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僕が間違っていると世界じゅうが告げるなら、世界が正しいに決まってる。そう信じてた。

表題は、以下の記事から引用しました。

#pridemonth

〈同質性〉に依拠した〈非同質性〉を志向する(させられている)自分自身には、真なる自分自身の物語など、存在していない。「行き場のない放浪者」とは、「規定性のある目的以外の行き場がない放浪者」とも詳細できる。行き場がないのではなく、行き場があらかじめ決定づけられている、ということだ。私たちは、〈非同質性〉を周囲の他人から気付かされるに至るが、その気付きに対して、純粋な気持ちで向き合ってはならないのだ。なぜ、〈非同質性〉に気付くことができたのだろうと、その視座からの疑義を徹底的に自分自身に課すべきである。

「物語」の内容の論理性や整合性とは、その「物語」を語る術である以上には存在しえない。そのため、その「物語」の論理性と整合性は、その「物語」を物語るものではない。「物語」は物語そのものであるために、第三者による「物語られる」現象が必要なのだ。ここがまさに核心ではあるが、その語り自体は決して「神的」なものにはなり得ない。神には(存在しているならば)「受動」がゼロである。なぜならば、神とはいわば絶対的な、無媒介的な、超越論をさらに超越した現象を説明しうる唯一の存在なのであり、その神から全てがもたらされるからだ。神は「する」という行為しか存在するはずがないのであり、媒介的な作用によって発現する、「される」という行為は神にはないのでなけれならない。神は、神の内から何らかの行為を引き出し、後に「する」、そして、その行為によって何かを生み出し、よって生み出されたものは、神が生み出すありとあらゆるものに翻弄「される」運命にある。

私は、私たちは熱狂的な「物語」に語「られている」、と前回のnoteで述べておいた。この語られるという行為を、完全に否定できる者はおらぬだろう。Aという行為をおこなう主体がおり、その主体はAを自発的に「している」、と考える。しかし、Aという行為が純粋に自発的で、完全に能動的であると述べるのであれば、それは私自身がAという行為自体を生み出した「神」なのだと主張することと同義であろう。さらに詳しく言い換えてみよう。するとこうなる、「何らかの物語」という行為をおこなう主体がおり、その主体は「何らかの物語」を自発的に「語る」、と考える。しかし、「何らかの物語」という行為が純粋に自発的で、完全に能動的であると述べるのであれば、それは私自身が「何らかの物語」という行為自体を生み出した「神」なのだと主張することと同義であろう、と。さらに、私の語彙を用いればこうなる。「偶像的全体」よりもたらされる行為をおこなう主体がおり、その主体は「偶像的全体」を自発的に「語る」。しかし、「偶像的全体」よりもたらされる行為が純粋に自発的で、完全に能動的であると述べるのであれば、それは私自身が「偶像的全体」よりもたらされた行為自体を生み出した「神」なのだと主張することと同義であろう。一義的な神を想定する形而上的なものは、逆説的に、この現象によって終焉を迎えている。これは、凄まじい程の《熱狂的行為》である。この《熱狂的行為》は、非素朴的な、独断的な、信仰的なファクターを練り上げる作用があるだけでなく、「偶像的全体」を異種的に変形させ、さらなる不可視化を加速度的に増強させる効果があるのだ。

以前にこのような定義を示した。

①イデオロギー(非同質的偶像的全体)=新実存主義的なもの
 また、「1つの目的を志向させる」という観点により
②イデオロギー(同質的偶像的全体)⇔〈起源的世界〉
 という形式の同一性を見て取れる。

①は②のような、ある1つを志向する目的論的行為を崩壊させる作用がある。すなわち、①の《非同質的》とは、いわばメイヤスーが言うところの「祖先以前的言明」である。

「祖先以前的言明の文字通りの解釈とは何なのだろうか。それは、祖先以前的言明の実在論的な意味が、その究極の意味なのだという信念である。つまり、その理解をさらに深められるような他の意味の領域などまったく存在しないし、ゆえに哲学者による遺言補足はその言明の意味内容を研究するにあたって問題外だという信念である」
「有限性の後で」/カンタン・メイヤスー p30

