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BAND☆やろう是 第七章 会議1

 いつも練習の後は『オオサカ堂』の道を挟んだ所にある『丸々亭』という軽食店でスタジオ内にて皆が感じた事やこれから起こる事の注意事項などを話し合いながら軽食を取っていた。

 店に入るとすぐにキャッシャーがあり、左へ進むと何箇所かボックス席が連なっている食堂になっている。いつも食堂の一番奥にある対面して二人と三人に分かれて座るボックス席を利用していた。席順は別に話し合ってそうなった訳ではないのだがいつも同じ席順で、二人用の長いすの壁際が智さんでそれに連ねて大ちゃん。三人用の長いすには壁際はトース、真ん中に僕で通路側にイータダが座った。
 皆がだらだらと席へと腰掛けると、すぐに人数分のクラッシュアイスの入ったコップとお茶の入った金色に輝くやかんを持った店員がオーダーを聞きにやって来た。だいたい同じメニューを毎度注文する事を店員側も知っているのか、待つ必要がないと判断しているのだろう。その判断は的確で、皆はやはりいつも同じメニューを口にした。
 智さんは『モンスーン味噌カツ定食 若さと情熱の幻』。大ちゃんは『アバンギャルド牛丼 牛1頭食わせたいな』。僕は『地鶏虐殺親子丼 愛すべき馬鹿達の夢』。イータダとトースは同じメニューで『オススメ 店主の独断と偏見定食』を注文した。
 訳が分からないメニュー名が多いこんなお店だが、味、ボリューム共々抜群で学生からお年寄りまで幅広い年齢層に愛されているこの街で三十年近く営業している老舗なのだ。
 もはや要らないと思われるメニュー確認を終えた店員はどこか誇らしげに「少々お待ちくださいませ」と親指を立てて、滑りながら部屋を出て行った。そしてイータダがコップにお茶を注ぎ、皆に配り終えてから会議は始まる。智さんは少し喉を潤わせて言った。
「練習お疲れ様でした。」
 練習の開始同様、智さんが一礼すると各面々が「お疲れ様でした」と言いながら一礼した。
「今日はコピー曲然り、オリジナル曲も掘り下げて練習する事ができてとても内容濃い練習ができたと思っている。やはり俺が認めたメンバーだと素直に思えたよ。」
 本当に嬉しそうな声を上げていた。リーダーに褒められてやはり悪い気はしない訳で、メンバー達も自然と満面の笑みになりコップに口をつけた。
「そして今日の会議の内容なのだが、オリジナルの曲名の事について話し合いたいと思う。」
 イータダとトースは「おおっ…。」と声を唸らせた。智さんは僕の方を見て微笑んだ。
「大ちゃんから聞いていると思うけど、曲名の懐け親を岡田に託したいと
俺は思っているんだ。どうかな?」
 その言葉にイータダとトースがさらに声を上げ、驚いた表情を浮かべていた。
 休憩中に大ちゃんから話があった為、『今日の会議の内容は曲名に関しての事だ』と予測はしていたのだが、名付け親になって欲しいと智さんの口から直に告げられるとやはり困惑した。

『ボーカリストは魂を曲に吹き込むパートだ』

 と、大ちゃんからの助言もあり、今日は自分なりに歌詞の意味を考えて歌った。智さん達の言い分もなんとなくは分からなくもないが、『それじゃ…』と僕が勝手に決めてしまうのもおかしな話だと思うのである。第一そんな単純かつ容易な事ではない。
 智さんは僕の眼を真っ直ぐに見つめていて彼の想いは向けられる視線からバシバシ感じられた。一体どうすればいいか分からなくなり僕は取り乱した。

