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ストーリーとか人生は脈絡が無いからこそ面白いんじゃないの? 「竜とそばかすの姫」/細田守

「竜とそばかすの姫」の文庫版を読了しました。

基本的に映画のストーリーラインとほとんど同じで、登場人物の背景や設定、心象描写などが詳しく書かれている感じです。

「映画」⇒「文庫本」⇒「映画」の流れで見てみると、また違った印象を得ることが出来そうです。



ふわっとしたストーリーライン

「ふわっ、としたストーリー」と映画でも、文庫版でもそのように思いました。設定やその整合性、緻密性に関しては、「粗」があるのは否めないかもしれない。おそらくこのような設定の整合性や緻密さを重視する鑑賞者には、その部分に気になって映画に集中できなくなってしまうようなことが起こるのだろうと思います。

そのように思わざるをえない理由も、どこかにはありそうである。「人生という物語」について、それに整合性の欠如があるという事実を避けたい心の存在に、そう思い込んでしまう要因があるのではないか。地に足をつけて確実に歩めるような人生が前提にないと不安で心許ない、ということなのではないか…。

そんな「竜とそばかすの姫」では、様々な人物が登場します。いづれの人物も《脆く》《弱く》《虚勢を張り》《どこかを欠いている》存在として登場してくることには、注目すべきです。

スポンサーという仮の《脆い》信頼関係を盾に自分の正義感を絶対的なものとして行使するジャスティン。もう一度落としてしまったら必ず割れてしまうだろう《脆い》コップ。生まれながら前足のない保護犬として飼われている《弱い》犬。主人公の鈴の友人ヒロちゃんは、友人でありつつ、鈴に対する優位性に《虚勢を張り》鈴を導いていたようにも見えなくはない。直接描かれていないが、鈴の父親は鈴と相互に《脆い》関係になってしまったことに自己嫌悪しているように見える。主人公の鈴自体は、家族に所属するにあたって母を《欠いている》。〈U〉に存在するアバターのAsたちは、美男美女からキメラのようなものまで幅広く存在しており、現実と同様ルッキズムにあふれ、自然と上下関係的な《虚勢の張り合い》が発生している。など。

このように、文庫版を読み進めると、枚挙にいとまがありません。

「You hurt me.」赤ん坊As(現実の人間)がつぶやいた言葉です。傷つけられたと主張する人間は、誰に傷つけられたのかを追及したいのと同時に、「私を大事にしてほしい」という点を重要と考えるのでしょう。赤ん坊は自身を守るために、周囲の人間にわがままを要求するのに必死にならざるをえません。泣き喚かなければ、自分の生存が危ぶまれるからです。そして、オリジンが成人である赤ん坊Asも同じく、「傷つけられた!」と叫ばなければ、自分の生存が不安定になることが分かっているのです。それは、子供であり大人な人間ですよね。しかし、「子供」や「大人」って、なんなんでしょうね。

誰もが何か、《欠けた存在》であることを明瞭に認識する瞬間は、いったいいつ訪れるのでしょう。

先ほど述べた、「ふわっと」感じられるストーリーには、そうなった訳があるのだろうと思うのだ。結論から言えば、〈伝えたいこと(主題)を明確に決めて、それを目指して紆余曲折するような脚本〉だったからではないか、と。言い換えれば、それは〈多くの鑑賞者に思考の余地をかなり与えている〉ということであろうと思うのです。

先ほども書きましたが、「人生という物語」について、それに整合性の欠如があるという事実を避けたい気持ちがある、というのは、欠如という空白が多くあるからこそ、人生のあらゆる地点において、選択の余地が多く残っているということなのです。「竜とそばかすの姫」の終着点は、間違いなくストーリーの終幕でしょう。一方、私たちの人生の終着点は、「死」です。「死」は、だれにでも同格に訪れる機会であるのは、変えれぬ事実ですから。馬鹿正直に、意識的に「死」に向かって生きている人はほとんどいないでしょう。けれども逆説的に、正式な「死」の前の細分化された「死」は、絶え間なく感じざるをえない経験でもある。
(臨死的体験。主人公の鈴の場合、母親の死のことであり、それは「死」に値する経験のはずです。)
この臨死的体験を、どのように乗り越えながら生きることができるのか、という問いが、この物語への否定性を加速させるのだと思うのです。整合性のある体験が「死」であるので、人生の途中に「死」が体験させられてはいけないと無意識に考えてしまう。選択肢としての臨死的体験は、厳密には「死」ではありえません。そして、整合性の欠如、でもないのです。乗り越え可能な臨死的体験は、《分岐点》とも言える。そこから、更なる選択の道が導かれていく。不安になる道中ですが、それが我々人間の生であると思うのです。

