見出し画像

『アホ』だらけのオーケストラの世界

あなたの友人の中に、「奇人」「変人」「アホ」な、愉快な人が、1人くらいはきっといるだろう。

アホには、良い「アホ」と、悪い「アホ」の2種類が存在する。
それらは平衡しているために、そこまで顕在化されないが、それにより、さまざまなグループや組織は、諸々を維持(表現や技術、組織としての素質など)することについて、苦心を伴うのだろうと思う。それは、オーケストラという団体にも当てはまる内容だ。

クラシック音楽という分野は、人を悪い「アホ」にさせる。それが意味するところとして、クラシックのイメージを貶めることに繋がりうることも、否定できない。


『アホ』とは

「アホ」にもいろいろな「アホ」が存在するというその直感が絶対とは限らない。人の直感を決める無意識的な規範性というのは、非常にもろいものだ。そこに、まず気付く必要がある。

その、「アホ」の定義に対する議論を軽々しく無視するような、思考の希薄さが、あなたを「アホ」そのものにしてしまうことになる。


ここでいう「アホ」とは、良薬/悪薬になるものである。


良薬/悪薬としての『アホ』

私個人的な考えになってしまうけれども、この「アホ」は、かなりオタクチックで、ロマン的で、叙述的/抽象的な表現が得意で、不文律への懐疑心がある、という人を想像する。これらをすべてそろえている人は、かなりの「アホ」である。手に負えない、愛すべき「アホ」である。

しばしば、クラシックは「宗教」的な側面を帯びがちである、という妄想を抱かせる要素が多すぎる。その理由としては、2点ある。

まず1点は、クラシック愛好家の自縄自爆行為にある。クラシック愛好家がクラシックを好きな理由としては、そのクラシックという曲にある「不文律」にある。暗黙知という表現よりは、その人自身の「不文律」そのものということである。その「不文律」は固着しているので、なかなか変化させることが出来ない。また、当本人も変更する必要がないと思っているし、無意識的な意識であるがゆえに、修正をしようと想像することすら不可能なことがしばしばある。ようするに、自分自身の「コレ!」というこだわりは消去不可能であり、それをもとにした行為や言動に、周囲が「引いて」しまうのである。

2点目は、上記した不文律のような、「絶対的な事実」がある、と妄信することにある。ある曲には、この曲の「絶対的な事実」があるということだ。わたしから言わせてみれば、そのような絶対は絶対に存在しないと確信している。わたしは、《その曲の解釈が一様に決まる》という悪薬としての「アホ」の言っていることが理解できないし、そればかりか、少し軽蔑もしている。そもそも、よく考えてみればわかることであるのに、なぜそれを放棄してまで、その絶対にすがってしまうのか。もはや、意地であるとしか思えない。

例えば、ショスタコーヴィチの研究本を読みふけることで、ショスタコーヴィチに関した情報(出生・家族構成・経歴・作曲歴・父としての行動・思想など…)を全て網羅し、自分自身に何かしらの「絶対的な事実」を落とし込めたとしよう。その「絶対的な事実」によって、ショスタコーヴィチの作曲において、全てを語ることができるだろうか。全てを語ることが不可能であったとしても、一部分に関しては語ることが出来るだろう。しかしながら、それは一部分に留まるに違いない。

そもそも、何かしらの研究本というのは、いったい「何次」の情報なのだろう、と想像してみればいい。まず、1次情報は、「ショスタコーヴィチから直接聞いた情報」である。2次情報は、「ショスタコーヴィチの音声や直筆から伺える言葉たち」である。3次情報からは非常に複雑になってしまうかもしれないが、いうなれば「外部要因から見たショスタコーヴィチの置かれた状況」など、だろうか。

注目すべき点は、2次情報の時点で、その2次情報に触れた人の「解釈」が挟まれてしまっていることである。「絶対的な事実」には、このような「解釈」は不要で邪魔なだけであり、「絶対的」なものから遠ざけてしまう、要らないものである。

よって、そのような入門本においても、現時点では圧倒的な信頼のおける情報かも知れないが、所詮は1次以降の情報に過ぎない。それを崇拝し、その情報を媒体に、自分の「解釈」を作り上げる、という行為は、かなりの「アホ」がする過ちである。その後に、《絶対的宗教》ができあがる。

では、何を信じて、曲を聴けばいいのだろうか。
その曲について勉強し指揮棒を振っている「指揮者」を頼るべきなのか、それともオーケストラの仲間から情報を掻き集め、「解釈」を作るほかないのか。何度も言うようであるが、「指揮者」から集めようが、「仲間」から集めようが、それは純粋な情報ではない、ということだ。
なので、「指揮者」も「仲間」も、全く信用には値しない存在なのである。


オーケストラには、このような宗教的側面がある限り、たった1つの不可視な「不文律」が存在してしまう。良薬としての「アホ」は、ある種の空気の読めない発言や、疑問提議によって、その「不文律」をかき乱し、「絶対的な事実」としてのクラシック曲を崩壊させ、再生させる力がある、ということである。

悪薬としての「アホ」とは、絶対的宗教に属した妄信的な幻覚を見ている人のことである。わたしは、「指揮者」こそ、そのような幻覚に惑わされている(というよりも、「自分自身も無自覚に奏者を惑わしている」、という表現の方が適切かもしれない。)哀れな知識集合体なのではないか、とさえ思える。

