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《何度もシンエヴァを見に行ってしまってエヴァを卒業できない人へ》 私的シン・エヴァンゲリオン所感

エヴァの25年越しの卒業式で、延々と卒業できず抜け出すことができない大人へ。

エヴァのアニメ版を見返して、再度シンエヴァのアディショナルインパクトやゴルゴタオブジェクト、マイナス宇宙について解釈的に考えてみました。

この前の庵野さんの特番が参考になります!


1回目視聴後の感想note。


ケンスケの立ち位置

シンエヴァではケンスケの伴侶(?)として描かれていたのはアスカでした。逆に、アニメで描かれていたケンスケ(補完計画の中で1つの可能性として描かれていた世界の中で)は、誰ともカップリングすることなく、1人を象徴する人物として描かれていたように思います。シンジはアスカと、トウジは委員長と、明確に「付き合っている」ことが分かる様な描写ではなかったかもしれませんが、キャラクターの表情や行動からそれを読み取ることは容易でした。

シンエヴァの世界では、その《1つの可能性》に過ぎなかったアニメ版の世界と対比させると、誰1人として《孤独、独り身》の象徴として描かれるキャラクターがいなかったことが、非常にポジティブになった要素でもあると感じています。(詳しく描かれていない他キャラクターや、特攻して殉死したミサトについては想像の範疇を越えないため明言できません。)

しかし、ここで踏まえておかなければいけない考え方として、このシンエヴァの世界もまた《1つの可能性》に過ぎないという点、また、シンジ・アスカ・レイ・トウジ・ケンスケ・マリなどの登場人物は、観客側の意識が汎化されたような、ある意味で抽象的な存在である、という点です。

抽象化された世界であることを感じ取れる場面は、シンエヴァのアディショナルインパクト中の、ゴルゴダオブジェクト《運命を書き換えられる唯一の場所》という存在が現れた部分にあると思います。


ゴルゴダオブジェクト/マイナス宇宙

「ゴルゴダオブジェクトはマイナス宇宙に存在している」、と劇中では言われていました。ゴルゴダオブジェクトがどのような存在かを追究したくなる気持ちは痛いほど分かりますが、結局「分からないもの」ということしか分からない帰結になることは、何となく想像できます。

マイナス宇宙とは何か、という議論もあります。マイナスとはすなわち、裏ということ、でしょうか。裏の世界(または裏の宇宙)については、自分の背中を一生自分の目で確認することができないのと同じように、観測することは不可能です。観測できるのは、ただマイナス宇宙という物質が存在しているという事実、またはマイナス宇宙と呼称する何かが観測できるだろうという予測が得られていること、この2点のみです。

であれば、いったい最後のインパクトから何を考えて解釈しなければいけないか、という問題になります。ゴルゴダオブジェクトもマイナス宇宙も、物質的定義も曖昧、そして所在も不明であるという、進行形の未確認コンテンツです。そこに明確な回答を見出そうとすること自体、人知が及んでいない未開拓の領域に足を踏み込むことであると思います。

そういった事実は、逆説的に言えば、ゴルゴダオブジェクトのような未知を自己に取り込む(補完計画で利用すること)ことは、狭量な世界の物差しが内包されている自己内部宇宙から外部へ抜け出すための材料となる、のではないでしょうか。

すなわち、ゴルゴダオブジェクトとマイナス宇宙が存在していたアディショナルインパクトから何を考えて解釈すればよいのか、という1つの答えは、《不安定な自己から「今」について考える》という、積極的な自己否定を含んだ、別の可能性の自分を探る試みであると思います。


