壁にひそむ神様を見つける 「進撃の巨人」/諌山創
「進撃の巨人」に存在する《壁》こそ、壁内人類を物理的に守り、自己を開花させるような《神様》みたいなものなのだと思う。
そのように思う考え方、つまり《思想》とは何なのだろう、と考えてみる。
このような説明は、思想をすべからく説明し得ないものだ。ある個人Aが、ある特定の思想Bを持ち合わせていたとしても、その思想Bを持つ集団が、特定の性質を共有しているとはかぎらない。個人Aが思想Bに還元できても、思想Bから個人Aを特定できるはずがない。それは、多義的な個人であるからほかならない。
統一的な思想とは虚構である。
それに対する1つの回答として、《意識/無意識的に、創造(想像)しうる、物質的/非物質的な何か》ということである。
思想が捉える世界とは、多義的な世界のことを示す。さらに言えば、多義的な世界は局所的なある場所へ縮減し、全体世界を正確に捉えることは不可能である。以下に紹介している書籍の「なぜ世界は存在しないのか」の中で議論されていることを参考にしてみる。世界とは、少なくともこの世のすべての命題に対して答えを出し尽くすまで、決して存在し得ない。それが果たされて初めて、世界が面前に現れてくる。しかし、この世の命題に対する統一的な回答が得られた瞬間、そこには何も存在しなくなってしまう。まるで、全ての真実が刹那に蒸発したかのように。結果的に、統一神を有した世界は存在しないことになる。思想によって、今いる場所を捉えることができる。しかしながら、思想による統一的な世界像は存在し得ない。
***
壁内の生活に、ある種の絶望を伴いながら生きてきたエレンやミカサ、アルミンが捉えた《世界》は、統一的な《世界》ではなかった。
そのような世界は存在しない。
ゆえに、存在しない理想の《世界》と、徐々に明白になる残酷な《世界》を対比することで、さらに絶望してしまう。
だからといって、最初に捉えた《世界》をもとに、思想を醸成しながら、何かにもがき続けてきたことは、何ら無駄ではなかったのだ、ということを考えてみたい。
《世界》という妄想
人類を守り、安寧を約束する《希望の壁》をみて、エレンやアルミン、ミカサは、こう思った。
世界は、いま私たちのいる世界よりも、ずっと広角的に拡大していて、そこには、私たちを照らすべき光がある、と主人公たちは思っていたのだ。
このような希望的観測によって、「あらゆる欲望」で膨らんでいった袋の紐が緩まり、生きる「意味」を閃光の如く炸裂させた。
眩く炸裂する光は、目視を困難にさせるだろう。しかし、かろうじて追認できた何かしらの「意味」や「理由」を、彼ら自身で見定め、自己決定を駆使しながら、《世界》に対し、もがき続けていた。
《世界》は果てなく広がり、その《世界》を、希望の《世界》を見出してみたい。
そして、そのような、まだ見ぬ《世界》は、今の私たちを救ってくれるはずだ。そう、信じていた。
しかし、そのような期待とは裏腹に、《世界》は残酷なものだった。
海の向こう側には、分断されたユートピアなどは無く、主人公たちの《世界》と接続している、同様に残酷な《世界》だった。
真実を追い求め、真実に追いやられる。全てが表裏一体の、残酷な世界。天使は悪魔であり、悪魔は天使だった。
エレンやアルミン、ミカサが、幼少期に夢見た《世界》とは、いったい何だったのだろうか。それは、空虚な妄想であったのだろうか。
《妄想》という世界
「なぜ世界は存在しないのか」で語られる《新しい実在論》とは、全ての認識や意識、空想、妄想、は確かに存在しているという前提がある。
しかしながら、その前提が存在するためには、「世界は存在しない」ことが必要であると説いている。
なぜ、「世界は存在しない」という了解が導かれたのだろうか。私が思うに、世界は確かに存在している。
その世界とは、1つの世界が実存しているという意味ではなく、多種の「意味」が炸裂する場が確かにあるのだ、という意味での世界が存在しているということだ。
「世界が存在しない」という示唆こそ、福音的であり、希望なのである。
この事実の意味を考えたとき、進撃の巨人で描かれる《巨人との交戦》《壁外人類との交戦》《交わらない思想》…、これらが表出しうる「意味」が存在する場所は統合的な世界になり得ないだろう。
であるならば、世界とはそれぞれの《無限に炸裂した意味の停留所》なのであり、各々自体は世界ではない、ということに気付くことができる。
たとえ《妄想》した世界が叶えられても、その世界を見る人類の多義性は縮減することは出来ない。《妄想》の世界は、様々な《妄想》を生み得るのだから。
しかし、その《妄想》の広角的な広がりこそが、《世界》であり、その《世界》とは、おおよそ存在しない、ということである。
言い換えれば、《妄想》という世界を、一瞬でも捉えることが可能であっても、《世界》全体を捉えることは出来ない、ということだ。
なぜならば、統合的な《世界》全体とは、この世に存在するすべての物質、思想、観念、病気、恋、性…について、すべからく説明する必要があり、その統合的世界像とは、もはや目にすることはできない、追いつくことは出来ない《背景》であるからだ。