「いや、いやいやいや!ちょっとまってよ!」
「グッバイ♪優しい声でー♪卑怯なー♪逃げーかーた♪」

 僕が声を荒げた瞬間に隣から何故か歌声が上がり、驚いて右を見てみると箸をマイクに見立てて気持ちよさそうに歌っているイータダの姿があった。
 彼が今唄っている曲は歌詞の始まりが『ちょっとまってよ♪』で始まる少し前に流行った曲でテレビでも何度か耳にした事があった。世間からは姉さんと慕われている美人女性アーティストで、僕達の年代からすると大人の恋愛模様を綴っている曲を歌い、リリースする曲は毎回チャートのベスト十に入るという日本を代表すると言っても過言ではないボーカリストの一人である。
 説明はさて置き、僕の気持ちも知らず能天気に歌い続けているイータダに苛立った。理由はそれだけではない。イータダが思いの他音痴だったのだ。困惑している僕の前で長々と続いている不毛な歌声…。
 僕は拳を握りながら彼を睨みつけたのだが、さっぱり気づかない様子で調子に乗って唄い続けている。ある程度は耐えていたのだが一向に止む気配はない。
 いい加減我慢の限界点を突破した僕は感情のまま渾身の力を込めた拳を彼の左わき腹と打ち込んだ。RPGよろしく、会心の一撃と言っても良いだろう。拳の先から何かが砕けたという感覚が全身に伝わってきた。
「がっ…。はっっっ…。」
 彼は吐息に似た一言を漏らすとずるりと上半身を机の上に沈ませていた。泡を吐きながら白眼をむいているのだがどこか満足感が漂う表情を浮かべていて、苦しいのかうれしいのか分からない姿が純粋に気持ち悪かった。僕は体勢を整えて軽く息を吐いて前を見た。
「大ちゃんから聞いとったけん色々考えとったんじゃけどほんま俺決めてもええもんなん?歌詞の内容、智さんの思い入れ深いみたいじゃし…。」
 智さんは腕を組み、瞳を閉じたまま微笑んでいる。
「まずは岡田が思った歌詞の感想を聞かせてもらいたいな。」
「え…?」
 声を出そうとしたのだが口が尋常ではないくらい乾燥していてうまく声が出せなかった。やけに寒く感じるのはきっと店内の冷房のせいではないだろう。寒気とは裏腹に顔と手のひらが酷く汗ばんでいるのだ。
 プレッシャー。今まさにその言葉が似合うだろう。
 僕はコップに入っているお茶を一気に飲み干し、やかんから新たにお茶を注いだ。正面に座る二人の視線は光線のように僕に向けられているのは前を見なくても分かった。まさに視線が突き刺さっている感じなのだ。
 それに耐え切れず誤魔化し紛れに注いだお茶をまた飲み干した。それでも喉の渇きは治まらず、視線さえも定まらない。すると大ちゃんの明るい声が聞こえてきた。
「休憩を挟んだ後の岡田さんの歌。マジよかったよ!感情を込めたらあんなに全体のクオリティーが上がるなんてびっくりしたよ!」
 彼は相変わらずのキュートな八重歯を見せて微笑みながら智さんと頷き合っている。
 その言葉にはっとなり、我に返った。
 冷静になって考えると別に今は歌詞に関しての感想を聞かせて欲しいと言われているだけで今すぐ曲名を述べよと言われている訳ではない。よって唄いながら感じた感想を言うだけでいい訳だ。大ちゃんの言葉に救われたようだ。僕は眼を閉じて少しの間、思考を凝らす事にした。現時点、自分が置かれている状況の自己確認と歌詞の意味をおさらいしたいからだ。
 人生初のボーカルパートを担当させてもらい、リーダーによって初ライブも決定している。既に後に引けない状況であるにも関らず、未だ責任感が足りないと感じたリーダー格はバンドの売りである曲名の決定権を僕に委ねる事によっていかに大切なポジションに置かれているかと認識させる思惑があるのだろう…。これは決して僕に対しての無茶振りではなく、彼らなりに考え抜いた作戦であり、優しさであると純粋に思った。
 気がつくと寒気や額と手のひらに滲んでいた汗は消えていた。後は感じた歌詞の感想を述べるだけだ。僕はこのバンドの一員であり、恐れる事は何もない。僕は軽く息を吸った。
「えっと…。歌詞に関して俺が感じた事じゃけど、オリジナル三曲の内の二曲は音楽で叶えたい夢を語っとった曲じゃ思たよ。」
 二人は目を閉じて僕の声に耳を傾けていた。
「明るめの調の曲は想いを描いたら絶対に皆に伝わると信じとるってメッセージが直向に出とる歌詞じゃ思た。」
 智さんは無言で腕を組み、何度も頷いていた。
「激しめの曲の方は俺達の音楽で頂点に登りつめてやるっていう激しい感情が前に出とる歌詞じゃ思たなぁ。俺はこの曲が一番好きじゃきん、歌う時かなり熱なるもんなぁ!」
 自分が思っている事を口にしていると我がバンドのオリジナル曲に対しての愛情と言うべきなのだろうか、次第に嬉しくなり熱弁している自分がいる事に気がついた。僕はコップに口をつけて喉を潤し改めて前を見ると、二人とも嬉しそうな表情で前のめりになっていた。
「そっかそっか!!俺の想いは岡田にちゃんと伝わっているようで安心したよ!」
「素人意見でごめん…。」
 少し冷静になってきて、熱く語る自分の姿を想像すると恥ずかしくなって俯くと、今度は智さんが僕に熱く話しかけてきた。
「いや、全然素人意見じゃないさ。むしろ的をうまく捕らえてる。お世辞じゃなくて本当に俺はうれしく思っている…。」
 彼は少し目を潤ませて何度も頷いていた。本当にお世辞ではなくそう思っている事が伝わってきて安堵感と嬉しさに胸を撫で下ろした。お茶を一口飲んでふと大ちゃんの方を見てみると彼は何故かニヒルな笑みを浮かべていた。俗にいう悪い顔というヤツである。右口元だけを激しく上げて僕に問いかけた。
「で…。後の一曲はどう思ったの?」
 彼の意図は分からないが、本当にもう一曲あった事を忘れていた。
「あぁ…。バラードの曲なぁ…。えっと…。」
 僕は頭の中から必死に言葉を捜した。この曲の歌詞は智さんが想いを馳せる女性に対して書いたのは分かっていたのだが、恥ずかしながら今まで生きてきた中で女性に対して恋焦がれるという事がまったくもってなかった僕は、この曲だけはうまく歌えているのか不安であった。ましてや見ず知らずの女性に対して自分ではない方が書いた歌詞なのだから尚更である。どう答えようかというよりもどう誤魔化そうかと模索しながら視線を泳がせていると、智さんがコップに浮かぶ氷をカラカラと鳴らしながら虚ろな視線で呟いた。
「今までの話を聞くときっとこの歌詞の意味合いも理解してくれていると思うが、この曲の歌詞は俺が想いを馳せる女性に対して寝ずに考えた物なんだ…。」
 コップを置いてどこを見る訳ではなく、ただ前を見つめて語り始めた。
「まだ付き合ってはいない間柄だが、なんとなく両想いだという事は感じている。しかし核心に迫る勇気が俺にはないんだ。情けない話だろ…?」
 彼は儚く笑い、コップの中の氷を指で弄んでいた。
 経験がない僕はやはり親身になって話を聞けない自分を情けなく思った。僕も何気なくコップを手に取り見つめていると、右前方から不穏な視線が向けられている気配がしてその方向を見ていると、大ちゃんがまるで時代劇に出てくる悪代官並みの悪い顔をして喉に声を詰まらせたような低い笑い声を上げてこっちを見ていた。そんな彼に気づかないほどハートフルになっているのか、智さんは相変わらず指で氷を弄び続けている。
「確かにこの曲だけは本人目の前にして感想言えって言われても言えるはずないよな…。もう十分岡田には伝わっていると思うからこの曲はパスでいいよね大ちゃん…。」
 そう言って彼は大ちゃんの方に視線を向けると悪い顔と不敵な笑い声を浮かべた彼に漸く気がついてぎょっとした表情になった。
「な なんだ!?どど、どうしたんだ!?大ちゃん!?」
「いや…。べ 別に…。くっくっく…。」
 大ちゃんは誰にも目線を合わさずに意味深に笑い続けている。この態度にさすがの智さんも苛立ちを覚えたようでキッと大ちゃんを睨みつけた。すると彼は一度智さんの方に視線を戻し、睨みつけられている事を確認したのだが、まったく動じずに笑う事を止めないでいる。そんな彼の姿を智さんでさえ初めて見たのだろうか、どう対応していいのか躊躇い始めていた。
「だ…大ちゃん??ぉ、おい!?」
 遂に青ざめ始めた彼の姿がいたたまれなくなったと同時に既に不敬と取れる大ちゃんの姿にいつもは人と人の話に首を突っ込まない事にしている僕もさすがに声を荒げた。
「大ちゃん!!ええ加減にせんといかんでっ!!!どしたんよ!?」
 荒げた声に大ちゃんは一瞬声を止めて僕の方へと視線を向けた。どこか不穏な雰囲気が漂っている大ちゃんの表情に首を傾げると次の瞬間、彼は天をしばらく仰ぎながら大きな声で笑い始めた。
「あーっはっはっはっは!!いやいやいや!やっぱりなと思って!!!はっはっはっは!!!」
「いい加減にしたまえ!!何が言いたいというのだ!?」
 さすがの智さんも堪忍袋の尾が切れたようで、今にも殴りかかるくらいの勢いで叫び散らした。
 すると大ちゃんは笑う事を止め、今度はシリアスな表情を浮かべながら体ごと智さんの方を向かせ真っ直ぐに見つめ始めた。未だ戦慄きは止まらない様子の智さんは視線が鋭い。まるで戦いが始まる前兆の如く男二人が睨み合うという形になっていた。先程のように割って入る隙はなく、僕は何も起こらない事を祈る事しか出来ない。かつてこの二人の間でこんな殺伐とした出来事が起こる事は一度たりともなかったと思う。僕はそんな二人の姿を、固唾を呑んで見守っていた。
 二人の沈黙のやり取りはしばらく続いた。相変わらず食堂には他のお客は入ってこず、二人が醸し出す重苦しい空気が部屋全体を支配していた。聞こえてくる流行の音楽でさえお経にしか聞こえないのだ。
 右を見るとイータダは未だ悶絶し意識不明のままである。
 時間が気になり時計を見てみると入店から十五分が経過している事を知った。そう言えば、左にいるはずのトースの存在を忘れていた。会議の内容然り、この場の空気に圧倒しているのか入店時から目立つ発言をしていない。もしかして震えているのではないかとトースの方を見てみると、彼は壁の方に体ごと向けて沈黙していた。顔を見ると眼は開いていて、何か聞き取れない言葉を発しながら一点を見つめている。僕は彼の視線の先を確認すると、何やら落書きが書かれていた。それを読んでみると『豪華絢爛!続きはウエブで!』と書かれている。しかしURLらしきものは確認できない。

