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五線譜で縛られたハーモニーに私自身を見た 「ハーモニー」/伊藤計劃

ユートピアの臨界点を描き出した、国産SF小説「ハーモニー」を読了しました。(少しだけネタバレあります。)

あらすじ:21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ駆逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する”ユートピア”。そんな社会に潜んだ3人の少女は餓死することを選択した。-それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を押そう大混乱の影に、ただひとり死んだはずの少女を見る。

およそ10年前時点での、サイエンスフィクションが、もはやフィクションとも言えなくなりつつある今、本著を読む意義があると感じます。


利己的な私、社会的な私

〈死〉という出来事や、その〈死〉に付随して忌むべき存在とされる、〈病〉や〈老い〉について、考える。

「人が〈死〉という究極の痛みを退けることで、今の〈生〉を得ることができている。」という現実の捉え方は、果たして正確なものなのだろうか。このような問は、「ハーモニー」で重要なものです。

人が〈生〉を全うすることというのは、〈死〉という痛みを避けるため、個人的/社会的に参画することを示すのか?

私という特異的な個体の〈生〉にとって不要と考えられる〈物質的障害〉や〈心理的障害〉、利己的な〈思考〉や〈常識〉は、私の内から外へ追い出すべきなのか?

追いやるべきであると考えるのであれば、そこには非合理的な〈自殺〉〈殺人〉〈非社会的行動〉〈病〉…などは、全て存在しなくなることでしょう。

私は、追いやるべきであるとは思えない。何かに対して、「理に適っていない」と考えることは、もともとこの世に刻み込まれた規範ではない、と肯定したいからです。

今従う〈規範〉とは、人と人が相互に関与することで、始点も終点もないような偶然的な意味にほかならないと思うのだ。

人が相互関与するためには、まず相互に絶対的な存在であってはならない。絶対的な事実は、事実の相対化を阻む。相互に揃って初めて認識できるような、相対的な存在であるべきです。

個体の〈生〉に、不要とされる〈物質的障害〉や〈心理的障害〉、利己的な〈思考〉や〈常識〉は、存在するべきであると考えます。

しかしながら、個人的な〈痛み〉他者に押し付けることはナンセンスであるとも思うわけです。他人の〈規範〉を侵してはいけない。〈自殺〉〈殺人〉〈非社会的行動〉〈病〉などの行為に関して、個人的観点のもと、簡単に否定してはいけない。

誰もが、ただの〈私という一個人〉にほかならない。事物に対する「正否」の判断は、何らかの〈社会性〉に依存していることに目を逸らしてはいけない。その視座で他人の〈規範〉を侵すことは、虫のいい話過ぎる。

社会的〈規範〉は、しらずしらずのタイミングで、身体に、血液に、脳みそに、植え付けられているかもしれない、という構造を、『ハーモニー』から感じ取るべきだと思う。


このよう視点をもちつつ、自身に問いかけてみよう。
「私は今〈どこ〉に居るのですか?」と。



負への〈痛み〉

一体どのくらいの痛みがあれば、わたしはわたしでありここに痛みを感ずるものとして在るを主張できるのであろう。

何某がの〈痛み〉の深度は、未来をも見通すのだろうと思います。

〈痛み〉という触感、感情は、私個人の歴史になる。その歴史とは、まさに見通すことのできない未来の私によって、照らされ続けています。または、照らされ続けていると思わないと、今の〈痛み〉を和らげることが出来ないのでしょう。

〈痛み〉を知れば、未来を見通せる。私の未来から、その〈痛み〉が、今の私を含む歴史を、明るいものとして照らしてくれています。〈痛み〉は、誰かの、または私の〈痛み〉に対する救い、になると信じて。

しかし、適正な〈痛み〉であれば、という話です。過小でも過剰でも、いけません。


存在の所在

意識と現実は同じ意味じゃないでしょうか。

主人公と対峙する、とある人物の発言ですが、これはいわゆる、自然主義に傾倒した言葉として受け取れます。

私たちが観る〈現実〉は、〈意識〉の閾値を超えることなく現象するしかない、という意味です。

要するに、あなたの意識を司る(と言われている)脳が、今観察できる〈現実〉を見せているに過ぎない、ということです。それは、〈現実〉が存在しない、と説くのと同義です。

それでは果たして、あなたはいま〈どこ〉に存在しているというのでしょうか。


完璧なハーモニー

かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。

誰のなのかもよくわからない〈痛み〉に対して、過剰に接続するわたしたち。それは、同族嫌悪を生み出す。また同時に広大な多義性によって〈存在〉の所在が不明になっているという、矛盾な離接を反復している。

私の古傷を抉り倒し尽くす、不快な誰かの発言を、私は徹底的に排除しようとする。そして、そのような継ぎ接ぎのDNAとしての私は、永遠に所在不明なのです。

このような世界において、人間は社会的動物としての実存を維持するために、〈健康〉であろうとします。〈健康〉こそ、資本主義時代の人的リソースに欠かすことのできない条件です。

〈健康〉の〈生〉が完璧に、監視され、維持されている「ハーモニー」の世界では、自分の実の権力が行使できる最後の砦、〈死〉をも管理監視されながら、いまを〈生〉きることを強いられます。

そして、このような〈健康〉志向社会は、人の〈意思〉や〈感情〉へも手を伸ばし、全てを完璧なハーモニーのもとへと誘う帰結へと向かいます。


***


そのような五線譜の上で踊り狂うしかない、〈ハーモニー体〉を、あなたは受け入れられますか?



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