しかし、これらの事柄により、「今いる世界と思われる自己の環境は如何様にも変化しうる。」という福音的な性質を見出すことも可能だ。
《敵=巨人》という妄想から得られるもの
巨人はまごうことなき敵であり、それをすべて駆逐しさえすれば、広角的なユートピアが出現するのだろうという希望的観測、一種の《妄想》が、主人公たちの原動力になった。その事実からは、目をそらすことは出来ない。
しかしながら、その事実からは、統合的な《世界》(ユートピア)が妄想されただけに過ぎない。ゆえに、このような世界は、何の確証もないため、存在に耐えられない。
しかし、そこには、存在しない、という事実が存在している。実は、その事実だけで十分なのであろう、と私は思う。
***
「自分は一体何であるのか」、と考えたことがない人はいないだろう(と思う)。
科学的世界像や物質主義(唯物論)が、一種の合理(いってしまえば宗教)として支配している現在では、「自分」とは言わば「脳」であり「ニューロン」である、という思想が一般的であるかもしれない。要するに…
であるなら、「脳」が「脳」をイメージすることで、「脳」が消え去ってしまうことに、どのように理由をつければいいのか。
イメージは存在する。「イメージは存在する」というイメージも存在しうる。イメージの広がりは、世界そのものである。
しかし、イメージが存在することに関しては、最後まで追求することは出来ない。
よって、何かを統合する世界、《神》的なものは、存在しない。
しかし、《神》は一人一人に確かに存在している、何かの思想なのである。
ゆえに、主人公たちが《敵=巨人》という考えの元に行動し、それによって《世界》を取り違えてしまった、ということには必ずしもならない。
《敵=巨人》という、この図式から得られるものとは、「自分自身の探求」、つまり、「自分は一体何であるのか」という問いなのではないか。
壁、私、巨人、そして…
エルディア復権派の父親のエゴ、いわば強力な民族帰属意識の結果、始祖の巨人の力を持ったエレンが誕生した。
それは、エレンにとっては、単純化できない、忌むべき事態であると、後に気付くことになった。
エヴァンゲリオンのシンジと同じように、忌むべき事態を肯定するために、エヴァパイロットとして/巨人として、存在することになった。
その選択については、正解/不正解の2択で明確に回答することは出来ない。その回答への価値は、平等に両方に存在しているからだ。
そのとき、エレン/シンジはこう思ったことだろう。「自分は一体何であるのか」という風に。
自分という人格と、自分という他人が、真正面で正論をぶつけ合う作業である。
だれもが自分を他者化して、自分が一体誰で、何のために存在しているのかを知りたがる。
***
人類(エルディア人)を囲む壁とは、《私自身の中にある(私を見えなくする)壁》である。
そして、壁の向こう側には、《私自身》が居るはずである。
よって、巨人とは敵であり、私たち自身である、という結論になる。先ほど述べたように…
***
実際に、調査兵団ひいて壁内人類は、壁外調査によって、様々な知見を得ることができ、それによって多くの命を失いつつも《世界》の枠組みを見通せるところまでたどり着くことが出来た。
「私」「人間」とは何かという問題への回答が、あと少しで手に届くところまで来たのである。
しかし、その問題を完全にクリアしたとして、それがクリアしたという《妄想》ではない保証も存在しない。
そして、全ての真理を揃え尽くした《世界》を捉えることは出来ない。悪魔も天使も、同じ顔をした表裏一体の存在なのである。
しかし、意味が炸裂した世界において、ある1つの「意味」を見いだせるという事実は、否定することは出来ない。
たとえ、その「意味」が、誰かにとっての「無意味」であり続けたとしても。世界は、意味が無限な基層になっているような、形態のつかめないものであるのだから。
(巨人の力とエルディア人について、そして壁内人類は平和思想をもつフリッツ王が先導したエルディア人の一部であるということが実際にわかった、という事実がある。)
壁=神的なもの
それは、偶像崇拝をすすめる宗教団体が説くような《神》としての、神的なものではない。
《神》は存在しない、という洞察から得ることのできる、自己の探求こそ、神的なものである。
そして、その探求を可能にするのが、自分自身の心に存在する《壁》であり、「進撃の巨人」に実在する《壁》そのものである。
《壁》の存在こそ、《神》的なものである。《神》の機能とはいわば、止まらぬ自己探求そのもの、である。
私たち自身が、さまざまな《壁》に隠されているからこそ、自己の存在とは不安定のままである。
しかし、それはいいかえれば、何物にでも変容できる、可塑的な自分が存在しうるという事実を指し示す。
《巨人》と敵対するための、意味/自己を探求することは無いにしても、主人公たちは、何かと対峙しながら、「自己の意味」を考えること、そのための思想を作っていくことを止められるものは、決して無いのだろうと思う。
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