1つの結末から、ストーリーを構築する。それは、構築物の緻密な整合性は必須条件である必要がない、ということである。多くの現象が合わさることで必然的に結末が導かれるのではなく、必然的な結末によって様々な偶然性に満ちた経験を期待できる、ということ。演繹不可能な人生が、私たちを待っている。ここから言えることは、「世界は可能性に満ちている」偶然的可能性が間違いなく存在していることを示すのだ。

「竜とそばかすの姫」のようなエンタメ作品に留まらず、様々な《芸術作品》《娯楽作品》でも、製作者側の《真意》がより肝腎です。美麗なイメージング、魅力的なキャラクター、緻密で抜けのない設定などは、《真意》を彩る衣装ですが、そのような衣装は、ある1つの結末のために、偶然用意されたものと考えるのはどうでしょうか。それらは「必然ではないのだ!」と思うのです。

「私の人生は必然的か」と問うとき、きっと私は、「必然なんかじゃない」と答えたくなるのだろう。私は、「死」に向かって組み込まれた必然性を生きている、と考えることが「普通」や「自然」ではない、と思いたいはずであるし、そうであるはずです。
(普通や自然、という言葉の定義に関した議論もここではしません。)
偶然や必然には、偶然の《必然》性、《必然》の偶然性、という性質もあるだろう。しかしそれは、偶然の事実群に内包されている「名もなき必然性」に期待しているだけ、なのでしょう。必然性とは、全体を統べる何か、統一的全体像、いわゆる《神》を示し得ます。示し得るけれども、全ての事物を説明しきる《神》を言う存在は、認識することは出来ません。できると主張する人は、その事実を私に教えて下さい。私は、その事実を語るあなたを見て、「あぁ…《神》が憑依してしまっているのだろうな」と、必ず思うことでしょう。

すべてを統一する《神》が存在しえないことは、先ほども述べたように、「世界は可能性に満ちている」ということを示します。いろんな主観が入り込むことのできる可能性が満ちている「竜とそばかすの姫」ような作品も、1つの可能性群の縮図です。それを、良い/悪いの二分法で落とし込むだけでは、ほぼ意味のない主観のぶつかり合いです。
「竜とそばかすの姫」を、「良い」と思う人は「悪い」と思う人の主観を《欠いている》。また、「悪い」と思う人は「良い」と思う人の主観を《欠いている》。相互に《欠いている》存在なんだ、と理解するだけでも、私はいいのだと思います。あなたや私は、神なんかじゃありません。ただの、1人の弱い人間なのですよ。それでいいんです。


地方の過疎化/都市の過疎化

「未来の都市の状況」と「今の地方の現状」が同様にリンクする時が必ず来るだろう、というような言葉が本著にありました。いわば、それは《地方/都市の過疎化》ということですが、そのことに関して「そういうことか」と心底思わされました。

主人公の鈴が育った町は、限界集落として存在しています。そこは設定上の「仮想の町」などではなく、実際に高知県がモデルとなっています。観光名所を多く有している地方都市であっても、都心への人口流出は抑えることが出来ていない現状があるのです。

《都市の過疎化》は〈U〉の存在によって描かれている。〈U〉には、世界50億人のアカウントを保持する、いわば「仮想的地球」といえる場所です。〈U〉のアカウント取得について、もちろんまず当人の実体のある身体の必要で、その後「ボディシェアリング技術」によって自己を現実から仮想現実へ一時的に乖離させることで、心的な身体が〈U〉へと移行します。

その瞬間が、現実の地球から離れていくようにみえる。離れる人が増えれば、現実の過疎化が進む。

実際に、竜と竜のオリジン(恵)の両者の存在の仕方のアンバランスさに、そのことを見て取れるように思える。少なくとも、竜のオリジンである恵は、現実の残酷さから逃避したがっている。また、恵は、竜として〈U〉に存在するシーンや描写が多くを占めている。日頃から竜である期間が長いのだろうということも読み取れます。

《現実への鬱積や絶望》《もう一人の別の自分になれる仮想現実》が合わさることによって、その《都市の過疎化(地球の過疎化)》が進んでいくことが、恵の行動から構造的に読み取ることができる。例外もあるでしょうが、細田監督はこの構造に絞って、〈U〉を描き出しているのです。

上記した現実の過疎化については、良い側面もあるのだろう。現実に絶望し、現実からの逃避を欲望する人を、一旦〈U〉に存在させることで思い留めさせることが出来るのであれば、この仮想現実は有意義なものといえる。一方で、その有意義さが、非常に残酷なものとしても捉えることができる。問題なのは、〈U〉に向かった後は、いったいどこへ向かえばいいのだろうか、という点です。現実の世界に絶望し、〈U〉という仮想の世界へたどり着いた、しかしそのあとは、どこへ辿り着くべきなのかと考えると、結局、現実の世界、要するに、身体的にも心的にも私でしかない人間に、回帰するほかないのではないだろうか。