『ま まさか!!』

 僕は心の中で叫び、彼の口元を見て何を呟いているのか悟ろうとした。
「続き…。続きが…。」
 そのまさかであった。彼は会議そっちのけでこの意味不明な落書きに心奪われているのである。いつからそうしているのかは今となっては分からないのだが、もうしばらくは別次元に引き込まれていて戻ってくる事はないと思った。イータダ然り、しばらくコレらは放っておいてもいいだろう。
 それよりも深刻な問題は目の前で起こっており、視線を前に戻すと二人は先ほどと変わらず激しく睨み合っていた。
 その姿を見つめながらどうしてこうなってしまったのかという事を考えた。大ちゃんの不可思議な言動に対して智さんが切れたという以外には原因が考えられない。

「…?」

 何かがおかしいと僕は思い始めていた。確かに大ちゃんの態度は関係ないと思われる僕が見ても鼻についた。しかしあの智さんが大ちゃんのこんな態度だけでここまで激昂するとは思えないのだ。しかも言葉にすれば解決する事なのに数分間のこの彼らのやり取りがどうも胡散臭いのである。相変わらず睨み合っている二人に僕は声をかけた。
「なあ、もう止めにせん?時間勿体ないし、何でもめとるか分からんし。」
 この言葉に二人とも表情は変えないままゆっくりと僕の方を向き、何故か二人に睨まれている僕という図になった。

「あぁ、それがいいかもしれないな…やっと終わる事ができる。」
「睨み合ったはいいが、どう終わればいいのか正直分からなかったからな…。」

 彼らの冷たい口調が相変わらずの雰囲気だった為、僕は苦笑した表情を残したまま頷きながら聞き流したのだが、掛けられた声を今一度冷静に考えてみると二人はそれぞれふざけた発言しかしていない事に気がついて僕は思わず呆気に取られた。

「はぁぁぁぁぁ!!!???」
 僕の心から発した呆れ声に二人の表情が漸く緩んで軽く笑い声を上げた。
「いやぁ、悪い悪い!!大ちゃんの態度がムカついて睨んだのは事実なのんだけどな。」
「智さんが睨んできたから俺びっくりしてしまったよ!岡田さんは焦ってるし、横の二人はぜんぜん話に参加してないし!!」
 二人は面白そうに話を続けていた。
「睨み続けてて、この事態をどう収拾すればいいか考えてたらなんか面白くなってきて笑いそうになったんだけど、大ちゃんは柄にもなく俺を睨んでる…。」
「違うって!!俺は智さんが何で睨んでるのか分からなくて見てただけだよ!智さん途中で心折れてただろ!?何か智さん岡田さんから見えない顔半分笑っててアシュラ男爵みたいだったしさ!!」
「あーっはっはっはっ!!!!」

 二人とも今度は三日月のように眼を丸めて爆笑していた。しかし僕は自分でも分かるほど顔を青ざめさせていた。
 出来事の始まりはさて置き、感じた胡散臭さとはまさにこの事であり、何となく予想通りの茶番劇だったという事である。僕は怒りよりも疲労感のほうが勝っていて深いため息をついた。
 そんな僕の姿を見た智さんが僕のコップにお茶を注いでくれた。

「君の心を翻弄させてしまったのはすまないと思っている。しかし君のあの言葉がなかったら俺はまだどうしていいか分からず、大ちゃんを半分の顔で睨み続けていつかは崩壊していた。」
「そうだよ!岡田さんグッジョブ!!!」
 僕に気を使ってくれているのだろうか、二人はやけに明るく僕に振舞っていた。そんな二人の態度に軽い脱力感を覚え、もう一度深いため息をついて力なく呟いた。
「いや、いいっスよ…。二人の態度が戻ってくれたんならそれで…。」
 二人を見ると肩を組んで僕の方を見つめながら満面の笑みを浮かべていて、先ほどの殺伐とした雰囲気など微塵も感じさせる事もなかった。異次元で彷徨っている他の二人は絶対に知る由もなく、僕だけが悶々としている訳にもいかないと悟り、心を持ち直し力強く前を見た。