アニメ版の回想/自己否定と別の可能性を引き出す試み

アニメ版の回想と、その列挙については以下の通り(一部)です。
※長いので太文字部分のみ見て頂ければと思います。

カヲルのほうが生きるべき存在だった、自分が死んだほうが良かったと自己否定に陥るシンジ。それに対しミサトは、「生きるべき者は生きる意志を持つ者だけよ。」と言う。他人のために生きるという共生関係は、楽をして生きる生き方ととらえることができる。綾波レイというメタ的存在と他キャラクターの唯一無二の存在との共生。喪失した心から逃げようと、生き続ける。だからその心を補完しつつ1つの生命体になろうとする。父が嫌いなミサトが父のような心を加持に見出し、それを補うために「汚される」ことを望んだ。刹那的な逃避で自分を癒したいだけ。そして、加持から離れた。つらい現実から逃げ出してばっかり。1人で生きたいと思うのに、1人は絶対に嫌と思う自分がいる。認められる自分は、認められようと演じている自分。それを本当の自分と思い込み、「幸せ」であると自己暗示する。知恵の実が人類に均等に、少量与えられながら今を生きている。その知恵の実はなり損ないの未完成であることを示す材料となる。どうあれば、人は人として自立することができるのか?自分で考えて自分で生きるためにはどうすればいいのか?その正解は人の数だけ存在する。補完計画、その真実は何か分からない。シンジは破滅や死、無への回帰を望んだ。アニメのシンジはそんな補完計画の風景を、自分の望みの反映であるものとして、認めることができなかった。安らぎの世界であるはずなのに、この世の終わりであるはずなのに、認めることができない自分に葛藤する。なぜ生きているのか?わからない。生きていてうれしいかどうかも分からない。けれども、少なくとも寂しいのは嫌。だから逃げる、いやなことがあったら逃げる。それも嫌だ。逃げ出すことが嫌なのは、逃げ出すことの辛さが分かったから。結局、何もしなければ楽なのかもしれない。じゃあ、なんでエヴァンゲリオンに乗るのか?自分の価値がない、自分が自分でいるために乗る。他には何もないから。生きる価値も。だから自分が大嫌い。そう思う自分がいると、自分に価値がないしょうもない人間だと思い込んでしまう。エヴァに乗れば周りの人間が認めてくれる。しかし、エヴァにすがると、エヴァ自体があなた自身になってしまう。……

シンエヴァのアディショナルインパクトと同様に、アニメ版でも、シンジ君の1人の補完風景を例に、《別の自分を探る試み》が描かれていました。今の自分以外の別の自分の存在が、確かにゼロの可能性ではないというリアリティを噛みしめています。

別の自分も存在し得ることが、今の自分の境遇に対して肯定的に捉えられる材料となります。

ミサトの名言として、「希望的観測は人が生きていくための必需品よ。」という言葉がありました。数多の可能性の1つとして選択した今の自分の境遇を肯定するように、希望的な観測によって、遠い未来の1つの小さな光を見据えて生きていく、ということであると理解しています。これは、アニメ版シンジ君の補完計画で実行された、自己肯定作業です。これにより、「ここにいてもいい」理由を探し当てることができたのだと思います。

しかし、ここで思うことは、これはあくまでもリアリティ世界本体から隔絶された補完世界での自己肯定でしかない、という点です。個々が補完され、LCL化し、1つの生命体として各々の世界で自立することは確かですが、それはあくまでも、《身体面》のみであるという部分が注意すべきであると思います。

旧劇の、シンジとアスカだけになった世界を見ても分かることですが、やり直す以前の世界でアスカに対して首を絞める行為を行い、その後も首を絞める行為を行っています。(補完後のは途中で手を緩めています。)結局、補完計画前後でシンジの補完は身体面のみに留まってしまい、あとは不完全であったという示唆も含まれているのではないでしょうか。

要するに、「精神的に無力感がぬぐえない自分がいる」という事実について、私たちはシンエヴァ公開までのエヴァの呪縛ともいうべき25年間で、これでもかというほど思い知らされた内容であるのです。まるで、《現実の世界での成長、リアリティでの補完が出来ていない自分がいて、何となくそのまま生きてしまっていた》という、そうだったかもしれないと振り返れるような事実を突きつけられ続けていた25年間だったのかもしれません。

その事実は、エヴァというストーリーの末尾に付け加えられた、ゴルゴダオブジェクトやマイナス宇宙という言葉をそのまま受け取って理解してはならない、という教訓とも受け取ることができます。エヴァは繰り返しの物語であると明言されながら、それは《エヴァンゲリオン》という庵野監督が創造した世界の中だけの事実であることは避けることはできません。リアルに存在する私たちがその物語や設定に対してそのままの意味で心酔し、《エヴァンゲリオン》という虚構的ユートピアに浸ることは、イコール怠惰そのものです。