竜は、〈U〉のような仮想現実の中でも、「空虚な正義」として存在するジャスティンの被害者として逃げることしかできなくなり、次第に〈U〉への疑念や反骨心を駆り立てていきました。恵が多くのアバターAsを生起不能にまで追い込んでしまったことは、その経緯を踏まえると、一概に否定できる事案でなく、同情の余地があるように思います。しかし、このように、仮想現実〈U〉においても自暴自棄な思念や行為を振りかざすのであれば、今まで避けてきた《欠けている私の実在性》が、私自身の目前にうず高く立ちはだかるのです。

《過疎化》というのは、実在する人間がとある地域で過疎になる現象ではなく、「私自身が《欠けている》存在である」ことを失念した人間が増殖するということ、いいかえれば、身体的にも心的にも〈U〉へ移行した人間が増えるということです。

単なる娯楽としての仮想現実〈U〉ではなく、《欠けている》存在としての自分を見えないところに避難させるための、全体性のある仮想宗教的な現実としての機能がある〈U〉に身を置くことになってしまう、ということです。《過疎化》は、《仮想的に存在しているからこそ不在性を帯びる》ということ。そして、この構造から学べることがたくさんある、という事実に気づかなければならない。残念ながら、「もう1人の自分になれる〈U〉」には、このような性質があるように思えます。

〈U〉に存在するアバターのAsは、すでに記述したとおり、現実の自己を補完(自分をやり直せるという意味)するものとして存在する。
(鈴は美貌を、恵は力を〈U〉で手に入れます。)
もちろん、〈U〉へ移行したとしても、オリジンである実質的な人間が、現実から居なくなることはありません。

***


地方の人口減少のような《過疎化》を美麗なイメージで描き出すことと、〈U〉での人間思想的な《過疎化》を対比的に設定することによって、《過疎》という枠組を強調して伝えている。これが、この作品の肝のように思える。人間が「個々の人間」であるための主観や思想や論理の喪失によって《過疎化》が果たされてしまうのではないか、という示唆。その過疎化のためのエネルギーは、《自己が欠けた存在であることへの絶望》と、《それを理想的に補完する〈U〉という仮想現実》の両輪駆動である。

そうなれば、人間の心的な側面はとある断片(ここでは〈U〉のこと)に集約され、人間の持ちうる思考体系が過疎化していく。いわば、精神の後退です。切磋琢磨する精神が狭まる、ということだ。

ここには、明確なネット社会への批判的見地が示されている。いや、明らかな批判ではなく、どうしても止めることのできないテクノロジー社会への、多少の絶望的観測かもしれません。


***


SFチックにこのことを例えてみるならば、日本の未来の姿は《現実に実在する仮想現実》のように存在する、ということになるかも知れない。そこには、生身の《人間アンドロイド》が住んでおり、そのアンドロイドの精神は〈U〉へ完全に移行してしまっている。

実際、私たちの精神自体は、現実上ではなく、SNS上へ移行しているように見えてこないでしょうか。

「竜とそばかすの姫」の物語は、単なる「美女と野獣」のオマージュではなく、私たちの現実の実在を問う風刺映画とも見れます。


存在は何かを欠いているべき

主人公の鈴が、父親やしのぶ君に母のようにおせっかいをかかれるシーンや、ベル(鈴)が竜に対して、母のようにおせっかいをかくシーンがあります。鈴が、母という像を中心とした行動のなかに矛盾的なものが存在しているということです。〈U〉での、母のように竜に対し献身的になる様子は、利己的であり、かつ他己的でもある行為のように見えてこないでしょうか?

鈴は、無意識的に竜自身に私自身を見たのでしょう。竜に対して、「あなた(竜)は誰?」と問う場面は、言い換えれば、「私(鈴)は誰?」と、自己に問うことと同じです。竜という存在に対して、他己的な態度で寄り添うことで、実際は、それが利己的な働きかけだった、ということです。竜に対しておせっかいをかいたり、その実在を問うことは、自己の実在性、鈴でいえば、現実の〈私自身〉が、「一体何のために存在しているのか…!?」という、存在への葛藤や不安についての、利己的な確認作業だった、ということです。《欠けている自己》としての私を、竜の中に発見した、ということです。その確認作業には、2者以上が必要です。

私が私であるためには、他の人間や存在が不可欠なのです。前述した通りですが、その2者の間で生まれる主観(遠隔感覚)を使いながら、その思考が存在している事実に気付くこと。そこから《自己という存在》を探求していく姿勢が生まれていくのではないか。

そのあと、私自身は何かが《欠けた存在》であること、そして存在は《欠けるべき存在》であること。さらに、自身が欠けている存在だからこそ、主観を確認するための《他者》が必要なのだ、と前向きに考えることが可能になるのではないか。