 そう言えば何か他に問題がある事を忘れているような気がして、肩を組みながら分かち合っている二人の姿を見つめながらしばらく考えた。
 心の片隅にかかる靄…。僕はその正体を追い続けた。
 そうだ、思い出した…。
 この二人の争いの根源である大ちゃんの不可思議な言動を改めて確認しなければならない。ほのぼのとお茶を口に運ばせて和んでいる二人に蒸し返す事は酷だとは思ったのだが、この事は茶番劇により翻弄された僕の心に対してのせめてもの報いであり、今後のバンド内における新たな火種を消しておく為の大切な事だと思ったからだ。
 僕は心確かに大ちゃんへと訊ねた。
「ほんでな、大ちゃん…。さっき言よった事なんじゃけどな?やっぱりなって言うたの、アレなんだったん?」
「ああ…。アレなぁ…。」
 いつの間にか肩組んだ腕を外し、お茶を飲んでいた彼は智さんを横目で見ると小ずるそうな笑みを浮かべて明日を探すように目線を漂わせた。
「いや…バラードの歌詞の話なんだけどな…。」
 彼の微笑みに妙な不信感を募らせたのか、智さんは不安な表情で大ちゃんを見つめながら無言で首を傾げていた。敢えて目線を合わせていないのか、誤魔化しとも取れる大ちゃんの漂う視線が先ほどの緊迫感を蘇らせた。 
 そして彼は智さんの方を向き、暖かな笑みを浮かべて静かに言った。
「実は誰か分かんなかったんだけどさ。今分かってびっくりしたよ…。智さん、おめでとう…。」
 彼は無言で手を差し伸べた。しかし智さんは微妙にも体を動かさず、まるで驚いた表情をした石像のように固まっている。ストーン宇高だ…。
 いつまでこれは続くのだろうかと僕は額に汗を浮かべて見つめていると彼の立ち上がりはそう遅いものではなく、指を微かに動かせたと同時に大ちゃんの顔すれすれまで顔を近づかせて唾を飛ばしながら叫んだ。
「えええっ!?それ、本気で言ってるのか!!!???」
 大ちゃんは液をお絞りで拭いながら何故か微笑みながら答えた。
「うん、ぜんぜん気がつかなかったよ!!よく横にいるなとは思ったけどさ。まさかあの子に贈った曲だとは夢にも思わなかったよ…。智さん、改めておめでとう!」
 もう一度彼は手を差し伸べた。
 今度は智さんも彼の態度に応じて握手を交わしていたが、驚いた表情は変わってはいなかった。繋いだ手が縄跳びのようにぶんぶんと上下していた。
 力任せに狐を描かせていた握手もいつかは切れ、遠心力で智さんの手が勢いよく机の上に落ちた。その衝撃でコップが宙を舞い、地面で割れた。その破壊音に智さんは我に返ったようだった。しかし蒼白した面持ちで目を瞬かせながら大ちゃんの顔を呆然と見ていた。
「と、智さん…?おーい!?」
 大ちゃんは心配そうに彼の肩をポンポンと叩くとその手を力任せに払いのけ、もう一度叫んでいた。
「あれだけ俺と一緒にいておきながら何を今更言っているんだっ!?俺はあの子を想った時からあの子以外の女とは接する事を避けていた!!だから君は俺があの子といた所しか見ていないはずっ!?」
 彼は掌を激しく上下に震わせて、気を狂わせたように頭を掻き毟りながら訴えていた。その態度とは裏腹に大ちゃんは苦笑しながら後頭部を擦っていた。
「うん…。だって二十四時間見てた訳じゃないしさ…。もしかしたら妄想かも知んないし…。」
「な…なん…だとっ…!?」
 大ちゃんは微笑んで智さんを見つめ、智さんは項垂れ落胆した。
 その対照的な二人の態度が僕には面白くてしょうがなかったのだが笑ってもいられなかった。出来事を分析すると新事実が浮き彫りになったからだ。
 一つ目は、二人が合間見えていなかった事だ。
 このやり取りの中で智さんが一方的に大ちゃんの事を捉え、信頼していたと言う事になりえる。僕を含め、周りの目からしてもそう思う人間は少なくはなかったと思うのだが実はそうではなかったという事になる。
 二つ目は、先ほどの見解の続きであるが大ちゃんが、デタラメに鈍感という事だ。
 智さんが言っていた事然り、皆も認識するほど大ちゃんは智さんと行動を共にしていた。しかし大ちゃんは智さんの心中を察する事なく過ごしていたという話になる。
 という事は練習の休憩時に僕に言ってきた事は智さんと二人で話し合った事ではなく『ただ彼に言わされただけなのか?』という疑問も感じられ、大ちゃんが想い感じている全ての事が分からなくなり軽く恐怖した。 
 もしかすると彼は意外とタヌキであるのかと思わざるを得ない。
 三つ目は、智さんの異常とも捉えられる態度である。
 冷静沈着と周りに唄われ尊敬の眼差しで見つめられる彼だが、実は激情家であるのではないかという事だ。良いように言うとそうなるのだが、悪いように言うと一方的に思い込みが激しいただただ現実盲目者という事になる。彼らの信頼関係は完璧に構成されているというのも智さんの心が作り出した儚き幻であったのかもしれない。
 この出来事によりこの三つを感じざるを得ず、人間関係の難しさと面白さを想うと同時に、今や揺らめいている二人の間柄に諸行無常を噛み締めて心で泣いた。
 もう一つ冷静に思い考えてみるとこの会議はオリジナルの曲名を決定する為に開かれているのである。話の脱線が激しく、すでに修復不可能であった。なぜなら…。
 イータダとトースは異次元の魔物に捕らえられ、智さんは意気消沈し、大ちゃんは智さんの態度を理解せず困惑し、僕は事の見解に思考を凝らしている。よってメンバー全員が会話不能になっている有様だからだ。
 誰がどのように僕達を止めてくれるのかはまさに皆無で、消沈している五人をお経のように流れる流行歌が冷たく降り注いでいた。


