
 何故か笑いが止まらなかった。そのやり取りを見ていると笑うしかできなかったのかもしれない。狂ったように笑っていた姿を見て、トースの声がした。
「何がおかしいんぞっ!!!」
 笑いは止まらずトースの方を見てみると涙を眼に並々溜めながら少年のように拗ねた顔で僕を睨んでいた。
「いや…。あーっはっあっは!昔とやっぱ変わらんなって思てなぁ…。あっはっは!!」
 言葉の意味が分からないままメンバー達は立ち尽くしていた。僕はようやく我に返ることができた。
「いや、トースとは皆が知っとるように昔から連れなんじゃけど、バンド始めてからちょっと変われたんかなと思とったんじゃけど、今日のやり取り見とったらやっぱ変わってないんじゃなって思たら笑けてきてな。」
 大ちゃんと視線を合わせトースの肩から手を放し智さんが言った。
「まあ…。良くも悪くもこれがトースという人間なんだな…。トースよ、以後気をつけるように。はい話終わり!」
 智さんはパンと手を一つ叩いて明るく声を上げるとまるで魔法が解けたかのように空気が和らいだ。「練習しよう!もう時間がないんだ!」と急かすような声を上げるとトースがぼそっと呟いた。
「と…智さん…。もう二時間スタジオ延長できんかなぁ…?迷惑かけたの俺じゃし、スタジオ代出したいんじゃけど…。」
 その声に智さんは少し考えるように頭を抱えると瞬時に聡明な顔つきに変わった。
「とにかくスタジオ延長できるか受付に聞いてくるから俺抜きで慣らしで練習してて。じゃあ行ってくるからよろしく!」
 そういい残し勢いよく出て行った。そしてサイド・ギター兼、リーダー補佐でもある大ちゃんが智さんの口調を真似るように少しおどけて言った。
「では、リーダーが帰ってくるまでコピー曲を慣らしで演ろうか。ここはステージ上だとイメージを忘れてはいけない…。」
 さすがいつも共にいるだけはある。大ちゃんが真似る智さんの仕草や口調は完璧というくらいそっくりで皆はそれに対して笑いを堪えるのに必死だった。その姿を見て大ちゃんは八重歯を見せてにんまりと笑った。
「真面目にやらなきゃ怒られそうだ。んじゃ、リスキーから…。いくぜ!」
 その言葉が終わると同時にスティックの4カウントが聞こえて、そして厚い音の壁が押し寄せてきた。慣らしという事もあり皆はリラックスした様子で演奏していた。しかしバスドラやベースからの重低音や、それらを支えるサイドパートの刻みだけでも充分と入って良いほどクオリティー高く感じて僕は何故だか震えた。
 しばらく感じるまま演奏していると、区切りの良いところで智さんがスタジオへと入ってきた。顔ははちきれんばかりの笑顔である。
「いやぁ…。スタジオの外で聞いていたけどなかなかいい感じだよ!あ、スタジオ延長可能だってさ。」
 慣らしで充分と言って良いほど気分が高揚していた僕達は智さんの言葉に喝采した。
「でさぁ、スタジオ代の話なんだけど延長料トースが出すって言ってたんだけど俺が出してもいいかな?」
 メンバー内がどよめいた。少し遅れてトースが声を荒げた。
「なんでよ!智さん??迷惑かけたの俺なんじゃき…。」
 智さんは制すようにトースの口を手で塞いでウインクした。
「そもそも、遅刻していいと許可を出したのは俺だ。そして今回まで放任していたのも俺だから今回は完全にリーダーである俺の不手際だ。だからその責任を取って俺が延長料を出す。異論は認めない!」
 語尾を力強く言ってギターを手に取り皆を見渡した。トースはまだ何か言いたげだったが智さんの絶対的言葉に口を塞がれた。
 全ては自分の性にしてメンバーを丸く治める。その器の深さこそがリーダーたる所以だと勉強させられ僕は感服し思わず最敬礼をしてしまった。
 智さんは改めてメンバーを見渡してギターを構えた。
「では、改めてコピー曲を慣らしでやっていこうか。君達は今はステージ上にいる。そのイメージを忘れてはいけない。」
 その言葉に先ほど真似をした大ちゃんが噴出した。それに釣られて皆も噴出して爆笑の渦に包まれた。