祖先以前とはつまり、人類が存在していなかった年代のことを指す。さらにいえば、人間による人間に対する思考や興味がまったく存在していない状態を示している。ようするに、祖先以前的に何かを「語る」という行為とは、上記に記されている通り、その究極の意味だという信念が端緒にある。つまり、祖先以前的に語ることができる私というのは、「私の私それ自体」であり、それは「私の物自体」であると想定が可能のドメインであるということだ。祖先以前的に語ることのできる私は、私という神を私の中に据え置き、何事も完全なる能動性をもって、語ることができる存在であるということができる。それは、私が言うところの、「非同質的偶像的全体」と相似を成している。ちなみに、「偶像的全体」は完全なる悪者ではなく、そのように「偶像的全体」を述べているつもりではない。不可視的に存在しているこれは、いわば「倫理的潤滑油」の役割を果たしているものだ。そもそも、何かしらの全体性が無ければ、人間は簡単に逸脱する。人間は人間を統制し、「増殖」し、社会を構築する。このような背景でもって、「偶像的全体」を完全に放棄させることは、無謀な試みに過ぎない。私の主張は、そこにはない。《非同質的》な志向を持ち《同質性》に抗うことで私自身の〈起源的世界〉をサバイブさせる、という点に私の言い分がある。たしかに、《非同質》は《同質》を私の中で認めることによってはじめて発覚する事実であると述べた。これは、私は私以外の人間に常に関わっているためだ。私の内部には、たしかに他者が、さまざまな概念の形態として、存在しているのかもしれない。しかし、だからと言って、私自体を諦めることはできない。私は、《非同質的》な私を発覚するに至ったとしても、それを《同質的》な事実が周囲を縁取って《非同質的》な事実を浮かび上がらせたのだとして結論し、諦めることは決してしたくないのである。多くの〈交差点〉に惑う私自身であっても、他者との相関を生きているのではない、と常々明言したいのである。《非同質的》な事実を、相関的な他者による産物であると認めた瞬間、私はそこで完全にストップする。そして逆説的に、《熱狂的行為》としての「語り」が、激しいファンファーレの中、開始されるのである。それは先に述べたところの、非素朴的、独断的、信仰的な物語のプロローグである。

主体は、世界の中に位置づけられることでのみ、超越論的になるのだ。そうした主体は世界の有限な一側面しか見出すことができず、決してその全体性をふたたび取り集めることはできないのである。」
「有限性の後で」/カンタン・メイヤスー p47

先験的な主観(超越論的主観)は、その「語り」に現れている。つまり、多種の事実の相関によって、その主観が措定され、超越論化し、主体は世界に位置づけられる。それによって、この主体は、何かを「語り」はじめるに至る。この言葉にはある事実が2つほど示されるように思われる。「超越論的主観という世界の視点」、もう1つは「全体性のある世界の想定不可能性」という2点である。

超越論的主観によって、世界は切り取られる。そして、私の中にとある世界が発生する。この発生により、超越論的主観の以前と以後という区別が発生するが、そのような区別は無媒介的で透明なものを生み出す、「偶像的全体」である。そして、私自身はとある世界という場に措定されていく。これはいわば、「祖先以前的言明」と相似を成す事実である。超越論とはいわば、何かしらの条件によって私たちの認識が成立させられる形式のことを示す。つまり、それはもはや「祖先以前的」なものではない。超越論では、私たちの認識はある条件に左右されるのであると説明し、世界を混乱したものとし得る。しかし反対に、「祖先以前的」はどこまでも無垢で究極的な意味への信念、なのである。超越論的主観が、私の以前と以後に切り取ることと、「祖先以前的言明」によって人類の発生以前と以後に切り取ることとは、時間性に依存している点で、非常に相似的(近似的といってもいい)である。しかし、その内実は相互に相容れないものなのである。超越論には、その以前と以後を明確に切り取る事実があらかじめ用意されていなければならないのであり、その事実は超越論的なのである。超越論が超越論によって語られる事態とは、端的に言って迷走している論理だと言わざるを得ない。一方、「祖先以前」という空間によって発生する以前と以後の区分とは、自然科学の範疇で示されるような、脱中心化した数学的言明によってなされるのだ。脱中心化されるのは、まさに私という存在である。脱中心化された事実は、限りなく非相関へと近似していく。「祖先以前的」な言明の《非同質性》が醸成され、信念としての「究極的な意味」を示しうるのだろう。