 どことなく心地よい香りが漂い始め、一人、また一人と意識を戻し始め、気がつくと入店した時に注文した料理が次々と机に運ばれてきていた。
 さすがは食い盛りの漢達だ。心が異次元で漂っていようとも、食い物のいい香りには勝てないという訳である。面々が注文したメニューが揃うと同時にメンバー達も完全に息を吹き返した。
 智さんが注文した『モンスーン味噌カツ定食 若さと情熱の幻』というメニューは丼飯に丼味噌汁とそれだけで腹一杯になりそうなのだが、さらには高血圧にでもなりやがれと言わんばかりの漬物のてんこ盛りが付いてきている。そして問題はメインである。
 大量のキャベツの千切りにアメリカンを思わせる革靴のようなカツに何故かカイワレ大根が買ったままのパックから出してそのまま乗っけられたと思われる形で盛り付けてあり、その上に色濃い味噌がふんだんに落とされているという確かにモンスーンを思わせる(?)メニューであった。
 その後に付けられた副題のようなものは多分店主のノリでつけたのだろう…。
 大ちゃんが注文した『アバンギャルド牛丼 牛1頭食わせたいな』は、とりあえず丼定食という事で、智さんと同じく味噌汁と漬物は同じように盛られているのだが、メインはもちろん丼である。
 ラーメン鉢の二倍強と思われる器にてんこ盛りに盛られた肉だけが見えている。
 以前、その実態を訊ねてみた事があった。答えは『肉。玉葱。米。肉。玉葱。油。米。肉。玉葱。米』という十相構造で形成された丼で、この時点で理解不能なのだが、中の油という項目がより意味不明である。後で改めて見せてもらう事にしよう。
 僕が注文した『地鶏虐殺親子丼 愛すべき馬鹿達の夢』は、僕は元々生粋の親子丼好きであり、初めは気軽く注文してそのボリュームに驚愕し、食して悶絶した。
 大ちゃんと同じ丼メニューである訳で器の大きさは変わらなく大そうなボリュームなのだが、先ほどの理解不能な内容とは全然違うのがこの親子丼をより好ましく思わせた。
 下の方に白米が敷き詰められ、その上には甘辛く焼いた鶏肉と揚げた鶏肉、玉葱と微塵切りにしたピーマンが大量の卵で絡められて、塩と砂糖と味醂と醤油が決してぶつかる事なく口の中に広がるまさに絶妙な味わいなのである。
 初めの方は勢い良く噛んで骨に歯を痛めたものだが、今はそんな事もない。質、量、気合、全て申し分なく、今やこのメニューの虜になっている。
 最後にトースとイータダが注文した『オススメ 店主の独断と偏見定食』なのだが、これがいつも皆の視線を注目させている。
 ここの店主は噂によるとどうも変わり者で、何かにつけて気分で行動するのをもっとうとしているらしい。しかし仕事に対しては真面目で、レシピの決まっているものは一寸の狂いもないほどいつも変わらない味で美味い。
 しかしこれだけはそんな店主が今現在刻ませている心の闇を唯一表現できるメニューであるらしく、このオーダーが入る度に店主の目が不思議な光を浮かべて怖いと内緒話ではあるが店員から聞いた事がある。
 毎回トースとイータダはこれを注文していて、その度に店主のストレス解消になっているのだろう。しかし今までハズレだと思われる献立はなかったと思われる。前に智さんが『今度俺も注文してみようかな』と呟いたほどクオリティーの高い品々ばかりだったのだ。
 今回運ばれてきた献立は丼飯に丼味噌汁とてんこ盛り漬物は定食メニューとして変わらないのだが、メインの皿に乗っているものが醍醐味なのである。僕は今回も興味津々と眺めた。
『あれ…?どうやらいつもと違うようだ。』
 皿に盛り付けてある品は、大量のキャベツの千切りとほうれん草のバター炒めのような品が盛りに盛られていて、これはシソの天ぷらなのだろうか…。葉っぱみたいな物体を揚げたものが所狭しと敷き詰められていた。 
 既にお気づきの方もいるだろうがオール葉っぱなのである。肉料理が多いこのメニューなのだが今回だけは何故か違う。
 何もメニュー内容を確認せず、和気藹々と箸を取り『頂きます』と眼を閉じて合掌して、初めて今日のメニューを目の当たりにした二人は即座に凍りついて箸を皿の上にこぼした。彼らはまたもや異次元に吸い込まれたようだ。
 今回だけはどんな言葉をかけていいのか分からず、僕達はそれぞれ合掌して眼を瞑った。しばらくどきどきしながら眼を瞑り続けていると僕の右から激しい破裂音が聞こえて荒げた声が聞こえてきた。
「おうおうおおう!!!店主、出てこいやぁ!!!」
 今まで見た事のない凄い剣幕でイータダが突っかかっていた。
メニュー名が『店主の独断と偏見定食』であり、もはやクレームをつける事態が間違いなのである事は僕を含む冷静な三人は多分同時に思っていた事であろう。
 しかしそんな事は気にも止めない様子で彼は感情のまま喚き散らしていた。同じメニューを頼んだトースが焦ってイータダを止めているくらいである。
 しばらく彼は月を欲しがる子供のような騒ぎ方をしていると、奥から物音がして何者かが近づいてくる気配がした。騒いでいる彼以外入り口の方に視線を向けると長身且つスマートな体型、髪型は素晴らしい程揃っている短髪角刈で、鋭い三角眼をしたはっきり表現すると柄の悪い男が立っていた。
 男は口角を微妙に上げながら笑いを作っているのだが、目には完全に怒りの炎を浮かべている。
「あ…あなた…はっ?」
 智さんが恐怖に声を震わせて言った。
「あん…?おらぁここの店主だよ…。」
 店主と名乗る男はそう言い捨ててタバコに火を付けた。
「何かウチのメニューの事で俺を呼んでいるって聞いたんだけど何だよ…?」
 店主は三角眼をより尖らせて、煙を吐き出しながら落ち着いた口調で言った。その雰囲気がより部屋の空気を冷たいものにしていた。
「い、いや…。…その。」
 先ほどまで勢いよく騒いでいたイータダも完全に縮こまり、ボソボソと呟くばかりだった。店主は僕達の態度を見て『チッ…。』と軽く舌打ちしてタバコをその場に捨てて踏み消した。
「おい、坊主。突っ張るんならええ加減に突っ張んなよ…。」
 その筋の独特のある深みを帯びた声にイータダは今にも泣き出しそうな表情を浮かべて無言で立ち尽くしていた。
 店主はもう一度タバコに火を付けた。
「用がないならもう行っていいか?おらぁこう見えても忙しいんだよ…。あ、一つ教えといてやるよ。独断偏見定食、ハズレの日は俺が前もってメニュー表に細工してあんだよ。後で見ときなよ…。」
 息を吐くような声で呟いてイータダの方へと睨みを効かすと、またもやタバコを踏み消して煙の如くその場からいなくなった。
 僕達は眼を瞬かせ、声が思うように出せない状態が暫く続いた。まるで狐に摘まれた感覚で、室内には未だ冷凍庫のような冷たい雰囲気が残り、流れている流行歌も無機質な音色がただただ浮かんでいるだけだと感じた。まさに全てが飽和しきっている状態だった…。