「いかん!ツボった!!!!」
「あーっはっはっはっは!だ 大ちゃん!!!!!」
「大ちゃん!似すぎじゃきん!あーっはっはっはっは!!!」

 大ちゃんの立場も弁えず、馬鹿三人集は笑い転げていた。そんな大ちゃんも僕達までとはいかないが腹を抱えて笑っていた。
 しばらくその情景を見渡していた智さんだったが、何かを悟ったのか大ちゃんの方を見て不敵に微笑んだ。
「君達…。笑い転げるのもいいが、この時間もスタジオの時間なんだよ?このままだとやっぱり延長料金割り勘にするか、この原因を作ったと思われる大ちゃんに払ってもらう事になるけどいいかい?」
 その言葉に皆はぴたっと動きを止めた。大ちゃんは少し済まなさそうな顔をして智さんを見ていた。
「まぁいい。これからは本気モードだ…。いくぜ!!」
 智さんの叫び声と同時に再びスティックの4カウントが聞こえ、リードパートも加わり先ほどよりも分厚く感じる音の壁が押し寄せてくる。それはもはや慣らしではなく皆がお互いの音に本気で噛み付いていた。
 ドラムのハイスピード且つ軽快なリズムに絡みつくベース音の唸り。重低音の聞いたギターの刻みとそれを彩りながら脳内へと刻みつけるリフ。熱。音圧。そして毛が立つほどの感覚。
 俺達のその熱い塊を会場に来ている人々に投げつけるのだ。しかもマシンガンのような速さで。
 獣のような眼をした漢の群れがそこにあり、気がつくと僕も心のままに叫んでいた。

 しばらくコピー曲を演奏して、オリジナルのアレンジを少しミーティングしながら流しで練習ていると、早くも一時間以上過ぎている事に気がついた。
 本来ならばここらでスタジオは終了していたのだが延長した為、後二時間くらい練習できるという訳である。そこで「少し休憩を入れる」と智さんは言ってバックから何やら取り出し、誰より先にスタジオから出て行った。しばらくして他のメンバー達もぞろぞろと出ていき、それぞれ休憩時間を過ごしている。
 僕はベンチに腰掛けて清涼飲料水を口にしていると大ちゃんがそっと隣に腰掛けた。そしてぼんやりと譜面を広げながら言った。
「オリジナルの曲名の事なんだけどさぁ、どうしようか?」
「え?なんで俺に聞くん?智さんが作ったんじゃきん智さんがつけるんでないん?」
 僕は思った事をそのまま言った。曲も詩も智さんが手がけている訳で僕と大ちゃんだけで話し合ってもしょうがない事だと思ったからだ。大ちゃんは少し困った表情をして微笑んだ。
「俺達は演奏する側。これをオケって言うんだけどさ、そのオケに魂を宿すのはボーカリストなんだよ。」
「う…うん。」
 もちろん生半可な気持ちでやってはいない。しかしこう他の人から改めて言葉にされてしまうとこんな重大なパートを自分がやって良いものかと考えて畏怖してしまう。僕は困り果てて大ちゃんの顔を見た。
「うーん、ごめんごめん。単刀直入すぎたかな。なら質問をかえるよ。歌詞は覚えてるよね?」
 僕は無言で頷いた。
「歌詞を見てどう思ったの?」
 どう思った…?歌の練習は毎日欠かさずしていたから完璧には記憶できているのだが、歌詞の意味までは考えた事がなく、ただ漠然と唄い続けていた自分に気がついた。
「ご…ごめん。歌詞覚えるのに必死で意味までは考えた事なかったわ…。」
 そう言って急いでバッグから歌詞表を出した。
「ああ…。だからか。いや、歌はよく歌えてるとは思ったんだよ。智さんも褒めてたしね。でもね、なんか心なしか魂の叫びみたいなものが感じられないなと思ってたんだよね…。」
 彼は明後日の方向に視線を向けて呟いていた。口元にはいつの間に運んだのか禁煙パイポが銜えられていたが敢えて気がつかない振りをした。彼の言葉は続いた。
「俺達は各楽器で魂を語ってるんだ。だから音に真剣になれるんだよ。それが自分の声みたいなものだからね。いい声出したいだろ?」
 少しおどけた口調で言っていたが眼は真剣だった。僕は歌詞を朗読するようにゆっくりと読み返した。