シンエヴァで提示された「事実」を、「事実」のまま受け取ることが、本来の「事実」をどれほど遠ざけてしまうのであろうか。表面的な事実だけでは、真実に辿り着くことはできません。言い換えれば、表面的な「事実」の理解のみでは、製作者側が私たちに伝えたかった本来の「事実」を理解しそれを享受することは、永遠に不可能ということです。

魅惑的に配置された設定や用語に振り回されることで、ループ/パラレル思想などへと帰結していく可能性もなきにしもあらずです。それは、今自分にふりかかる事象が、ループでパラレルであると思うことと同じです。エヴァという物語を終わらすことができないような、現実逃避として解釈できてしまいます。

ループと妄信することは、「しょうがない」と自分を説得する意を含み、これから起こりうる問題や課題については表面的な処理しかなされないということを暗示します。またパラレルを妄信することは、安易な希望的観測のみを人生の指針にして、「まぁどうにかなるだろう」と、自分を信じ込ませることに繋がることを示しています。

ループもパラレルも、解釈的に言えば不正解ではありません。すべての事象は真実と共にあると考えれば、全ては真実的解釈です。ですが、マイナス宇宙の時にも言ったように、物事には表もあれば裏もあります。表が正解の人がいれば、裏が正解の人もいるという意味です。

ただ単に、エヴァに対する私自身の《深層的真実や解釈》をあまたに観測してきた《外部の私》が下した帰結が、『ループとパラレルではなかった』、という事実に過ぎないのです。その言い前が、上記に記載した文章になるというだけなのです。


エヴァコミュニティを築くことの意味

碇ゲンドウという存在の根幹をなす経緯とそれによりたどり着く結末が、ゲンドウ自身の語り部によって独り言のように明かされる場面がとても印象的でした。

幼少期のゲンドウにとって、孤独は普通のことでした。ゲンドウ個人に普通であった孤独は、周囲の顔も知らないような他人に、「普通ではない」と評されることとなります。それは、人類という枠にいる限り、無くすことのできない概念かもしれません。

孤独の対をなす言葉とは、エヴァ的に言えば『人類補完』かも知れません。人類補完は、この世に存在するすべての大地や魂を浄化(純粋な人が住めない大地や魂のない平均化されたマネキン人間)し、1つの生命体に収束させることに繋がります。そこには、孤独も差別も、何も存在することが許されない次元です。これは、極端に捻くれた思想であるため、適切ではありません。

もう1つの対の候補として、『第3村』も挙げられるように思います。言葉そのものではなく、第3村という場所に存在する様々な事象が、孤独と対を成しているように思えます。なぜならば、第3村の相補性のあるコミュニティは、村内部や他の隣の村を巻き込んだ連帯で成り立っているからです。

あなたの名前は何か。どこからきたのか。ここに居るうちは仕事をしてみんなで暮らすんだよ。命令じゃなくて仕事だよ。汗水垂らしながら、明日のためにみんなで生きるんだよ。私は見知らぬあなたを受け入れる心がある。

ゲンドウが全く親の愛を受けずに育ってしまい、「普通でない」へ帰結したのかといえば、それは見当違いだろうと思います。立派な思想や学者の肩書を持ちながら、ユイという一人の女性を魅了するような人間であったことからも、窺い知ることができます。しかし、ゲンドウはひたすら孤独だったはずです。ゲンドウが孤独だったのは、ただひとえにゲンドウがゲンドウ自身を《理解してやれなかった》こと他ならないのではないか?

日常の中で、音もなく横切る《恩恵、贈与、貸与、愛》を、孤独という盾、または言い訳によって、知らぬふりを貫いていたのかも知れません。それらを知れば知るほど、自身の無力感は増強され、誰とも干渉しない方が《効率的》である、という帰結を生むからです。

誰もが感じたことのある、知らない方が幸せだ、という理論は、自分自身がどのような存在なのか(どのような存在になっていきたいかという欲求)を、無意識的に遠ざけてしまうものです。知らない方が幸せだ、と思う対象が、過去のトラウマや心の傷に起因するものであるなら、なおさらのことです。