竜は、城内で孤独だった。自分が分からなかった
鈴は、現実で疑心暗鬼だった。自分が分からなかった。

「何か」が《欠けた》2人が、仮想現実の中で、歪んだ出会いを果たしたことは、大きな時の流れの中で俯瞰して見てみれば、純粋な「偶然」でしかありません。しかし、その「偶然」が起こる不確定性の中で、その確率がぐっと上がる「何か」を2人が持っていたことは事実です。

そして、竜と鈴が出会うことができたから、2人を引き寄せた大切な「何か」、いわば「遠隔感覚」を相互に確認し合えたのではないか、と思います。

(この「何か」とは、《母親がいないという事実》であり、その《母親を欠いているという事実から導かれる物事を見る主観》について示している。)


様々な壁

〈U〉で生成されるアバターAsは、《自己の他者化》そのものです。

〈U〉の「もう一人の新しい自分になろう」という文面を読み、うさん臭さを感じた人も多いと思います。私もそうです。アドバタイズされた文言や、強制的に何かを誘導するような事案は、私たちの心に響いてきません。そこには、発信源の主観が存在しないし、それにともなうインスピレーションは必ず欠うのであろうと、無意識に認識するからかもしれません。つまり、〈U〉での変身は、「もう一人の自分」という別個体への変身ではなく、私という実体の延長に存在する「自己」への変身、であるしかないのだ。

《自己の他者化》とは、《自己》と《自己という他者》の間に、明確な《壁》があるからこそ、生み出されるものです。人生というストーリーには、このような《壁》が、多く立ち現れますね。

最初に立ちはだかる《壁》は、両親です。両親は最初の他者です。両親とはいわば自己そのものであり、自己を成立させるための最初の次元の《壁》です。「私は誰か」という、答えに近い答えを提示してくれる壁は、周囲にいる知人や〈U〉そのものです。〈U〉では、もう一人の自分(と言われているアバター)に変化することで、自己を他者として俯瞰することが可能になります。自分自身で、自己を観察することで、そこから自分自身とは何なのか、という問いに迫ることが可能になりました。しかも、アバターAsを、自己として観察するだけに留まらず、〈U〉での他アバターAsとの関係によって、アバターAsがいかようにも変化しうるということに気づきます。そして、その変化が現実の世界の「私」が無意識に思考していた「なりたい自分」への自己実現へと働きかけていく点もある、ということです。これは、次元の高い自己変容のプロセスです。

全アバターAsが注目する中で、ベルがアンベールすることによって、オリジンの正体が鈴であるとバレてしまいました。アンベールの瞬間、ベルはベルの外側である自動生成アバターという《壁》を壊し、正体を露にすることによって、その《壁》の存在を顕在化しました。美麗なアバターであるベルと、その正反対の存在である現実の私を並べ、その落差、いわゆる《壁》自体を大衆に打ち明けた、ということです。《壁》を《壁》として存在を認め、自己のアイデンティティを主張した、ということです。《弱い》存在の鈴が、大勢に向けてありのままの自己を主張し、それが認められていく様は、とても勇気を貰える場面です。

最後の壁は、「母親の死」を契機に作られた、鈴と鈴の父親の間に存在する《壁》です。駅の線路とホームとの間で、2人はぎこちない関係を振り切るかのように、会話を交わすことになります。

汽車が出発すると、向かいのホームに、父さんが立っているのが見えた。

鈴が、東京から帰ってくる終盤からの引用です。鈴の中にある《壁》が、邪魔な《壁》ではなくなったことが分かる瞬間でした。向かいのホームに、はっきりと、父親の姿を確認できる様は、その《壁》の存在を融解し、ポジティブに変化できる娘と父の関係性を見て取れる場面でした。

様々な場面にある《壁》を見つめ、その《壁》の向こう側にいる自分を再認識しようと努力し、ようやく自分の《弱い》部分と手を取り合うことが出来るようになった、という示唆があるのでしょう。

様々な《壁》、それは、「母」「父」「知人」「ベル」「竜」「聖歌隊のおばさん」「カミシン」「ヒロちゃん」「ルカちゃん」「しのぶ君」など、様々な自己を鏡のように映してくれた他者という《壁》と、その思考を深めさせてくれた仮想現実〈U〉があった。色々な壁を壊していく中で、いろいろな私自身と出会うことが可能になった。壊した壁の数だけ、私自身が広がっていく。私自身が広がる分だけ、世界の可能性も広がっていく…。


この世界の脈絡のなさと、そこに存在する《欠けた存在》である私。
相補的なプロセスによって、私自身が「美麗なアバター」であると誇れる瞬間がいつかやってくるのだと、この物語を鑑賞して思いました。

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