「物語」を語り、カミングアウトを誘導する個人や世間は、超越論的主観を信仰する主体である。その当事者には、自身の主観の以前や以後は見えていない。現在からの主観以前の問題を、決して見ることはできない。なぜならそれは、当本人が、超越論的主観を持つ媒体である、と無意識に認めているからである。過去は現在の視点から後方投射して視認した産物になるしかないということを暗に了解しているのだ。ならば、主観とは、一体何を語るものなのだろう。その主体は、一体何を主張し、カミングアウトを誘引するのだろう。《同質性》が蔓延る現在は、非常なまでの超越論的主観が錯綜する、整理整頓されたカオスの世界が示されている。上記に記している通り、そのような世界には、有限な一側面しか見出すことができない。この事実の後に、もう1つの事実、「世界の想定不可能性」が発生する。この事態については、ガブリエルの言葉が参考になる。

「わたしたちは、けっして全体としての世界を捉えることはできません。全体というものは、どんな思考にとっても原理的に大きすぎるのです。しかしそれは、わたしたちの認識能力のたんなる欠陥のせいではありません。世界が無限にあることに、直接関連しているものでもありません。むしろ世界は、世界の中に現れることが無いから原理的に存在しえないのです。」
「なぜ世界は存在しないのか」/マルクス・ガブリエル p23

(多少の誤差がありそうですが)上記した超越論的主観は、ガブリエルの言う「意味の場」に現れる対象に示される特徴であろう。ある主観を持つ者は、ある場に現象することによって、その場に存在する、という理論である。存在は、現象して初めて、特徴的な存在として特定の「意味の場」に表出する、ということだ。

(例:「10」という数字を想定する。この「10」はまず、さまざまな意味に現象する。「5+5」であったり、「5×2」であったり、「値段」であったり、「じゅう」であったり、「ten」であったり、「11の前の自然数」であったり…。「10」とは10という対象領域から逃走し、足し算、掛け算、モノの価格、ひらがな、英語、数学などの、さまざまな「意味の場」において、突出した表現方法が存在しているのだ。)

超越論的主観、または「意味の場」において、世界はたしかに発生していると私たちは思いこんでいる。しかし、その場において世界は決して存在していてはならない。本質的な世界を想定する時、その世界は無媒介的で不透明である。それは、そうでなければ、神は完全なる能動性を保持できないためだ。また、可視化できないものが世界であると想定したとして、その世界が「全ての主観や意味の場を包括する世界」であると仮措定しよう。すると、世界が複数存在することになってしまう。「意味の場」に属する私は、その「意味の場」によって、または超越論的主観によって世界を想定するに至るが、そうなれば、世界が世界の中に存在することになってしまうことが分かるだろう。整理整頓されたカオスの世界とは、まさにこの事態を示すもので、おびただしい数の世界がカオス的に存在するすべてを包括する世界、を表現しているものであったのだ。

こういった事態を、「悪」と見なしたいわけではない。私たちはやはり、何かの全体性に依拠してしまいがちである。しかし、その全体性を真に認めつつ、さまざまな現象が確認できる「意味の場」の間の移動、いわば超越論的主観の軽やかな視点の移動を、相関性という性質を飛びこえて行為する必要があるのだろうと思うのだ。色々な世界があると思う自己を確認しつつ、しかしながら、その場に本質的な世界は存在しないと振り返ること。その場にはたしかに、その「意味の場」に仮措定された現象的存在が生きているけれども、ほかの場にもその対象はきっと存在していて、また違った現象をして生きているのだろう、と相関を恐れず思考すること。そしてのちに、相関性という「自己の有限性」を越えた、真に超越的な自己を見出す精神へと辿りつくだろうと、非相関的に思考すること(かなり難しいが…)。ここには、《非同質》な性質の多重性を見て取れる。つまり、対象が《非同質的》に現象する「意味の場」が多く認められる世界、ということだ。その世界は決してカオスなのではなく、まさに精神の後退を退けることが可能な「意味の場」が集結した《世界》なのである。

もしかしたら、その世界には、「カミングアウト」という言葉さえ、見つけることはできないのかもしれない。

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