本から得る知恵や、均質的な思いを伝える音楽は、ゲンドウ自身へシナジーを与えていた存在であると語られています。それは、劇中のインパクトのユイの行動やその後起こる出来事につながる、いわば無意識的に、人類として、父として、シンジの2人目の他人としての、何を最後にすべきか?という問いを、ゲンドウ自身で決断し帰結させるための、助走期間だったのかもしれません。

また、このようなゲンドウの回想シーンには、宇部市と思われるショットをたびたび挟みながら語られています。宇部市は庵野監督の出生地。庵野監督の出生地である宇部市のショットが、ゲンドウの回想シーン、またラストに使われています。

朝日新聞「おやじの背中」(1999年8月30日)で、父親のその姿に影響を受けていること、完全なものは好きになれない、自分にとっては何かが壊れ、欠けていることが普通であると(庵野は)語っている。 

破壊と創造は紙一重。破壊は創造を促進し、創造とはいわば破壊へと導く、という考え方です。

庵野監督の父が庵野監督に対して、果たして破壊を与えていたのか、創造を与えていたのかは知る由もありません。1つ確実に言えることは、決して(全てのものに)絶望はしていない、ということ1点です。

エヴァンゲリヲンイマジナリーが誰の心にも存在するのであれば、その存在を人の心に認知した瞬間、私は絶望するかも知れません。なぜなら、人と人の心は「真実と虚構」の狭間を無限に行き来しながら、不可視なエヴァンゲリヲンイマジナリーに翻弄される生命だからです。それは、相互的理解や相補的合致について、常に微妙なずれを生じているために達成することは不可能であるという示唆からきています。

けれども、自分が不完全な存在であること、ある部分が壊れてしまっている存在であることを心の内で明確に悟ることができれば、その穴を埋めるように他人を受け入れることができるかも知れません。

このような、庵野監督の物質的経験や心的経験からもたらされた思想を、かなり湾曲した形で私たちにそれを伝えていると捉えられます。その事実について観客各々に適切に解釈して欲しいのではないのでしょうか。

シンエヴァを見るために何度も映画館に通ってしまうことは、庵野監督の人類(に希望を悟って欲しいがための)補完計画に関した各個人の様々な解釈と存在がネット社会などで相互に交わることにより、それが今まさに連帯していることについてを各々が感じているという証明になるのです。庵野監督がそれを画策したかという事実は、もはやどうでも良く、実際にエヴァの解釈や考察によって、エヴァを介したコミュニティが築かれているのは間違いありません。

そのような、人と人の相補的な関わりは、相互理解と相互不理解から始まります。理解はより深い理解に、不理解はお互いの接点を探して補うように、建設的な議論が必要だからです。

今私たちは、エヴァを通じた相互理解と相互不理解の解釈を介した連帯したコミュニティを築き始めているのかもしれません。庵野監督の意図は関係なく、このコミュニティが、現在の日本や世界が失いつつある起源的なコモンへの想いを醸成するものであるのは間違いありません。

(庵野監督が創った)エヴァンゲリヲンというイマジナリーな物語を皮切りに、「生きるとは何か」「死ぬとは何か」「自分とは何か」「他者とは何か」といった、ラディカルな人間論を交わすきっかけを与えてくれているに過ぎないのです。その事実に関して、私たちは無意識であり、かつ無関心であることに、庵野監督は警鐘を鳴らしています。


シンジはチェロで自己を肯定的に否定する

フィジカルでの補完を幾度となく行ってきたシンジ。そして、今度こそ幸せにしてみせると意気込む渚カヲル、別称渚指令。アニメや旧劇の世界ではことごとく人類は補完しつくされ、多くの種は1つの種に集約されていき、別の個体となってしまった。リセットを繰り返し、引き継がれない世界を行き来しながら正解を探る作業を、途方もない時間行っていたのだろうと想像できます。

アニメ版のシンジが得意だったチェロ。そして、新劇でセントラルドグマに降下する際のBGMとして起用されていた「交響曲第9番/ベートーヴェン」。これは単なるこじつけの気付きですが、Qの13号機が降下する際のシーンの第9による歓喜の歌で、すでにシンジの心と体の補完は約束されていたものであったのではないか、という察しを得ることができます。