 オリジナル曲の三曲中、二曲がアップテンポのビートロック。一曲はどんな時でも夢を忘れず自分なりの音楽を表現していきたいというポジティブ的なもので、もう一曲は自分達の曲で頂点まで登り詰めて行きたいという猛々しい歌詞であった。

 もう一曲はミドルテンポのしっとりとした優しいバラードで一人の女性に対して綴っている歌詞のようだった。意味深な言葉の言い回しや、胸が潰れそうになる程の切ない表現…。僕達の歳にはよく有りがちな事なのだが、歌詞全体に智さんの深い想い入れがあるのだと感じ取れた。
 気がつくと僕は口ずさんでいた。他のメンバーからは歌声に合わせて弾いている裸音が聞こえてきた。イータダはドラムに似せて膝をバシバシと叩いている。皆のテンションも段々と上がってきたのを感じ、堪えきれずに本気で声を上げていた自分がいた。
 しばらくするとどこへ行っていたのか、智さんが満面の笑顔で階段を上ってきた。
「盛り上がっていたようだね。さぁ、練習しようか!」
 今まで見た事のない表情である。笑顔というかなんだかニタついていると言った方が適切なのかもしれない。大ちゃんは目を細めて、ヒャッヒャと声を上げながらヤらしい表情で言った。
「智さん…、何してたんすか?」
「ばっ…、ばか!楽器見てただけだ!!君達、早くスタジオに入りたまえ!!」
 そう言うとそそくさとスタジオへと入っていった。なんとなく見えたのだが、右手には携帯電話らしき物が握られていた。
「まっ、大将。そういう事にしときまっさ!」
 彼はヤらしい表情のまま智さんの背中へと一人ごちると、スイッチを入れ替えたように普通の表情になりスタジオへと入っていった。謎が謎を呼ぶ間柄だ。やはり気にしない方が懸命だと思い、僕も続けてスタジオへ入った。
 後の時間は引き続きオリジナル曲のアレンジや音色の切り替え、歌い方の事細かいアドバイスなどを話し合いながら一曲一曲を丁寧に仕上げた。
 休憩中の大ちゃんの言葉も思い返し、自分なりな解釈で詩の意味を感じながら曲に音色を乗せてみると、それに共鳴するかのようにそれぞれから奏でられる音が明らかに変わった。
 温かく、時に冷たい。艶やかに、時に錆色に。繊細に、時に大胆に。優しく、そして厚く、熱く…。まるで生まれ変わったかのように今までのサウンドとは別なものになっていた。曲に魂を宿した瞬間だと思えた。
 流れる汗と共にビートを刻み、うねる低音を響かせ、複雑な旋律を織り交ぜながら低音を支え、ナイフのように鋭いリフを刻み、脳をかき乱す叫びを奏でる。
 まるで召喚した巨大な龍を自由自在に操っている感覚で、皆は笑顔のまま震えていた。言葉もなく、サウンドに酔いしれながら時間は過ぎていく。
これが刹那を生きる事だと初めて感じる事ができた。
 時計を見ると針は夕方六時より十分前を指していた。もう終わりの時間だと智さんが合図して皆は片付けを始めた。
 スタジオ内は熱気に包まれ、皆水浴びしたようにびっしょりと汗に塗れていた。どこかやりきった顔をしてスタジオを後にした。

 第六章 調練 おしまい  第七章 会議に続く

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