 この状態をいち早く切り抜けたのは先ほどの話でタヌキという疑いのある大ちゃんだった。
 彼は神妙な面持ちで部屋を飛び出していき、一分も立たないくらいで帰ってくると、未だ放心状態である智さんの肩を揺さぶらせた。
「智さん!分かった!分かったって!!」
「んあ…。あ、大ちゃん…。明けましてこんにちは…。」
 未だ自分の正体を掴めてないように彼は呟いて、一口お茶を飲んでは口元から零していた。
「智さん!!しっかりして!!分かったんだよ!メニュー表の謎が!?」
 大ちゃんの焦った声と自分の口から滴り落ちたお茶で胸元が濡れている気持ち悪さで彼は完全に意識を取り戻した。
「あぁ…。俺は何をしていたんだ…。」
「智さんっ!?」
 頭を抱えながら項垂れる彼を嗜めるように大ちゃんは彼の肩を強く叩いて叫んだ。
「騒々しいな…。一体どうしたんだ?」
「だから!さっき店主が言ってたメニュー表の謎が解けたんだって!!」
「な、なんだってぇ!?て言うか君、早すぎじゃないか!?ミステリーとはもっとじっくりと皆で考えるというのが定説なのではないのかっ!?」
 彼の訳の分からない言葉に大ちゃんは呆れた顔をして息を吐いた。
「ミステリーも何も…。言われて注意して見たら分かる事だったよ…。」
「何…!?」
 納得のいかない表情を浮かべた彼の手を引いて、入り口にあるメニュー表の所まで引導した。
「ほら…。これっ!」
 大ちゃんは『オススメ 店主の独断と偏見定食』の『オススメ』と書かれた所を指差していた。
「ん……?ああっ!!」
 よく見るとそこには『オススメ』と書かれているはずが『オヌヌメ』と書かれていて、しかもご丁寧に赤文字で書かれてあった。
『オヌヌメ 店主の独断と偏見定食』これも多分店主のただの気まぐれなのだろう。
 まともに読めば読むほど、真面目に考えれば考えるほど段々と馬鹿馬鹿しくなり、言葉なく二人並んで項垂れた。
 オオサカ堂とこの店を挟む道はこの街のメインストリートであり、時間帯的に社会人の退社時間と被っているはず。絶えず通り過ぎる車のライトが電気をつけているにも拘らず何故か暗く感じる店内を映しては二人の消沈している影をより深めているようだった。

 そんな二人の様子を遠くで見つめている男がいた。
 男は堂々とした態度で二人の背後へと近づいたのだが、どうやら存在に気づく気配もない。仕方なく二人の肩に手を落とすと、さすがに正気を取り戻した様子で何気に振り向いた二人は男の顔を見て同時に凍てついた表情になった。
 そこにはくわえタバコの店主が二人を見下すように立っていた。智さんも大ちゃんも背は高い方なのだが、その二人を下に見ているのだから相当な長身と言う事になる。いや、もしかしたら身長はさほど変わらないのかもしれない。店主が放つ棘のようなオーラが二人の存在を竦み縮こませているか、もしくは店主の存在を膨張させて目に映っているかのどちらかである。
 顔に深い影を作って大きく煙を吐きながらゆっくりと声を上げた。
「おい、お前ら…。そんなに俺のメニューの細工に感動したんのか?」
「か…感動…?」
 二人は顔を引きつらせながら首を傾げた。感動という言葉の使い方に軽く疑問を感じたからだ。
 一般的な使い方は嬉しい時や楽しい時に用いられるように思うのだが、二人が抱いている感情はそのどちらにも当てはまらず、恐怖の他何物でもない。まさか店主の目には二人が楽しい表情を浮かべているとでも映っているのだろうか?
 引きつる笑顔を隠して額に浮かぶ汗を拭いながら智さんは言った。
「店主、言葉遣いが面白いですね…。僕の歌詞にも代用したいくらいです。はい…。」
 声は明らかに震えていた。表情まではやけに暗く感じるこの部屋の中ではうまく確認できないのだが、智さんの闇に浮かぶシルエットが小刻みに震えていた。それはまるでかつ上げの被害に遭遇した学生のように見えなくもない。
 店主の視線は二人を見ている訳でもなく、ぼんやりと遠くを眺めながら深く煙を吐き出して、また「ちっ…。」と舌打ちをした。その音に二人はより肩を竦ませた。
 言葉もなく、三人の影が佇む、ただそれだけだった。店主は何を考えているかは分からないが、二人はこの状況をどう切り抜けようかと思考を廻らせているのだろう。微かに車の通り過ぎる音だけが聞こえていた。
 キャッシャーの横に置かれてある電話の音が鳴った。昔懐かしの黒電話の激しい音である。
「はい!お電話ありがとうございます!丸々亭でございます!」
 電話を取ったのは先ほどオーダーを取りに来たスタッフだった。
「ええっ、はい。あ、目の前に。お電話お変わり致しましょうか?はい、承知致しました。暫くお待ち下さいませ!」
 スタッフは電話を保留状態にしてその場で店主に話しかけた。
「店長!デイザーズの神尾さんからお電話です!」
「分かった…。今行くよ。」
 また舌打ちして二人を見ずにキャッシャーへと歩いていき、スタッフに軽く耳打ちをして電話を取った。
 店主がその場を離れたと同時に二人は金縛りから解けたかのように体が軽くなり、同時に深く息を吐いた。
「大ちゃん…。俺、一瞬死を覚悟したよ…。」
「俺も…。どうなるんだろうって思った…。」
 口々に想いを呟いてお互い視線を合わすとある事に気がついた。先ほどまであんなに暗く感じた室内がやけに明るく、隅々まで見えるのである。 
 やはり店主が放つオーラと淀んだ空気がそう感じさせていたのだろうか。それとも自分達の肝が小さく、店主に怯えていただけなのだろうか。どちらにしても戦慄いていた事だけは確かであった。まるで鏡を見ているかのように情けない表情を浮かべた二人が無言で向き合っていた。
「お二人方、どうなされましたかな?」
 キャッシャー側から声がしたので顔を向けると、先ほどのスタッフが机を隔てた場所で笑みを浮かべて立っていた。その横では店主が受話器に手をあててボソボソと電話対応をしている。
 恐怖を身体が覚えてしまったのだろうか。店主の姿を見るだけで心の底から指先まで粟が生じる感覚になり二人は即座に視線を逸らすと、何かを感じ取ったのかスタッフがこちらへと歩いてきた。
「お二人方、表情が優れない様子ですが、いかがなされたのですかな?」
 そう言いながら二人の前へと立ち止まった。三日月のように目を細め笑うスタッフの雰囲気さえも妙と捉えてしまい、視線を合わせる事が出来ないでいた。俯いたままで智さんが呟いた。
「スタッフさん…。さっきのやり取り見てましたか…?」
 まるで亡霊に話しかけているかと思うくらい声を細く震わせている。そんな彼の声を吹き返すように明るい口調でスタッフは言った。
「私は安藤と申します。以後よしなに。ええ、しっかりと見ておりましたぞ!」
 その言葉に愕いて二人同時に安藤と名乗る男へと視線を向けると、雲一つない空のような笑みを浮かべながら立っていた。
 愕いたのには訳があった。要するに彼は店主の前で怯えつくしていた二人をすぐ傍で傍観していたという事になる。もしかすると嘲笑っていたのかもしれない。そう考えると安藤が浮かべている笑顔がやたらと歪みつくした汚い物に見えてきた。
 たまらなく叫んだのは大ちゃんの方だった。