「指揮者」の役割は、自分自身/作曲者を代弁する媒体として何かを表現したいという欲望によって、奏者を導く人のことである。であるため、指揮者によっては、同じ曲であっても、まったくの別の曲に聞こえることがしばしばあることは、容易に理解できるだろう。まさに、「指揮者」の役割とは、その目の前に広がるオーケストラへの指揮棒による表現の指示、他ならない。私たちはその時、「絶対的」な勘違いを犯しているかもしれない。その、一指揮者が指示し、指揮する「曲の世界」が、まさに絶対的宗教の信仰対象、いわゆる《神》が住んでいるような世界であると、悦に浸ってしまう、そのような経験はないだろうか。それは端的に言って間違いである。

「指揮者」は1次情報を伝えるような、作曲者本人でもないし、神でもない。「指揮者」はN次情報の媒介者であり、それはいわば、乱暴に言ってしまうと、虚構な情報源である。

ゆえに、常に目の前の曲に疑いを持ち続けなければいけない。それを、純粋に実行可能な存在として、ある意味無知な、良薬としての「アホ」がいるのである。


『アホ』の例

1、「指揮者」
絶対に信じてはならない。そのように断固たる決意が必要なほど、指揮者は強力な存在である。コンサートのために曲を仕上げる「まとめ役」としての指揮者の存在は絶対的であるべきだが、「指揮者」として、曲に関して何かを雄弁に語り始めたとき、それはN次情報よりもさらにひどい妄想、「個人のフィルター」を通した、「N+1次」情報である。
いま目の前の曲をある期間までに仕上げるための、一時的な理解としてその「N+1次」の情報を頼りにすることは「絶対的」であるが、それが曲自身の「絶対」との同一性をどの程度示すのかということについては、皆無と言っていい。

2、「団員」
同じ団員として信じるべき存在である。しかし、先程の指揮者と同様、「団員」も曲に対しては絶対的になれない。
信じるべき「団員」とは、知識が乏しいと自覚できるような、または、曲解釈のための学習をしながらも、まっさらな下地のままでいられるような団員、などである。
そのような団員には、ある程度信用を置きながら、ともに曲に関した議論を繰り広げるべきである。

3、「本」
商業主義的な側面のある「本」に、作曲者の詳細が記載されていること自体に、まず疑問を持った方がいい。本は売れるために売られる。売るためには、恣意的な情報の選択があるかもしれないからである。
また、すでに何度も指摘しているが、その本に書かれた情報は、1次情報ではない。いってしまえば、何の根拠もない、作曲者に関した歴史書である。義務教育で習う日本史や世界史の教科書に比べると、著者の考えや想定も豊富に盛り込まれているので、非常に厄介である。
そもそも、歴史とは、その都度修正し改訂されてきた「歴史」がある。その視座に立って考えれば、今知り得る情報も全てを信用してはいけないはずだ、という思考回路にチェンジできる。


そうなれば、何を信じればいいのだろうか。


『アホ』な自分を少し信じてみる

自分を信じてみる、という選択しかない。しかし、それは結局、幾重にも重ねられた虚構の情報に頼るほかなくなってしまうことも考えられる。それは避けなければならない。たとえば、何かの曲を聴いている際に「悦」な状態に入っている時の自分には注意すべきである。その曲を規定する経験というのは、何か際立って存在していたり、感じたりする際に起こりやすい。特に、「アハ体験」的に、ある曲に対して「悦」を感じたときには、その「アハ体験」が曲の全てになってしまう。少数のもの(少数の経験)は、際立って目立ちやすうえに、記憶にも残りやすいからである。

様々な曲を聴く際に、感動したり、泣いたり、怒ったりすると、その感情が曲のすべてを規定してしまう。なので、そのような情動が現れた瞬間、即座に「冷静に俯瞰する立場」に立ち返れるようにすべきである。まずそれが、「アホ」な自分になるための第一歩であると思う。

しかしながら逆説的に、そのような情動が突き動かされるような経験を、無限に積むべきである。やはり、自分が好きな曲などには、感動してしまうし、泣いてしまうし、怒ってしまうものである。これは、避けるべきであるが避けることはほぼ不可能なものだ。(自分の経験上そう思う。)

感情については、最終的には「冷静に俯瞰する立場」を活用して徹底的に避けるべきであるが、そのような事態に怖気づき、膨大に存在する音楽を、幾度となく聴く機会をも避けなければいけない、ということには繋がらない。

やはり、何度も感動する音楽に出会うべきである。しかし、その都度、自分を冷静に見つめなおし、この感情は、その日の記憶として、そっと横に置いておくのである。その次に同じ曲を聴くとき、最初に聞いた時と同じような気持ちで、その曲を聴くために。


『アホ』は神を殺せる

残念ながら、多少の「宗教」的な側面のあるクラシック音楽。宗教たらしめているのは、まさにクラシック愛好家自身であり、また、「絶対的な事実」があると妄信する奏者や観客、なのである。

これらの人は、悪薬としての「アホ」である。良薬としての「アホ」を目指すのであれば、まず自分自身を信じて曲を聴き、その時に得た感想はその時のものとして横に置いておくか、忘却の彼方に葬ってしまう。それによって、そのまっさらな経験を幾度となく積むことで、純粋な1次情報的解釈を得ることも、可能になるかもしれない。

しかし、良薬/悪薬としての「アホ」は、表裏一体の存在同士である。悪は良にもなるし、良は悪にもなりうる。

「不文律」をぶっ壊す「アホ」が増えれば、今までの前提としての「神」を殺すことだって可能なはずである。きっとその瞬間が、最高に「悦」の瞬間なのであろう。けれども、忘れてはいけない。いつでも「冷静に俯瞰する立場」を心にもつことを。

その連続した経験が、クラシック音楽の地位を高めてくれるはずだ。必ずや、大衆音楽として再興するための、起爆剤になる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?