第9は1~4楽章で構成されており、一般的な交響曲の楽章区分を踏襲しています。第9に影響された作曲家は多く、例えばブルックナーは8番の緩徐楽章を第9に合わせて3楽章に配置したことも有名です。第9の中の4楽章序盤には、悲愴的なファンファーレの後に、1~3楽章の音を低弦(チェロ)によって否定する場面が繰り返されます。今までの音は違うと全力で否定するチェロは、有名な「歓喜の歌」のメロディへ導かれていきます。その後、すべての過去に存在した音を否定し、新しい音「歓喜の歌」はチェロの旋律によって静かに始まり、そして帰結していきます。
(第9の4楽章を最初から聞けば一発で分かります。)

冒頭解説動画。

第9の4楽章冒頭。

新劇でのシンジがチェロを得意としていたのか、明確な描写はなかったと思います。(自分が気づいていないだけかもしれない。)しかし、ゴルゴダオブジェクト派生の世界では、そのようなメタ的事実は関係なくなります。

繰り返す全く違う物語のシンジDNA(アニメシンジのDNAが新劇シンジに少なからず受け継がれているだろうという予測。)が「歓喜の歌」を奏でるように新劇でも第9が流れ、新劇シンジを遺伝子レベルで応援しているような場面である、と理解することも可能です。それはすなわち、Qの第9が流れるシーンで、チェロ(シンジ)が、いままでの繰り返してきた全てのストーリーを(第9の1~3楽章を否定するように)肯定的に否定して、次の世代、要するに新劇シンジに思いを託す様相を(歓喜の歌によって)ありありとみてとれるのです。

その時すでに、新劇シンジはアニメ版のシンジを乗り越えて、勝利は確定していたのだな、と思うことができます。(アニメ版のシンジは不完全な補完で終わっちゃいましたが。)

まさに、アニメ版で成功していたフィジカルの自立と、Qの後に描かれるシンエヴァの中でのリアリティでの自立の、2つの自立を成功させることが示唆されていたのでした。

(1楽章=アニメ版、2楽章=旧劇、3楽章=新劇、4楽章=アディショナルインパクト後の世界、とこじつけながら楽しんでみています。笑)


全ての可能性を内包するゴルゴダオブジェクト/シンエヴァループから抜け出す

私は、エヴァの物語をループ/パラレルと捉えていません。その理由は上記した通りです。しかし、ループ/パラレルを否定することは出来ません。それらは1つの可能性同士であり、私自身は観測できないかもしれないが、他の人には観測できるかもしれない真実だからです。

(追記:涼宮ハルヒの憂鬱12話から19話の8話分に相当する「エンドレスエイト」というシリーズによって、上記の説明が可能になると思います。見たことがある方はわかると思いますが、キョンなどのキャラクターは1万5千回繰り返してきた夏休みを各々別のものとして観測できないものの、長門は全ての記憶を引き継ぎ観測している媒体と言えます。
言い換えると、《キョン=ループ/パラレル思想を観測できない私》、《長門=マイナス宇宙/ゴルゴダオブジェクト》と解釈できるのではないかと思います。ループやパラレルの世界を知覚した瞬間、人はそこから抜け出したいと本能的に想起します。ある意味の永遠の命、神格化ともいうべき現象ですが、キョンが観測する世界は一生同様なものであり、逆説的にいえば、数多ある世界線のうちたった1つの世界を一生ループするような孤立化とも言えます。
アニメ内ではキョンが徐々にデジャビュを覚えますが、それこそループから抜け出したいという、先人のキョン達の微かなDNAの反応なのだと思います。(先程のシンジDNAはそう言った解釈です。)
ループから抜け出すには、長門のような神的記憶媒体に接触し、ヒントを得るしか方法はありません。全てを内包する何かを見出し、探るしかないということです。
これは、シンエヴァのゴルゴダオブジェクトでのインパクトそのものです。)