「安藤さん酷いじゃないですか!?俺達があれだけ怯えてたの傍観してたんですよね!?」
 感情を剥き出しにして安藤に近づこうとする体をとっさに智さんが止めた。
「大ちゃん落ち着けって!?」
「だって智さん!こいつ酷いって!!最低だよ!」
「分かったから落ち着けって!」
 そんな二人のやり取りを見ても未だ笑顔は消さず、真正面に二人を見つめていた。歳は多分三十を越したくらいなのだろうが顔の皺がやけに目立っていた。笑顔を浮かべているのだから尚更皺が深くなっている。
 安藤のこの落ち着き腐った雰囲気が大ちゃんをより逆上させたのだろう。大ちゃんの力がだんだんと漲っている事を抑えている智さんが何より感じていた。
「あんたなんか言えよっ!!なんか言えって!」
「大ちゃんっ!!」
 叫び、蠢く大ちゃんの力は強くやっとの事抑えていたのだが、より逆上してしまった彼の力をもはや抑える事はできず、遂には振り解かれてしまった。
 大ちゃんは空かさず安藤に近づいていき肩を掴もうとしたその時、やはり笑顔は絶やさぬまま安藤ははっきりとした口調で言った。

「そんなに店主が怖かったですかな…?」

 その言葉に大ちゃんは安藤を思いっきり睨みつけた。
「あぁ!怖かったさ!!何だよ!?あんた俺達の姿を部屋の蔭で眺めて嘲笑ってたんだろ!?ははっ…。あんたほんと最低だよな!?」
 呆れた顔を浮かべたが目に怒りを漲らせて言葉を吐きつけていた。それに引き換え安藤は相変わらずの表情を変えず無言のまま立ち尽くしていたのだが、目に妙な光が宿り始めている事を智さんは見逃さなかった。
 暫くはその混沌とした空気の中で二人立ちつくしていると、突然場を切り裂くように安藤が笑い始めた。
「はーっはっはっは!」
 その意味深な笑い声と不可思議な場の展開が大ちゃんの逆鱗を鷲掴みしたらしい。遂に安藤の肩を殴り掴みながら叫んでいた。
「何がおかしいっ!!」
 これはいかんと智さんは大ちゃんの体を抑えようと前に出ると、安藤はまたもや笑顔を浮かべて、落ち着きゆっくりとした口調で話し始めた。
「貴方達はどうやら大いなる勘違いをしているようだ。私の目にはお二人方に対して優しく接されている店主の姿が映っておりましたよ?」
「えっ!?」
 その言葉の意味がよく理解できず、棒立ちのまま二人は彼の顔を見ることしか出来なかった。彼は少し顔を俯かせて深く息を吐き、二人の姿を見直した。
「店主は嬉しい時も悲しいときも表情はあのままなのです。だから人々に誤解を受けやすい。私は店主と付き合いが長い故、気持ちは手に取るように分かりますよ。先ほどにも申し上げたようにあの時の店主は貴方達に対して優しさで接されていたのです。分かりますか?」
 安藤の質問に二人は我に返った。そして冷静になって店主とのやり取りを思い返してみたのだが、心には震え上がった恐怖感しか残ってはいなかった。
 蒼白し、緊張した面持ちを隠す事なく智さんが言った。
「安藤さんの言っている意味はよく分かりました。そこで一つ気になる事があるのですが、優しさで接している相手に舌打ちする仕草は出ないと思うのですが…?」
 大ちゃんも同じ事を思っていた。あの殺伐とした雰囲気の中で舌打ちされてその後に優しさで接していたなんて言われても信じられない。心がこの言葉を拒否しているのが何よりの証拠だ。
 大ちゃんも想いを言わざるを得なかった。
「はっきり言うと店主が怖かったです。正直殺されると思いました。そして、さっきはすいませんでした…。」
 安藤は首を左右に振った。
「いえ、良いんですよ。若さ故の勘違いはよくある話でございます。先ほどの質問の答えですが、店主が舌打ちする仕草はただの癖みたいなもので深い意味はございません。皆、一度は店主の舌打ちに怯えるものでございます。私も嘗てはそうでありました…。」
 彼はそう呟くと口元は綻ばしながらも虚ろな視線を浮かべて、まるで遠いあの日を思い返すかのように窓の向こう側を見つめていた。
 付き合いが長いという言葉と今し方聞いた言葉と哀愁漂う彼の姿が全てを物語っていた。
 きっと彼はあの日の自分の面影と今目の前にいる二人を重ねているのだろう。巡った日々を思い返すかのように薄笑う顔が妙に切なかった。
 安藤は気を誤魔化すように軽く咳払いをして再び二人の立つ真正面に視線を戻した.
「もう一つ補足をしておくと、店主はいつも貴方達が真剣に話している様子を気にしておられました。力つけて頑張ってもらいたいといつも料理に腕を振るわせておられます。今日は貴方達のスタジオ日だと店主は知っていて敢えて独断偏見定食をあのようにしたのでございます。」
「敢えて…?」
「どういう事…ですか…?」
 二人はまるで物事を知らない子供のような質問しか出来なかった。安藤の言っている意味を考えてみても釈然としない想いしか残らないのだ。
 間抜けにも口を半開きにしたまま呆然と立ちつくしていると、安藤は愉快に笑い声を上げた。
「まあ、貴方達の経験ではまだ店主の事は理解出来ますまい。店主は貴方達と話す機会を探しておられたのです。貴方達の中で独断偏見定食をいつも注文される方がおられるでしょう?そこでいつもとは真逆のメニューを出したらどういう反応を示すのかを確かめた訳でございます。そして貴方達は店主の思惑通りの反応をして店主を呼びつけた…。そのようなシナリオでございます。」
 大ちゃんは相変わらず呆然としているのだが、智さんは両手で自分の頬をバシバシと叩き、真っ直ぐな瞳で安藤を見ていた。何かを悟ったかのような聡明な面持ちが智さんの復活を確実に思わせた。
「なるほど…。よく分かりました。僕達はまんまと店主の謀略に嵌ったという事なのですね?しかし、まだ分からない事があるのです。何故そこまで凝った事をするのですか?話したいのであればそのまま話しかければいいだけの事に思えて仕方がないのですが…?」
 その言葉にどこか困ったような表情を浮かべて顎を掻いていた。
「なかなか良い質問ですねぇ…。ここだけの話ではありますが強いて言うなれば店主はへそ曲がりでございまして素直な表現が出来ないのです。その表れがあちらでございます…。」
 そう言ってキャッシャー台の方へそっと手を差し出し、それに合わせてその方向へ視線を向けた。そこには先程まで電話対応をしていたはずの店主の姿はなく、すり替わったかのようにドリンクバー専用のコップが五つとその手前にメモ用紙が一つ無造作に置かれていた。それにどう反応していいものか分からず困り果てて安藤の方を見ても無言で頷いているだけだった。
 仕方なく恐る恐るキャッシャーの方へ近づいて紙切れを手に取った。そこには書き殴ったかのような乱暴な文章でこう書かれていた。