完全に想像ですが、更にこれらのことをわかりやすく言い換えてみます。

ゴルゴダオブジェクトには、様々な世界を作ることができる無数の小さい物体が存在していると仮定します。その小さい物体とは、この宇宙世界の私たちのが呼称するビックバンという現象の原因となった物体のことです。その後、物体はビックバンを起こし、今の我々の宇宙を形成しました。この小さい物体には、今観測できる宇宙のあらゆる可能性(銀河が何個できるかということ、惑星や恒星がこの位置に何個存在しているのかということ、地球は太陽系に存在しているということ、地球には何かしらの理由でDNAが存在し生命が宿るということ、その結果DNAで設計された人間が地球に存在するということ…)がすでに全て内包されています。この無数にある、小さな物体が形成した宇宙自体は、自分の宇宙しか観測することができません。(私たちにとっては、常識としての今観測している宇宙しか存在しないだろう、という帰結になります。)各々の宇宙から別の宇宙を観測したり想像したりすることは出来ないということです。しかし、唯一観測ができる場所というのが存在しており、それがゴルゴダオブジェクトがあるマイナス宇宙なのではないか、いう解釈です。

実際に、観測も想像もできないけど、お隣の宇宙さんはループかもしれないし、そのお隣の宇宙さんはパラレルであるかもしれない、という知覚を得ることができるのが、マイナス宇宙ということです。シンエヴァでのシンジとゲンドウの対話を始めとする補完風景が、非常に質素かつ物足りないと感じるのは、それはマイナス宇宙内のゴルゴダオブジェクトが創る汎化された世界であるという含みがあるのかもしれません。わかりやすく言えば、《世界の捉え方が平均化された場所》とでもいうのでしょうか。

この、多元宇宙論的な思想については、数多ある神話の主人公がそれぞれ異なることからも、何となく理解できる内容です。まるで、神話がそれ自体を裏付ける証拠のように映って面白いですね。

シンエヴァループ(何度も映画館に通う様)から辞退しろ、抜け出せ、と言うようなことは決してしません。なぜなら、私自身がシンエヴァループから抜け出すことができない張本人だからです。劇中に未だ確認していないUFO的存在を視認できるかもしれない、という期待があるからです。しかし、涼宮ハルヒシリーズのエンドレスエイトでも同様でしたが、ループする世界とは、恐怖そのものなのです。

私はまだ、シンエヴァループに対して、恐怖という感情はありません。なぜなのかと言えば、それは《自身が犯してしまっているシンエヴァループについては知覚することはできても、もっと根本的で本質的なループを知覚することができていない》この1点にあります。些細なループかもしれません。しかし、人生を変えうる何かに気づけさせないような、悪しきループかもしれません。ラディカルなループに気付くにつれて、私はシンエヴァを観に行かなくなると思うのです。

シンエヴァループによって、今何が失われているのかを再認識する必要があります。それについては、『映画に通うための時間』などと言った単純なものではありません。シンエヴァループすることによって、《ゴルゴダオブジェクト》や《長門》といった神的記憶媒体を、深層にある内なる自分から引き出すことで、無から有を創造しなくてはならないということを、心底思い知らされます。そして「それをおまえに出来るのか?」と、手のひらの上で庵野監督に試されていると思うしかないのです。

シンエヴァループを抜け出すには、自身も思いもよらなかった解離的自己を知覚して、「シンエヴァループから抜け出したい」という欲求を、自己生産するしか方法はありません。


意味のない事なんて無い

エヴァは「人生において意味のない事なんて無い」としみじみと思わせてくれます。第3村でトウジやケンスケがシンジに伝えた言葉の数々は、シンジのその後の未来に対する関わり方に革命を与えてくれたように思えます。そんなやり取りも、繰り返しの中での1つの可能性にすぎなかったと考えれば、ようやくシンジにベストなストーリーが巡ってきたのだな、と感慨深い思いがあります。エヴァのない、エヴァンゲリオンではない世界にたどり着いたのです。

「なんで、取り憑かれたかのように何度もシンエヴァ見に行ってるの?」

そのように、自分に思わざるを得ません。あと何回観たら、卒業できるのでしょうか。シンエヴァループはドロドロの底無し沼です。

しかし、意味のない事なんて無いのでしょう。全ての結果は、エンドロールのカタルシスに何を感じるかにあります。そこまでの期間は、人それぞれ異なるのだから。

人の心は、いつになったら、シンエヴァループから抜け出すことができるのか。まさに、神のみぞ知る。

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