『時間を取らせて悪かった これはそのお詫びだ 飲んでくれ 頑張れよ』

 うまく感情や言葉には出来なかった。
 自分の心を落ち着かすように、感情を探るかのように、智さんは何度も何度もその文章を黙読していた。
 自分でも経験した事がない感情が引いては寄せる波のように色々な波形を変え押し寄せてきている。それは分かっている。分かっているのになぜかそれを掴めないもどかしさだけ心にはあった。堪らず天を仰ぎ、目を瞑った。
 過ぎていく時間が自分の頭の中を整理させているのだと思った。そして心の中の靄は次第と晴れていき、まるで自分だけを照らしているかと思わせるような眩い光が差し込んできた。
 おぼろげにもそこに見えてきたものは『優しさと希望』の二文字だった。
自分の感情の正体を掴み取ったと同時にふと何かが頬を伝った。思わず顔を触れてみると掌はびっしょりと濡れている。

『涙…?』

 ここで始めて自分が泣いている事に気がついた。いくら拭っても次から次へと零れ落ちてくる。まるで感情が一気に溢れ返っているようだ。
 濡れた頬もそのままにしてそっと胸に手を置くと、熱く燃える炎のような心が気高く、そして激しく動いていた。かつてここまで感情を高ぶらせた事があっただろうか。自問自答しながら何とか気持ちを抑える事を試みた。
 熱い血が全身を駆け巡っている。その感覚がより脳内を研ぎ澄ませていた。

『俺達は今ここでバンドのミーティングをしに来ているのだ。無駄な時間は一刻もない。泣いている場合ではない!!』

 心の中でそう叫んで涙を拭い、キャッシャーの方を睨んでみるとそこには後ろにいたはずの安藤が何故かキャッシャー台の向こう側にいた。彼は相変わらずの笑顔でコップに向かって手を差し出している。
 一瞬目線が合い、智さんは力強く頷いて振り返ると背筋をピンと伸ばし、凛とした表情を浮かべた大ちゃんの姿があった。
「大ちゃん、行くか!?」
「ああ…。行こうか。」
 多分彼も自分と同じ気持ちなのだろうと智さんは思った。これ以上確認はいらないと思い、メンバーがいる食堂へと体を向けて進み始めた。
「智さん!待って!!」
 唐突な叫び声が聞こえてきて愕いて振り向いてみると首ならぬ体ごと捻らせて解せぬ顔を浮かべた大ちゃんが立っていた。
「どうしたんだよ!?時間ないから行こうよ!」
 いつまでも行動に移せないでいる事に苛立ちを覚えた。もう一度食堂の方へ向おうとする智さんを彼の言葉が止めさせた。
「いや、安藤さんの言葉の中で一つ気になった事があってさ…。」
 気持ちが高ぶっているせいか考えても記憶は曖昧で思い当たる言葉が見つからない。
「安藤さんの言葉?何か言ってたかなぁ?」
 どこか意味深な含みを思わせる言葉に興味を抱き振り返ると今度は真っ直ぐな視線で切実な表情を浮かべた大ちゃんの姿があった。
「大ちゃん…。どうした?」
 考えている時は小さく呟くような仕草を見せるのは出会った時から変わらない。彼とは視線は合っているはずなのだが、何故か自分を通り越した後ろ側を見ているような感覚で暫くは向き合っていた。
 心を奪われたように大ちゃんの表情を呆然と眺めているとふとピントが合っている事に気がついた。そして大ちゃんは静かに言った。
「安藤さんの言葉の中でさ、店主が俺達のスタジオ日を知っていたって言葉あったじゃん?誰も店主と話した事ないのに何で知ってたんだろうって思ったんだよ…。」
「あっ!!!」
 店主とメンバーは今回初の顔合わせであり、この店に通っていると思われる友人にもバンドの詳細まで語った事はなかった。
 スタジオスタッフもこの店に通っていると予想はされるのだが、言わばお客様である自分達の予定を外部に漏らすという浅はかな行動も考えられない。最近は個人情報保護法という強い法律ができているという事も知っていたから尚更である。
 大ちゃんの言葉を聞いて確かにその通りだと強く思いキャッシャーの方へと視線を向けると先程までいたはずの安藤の姿は既に無く、コップの前に新たなメモ用紙が置かれていた。峻烈なる想いでメモ用紙を手に取った。

『続きはウエブで…。』

 その言葉に愕然としてしまった。やはりURLは書かれていない。
 もしかするとトースが心奪われたあの落書きさえ罠であったのではないのか…?そう思わざるを得ない。
「何書かれてたの?」
 そう言いながら近づいてくる大ちゃんに軽く笑顔を浮かべた。
「仲良くしなさいって書いてあったよ。」
 そう言って食堂へと戻っていった。

 第七章 会議1 おしまい  第七章 会議2に続く

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